五十嵐雫と梢
私は梢さんと一緒にキッチンに立っていた。持ってきたケーキをお皿に乗せてフォークを用意する、後はお湯が沸くのを待つだけだ。
「雫ちゃんって呼んでもいいかしら?私の事は梢さんって呼んで、こうちゃんにもそう呼ばれてるから」
「是非好きに呼んでください、えっと、梢さん」
「素直で良い子ね、私が好きになっちゃいそう」
そう言うと梢さんはニッと明るく笑った。私もつられてふふっと笑ってしまう。
「こうちゃんに梢さんって呼ばせてるのもねえ、私がおばさんって呼ばれるのが嫌だったからなのよね。忠さんの事は叔父さんでいいけどね、オジサンだし」
「多分ですけど、光輔くんは中々納得しなかったんじゃないですか?」
「そうそう!よく分かってるね雫ちゃん。こうちゃんは頑固でね、おばさんはおばさんだから呼び方で何か変わる訳じゃない、こんな事言うのよ?」
梢さんが光輔くんのものまねをする。一緒に暮らしているだけあってとても似ている。私はまた笑ってしまった。
「だから私、光輔にこうちゃんってあだ名つけたの。最初の内恥ずかしがって嫌がったけど、ほら呼び方一つでこうも変わるでしょって言ったら成る程って納得したの」
「目に浮かぶようです」
「ふふっ、そうでしょ?結果的に良かったかもね、こうちゃんに梢さんって呼ばれるのも、こうちゃんって呼ぶのも私幸せに感じるから」
二人の間に深い愛情があるのが伺い知れた。梢さんが光輔くんの事を大切に思っているのが分かる。
「雫ちゃんもこうちゃんって呼んでみるといいわよ。きっと面白い反応すると思うな」
「いいですねそれ、絶対見てみたい」
「でっしょー?それに、何だかんだ言いながら喜ぶんじゃないかな。気安さを許せる相手だって、きっとそんな難しい事考えて納得するから」
「本当に梢さんは光輔くんの事よく分かっているんですね」
梢さんはにこにことしながら、笛の音を鳴らすやかんの火を止めた。ポットを一度温めてから、ティーバッグを入れて蓋をする。
「あの、ミルクと砂糖ありますか?」
「あれ?雫ちゃんも甘い方がいい?」
「あ、いえ。光輔くんの為にって思って」
「そんな話もしてるのね、それに気遣いも出来て本当にいい子。こうちゃんは素敵な相手を選んだね」
褒められると照れくさい、何だかお母さんから褒められるより照れくさかった。
梢さんの言葉には嘘がないって感じがした。常に真っ直ぐで正直で、明るい笑顔で言われると嬉しくなる。何だか光輔くんと似ているなと思った。愛嬌以外だけど。
「こうちゃんって苦い飲み物駄目なのよね、食べる方は平気なのに、何か不思議よね」
「コーヒーも香りだけしか楽しめないって言ってました。ブラックコーヒーをお客に出す時はいつも信じられないって心の中で思っているそうです」
「あっはっは!こうちゃんらしいわ!」
梢さんはそう言って笑う、私もこの話が光輔くんらしくて好きだった。光輔くんは心の中でそう思っていても、おくびにも出さない。表情や態度にも一切出さずにそうしていると思うと可愛く思えて仕方がなかった。
「こうちゃんはね、何やる時もいつも考えて考えてやるの。適当に出来ないって性格もあるんだけど、もっと根っこの考えは違ってね。どうしてもお父さんとお母さんの事が頭をよぎるんですって」
「それはどういう意味なんですか?」
「消えたくないって気持ちが強すぎるのよ、お父さんとお母さんの記憶から消えた時の恐怖が常につきまとってる。何をするにしても意味や理由がないと、記憶に残る事が出来ないって思ってる。不安なのよ」
何事も難しく考えてしまうのは、何も性格だけの理由ではなかったんだ。私はてっきりそういう性格だからだと思っていた。だって光輔くんは滅多に恐怖を見せない、パニック症状を起こす時も、恐怖ではなく失敗したという表情をする。
「知らなかったです…。そんな苦しみを抱えていたなんて」
私がうつむいてそう言うと、頭に柔らかな感触があった。梢さんの手の感触だ。
「特別だからって何もかも知っている訳じゃない、どれだけ長く一緒に居ても分からない事の方が多い。気にする事じゃないわ、知らなくても寄り添える。誰にだってどんな時だってね」
それはとても優しい言葉だった。そしてとても暖かだった。知らなくても寄り添える、そう言われるだけでこんなにも心強い、私は顔を上げて笑った。
「ですね!私光輔くん相手にならずけずけ行けるんですよ!」
「いいね!それくらいでなくちゃこうちゃんの相手は務まらないよ!」
梢さんのグッドサインに私も力強くグッドサインで返した。自然と笑顔が引き出されるような人だ、光輔くんはとてもいい人達に囲まれていると思った。
「それにしても二人とも遅いわね、何やってんのかしら?ここはタイミングよく来る場面でしょうに、まったくもう」
そして結構強引な人だ、足音を鳴らしながら「呼んでくるっ!」と言って出ていってしまった。
子猫をくわえて運ぶ親猫のように、梢さんは二人を引きずって連れてきた。私が呆気にとられているとどさっと投げ捨てるように二人は手を離された。
「ど、どうしたんですか?」
「うーん、多分感極まって忠さんが盛り上がったんでしょ。二人で抱き合って泣いてたから、埒が明かないと思って無理やり連れてきちゃった」
それを聞いて、床でうつ伏せで倒れていた忠弥さんがばっと立ち上がった。
「感極まるに決まってるでしょ!?あの光輔が彼女連れてきたんだよ梢ちゃん!俺はもう、もう、嬉しくて」
「分かったから泣かないの!雫ちゃんの前でみっともないでしょ?」
そう言いながらも、梢さんは鼻水でぐしゃぐしゃの忠弥さんにティッシュ箱を持ってすかさず近寄った。涙を拭いて、鼻にティッシュを当てると、忠弥さんが思い切り鼻をかんでいた。
やり取りを見ているだけでも仲の良さが伝わってくる。私の方は光輔くんに駆け寄った。
「二人で泣いてたの?」
「…恥ずかしながら」
「ふふっ、恥ずかしい事なんかないよ。ほら使って」
私は光輔くんにハンカチを取り出して渡した。光輔くんはお礼を言ってそれを受け取る。
「ほら、涙の跡がここにも」
「えっどこ?」
「いいよ私が拭いてあげる。貸してこうちゃん」
「ああ、すまな…いぃ!?」
突然こうちゃんと呼ばれた光輔くんは、始めは気が付かなくて、途中で違和感に気づき、最後には飲み込んで驚きの顔を見せた。期待以上のリアクションに嬉しくなる。
「ね、雫ちゃん、良い反応するでしょ?」
「ええ、本当に。特別感もあるし、これからはこうちゃんって呼びたいなあ」
「うぇっ!うぇうぇうぇ」
「あはは、カエルの鳴き声みたい」
どの反応も可愛くて愛おしい、恋ってこんなに楽しいんだ。
「ふ」
「ふ?」
「二人の時なら、いい」
思わぬ反撃をもらって心臓が跳ね上がった。顔が耳まで赤く熱くなっていくのを感じる、不意の一撃が強すぎるのが困りものだ。
「あらあら、お熱い二人ね」
「梢ちゃん、昔の俺たちを思い出さない?」
「こんなに上品じゃなかったわよ、大体いつも忠さんが暴走するのを私が抑えてたでしょ?」
「そうだったかな?」
そんな二人のやり取りを見て、光輔くんもといこうちゃんと顔を見合わせた。二人同時にぷっと吹き出して笑いがこみ上げてきた。自然と笑顔になって声を上げて笑うと、それを見て忠弥さんも梢さんも笑い始めた。
こうして皆で笑い合う状況が不思議だ、私は今日初めて二人にお会いしたし、知り合って間もないにも程がある。
だけど、何だか家族の一員と同じくらいに扱ってくれていると感じられた。心地いい、自分の家族と一緒にいる時と同じくらいに心地いいと思った。
こうちゃんの心の傷は、きっと二人の力にも大きく影響を受けて癒やされているんじゃないかと思う、いつか実のご両親の元へきっと帰る事が出来る。そして前よりもっといい関係を築けるんじゃないかと思った。
出来るなら私もその力の一助になりたい、なれるかな?ちょっと不安だけど、やってやろうと思う。




