桜散るころに出会っていた僕らは桜咲くときに。
一年間。
同じ教室で過ごしたクラスメイト全員の顔と名前が一致する生徒はどれだけいるのだろう。
同性だけでなく、異性も含めるならばそれは決して多くはないはずで。
だから。
「木下くん。今から帰り?」
女子からかけられた声に僕は硬直した。
扉を開けて入った教室にいたのは一人きり。名前を覚えていない女子だったから。
卒業式の日。
がらんと空いた後ろのロッカー。
きれいに並べられた教室中の机と椅子。
名残惜しく、誰も消すことの出来なかった、黒板に書かれた別れを告げる言葉たち。
高校最後の時間でのこと。
-◇-
落ち着いて考えるべきだ。
名前が分からない、なんて気まずい時間をお互いに高校最後の思い出にすべきでない。
どうにかして自然に、かつ、一年を懐かしむような会話をして別れる必要がある。
合格発表があってから数日。
存分に休んでいた頭を久方ぶりに高速で稼働させて出たはずの言葉が。
「うん。今から帰るところ。そっちは?」
これである。
『そっち』なんて。
感じが悪いにも程がある。けれども、いくら考えたって『名前を呼ばない』路線でさっさと退散するしか手は浮かばなかった。
「わたし? ……このまま帰るのなんか寂しくてさ。誰か来ないかなーって待ってたんだよね」
そう言って彼女は苦笑いした。
その、頬を人差し指で撫ぜる動きに僅かに胸が締め付けられる。
寂しさ。
それはどうしようもなく分かったからだ。
これまで真面目に耳を傾けたことのない校長の祝辞にも胸を打たれたし、教室内で別れを告げる空気のときは涙ぐみもした。
そして今、寂寥感が渦巻いた後にはまだ痺れにも似た余韻があって、それは春の嵐が去った後の、桜の花びらが散らばったアスファルトにも似ている。
「じゃあ、なんか話す? 僕でよければだけどさ」
「もちろん! ありがと」
笑顔に小さく笑みを返し、教室の中に足を踏み入れる。
そして誰かのものだった椅子に腰掛けて彼女と向き合った。
荷物を床に下ろす。
さっさと退散すべきだと思っていた脳内の舌の根も乾かないうちに。
-◇-
「『キルヒホッフね!⤴︎ これもキルヒホッフね!⤴︎』」
「あはははは! 似てるー!」
名前も覚えていない相手だというのに、目の前の女子との会話は意外なほどに盛り上がった。
物理の先生の変わった物言いも、二学期中間テストのえぐいくらいの難易度も、どれもこれも思い返せば楽しい思い出になってくれていたのだ。
それはきっとクラスの雰囲気が良かったからなのだろうと思う。
三年ともなれば誰も彼も受験に追い立てられていた訳で、幸運にもそれが共通の難題に挑むような連帯感を生む方向に作用していたのかもしれない。
「そういう空気にしてたの、木下くんだと思うよ」
「僕?」
「そうだよ。男子に勉強教えてたでしょ。『覚えた?』っていつも最後に聞いてたやつ。あれ、なんかいいなぁって思ってた」
彼女はそうやって柔らかく微笑む。
そのストレートな言葉に、顔に血が集まるのを自覚する。
「あれはまあ、うん。自分のためだよ。人に教えるのは、自分で理解できてないとこを確認できるから」
「ふふ、そう? それだけじゃなさそうだったけど」
「確かに教えるのは楽しかったけどね」
「やっぱり木下くんいい人だ」
そうして、彼女はまた僕のことを優しく話す。
それは小っ恥ずかしくて、でも嬉しくて、そしてどうしようもなく申し訳なかった。
僕といえば彼女の名前すら覚えていないのだから。それを誤魔化して話を続けているのが不誠実で。
だから。
名前が知りたかった。
けれど。
「どうかした?」
明るい声。
それはどこまでも僕にとって好ましくて、『名前を教えて』などと言って曇らせたくないものだった。
そう、さっきより強く思う。
「や、なんでもない! それよりさ……」
そうして時間は過ぎていく。
秒針も分針も、止まることなく最後の時間を進めていく。
-◇-
きゅるる、と音が鳴った。
それはちょうど会話が途切れたときで、教室内に響き渡る、彼女の腹の虫だった。
彼女の顔が赤く染まる。
ずっと楽しげでどこか余裕があるように見えた彼女のその表情は新鮮で、驚くほど可愛らしかった。
時計を見る。
いつのまにか短針は二時を回っていた。
「お腹空いたよね。そろそろ帰ろっか」
「そ、そうだね」
なんとも気の抜けた、微妙に気まずい空気。
互いにもそもそと鞄を持ち上げ、今日までに持ち帰りきれなかった荷物の入った袋を拾う。
それで終わり、なのだろうけど。
「しょ、昇降口まで。良かったら」
「う、うん」
教室を後にする。
名残惜しさはむしろ、教室より二人の間に染みついているようで。
せっかく自分から声をかけて一緒にいるというのに、この時間が壊れものみたいに感じられた。
誰もいない廊下を上履きがこする音が、ふたつ並んでやけに響く。
互いに何かを語ることもなく、あっという間に昇降口にたどり着いた。
『神崎美月』
……下駄箱には名前が書いてある。
「じゃあね、ばいばい。木下くん」
彼女はくるりと回り、手を振って去っていく。
「うん、それじゃあ。かんざきさん」
僕はそれにようやく返すことができた。
瞬間、ぴたっ、と。
彼女の動きは静止する。
じっ、とこちらを見たあと。
「あはははは!」
突然思いきり吹き出して笑い出した。
訳もわからないで曖昧に苦笑いを浮かべる僕に彼女は返す。
「そーゆー人だよね。木下くんは。……出席番号はちばん。かみさきみつき、だよ。ばいばい」
あ。
紺色のスカートがひるがえり、駆け足でどうしようもなく離れていく。
踏み出した自分の足は情けないほどに鈍足だ。
名前を覚えていなかった僕に、いまさら何も言えることなんてあるはずもない。
それでもどうしようもなく曖昧なままに足は歩いて。
陽の光に照らされたかみさきさんが、いまだ建物のなか、薄暗いところにいる僕へ振り返る。
そして。
「……『覚えた?』」
ああ、なんて強烈な。
痛みとともに刻まれた彼女の名前。
それが。
神崎美月との、始まりの記憶だった。




