EP 9
兵糧攻めの恐怖と、覚悟の配給制
開戦から一週間後。2027年8月下旬。
日本の景色は、地獄に様変わりしていた。
為替相場は1ドル=300円を突破し、事実上の紙屑と化した日本円。
物流システムと電子決済が完全に崩壊した都内では、現金をいくら積んでも水一本買えない。スーパーやコンビニの棚は数日でスッカラカンになり、暴徒化した市民が、シャッターの閉まった物流倉庫や食品工場にハンマーで殴り込みをかけていた。
『——繰り返します。政府は暴動鎮圧のため、治安出動を要請。……ああっ! カメラを回すなと怒号が飛び交い——』
テレビの音声ではない。かろうじて生きているラジオ回線から流れる悲痛な実況だ。
冷房の止まった東京。熱中症と脱水症状で、高齢者や子供が次々と倒れ、救急車すら燃料不足で動けない。
食料自給率38%、エネルギー海外依存95%の急所をドローン群に破壊された結果が、これだった。
* * *
「……総理。もはや一刻の猶予もありません」
総理官邸の地下深く、自家発電で薄暗く照らされた危機管理センター。
与党幹事長・若林幸隆は、汗染みのついたワイシャツ姿で、机に突っ伏して震える総理大臣を見下ろしていた。
「直ちに『国家非常事態法』の最終段階を発動してください。国内に残存するすべての食料、飲料水、燃料を国家の直接管理下に置きます。民間企業からの強制接収、および全国民への配給制への完全移行です」
「ば、馬鹿な! そんなことをすれば、私有財産の侵害だ! 戦時中の配給切符に戻れというのか! 暴動がさらに激化するぞ!」
「総理」
若林の声が、絶対零度の冷気を帯びた。
「死人に人権はありません。暴動を起こす元気があるうちに胃袋を縛らなければ、来週には道端に餓死者の山が築かれます。……泥を被るのが嫌なら、今すぐサインして辞表を書きなさい。あとの責任(地獄)は、私が引き受けます」
若林の放つ、永田町の妖怪としての圧倒的な凄み。
総理は泣きそうな顔でペンを震わせ、ついに非常事態宣言の書類にサインした。
若林がその書類をひったくるように手に取った瞬間、部屋の大型モニターが切り替わり、星条旗を背負った巨漢の顔が映し出された。
在日米軍トップ、ジャック・ジャスティス大将だ。
『やあ、ユキタカ。顔色が悪いな。そっちの酷暑と配給のニュースは、ペンタゴンでも話題になってるぜ』
ジャックは悪びれもせず、モニター越しにホットドッグを齧っていた。米軍基地の地下備蓄はまだ無事なのだ。その圧倒的な格差に、同席していた日本の官僚たちがギリッと歯を食いしばる。
「ジャック。嫌味を言うために暗号回線を繋いできたわけじゃないだろう。オーストラリアのホバート級駆逐艦隊と、君たちの第七艦隊の立て直しはいつ終わる」
『……タフな質問だな』
ジャックの青い瞳から、陽気なアメリカンの色が消えた。
『中国は、ミサイルの的になる大規模な艦隊を引っ込め、数万のドローン群と機雷で、日本周辺のシーレーンを完全な“死の海”に変えやがった。……ハッキリ言おう。米軍とAUKUSの主力艦隊が、インド洋を経由して日本の太平洋側に補給ルートを開き、反攻作戦に出るまで……最低でもあと【三週間】かかる』
「……三週間、だと?」
防衛省の幹部が絶望の声を上げた。
LNGの備蓄はもう底をつく。食料の配給も、一ヶ月が限界だ。
『ああ。その間、シン(坂上)の出雲艦隊と自衛隊の残存戦力には、中国のドローン群の注意を引きつける“最高のデコイ(囮)”として、最前線で血を流し続けてもらう。……日本が盾として耐えきれれば、我々が矛として敵を貫く。それが同盟の約束だろう?』
傲慢にして冷酷な、大国アメリカの論理。
日本の国土と国民の胃袋をすり潰して、米軍の反撃の時間を稼げという宣告だった。
「……ジャック」
若林は、シワくちゃになった『ピース』の箱から一本を取り出し、ジッポライターで火をつけた。
紫煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
合気道の達人である彼は、相手の巨大な「力」を正面から受け止めず、その威力を利用して相手の急所を突く。
「君たちの要求は飲もう。自衛隊は一歩も引かん。国民には草の根を食わせてでも、国体は維持する」
『……オウ。さすがは俺たちのヤクザ・ポリティシャンだ。話が早くて助か——』
「だが、タダで盾になる馬鹿はいない」
若林の眼鏡の奥の眼光が、ジャックを射抜いた。
「今すぐ、ハワイにいる太平洋艦隊の輸送船団を動かせ。積荷は弾薬じゃない。オーストラリアとアメリカ本国からかき集めた『小麦』と『大豆』、そして『燃料』だ。これを三週間後、軍艦の護衛付きで東京湾にねじ込め。一粒でも出し渋れば……私は即座に中国と単独講和を結び、在日米軍基地の電源と通信網を完全に遮断する」
『……ユキタカ、お前、アメリカ合衆国を脅迫しているのか?』
ジャックの声がドスを帯びる。
「脅迫ではない。ビジネス(同盟)の条件変更だ」
若林はニコリと、氷のような微笑を浮かべた。
「飢えた獣は、敵と味方の区別がつかなくなる。……星条旗のヤクザに、永田町の妖怪の喧嘩の作法を教えてやっているんだ。ワシントンのジジイ共にそう伝えろ」
数十秒の、息詰まるような沈黙。
やがて、ジャックは腹の底から愉快そうに笑い出した。
『……ハッハハハハ! 最高だぜ、ユキタカ! 中国のミサイルより、お前のその腹黒さの方がよっぽど恐ろしい! いいだろう、大統領の首根っこを掴んででも、補給船団をもぎ取ってきてやる。……その代わり、三週間、絶対に死ぬなよ』
通信が切れた。
若林は深く息を吐き出し、吸い殻を携帯灰皿に押し付けた。
「……ここから先は、地獄の我慢比べだ」
前線では、出雲艦隊が残りのミサイルとドローンの群れに立ち向かい。
銃後では、配給の乾パンと泥水で国民が飢えを凌ぐ。
一歩間違えれば国家が消滅する、綱渡りの三週間が始まろうとしていた。




