12
消えそうなほど薄く掠れた最後の文字を噛みしめ、イリスは手紙に涙の粒を落とした。
「ユレダ、おじいちゃん……」
読み終えたイリスの胸は、言葉にできないほどの感情で満たされていた。
罪悪感、喪失感、悲しさ、空しさ、切なさ――そのどれでもあって、そのどれでもないような。
そんな色んな感情が混ざり合った心の熱が体を巡る。
――ユレダの人生に、思い残しはあっても後悔は決してなかった。
そのことがこれらの手紙から痛いほどに伝わってくる。
「アヴィーさん、私……っ……」
イリスは涙を袖で拭うと、目を固く閉じ、これ以上は流さないようにした。ユレダはもう泣いてはいけないと言ったから。だから、もう泣かない。泣いてはいけない。
そんなイリスをアヴィーがそっと抱きしめた。
「ここの酒場に来る連中はみんなユレダと同じさ……みんなリュコスであるヒナタに……救いを求めている。自分が眠っちまった後のことは、ヒナタに委ねているんだ。誰かのために自分の命を終わらせる――そんな覚悟をしているヤツらばかりさ。
ヒナタはその依頼を全て受け、アイツが気に入ってる人の命も全部……自分の手で終わらせているんだ。……まだガキと言われてもおかしくない年齢のヒナタに、どんなに辛い葛藤があるのか……こんなちっぽけなアタシには到底理解できないよ。
……でもね、アタシは誰もアイツを責める権利はないと思うんだ。ヒナタはもう十分すぎるほどの罰を受けている。だって、たった一人で、幾つもの命の重みを生涯抱えて行かなきゃいけないんだから。傷つき、恨まれ、それでも……それでもアイツは生きなきゃいけないと言っていた。それがリュコスだと」
やっと。
やっと、ヒナタという人間を少しだけ理解することができた。
なんだ……いつかヒナタ自身が言っていた通りじゃないか。
結局は、お節介なのだ。
困っている人を、救いを求めている人を見過ごすことができないから。
だから、その手伝いをしている。少しだけ。
――誰かのため。
自分のことは無頓着で。
いつも傷ついてばかりで。
それでも投げ出さず。
――誰かのため。
誰かの望みを叶えるため。
たとえそれが自分を殺してくれという悲壮な願いであっても。
その命を、罪を、罰を、全て負ってでも。
――誰かのため。
そんなヒナタだから、イリスはきっと――。
「……私でも」
アヴィーの胸を借り、イリスは言う。
ヒナタは、誰かのために。――それならば。
「……私でも、ヒナタの重みを預けてもらえるかな」
イリスは、ヒナタのために。
「……きっと。いや、必ず」
「アヴィーさん……私、行かなきゃ」
イリスはアヴィーの胸から顔を離し、決意を込めた眼差しでアヴィーに告げた。
「ああ。行っといで」
アヴィーに優しく、しかし頼もしく背中を押され、イリスは走り出した。
はやる気持ちを抑えることができず、二階から一階へ階段を跳ねるように下りる。一秒でも早く、ヒナタに会いたい。今はそれだけだ。
「だから、ヒナタがヤベえんだ……!」
――しかし、店で誰かが必死に叫ぶ声を聞き、イリスは思わず階段の途中で足を止めた。
物影から様子を見る。そこには血相を変えて叫ぶゼインと、それに応じるロキの姿があった。
「だから、ヒナタがヤベえんだ……!」
突如として酒場に飛び込んできたゼインの姿は、ロキの目から見ても一目で異常だと分かるほどだった。
「ゼイン、落ち着け! ちゃんと最初から説明ねえと分かんねえだろうが!」
ロキが力強くカウンターを叩くと、ゼインが我を取り戻した様子で頭を下げた。
「あ、ああ。……悪い、ロキさん。もう大丈夫だ。
良いか、店にいる連中も聞いてくれ。――ヒナタがヤベえ。たった今、南の犯罪者に襲われているんだ。俺だけ逃がされたが、そのククリ刀使いはヒナタでもヤバい気配を感じるらしい」
「南の犯罪者……ククリ刀……おい、それ、もしかして≪キニゴス≫じゃねえか!?」
店の客の一人が切羽詰った様子でそう言った。
「キニゴス?」
「ああ、南で相当な数のリュコスを殺して回ったらしい。狼を狩る者――それで付いた名が狩人だ。かなりの手練れだぞ」
「リュコス殺しだと……。ゼイン、軍の連中に連絡はしたのか?」
代表してロキが尋ねた。
「したさ!……だけどアイツら、小物の商人の言葉なんか聞きやしねえんだよっ。頼む、みんな、ヒナタを助けてくれ!」
ゼインの呼びかけに、腕に覚えのある者が立ち上がった。
「……俺は行くぞ! アイツはこんなところでやられるヤツじゃねえ!」
「ああ、そうだな。今度は俺らがアイツを助ける番だ!」
店の者が続々と立ち上がる。その数は総勢で二十名あまりにもなった。
「みんな、ありがとう。……ロキさん、どうかしたんですか?」
「む、そこに誰かがいた気が……いや、何でもねえ。気のせいだろう。俺も行くぞ」
「そうですか。じゃあ、みんな、行くぞぉ!」
ゼインの掛け声に、店中から雄叫びが上がる。
――その大きな音に一つの小さな足音は掻き消され、誰も気づくことはなかった。