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性悪論者

 僕には何もない。

 どこに行けばいいのかもわからない。ただ確実だったのは、僕の足がひたすらに後戻りのできない道へと進んでゆくことだけだ。僕にはそれを止めるすべも力もなかった。

 適当に切符を買った。適当なところで乗り換えた。

 彼女の声が耳元でがんがんと鳴り響いている。

 知らない駅で降りた。僕の挙動が何かおかしかったのか、周囲の人間がちらちらとこちらを見ている。困ったな。

 僕はどこに行くのだろう。

 彼女がじっとこちらを見ている気がする。あの、何の色も付いていない眼で。

 僕はどこに連れて行かれるのだろう。

 また乗り換えた。どんどん知らない世界に踏み込んでゆく。

 ああ、僕はどこに向かっているのだろう。

 彼女が見ている。掲示板の後ろから。地下鉄の柱の陰から。隣の車両から、階段の上から、彼女が僕を見張っている。

 僕が、彼女の呪縛から逃げ出すことのないように。

 また知らない駅で降りた。僕の挙動が何かおかしかったのか、周囲の人間がこちらをちらちらとこちらをこちらをちらちらと、ああ、鬱陶しい、見てくるのだけど、何だというのだ。僕が何をした。僕はこれから、彼女のもとへ、彼女の待つ部屋へ行かねばならないというのに。邪魔をするな。僕は、そうだ僕は彼女に謝罪して、許しを請わねばならぬのだから。どうか邪魔をしてくれるな。

 彼女の憎悪。それが僕を動かしている。

 彼女の恩赦。そのために僕は歩く。

 だから邪魔をしてくれるな。抗えない僕に希望を見せるな。それくらいなら、僕は定められたものに従って、呪われた道をひた進んだほうが楽だと思う。

 それとも彼女は僕に安息などいらないと言うだろうか。

 僕の歩調は速くなってゆく。今度はどの電車に乗ればいいだろう。掲示板の時刻表をぼんやり眺めて、この駅からいちばん遠くまで行くものを探した。終点まで乗ってゆけば何時間もかかるだろう。

 僕は財布を開いた。小銭を数えてみて、なんとなく空腹に気がついたので、缶の緑茶と菓子パンを買った。

 旅はまだ終わらない。彼女のもとに辿りつくまで。

 僕はきょろきょろと周囲を見回した。彼女はどこから僕を見守っているのだろうか。そのときちょうど電車から降りてきた人々が改札口に殺到していた。そしてその人混みから、確かに彼女がこちらを見ていた。

 (ああ)

 逃げないとも。僕はそう呟いてホームへと歩き出した。固いコンクリートの床が乱暴に足を跳ね返したが、それでも僕の歩みは靴に鉛を仕込んでいるかのようにずっしりと重かった。

 ホームについてから目的の電車が入ってくるまで僕はずっと眼球を左右に回らせていた。僕を見る人がいる。不審そうに見ている人がいる。

 僕は確かに彼女からは逃げない。けれども、もしも──もしかして僕が誰かにこの足を止められることがあったなら、そうしたら僕はもう進まなくてもよいのではないか。そう思わずにはいられない。

 僕は確かに彼女からは逃げない。逃げられない。

 けれども、僕を誰かが見つけてくれたら。彼女のもとへ行かずに済むのではないだろうか。彼女のいる地獄まで、こちらから出向かずとも。

 恐ろしいのだ。今もどこかで彼女が僕を見つめている。私がどこか違う場所へ行ってしまわないように。僕が、僕を、僕に、考えただけで恐ろしい話だ。彼女が見ている。彼女が、あの光(、)の(、)ない(、、)眼をして、僕を見ている。どこに潜んでいるのかは知らないが。

 ホームを吹き抜ける生温い風。僕は電車が停まるのを待つ。

 古い蝦茶色のシートに腰掛けて溜息をつくと、僕は窓辺に設置された簡易棚に買ったものを置いた。窓の外には人間の造った無機質な世界が広がっている。硬質で、救いのない、型抜きだらけの世界。

 けれどもこうして彼女の元へ向かう僕にとっては秩序という名の慈悲をくれる場所だ。僕が二度と戻れない場所。たとえば彼女という絶対(、、)自然(、、)と相反し、僕のような者の罪を覆い隠し、あるいは購うことさえ忘れさせて、ただ漫然と生きるだけの。

 それはあらゆる人間にとって平坦だ。つまらないかもしれないが、非情な自然(、、)よりはよほど楽だ。

 僕はどこまで行けば赦しに辿りつけるのだろう。

 僕はどこに向かうのだろう。

 どこまで行けば彼女に会えるだろう。

 どこまで行けば彼女は会ってくれるのだろう。

 缶のプルトップに爪をかけながら僕はふと車窓に眼を遣った。既に発車して久しい電車は柔らかな陽の射す竹林を抜けたところだった。田畑と山がその向こうに見えた。

 僕はぼんやり思った。そろそろ降りよう。訳もなくそう思った。

 ここが僕の終着駅だ。ここで、このどこかで彼女が待っている。

 車掌のアナウンスに従って駅に降り立った。駅には誰もいなかったので、僕は少し安心して、あるいは少し残念に思って、ゆっくりと息を吸った。急に目尻が熱くなった。

 もう終わるのか。誰にも見つけてもらえない旅が。

 荷物ですらなくなった空缶とパンの袋を駅のゴミ箱に捨てた。それから前方の道に眼を凝らすと彼女の後ろ姿が見えた。ついてこい、と言っているようだった。僕はのろのろと歩き出す。身体はひどく重たかったが、ここで留まっているわけにもいかない。彼女が僕を呼んでいる。

 考えた。どうして僕はこんなに疲れているのだろう。

 考えた。どうして僕は彼女に会おうとしているのだろう、こんなに恐ろしがっているくせに。今だって両足が震えているのに。

 考えたがわからなかった。何もかもが不可解だ。なんだってこんな思いをしなきゃならないんだ、僕が何をしたっていうんだ、僕が、僕に、僕、僕を、僕は、何をしようというんだ。この町で。

 わからないのはそれが理解の範疇を遥かに凌駕しているからだ。それは絶対的に正しく、なお優しく、かつ残酷な理。そうすることが必然であり、殊更に悪逆で、何度も繰り返し繰り返し地面に膝を衝いては泣き叫ぶということなのだ。挫折して失望して、誤って、都合よく魔が差して、またそれで自己嫌悪して卑睨して憧着して、そうしてまたいつか誰かに救いを求めるのだ。

 僕は悟ったようにぶつぶつ言った。僕には救いはないけれど、せめて恩赦が必要だった。彼女の赦しがなければならなかった。それはなにより朽ち果てそうな僕のこころのためだった。

 僕を赦せるのは世界でただ彼女ひとつ(、、、)のみ。

 その確信を以てして、僕にはまだわからなかった。きっと、どうしようもなく歩き続ける僕の足はそれを知っているのだろうが、足に尋ねたところでそれには口がないのだから答えてくれようはずもない。だから僕は空に向かってその問いを放り投げるしかできなかった。

 ──そも、彼女とは誰なのだ。

 空は非情なほど澄んだ青色をしていて、いかにも彼女そっくりだった。




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