終わらない遊戯
その日はいろんな意味で疲れていた。
だからだろう。美香はいつもと玄関の様子が違っていることに気づかなかった。
乱雑にパンプスを脱ぎ、玄関框に足をかける。
「おかえりなさい」
予期していなかった声かけにビクリと身体が反応する。
ゆっくりと顔を上げるとそこには久しぶりに見る彼がいた。
『彼』と言っても別に付き合っている『彼氏』というわけではない。
彼、 柊真は弟の友人だ。
美香個人としては、連絡先を交換する程ではないが、タイミングがあえば一緒にゲームをする友人だと認識している。
それにしても、誰かに出迎えてもらうなんていつぶりだろうか。
「た、ただいま」
なんとなく気恥ずかしくなって目を逸らした。
そそくさと脱いだばかりのパンプスを揃えて、足早にリビングへと向かう。
柊真もその後に続いた。
リビングには誰もいなかった。
てっきり弟がいるものだと思っていた美香は首を捻る。
「美香さん」
「何?」
美香が振り向くと柊真はいつの間にかキッチンに移動していた。
「何か食べますか? 残り物と簡単なものでよければ用意できますが」
————至れり尽くせりすぎ!?
思わず心の中で叫んだ美香は雑念を振り払うように頭を振って答えた。
「今日は接待で食べてきたから大丈夫!」
本当は『接待の後にあったもろもろのせいで疲れてお腹が空いていない』のだがそれを柊真に伝えるつもりはない。
第一に、美香にはもっと気になることがあった。
「拓は?」
『美香の弟、拓は家に招いた友人を放って一体何をしているのか』
美香の一番の関心はそれだ。
しかし、柊真は拓の名前を聞いた途端に口を閉ざし、目を逸らした。
その態度にピンときた美香はすぐさまリビングを出る。
柊真が慌てて追いかけてきたが、美香はシッと指をたてて黙らせた。
階段下で耳を澄ませると二階から女性の嬌声が聞こえてくる。
おそらくそういう動画を鑑賞しているのだろう。
美香は柊真の背中を押してリビングへUターンした。
しっかりとリビングの扉を閉めてから深く息を吐く。
柊真の身体がビクリと揺れた。
――――いやいや、君は何も悪くない。わかっているから安心したまえ。
美香が柊真の肩を叩いて笑顔を向けると、柊真はホッとしたようにぎこちない笑みを浮かべた。
それにしても、と美香は拓への怒りを募らせる。
今までも同じようなことが何度かあった。
その度に美香は「友達を放って何をしているのか」と拓を叱ってきたのだが、拓は全く反省する様子がない。
むしろ、「これは柊真を思ってのことだ」と言い張っている。
――――確かに半分はそうかもしれないけど、半分は自分が見たいだけでしょ。
美香はそう思わずにはいられなかった。
ちらりと柊真を観る。
相変わらずスタイル抜群で、顔が良い。
社会人と大学生という歳の差があるとはいえ、肌なんかは自分よりもきめが細かいように見える。
美香の口から思わず溜息が漏れた。
柊真が首を傾げ、美香はなんでもないと首を横に振る。
柊真は異常なくらい女性にモテる。
身長は百八十センチを超え、黒髪サラサラで目はパッチリしている。やや童顔気味だが、そこがイイ――――というのは拓調べだ。
しかも、文武両道で美香が知る限りは性格もいい。まさに非の打ち所がない人だ。モテないわけが無い。
しかし、柊真には一つだけ弱点(?)があった。
柊真にとっての天敵————それは『女性』だ。
幼少期から誘拐、監禁未遂、貞操の危機と女性トラブルが絶えないせいで柊真は女性が大の苦手になっていた。特に自分に恋愛感情を持つ相手に対しては嫌悪感すら抱いている。
ただ、家族や幼児、高齢者相手には柊真も警戒しない。
そして、不思議なことにその例外の中に美香も含まれていた。
――――『友人の姉』というフィルターと私の女子力が底辺だからだろうな。
と美香は思っている。
とにもかくにも、『柊真の女嫌い』は柊真を知る人達の中では有名な話だった。
もちろん、柊真の友人である拓が知らないわけがない。
それにもかかわらず拓は自分に彼女が出来たことをきっかけに「柊真にも彼女がいる良さをしってほしい」と言い出した。
さすがに生身の女性と無理やりくっつけようとはしないが、何故かそういう動画を無理矢理見せようとはしている。
まあ、結局いつも拓が一人で見るという結果になっているのだが。
美香は所在無げに立っている柊真を見て思案する。
今日はさっさとシャワーを浴びて寝ようと思っていたが、このまま柊真を放っておくのもしのびない。
なにより、美香は柊真に会ったらアレに誘おうと思っていたのだ。
美香は柊真を手招きして呼び寄せると、あるものを見せた。
「コレ、興味ある?」
美香の手にあるのは先日発売されたばかりの謎解きアドベンチャーゲーム。
好きな会社が出しているゲームということもあり碌に内容を見ずに買ってしまったのだが、このゲーム実は協力ゲーの上に基本プレイ時間が十時間を超える大作だった。
ゲーム好きな友人は他にもいるが、皆長時間プレイをする程ではない。
しかし、柊真は違う。美香と同じくらいのゲーム好きなのだ。
案の定、柊真は「します!」と即答した。
思惑通りのってきた柊真に、美香は満足そうに頷く。
それでは、早速ゲームをしよう――――として美香は我に返った。
「ごめん。シャワーだけ浴びてきていい?」
今から長時間プレイすることを考えると先にお風呂に入っておきたい。
何より、美香のなけなしの女子力が悲鳴をあげていた。
一応美香も女である。異性(しかも美青年)の隣に汗と埃まみれの姿で座るのは避けたい。
柊真はハッとした表情を浮かべると何度も頷いた。
「もちろんです! 俺が用意しておくんでゆっくり入ってきてください!」
その頬はほんのり赤い。美香はいたたまれなくなって足早に風呂場へと向かった。
浴室で一人になると先程まではすっかり忘れていた余計なことが脳裏に浮かんでくる。
美香は慌てて思考を切り替えた。
――――そういえば、柊真くんと仲良くなったきっかけもゲームだったな。
確かあの時も私はリビングでオープンワールドのゲームをしていた。
美香は自他ともに認めるゲーマーだ。プレイスキルも経験もそれなりにあると自負している。
だから、オープンワールドのゲームで開始早々行き詰ってしまうとは思っていなかった。
謎解き要素が多いゲームだとは聞いていたが、味付け程度で難易度が高いとは思っていなかったのだ。
絶対これだ!と思った答えは違った。いくら考えても他の答えがみつからない。
思わず唸り声を上げた時、美香の背後から声が聞こえた。
「カラーコード……ですかね」
美香が勢いよく振り向くと同時に後ろにいた柊真が後退る。
興奮状態の美香はかまわずに柊真に詰め寄った。
「それだ! ありがとう柊真くん!」
気圧された柊真がおずおずと頷く。
未だ興奮状態の美香はそのままの勢いで柊真をゲームへと誘った。
「ねぇ、今暇? もし、時間あるならこれ一緒にしない?」
今になって思えばまるでナンパの常套句のような言葉だが美香にはその気は一切なかった。
それは柊真にも伝わったのだろう。柊真は一瞬逡巡した後美香の誘いに頷いた。
二人は初めてとは思えないほど息のあったプレイでクリアまで一気に駆け抜けた。
そして、このことがきっかけで二人は顔を合わせればゲームの話をするようになり、いつしか一緒にゲームをする仲にまでなった。
美香はシャワーを止めると浴室から出た。
まるでタイムアタックをしているかのように手早く着替えスキンケアを終わらせると、足早にリビングへと戻る。
リビングでは柊真が準備万端の状態で待っていた。
――――他のゲームをしていてもよかったのに。
とは思ったが、律儀な彼らしいとも思い苦笑する。
美香は柊真の右隣に腰を下ろした。いつもの定位置だ。
「おまたせー」
「いえ……髪の毛乾かさないんですか?」
柊真の指摘に美香の肩がギクリと揺れる。
美香の髪はロングだ。つまり、乾かすのに時間がかかる。
面倒くさがりの美香の選択肢は自然乾燥一択だった。
美香が無言でいると柊真が立ち上がった。
この家に何があるかをほぼ把握している柊真はドライヤーの位置も把握している。
戻ってきた手にはドライヤーが握られていた。
項垂れる美香の髪を柊真が乾かす。
これではどちらが年上かわからない。
せめて今からでも自分で乾かすと言い出したいところだが、こうなった柊真には何を言っても無駄なのは経験済みだ。
諦めて目を閉じているとしばらくしてドライヤーの音が止った。
美香は閉じていた目を開き、後ろにいる柊真を見上げた。
「ありがとう」
「いえ……あの」
柊真が何かを言おうとした時、リビングの扉が開いた。
「あ、やっぱりここにいた」
どことなくすっきりした顔の拓が現れた。
「た~く~」
美香の険しい顔を見て、拓が顔をひきつらせる。
「ふ、二人とも今からゲームするんだろ? 柊真、俺先に寝るからな! 姉ちゃんもほら早く始めないと時間がもったいねえぞ!」
拓は早口で捲し立てるとリビングから出て行った。
「逃げたな」
美香が憎々し気にリビングの扉を睨みつける。柊真はその隣で苦笑していた。
柊真に見られていることに気付いた美香はわざとらしく咳をして話題を変える。
「ちなみに、私はクリア耐久するつもりなんだけど柊真くんはどう?」
美香が挑戦的な視線を向けると、柊真はにやりと笑い返した。
「いいですね」
その心意気やよし!と美香はゲームを開始させた。
序盤はサクサク進んでいく。この調子でどんどん進めていこうと張り切っていると柊真が不意に質問をした。
「そういえばいいんですか? ……彼氏さん」
美香の指が止まる。
柊真が疑問を持つのもごもっともだ。美香に彼氏ができてからはこうして柊真とゲームすることはなくなっていたのだから。
「別れた」
美香は簡潔に答えると再び指を動かし始めた。
けれど、今度は柊真の指が止まる。
仕方がないと美香はコントローラーを置き、柊真を見た。
「どうしてですか?」
目が合った瞬間ストレートな質問が飛んできて思わず苦笑する。
美香が彼氏と別れたのは数時間前だ。
しかも、彼氏の隣には彼が教育を担当している新人の子がいた。
最近、彼氏と新人の子が噂になっているのは美香の耳にも入っていた。けれどそれは単なる噂だと思っていた。男女のペアは邪推されることが多く噂になりやすいからと気にも留めていなかったのだ。
そんな美香にとって別れ話は寝耳に水だった。
しかも、接待を終えたばかりですでに疲労はピークを迎えている。
本来なら彼氏に癒してもらいたいタイミングでトドメを刺されたのだ。
あまりのショックに怒ることも泣くこともできなかった美香は「わかった」とだけ言ってその場から逃げ出した。
「別れ際に『今まで俺の趣味に嫌々付き合わせて悪かったな!』って言われたんだよね。確かに私はインドア派だけど彼と出かけるのは楽しみにしていたのに……でも、彼にはそうは見えなかったんだろうな……」
そして、その隙を彼と同じアウトドア派の新人の子が埋めてしまったのだろう。
自嘲を浮かべる美香を柊真がじっと見つめる。
柊真は苛立ちを含ませた声で言った。
「そうだとしても浮気をしていい理由にはなりません」
何とか自分を納得させようとしていた美香の目頭が熱くなる。
美香はわざと声を荒げた。
「そうだよね! あー今になってムカついてきた! よし、このイライラは敵にぶつけよう!」
美香の勢いに押されたのか柊真も今度は素直に頷く。
ゲームを再開した後は二人とも夢中になり、すっかり元の雰囲気に戻っていた。
気づけば午前三時を回っている。
自動セーブが終わったタイミングで二人とも自然とコントローラーを手放した。
「区切りがいいし、一旦休憩にしようか」
「そうですね」
美香は二人分のホットコーヒーを入れ、片方を柊真に渡した。
――――あ、これ柊真くんには苦いかも。
渡した後で気づき、こっそりと様子を窺う。
柊真が気にした様子もなく飲んでいるのを見て美香もコーヒーに口をつけた。
一息ついた後、美香は口を開いた。
「まだまだいけそう? 眠かったら続きは後日でもいいよ」
「余裕ですね」
食い気味に返ってきた答えに美香の頬が緩む。
「いやー長時間同じ熱量で付き合ってくれるの本当にありがたいわ」
「いつでも呼んでください。というか、俺の方こそ毎回無料で遊ばせてもらって申し訳ないです」
そう言って苦笑する柊真に今度は口が緩んだ。
「次に付き合うなら柊真くんみたいな人と付き合いたいなあ」
言ってしまってから我に返る。
「ち、違うからね! あくまで『みたいな人』ってことで柊真くんと付き合いたいなんて思ってないから!」
せっかくできたゲーム友達を失うなんて嫌だ。
しかも柊真とは好きなゲームの種類やプレイングも似ている。とても貴重な存在なのだ。
そんな大切な存在を失いたくなくて美香は必死で説明したが、柊真の反応は想定外のものだった。
「そんなこと言われなくてもわかってますよ」
怒りを抑えたような口調で言われ、思わず美香は口を閉じる。
――――私の言い方が気に障ったのだろうか。
美香は慌てて謝ろうとしたが柊真に遮られた。
「『みたいな人』じゃなくて俺じゃダメなんですか?」
「……え?」
言葉の意味が理解出来ずに混乱する。
「ダメなのは柊真くんの方だよね?……一応私も女だし。え?もしかして私のこと男だと勘違い」
「してるわけないでしょう」
呆れたように言われ言葉に詰まる。
その間にもじりじりと柊真が距離を詰め、美香はソファーの端まで追い詰められた。
「しゅ、柊真くん。と、とりあえず一旦お、おちついて」
今にものしかかってきそうな勢いの柊真を両手で押し返す。
しかし、柊真は蕩けそうな笑みを浮かべて美香の手を絡め取った。
「こんな美香さん見るの初めてだ。意識してくれてるんですね」
「え……あっ」
柊真の笑みに見惚れた瞬間、美香の身体は後ろへと倒された。
両手は柊真の手でソファーに縫い付けらている。
あまりの手際のよさについ本当に恋愛経験がないのかと疑ってしまう。
その瞬間鋭い視線を感じてビクリと身体震えた。
逆光で柊真の表情はよく見えないが、その目が自分を捉えていることだけはわかる。
影は徐々に濃くなり、互いの吐息が重なる。
あっと思った時には唇にあたたかくて柔らかいものが触れていた。
触れていたのはほんの数秒。
美香はゆっくりと離れていく熱を名残惜しく思う自分に戸惑っていた。
「……すみません」
柊真が口にした謝罪の言葉にツキリと胸が痛む。
追いつけない自分の気持ちの変化に美香は気づかないフリをして笑って答えた。
「いや、私も避けなかったし。きっとお互い眠くて頭が回ってないんだよ。続きはまた今度にして寝よ寝よ!」
この話はもう終わり!と柊真の身体を押し起き上がろうとした。
けれど、柊真の身体に拒まれる。柊真は逃がさないようにと美香の上に覆いかぶさったままだ。
呆然と見上げる美香を見つめて柊真は言った。
「違いますよ。俺が言った『すみません』は、弱ってる隙をついて『すみません』っていう意味ですよ」
「別に弱ってなんか」
「嘘つき」
そう言い切って柊真は美香の頬に触れた。
その手が思いのほか優しくて、全く泣くつもりはなかったのに涙が零れる。
ついでに誰にも吐くつもりはなかった弱音も零れた。
「私は本気で好きだったんだよ。確かにお互いの趣味は全く違ったけど、私はそれがいいと思ってた。彼のおかげで知らない世界が広がっていくあの感じが好きだった。でもそれは結局私の独りよがりだったんだよ。……ばかみたい」
柊真が絞り出すような声で呟いた。
「美香さんにはそんな男なんかよりもっといい人がいますよ」
美香が「いるかなあ」と呟くと柊真が「います」とすぐに返した。
美香は「そっか」と言うと目を閉じてそのまま意識を手放した。
気絶するように寝てしまった美香を前に柊真は固まる。
美香が起きないのを確かめ、柊真はゆっくりと身体を起こした。
起きてびっくり。
目を開けるととても見慣れた天井が見えた。
上半身を起こして周りを見る。どう見ても自室だ。
――――柊真くんが運んでくれたのか。
……年下の大学生に慰められ、泣き疲れて眠った挙句、運んでもらったなんて恥ずかしすぎる。
美香は頭を抱えて唸り声を上げた。
ただ、全て吐き出したおかげですっきりしている。
元彼に対する気持ちも薄れている。
それよりも柊真のことがいろんな意味で気になって落ち着かない。
呆れられただろうか。
というか、なぜあんなことをしたのか。
もしかして、あれは夢だった?
考えだしたら止まらない。
「あ、あああああ――――――」
無意識に自分の唇を触っている自分に気づいて奇声をあげる。
いったいこれから柊真とどんな感じで接すればいいのだろうか。
答えは見つからなかったが、結局美香の心配は杞憂に終わった。
あれから一ヶ月、柊真とは一切顔を合わせていない。
元々、柊真が家にくるのは不定期だった上、たまに居合わせた時にゲームするくらいの仲なので連絡先も交換していない。
さすがに情緒不安定だった美香も落ち着いた。
とにかく今は仕事に集中しよう。ちょうど忙しい時期だ。男女のあれこれにうつつを抜かしている暇はない。
美香はひたすら毎日がむしゃらに働いた。
そんなある日。いきなり元彼に話しかけられた。
美香の中では完全に過去となった存在だ。
特別な感情は浮かんでこず、ただの同僚として挨拶を返した。
ところが、元カレはまるで付き合っていた時のように話しかけてきた。
「なあ。この後飯食いにいかね」
「はあ? 嫌」
思わず低い声が漏れた。
断られるとは思ってなかったのだろう。
元カレは驚いた顔をしている。
「元カノじゃなく今カノを誘ってあげなよ」
仕方なく助言すると、元カレは嫌そうな顔をした。
「アイツといるのは楽しいけどさ、それは休日で充分っていうか。仕事上がりの疲れている時にはキツイというか」
「いや、しらんがな」
思わず本音が零れて慌てて自分の口を押える。
美香は咳払いをして誤魔化すと改めて別の提案をした。
「一人で食べに行くか、弁当でも買って家で食べたらいいんじゃない?」
「いや、一人飯はちょっと……」
ああ言えばこう言う元カレを前に美香は段々イライラしてきた。
「とにかく、私は一人で帰るから」
そう言って踵を返そうとしたが、元カレに腕を掴まれ止められる。
ゾワリと嫌悪感が走った。
反射的に腕を振り払おうとしたが、その前に誰かが元カレの手を払い落とした。
腰を後ろに引き寄せられ、背中が何かにぶつかる。
驚いて後ろを見ると、元カレに鋭い視線を向ける柊真がいた。
元カレは驚いた様子で美香と柊真の顔を交互に見た後、何故か美香を睨みつけた。美香も負けじと睨み返す。
元カレがイラついた様子で口を開こうとした瞬間、さらにもう一人現れた。
「先輩待っててくれたんですか~?」
噂の今カノが元カレの腕に抱きつきながら優越感を滲ませた目を美香に向ける。
けれど、美香は全く動揺しなかった。
今カノは面白くなさそうな表情を浮かべてその後ろにいる柊真を見た。
柊真の顔を見た途端に今カノは目と口を開けて固まった。
今カノの頬はバラ色に染まり、目は潤み始める。その視線の先には柊真しか映っていない。
その光景をすぐ傍で見ていた元カレは一気に険しい顔になった。
今カノは元カレの様子にも気づかずにひたすら柊真を見つめている。
今カノが柊真に声をかけようとにじりよった瞬間、柊真は美香の手を引いて歩き始めた。
後ろで何か二人とも喚いていたが柊真も美香も振り向く気は一切ない。
手を繋いだまま無言で歩き続け、気付けば美香の家に到着していた。
美香はひとまず「ありがとう」とお礼を告げた。
柊真も「いえ」と言ったきり、無言で口を閉ざす。
でも、視線は痛いくらいに感じていた。
美香は迷った末、とりあえず柊真を家に招き入れることにした。
「拓はいないけどお茶でも飲んでいってよ。さっきのお礼に高級お茶菓子もつけてあげる」
扉を開けて中に促すと柊真は素直に中へと入っていった。
次いで自分も入り、防犯の為鍵を閉める。
ガチャリと鍵が閉まった瞬間、後ろから抱きしめられた。
持っていた鞄が手からすべり落ちる。
耳元で柊真の咎めるような声が聞こえた。
「この前のことがあったのに警戒しないんですね。そんなに俺のこと眼中にないんですか」
「そんなこと……」
柊真の言葉に反論できずに口を閉ざす。あの日から色々とキャパオーバーなのだ。
どう反応していいのかわからない。
それなのに柊真は追撃の手を緩めてはくれない。
「また同じことされてもいいってことですか?」
あの日のことが蘇りビクリと身体が揺れる。
柊真は逃がさないとでもいうようにさらに抱きしめる腕に力をいれた。
――――同じことってあれだよね……このまえのあれ……
「どうして?」
「その『どうして』は何のことを指してます?」
「いや、その、女性嫌いの柊真くんがなんで私にそういうことをしたがるのかわからないなーって」
本気で聞いたのに何故か柊真からは溜息で返された。
思わずむっとしていると、柊真が呆れたような声で言った。
「好きだからにきまってるじゃないですか」
勢いよく振り向き、柊真の顔をじっと見つめる。
――――え? 好き? だれがだれを?
美香が困惑しているのを理解したのか柊真は苦笑して一度咳ばらいをした後、改めて言った。
「俺は美香さんが好きです」
「……私女だよ?」
美香は自分を指さして確認した。柊真は呆れたように頷く。
「知ってますよ」
「その好きってlike?Love?」
「loveの方ですね。ちなみに、俺は美香さんとなら何回でもキスしたいと思っていますし、なんならその先もしたいと思っています」
頭の中で言われたフレーズがリフレインする。
理解した瞬間、全身が沸騰したように熱くなった。
柊真は美香の顔を見て嬉しそうに微笑む。
「その顔は俺にもチャンスがあると思っていいんですか?」
「し、しらない」
「嫌ではなく? さっきの元カレさんにはご飯誘われただけで即答してましたけど」
確かにと思い返す。元カレとはご飯食べに行くのすら嫌だと感じたが、柊真からの言葉は嫌じゃなかった。
ただただ、恥ずかしかっただけで。
美香は自分の気持ちに混乱しながらゆっくりと頷き返す。
「なら、これからがんばりますね。俺、恋愛経験はありませんけど、耐久戦と心理戦は得意なんです」
まるで捕食者のような目をして笑う柊真に美香はぶるりと身体を震わせた。
数ある作品の中から今作を見つけていただき、
最後まで読んでいただき、
誠にありがとうございます。