09
ヒナタが姿を消してから少しばかりの日が過ぎた。
あれからずっとイリスは部屋に籠ったまま、一日中何をするでもなく無為な日々を過ごしていた。酒場の仕事も休んでしまっていたが、ロキとアヴィーはイリスを追い出すことなく、そのまま住まわせてくれている。そのことが余計にイリスの罪悪感を煽った。
「……またそんな所にいたのかい?」
「…………」
アヴィーの声がイリスの耳に入った。彼女は足しげくイリスの部屋に通っている。今日も食事を持って、イリスの部屋を訪れたのだろう。
イリスは毛布をかぶって部屋の隅で膝を抱えていた。一人ぼっちの世界。この世界から連れ出し、イリスを抱きしめてくれた人はもういない。
他でもないイリスが追い出してしまったのだ。
「……えっく……えっく……」
思い出してまた涙が零れた。何度泣いても涙は枯れない。涙を流すことしかできない自分が、ヒナタに謝りにも行けない自分が、色んな人に迷惑をかけている自分が、弱く、醜く感じた。
「ああ、ああ。泣くんじゃないよ、もう」
アヴィーが慣れない手つきでイリスの頭を撫でる。
「ヒナタはねえ、イリスちゃんのことを嫌いになったわけじゃないんだよ。だから、もう泣くのはやめてくれよ」
「ううん……絶対に嫌われたっ。私、酷いこと言って……」
「イリスちゃんは、ヒナタのことが本当に嫌いになったわけじゃないんだろう?」
「それは、ない……! 嫌いになんて……なれるはずない……!」
「ヒナタもだよ。アイツはお前さんのことが嫌いで、ここからいなくなったわけじゃないんだ」
「……でもっ、でも……私は、ヒナタのことを理解することができないの……」
感謝こそすれど、心から嫌うことなんてできるわけがない。
ただ、ヒナタを理解できないもどかしさがイリスの胸にあった。理解できないからこそ、どうすれば良いのか分からない。今はまだ良くても、このままだといつかイリスはヒナタのことを嫌いになってしまうかもしれない。そのことがイリスを不安にさせる。
そして、イリスにはその不安を解決する術がない。だからこんなにも苦しいのだ。
――静かに泣き続ける幼い少女の姿は、見た目以上に小さく脆いようにアヴィーには見えるのだった。
「はあー、退屈っすね、ロキさん」
「そう言ってくれるな。ここの連中のみながそう思っているんだ」
「ヒナタ効果っすねえ」
「……だな」
「……まだ嬢ちゃんは出てこないんすかね?」
グラスを拭きながら上を見上げるロキに、カウンター席に座ったゼインが尋ねた。
「今はアヴィーが食事を運んでいる。食べてくれれば良いが……」
「……ロキさん。俺はやっぱりアレをお嬢ちゃん見せるべきだと思うんすよ。このままじゃ、お嬢ちゃんはもちろん、良かれと思って身を引いたヒナタ自身も報われない。……そして誰より、ユレダのじいさんが」
「……うむ。ヒナタが絶対に見せるなと言うからやめておいたんだが、もう限界かも知れんな……」
「っすよねえ。って、お、アヴィーさん。どうでしたか……ってその様子じゃダメだったみたいっすね」
何も手を付けられていない食事を手に二階から現れるアヴィーを見、ゼインはがっくりと肩を落とした。アヴィーが「サービスだよ」と言いゼインの目の前にその皿を置くと、ゼインは顔をしかめてふくよかな腹をさすった。
「いくら太ってるからってこんなには食えないんすけどねえ……で、アヴィーさん、お嬢ちゃんの様子は?」
アヴィーは腰に手を当て、左右に首を振った。
「やれやれ……どこの馬鹿に似たんだか、あの子も相当な意地っ張りだよ。お互いに理解したがっているのに、話し合おうとしねえんだ」
「そうっすか。……ん、お互いに理解したがってるって……お嬢ちゃんは分かるんすけど、ヒナタもですか?」
「……ヒナタがここを出て行く前のことだけどね。アイツはイリスの面倒を頼むと言って、金をしこたま置いて行ったんだ。今でもたまにイリスちゃんが寝ている時間にひょっと顔を出しちゃあ、あの子の様子を逐一聞いてきやがる。
……これが鬼と呼ばれたヒナタの本性さ。どんだけイリスちゃんが心配なんだか」
「それは……また。ヒナタらしいと言えばヒナタらしいっすけどね。それだけイリスちゃんを理解したいんでしょう。
……さて、そこで一つ提案なんですが。ロキさんとも話してたんすけど、やっぱりアレを見せた方が良いんじゃないかと思いまして」
「……いや、アタシは反対だね」
「そらまたどうして?」
「アレを見せるということは、必然的にヒナタの過去を話さなければならなくなるだろう? アタシ達にはその権利はないよ」
「……なるほどね。だとしたら問題は、ヒナタが過去を自分から話すようなヤツじゃないことっすね」
ゼインは皿の料理にやけくそ気味にフォークを突き刺すと、口の中に放り込んだ。どうにもできないというもどかしさが見て取れる。
「だが、それも含めて話すべきなのかもしれんな」
「アンタ……」
ロキはグラスを拭く手を止め、再び上を見上げた。
「アイツの全てを受け入れることができなければ、これから先にイリスちゃんが通る道は崖だろう。落ちたら一瞬で終わりの崖さ」
「……受け入れることができたら?」
ゼインが尋ねると、ロキはいつもより小さめに笑って答えた。
「受け入れることができたら、次に待つのは茨の道さ。傷つくことは避けられん」
「……けど崖から落ちるわけじゃないから死にはしないってか?……アンタらしいねえ」
「うむ。あの子なら乗り越えられるさ。何せ、ヒナタの妹のようなヤツだ」
「……きっとユレダのじいさんも、お嬢ちゃんがその道を歩むことを望んでいるでしょうね。どうっすか、アヴィーさん? 先に茨の道を踏んだ人としての意見は」
「……アンタらは、全く……。分かった、分かった。アタシの負けだ。イリスちゃんに全てを話そう」
「……がっはっは。それでこそ、俺の妻!」
「うっさいねえ、バカ旦那! 久しぶりに笑ったと思いきゃ、随分と妙なタイミングじゃないか、ええ?」
「ああもう、二人ともやめてくださいよ!」
慌てて場を収めようとするゼイン。しかし、夫婦は取っ組み合いになってしまい(とは言っても一方的にアヴィーがロキを痛めつけているだけだが)、ゼインはさじを投げた。
「はあ……ったく。お前の居場所はここだぞ、ヒナタ」
イリスだってきっと、茨の道を越えた先で温かな“それ”を確かめることができるんだ。