不老不死と彼女の同一性証明
「ねぇ、星君。これ知ってる?」
彼女がポケットから取り出したのは、小さなナイロンの袋だった。中には、真っ赤な鮮血を思わせる粉末が入っている。質量にして、二十グラムくらいだろうか。
「なにそれ?」
「辰砂っていう、鉱石を粉にしたもの」
「辰砂?」
「うん。現代では水銀の原材料だったり、インクの材料だったりに使われるの。昔の中国では、不老不死の薬みたいに言われてたらしいよ」
そう言って、すでに誰も居ない教室の窓から差し込む夕日に、その小さな袋を当てた。世界の終わりを想像させるような鮮やかなオレンジ色と、辰砂の紅が相まって、キラキラと光る。
袋を持ち上げた彼女の腕、その裾が重力に引かれ、真っ白な手首が顕になった。肌にはミミズ腫れのような線が何本も刻まれている。人によっては痛々しくも感じるだろうその疵痕が、僕にはなんとも美しく思えた。
「賢者の石、なんて呼ばれていたりもしたんだって」彼女が笑う。「賢者なんて笑っちゃうよね」
賢者という人間が現代に存在するのであればどのような人間なのだろうか。僕は思いを馳せる。しかし、数秒ほど考えても、その具体像は見えてこない。少しだけ鼻を鳴らした。
「綺麗……」うっとりと彼女が袋に詰められたその粉末を見遣る。「どうして毒が含まれているものってこんなに綺麗なんだろうね」恍惚としたその声に、僕は肩を竦める。
毒物に対して美しいと感じるその感性が僕には理解しがたかったからだ。だけれども、彼女がそのように感じる理由。そこに至るロジックについては推測できた。
「きっと、死を連想させるからじゃないかな? ほら、辰砂だってまるで血の色だ」
「そうだね、星君。きっとそう」彼女が笑う。「これを飲んだら本当に不老不死になれるのかな?」
「なれないんじゃないかな?」
「星君はロマンが無いなぁ」振り返った彼女の目は、猫のように細められていた。口角がつり上がっていて、心底愉快だという感情がひしひしと伝わってくる。彼女は時折僕に向かってこんな顔を見せる。はっきりとした理由はわからない。ただ、自身の感性とは全く違う僕という存在が、彼女にとっては愉快なのだろう。
とは言え、彼女の感性に共感できる人間なんてそう多くはないだろう。僕は大勢いるそんな人間の一人だ。なのにどうして、彼女と親しげに話しているのか。僕にとっても最大の謎だ。
彼女は死に取り憑かれている。それは、彼女と親しくなって、しばらくしてから実感した事実だ。いや、事実ではなく、単なる僕の推測なのかもしれない。美しくもどこか儚げな彼女の雰囲気から、僕が勝手に感じたものなのかもしれない。けれども、僕はそれが確かに事実であると確信していた。理由はわからない。
彼女のプロファイルだけ列挙すると、そんな特殊な感性を持つような人間には思えないだろう。一人っ子。両親は存命。父親はテレビのコマーシャルに出るほど有名な会社の部長とのことだ。一度だけ彼女の家にお邪魔した際、会ったことがある。温厚で、ともすれば優柔不断とも思えるような話し方をする方だった。
母親は専業主婦。今の時代、専業主婦という立場の女性は珍しい。僕の両親だって共働きだ。少し神経質そうな顔つきが印象的ではあったが、話してみるとそうでもなく、ごくごく普通の中年女性だった。
八年前に住宅ローンを借りて建てたのだという一戸建ては、それなりに広く、ゴールデンレトリバーを一匹室内飼いしている。人懐っこく、初めて会った僕にも尻尾を降って寄り添ってきたものだ。犬が苦手だったので、少しばかり腰が引けてしまったことが記憶に新しい。
リビングにはアップライトピアノが置かれており、彼女が少し照れながらその腕前を披露してくれたっけか。ピアノの演奏に対する審美眼――音を聞いているのに審美眼というのはなんとも奇妙に感じる――なんて持ち合わせていないが、それでも彼女の演奏の腕は確かなものだった。細い指が鍵盤を叩いて、綺麗なハーモニーが奏でられる様に感動さえ覚えたものだ。
そう。彼女はなんのことはない普通の人間だ。
そんな彼女がどうして、こうも「死」という現象に取り憑かれているのか、僕には全く理解できない。
一度だけ聞いてみたことがある。
「桐川さんは、どうして手首を切るの?」、と。
彼女は自慢げに微笑んで。
「それが私の自己表現なの」と答えた。
自傷することが、どうして自己表現になるのかさっぱりわからなかったものだ。
「ええっと……」
「星君。私は別に死にたくて手首を切ってるわけじゃないわ」
「じゃあどうして?」
「うーん。なんでだろう。私にもわからない」
彼女にわからないのであれば、僕にもわかるはずがない。
「……でもね。私思うの。『死』って、究極の自己実現なんじゃないかって」
「え?」
「聞き返さないでよ。恥ずかしい」
「ごめん」
照れたように、彼女が笑った。
「人間はね、死ぬことが許されてるの。それは誰にも犯し難い権利なのよ。自分で死を選んで、それを実行するのは、人間という高度な知的生命体にだけ許された特権だと思うの」
「うーん、よくわからないな」
「わからないだろうね」そう言って彼女はまた笑った。「わかってもらおうと思って話してないもの」
「他人に理解されないのは、寂しくはない?」ふと思いついた疑問が口から出た。
「思ってないわ。だって、他人のことを理解できるなんて思い上がり、傲慢だとは思わない? 私に限らないわ。自分のことを理解できる人間なんてこの世には存在しない。自分自身でさえ理解できないのだから、他人のことなんてもっとわからないわ」そう告げる彼女の顔は、なんとも晴れやかな笑顔だった。
その時だっただろうか。彼女は僕とは違う精神性で生きているのだ、と。そう認識したのは。
「ねぇ、星君」気づくと彼女が僕を見つめていた。
「なぁに? 桐川さん」
「星君は、自分のことを普通だと思う?」
何を当たり前のことを言っているのだろうか。
「いや、普通じゃないかな?」
「普通ってなぁに?」
「……それは……。わからないな」
「そうよね。これは持論なんだけどね」彼女がくるりと回った。「普通って酷く残酷な概念だと思うの」
「残酷?」僕は何も考えずにただただ聞き返した。「残酷ってどういうこと?」
「普通に生きるのって、結構難しいものよ」
「……そうかな?」
「そうよ」そういった彼女は寂しそうに笑った。いや、それすらも僕の錯覚だったのかも知れない。
それっきり会話が途切れる。
彼女はナイロンの袋に入った辰砂を夕日に透かしてうっとりとしている。
僕は特に彼女と話す内容もなく、ぼうっとそれを見ていた。
僕は人見知りだ。他人と話すということが酷く苦痛に思えて仕方がない。そうは言っても、「人見知り」というレッテルは、酷くありふれたもので、僕と同じような性質を持つ人間なんていくらでもいるだろう。
人見知りとジャンル分けされる人間は、得てして沈黙が苦手だ。誰かと二人きりでいる時。いや、複数人でいるときでさえ。会話が途切れるという状況に対して過剰に敏感だ。
だが、彼女との間にはそれはない。親しい人間とは沈黙が苦痛ではなくなると、よく言うものだが、彼女とそこまで親しいかと言われると疑問が残る。僕と彼女の関係。それは、一ヶ月に一回、夕暮れの教室で少しばかり話す。その程度だ。
彼女の家に一度だけお邪魔したのも、単なる成り行きだ。特別な意味は無い。偶然彼女の家の目の前で遭遇して、少しばかり話し込んでしまい、辺りが暗くなってしまったのだ。そんなところに彼女の父親が帰ってきた。お人好しを絵に描いたような彼から「夕飯でも食べていきなさい」と言われ、遠慮するのも不躾かと思い、了承した。それだけだ。
だから、僕は彼女とは特別親しい間柄だとは思ってはいないし、彼女もそうは思っていないだろう。普段から連絡を取り合うわけでもない。別にお互い恋愛感情だとか、そういった類のものを抱いているわけでもない。
にも関わらず、時折彼女との間に訪れる沈黙。そこに僕は苦痛を感じたことはない。
これが他の人間であれば、「なんとか話題を探さなければ」だとか思って、頭を高速回転させるに違いない。大体その努力は変な方向に空回りして、おかしな空気を生み出してしまったりするものだ。
数十分程そんな時間が過ぎただろうか。窓から差し込む夕日も、鮮やかなオレンジ色から、青黒い夜の色に変わってきた。いつの間にか鼻歌さえ歌っていた彼女が振り返って僕を見る。
「遅くなったわね。帰ろっか」
「うん」
自分の机まで歩き、上に置かれた鞄を持ち上げる。
「じゃあね」彼女が小さく手を振って、教室を出ていく。
その背中に僕は「また来週」と声を掛けた。
§
土曜日、日曜日は特に何事も無かった。いつも通りの休日を過ごし月曜日。
週の始まり特有の憂鬱な気分に頭を支配されながら、毎日通る道を無心で歩く。学校までは歩いて十五分程。この地域では中学生の自転車通学は認められていない。自転車を使うまでも無い距離ではあるのだが、十五分歩くというのは中々に骨ではある。
遅刻ギリギリの時間で教室に入り込み、席の前後に座っている友人らに軽く挨拶を済ませ、椅子に座る。鞄を机の脇に掛けて、頬杖をついた。
ふと、彼女の席の方を見る。
おや? と思った。
彼女の姿が見えない。いつも誰よりも早く学校へ登校し、静かに文庫本を読み耽る彼女が、今日は居ない。
風邪でも引いたのだろうか。連絡を取り合っているわけでは無いため、彼女の状況なんて僕にはわからない。
ただ、体調を崩して学校を休むというのは、珍しい話ではない。予鈴が鼓膜を震わせ、それと同時に教室の扉が乱暴に開け放たれた。
担任教師が普段よりも大きく靴音を立て、これまた普段よりも足早に教壇まで大股で歩いた。
大柄な男性教師は、教壇に手を突いて、教室全体を見回した。
「……全員、揃っているな?」
はつらつとした普段の彼からは考えられないほどに陰鬱とした声色に、誰かが生唾を飲み込む音が響いた。
「出席はとらない。悲しい知らせがある」
よくよく見ると、顔も真っ青だ。何があったのだろう、と僕は首をかしげた。
いや、それはただのポーズだ。なんとなく予感はあった。できてしまった。今までの状況。それらを総合的に鑑みて……。
「桐川が、亡くなった。自殺だそうだ」
衝撃の言葉に、教室中がざわめいた。男子は驚いた表情をし、女子は、ヒソヒソと話したり、ともすれば泣いている者までいる。
一方の僕はというと、自分でもびっくりするほど平静だった。彼女は死に取り憑かれていた。いつか来るだろう日がたまたま今日だった。ただそれだけのことだ。
「今日の授業は全部中止とする。桐川について、全員から一人ひとり話を聞きたい」
彼はいじめだったり、仲間はずれだったり、そういった事実が無かったのかを気にしているのだろう。一般的で、善良な教師だ。
けれども、クラス全員に深く話を聞いても、そんなセンセーショナルな隠し事なんかは出てはこないだろう。
今日一日が面倒なものになることを予感して、僕はため息を吐いた。
§
「星」
衝撃の出来事に沈み込んだ教室。その扉ががらりと開け放たれ、男性教師が僕の名前を読んだ。呼び出しは出席番号順だ。僕は大体真ん中くらい。昼食前。小さく空腹を訴える音がお腹を揺らした。
「はい」
立ち上がり、教室を出る。その時に、彼女と親しかったのであろう女子生徒の目を腫らして泣きじゃくる様子が視界の端に映った。
教室を出ると、僕を見つめる担任が仁王立ちしていた。
「ついてきてくれ」
「はい」
彼は、のしのしと廊下を歩いていく。心なしか、いつもはしゃきっと伸びている背筋が若干猫背になっているように感じた。
可哀想に思う。担任として自分の生徒が自殺したという経験は彼の教師人生の中で、トップクラスにトラウマな出来事となるだろう。拭っても拭っても取れない油汚れのように、頭の中にこびりついて離れない最悪な記憶となるに違いない。そういった意味では自分も同じような状況であることに思い当たって、思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
彼が歩みを止め、扉を開ける。もっぱら問題を起こした生徒が、教師と一対一で話すために使われる小さな部屋だ。彼の大きな背中を追って中に入り込むと、柔らかそうなソファが二つ、センターテーブルを挟んで据え置かれていた。
「座ってくれ」
彼が憔悴しきった声で、着席を促す。素直に従う。それ以外に取るべき選択肢を僕は持っていない。
「……星は、なんだ……。桐川とは仲は良かったか?」
第一声がそれだった。
「ええっと。特段親しいかと言われると、それほどでもないと思います。たまに少し話す程度で」
嘘は言っていない。
「そうか……。桐川について、何か知っていることがあれば教えてくれないか? 何でも良い」
知っていること。僕は少しばかり思案した。
ここで僕が、彼女と交わした会話の内容を逐一目の前の大男に報告するという選択肢も無いわけではない。けれども、何故かその選択肢を選ぶべきではないと思った。
話したとして、どうなるだろう。想像する。
彼は理解できないだろう。僕だって理解できない。「桐川という女子生徒は『死』に取り憑かれていた」等と。
話したところで理解できないのであれば、話すだけ無駄だ。それに僕だって上手く説明できる自信はない。
そして、それ以上に、僕と彼女の間で繰り広げられた数々の会話。それを公に詳らかとすることにどうしてか躊躇いを覚えた。
「いえ、特にありません。僕も驚いています」
「そうか……。そうだよな。ありがとう」
担任は、自身の両目を大きな右手で覆って、ソファに背をもたれかけた。
「ええっと、先生?」
「なんだ」そのままの体制で大男がしゃがれた声で答える。
「少し尋ねても?」
「あぁ」
言葉を選ぶ。
「先生は、いじめとかを疑っているのですか?」
「……疑っていない、といえば嘘になる。だが、俺のクラスでそんなことが起こっていたとは信じたくない」
「そうですか……。ところで」
「なんだ?」
「桐川さんは、自殺した、と仰っていましたよね」
「……あぁ」
これだけは確かめておきたかった。理由はわからない。
「こんなことを聞くのもどうかとは思うのですが……。桐川さんはどうやって亡くなったのですか?」
彼が低く唸り声を上げた。
「……それは……」仔細を伝えるのを躊躇しているのが伝わる。右手を離し、僕の顔をじいっと見つめた後で、「どうせ後からわかることか……」と小さく呟いた。「桐川の家の近くに立体駐車場があるのはわかるか?」
「いえ。そうなんですね」
「あぁ。その屋上から飛び降りたらしい」
あぁ。そうか。
きっと彼女は、痛み等感じずに、自らの悲願を遂げたのだろう。僕はなんとなく満足な心地がした。
彼女と話すようになってから、僕も「死」というものに少しばかり興味を抱いた時期があった。自殺する際、いっとう苦しまない死に方は、高所からの飛び降り、もしくは首吊りだという。
どちらも美しい死に方とは言えない。しかし、美しい自殺の方法等そう多くない。
ある種の処方薬――ジアゼパム等の抗不安薬や、トフラニール等の抗うつ剤だ――を大量に飲めば、遺体は綺麗な状態のまま、それほどの苦痛もなく死ぬことはできる。だが、確実に死ぬという、その一点を追求した時、それらの方法を彼女が取ることはないだろう。そもそも、規制薬品を処方されるような状況であれば、間違いなく周囲が気づく。
「星?」欲した情報を与えたにも関わらず黙り込んだ僕に、少しばかり違和感を抱いたのか、彼は僕の名前を読んだ。
「あ、すみません。少し……」
言葉を選ぶ。
「少しだけ、想像してしまいました」
「そうか……」
自分から尋ねておいて「想像してしまいました」なんて、馬鹿なことを言っている自覚はあった。しかし、担任はそんなことに突っ込む気力もとうに尽き果てた様子で、不思議がられることは無かった。
「ありがとう、星。行っていいぞ」彼が、ぐったりとした顔を隠さずに、退出の許可を出した。
「はい」ソファから立ち上がって、部屋から出る。
教室へ戻りながら、彼女がどういった気持ちで飛び降りたのかについて想像を膨らませる。幾つかのパターンを考えては見たが、そのどれもに共通するものは、彼女の恍惚とした笑顔だ。
これは確信だ。彼女は自ら望んで死んだ。それは現世への失望や、苦悩によって彩られたものでは決して無い。蛹から蝶が生まれ出るように、新しい境地に大いなる希望を見出して、彼女は身を投げたのだ。
少しだけ羨ましくも感じる。
その感性に賛同はできない。しかし、そこまで切望し、希望に満ち溢れた死というものは、決して僕は味わえないだろうから。
教室の扉を開く。クラスメイトの一部が僕の顔をちらりと見た。気づかないふりをして、自分の席へ戻った。
今日、学校は機能しないだろう。その後、担任教師から、葬儀や告別式への参加は任意である旨を伝えられ、その日は何事もなく一日が過ぎた。彼の無力感を噛みしめるような表情が酷く印象的だった。
§
彼女の死から数日経った。
女子中学生が飛び降り自殺するという、センセーショナルなニュースは、一時全国的に話題となり、ワイドショーを騒がせた。
いじめの有無であったり、家庭環境であったり、様々な憶測が飛び交い、その後程なくして人々の興味から消えていった。
一方の僕はと言えば、学生服を着込み、彼女の家の前に立っている。告別式は昨日執り行われ、もうすぐ火葬となるはずだ。最後に彼女の姿を見ておきたかった。
呼び鈴を鳴らす。しばらくして「はい、桐川です」と、彼女の母親の憔悴しきった声が聞こえた。
「桐川さん……、じゃなくて、美鈴さんのクラスメイトの星と申します」
「……少々お待ち下さい」
インターホンがプツリと切れる。しばらく待つと、ゆっくりと彼女の家の玄関ドアが開いた。
奥から傍目でわかるほどにげっそりとした女性が姿を現す。人相が変わりすぎていて一瞬誰なのか判別できなかった。女性はふらふらとした足取りでインターホンのある門まで歩いてきた。フェンスを挟んで向かい合う。落ち窪んだ目がぎょろりと僕を見つめた。
「この度はご愁傷様でした」
「ありがとうございます」女性の掠れた声が鼓膜を震わせる。
「告別式には故あって参加できなかったものですから、せめて、と」
「そう……ですか。上がってください」
フェンスがゆっくりと開かれ、女性が踵を返した。その背中を追いかける。玄関をくぐると家の中いっぱいに広がった線香のもやが、不思議な落ち着きを感じさせる香りと共に気管を満たした。
靴を脱ぎ、心なしか猫背気味の背中を無心で追いかける。
廊下の奥のふすまが開け放たれ、線香の香りがより強くなった。「失礼します」と言葉少なに告げ、へりを踏まないよう注意しながら和室に足を踏み入れる。清涼さを感じさせる木でできた、真っ白な布に包まれた棺が僕の目に飛び込んだ。
ふらふらと棺に歩み寄る。丁寧に敷かれた座布団に足を曲げ座り込む。彼女の母親は、僕の隣にへなりとへたり込むように座った。
線香に火を付け立てる。その後で、りん棒を手に取り、どこかで見たようなデザインの鈴の縁を二回叩いた。一度目はそっと触れるように。二度目は少しだけ強く。わおーん、という不可思議な響きが和室に反響し、そして消えていった。
手を合わせ、目を閉じる。三秒程。
「開けても?」僕は、棺の窓にちらりと目線を送ってから、問いかける。
「はい」力ない返答だ。
ゆっくりと窓を開ける。彼女の顔が視界に飛び込んでくる。
その死に顔は、想像したよりも、ずっと、美しかった。生きていた頃となんの遜色も無いかもしれない。投身自殺による遺体とは思えなかった。
そしてそれ以上に。
満足気だった。
そう感じた。感じてしまった。
僕の想像と違わなかった。きっと彼女は……。
「星さん」彼女の母親が控えめに僕を呼んだ。
「はい」
「娘は……。飛び降りる前にこれを飲んだようなのです」
そう言って、差し出されたのは、あの日彼女が眺めていた辰砂の入った袋。全て出しきれず残ってしまったのだろうか。赤い粉末が袋の底にこびりついている。
「はぁ」
「なにか、ご存知ありませんか?」
そうか。彼女は。
辰砂を飲んで身を投げたのか。どういう心持ちだったのだろうか。「死」を究極の自己表現だと言っていた。それなのに、不老不死の薬とも言われた賢者の石を飲み下すなんて矛盾している。
しかしこうも考えられる。彼女が本当に「死」というものを自己表現だと捉えていたとしたのであれば。もしそうだったとしたなら。きっと自己表現なんて、いくらやってもし足りない。そうではないだろうか。
いや、ただ単純に「自分が本当に不老不死になったのかを確かめる」つもりだったのかもしれない。
そもそも意味等無かったのかもしれない。
兎にも角にも、彼女の精神性について、僕は他人に説明する程の言葉を持ち合わせていない。
「……申し訳ございません。存じ上げません」
「そうですか」
§
それから数日が経った。彼女の死は地元メディアさえ騒がせることは無くなり、桐川美鈴という人間が存在していたかどうかすら疑わしくなってくるほどに、いつも通りの日常が戻ってきた。
この帰結は彼女にとって、どういう意味を持つのだろうか。「死」を自己表現とした時、彼女の死は延々と語り継がれるべきではないのだろうか。それを彼女も望んでいたのではないだろうか。
いや、考えても詮無いことだ。もう彼女はこの世にはいない。彼女の考えを直接聞ける人間なんて一人も存在しないのだから。
でも。少なくとも。
彼女の家族には大きな衝撃を与えただろう。生涯消えることのない疵痕となって、心を蝕むことだろう。
そして僕も。彼女のことをきっと忘れないのだろう。
他にも数人くらいは、彼女の死によって、人生に大きな影響を与えられて、礎となって、血肉となって、そして連綿と受け継がれていくのかもしれない。
それはきっと。
彼女にとっては素晴らしいことなのではないか、と僕は思う。
昼休みのチャイムが鳴る。授業の終了を教師が告げ、教室が一気に騒がしくなる。
僕は鞄から母が作った弁当を取り出して、開けた。