父と母の力
俺はここ最近で学校で起きた事のすべてを掻い摘んで話した。東条先生は興味深そうにふんふんと聞いていて、特に食いついたのは雫の事だった。
「結晶解離病の子か」
「はい、症状はまだ全然進んでいませんし、悪化する兆候も見られません。だけど当事者の話を聞ける事は滅多にないので助かっています」
それを聞いて先生は苦い顔で頭を掻いた。
「それはあまりよくない考え方だね」
「どうしてですか?」
「いくらその子が協力的とは言え、その子の病気はその子だけのものだ。尾上くんが接していく内に、気持ちが引き込まれたり、逆にその子を追い込む事になるかもしれない」
「そんなつもりはありません」
「分かっているよ、でも聞かせて欲しい。ご両親にこの事を一言でも話したかな?」
俺は口を噤んだ。答えられないのは言った事がないからだ。俺の沈黙を見て先生はすべて理解したのだろう、ゆっくりと話始めた。
「本来君に一番近い結晶解離病の患者さんは誰だい?」
「…父と母です」
「君はまだ心の傷が癒えていない、いや、一生付き合っていく必要だってある。それは僕に言われるまでもなく分かっているんじゃないかな?」
先生の言っている事は正しい、他ならぬ俺自身がそう思っているからだ。
「その子と対等な関係を築く事はとても良いことだ、でも尾上くんは、その子に結晶解離病の患者という一線を引いているね?だからきっと結晶解離病に関する事以外は踏み込まないんじゃないかな」
それも図星だった。
「ご両親にこの事を言う事が出来ないのも、君がお二人に重ねてその子の事を見ているからだ。その子を通じて病気を見ているんだ、君にとっては知りたくて仕方がないのと同時に、本当は触りたくもない事だから。違うかい?」
ぐうの音も出ない正論だ、俺は確かにまだ雫に関して知っている事は少ない、いや違う、知ろうともしていないというのが正しい。
一緒に居て分かる事もある、性格を知る事もある、だけどこちらから雫の事を深掘りする事をしない。恐怖と嫌悪感が俺の足を沼の底へと引きずり込もうとしている。
「君は解決するべき問題を前にして、新しく舞い込んできた希望にすがっている。それが残酷な事なのは分かるね?」
雫は結晶解離病になりたくてなった訳じゃない、こんな厄介な病気を望む筈もない。俺は雫の事を降って湧いたサンプルのように考えてはいなかっただろうか、彼女について知りたいと口では言っておきながら、心の隅に追いやっていたのではないだろうか。
「で、ここまでは厳しい話をした。ここからは僕が嬉しく思っている事を話そうか」
「へ?」
先生の態度は先程と打って変わって柔和なものになっていた。
「その子の名前、五十嵐さんと言ったね。どうかな尾上くん、五十嵐さんと接していて、ものの考え方や見方が大きく変わった事があるんじゃないかな?」
「それは、そうですね。数え切れない程に沢山」
「自分だけが思う感情を通して見る世界と、自分が知る五十嵐さんを思って見る世界では見え方が大きく違ったんじゃないかな?」
確かに雫と接したからこそ分かった事や知り得た事、そしてなにより人間関係を構築できた事はとても大きい事だった。
「尾上くんの心は、辛い出来事によってギュッと押さえつけられていて、狭い視野でしか物事を見る事が出来なかった。しかしそこに五十嵐さんという君の理解者が現れた。君は今、押さえつけられた視野をゆっくりと広げようとしている。その原動力は何かを思いやる気持ちだ、大切に思う気持ちだ」
「思いやる気持ち…」
「今ゆっくりと、でも着実に君の心は癒やされ始めている。それは他者との関わりを経て、自分の心を模索し始めたからだ。これは本当にいいことで、僕は嬉しく思っているよ」
先生は本当に心の底から満足気に笑顔を浮かべているようだった。俺の心が癒やされ始めている、そんな事考えつきもしなかったからいまいちピンとこない。
「あまり実感がありません」
「それでいいんだ。君は人の話を聞いて、感情を見て、そして考えていけばいい。自分と他者との違いや、どうしてそう考えるのか、君が求めるものを手に入れる為にはどうすればいいか。ゆっくりでいい、でもしっかり考えて生きなさい、君にはそれが出来る」
出来ると断言されて何だかとても嬉しい気持ちになった。先生は絶対に嘘を言う人ではないし、お世辞で取り繕う人でもない。本心から俺なら出来ると言ってくれていると分かるから嬉しいのだ。
「でもやっぱり結晶解離病に囚われすぎるのはよくないね、君にとっても五十嵐さんにとってもだ。すぐに変わる事は難しいから、まずは五十嵐さんの事や仲良くなった人の事を知る事から始めてみようか、無理のない範囲でね」
「分かりました。やってみます」
「うん、じゃあ薬を飲み忘れないように。お大事にね」
会計や次の予約を済ませて、薬局に寄って処方箋の薬を出してもらって帰路につく、電車に揺られて駅から家に歩いて帰るともうへとへとになっていた。
特に何か運動をした訳でもないのに、診療所帰りはいつもすごく疲弊する。俺は叔父さんと梢さんに帰ってきた事を報告すると、帰り道で買ってきた栄養食のスナックを、昼食として腹におさめてベッドに倒れ込むように寝た。
夕食の時間になったと、叔父さんが俺を起こしに来てくれた。診療所に行くといつもこうなるので、叔父さん達も分かって俺を寝かしてくれている。
楽しい食事を終えて、俺はそそくさと部屋に戻った。帰ってきてからずっと考えていた事があって、どうしても話したい人達がいた。
連絡先のフォルダから父の名前を選んで通話を繋げる。呼び出し音が二回鳴るか鳴らないかのタイミングで、父の声が聞こえてきた。
「もしもし光輔か?」
「うん、そうだよ父さん。電話は久しぶりかな」
「そうだな、ちょっと待っててくれ、今母さんも呼ぶからな」
マイクから離れた声で父の母を呼ぶ声が小さく聞こえてくる。そしてすぐに母の声が電話越しに聞こえてきた。
「光輔!ああ、あなたから電話してきてくれるなんて。すごく嬉しいわ」
「うん、ちょっと話したい事があってさ」
「いいぞ、父さんも母さんもちゃんと聞いているからな」
父と母の声は本当に嬉しそうだった。まだ声を聞くと手が震えてくるけれど、話してみたいとそう思った。
「じ、実は、クラスメイトにさ、結晶解離病を発症した子がいるんだ。そ、それで俺、その子と、実はその友達になったんだ」
「結晶解離病の子が?それはまた…気の毒に…」
父の声は沈んだ、恐らく若くしてこの病気を発症した事を本当に同情しているのだろう。雫の事を知らなくても自分の事のように心配する父の声は、何だかとても優しさに溢れていた。
「光輔、あなたから声をかけたの?」
「うんそうなんだ。じ、実はすごく不純な動機で」
「いいわ、想像はつくから。観察、してみたかったんでしょ?」
母は俺の性格をお見通しのようだ。俺が研究者になりたいという事を知っているからか、どちらから声をかけたのかという状況だけで大方把握したみたいだった。
「聞きなさい光輔、きっかけが何であれ、あなたはその人に関わった。しかもとても心の奥深くまでね。なら最後まで責任を持ちなさい、途中で投げ出したり、中途半端な事をしたら許さないわ」
「…うん、ありがとう母さん」
「頑張りなさい、あなたの知識と経験はきっと役に立つ。力になってあげるの、いいわね!」
励ましの言葉が胸に突き刺さった。知らない内に目から涙がこぼれている、母は俺の事を叱りながらも、するべき事をしっかりと言いつけてくれた。
「光輔、その結晶解離病の子で何か力になれる事があったら何でも言いなさい。電話である必要はない、手紙でもメールでも何でもいい、父さん達は長い事この病気と付き合っている。きっと何か出来る事がある筈だ」
「分かった。その時は頼むよ父さん」
父さんの声は力強かった。俺はもうすっかり涙声になっているだろうけれど、それを取り繕う事もせず鼻水をすすりながら話を聞いていた。
二人に話すことが出来て良かった。本当に久しぶりに心からそう思う事が出来た。少しずつではあるけれど、確かに何かが変わり始めている。東条先生の言った通りだと俺は思った。




