EP 6
昼行灯の護衛任務と、空の過労死
2027年9月。フィリピン海、高度一万二千メートル。
夏の強い陽射しを浴びて、F-35Bのキャノピーは眩いほどに輝いていたが、そのコクピットの中は、この世の終わりのような惨状だった。
「……あー。……死ぬ。マジで死ぬっしょ、これ」
平上雪之丞1尉は、酸素マスクの中で、掠れた声で呻いた。
HMDの奥、その瞳は、白目が完全に真っ赤に充血し、目の下には隈が黒々と沈んでいる。
開戦から十五日間。睡眠時間の合計は、十時間に満たない。
嘉手納や那覇の基地が破壊され、滑走路が使えなくなったことで、生き残ったSTOVL(短距離離陸・垂直着陸)機である雪之丞のF-35Bには、ありとあらゆる任務が押し付けられた。
ドローン群の迎撃、敵ステルス機の狩り、そして今——太平洋を北上するAUKUS補給船団の『空の目潰し』任務。
彼は、コックピットという名の、世界で最も高価で孤独な棺桶の中で、過労死寸前のゾンビと化していた。
「……蘭ちゃん。……そこにいるんだろ。……俺、もう駄目。……可愛いキャバ嬢が、空から俺を呼んでる……」
『——雪之丞。幻覚見てんじゃねえ。生体モニターの心拍数が異常。あと二分で脳がシャットダウンするよ』
出雲のCICから、早乙女蘭の通信が入る。彼女の声もまた、寝不足と糖分不足で、普段の生意気さが消え、死人のように冷たい。
「……脳がシャットダウン……? 上等じゃねえか。……これでやっと、働かなくて済む……」
雪之丞の意識が、急速に遠のいていく。
時速一千キロで飛ぶ、F-35B。その最先端の操縦桿を握る手が、力なく解けていく。
ヘルメットの中、雪之丞の瞳から、最後の光が消えようとしていた。
『警告。敵ドローン接近。敵ドローン接近』
AIの無機質な音声。
HMDのレーダーに、高高度から補給船団を捉えようとする中国の長距離偵察ドローン(無偵-7:Soar Dragon)が二機、映し出された。
(……あ。……仕事だ。……でも、俺……もう……手が動か……)
雪之丞の意識が、プツリ、と途切れた。
過労による、脳の強制シャットダウン(気絶)。
F-35Bの機首が、力なく下を向き、超高高度から音速でフィリピン海へと墜落し始めた。
「……え」
CICで生体モニターを見ていた蘭が、息を呑んだ。
「……雪之丞! 雪之丞!! 起きて! 坠落する! ……借金大王ォォッ!!」
通信からは、雪之丞の荒い呼吸音しか聞こえない。
あと三十秒で、マッハで海面に激突する。
「……っの、クソ昼行灯が! 私の計算を、こんなところで終わらせんな!」
蘭は、咥えていたチュッパチャプスの棒を噛み砕き、コンソールに十本の指を叩きつけた。
彼女は、出雲のサーバーから雪之丞のF-35Bのシステムへ、許可なく『強制アクセス(ハッキング)』を開始した。
蘭の狙いは、機体の自動操縦への切り替えではない。……パイロット(雪之丞)そのものへの介入だ。
「脳を、強制覚醒させる。……F-35のHMD、およびフライトスーツの生体センサーに逆アクセス。……生体インプラントへの、強力な電気ショック・パルスを送信。……出力、最大!」
『警告:パイロットへの生命維持に重大な危険を及ぼす——』
「うるせえッ! 死ぬよりはマシ! ……行けェッ!!」
蘭がエンターキーを叩き割った、その瞬間。
——バチィィィィィィィンッ!!!!
高度三千メートルまで墜落していたF-35Bのコックピット内で、凄まじい放電音が響いた。
雪之丞のヘルメットと、フライトスーツに張り巡らされたセンサーから、数十万ボルトの電気ショックが、過労で眠っていた彼の脳髄と神経に、ダイレクトに叩き込まれたのだ。
「あァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
酸素マスクの中で、雪之丞が獣のような、凄絶な絶叫を上げた。
全身の筋肉が硬直を起こし、瞳孔が極限まで見開かれる。
過労の霧が、激痛という名の閃光によって一瞬で吹き飛ばされた。脳髄が、無理やり燃え上がるような熱を持った。
「……はぁっ……はぁっ……はぁっ……! ……誰が、俺の脳ミソを、焦がしやがった……!」
雪之丞が、操縦桿をギリッと握りしめた。
瞳からは、昼行灯の緩みなど一欠片も消え失せ、底知れぬ静かな怒りと、狂気が宿っていた。
電気ショックによる強制覚醒。それは、彼の寿命を削る、禁断の延命措置だった。
「……蘭。……銀座の高級寿司じゃ足りねえぞ。……閻魔大王に、最高級の酒と女を奢ってもらうからな」
雪之丞は、スロットルを全開に押し込んだ。
高度三千メートルから、F-35Bの機首が跳ね上がる。
リフトファン(推力偏向ノズル)を空中で強制作動。
ギュオォォォォンッ!!
機体は、物理法則を無視したような垂直上昇を敢行し、高高度を旋回する中国の偵察ドローン(無偵-7)の、真下から躍り出た。
「……お前ら。……俺の、貴重なサボり時間を奪ったツケは、高くつくぜ」
雪之丞の脳は、過労による幻覚と、電気ショックの激痛が混ざり合い、異常なトランス状態に陥っていた。
彼の視界には、敵ドローンが放つ電波、排気熱、空気の乱れが、すべて色鮮やかな線として見えていた。
「……あーあ。……そこ、ガラ空き」
雪之丞は、敵ドローンのレーダーの死角から、幻影のように現れ、至近距離からAIM-9Xミサイルを放った。
一機の無偵-7が、爆散する。
残る一機のドローンは、慌てて電子戦(EW)を仕掛けながら、急旋回で逃げようとした。
しかし、雪之丞は、敵のEWのノイズさえも、自分の幻覚の一部として処理し、敵ドローンの『未来位置』を、完璧に予測していた。
「……おやすみ。……ゴミクズ」
二発目のミサイルが、放たれる。
中国の誇る長距離偵察ドローンは、雪之丞の『変態空戦機動』の前には、ただの止まった的に過ぎなかった。
東シナ海の夕日に照らされて、二つ目の巨大な火柱が上がる。
AUKUS補給船団をロックオンしていた、中国軍の『空の目』が、完全に潰された瞬間だった。
『……っすっご。……借金大王、お釣り来るじゃん、それ』
通信越しに、蘭が呆れたような感嘆の声を漏らした。その声も、蘭自身が限界であることを示していた。
「……はぁ、はぁ。……脳ミソ、焦げた匂いがする。……蘭ちゃん、俺……次は……」
ミッションを完了した雪之丞の瞳から、再び光が消えようとした、その時。
HMDのレーダー画面が、今度は敵のドローンではなく、海中のAUKUS護衛艦(オーストラリア海軍・ホバート級駆逐艦)からの、緊急暗号通信で埋め尽くされた。
『——MAYDAY! MAYDAY! こちらAUKUS護衛艦! 上空の目を潰してくれたのは感謝するが……海中、海中より、異常な数の魚雷探知! ……飽和攻撃だ! ……海の底が、魚雷で埋め尽くされている!!』
「……は?」
雪之丞が、眼下の海を見下ろした。
空の目は潰した。だが、海の底に潜む暗殺者(潜水艦隊)は、すでに蘭のハッキングの前に、補給船団の未来位置を特定していたのだ。
『……司令! 補給船団の周囲、海中より、およそ百五十発の魚雷が、全方位からコンボイへ向けて殺到中! ……全滅しますッ!!』
出雲のCICのレーダー手も、絶望の悲鳴を上げた。
「……マジかよ。ドローンの次は、海の隕石の盛り合わせかよ」
過労と電気ショックで病んだ雪之丞の脳は、その絶望を前に、ただ、乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。
太平洋最大の海戦は、まだ始まったばかりだった。




