表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

影踏紀行


 僕がこの事件の捜査にあたってからもう随分と経つね。ああ、だいたい十一年くらい前になる。

 あのころの僕はとても若かったのだよ。正義とか平和とか、そういう言葉の持つ力を無条件に信じていた。それくらい若かったのさ。それに当時は正義感が服を着て歩いているような人を先輩と呼んで崇めていたものだ。そうだな、今は交通課にいるんじゃないか、彼……少なくともあの事件のあとしばらくはそうだったはずだ。

 彼──仮に新島さんと呼ぼう、新島さんと僕はある男の行方を追っていた。とある証券会社の元社員の男だ。借金で首が回らなくなった挙げ句に会社の金を横領して、バレると同時に逃げた男。仮に吉岡と呼ぼうか。

 僕は単独で吉岡を探して某県まで足を延ばし、いくつかの目撃証言をもとにある小さな町までたどり着いた。

 本当に小さい町だった。町の出入り口は古びた木造の無人駅がひとつあるきりで、電車は多いときでも一時間に一本ほど。駅から出て見渡すと、四方は山々を背景にして寂れた集落と田畑と雑木林とがモザイクを描き、その中を縫うようにして小川が幾筋か流れているのが見える。

 僕も決して都会とは言えない土地の出なのだけれども、そこは僕の故郷よりも更に鄙びているようだった。昼間だというのに静寂に包まれた町。辺鄙な山中にあったために市町村合併の対象にさえならなかったというが、それでよく今まで財政が成り立ってきたものだと僕は思った。

 吉岡がなぜ逃亡先にその町を選んだのかはわからない。彼の出身はそこから遠く離れた他県にある港町だった。僕は可能なかぎり彼の経歴を調べたが、それで僕がひとつも見落とさずにいたとしたら、吉岡が以前にこの町を訪れたことなど一度としてないはずなのだ。

 なんの接点もない土地を選んだのは、捜索の眼を逃れるためだろうか。それとも闇雲に逃げ回るうちに迷い込んでしまったのかも知れない。

 目撃者たちによれば、吉岡はいつも何かに怯えているようにしていたらしかった。挙動不審なので眼に留まったのだと証言する人も出てきたくらいだ。僕はそれでも、故郷から離れた場所へと彼が向かったのは、彼なりに故郷への償いの気持ちがあったのではないかと思っていた。というのも僕がその町に着く三日前、彼の母親からこんな話を聞いたからだ。


『刑事さん……黙っちょってごめんなさいね、本当は、昨夜あん子がら電話あっだんですよ』

『電話? それで息子さんは何と?』

『いえね。公衆電話だったし、何とも言わねで……んだども名前をね、呼んでみだらすぐでふっつり切れでしまって、それぎり』


 実年齢より老けて見える母親の右眼は、白っぽい色に濁っていたが、それでもなお美しかった。


『ども私は、あん子だったと思います。……合わす顔がねえんでしょうね』


 僕は思ったのだ。逃亡中で、時間的にも精神的にも切羽詰まっていただろう吉岡が、時間を割いても自宅に電話したというのなら、故郷に帰らない覚悟でもして、せめて最後に家族の声を聞きたかったのではないだろうかと。そして謝罪のひとつも言いたかったのではないだろうかとも。

 どのみち吉岡の逃走経路は故郷とはかけ離れた方角に延びていった。よりによってこんな田舎の山奥に。

 この選択が彼にとって吉と出るか、それとも僕にとって吉と出るかはまだわからなかった。吉岡はどこでどうしているのだろう。本数の少ない路線を使って電車で逃げるのはリスクが大きいが、吉岡にはそれ以外にこの町を脱出する手段はないはずだ。

 僕は写真を片手に民家を訪ねて回った。過疎化も進んでおり世帯数はそう多くはないが、何しろ人家は小さな集落を造ってあちらこちらに散在している。かといってのんびり聞きこみをやっていたらいつ吉岡に気取られるかもわからない。それなりに辛い作業になった。けれども情報は得られたから良しとしよう。

 不審な人物が「白い屋根の家」に入っていくのを見た、と川沿いに住む老人が言った。僕が持参した吉岡の写真をためつすがめつしてから、確かにこの人だった、きょろきょろして落ち着かない様子だったので気になっていたんだ、と。

 白い屋根の家というのは探さなくてもすぐに見つかった。山の深緑のなかにぽっかりとその一角が覗いているので嫌でも目立つ。またどうしてそんなわかりやすい場所を選んだのだろう。吉岡はもしかしたら僕にさっさと見つけてほしいのではなかろうか。話を聞くかぎり怯えっぱなしの逃亡だというし、いっそ早くお縄にかかったほうが彼の気も楽になるんではないか。

 そんなことを思いつつ、僕は一晩はさんでから白い屋根の家へ向かった。

 冷たい感じのする家だった。屋根どころか壁という壁が真っ白に塗りつくされ、窓という窓が白いテープで封じられていた。普通の家でないことはすぐにわかった。

 誰が住んでいるのかはわからない、とここの町民でさえ言っていたが、こんな家にそもそも人が住んでいるものだろうか。住んでいたところでまともな人間だと思えない。真っ白な外装がすでに病的な様相を醸し出している。

 玄関にはインターホンの類がついていなかった。鍵もかかっていなかった。僕は静かに扉を開け、足音が鳴らないように神経を尖らせながら進んだ。

 外装があれなので内装もどんなものか不安だったが、意外にもごく普通の洋風の一軒家といった感じだった。開けた玄関は小ぶりながらホールのようだ。向かって右側にはビニールテープで封じられた階段、左側には形も色もそっくりな扉がふたつ並んでいる。扉にはそれぞれ文字の書かれた木製の板がぶら下がっていたが、どちらも消えかかっていて読むことはできず、そのうえしっかりと施錠されていた。

 僕は階段の下へ行った。テープはぼろぼろだ。見上げると二階の様子がかすかに見えた。いくつかの扉が規則的に並んだありきたりな光景。僕はその中のひとつが気にかかった。

 どれも一階にあるそれとよく似た木製の扉なのだが、最奥にあるものはそうではなかった。……外装と同じ白に塗られていた。

 そこか。僕は思った。吉岡はそこにいるのか。根拠も何もなかったが、僕はほとんど確信していた。

 吉岡、おまえはそこで、まだ会ったこともない僕を待っているんだな、と。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ