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眠れる森のイリス  作者: 稀春
第一章
8/14

08

 どのくらい時間が過ぎただろうか? いつの間にか街は漆黒に染まっていた。街灯も少なく、月光がぼんやりと照らす世界。


 走り疲れたイリスは大通りの壁にもたれかかる。昼は賑わいを見せる市場だが今は露店もなく、人通りも少ない。


「ヒナタ……」


 その名を呼ぶ。笑いながら頭を撫でてくれた。優しく抱きしめてくれた。


 でも、今は。


「怖いよ……ヒナタ」


 ――返り血を浴び、冷たい目をしたヒナタしか思い出せない。


 誰かがヒナタを鬼だと言っていた。鬼とは極東の民話に出る恐怖の象徴のことらしいが、イリスは初めて聞いた時にあまりピンとこなかった。……でも、今ならその意味が分かるような気がする。



「……寒い」


 ふと、ずっと自分が薄着のままでいたことに気が付き、イリスは小さな肩をさすった。


 ロキとアヴィーに心配をかけてはいけない。そう思い帰ろうと歩き始めたところで、視界にあるものが入ってイリスは足を止めた。


「ここって、確か……ユレダおじいちゃんが言っていた……」


 以前にユレダが、自分の家の隣には良質の果物を取り扱う店があるという話をしていたことを思い出す。その時に聞いた店の名前と一致する。


「ユレダおじいちゃん……」


 ユレダと話をしたいと思った。あの老人と話せば少しは落ち着けるかもしれない。

 イリスはユレダの家と思われるドアの前に立ち、ノックをした。


「すみません、ユレダおじいちゃん? 私……イリスです」


 暫く待ってみたが、返事はなかった。……そう言えばロキが、ユレダは用事があって暫く顔を見せられないと言っていたっけ。


「はあ……」


 ため息交じりに頭をドアにもたれかける。


「きゃっ!」


 と、半開きだったらしいドアが開き、イリスは前のめりになったまま家の中へと突っ込んでしまった。更に、その勢いで足をもつれさせて、顔面から倒れ込んだ。


「……いったぁ……」


 若干涙目になりながら顔を持ち上げる。


「え?」


 床に手を付いて立ち上がろうとすると、何やらざらざらしたものがイリスの手のひらについた。


「何だろう……これ?」


 家の中が暗くて良く見えない。どうやら無人のようだ。申し訳ないと思いつつも、イリスは立ち上がり手探りで明かりを点けた。


「……っ! きゃああああああああああああああああああああああ!」


 悲鳴を上げる。

 イリスの手はペンキをこびり付けたかのように、真っ赤になっていた。

 いや。イリスの手だけではない。


 部屋全体が真っ赤だった。


 これは、ペンキなんかじゃない。――人間の血だ。


「そ、そんな……! ユレダおじいちゃん! どこにいるの!?」


 慌ててユレダの姿を捜すが、一部屋しかないこの家にはどこにも隠れる場所などない。

 赤いシミが一際酷いベッドも、もぬけの殻だ。


「これは……」


 そのベッドの脇にあったもの。

 それは。



 ――それは、見間違うはずもなく、あの老人がかけていた眼鏡だった。



「いや、いや……いやだよ……こんな……」


 その持ち主である老人の穏やかな瞳が頭をよぎり、イリスは眼鏡を抱えて嗚咽を漏らした。



「イリス」



 そんな時、冷たい部屋に、一つの声が。


 恐らく、今、最も会いたくない人。会ってはいけない人。



「……ヒナタ」



 ヒナタ。イリスは背後を振り返ることなく、その名を呼んだ。


「捜した……ロキもアヴィーも心配している」


「うん」


「帰ろう、イリス」


「……ねえ、ユレダおじいちゃんは……?」


「…………」


「答えてよ、ヒナタ。……ユレダおじいちゃんは、どこにいるの……?」


「……ユレダは。ユレダは、俺が」



 ――殺した。



「ユレダは昨晩、シュノレテを発症した。……リュコスとしてユレダから依頼を受けていた俺は、今日、ユレダの時を永遠に止めた」


 ――繋がる。全ての理屈が繋がってしまう。

 ヒナタは朝早くに出かけた。呼び出しをしたアヴィーは一日中様子が変だった。ロキはユレダは暫く酒場に来れないと言った。ヒナタは血まみれで帰ってきた。そして、ユレダの部屋も血まみれで。ユレダはシュノレテを発症したという。ヒナタはリュコスとして依頼を受けていて。――そして、ユレダはもうこの世にいない。



「どうして……? どうして、殺さなきゃいけなかったの?」


 イリスは歯を砕けそうなほど強く噛み、ユレダの眼鏡を胸に掻き抱いた。視界がぼやける。痛切な感情がイリスから溢れていく。


「治るかもしれないのに……いつか目を覚ますかもしれないのに……! どうしておじいちゃんを殺したのよぉっ!?」


「……それがリュコスの仕事だからだ」


「そんな建前なんか聞きたくない! だってっ……おじいちゃんは眠ってても、息をしていたんでしょ!? どうしてまだ生きている人を殺さなきゃいけなかったのよぉっ!」


「…………」


「何とか言ってよ、ヒナタァ!」


 ヒナタは何も言わない。そのことが何故か無性にイリスの癇に障った。心が軋む。

 痛い。――胸が、心が、全身が。

 全身に針を刺されたように、痛い。


「……あ…………よか……」


 イリスの口から、怨嗟が小さな呟きとなって漏れた。


「……あ……なけれ……よか……」


 徐々に言葉は形を成す。



「……出会わなければ良かった!」



 最後は叫び声となっていた。

 涙を零しながら。自分をも傷つけながら。それでもイリスはヒナタを傷つける。

 そうしていないと、狂ってしまいそうだった。


「ユレダおじいちゃんを失ってこんな思いをするくらいなら……最初から知らなければ良かった……! ヒナタとなんか……出会わなければ良かった……!」


 ダメだ。ダメだ。言ってはダメだ。そう、僅かに残った理性が必死に押し止めようとする。――でも、もう止まらない。止められない。


 ついに、その口は、決定的な一言を吐き出す。



「この……人殺し……!」



 ――決して言ってはならない言葉だと知っていた。


 知っていて、同時に最もヒナタを傷つけるであろう言葉をイリスはぶつけていた。



 それでも、やっぱりヒナタは何も言わなくて。


 いつの間にか。

 本当にいつの間にか、その姿は消えていた。



 長い間泣きじゃくっていたイリスに次に声をかけたのはロキとアヴィーだった。


 その後のことは良く覚えていない。


 でも、一つだけ確かなことはある。



 ――その日、ヒナタは酒場の二階の部屋から消え、二度と戻ってこなかった。



 そして、その後に残ったものは、何一つなかった。



 ただ、それだけだ。

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