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魔王城の台所は今日も平和です ―最終決戦より、洗い物のほうが手強い―

作者: 星渡リン
掲載日:2026/01/27

 魔王城の朝は、静かではない。


 外は静かだ。

 闇の森は息をひそめ、霧が低く這い、勇者が来る気配はまだ遠い。


 問題は、城の中。

 もっと言えば、台所の中だ。


「ミコ! 鍋! 鍋が足りない!」


「足りないのは鍋じゃなくて私の腕の本数です!」


 私は叫びながら、煮込み鍋の蓋を押さえた。

 ぐつぐつ音を立てる赤いスープが、今にも噴き上がりそうになっている。


 魔王城の台所は、今日も戦場である。


 そして最強の敵は、勇者ではない。

 皿でもない。


 洗い物だ。


 ……洗い物だけが、確実に増える。



 私はミコ。

 魔王城の台所係で、料理人で、段取り担当で、ときどき城の修理係でもある。


 なんで修理係までやっているかというと、魔王城の台所には魔物が多いからだ。


 悪い奴らじゃない。

 ただ、手先の精密さが足りないだけ。


 隣のコンロでは、骨だけのスケルトンがフライパンを振っていた。

 振っているというより、勢いだけで踊らせている。


「それ、油が跳ねる! 跳ねると床が滑る! 滑ると皿が割れる! 割れると増える! 洗い物が増える!」


 私は怒っていない。

 事実を丁寧に列挙しているだけだ。


「ミコ、怒ってる?」


 小悪魔のリリが、皿を抱えたまま首を傾げた。

 この子はよく手伝う。

 でも拭き残しもよくする。


「怒ってないよ。事実だよ」


 私はにっこり笑って、にっこりのまま目を細めた。

 台所の笑顔は、刃物より効く。



 今日の予定は本来、単純だった。


 朝食を作る。

 昼の炊き出しを回す。

 夕食の仕込みをして、夜食の準備をする。


 普通なら。


 ただし今日は、普通ではない。


 明日、勇者一行が来る。

 最終決戦だ。

 城は総動員で警戒を上げ、兵は落ち着かず、幹部は会議ばかりしている。


 そんな中で台所に求められるものは、ひとつ。


 腹を満たせ。

 士気を落とすな。

 とにかく食わせろ。


 つまり、皿が増える。


 そして洗い物が増える。


 これは、呪いだ。



「ミコ。朝食の追加だ」


 台所の扉が開いて、背の高い男が入ってきた。

 副官ゼル。魔王城の参謀であり兵站の鬼であり、台所の天敵である。


 顔は涼しい。声も冷たい。

 でも言ってる内容は、いつも熱い。無茶が熱い。


「見張り班を増やした。朝食を二十食、追加」


「二十……!?」


 私は鍋の柄を握りしめた。

 怒りではない。現実の重さに対する震えだ。


「食材は?」


「倉庫にある。今朝届いた箱が……」


 ゼルが視線を逸らす。

 嫌な予感は当たる。


「油まみれだ」


「最悪!」


 私は叫んだ。

 油まみれの箱は、台所の床に地獄を作る。


 滑る。

 割れる。

 散る。

 増える。


 洗い物が増える。


「士気は食で決まる」


 ゼルが真顔で言った。

 正しいのが腹立たしい。


「士気は分かる。でも皿が増える!」


「皿洗いも士気だ」


「それは違う!」


 言い返した瞬間、背後でガシャーン!と音がした。


 振り向くと、スケルトンが皿を落としていた。

 骨の手は、皿を持つのに向いていない。


「……ごめん」


 申し訳なさそうに言う。

 骨なのに。


 私は深呼吸した。

 優しく、丁寧に、世界を救うみたいな気持ちで。


「大丈夫。割れた皿は、もう洗わなくていいから」


 スケルトンはほっとした顔をした。

 そうじゃない。割らないでほしい。



「ミコ」


 低い声が台所の奥から響いた。


 空気が少し引き締まる。

 火の音が小さくなる。

 スケルトンが皿を持つ手を止める。


 魔王ヴァルグが立っていた。


 黒い外套。赤い目。威圧感。

 立っているだけで、城の温度が下がる気がする。


 ……普通なら。


 私は台所係だ。

 魔王に怯えて料理が遅れたら、本当に終わる。


「おはようございます。朝食は粥とパン。追加で二十食です」


 私は先に報告した。

 魔王より先に現状を叩きつける。台所の生存戦略だ。


 魔王はゆっくり頷いた。


「良い」


 短い。ありがたい。

 長いと要求が増える。


 ……と思ったら。


「甘いものはあるか」


 来た。


 魔王は甘いものに弱い。

 強いのは魔力で、砂糖には弱い。


「あります。干し果物のタルト、夜用に仕込んでます」


「夜用?」


「決戦前夜の士気用です」


 魔王は満足げに目を細めた。

 怖い顔で目を細めても怖い。だが嬉しそうだ。


「よい。食後に一切れ」


「一切れなら」


 私は即答した。

 一切れなら洗い物は増えない。フォークが増えるだけだ。許容。


 ……そこで、ゼルが余計なことを言う。


「魔王様。儀式用の大鍋を用意する必要があります」


 私は、魂が一瞬だけ台所から抜けた。


「……儀式用?」


「決戦前に結界を強化する。城全体に香草と塩の湯気を回す」


 ゼルはさらっと言う。

 さらっと言うな。湯気を回すな。


 鍋が汚れる。


 私は恐る恐る聞いた。


「大鍋って……どれですか」


 ゼルが指したのは、台所の奥の奥。


 普段使わない巨大鍋。

 浴槽みたいなやつ。


「……これを、洗うの……?」


 声が出なかった。

 洗い物界のラスボスが、姿を現した。


 魔王が静かに言った。


「必要だ」


 この城で最強の呪文だ。反論が消える。


「……分かりました」


 私は頷いた。

 頷くしかない。


 こうして、魔王城の台所は“最終決戦前日”を迎えた。


 最終決戦より、洗い物のほうが手強い日を。



 昼。


 追加朝食と炊き出しを終えた頃には、私はもう余計な感情を切っていた。

 感じると折れる。

 だから無心で動く。


 油まみれの箱は、案の定、床に地獄を作った。


 リリが滑って転び、

 スケルトンが助けようとして転び、

 それを見たオーガが笑って鍋をひっくり返した。


 私は笑っていない。

 ただ口角が引きつっているだけだ。


「ミコ、味見していい?」


 オーガが鍋の前で言う。

 嫌な予感がする。


「一口だけね」


 “一口だけ”は魔物界の嘘ランキング上位だ。

 でも言ってしまう。私は人が良い。


 オーガは一口で鍋の半分を飲んだ。


「……おいしい!」


「ありがとう。次からは口の大きさを考えてね」


「口の大きさは変えられない!」


 それはそう。


 だから一口だけと言うな。



 私は巨大鍋の前に立った。


 儀式用の大鍋。浴槽サイズ。内側にうっすら錆。

 これを洗う。


 鍋を洗うというより、人生を洗う。


「よし……やるか」


 腕まくりをして桶に湯を張る。

 洗剤は貴重品。泡立てすぎると無駄になる。無駄にすると泣く。


 そこへ火の精霊サラマンダーが寄ってきた。

 小さなトカゲみたいな姿で、体から熱を出している。


「ミコ、火力いる?」


「……いるけど、強すぎない程度で」


 私は祈るように頼んだ。


 サラマンダーは頷き、鍋の下に火を灯した。


 ――強すぎる火を。


「熱っ!」


 湯が一気に煮えた。

 泡が立つ。湯気が上がる。鍋が怒っている。


「サラマンダー! 強すぎ! 弱く! 弱くして!」


 火が弱まる。

 でも一度焦げた鍋底は戻らない。


 黒い焦げ。

 洗い物界のラスボス。


「……最終決戦、ここか」


 私は呟いた。

 勇者じゃない。焦げだ。



 そのとき、台所の扉が、ぎい、と開いた。


 冷たい空気が入る。

 外の匂いがする。森の匂い。鉄の匂い。


 誰かが侵入した。


 私は反射で包丁を掴む。

 台所係でも、ここは魔王城だ。


 現れたのは三人。


 剣を持った青年。

 杖を持った少女。

 盾を背負った大男。


 勇者一行だった。


 ……最終決戦、前倒し。


「魔王の毒を盛る気だな!」


 勇者が叫ぶ。


 私は目を見開き、反射で叫び返した。


「毒より洗剤が足りない!」


 会話の軸がずれた。


 勇者が固まる。


「……洗剤?」


「鍋が焦げたの! こっちは命がけで焦げと戦ってるの!」


「な、何を言って……」


 勇者が一歩踏み出す。

 私は包丁を構える。


 その瞬間。


 鍋が、ぐつ、と鳴った。


 焦げがさらに広がる音だった。

 私の心が折れる音でもあった。


「ちょっと待って。戦いは後。鍋が先」


「は?」


 勇者の声が裏返る。


「焦げると落ちない! 落ちないと湯気が回らない! 湯気が回らないと結界が弱まる! 結界が弱まると城が壊れる! 城が壊れると台所がなくなる! 台所がなくなると……私が困る!」


 最後が個人的すぎた。

 でも本音だ。台所は命だ。


 杖の少女が、ぽつりと言う。


「……この人、魔王側なのに生活が切実……」


 盾の大男が頷いた。


「敵というより、台所の人だな」


「台所の人です!」


 私は胸を張った。

 誇りを持って言える職業だ。


 勇者が剣を下ろす。困惑のまま。


「……じゃあ、魔王はどこだ」


「会議。たぶん甘いもののこと考えてる」


「偏見が強い!」


「事実だよ!」



 言い合っている間に、扉の向こうから重い足音がした。

 空気が変わる。


 魔王ヴァルグが現れた。


 勇者が剣を構え、盾役が前に出て、魔法使いが詠唱を始める。

 最終決戦の空気が台所に入ってくる。


 ――と思ったのに。


 魔王は一言、言った。


「まず手を洗え」


 勇者一行が固まった。


「は?」


 勇者の声が裏返る。


「台所は清潔が基本だ。泥の靴で入るな」


 勇者は剣を握ったまま足元を見る。

 泥がついている。森を抜けてきたのだから当然だ。


 私は大きく頷いた。


「そう。床が汚れると滑る。滑ると皿が割れる」


「皿の話ばっかりだな!」


 勇者が叫ぶ。


 背後から副官ゼルの声。


「皿が割れると士気が落ちる」


 台所に集まりすぎだ。

 最終決戦前日とはいえ集まりすぎだ。


 私は包丁を置き、両手を広げた。


「とにかく、今は鍋。鍋を救わないと儀式ができない」


 杖の少女が小さく聞く。


「……儀式?」


 ゼルが淡々と説明した。


「結界強化だ。城が崩れたら戦い以前に全員落ちる」


 勇者が眉を寄せる。


「……確かに」


 盾の大男が腕を組む。


「じゃあ、鍋をどうする」


 私は即答した。


「洗う」


 勇者が絶望した顔をした。


「それが一番、地獄なんだよ……」


「分かる!」


 敵味方を超えて握手したくなった。

 洗い物だけは、誰も裏切らない。


 増える方向で。



 そこからの時間は、最終決戦ではなかった。


 台所戦だった。


 勇者は剣を置き、腕まくりをする。

 盾の大男は桶を運ぶ。

 杖の少女は水の魔法で湯を足す。

 魔王は椅子に座って監督し、ゼルは洗い方を指示する。


「泡は立てすぎるな。無駄になる」

「すすぎが甘い。ぬめりが残る」

「角は先に落とせ。焦げが溜まる」


 ゼルは本当に参謀だと思った。

 敵を落とすより、焦げを落とすほうが冷徹だ。


「……ゼル、洗い物上手いんだね」


 私が言うと、ゼルは視線を逸らす。


「上手いのは理論だ。実践は――」


 言いかけて、ゼルの手元を見る。


 皿の角度が危うい。

 スポンジが滑る。


 そして。


 ガシャン!


 ゼルが皿を割った。


 台所が静かになる。

 勇者も、魔王も、オーガも黙る。


 ゼルが硬い声で言った。


「……事故だ」


 私は優しく頷いた。


「大丈夫。割れた皿は洗わなくていいから」


 慰めが今日も量産される。

 この城、割れすぎだ。


 みんなで巨大鍋を磨き、焦げを削り、泡をすすぎ、湯気を立てる。


 気づけば鍋の内側が、少しだけ光った。


「……落ちた」


 私は呟いた。


 焦げが、落ちた。


 世界を救うより小さい勝利。

 でも私にとっては大きい勝利。


 魔王が頷く。


「よし。儀式はできる」


 勇者が息を吐く。


「……俺たち、何しに来たんだっけ」


 杖の少女が苦笑する。


「たぶん、手を洗いに来た」


 台所に、小さな笑いが広がった。



 私は夜食を用意した。

 今日は粥じゃない。卵のスープと、干し果物の小さなタルト。


「はい。決戦前夜の夜食」


 皿を並べると、勇者が目を丸くした。


「……敵に、夜食?」


「夜食は敵味方関係ない。空腹は平等」


 魔王が満足げにタルトを手に取る。

 甘いものを食べる魔王は、少しだけ幼く見えた。


 魔王が勇者を見て言う。


「戦いは明日でもできる」


 勇者は苦笑した。


「……そうだな。今夜は腹がいっぱいだ」


 ゼルが小さく頷く。


「満腹は判断を鈍らせる。だが、心を柔らかくする」


 私はその言葉を聞いて、胸が少し温かくなった。


 戦いの前でも、人はこうして座れる。

 湯気を見て、笑える。


 台所は、いつも通り回っている。

 それが、平和だ。



 翌朝。


 城全体が緊張していた。

 兵は配置につき、門は固められ、空気が重い。


 でも台所だけは、いつも通りだった。


 鍋が鳴る。

 湯気が立つ。

 皿が積まれる。


 そして、洗い物が増える。


「ミコ! 決戦用の朝食、追加だ!」


 ゼルが叫ぶ。


「分かってる! でも皿は増やすな!」


「増える!」


「増やすな!」


 私は叫び返しながらも、笑っていた。


 魔王が通りがかりに言う。


「ミコ。勝てよ」


 私は鍋をかき混ぜながら答えた。


「どっちにですか? 勇者に? 洗い物に?」


 魔王は一瞬だけ黙って、それから言った。


「両方だ」


 私は笑った。


「……洗い物のほうが手強いですけどね」


 湯気が立つ。

 朝が始まる。


 平和って、洗い物が終わる瞬間にある。


 私はそう信じて、今日も台所を回す。


 魔王城の台所は、今日も平和です。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました!


このお話は、

「世界の危機より、台所の危機のほうが切実」

そんな日常の強さを、魔王城でやってみた短編です。


魔王も勇者も、結局はお腹がすきます。

お腹がすくと人(と魔物)は不機嫌になります。

そして不機嫌になると、だいたい皿が割れます。

……つまり、平和の鍵は洗い物です。


ミコは大げさな英雄じゃなくて、

ただ“今日を回す”ために動いている人。

でもその手が止まったら、城は普通に困る。

そんな「生活のほうが強い」感じを書きたくて作りました。

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― 新着の感想 ―
今までこんなに殺伐とした戦いが果たしてあったでしょうか?ミコの気持ちがよーくわかります。負けるな勇者、諦めるな魔王、と応援したくなりました。楽しいお話ありがとうございました。
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