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EP 3

東京炎上と、四番打者の金属バット

 月明かりしか光源のない、東京都内の坂上邸・リビング。

 鈍く光るミズノ製の硬式用金属バットをだらりと下げた18歳の青年の足元で、頭を割られた暴徒の一人が白目を剥いて痙攣していた。

「……てめえッ! ガキの分際で舐めた真似しやがって!!」

 残された二人の男のうち、大柄な方がバールを振り上げ、咆哮とともに鷹人へ飛びかかった。

 暗闇での大立ち回り。素人なら恐怖で足がすくむか、闇雲にバットを振り回して隙を突かれる場面だ。

 だが、鷹人の目は一切の動揺を見せなかった。

 甲子園出場校がひしめく激戦区で、名門野球部の四番を張り続けた男の『動体視力』。

 150キロを超えるプロ注目の豪速球や、手元で鋭く落ちる変化球をコンマ数秒で見極めてきた鷹人にとって、素人が怒りに任せて大振りするバールの軌道など、まるでスローモーションの「止まった球」に等しかった。

「……脇が甘い。大振りすぎだ」

 鷹人はバールを紙一重のステップでかわすと同時に、強靭な下半身のバネを使って腰を鋭く回転ターンさせた。

 インコースの球をレフトスタンドへ運ぶ、完璧なスイング軌道。

 ガキィィィィンッ!!

 金属バットが、男の突き出した右膝の関節に、フルスイングでクリーンヒットした。

「アッ……ギャアアアアアアアアアアッ!?」

 膝の皿を粉砕された大柄な男が、バールを取り落とし、奇声を上げて床に転げ回る。

「ヒッ……! ば、化け物……!」

 最後に残った小柄な男が、恐怖で顔を引き攣らせた。

 仲間二人が、わずか十数秒で無力化されたのだ。男は懐からサバイバルナイフを引き抜き、半狂乱になって暗闇の中を突進してきた。

「死ねェッ!!」

 鷹人は無理に迎撃せず、クルリと背を向けてリビングから続く『廊下』へと後退した。

「逃がすかよ!」と男がリビングの敷居をまたぎ、暗い廊下へ踏み込んだ瞬間——。

 ——バチンッ!

「……あ?」

 男の足首が、見えない『何か』に強烈に引っかかった。

 鷹人が停電の直後、侵入者を想定して廊下の足首の高さにピンと張り巡らせていた、釣り用の強力なテグス(強化ナイロン糸)だ。

 前のめりにバランスを崩し、顔面からフローリングに激突する男。

 ナイフが手から滑り落ちる。

 男が呻きながら顔を上げようとした時、その鼻先に、冷たい金属バットの先端がピタリと突きつけられていた。

「俺の親父は、今この瞬間も海の上で、あんた達みたいな国民を守るために命を張ってる。……恩を仇で返すクソ野郎に、俺の家を荒らす資格はねえよ」

 鷹人は、父親である真一そっくりの、絶対零度の眼光で男を見下ろした。

「……五秒数える。仲間を引きずって消えろ。次は頭蓋骨でホームラン(場外)を打つぞ」

「ひぃぃっ! す、すまねえっ!」

 男は震え上がりながら立ち上がり、膝を押さえて泣き叫ぶ仲間を無理やり引きずって、割れた窓から逃げ出していった。

 静寂が戻ったリビング。

 カラン、と音を立てて鷹人が金属バットを床に落とした。

 彼の両手は、微かに震えていた。冷静な判断力と肉体で圧倒したとはいえ、彼は人を殺したことなどない、ただの18歳の学生なのだ。

 極限の恐怖とアドレナリンが引いていく。

「お兄ちゃん……っ!」

 暗闇の隅から、千姫が泣きながら飛びついてきた。

「怪我、ないか? 千姫、母さん」

 鷹人は震える手を隠し、妹の小さな背中を優しく撫でた。

「……ええ。ありがとう、鷹人。本当に、助かったわ」

 妻の恵が、懐中電灯のスイッチを入れ、静かに立ち上がった。

 彼女の顔には、恐怖の涙など一切浮かんでいない。あるのは、冷徹な現実を直視する『計算者』としての目だ。

「鷹人。割れた窓をソファーと本棚で塞ぎなさい。あいつら、仲間を連れて戻ってくるかもしれないわ」

「分かってる。……でも母さん、いくら俺がバットで追い払っても、キリがない。周りの家はみんな飢えてて、暴徒の数は明日にはもっと増える」

 鷹人の言う通りだった。

 物理的な暴力ディフェンスだけで家を守り切るには限界がある。敵は、何百万人という『飢えた隣人』なのだ。

「ええ。だから、戦い方を変えるのよ」

 恵は、暗闇の中で手帳を開き、ボールペンを走らせ始めた。

「今の東京では、一万円札を何枚積んでも米一粒買えない。国が配給を約束しても、末端まで届くにはまだ日数がかかる。……でも、人間は経済システムがなければ生きていけないわ。通貨が死んだなら、新しい通貨を作ればいいのよ」

 鷹人は目を丸くした。

「新しい通貨って……まさか」

「私は長年、メガバンクで法人融資と不良債権の回収をやってきたのよ。舐めないで」

 恵が、妖しく、そして力強く微笑んだ。

 暴走族の総長だった真一を尻に敷き、将官にまで押し上げた『内助の功』の真髄。

「明日、ご近所の町内会長と、生き残っている商店街の店主たちを集めなさい。……我が家に備蓄している『水』と『単三電池』、そして『抗生物質』を担保(準備金)にして、この地域一帯に強固な『物々交換のネットワーク(経済圏)』を立ち上げるわ。暴徒を力で追い払うのではなく、私たちのネットワークに入らなければ飢え死にするという【ルール】で、この街を支配するの」

 夫は海の上で、ミサイルとドローンを使って国を守る。

 妻は暗黒の東京で、銀行員の計算式と経済システムを使って家族を守る。

 マンションの窓から外を見下ろせば、あちこちで火災の煙が上がり、サイレンが鳴り響く『東京炎上』の絶望的な光景が広がっていた。

 だが、坂上家の人間は誰一人として、まだ心を折られてはいなかった。

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