5
広場にある噴水の小さな水音が、あたりの静寂に染み入っている。
賑やかだった往来も寝静まり、日中、市で賑やかにしているこの広場も、真夜中は別の顔。まるで観客のいない劇場のように静まり返っていた。
噴水の水面には月が揺らめいていた。空は穏やかで、淡い明かりが地上を照らしている。
ひと気のない真夜中の町に、唯一少年の姿があった。噴水の縁に腰掛け、月を写す水面から水をすくって、彼は左腕から汚れを削ぎ取るように水に流していた。いや、削ぎ落としているのは汚れではない。焼け爛れて死んだ皮膚と肉を、少年は自らの腕から削ぎ取っているのだ。もし目にする人がいれば、顔を背けるに違いない。その光景は激痛を想像の中でかき立てるのだが、少年の表情は苦痛にゆがむでもなく、それを続けていた。ただ、表情の死んだ少年の顔は、逆に空恐ろしい気味の悪さを感じさせる。
少年を探していたエリスが、声を掛けようとしてその場に立ち竦んだとしても、無理からぬことだ。
声と思考の凍りついたエリスは、次いで少年の傍らに、金色の髪と白い衣の少女が、ふっと現れるのを見た。その姿は半ば透けていて、瞬きでもしようものなら、その隙に空気に掻き消えてしまいそうだ。それでいて、淡い光がくっきりと輪郭をあたえて、眼にはっきりと映っている。
少女は、腕を洗い終えた少年が包帯を巻き始めるのを、哀しそうに、心配そうに見つめ、そしてふいに、エリスの方を振り向いた。なにかして欲しそうに、少女の瞳はそんな風に見えた。その次の瞬間、ぱっと少女の姿は見え無くなってしまった。幻だったのかという疑問が脳裏をよぎる。だがそれよりもまず、石のように動かなかったエリスの足が、急に軽くなって地面から離れ、少年の方へと歩き出していた。
「包帯をかせ。わたしが巻いてやる」
言うより早く、エリスの手が包帯をひったくる。彼女は意外にも器用な手つきで、リーンの左腕に色のくすんだ包帯を巻き上げていった。
「怪我を、したのか」
包帯と左腕に集中したまま、エリスは訊いた。包帯に隠されていく左腕は、醜く爛れ、健康な部分などは残されていなかった。幾重にも巻かれた包帯で分からなかったが、肉は削げ落ちて、少年の左腕は恐ろしく細かった。文字通り、爛れて肉が削げ落ちるのだ。さっき眼にした様に。
「言わなかったかい? 生まれつきなんだ」
エリスは、少年の顔は見ず、ただひたすら包帯に集中していた。少年の静かな眼差しが、彼女を見つめているからだ。一瞬、その瞳を見てしまったエリスは、思わず眼を逸らしてしまった。夜空より深い藍色の瞳を目にしてしまうと、畏れに似た感情が彼女の心を捉えるのだ。沈黙は、それを助長する様に感じる。だから、エリスは会話を続けた。
「では、何かの病なのか……?」
「それよりエリス、気味が悪くないのかい?」
リーンの声音がどこか変わった。すると、エリスの感じていた緊張がすっと解けた。
「……い、言っただろう、騎士だからな」
「そうか……見慣れているんだったね」
エリスは自分の言が嘘であると認識していた。腕を泉水で洗うリーンの姿を見たとき、固まってしまった自分の足を動かしたのは……。
「さっき……」
「なんだい?」
エリスは首を振った。あの少女のことは、気安く訊いて良いことではないような気がした。
「……これは、病気じゃないんだ。病気だったら、とっくに死んでる、と言われた」
「じゃあ、なんなんだ」
そう訊いたのは、ほとんど条件反射だった。だが、少年の返事を聞くには、包帯が巻き終わるほどの時間が要った。
少年の肩口で包帯を固く結ぶと、エリスはちらりと少年の顔を見た。彼の表情は沈黙で固まっていた。空間のどこかを無言で見つめ、何かを考えている。
「言いたくないならいい」
「これは、呪いだ」
それに、一片の慈悲かも。
「呪い……?」
包帯に包まれた左手を見つめて、リーンは微笑んだ。
「行こう、エリス」
リーンは、左手に使い馴染んだ手甲をはめて立ち上がると、矢筒と、そしてあの剣を背負った。
「では、引き受けて下さると?」
再び宿の一室。リーンは、シエラディーナに同行を了承する旨を伝えた。
シエラに頷いて、リーンは一言付け加える。
「僕が去りたい時に去ることを許してもらえるなら」
「それはもちろん、約束しましょう」
後ろに控えたジェンナーは一瞬、同意し難いという顔をしたが、口にはしなかった。シエラは少年を信用したのだ。そして、シエラの眼をジェンナーも信頼している。なにより自分も、少年が無責任に自分たちを放り出して逃げ出すような性格には見えなかった。ただ、シエラほどには自信を持てなかったのである。
それならば、とリーンは頷いた。
「じゃあ、お供するよ。目的地は?」
「追手を振り切って、アンロッキア公国へ」
「アンロッキアか……少し遠いな。それに追手、ね。おいおいくわしく聞かせてくれるかな」
「それももちろん、話す必要があります。長い道のり、話題の種もいるでしょうから。でも差し当たって、今夜は休みましょう」
「確かに、そのとおり」
リーンは、軽くお辞儀して辞した。
退去したリーンを、廊下に出るなりエリスは呼びとめた。
「あんな安請け合いしていいのか」
リーンは、振り返った首を傾げて見せた。
「困っているんだろう?」
「それはそうだが……」
「大丈夫、あのひと、ジェンナーって言ったっけ。強そうだし、危ない時は一目散に逃げ出すから」
エリスは口を噤んだ。あきれたり、怒りを覚えたためではない。少年の言葉の偽りを、どう返していいかわからなかった。つい先刻、少年は自分を逃がして戦ったではないか。「後悔しても、知らないからな……」
エリスは、この旅で犠牲になった騎士たちのことを思い返した。彼らは後悔しなかっただろうか……?
「さあ……後悔しないように生きてるつもりだけどね」
リーンの言葉は、彼の誠実さを証明しているようにエリスには思えた。