別れ
雫の居る病室の扉を叩いた。はいと言う返事がして、俺は中に入った。
「こうちゃん!来てくれたんだ!」
「大河さんが連れてきてくれた。雫、体調の方はもう大丈夫か?」
「…混乱してたから、色々な人に迷惑かけちゃった」
「迷惑なものか、雫の体調が第一だ」
雫はベッドから起き上がった。俺はそれに手を貸す。足元が少しだけふらついていたが、雫は俺の手を取ると笑ってみせた。
「えへへ、ごめんねこうちゃん。格好もこんなだし、今の私酷いでしょ?」
「そんな事はない、雫は何時だって綺麗だよ」
「…そっか、ありがと」
寝間着姿で、いつものように梳かして綺麗に整えられた髪型ではなかったが、そんな些細な事は何一つ気にならない。俺にとって、どんな時でも雫は唯一無二だ。
個室に備え付けられた机を挟んで、俺たちは椅子に座った。向かい合うとお腹の底からぐっと悲しみが吹き上がりそうになる、それを無理やり飲み込むと、俺は雫に語りかけた。
「事情は聞いた。不安だろう、ごめんな」
「こうちゃんが謝る事じゃないでしょ?」
「そうだけど、何も出来ないのが歯がゆいんだ」
実際今の俺には雫にしてあげられる事は何一つない、ただ無力なまま、無意味に大丈夫かと聞くことしか出来ないのだ。
「誰にもどうする事も出来ないよ、お医者さんだって無理なんだから。いいんだよ、そんな事気にする事ないよ」
雫の笑顔はいつもと何も変わらない、不安で心が押しつぶされそうだろうに、本心から気にする事ないと言っているんだ。
強い、強い心だ。気高く美しい、雫の事を守りたい。俺は全身に入った力がふっと抜けたのを感じた。
「雫、俺初デートの時、こんな経験これが最初で最後だろうなって思ったんだ」
「えっ?」
「色々調べて俺なりに努力したつもりだけど、ネットで調べた事をそのまま真似しただけだし、これって楽しめるのかなって思ってた」
「えー?あんなに楽しかったのに!」
「ははっ、そうだな、俺も楽しかったよ。自分でも意外だった。こういうの楽しめる人間だったんだなって」
それまでは交際など煩わしいだけだろうと思っていた。創作物で見聞きしても、パートナーが隣にいる自分なんて想像出来なかったし、必要がないと思っていた。
「…もしかして嫌だった?」
「それこそまさかだよ。まあ橋田にバレた時は焦ったけど」
「あれ?そうだったの?」
「うん、雫には言わなかったけど橋田にぽろっと言っちゃったんだ。胸ぐらを掴まれたのは二回目だったなあ」
「それは目に浮かぶね…」
俺は口が軽いなとその時思った。というより思った事が口にすぐ出るのか、だから偶に雫に怒られていたんだな。
「それとさ、喫茶ヤドリギに連れてかれた時は驚いたな。面倒な事になりそうだなって、ちょっと嫌だった」
「あーやっぱそうだよね、嫌そうな顔してたもん」
「態度に出てたか?」
「出てたねえ。でも仕方ないよ、これから働く場所だし、私がマスターに色々言っちゃったから」
確かにあの時は雫がとんでもない事を口走っていた。
「マスターは大喜びだったな」
「何度もケーキ奢ってもらっちゃったね」
「あれは好きでやってるからいいと思う」
「マスターはそういう人だもんね」
俺と雫はそう言うと笑った。マスターに対する評価が一緒なのが面白かった。この時間がすごく楽しい、いつまでも続いて欲しい、そう思った。
「雫、いつか言った事覚えてるか?記憶の宝石をすべて引き受けるって話」
「勿論覚えてるよ、ほら」
雫は首につけていたネックレスを上げて見せた。俺があげた物を身に着けていてくれるのが嬉しかった。
「何個落ちた?」
「十六個、全部集めてあるよ」
「引き取ってもいいか?」
「私から頼むつもりだったよ。これだけあればメモリージュエルいくらでも作れちゃうね」
明るく笑って言う雫に、俺は心の内を隠したまま笑い返した。
「この量を手で磨くとなったらいつまでかかるか分からないよ」
「じゃらじゃらつけてたら成金みたいかな?」
「全部一気に身につけるつもりか?」
雫から宝石を受け取る。見た目よりずしりと重たく感じた。平常心で受け取る事が出来たか不安になる程だった。
「この宝石もいつか全部雫を彩る宝物に変えてみせるよ」
「期待してるからね!」
「…その時が来たらさ、渡す場所を決めないか?思い出のあの海がいいな、そこに全部持って行くよ」
ちょっと強引で唐突かな、でも、せめてこの約束だけは、果たせないとしてもこの約束だけは今しておきたい。
「こうちゃんが告白をしてくれた海?」
「そう、皆で花火を見たあの海」
「お客さんに囲まれて大変だったあの海?」
「うん、沢山の思い出が詰まったあの海だ」
「…それは、とても素敵ね…」
雫の目から涙が零れ落ちた。俺は椅子を立ち雫の肩を抱いた。
「私怖い、この記憶はいつまで続くの?明日まで?それとも五分後には宝石になって消えるの?怖い、怖いよこうちゃん」
「…怖いよな、ごめんな」
気持ちを全部、完全に理解してあげられたら、今ここで雫の苦しみをほんの少しでも分けてもらえたら、俺は何を差し出してもそれを躊躇わないだろう。
しかしそれは出来ない、出来ないんだ。病気を分け合う事は出来ない、それは雫だけのものだから。誰がどう望んでも誰にも不可能だ。
子供のように泣きわめく雫を抱きしめた。恐怖で震える彼女の体は、焼けた石を抱いているかのように錯覚させた。熱い、恐怖と不安の感情が熱を帯びて俺の胸に伝わってくる。
「こうちゃんを消したくない、でも、私がどれだけそう願っても、あなたは消えてしまうかもしれない。それだけは絶対に嫌なのに」
ズギりと心が痛む、焼けた杭を打ち付けられているようだ、俺はこれから雫から大切なものを奪う、それがとても痛く苦しい。
でも今、俺が出来る解決方法はただ一つしかない。それが彼女を傷つけるとしても、俺はそれを実行する。
雫の体を抱きしめたまま、泣き止むまで俺は背中をぽんぽんと叩いた。子供をあやすように優しくゆっくりとただ静かに、泣きつかれて雫が眠るのを待った。
いつしか泣き声はやみ、穏やかな寝息へと変わる。俺は雫を抱きかかえると、ベッドに寝かせて頭を撫でた。
眠る彼女の唇にキスをした。名残惜しくて、離れがたい。でも、もう行かなくては、俺は彼女の手を取りぎゅっと握りしめた。願いを込めて、ありったけの祈りを込めて、会えなくなる時間は心引き裂かれるけれど、いつか必ず、君の元へ帰る。
病室を出ると大河さんと霞さんが待っていた。俺は涙をぐいっと拭って鼻水をすする。
「もういいのかい?」
「ええ、話したい事は話しました。それに、あまり強く記憶に残っては意味がありませんから」
霞さんは悲痛な面持ちで俺に言った。
「こうくん、やめましょうよ。きっともっといい方法がある筈よ」
そんな方法はない、霞さんはきっとそれを分かっている。それでもこの残酷な方法を取る俺を気遣ってくれているんだ。
「霞さん、ありがとうございます。でも、いい方法は多分すぐには見つかりません。今結晶解離病の急性化を止める為には、この方法しかないんです」
「でもっ!」
それでもと霞さんは言葉を続けようとするが、それを大河さんが止めた。
「僕は父親として君の行動に感謝を示す。君のお陰で娘に希望が生まれた」
「いえ当然の事を…」
「だが同時に君に謝らなければならない、どれだけ謝罪してもしたりない。僕の無力を許さないでくれ」
大河さんが頭を下げた。大きな体が小さく見える、拳から血が滲み床に滴り落ちていた。
「…無力なのは俺も同じです。どうかご自分を責めないでください、それはきっと、辛く苦しい。雫はそれを望まないと思います」
「君はっ!どうしてそこまで…」
「諦めていないからですよ。例え俺が宝石となって消えたとしても、一生彼女の中からいなくなるとしても、俺は最後の最後まで諦めません。彼女の事を心から愛しているからです」
顔を上げた大河さんに、俺は頭を下げてお願いした。
「図々しいですがお願いがあります。雫から消えた俺の記憶の宝石を、貰えないでしょうか?繋がりを断つ意味もありますが、俺がそれを持っていたいんです」
「君の望む事は何でも力になるよ、それがせめてもの行いだ」
「私にも何でも言って、私の力は上手く使える筈よ」
二人の言葉に目が潤む、俺は下を向いたままギュッと目を閉じて涙を堪えた。出来る限りの笑顔を作って顔を上げる。
「ありがとうございます」
それを言うだけで精一杯だった。でも二人への言葉で、これ以上の言葉も見つからない。
覚悟はした。別れも済んだ。後は準備と実行だけだ。やることは山程ある、悲しむ暇はもうない。




