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「――――笑いにきたのか」
剥き出しの石壁に、無骨な鎖で繋がれた男が一人。
かつては天の川のようだと例えられた美しかった銀糸の髪は見るも無残に乱され、身に纏わされているのが麻よりも質に劣るだろう罪人の貫頭衣一枚だけであるにも関わらず、その双眼に宿る意思の強さは欠片も損なわれていない。かつて―――この国の王太子であった頃のままである。
その事実に、男の前へ影を落とした彼女は、ほんの少しだけ瞼を閉ざした。
「いいえ。」
緩く、首を振った彼女の耳に飾られた翡翠の装飾が、シャラリと優雅な音を奏でる。
「ならば、何をしに来た」
そなたのような身分の者が、態々このようなところに来る必要などないだろう。
言外に告げる突き放すような視線の棘を受け止める彼女は、その響きの懐かしさを味わうかのように口角を僅かに緩めた。
「最期に、」
あなたと夢の話をしたくて。
まだ無邪気で居られたあの幼い頃のように、綻ばせた唇から言葉を綴る彼女。
夢、と聞いた彼の肩は小さく揺れた。その僅かな変化だけでも、充分であったというのに。
「――――私の抱く夢は変わらない」
語るまでもない。と、告げたその一言が。
無意識だったのだろう、それまで合わさることのなかったその瞳が、鉄格子越しに佇む自分を見てくれた。その事実が。
空ろに欠けていくばかりであった何かを、あっという間に満たしていく。その感覚に。
飲み込むつもりが、飲み込まれてしまいそうになる。
崩れ落ちそうになる足元を踏みしめながら、やはりあなたにはかなわないわ、と言葉にせず呟いた彼女は、微笑んだ。
鎖に繋がれた彼の名前は、ジェイド。ジェイド・モンド。
古来より続く太陽の国モンドを治める王家の1人であり、次代を継ぐ誉れ高き王太子であった男。
しかして、その高潔な魂も愛と言う欲には敵わず、愚かにも溺れ落ちた果て。長年の婚約者を蔑ろにした挙句、無実の罪を着せようと試みたことにより、多くの貴族・市民の反感を買った。それがきっかけに発覚した腐敗した王家とそれを良しとする一部貴族の不祥事の数々。
怒れる国民達とその旗印として立ち上った王家の血を引く青年の手により囚われた彼含む現王家一族は、満場一致で処刑が決まった。
その最期の日、罵詈雑言の嵐の中、断頭台の露と成り果てるその一瞬まで、彼は己が正しいという姿勢を崩すことは無かったと、後世にまで伝えられている。
翡翠の装飾を耳に飾る彼女の名前は、ディアマンテ・シア。
堕落した王太子と後世に名を残すことになるジェイドの婚約者であった、モンド王国筆頭貴族が第二席シア侯爵家の長女。であり、後にポイボス王国の初代王となる革命軍リーダーの妻に望まれ、王妃の座に着いた少女でもある。
生涯を複雑に絡み合った糸の上で、生まれたときから定められていた己の役割を演じきった彼女の最期は、物語にまでなった。まだ未熟であった王の座を狙う邪な存在から身を挺して庇い、命を落とした勇敢なる王妃として。
そんな彼女が遺したとされる有名な台詞は、「あなたの瞳と同じ、海が見たい」であるが、これは後世に物語として伝わる中で変化されたものである。
最近発見された、当時のメイドが書き遺したとされる日記によれば、彼女が最期に発した言葉は―――
「やっと私も見れるのですね。あなたの瞳と同じ、アイスブルーの海を……」
これは余談であるが、現存する肖像画が正しければ、彼女の夫となった男の瞳は翡翠色であり、アイスブルーではない。そして、もう一人。伝えられているモンド王国最後の王太子であった男の瞳は、かつては宝石の如く美しいと称えられたほど綺麗な淡青の瞳をしていたそうな。