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不可聴民


 僕がその扉を開いたとき彼女は既に退屈そうにしていた。彼女は終始そこに転がった死体を見つめて何かぶつぶつ言っていた。でも僕にはそれが聞こえなかった。僕の陳腐な耳では聞き取れなかった。

 彼女? さあ。わからない。

 この世の怠惰と汚濁の上に純白を塗り込められた部屋のなかでも彼女はひときわ真っ白な存在だった。あらゆる穢れを寄せつけない肌と、悲しみだけを帯びた紅い髪を持っていた。彼女は僕に気がつかないようだったので、僕はそっと忍び足で死体に向かって歩いていった。

 死体の名前は僕が誰より知っている。ずっと探していたのだから。

 ただ、死んでいることは少しだけ意外だった。


「はじめまして、か」


 死体からは果物を潰して魚介類と混ぜたような臭いがした。喉の奥がつんとする臭いだった。刺激臭に顔をしかめる僕に、はじめて彼女のほうから問いかけがあった。


「そこに、いるのは、だれ?」


 僕はそれをはっきりと聞きとった。


「いつから、そこに?」


 眠りたくなるような声だった。

 僕は名乗った。自分がどういう立場の人間で、どうしてここに来たのかも、この家に勝手に揚がり込んだことへの謝罪も忘れなかった。

 彼女は興味がなさそうな様子で僕の言葉を聞き、そうして僕の謝罪にけたけたと笑った。それが僕に対する嘲りか、憐みだったのか、それとも侮蔑だったかはわからない。どれにしても僕のほうで不快感を覚えることもなかった。

 僕は彼女に何か尋ねなければいけなかったのに、どうしても声が喉から先には出なかった。

 僕は彼女に何か尋ねなければいけなかったのに、どうしてもそれが何だったか思い出せなかった。

 死体のほうを見る。既に腐敗が始まって無残な姿になりつつあるが、顔の判別くらいは容易にできそうだった。それは僕がこれまで何度も確認してきた顔だ。ところどころ腐り落ちて肌は穴だらけになっており、なかの肉が覗いているけれど、まだ骨までは抉れていなかった。

 彼女はどこも見ていないようで、じっと空を見つめていた。冷たい色を湛えた瞳には光がない。海底の泥のような虚ろな眼。虚無に沈んで、それでも恍惚を思わせる眩んだ眼。

 彼女はどこを見ているのか。彼女には、どこが見えているのか。僕には知りえなかった。ただその視線が宙を彷徨うのを見ているしか。

 果たして彼女には僕が見えていただろうか?

 そして彼女はそこに転がったものが、腐り始めた人間の死体なのだと気づいているだろうか。僕には甚だ疑問だった。だって、彼女はいやに落ち着いている。相変わらずぶつぶつと呟きながら。

 僕にはそれが、言語のようには聞こえなかった。



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