EP 9
希望のコンテナ、あるいは血の代償
2027年9月下旬。
灰色の空に覆われた東京湾に、地鳴りのような重低音が響き渡っていた。
空襲警報ではない。それは、全長300メートルを超える巨大なLNG(液化天然ガス)タンカーと、数万トンのアメリカ産小麦を満載した巨大ばら積み船のエンジン音だった。
船体のあちこちに、ドローンの破片や至近弾による黒焦げの傷跡を残しながらも、彼らはついに日本の『心臓』へと辿り着いたのだ。
その巨大な輸送船団の脇を固めるのは、オーストラリア海軍のホバート級駆逐艦。
イージスレーダーのアンテナはひしゃげ、艦側面には生々しい魚雷の擦過痕が残っている。彼らは太平洋の底から迫った無数の死線を、日本の『幽霊艦隊』と共にくぐり抜けてきた生還者たちだった。
「……接岸完了。陸上施設のパイプライン、接続開始。……LNG、送り込まれます」
湾岸施設のオペレーターが、涙声でマイクを握りしめた。
開戦から一ヶ月。死に絶えていた日本の血管に、再びどす黒い血液と、黄金色の血液(食料)が注入された瞬間だった。
* * *
数時間後。東京都内の坂上邸。
チカッ……チカチカッ。
リビングの天井で、一ヶ月間完全に沈黙していたLED照明が、唐突にまばゆい光を放った。
同時に、部屋の隅で鉄の箱と化していた冷蔵庫が、ブゥゥゥンという低い駆動音を立てて息を吹き返す。
「……あ」
ソファーの上で毛布に包まっていた4歳の千姫が、眩しそうに目をこすった。
「電気が……ついた」
血まみれの金属バットを抱いたまま床で仮眠をとっていた鷹人が、弾かれたように飛び起きる。
「……間に合ったのね」
窓辺で町内の『物々交換台帳』を計算していた母・恵は、ボールペンを置き、長く、本当に長い安堵の息を吐き出した。
彼女が弾き出した「町内全滅(餓死)のタイムリミット」まで、残りわずか『二日』だった。
その日の午後、地域の小学校に自衛隊のトラックが到着した。
荷台から降ろされたのは、アメリカの国旗が印字された巨大な小麦粉の袋と、大豆、そして軍用の高カロリーレーション(戦闘糧食)。
暴動寸前だった住民たちは、その茶色い紙袋にすがりつき、文字通り泣き崩れた。
「母さん。これで、俺たちの町内銀行(物々交換システム)も店じまいだな」
鷹人が、配給されたばかりの甘いピーナッツバターの缶詰を開けながら、疲れ切った顔で笑った。
だが、恵の顔は厳しかった。
彼女は元メガバンクの銀行員だ。この配給が「根本的な解決」ではないことを、誰よりも理解している。
「鷹人。これはただの『一時的なカンフル剤』よ。……日本の港はまだ半壊状態。世界の物流ルートは中国の機雷とドローンで完全に寸断されている。今回届いた物資も、持たせてせいぜい二ヶ月……。戦争が終わったわけじゃないわ」
恵の冷徹な視線は、再び真っ暗な海の方角を向いていた。
胃袋は満たされた。だが、この血みどろの物資を届けるために、海の上でどれだけの命がすり潰されたのか。
* * *
「……ジャック。船団の到着、確認した。日本国民を代表して礼を言う」
総理官邸地下。
若林幸隆は、モニター越しのジャック・ジャスティス大将に対し、深く、そして静かに頭を下げた。
永田町の妖怪が、他国の軍人に心からの敬意を示した稀有な瞬間だった。
『……顔を上げてくれ、ユキタカ。俺たちは同盟国だ』
ジャックの声は、いつもの豪快さが消え、ひどく掠れていた。彼の手元のグラスには、バーボンではなく、ただの水が注がれている。
『サカガミの“ゴースト・フリート”のクレイジーな特攻のおかげで、輸送船団の全滅は免れた。……だが、無傷とはいかなかった』
ジャックがタブレットを操作し、被害報告のリストを表示させる。
『……中国潜水艦の最後の一撃(死に際の魚雷)で、護衛についていたオーストラリア海軍のフリゲート艦『アンザック』が轟沈した。……乗組員190名、全員未帰還(MIA)だ。第七艦隊のイージス艦も一隻、大破してハワイへ後退中だ』
「……」
若林は、ゆっくりと目を閉じた。
日本国民が今日口にしているパンは、同盟国の海兵たちの血をたっぷり吸って膨らんだものなのだ。
「ジャック。オーストラリア政府と遺族への補償は、戦後、我が国が国家予算を割いてでも全額引き受ける。……私が保証する」
『……ああ。伝えておく』
ジャックは重い息を吐き出し、ホログラムの戦況マップを広げた。
『だが、ユキタカ。本当の地獄はこれからだ。中国は台湾を完全に焦土化し、今度は“日本列島そのもの”を巨大な鳥籠に閉じ込める気だ』
「鳥籠、だと?」
『太平洋側に、機雷と無人潜水艇(UUV)による【絶対封鎖線】を構築し始めた。今回のコンボイのように、強行突破は二度と通用しなくなる。さらに、北のロシアと西の北朝鮮も、国境沿いに兵力を増強している』
若林が目を見開く。
それはつまり、一ヶ月間の激戦を経て、戦争が「短期決戦」から「数年単位の泥沼の消耗戦」へと移行したことを意味していた。
『次の補給船団を送り届けるには、俺たちAUKUSと日本が束になって、中国海軍の主力艦隊と正面から殴り合い、太平洋の制海権を完全に取り戻すしかない。……艦隊決戦だ』
「……なるほど。相手の土俵(ドローン戦)から、こちらの土俵(大艦巨砲主義の現代版)へ引きずり込むわけか」
若林は、シワくちゃのピースの箱から最後の一本を取り出し、火をつけた。
血の代償を払って手に入れた、二ヶ月間の猶予。
その間に、日本は国家の生産力を極限まで高め、来たるべき『太平洋の決戦』に備えなければならない。
「……ジャック。艦隊決戦となれば、再び前線(最前列)に立つのは出雲艦隊だ。……真一たちには、休む暇もなさそうだな」
希望のコンテナが届いた夜。
それは同時に、第三次世界大戦が新たな、そして最も血生臭いフェーズへと突入したことを告げる号砲であった。




