第十九話 残ったもの
俺が倒れたのは、その直後だった。
意識が沈む。
遠くで誰かの声が聞こえる。
「先生呼んで!」
「神谷くん!」
その中に。
凛の声が混ざっていた。
目を開ける。
ぼやけた視界の向こう。
凛が泣いていた。
「なんで……」
震える声。
「なんで私、こんな苦しいの……」
覚えていないはずなのに。
知らないはずなのに。
凛の涙は止まらない。
「嫌……」
俺の手を掴む。
「この人、失いたくない……!」
その言葉だけで。
十分だった。
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冬の空気は冷たかった。
吐いた息が白く滲んで、すぐに消える。
駅前の並木道を、俺はゆっくり歩いていた。
「……っ」
小さく咳が漏れる。
胸の奥が痛む感覚は、退院した今でも残っていた。
医者には言われている。
完治ではない、と。
原因不明の後遺症。
体力は以前よりずっと落ちた。
少し走るだけで息が切れるし、寒い日は特に調子が悪い。
それでも。
生きていた。
あの日、死神との契約は終わった。
凛の病は消えたわけじゃない。
正確には、“俺が引き受け切った”。
その代わり。
俺の身体には、確かに傷が残った。
でも後悔はない。
本当に、それだけは一度もなかった。
雪が降り始める。
白い粒が街灯の光をゆっくり横切っていく。
その時だった。
「あ」
聞き覚えのある声。
反射的に顔を上げる。
少し離れた場所で、マフラーに顔を埋めた凛が立ち止まっていた。
心臓が、小さく跳ねる。
凛は俺を見る。
少し不思議そうに。
でもどこか、目を離せないみたいに。
「……こんにちは」
「こんにちは」
短い沈黙。
雪の音だけが静かに落ちていく。
「えっと……」
凛は困ったように笑った。
「どこかで会ったこと、ありますか?」
胸が少し痛んだ。
でも。
あの日みたいな絶望じゃない。
もう分かっているから。
記憶は戻らない。
戻せない。
俺たちが過ごした時間も。
帰り道も。
花火大会も。
全部、凛の中にはない。
それでも。
「……どうだろうな」
そう答えると、凛は小さく吹き出した。
「変な人」
「よく言われる」
「あはは」
その笑い方が。
昔と少しだけ同じだった。
胸の奥が、静かに熱くなる。
「……なんでだろ」
「ん?」
「初めて会った気が、しないんです」
凛は不思議そうに自分の胸元を押さえる。
「なんか、安心するっていうか」
雪が肩に積もっていく。
街は静かだった。
なのに。
俺の心臓だけが、うるさいくらい鳴っている。
「それ、ナンパだったら嬉しいんだけどな」
冗談っぽく言うと、凛は少し目を丸くして。
それから笑った。
「違いますよ」
「違うのか」
「でも……」
凛は少し迷って。
小さく息を吐いた。
「また会いたい、とは思いました」
その言葉だけで。
全部、救われた気がした。
忘れられた痛みも。
一人だった時間も。
全部。
無駄じゃなかったと思えた。
「じゃあ」
俺は少しだけ笑う。
「また会おうか」
「はい」
凛も笑った。
雪の中。
その笑顔だけが、やけに鮮明に見えた。
帰り道は、もう前とは違う。
失ったものもある。
戻らないものもある。
それでも。
もしまた最初からになったとしても。
きっと俺は。
また君を好きになる。
そして多分。
君も。
「湊ー、遅い」
不意に。
凛がそう言った。
時間が止まる。
「あ……」
凛自身も驚いたように目を見開く。
「え、なんで私……」
“湊”と。
昔みたいに。
自然に。
俺の名前を呼んでいた。
胸が熱くなる。
泣きそうになる。
でも。
言葉が出なかった。
凛は困ったように笑う。
「ごめんなさい、なんか自然に出ちゃって……」
「……いや」
震えそうになる声を押さえて。
俺は笑った。
「その呼び方、結構好きかも」
すると凛は、少し照れたみたいに笑う。
「じゃあ、これからそう呼びますね」
雪は静かに降り続いていた。
白く染まっていく世界の中。
俺たちはまた。
少しずつ。
最初から、始まっていく。




