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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

セルロイドの鳥

作者: 水瀬 桜海

この短編はフィクションであり、一部残酷な描写があります。


 秋楡の美しい街路樹が、赤く色を付け始めていた。

古くからそこに店を構える喫茶店の古いドアを開ける。

懐かしいコーヒーの香りと、未だに喫煙客に優しい場所。私の隠れ家だ。


「マスター、聞いてよぉ、また、面接落ちちゃってさぁ」


時々煙草の煙みたいに、ゆらりと揺れるように得体のしれない感じのマスターは、今日も溜息をつきながら私の話を聞いていた。

オリジナルブレンドの香りに、煙草の匂いが混ざる。

「特技って何、なんなのよぉ。180度横で開脚されたら、私に勝ち目ある?」

思わずカウンターに頭を預けると、湯気と煙が天上の方へ登っていく。

つられて目線が上がった。

その時、棚にある鳥かごに、小さな小鳥のようなものがいることに気が付いた。

「……マスター、アレなに?」

私の視線につられて目線を上げたマスターの顔が歪む。

「――時計ですよ、ただの」


 今までになく、苦い表情かおに、それがイワクツキのものだということが、知れた。

「ただの時計?鑑定に出したら高く売れそうじゃないですかぁ。お宝、イイなぁ」

そう呟いた私の顔を悲しげに見つめる視線に、何故か少しだけ、ゾワリと背中が冷えた。

「……宝物、には、違いないのでしょうね」

その、意味ありげに紡がれた言葉に、私は何故か、興味を惹かれた。

「ねぇ、教えて?一体、どういう物なの」

「それは……」

視線を下げて、何か思い廻らせている。

「ねぇ」

もう一度促すと。

「後悔、しますよ?」

その確信めいた言い方を正面から受け止めて、私は頷いた。



祖母は、祖父に、こう言ったそうです。

「貴方と同じ罪を背負うと決めました」と。

籠の中にはもう鳴かない、溶けた尾を持つセルロイドの鳥。

それは祖父、綾辻正嗣の、祖母あやめへの最後の贈り物。


――最初、物見遊山のように見えました。


 大正12年9月1日10時。

私の婚約者のあやめさんは、ある男と東京駅にいました。

恋仲だったその男は在日韓国人で、両親はあやめさんの恋に反対し、監禁同様の状態でした。

私が、あやめさんと男の駆け落ち計画を知ったのは、月が満ちるその前の晩、二人がお互いに恋文のやり取りをしていたことを知っていたからです。家の塀の間にある誰も気が付いていない割れ目に、あの男が恋文を隠すのを見ていました。

その文には、出立日と逢引場所が書かれていたのです。

私は知られないように恋文を元に戻すと、その日の東京駅で、彼らを待ちました。


 東京駅に無事についた二人は、ひどく浮かれているようで、汽車に乗り横浜を目指しました。

11時に横浜駅へ到着し、二人はそのまま、横浜港の方へ向かいました。

「アイスクリームって知っていますか?」

そんな風に聞きながら、あやめさんはあの男とデイトをしているようです。

柳と松の街路樹が並び、ハイカラな店が並ぶ中、二人はアイスクリームという物を食べていました。

 船旅に出るには、あまりに小さな荷物。これから大きな海を越えて異国を目指すというのに、この二人はどこまで世間知らずなのだろう。苦い苛立ちと、逆巻くような激情をこらえながら、私は二人の後を追いました。


「昼は牛鍋屋でいただきましょうか」


 そんな風に話す、無教養なその男も、鼻について仕方がありません。

夜になるとガス灯が灯る、異国のようなこの街は、まるで私をつまはじきにしているようで、落ち着かない気持ちばかりが先立ちました。

牛鍋屋へ向かおうとするその道で、私は、ついに声をかけました。


「どちらへお出かけですか?あやめさん」

「正嗣さん、どうして貴方が」

あやめさんを庇うように、男は私の前に立ち塞がりました。

「申し訳ないが、あやめさんと僕は、これからアメリカへ行く」

私に宣言などしなくても、知っていますよ。

「許されると思いますか」

「……全てを捨てます。二人で」

そう言った男の陰で、あやめさんの肩がビクリと跳ね。


 腹の底から、逆巻く怒りを感じました。

まるで、怒りで大地まで揺れるようだ、そう、思いました。

最初は。


 大正12年9月1日11時58分32秒。

神奈川県相模湾北西沖80Kmを震源とした、マグニチュード7.9の地震が関東地方を襲っていました。


 体験したこともない大きな地震でした。

 強い揺れに立つこともままならず、そのまま地面に座り込むしかなく。木の枝やあちこちの建物が崩れて、悲鳴があちこちに木霊していました。強い揺れの中落ちてくる煉瓦。あの男は身を挺してあやめさんを庇います。

 ひとまず揺れだけが落ち着いたその場所は、まるで地獄のような有様。

 街路樹は倒れ、あちこちで火事が起き、煉瓦積みの建物は一瞬で倒壊していました。昼時の賑やかなその場所では、食堂の台所で使われていた火が強い風に煽られ、あちこちで一気に火の手が上がったようでした。


「来なさい」

そう一言だけ告げると、あやめさんの手を握って、正面の建物へ急ぎました。

「頼む、あやめさんを……。」

男の声に振り返ることもせず、男を何度も振り返るあやめさんを、無理矢理引っ張り建物の中へ。男は先程足を痛めたらしく、私たちの後に殺到した人に阻まれているようでした。

そのまま建物の奥に向かうとき、ドアが閉じられました。


「正嗣さん、あの人が!」


悲鳴のように響くあやめさんの声を無視し。

そのまま,導かれるまま、地下へ降りました。


「あの人が」


「あの人が」


 そう言って泣き続ける姿を、黙って見ていることしか出来ませんでした。

横浜正金銀行の地下で、私たちは待ちました。この混乱が落ち着いてくれるのを。

しかし、生き永らえた人々は、とても少なかった事実を、後で知ります。

行員でさえも中に入りにくい状況の中、小さな差別が、彼の行く手を阻んだことは、容易に想像出来ました。


 火の手が収まり、やっと、建物の外に出た時。

銀行を取り巻く場所は、焦げ臭い匂いもそのままに、陰惨な光景が眼下に広がっていました。

 後に、140名がそこで焼死したと、新聞に記述がありました。

 焼け焦げたその形が、先程まで、あの馬車道を歩いていた誰かなのだと思うと、胃の中のものが逆流し、道に吐いてしまいました。肉が焦げたような強い悪臭の中、あやめさんは、懸命に男を探します。別の銀行から出てきた人の中にも、彼の姿はありませんでした。


ふと、足元に焼け焦げた時計を見つけました。

手に取って持ち上げた瞬間、振り返ったあやめさんが顔色を無くしていきます。


 足元で焼け焦げていたのは、あの男でした。


 その後も混乱は続きました。朝鮮人が婦女暴行し、放火を行うなどのデマが飛び、疑心暗鬼になって対立していく様は目に痛い程でした。

 彼女も私も、否定も肯定も出来ませんでした。

 私にあやめさんを託したあの男は、少なくともそんな下劣な人間ではなかったことを、良く知っていました。でも、きっと鬼が住むに違いないこの身は、あの時、彼を切り捨てたのです。


 新聞が出た5日を過ぎても、未だ人心の混乱は続きました。彼女を自宅に連れ帰れたのは、奇跡としか言いようがない状況でした。



 昭和元年、私たちは祝言を上げました。


 あやめさんが私を許すことはなく、本来であれば彼女が15の年には祝言を上げる予定でしたが、震災の混乱と、大正天皇の崩御で、結局あの地震から、4年の月日が流れていました。


「未だ、憎んでおります」


 そう私を睨んでいたあやめさんは、4年という時間の中で次第に少女の面影を無くしていきました。

震災の復興に人々が右往左往する中、魂の抜けたようなその少女は、憎しみだけで生きていました。

 その憎しみを一身に受けることで、彼女が生きることをやめないのなら、それで良いと思っていました。

この先も、ずっと、憎んで構わないと。

罪から逃げることよりも、彼女を失うことの方が怖かったのです。

そうして、ずっと、彼女を強く願っていたことを、彼女は知らなくて良いと思っていました。


 祝言を終えた、その夜。


「貴方と同じ罪を背負うと、決めました」


 美しいその唇が、まったく予想もしなかった言葉を紡ぎました。

「あの人を救えなかったのは、私も同じでした。私は4年の間、貴方だけを責めました。ごめんなさい。貴方だけの罪ではなかったのに」


 それは、今まで見たこともない程、美しい涙。 


「私は幼すぎて、覚悟がありませんでした。本当は全てを捨てると言われた時、その重さも知らなかったのです。そして、本当は知っていました。私があの人を見殺しにしたのだと」

 そう呟いて、私を見つめる瞳はとても美しく、どんな場所でもこの人は高潔であるに違いない、そう知りました。


 仄かに笑うその悲しそうな微笑みを腕の中に閉じ込めて、私はそっと髪を撫でました。

「あなたを、ずっと慕っていました。私の、罪なのです。許そうとしなくていいのですよ」

腕の中の人は、私に頬を擦りつけながら、静かに泣いていました。


「共に、落ちます。貴方と」


 その言葉に、私は、私の全てを重ねました。


 長男が生まれ、二男が生まれ、長女が生まれました。

昭和9年、私たちは子宝に恵まれ、長男は小学校に行く年です。

 満州国が成立し、ヒトラーがドイツの実権を握る中、日本は戦争へと向かって行く大きな流れに押し流されているようでした。


 仕事で横浜を訪れたおり、美しく泣く鳥の声を耳にしました。

 悲惨な姿が目に焼き付いていたその場所は、随分活気を取り戻し、賑やかな店先には舶来品が並んでいました。あの男が最後を迎えた場所で足を止めると、鳥の声がまた、耳を打ちます。

 目線を上げると、それは本物の鳥ではないようでした。


「珍しいね。舶来品かい?」

「いえ、東洋時計の自信作ですよ。ほとんど海外への輸出品なんですが、人目を引くと思ってね。」

気のよさそうな主人の言葉に、相槌を打ち。


「確かに、人目を引く愛らしさだ」


――どうしてだろう。妻に見えました。

私に捕まって作り物の鳥にされてしまった、哀れな小鳥。


「一つ、求めよう」


 そう言って、買い求めると、妻への贈り物にしました。

愛らしいセルロイドの鳥が小刻みに動いて時を知らせる様に、妻も子供も喜びました。

幸せだと、そう、思いました。

そして、それが、どんなに儚い物かを、知っていました。


 世界から、日本がどんどん孤立していく様は、新聞の記事を鵜呑みにしなければすぐに知れました。

大国に奇跡的に勝利したことで、力でねじ伏せようという考え方が多数を占めていました。

同時に、共産主義へ傾倒したものへの弾圧も始まっていました。本当は、日本という小国が大国と渡り合うなどということは、とても困難な道だったのです。


 互いを敵とし、見張りあう人間関係の中、争いを好まない私の妻の発言は、絶好のスケープゴードにされました。

 子供を戦争に行かせたくない、その率直な母親としての願いが、非国民の罵られ、誤解されていきました。共産主義者のレッテルを貼られ、生活全てを監視され始めたことには、すぐに気が付きました。

 家の中でさえうかつなことを言えません。特に小さい子供たちには、真実を伝えたくても出来なくなりました。息を潜めるように願うことすら口に出来ず、歪んだこの国は、そこに住まう私たちすら、歪ませていったのです。


 布団の中で、妻は泣きました。

「真実など、目を凝らせばいくらでも見える物なのに、なんて愚かなのかしら。それを見ようとしない人も。抗うことのできない私も」

妻の言葉に、あの時失った男がよぎります。

それでも、私には言えませんでした。

「この国を捨てて、どこかに逃げてしまいましょう」とは。


 あの男は、ああも簡単に、この人のために全てを捨てたのに。

抜けない杭のように、あの時からのことが胸を占めます。

あの男が必死で守ろうとしたものを、混乱に任せて奪い、自分のものにした卑怯な自分。

あやめさんのためなら、と言いながら、憎まれることは許しても、嫌がる手を離せなかった醜い執着。

 今、あの男が生きていたなら、どうやって彼女を守るのだろう、そう考えれば考えるほど、自らの愚かさに苦しくなるのです。


 昭和14年、日本が太平洋戦争に突入し、私は苛烈を極める大東亜防衛圏の死守のため、海軍に召集されました。誰もが命を危ぶむ場所であることは、一目瞭然でした。


「私の業で、貴方が傷つくと思うと、辛いのです」


出征の前の晩、彼女はそう言って私の腕の中で泣きました。私には、その言葉がひどく心に残りました。


「お国のために、戦ってまいります」


 千人針と旭日旗に送られて家を出ていく私も、妻も、他に何が言えたでしょう。

子供たちの手を取りながら、私をずっと見送る寂しげな顔が、いつまでも胸に残りました。


日本を発つ前に、横浜のあの場所へ行きました。

どうしても、あの時切り捨てたあの男に、妻を託したくて。


 どうかあの人をお守りください。

 君が手を離したときに、卑怯にも奪って逃げたのは、この私です。

 命なら、私のものを差し出します。

 だからどうか、あの人だけは、あの人だけは守ってください。

 鬼を身に住まわせ、業の深い私の命を絶ち、あの人の命をお助け下さい。


 その後、長男が徴兵され、次男は工場で働き、長女は家で母と私たちの帰りを待つ日々が始まったそうです。南方の海は、最初こそ勢いが良かったものの、徐々に敗退し、退路を断たれた私たちは、先住民族の村の近くで自営をするしかなくなりました。何故か先住民族が私たちを匿っていたようで、私たちは外の戦況も知らぬまま取り残され、日本とも連絡も取れないまま、ある日、終戦したことを知りました。

 

 全面降伏。


 その言葉に、立ち上がることが出来ませんでした。作戦が失敗してすでに2年、この地に取り残されている間、妻のいるはずの東京は空襲で焼けただれ、テポドンが2発も国土に落とされた、とのことでした。凄惨を極めた数多の戦いが終わると、日本への帰路を目指しました。終戦後3年が経っていました。私は、あの、横浜の港に降り立ちました。


人で込み合う中、家へ向かいました。

何日もかけ、やっと、自宅があったとおぼしき場所へ着きました。

焼け野原に人がバラックの家を建て始めたその場所の一角に、私の家はありました。隣の家はたいそう大きな邸宅でしたが、今は跡形もありません。唯一、立派な蔵が消失を免れていました。

「綾辻です」

そう声をかけると、お隣の奥様は泣きながら私の手を握りました。

「よくぞお帰りになりました」

そうしていつまでも泣き続けます。


不安が、胸に広がっていきます。

空の闇よりもまだ暗い、星もない、真の暗闇が。

「残念でした。奥様のこと」

その瞬間、底のない闇が私を取り巻いたことを知りました。


「お父さん」

そう後ろから声をかけたのは、次男でした。

「お父さん」

そう、女の声が聞こえて、その声は長女でした。

「ただ今。母さんは?」

その問いかけに、答えられるものは、いませんでした。


 苛烈を極める戦火の中、長男の死亡を伝える電報に、妻は泣いたそうです。

尚も食べる物にも不自由するような日々の中、隠し持っていたあの時計を時々眺めて、嬉しそうに笑っていた、と。

いよいよ空襲が始まった日、妻は隠していた缶にあの時計を入れ、地下に隠しました。

知っていたのですから。

あの暗い銀行の地下室が、私たちを守ったことを。


「お願いします。あの人を守ってください。私のせいで傷ついたあの人を。私の命なら、喜んで差し出します。本当は、私もあの時死ぬはずでした。だからお願い。私の変わりに、あの人を。」

静かな台所で、そう、妻は呟いていたそうです。


 疎開をする話は、比較的早くから出ていたそうです。妻は娘だけ遠方に預け、自分は次男と残って生活していました。いよいよ空襲が本格化するからと疎開を翌日に控えた夜の出来事でした。

「貴方がここに入りなさい。私は別を探します」

防空壕に遅れてきた隣の奥さんにそう言うと、妻は外に出たそうです。

その時の彼女の様子は、息子の口から知れました。


必死に止める、息子に笑いかけながら。

「もう、誰かを見殺しにするのは、嫌なの。二度とあんな思いはしたくない」


そういったあの人は、儚い少女のような笑顔で、その場を去った、と。 

外はすでに火の手が上がり、爆音が鳴り響く恐ろしい惨状でした。

あの細い腕で、あの細い足で、あの人は一人、外に出たのです。

もう誰も、見殺しにしないために。


彼女が床下にしまったものを、翌日探しました。

床下の腐った糠床の隣に、丈夫な缶に入っていました。

幾重にも包まれた布の中に、あの時計はありました。

缶の中には、小さな手紙。


「正嗣さん、愛しています。

 もし私が先に死んでしまったとしたら、貴方は私の分まで生きて、幸せになって下さい」


 それはあの人の、最後の言葉。


 もう泣かないセルロイドの鳥の尾に、溶けた跡が残っていました。

 まるであの人の涙のように。

 

 愛している、が残酷に散った花びらのように、心臓に影を落とすのです。

 今はもう、あるはずのない炎に焼かれて、消えてしまいそうなほどに。

 大切な人を守るためにたくさんの人を殺したはずなのに、まるで罰を受けるかの様に、彼女が散ったのは何故なのでしょう。


 命を秤にかけた、私の罪なのでしょうか。


 「同じ罪を背負うと、決めました」


 貴方が私に残した言葉は、どこまでも愚かで、どこまでも甘い。


 「私の業で、貴方が傷つくと思うと、辛いのです」


 逆なのです。

 私が、貴方に抱いた、この感情こそが業でした。

 貴方という、花だけを、愛した。

 地を離れては、咲けなかったのに。



「ある日、庭の菖蒲を、切ってしまったんですよ」


控えめに言うマスターは、苦しげに顔を歪める。

夢から覚めたように、その場所は、いつものあの喫茶店だった。

「祖父に怒られました。花を切ってはいけないと。その意味を知ったのは、祖父が他界した後です」


ああ、後悔する、というのはこういう意味だったんだ。


「祖父の後悔は、深かったのでしょう。時折、庭の菖蒲を、苦しげに見つめていました」


 店の窓から外を眺めると、そこには立派な秋楡の並木。そこが松と柳の街路樹だったなんて、想像もできない。終戦後、ここに飲食店を開いたのはおじいさんだったのだそうだ。街路種の植樹の話が出た時、おじいさんはこう言ったらしい。

「柳がいいな。早く、迎えに来てくれそうだから」

その発言で、逆に柳は取り消された。


「どうして、喫茶店だったの?」

「アイスクリームを出したかったそうですよ」

「たった、それだけの理由で?」

「……たった、それだけだったそうです」

「逆に、切ないですね」

「それだけ、人は愚かなのでしょうね」


尾が溶けたセルロイドを籠めた鳥かごの時計が、目の前に置かれていた。

精巧な作りで文字か刻まれた球体も鮮やかなその時計は、あの日地下から出した後には、もう、時を刻まなかったそうだ。それでも、ずっと、この家族の手元にあった。


「もう、誰も、失いたくなかったんでしょうね」


そういう私に、マスターは呟いた。


「だから、争わないことを選んだんでしょうね、この国は」


店を出ると、目線の先に色づく街路樹の紅葉が、目に痛いくらい、赤い。

1世紀近くも前に、この街にそんな出来事があったことなど、きっとみんな、忘れてしまった。


「どっちが、幸せなんだろ」


誰に向けてでもなく、呟く。


 懸命に、逃れられない運命を受け入れて生きることと、便利すぎて何の覚悟もなく生きていけてしまうこと。幸か不幸かの2択じゃなく、人として成長するために。

尾が溶けたセルロイドの鳥は、もう、時間を刻まない。

戦争の灰の中から、束の間の平和を勝ち取ったように見えて、どれだけ大切なことを素通りしてきたのだろう。


道の向こうにある海から、強い風が吹いてくる。

紅葉の赤が炎のように、道を逆巻いて焼くようだと思った。

戦火の中、一人外へ出たその人を思う。

そうして、人の願いの上に、今の私たちが生きている。


 私も、数多の命の犠牲の中から紡がれた命だ。

その私は、今、この時代で、何が出来るだろう。


 見上げた空は、どこまでも青く、その時代にはなかったはずの高い建物が空に刺さっている。

両手を目の前で握って、気合を入れると、私は、歩き出した。


 覚悟を決めて、前に、進むために。

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