第一部 四章 少年と渡鳥
女と言うものは、気紛れである。
手を噛まれる事は犬の方が余程少ない。
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第一部 四章 少年と渡鳥
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酒場【先に逝く者】
晶の住む街の外れに居を構えているそこは【ギルド】と呼ばれる冒険者寄合の出張所の一つであり、多くの冒険者がクエストを求めて訪れる場所でもある。
ギルドとは冒険者の登録や大規模な対夢魔戦、並びに夢魔の研究などを一手に引き受けている株式会社の名前である。
株式会社と云ってもその株を保有することが出来るのは冒険者だけであり、例え各国の国王や権力者であっても冒険者でない限りはその株を保有することは出来ない。また、株を所有することが出来るのは一人一つまで。つまりは登録書みたいなものである。
設立者は生体核の発明者であり、竜殺しとして有名な【A】である。
本来は日本人であり、違う名前を持っていた彼は「統一言語の出来た今となっちゃ古語になっちまったが、アルファベットの最初の一文字、分かりやすいだろ? まあ、Bってのも捻くれてて好かったんだけどなぁ……」と云って、この名前に改名したのである。
天才や狂科学者の考えることは、常人には全く理解出来ないという良い実例である。
ギルドと云う名前も「分かりやすいから」と云うだけで命名されたのだ。それを証明するような彼の発言に、「テンプレと言うのは皆に愛されたからこそのテンプレなのだ。使い古されるということは、それによって他の物が淘汰されたという結果であり、使い古されたテンプレな命名こそ皆に受け入れやすく、親しみやすい」というものがある。理解出来るのだが、理解出来ないのかよく分からない言葉である。
そんなギルドの出張所では、クエストの発行の他にも様々な雑務を行っており、黒犬との戦いから自室で三日程寝込んでいた晶が今日ここに訪れたのも、その中の一つに用があったからだ。
即ち、レベル鑑定。
「あんまりここには来たくなかったんだけどなぁ……」
晶は、入り口の前でガシガシと頭を掻いた。
弱虫――【チキンハート】――の晶の名は他の冒険者の間にも知られており、白眼視されるだけならばまだしも、からかう様に突っかかってくる人間も多く存在するからである。この場所が酒場であり、酒の力がそれを益々助長するために尚更だ。今が昼間であることは何の助けにもならないだろう。大多数の冒険者に取って、異性と酒と冒険はほぼ等価値なのだから。
だが、レベルの鑑定を行っているのはギルドだけである。鑑定とは対象の【生体核】に収集された主要なデータを客観的に数値化、レベルやステータスという形で視認出来るようにすることだ。
そのように数値化された自分のパラメータを知ることは決して損などではなく、むしろ冒険の手助けとなってくれることの方が圧倒的に多い。故にクエストのためにここを訪れたことは無くとも、レベル鑑定のためだけにこの場所を晶は訪れるのだ。
「――よしッ」
大きく深呼吸をして、気合を一つ。
木製の扉を押し開けるとそれと地面が擦れる軋んだような音を立てた。店内には【歌姫】としてしられる【ノウン】の曲が新型の音楽再生機【お喋り口】から流れていた。
店内に訪れた晶の顔に向けられる目、眼、瞳。広い敷地の中に彼の姿を認めた者達から失笑した雰囲気が広がっていく。それを無視して晶は歩を進め、受付の傍へ。
「いらっしゃいませ。本日は当ギルドへどのようなご用件でしょうか?」
綺麗な受付嬢など幻想の中にしか存在しない。
バリトンの声の持ち主、ムキムキな肉体を持つ男がニッコリと。晶のような人間にも喩え営業スマイルであっても微笑を向けられるプロ根性は信じられるが、癒し成分は皆無、一ピコグラムとも同居していなかった。
「あーっと、レベルの測定をお願いします」
「畏まりました。それでは社内規則ですので、登録カードの提示をお願いします」
晶がポケットの中から取り出したカードを渡すと、受付の男はそれを恭しく受け取り、備え付けのカードリーダーへと差し込んだ。
「はい、結構です。登録番号337-93763-03918 山中晶様ですね。本日はレベル測定とのことですのでこの先を進んでいただいたところにあります右の扉となります。只今順番待ちのお客様は居りませんので、そのまま中へお進み下さい」
それでは、カードをお返ししますと持ち上げられたそれを晶は受け取り、慣れた様子で再び歩を進める。背後から晶を馬鹿にする笑い声が聞こえるが、それを彼は無視した。一々全てを気にしていたら日が暮れてしまうだけだ。
扉を開けると、まず個室の真ん中に鎮座した大型モニターが眼に入る。レベルの鑑定はそのモニターに手を当てるという簡単なものだ。
後ろ手で扉を閉め、鍵を掛けると耳障りだった声が聞こえなくなった。この部屋は完全な防音になっており、中の声も外の声も聞こえないようになっているのである。その他にも様々な結界が多重に組み込まれており、誰かが一人でも入った瞬間からその人間が外に出てくるまで完全に外から隔離された密室となる。
何故ならば、自分のレベルやステータスを知られるということは弱点を知られるということでもある。本当に信頼出来る人間だけに見られるのであれば或いはいいのかも知れないが、不特定多数の人間に見られるというのはあまり気持ち良いものではないし、見せたくも無いものなのだ。
(まあ、僕のを見て喜ぶ人間なんていないだろうけど……)
そんなことを思いながら、晶はモニターにそっと手を触れた。電流が流れるようなピリっとした感覚の後、濁流のような勢いで文字が流れ落ちる。
待つこと数十秒、チンッという間抜けな音がして、演算が終了したことを晶に知らせた。
「へぇ……レベルが四つも上がってる。これはガルム様々ってことかな」
モニターの内容に思わずニンマリと頬が綻んだ。臆病者であっても、いや、臆病者だからこそ、自分が強くなれるというのは嬉しいのである。第一、強くなれればそれだけ生存率が上がるのだ。ガルムとの死闘など似合わない真似をしてしまったが、そのリターンは思いの他、多大なものだった。最も、あんな真似はもう二度とごめんだとも思っているのだが。
モニターに映っている情報は分かりやすく簡潔に記されている。学のない人間でも絶対に分かるというのを前提に作られているためだ。まあ、【A】の趣味だという噂もあるが。
山中 晶
Lv:428
STR:251 DEF:198 MAG:54 AGI:489 DEX:412 LUK:182
加護神:無
お前は何処の盗賊だと言いたくなるようなステータスだ。
しかし、偏ったステータスを差し引いてもレベル400超えともなれば、一般に若手と呼ばれる冒険者からそろそろ中堅に差し掛かると言ってもいいようなレベル帯である。だが、晶の性根がそれを台無しにし、周りの人間が彼を侮り、馬鹿にする結果として現れている。
蛇足ではあるが、理論上レベルに果ては存在しないと言われている。つまり今の人間は生体エネルギーを吸収すればするほど強くなれるようになっているのである。その為、一流と呼ばれる人間にはレベルが2000を超えている人間がざらにいる。その中でも【A】を代表とする英雄と呼ばれる冒険者達のレベルなど察して知るべし、である。
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晶が測定室から出ると、店内がざわざわとした騒音に包まれているのが分かった。誰も晶のことなど気にしていない。またあんな気分を味わうのかと辟易していた彼にとってそれは有難い事だったが、今度は何があったのかが気になってしまう。
元々冒険者を目指すような人間は多かれ少なかれ好奇心というものを持っている。晶のそれがひょっこりと表面に出てきてしまったのである。
何があったのかと、誰にも気付かれぬようこっそりと喧騒の中心に近付いて、それと目が合ったその瞬間。晶は数分前の軽挙な行動を取ってしまった自分をぶん殴りたい衝動に駆られた。今更回れ右をして見なかった振りをしようとしても無駄だろう。一度遭遇してしまえば、それは晶に取っては避けえることが出来ない台風や地震などと同じ自然現象のようなものであった。
約六年前、この街に彼が流れ着いたのとほぼ同時期にそれはこの街で姿を確認され始めたらしい。最も、羽化をする前の話であるために、昔の写真や映像を見せてもこの場の誰もがそれとは分からぬであろうが。
この街に来る前から二年程冒険者として生計を立てていた晶は色々とそれの世話をしたこともあった。まだ彼が【チキンハート】と云う渾名を付けられる前の話である。
喧騒の中心で数多の男達を傅かせたそれは一言で言うならば、美しかった。
銀色の光沢を光らせる豊満な胸部を守るライトアーマー、足回りは動きやすさを優先させてだろうか、両側にスリットの入った赤のロングスカートに膝下まで伸びる頑丈な白革のロングブーツ。晶とほぼ同等の女としては些か長身ではあるが、白磁の肌を持つ体は十分に柔らかさを感じさせる。縦ロールに作られたブロンドは見事と云うほどに綺麗に纏められており、空色の瞳は何処か淫靡な色を湛え、男達の下心を嫌が応にも刺激する。そんな、絶世とも言っていいほどの美女がそこにはいる。
だが、しかし、晶は、この女のことが心底苦手だった。
「あらあら、貴方がこんなところに来るだなんて珍しいこともあるんですのね。二ヶ月振りでしたかしら? またお会い出来て大変嬉しいですわ。喩え貴方が矮小な蟲であろうとも、ワタクシの最初の師であることには代わりはありませんものね、それを考えるだけで唾棄すべき気分に駆られてしまいますけれど」
スルリと喧騒の中から晶の目の前まで歩んでくると、先程まで自分を囲んでいた男達など見向きもせずに晶の顔だけを見つめて語る彼女。だが、その唇から滑り出た言葉はこれである。晶は心の中だけで嘆息した。
晶の最初で最後の弟子であり、今は【渡り鳥】と揶揄される名を付けられた美しくも誇りを持たぬ女――ブリュンヒルデ・フォン・ブランデンブルクはその名の通り、ブランデンブルク辺境伯の血を引いているのだと彼女自身は自称していたが、晶はこれを全く信じていなかった。
そうであるならば、初めて出会った時にあんな格好をしていなかったはずだ。それに、彼女と出会った時は性は名乗らずに、名しか言わなかったのである。第一、この性根の腐った女に貴族など出来る筈がないと晶は思っていた――まあ、その腐り加減が貴族らしいと言えば貴族らしいのではあるが。
「僕は全然会いたくなかったよ、この馬鹿弟子。ここにはどうせまた新しい庇護先でも探しに来たんだろう?」
「庇護先だなんてそんな……新たなパートナーと言って頂けません? ワタクシの代わりにたった半年間夢魔を殺してくれる代わりに、そして、ワタクシにその生体エネルギーを吸わせて頂ける代わりに最終日にはワタクシの身体を自由にしてもいいという契約ですもの――最も、最後まで生き残った人なんて唯の一人としていないのですけれど」
生体核が生体エネルギーを自動的に吸収しないのを逆手に取って、ブリュンヒルデのような真似をする人間は他にも大勢いるが、彼女はその中でもトビキリだろう。
晶は、最後まで生き残った人間が居ないのは実はこの女が殺してしまっているからではないかと推測していた。己の弟子であった時に毒物の知識は十二分に教え込んだはずである。彼女ならば篭絡した男を殺すことなど容易い筈だ。
右の手の甲を唇に当て、クスクスと笑みを浮かべるブリュンヒルデの様子は妖艶の一言に尽きる。
喩え、分の悪い賭けだとしてもそれに乗ってしまう男が尽きないことを本能的に理解させてしまうような、蠱惑的な色気を成長した彼女は持つことが出来たようだ。彼女が一年程前に夜の女神【リリス】の加護を得てから、性質が悪いことにその色気は加速度的に増している。
「……お前の師として、毎回ながらこんなクソ女を野に放してしまったことは慙愧の念に耐えないよ。お前と会う度に思わず自殺したい気分になる」
「ふふっ、出来もしないことを仰るのね。貴方が自殺なんて出来るはずもないことは弟子であったワタクシが十二分に存じておりますわ。ねぇ――【チキンハート】さん?」
ブリュンヒルデがその言葉を口に出した瞬間、酒場内がドッと沸いた。馬鹿にする声。追随する声。
ゲラゲラとゲラゲラとひびくわらいごえ。
ぶちり、と晶の何処かで何かが切れたような音が、した。
「――煩い、ピーチクパーチク囀るなよ、【渡り鳥】。一切の誇りを持たないお前なんかにその名で呼ばれたくない」
今度は晶がそれを言えば、先程まで笑い声で五月蝿かったはずの店内がしんと静まった。今この空間に浸透しつつあるものは、怒りか。何かの切欠でもあればすぐに暴発してしまうであろう、張り詰めた空気。
だが、その空気を変えたのは意外なことに――否、むしろ当然のようにブリュンヒルデだった。
彼女が数回手を叩き、今にも晶に掴み掛かりそうだった男達に微笑み掛けただけでその空気は胡散霧消して消え去る。カリスマ性の雛形とも言えるモノを彼女は持ち合わせているのだった。
「――まだ、そうやって吼えられるだけのモノは持っていらっしゃったのね……それに免じてワタクシのことを【渡り鳥】と呼んだことは許して差し上げます」
ブリュンヒルデはそこで言葉を一度切った。チラリ、と晶の姿を目で流す。
「ふん。誇り、誇り――でしたかしら? ……でも、その誇りとやらは、貴方の【チキンハート】を直して下さったの? あら、こんなことを言っては失礼でしたわね。今の貴方を見ていれば、直ったのかなんてよく分かりますもの。ふふ、ワタクシには、弱虫の貴方が誇りなんて崇高な物を持っているようには到底思えませんわ」
再びドッと笑いに包まれる店内。
だから、晶は何時ものように――諦めた。先程まで自らを支配していたはずの感情すら既に消え去り鎮火してしまっていた。その顔に浮かぶのは疲れたような笑みだけ。何も言わずにブリュンヒルデに背を向ける。
「――また、逃げるんですの? 貴方という人は、何時もそうですのね……?」
「ああ、そうだよ。お前の言う通り、僕は【チキンハート】だからな。逃げることだけに関しちゃ、超一流なんだ」
「ふん。そうですか。ならば、貴方は一生其処で沈んでいなさい」
「ははっ、言われなくても、そのつもりだ」
じゃあな、と言って酒場を後にする。それきり自嘲したような微かな笑みを零した晶の顔が振り返ることは二度と無い。
だから、晶は最後までブリュンヒルデの左手がきつく握り締められていたことに気付くことが出来なかった。