魔王城の台所は今日も平和です ―最終決戦より、洗い物のほうが手強い―
魔王城の朝は、静かではない。
外は静かだ。
闇の森は息をひそめ、霧が低く這い、勇者が来る気配はまだ遠い。
問題は、城の中。
もっと言えば、台所の中だ。
「ミコ! 鍋! 鍋が足りない!」
「足りないのは鍋じゃなくて私の腕の本数です!」
私は叫びながら、煮込み鍋の蓋を押さえた。
ぐつぐつ音を立てる赤いスープが、今にも噴き上がりそうになっている。
魔王城の台所は、今日も戦場である。
そして最強の敵は、勇者ではない。
皿でもない。
洗い物だ。
……洗い物だけが、確実に増える。
⸻
私はミコ。
魔王城の台所係で、料理人で、段取り担当で、ときどき城の修理係でもある。
なんで修理係までやっているかというと、魔王城の台所には魔物が多いからだ。
悪い奴らじゃない。
ただ、手先の精密さが足りないだけ。
隣のコンロでは、骨だけのスケルトンがフライパンを振っていた。
振っているというより、勢いだけで踊らせている。
「それ、油が跳ねる! 跳ねると床が滑る! 滑ると皿が割れる! 割れると増える! 洗い物が増える!」
私は怒っていない。
事実を丁寧に列挙しているだけだ。
「ミコ、怒ってる?」
小悪魔のリリが、皿を抱えたまま首を傾げた。
この子はよく手伝う。
でも拭き残しもよくする。
「怒ってないよ。事実だよ」
私はにっこり笑って、にっこりのまま目を細めた。
台所の笑顔は、刃物より効く。
⸻
今日の予定は本来、単純だった。
朝食を作る。
昼の炊き出しを回す。
夕食の仕込みをして、夜食の準備をする。
普通なら。
ただし今日は、普通ではない。
明日、勇者一行が来る。
最終決戦だ。
城は総動員で警戒を上げ、兵は落ち着かず、幹部は会議ばかりしている。
そんな中で台所に求められるものは、ひとつ。
腹を満たせ。
士気を落とすな。
とにかく食わせろ。
つまり、皿が増える。
そして洗い物が増える。
これは、呪いだ。
⸻
「ミコ。朝食の追加だ」
台所の扉が開いて、背の高い男が入ってきた。
副官ゼル。魔王城の参謀であり兵站の鬼であり、台所の天敵である。
顔は涼しい。声も冷たい。
でも言ってる内容は、いつも熱い。無茶が熱い。
「見張り班を増やした。朝食を二十食、追加」
「二十……!?」
私は鍋の柄を握りしめた。
怒りではない。現実の重さに対する震えだ。
「食材は?」
「倉庫にある。今朝届いた箱が……」
ゼルが視線を逸らす。
嫌な予感は当たる。
「油まみれだ」
「最悪!」
私は叫んだ。
油まみれの箱は、台所の床に地獄を作る。
滑る。
割れる。
散る。
増える。
洗い物が増える。
「士気は食で決まる」
ゼルが真顔で言った。
正しいのが腹立たしい。
「士気は分かる。でも皿が増える!」
「皿洗いも士気だ」
「それは違う!」
言い返した瞬間、背後でガシャーン!と音がした。
振り向くと、スケルトンが皿を落としていた。
骨の手は、皿を持つのに向いていない。
「……ごめん」
申し訳なさそうに言う。
骨なのに。
私は深呼吸した。
優しく、丁寧に、世界を救うみたいな気持ちで。
「大丈夫。割れた皿は、もう洗わなくていいから」
スケルトンはほっとした顔をした。
そうじゃない。割らないでほしい。
⸻
「ミコ」
低い声が台所の奥から響いた。
空気が少し引き締まる。
火の音が小さくなる。
スケルトンが皿を持つ手を止める。
魔王ヴァルグが立っていた。
黒い外套。赤い目。威圧感。
立っているだけで、城の温度が下がる気がする。
……普通なら。
私は台所係だ。
魔王に怯えて料理が遅れたら、本当に終わる。
「おはようございます。朝食は粥とパン。追加で二十食です」
私は先に報告した。
魔王より先に現状を叩きつける。台所の生存戦略だ。
魔王はゆっくり頷いた。
「良い」
短い。ありがたい。
長いと要求が増える。
……と思ったら。
「甘いものはあるか」
来た。
魔王は甘いものに弱い。
強いのは魔力で、砂糖には弱い。
「あります。干し果物のタルト、夜用に仕込んでます」
「夜用?」
「決戦前夜の士気用です」
魔王は満足げに目を細めた。
怖い顔で目を細めても怖い。だが嬉しそうだ。
「よい。食後に一切れ」
「一切れなら」
私は即答した。
一切れなら洗い物は増えない。フォークが増えるだけだ。許容。
……そこで、ゼルが余計なことを言う。
「魔王様。儀式用の大鍋を用意する必要があります」
私は、魂が一瞬だけ台所から抜けた。
「……儀式用?」
「決戦前に結界を強化する。城全体に香草と塩の湯気を回す」
ゼルはさらっと言う。
さらっと言うな。湯気を回すな。
鍋が汚れる。
私は恐る恐る聞いた。
「大鍋って……どれですか」
ゼルが指したのは、台所の奥の奥。
普段使わない巨大鍋。
浴槽みたいなやつ。
「……これを、洗うの……?」
声が出なかった。
洗い物界のラスボスが、姿を現した。
魔王が静かに言った。
「必要だ」
この城で最強の呪文だ。反論が消える。
「……分かりました」
私は頷いた。
頷くしかない。
こうして、魔王城の台所は“最終決戦前日”を迎えた。
最終決戦より、洗い物のほうが手強い日を。
⸻
昼。
追加朝食と炊き出しを終えた頃には、私はもう余計な感情を切っていた。
感じると折れる。
だから無心で動く。
油まみれの箱は、案の定、床に地獄を作った。
リリが滑って転び、
スケルトンが助けようとして転び、
それを見たオーガが笑って鍋をひっくり返した。
私は笑っていない。
ただ口角が引きつっているだけだ。
「ミコ、味見していい?」
オーガが鍋の前で言う。
嫌な予感がする。
「一口だけね」
“一口だけ”は魔物界の嘘ランキング上位だ。
でも言ってしまう。私は人が良い。
オーガは一口で鍋の半分を飲んだ。
「……おいしい!」
「ありがとう。次からは口の大きさを考えてね」
「口の大きさは変えられない!」
それはそう。
だから一口だけと言うな。
⸻
私は巨大鍋の前に立った。
儀式用の大鍋。浴槽サイズ。内側にうっすら錆。
これを洗う。
鍋を洗うというより、人生を洗う。
「よし……やるか」
腕まくりをして桶に湯を張る。
洗剤は貴重品。泡立てすぎると無駄になる。無駄にすると泣く。
そこへ火の精霊サラマンダーが寄ってきた。
小さなトカゲみたいな姿で、体から熱を出している。
「ミコ、火力いる?」
「……いるけど、強すぎない程度で」
私は祈るように頼んだ。
サラマンダーは頷き、鍋の下に火を灯した。
――強すぎる火を。
「熱っ!」
湯が一気に煮えた。
泡が立つ。湯気が上がる。鍋が怒っている。
「サラマンダー! 強すぎ! 弱く! 弱くして!」
火が弱まる。
でも一度焦げた鍋底は戻らない。
黒い焦げ。
洗い物界のラスボス。
「……最終決戦、ここか」
私は呟いた。
勇者じゃない。焦げだ。
⸻
そのとき、台所の扉が、ぎい、と開いた。
冷たい空気が入る。
外の匂いがする。森の匂い。鉄の匂い。
誰かが侵入した。
私は反射で包丁を掴む。
台所係でも、ここは魔王城だ。
現れたのは三人。
剣を持った青年。
杖を持った少女。
盾を背負った大男。
勇者一行だった。
……最終決戦、前倒し。
「魔王の毒を盛る気だな!」
勇者が叫ぶ。
私は目を見開き、反射で叫び返した。
「毒より洗剤が足りない!」
会話の軸がずれた。
勇者が固まる。
「……洗剤?」
「鍋が焦げたの! こっちは命がけで焦げと戦ってるの!」
「な、何を言って……」
勇者が一歩踏み出す。
私は包丁を構える。
その瞬間。
鍋が、ぐつ、と鳴った。
焦げがさらに広がる音だった。
私の心が折れる音でもあった。
「ちょっと待って。戦いは後。鍋が先」
「は?」
勇者の声が裏返る。
「焦げると落ちない! 落ちないと湯気が回らない! 湯気が回らないと結界が弱まる! 結界が弱まると城が壊れる! 城が壊れると台所がなくなる! 台所がなくなると……私が困る!」
最後が個人的すぎた。
でも本音だ。台所は命だ。
杖の少女が、ぽつりと言う。
「……この人、魔王側なのに生活が切実……」
盾の大男が頷いた。
「敵というより、台所の人だな」
「台所の人です!」
私は胸を張った。
誇りを持って言える職業だ。
勇者が剣を下ろす。困惑のまま。
「……じゃあ、魔王はどこだ」
「会議。たぶん甘いもののこと考えてる」
「偏見が強い!」
「事実だよ!」
⸻
言い合っている間に、扉の向こうから重い足音がした。
空気が変わる。
魔王ヴァルグが現れた。
勇者が剣を構え、盾役が前に出て、魔法使いが詠唱を始める。
最終決戦の空気が台所に入ってくる。
――と思ったのに。
魔王は一言、言った。
「まず手を洗え」
勇者一行が固まった。
「は?」
勇者の声が裏返る。
「台所は清潔が基本だ。泥の靴で入るな」
勇者は剣を握ったまま足元を見る。
泥がついている。森を抜けてきたのだから当然だ。
私は大きく頷いた。
「そう。床が汚れると滑る。滑ると皿が割れる」
「皿の話ばっかりだな!」
勇者が叫ぶ。
背後から副官ゼルの声。
「皿が割れると士気が落ちる」
台所に集まりすぎだ。
最終決戦前日とはいえ集まりすぎだ。
私は包丁を置き、両手を広げた。
「とにかく、今は鍋。鍋を救わないと儀式ができない」
杖の少女が小さく聞く。
「……儀式?」
ゼルが淡々と説明した。
「結界強化だ。城が崩れたら戦い以前に全員落ちる」
勇者が眉を寄せる。
「……確かに」
盾の大男が腕を組む。
「じゃあ、鍋をどうする」
私は即答した。
「洗う」
勇者が絶望した顔をした。
「それが一番、地獄なんだよ……」
「分かる!」
敵味方を超えて握手したくなった。
洗い物だけは、誰も裏切らない。
増える方向で。
⸻
そこからの時間は、最終決戦ではなかった。
台所戦だった。
勇者は剣を置き、腕まくりをする。
盾の大男は桶を運ぶ。
杖の少女は水の魔法で湯を足す。
魔王は椅子に座って監督し、ゼルは洗い方を指示する。
「泡は立てすぎるな。無駄になる」
「すすぎが甘い。ぬめりが残る」
「角は先に落とせ。焦げが溜まる」
ゼルは本当に参謀だと思った。
敵を落とすより、焦げを落とすほうが冷徹だ。
「……ゼル、洗い物上手いんだね」
私が言うと、ゼルは視線を逸らす。
「上手いのは理論だ。実践は――」
言いかけて、ゼルの手元を見る。
皿の角度が危うい。
スポンジが滑る。
そして。
ガシャン!
ゼルが皿を割った。
台所が静かになる。
勇者も、魔王も、オーガも黙る。
ゼルが硬い声で言った。
「……事故だ」
私は優しく頷いた。
「大丈夫。割れた皿は洗わなくていいから」
慰めが今日も量産される。
この城、割れすぎだ。
みんなで巨大鍋を磨き、焦げを削り、泡をすすぎ、湯気を立てる。
気づけば鍋の内側が、少しだけ光った。
「……落ちた」
私は呟いた。
焦げが、落ちた。
世界を救うより小さい勝利。
でも私にとっては大きい勝利。
魔王が頷く。
「よし。儀式はできる」
勇者が息を吐く。
「……俺たち、何しに来たんだっけ」
杖の少女が苦笑する。
「たぶん、手を洗いに来た」
台所に、小さな笑いが広がった。
⸻
私は夜食を用意した。
今日は粥じゃない。卵のスープと、干し果物の小さなタルト。
「はい。決戦前夜の夜食」
皿を並べると、勇者が目を丸くした。
「……敵に、夜食?」
「夜食は敵味方関係ない。空腹は平等」
魔王が満足げにタルトを手に取る。
甘いものを食べる魔王は、少しだけ幼く見えた。
魔王が勇者を見て言う。
「戦いは明日でもできる」
勇者は苦笑した。
「……そうだな。今夜は腹がいっぱいだ」
ゼルが小さく頷く。
「満腹は判断を鈍らせる。だが、心を柔らかくする」
私はその言葉を聞いて、胸が少し温かくなった。
戦いの前でも、人はこうして座れる。
湯気を見て、笑える。
台所は、いつも通り回っている。
それが、平和だ。
⸻
翌朝。
城全体が緊張していた。
兵は配置につき、門は固められ、空気が重い。
でも台所だけは、いつも通りだった。
鍋が鳴る。
湯気が立つ。
皿が積まれる。
そして、洗い物が増える。
「ミコ! 決戦用の朝食、追加だ!」
ゼルが叫ぶ。
「分かってる! でも皿は増やすな!」
「増える!」
「増やすな!」
私は叫び返しながらも、笑っていた。
魔王が通りがかりに言う。
「ミコ。勝てよ」
私は鍋をかき混ぜながら答えた。
「どっちにですか? 勇者に? 洗い物に?」
魔王は一瞬だけ黙って、それから言った。
「両方だ」
私は笑った。
「……洗い物のほうが手強いですけどね」
湯気が立つ。
朝が始まる。
平和って、洗い物が終わる瞬間にある。
私はそう信じて、今日も台所を回す。
魔王城の台所は、今日も平和です。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
このお話は、
「世界の危機より、台所の危機のほうが切実」
そんな日常の強さを、魔王城でやってみた短編です。
魔王も勇者も、結局はお腹がすきます。
お腹がすくと人(と魔物)は不機嫌になります。
そして不機嫌になると、だいたい皿が割れます。
……つまり、平和の鍵は洗い物です。
ミコは大げさな英雄じゃなくて、
ただ“今日を回す”ために動いている人。
でもその手が止まったら、城は普通に困る。
そんな「生活のほうが強い」感じを書きたくて作りました。




