鏡のなかの君
やりたくない宿題が山積みになった自分の部屋から逃げるように、ぼくは屋根裏部屋にいた。ひんやりとした薄闇の中、太い梁に縄をかけ、ぐらつく木箱の上に立った。これで終わりだ。
その時、忘れられた大きな姿見が目に入った。そこに映っていたのは、ぼくではなかった。赤いワンピースを着た、おかっぱ頭の少女。ぼくのクラスの誰かより、少しだけ背が低いように見えた。彼女も、ぼくと全く同じように、梁にかけた縄に手を伸ばしていた。その瞳は、すべてを諦めた深い絶望の色をしていた。
ダメだ。衝動的にぼくは叫んでいた。
「待って!」
鏡の中の少女がびくりと肩を震わせ、虚ろな瞳でぼくを捉えた。
「……誰?」
その日から、死ぬための屋根裏部屋は、ぼくたちが生きるために会う秘密の場所になった。鏡の前に立つと、絶望の淵にいた彼女に会える。
「誰も、私のことなんて必要としてないから」
「わかるよ。ぼくも、自分が邪魔なだけだって思う」
クラスでの仲間外れのこと、苦手な給食のこと。誰にもわかってもらえない小さな悩みを、ぼくたちは鏡越しに打ち明けた。「明日も会おう」という約束が、ぼくを次の日へと繋ぎ止めた。ぼくが彼女の死を止めたあの日、彼女もまた、ぼくの命を救ってくれていたのだ。
夏休みが終わりに近づくにつれ、彼女の姿は揺らぎ、かすむようになった。最後の日、彼女の姿は今までで一番薄くなっていた。
「君がいてくれて、よかった。ぼくは、生きてみようと思う」
「私も。あなたと会えて、もう少しだけ、頑張ってみようって思えた」
彼女は泣きそうな顔で笑い、そっと鏡に手を伸ばす。ぼくも手を重ねた。冷たいガラスの奥に、確かな命の温もりを感じた。
「生きて」
「あなたも」
その言葉を最後に彼女の姿は消え、鏡には瞳に小さな光を灯したぼくが映っていた。
歳月は流れ、ぼくは大人になった。ある日、実家の整理で久しぶりにあの屋根裏部屋に上り、古いアルバムを見つけた。色褪せた写真の中に、彼女がいた。写真の中で微笑む、おかっぱ頭の少女。裏には「小学生の頃」という文字。全身に鳥肌が立った。あの少女は、若き日のおばあちゃんだったのだ。
もし、あの時、ぼくがおばあちゃんを止めなければ、ぼくもこの世界に生まれてこなかった。ぼくたちは、時を超えて互いの命を救い合ったんだ。
鏡はもう何も映さない。でも、ぼくにはわかっていた。あの夏、ぼくが繋いだ手は、ぼく自身の命そのものだったのだと。