03
「どう思うよ、アヴィーさん?」
ようやく普段通りの騒がしさを取り戻してきた酒場のカウンター。
ゼインが、酒場の主人の妻であるアヴィーに尋ねた。
「良い傾向じゃねえか。アタシらの義理の息子も立派にナニつけてたってことだ。なあ、アンタ?」
「おう。アイツが女を部屋に連れ込む日をこの目に見れるとは思わなんだよ」
酒場の主人で、アヴィーの夫のロキが酒を一気に飲み干すと、大口を開けて笑顔を浮かべた。
「うんうん。いやー、アイツが目の前で煽る酒場の連中を見逃すなんてねえ。……アタシは嬉しいよ!」
「……で、実際のトコ、一体何があったんだ、ゼイン?」
ロキは髭についた水滴を袖で拭うと、ゼインに尋ねた。その目にはそれまでの快活さはなく、ただヒナタを気にかける親代わりとしての姿があった。
「実はっすね――」
ゼインは先ほどのことをかいつまんで夫妻に話し始めた。
ヒナタの部屋は極端に物が少ない、というのがイリスの第一印象だった。
「もう寝ちゃったのかな……」
まるでパーティーのような騒ぎ声に驚いて目が覚めたイリスは、自分がヒナタに背負われていることに気づいたが、なんとなく言い出せないままでいると、やがてヒナタの部屋に通された。
そしてイリスをベッドに下ろしたヒナタは、部屋の隅で毛布にくるまり眠りについた、というのが現状だ。
「…………」
ベッドに横になったイリスはヒナタの寝顔を見るともなく見る。つい数時間前に、あんなに近くで睨みつけられた時はただ怖いと思ったけれど、今ここで無防備に眠る青年の姿は、あどけなさを残しているという印象を受けた。
「……っ!」
いつの間にかまじまじと男性の寝顔を見つめてしまっていたことに気づき、慌てて首を横に振ると、イリスは改めて視線を部屋全体へと移した。
「剣がある。……やっぱりリュコスなんだ……」
リュコスは野蛮な殺し屋だ、と以前に誰かが噂していたことを思い出す。
剣。殺し屋。――安直な死のイメージがイリスの脳裏に浮かんだ。
「あのまま、死んじゃえば良かったのかな」
ポツリと、イリスの独り言がむなしく響いた。
あのまま。あのまま剣に心臓を貫かれ、命を終えれば。
「そしたら、もう一人ぼっちじゃないよね……」
天国のお母さんとお父さんに会えるかもしれない。
「…………」
ヒナタは、荒れ果てた地で死ぬのか、その地を捨てて生きるのかを選ばせてくれた。
そして、イリスは生きることを選んだ。
……選んだならば、それだけでもう十分じゃないか、とイリスは思った。大きな前進だろう。
あの場所から連れ出してくれたヒナタに、もうこれ以上は迷惑をかけたくない。
一人ぼっちは嫌だけれど、誰かに迷惑をかけるのは……もっと嫌だ。
「……行こう。私はここにいちゃいけない……」
「そうやって自分に言い訳をして逃げるのか?」
「ひゃっ!」
全く予想していなかった声に、イリスは思わず小さく悲鳴を上げてしまった。慌てて毛布を手繰り寄せ、頭からすっぽりとかぶって、恐る恐るその声の持ち主――ヒナタに意識を向けた。
「あ、あなた起きてたのっ?」
「眠りは浅いんでね。最初から丸聞こえだ。独り言なら余所でしてくれ」
「うぅ……」
「で、何だ? お前、死にたいのか?」
「……だって、死んだら一人ぼっちじゃないもの」
イリスは拗ねた口調で言う。毛布をかぶっているのでヒナタの顔は見えない。
「死んだら一人ぼっちじゃないって、本気で思ってるのか?」
「……うん」
「じゃあ、何だ?……お前が死んだら天国に行って、で、そこでは両親が手ぇ振ってて、よく来たねー、待ってたよー、なんて言って歓迎してくれるとか思ってるってわけ?」
「……思ってない! そんなこと思ってなんか、いないっ!」
思っていない。本当は天国なんてないことは知っている。お父さんやお母さんにはもう二度と会えないことも……知っている。
「でもっ、あなたに私の何が分かるっていうの!?」
「…………」
「みんな眠っちゃって……私だけ生きてて、たった一人で……でも、みんなの分も生きなきゃいけないって思って……生きて、生きてっ、でもやっぱり、私は一人ぼっちで……!
あなたなんかに……分かるわけがないでしょ!」
「…………」
ヒナタは何も答えない。……当たり前だ。こんな酷い八つ当たりをする子供なんか、相手にしたくないに決まっている。
「ひっく……ひっく……」
いつの間にかイリスの頬を涙が濡らしていた。
情けない。情けない。こんなに弱い自分が許せない。
「気負いすぎなんだよ……お前は」
「え……?」
――体に温もりを感じていた。一人では決して感じられない温もり。
「なんで……」
イリスは、ヒナタに抱きしめられていた。
毛布の上から彼の熱が伝わる。柔らかな心地に思わず身を委ねてしまいたくなる。
「離してよ……ねえ、離してってば」
震える声で、想いと裏返しの言葉を投げる。
しかし、ヒナタの手は離してくれない。イリスを一人ぼっちにしてくれない。
「お前はさ、まだ子供なんだよ。俺だって大した年じゃねえけどさ……子供ってのは、もっと思ったことを素直に言って良いと思うんだ。
確かに俺はお前のことなんか、ほとんど分からねえよ。当たり前だろ? 会って四時間くらいしか経ってねえんだ。……だから、お前が何であんな所にいたのかとか、お前の両親がどうして死んだのかなんてのは知るはずもねえ。……けどな」
腰にまわされたヒナタの腕の力が強くなる。
「けど、お前は一人ぼっちは苦しいと言った。俺に、一人にしないでくれと泣きついた。アレは嘘だったのか?」
「違うっ」
それだけは、違う。イリスは強く否定する。あれは、あの時ヒナタにぶつけた感情は、紛れもない本心だ。嘘であるはずなどない。
「だろ?……そのことだけは知っている。分かっているんだよ。
だから、頼れよ。思ったことは言えよ。目の前にいるのは初対面で、勘違いして人を危うく殺しかけるような間抜けで、しかもお節介――そんな、少しも気を遣う必要がねえ人間だろ? 迷惑かけるのに、何を躊躇う必要があるってんだ? なんなら、わがままだって言ってみせたって良いんだぜ?」
「……そんなこと」
そんなことを言われたら、頼りたくなってしまうではないか。
わがままだって言ってみたくなってしまうではないか。
「もっと……」
「ん?」
イリスは毛布から頭を出した。自分だけの世界に閉じこもることをやめた。
「もっと、強く抱きしめてよ……ヒナタ」
「……ああ」
だから、わがままだって言ってみせる。