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「先生、俺はな。」
父さんが、話し始める。僕はただ、耳を澄ませる。
「俺はな…、幸せ者なんや。他の人間の、何十倍もな」
父さんは、ゆっくり、ゆっくりと、囁くように話した。
「その、俺の、何十倍もの幸せを作れるのは、母さんだけなんです」
胸が、熱い。
「そして、母さんは、俺に、他の人間の、何百倍もの幸せを残してくれた」
ドクドクと、血が巡っている。
「それが、愛斗や」
熱い。
「先生、俺はな、直子を、今でも愛しちょん」
母さんの名だ。父さんが母さんを名前で呼ぶのなんて、最後に聞いたのは、いつだったろう。
「直子が、消えんのです。今でも夢に出てくる。俺は…後を、追いたかった」
父さんの声が震えている。
「でも、愛斗を残してくれたんです。俺の宝を。それでもな、俺は弱いけん。直子に会いたくて会いたくて、堪らんときがある」
僕の頬を、涙が流れた。
「その度、直子が夢に出るんです。生きて、あなた、生きて。また会えるから。ち、言うんです」
父さんは、声をうわずらせた。母さんが死んだ日の、あの夜と同じように。
「先生、気持ちだけ、気持ちだけ貰う。でもな、ごめんなさい。俺の幸せは、直子にしか、作れんけん」
父さん。父さん。
「直子を、愛しています」
父さん。僕は、あなたの息子で。これ以上のしあわせは、ありません。
僕は、涙が止まらなかった。先生はきっと、泣いていただろう。二年前からの片思いが、終わってしまったのだ。
僕と純平は、そのまま家に帰ることにした。中村さんは、状況が分かっていないようだった。だから、五分ほど看護婦さんに足止めをしてもらって、僕らは病院を出た。
「かっけえな、父ちゃん」
帰り道で、純平がつぶやいた。
「うん」
僕の父さんは、かっこいい。あの人の、深い愛には、とても敵わないのだ。




