第一部 一章 少年と黒犬
ダンジョン――それは、最低最悪の、巣穴。
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第一部 一章 少年と黒犬
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そこは、じめじめとした湿気質の仄暗い洞窟だった。穢れ果てた洞窟の内部に充満するのは、臓物と血の臭い。湿気質の空気は澱むように何処までも重く。その重圧は生物の内部へ、奥へ奥底へと入り込んでいく。
剥き出しとなった無骨な岩盤に変種の光苔がびっしりと群生し、金緑色の光を齎してはいるものの、太陽の強烈な自然光とは違い、それは蕭々とした心細いものでしかなかった。
そんな薄ぼんやりとした明かりの中に、一人の青年の姿が浮かび上がる。彼の姿を見た人が浮かべる色のイメージは恐らく、薄汚い黒だろう。大概の人間に失笑や不快感を買う姿である。
戦闘時の邪魔にならないよう短く、しかし不器用な程に不揃いに切られた黒髪。普通ならば見る人間に怜悧な印象を齎すはずの切れ長の黒瞳は、何処か不安そうな色を漂わせており、台無しになっている。黄色人種の証である黄色い肌は日に焼かれて、浅黒く。傷付けられた箇所を自分で修理しているのか継ぎ接ぎだらけの質素な皮鎧もつや消しの黒一色に塗られており、足元を固める頑丈なブーツもまた黒革だった。
体中泥と煤に塗れ、汚れてはいるが、まだ若いようだった。外見でいえば17、8と言ったところだろうか――最も、今の人類はとある要因によって外見年齢など当てにはならないのだが。
彼――山中晶は、ある理由によって、ソロで探索をおこなっていた。だからなのだろうか、周囲の気配に出来うる限り同化するように、用心深く通路を歩いていく。気持ちは幾つかの理由から早く外に出ようと急いているのだが、何処か冷静な部分がそれを何とか押し留めていた。
ふと、歪な足音が晶の耳に届いた。ぬちゃり、ぬちゃりと水分を多く含んでいる汚泥の中を掻き分けて進むそれは、恐らくは四足歩行獣のモノだろうと彼は推測する。
ビクリ、とその音に身体を震わせた晶は、薄闇の中で、吐息を押し殺しながら腰のベルトに吊り下げているホルダーから銘すらも付けられない大量生産品であるスローイングダガーを音が鳴らない様慎重に、しかし手早く引き抜いた。その刀身は艶消しの黒一色で塗られ、ほんの僅かな光さえも反射させないよう作られた暗器のようなダガーだった。
武器や道具の消耗具合から、また肉体的、精神的な疲労から、晶が今日の探索はもう止めにしようと地上に引き返す途中であったために、五本持ってきたダガーのストックは最早この一本だけしか残ってはいなかった。それも何度も回収して使っているために、既に刀身に罅割れや刃毀れ等のガタが来てしまっているようなものである。
では残りの武器はと言えば、そんなダガーと似たり寄ったりの状態だ。先の戦闘によって刃先が真ん中の辺りからポッキリと欠けてしまって用を無さなくったジャマダハル。安全マージンのために出来るだけ温存しておいた虎の子のマインゴーシュすら、よく見れば何箇所かの刃毀れがある。
それでも、【スキル】といった身体のアシスト機能が豊富ならば、多少はマシだっただろう。だが、それは晶にとってはあまりに高価過ぎたし、彼自身は必要ないと思っていた。脳内に旧時代の達人と呼ばれた人間や今の時代の英雄達の情報をインプットして、彼らの技を再現するそれは、夢魔達との戦いに非常に有効ではあったが、それ故にそれを求める人間が多く、金と時間が掛かる。そして、それは発動時に行動のキャンセルが出来ないという大きな弊害すら持っているのである。
晶は汗が滲む右手でダガーを軽く、しかし、掌から滑り落ちないようにしっかりと握りながら、注意深く音の音源の方向、距離を計る。
――やはり、近い。
前方から悠然と進むソレが真後ろに方向転換でもしないかぎり、接触は時間の問題だろうと晶は思う。多少は蛇行をしているとはいえ、ここの通路はほぼ一本道だったはずだ。
晶は覚悟を決め、手に持った獲物を何時でも投げられるように準備しながら、脳裏に浮かぶモンスターの絵姿を取捨選択し続け、僅かでも可能性のある敵の情報を頭の中に残していく。事前に敵の情報が少しでも得られれば、多少なりともアドバンテージを取れることを彼は少なくない経験から学んでいた。
彼方から聞こえる独特の呼吸音から犬型のモノであろうと推測した晶は、ヘルハウンド、ブラッグドッグ、呼吸音の数から有り得ないだろうが、ケルベロスやオルトロス、最悪の可能性の一つとしてガルムを連想し、瞬時に危険を悟った。
犬型のモンスターに代表される危険は噛み付き、鋭利な爪によるひっかき、炎のブレスなど多岐に渡るが、もっとも危険な物はそれらの持つ嗅覚である。
洞窟に入る前に付けた臭い消しも、出来る限り拭ってはきたものの返り血と汗に塗れた今ではほんの気休め程度にしかなっていないであろう。それは彼らから逃げようとして、嗅覚で追い詰められて食い殺された多数の犠牲者が証明している。
恐らくは既に気付かれている。特攻か、待機か。晶はほんの少しの逡巡を残す。
相手が犬型であると発覚した時点で逃亡という選択肢は一部の例外を残して消え去っていた。即ち、彼らから逃げ切れる程の体力と素早さを兼ね備えた者たちである。最も、それだけの能力を兼ね備えた人間であれば、逃げるという選択肢を選ばず、真っ向から立ち向かうのだろうが。
どう転んでも、戦うしかなさそうだ。
「ああっ、もう! 糞ったれッ!! せめて黒犬程度であってくれよ!?」
思いつく限りの神々に晶は罵声を飛ばす。
こちらの戦闘態勢へと移行する気配を感じたのであろう。空気を割るような咆哮の後、疾走してきた影に向かい、晶はダガーを半ば捨てるようにして投げつけた。
五感の鈍いモンスターであれば、不意を打ち、眼球や喉。眉間などの急所を狙えただろうというほんの少しの失望と共に口蓋に溜まった唾液を飲み干す。
元より当てようとは思っていない。ほんの些細な隙でも出来ればいいのだ。
事実、その犬型の獣――ガルム――はダガーを避けるために飛び退く。最悪の可能性が当たってしまったことに舌打ちをしつつも晶の強化された瞳はつぶさにその行動を追っている。
中位のモンスターが何故かこんな発掘され尽した洞窟の、それも地下五層程度の浅い階層に彷徨っていること、そんな些細な疑問は今は忘れることにする。瞬時に気持ちの切り替えが出来なければ死ぬだけだ、と駆け出しの頃、僅かな期間だけ組んでいた男が口酸っぱく言っていた事を思い出しながら、引きちぎる様にしてホルダーから刀身にスキュラの毒が塗られたマインゴーシュを引き抜く。
回避体勢から立ち直りつつあるガルムへと向かって飛び掛かろうとして、晶はその動きを無理矢理殺し、身体を横っ飛びに投げ出した。ガルムが、彼の想像以上に速かったのである。
光の弧が宙を走る。
鋭利な爪が、空気を断ち切る音。三重の銀弧が、数瞬前まで晶の頭があった空間を掻いていた。
そこからは、一方的な展開になってしまった。
本来は左手――利き腕とは反対側の手――で扱うために作られたマインゴーシュを、晶は利き腕である右手で握り締めながら、ガルムの引っ掻きを必死で避け続けている。
何故、こんな目にあっているのだろう、晶は恐怖を噛み殺しながらそう思う。喩え、自らが望んでこの場に居ようとも、恐いものは恐いのだ。恐慌状態に陥らないのは、偏にそうなった時にすぐ殺されてしまうという予想がついているからだ。
晶の脳裏に浮かぶのは、ガルムの情報。様々な物語に出てくるために、今までに三十九種の存在が確認されているが、そのアーキタイプは北欧神話の猟犬である。喉から胸にかけて、血がこびり付いた様な跡が存在するために恐らく間違いないだろう。
問題はブレス攻撃を持っているかいないかだが、恐らくこれは持っていないだろうと晶は思う。昔、データ化された夢魔情報をダウンロードした時、その中にあった猟犬としての面を特化させた種と外見特徴が酷似していたためだ。恐らく、その情報は未だ脳内の一部を利用して作られた生体コンピューターの記憶装置に残っているだろうが、それを一々確認している暇など無い。
いざという時に逃げ切れる可能性がさらに減少したが、広範囲攻撃であるブレスを持っている確率が減っただけでもマシである。こんな狭い場所で吐かれてしまえば、盾や対ブレス用のマントを持っていない晶はほぼ確実に焼かれてしまうだろう。
とはいえ、決して与し易い相手ではない。生物の格としては確実に晶の上をいっているだろう。事実、彼は今、防戦一方に立たされているのだから。
未だほんの数秒しか経っていないにも関わらず、額には汗が滲み、口から零れる吐息が荒くなる。連続する軌跡。縦横無尽とも言える程の爪の乱舞によって、一撃一撃と革鎧が抉られ、切り裂かれ続ける。元よりツギハギだらけだった革鎧が、無用の長物となるのは最早時間の問題だった。
しかし、今は革鎧なんてことよりも大事なことがあった。革鎧は少し惜しいと晶は思うが、気にしている場合ではない。そんなことよりも、大切なものがある。
(くそ、隙が――)
ベルトポーチに入っている筈の消耗品を思い浮かべながら、しかし、それを取り出す暇も隙も無いことに晶は落胆し、己の無力さを呪った。
相対距離が、近すぎるのだ。
ガルムの毛の一本一本の動きすら視認出来るような超至近距離である。生臭い獣の口臭すら感じられる距離。ガルムは今、爪による攻撃ぐらいしか行っていないが、ベルトポーチに手を回すなどという愚行をしてしまえばすぐさまにでもがぶりとやられて一貫の終わりだろう。
破れかぶれにマインゴーシュで攻撃を加えても良いが、その代わり、確実に肉はおろか、骨、内臓までも抉られることだろう。刀身にスキュラの毒が塗られているとはいえ、効くかどうかは実際にやってみない限り不明なのだ。ただの無駄死にで終わってしまう可能性すらある。
(後ろに――いや、飛び掛られて終わりか。何か、ないか。何か――)
思考を巡らす間にも、ガルムの一撃一撃は止むことを知らず、晶の身体に降り注ぎ続ける。周囲に目を配ることすら出来ない。精神を削られ続けるような感覚、肉体は未だ動くだろうが、このままでは恐らく心の方が先に折れてしまうだろう。
――そして、感じた死に至る痛み。
とうとうガルムの爪が、晶の左腕を捕らえたのである。
前腕の肉を持っていかれただけだが、その部位が焼けたように熱く、そして、凍ったように冷たい。その矛盾したような感覚に晶は歯を食いしばってそれを耐える。
もしも、今、追撃をされていたら、恐らく晶はガルムの晩餐になっていたことだろう。だが、ガルムはお前の負けだと言うように、前足に付着した血をベロリと舐めあげた。その表情は、愉悦に酔っている様だと彼は感じた。
それが、チャンスだった。
(今、だ――!)
漸く訪れたほんの小さな狭間。失敗は許されないと晶は自分に言い聞かせながら、ベルトポーチに手を回し、それを宙に放り投げる。
そして――真っ白な閃光が、全てを焼いた。
それは、風景だけに限らず、ガルムのその爛々と光る両眼すら同様である。強い閃光は、ガルムの中にほんの僅かなショック状態を生み出す。
ほんの一瞬の閃光消えた風景の中で動くものは、ただ一つの人影。その意識の空白が欲しかったのだと、今までの鬱憤を晴らすかのように、再びポーチの中から取り出したものを力強く、投げつける。
「サービスだッ! ついでにこいつも、喰らっとけッ!!」
バリン、と言う硝子が破砕する音。ガルムの鼻頭に叩きつけられたそれは獣の悲鳴を生み出した。
香水、である。香水と言っても、それは便宜上の名前である。身に纏う為に作ったものではなく、相手の鼻を潰す、その目的を追求して晶が作り出した悪臭水だ。様々な悪臭を生み出す材料をブレンドし、一定の力が加わることで簡単に割れてしまうガラス瓶に詰めてある。ジュル状になった水はねっとりとガルムの鼻に纏わり付き、確かにその効果を遺憾無く発揮していた。
「手製だけど――お前らみたいに鼻がいいやつには、効くだろ?」
喩え、神話時代の化け物であろうと、その元となった生物のサガから逃れることは出来ない。犬の嗅覚は長所でもあり、そして、短所でもあるのだ。
果たして、返事は唸るような呻き声によって、返された。
ガルムは今、どうにかして臭いを取ろうと前両足で必死に鼻を擦りあげている。敵――晶――が、目前にいるにも関わらず、だ。それに晶は唇の端を吊り上げ、ガルムの背中に向けてマインゴーシュを、振り下ろした。