シビト
シ、ビ、トォ ──
ガラン……。
ガララン、バラン……。
琵琶の壊れたような不協和音が 破れた障子の穴から部屋に流れ込んでくるようだ。 実際にはそれは 青い炎に乗って飛ぶ 蝿だか蚊だかわからない 不気味な 魑魅魍魎が 姿を現す 前兆なのだ としか思えず 俺は青い 襦袢 の裾を捲り上げると 座布団の上から立ち上がり 音の正体を見確かめに行った。 すると 何もない 誰もいない空に ただ 干からびた 髑髏のような質感の月が 有り得ないと 思えるほどの 丸みを 帯びて 俺を睨んでいた。
「回さないでくれ」 俺は子供を叱りつける口調で言ってやった。 「私の目を回すな」
夜空の月は何も言わずに 不気味な光を一瞬 浮かべただけであった。
障子を閉め 部屋に戻ると 俺が座っていた座布団の上に 青白い顔をした男が座っている。 誰だ。 俺だった。 違うのは青ではなく白い 襦袢 を着ており そして命がないことだった。 奴は動かない目をして 原稿用紙の上の 何もないところを見つめていた。 「おい」 俺はまた叱りつける口調で言ってやった。 「そこで何をしている シビトの分際で」 奴は答えた 「カエリミチ ガ ワカラナイ」
「シビトの分際で 喋るんじゃない」
シビトが何処へ帰るというのだ。俺は鼻で嗤ってやった。此の世へか それとも彼の世へか。すると奴は 少し首を傾げ 困った貌をして 仲間を呼んだ。
俺の部屋はシビトだらけだ。此の世は彼程にシビトで溢れていたというのか。灯りに群がる羽虫の如くに シビトが俺の部屋に充満してしまった。知らない貌ばかりだが 名を呼ばれた。誰でもが俺の名を知っているとでも云うのか。 「兄様」榎茸のような声で 俺の妹も 俺の名を呼ぶ。俺に妹はいなかった筈だ。いい加減にしろ この 此の世ならざる者どもめ! そしてシビトたちは徐々に 円環となって 列を周りはじめた。
くるくる回る 線香のけむり── 「兄様」「あんちゃん」「旦那」シビトたちが口々に俺の名を呼ぶ。俺は放っておくことなど とても出来ぬ勢いに 遂に くいわすく、くいわすく。意味の解らぬ言葉のようなものを口から漏らしはじめる。夜の街の自動車のランプのようだ。この 馬鹿げた乱痴気騒ぎの シビトの渦の 深夜の踊りは。
座布団に座ったままの 俺が半分の顔で振り返り 無表情のニヤリ顔で云った。 「俺を殺せるか?」
シビトを殺すことは出来ぬ。そんな当たり前のことをヤツは私に突きつけているのだ。くいわすく、くいわすく。さあ、帰ろう。
いつの間にやら俺も踊っていた。シビトたちの円環に混じって。シビトの帰り道は直線の道ではないようだ どうやらいつまでも回り続けているようだ。障子に映る景色は今 外から見れば 走馬灯のようになっていることであろう。くいわすく、くいわすく。俺は言葉を忘れた。世界と同化した。夜空は碧色をして、月は強く金色に 輝いた。