4. 猫吸いに匹敵する幸福感
「おっはよー。金曜は楽しかったね」
週明けからテンションの高い九条くんのことを彼女が睨んだ。
「な、なに? 玉木ちゃん、怖い!」
「ちょっとこっち来て」
去り際、彼女が僕の方を一瞬ちらりと見た。申し訳なさそうな顔をして。
「あいつら仲いいなあ」
やっかみ半分、からかい半分といった感じで誰かがつぶやく。
僕はしばらく我慢したものの、トイレに行くふりをして二人を追いかけた。二人の姿はすぐに見つかった。カフェスペースで、なんと彼女が九条くんのことを壁に押し付けていたのだ。いわゆる壁ドン状態だ。
押しの強い彼女に九条くんが困った顔をしている。その九条くんと僕の目がばっちりと合った。
「あ、室井先輩」
「仕事中に何やってるんだ」
見つかったなら、もはや堂々と振るまうしかない。わざとゆっくりと二人に近寄っていく。振り返った彼女は僕を見るやおびえた顔になった。それもそうか。今あらゆる感情を抑え込もうと、故意に無表情を取り繕っている自覚はあった。そして、そういう時の僕の顔は逆にかなり怖いらしいのだ。
「あ、あの。先輩。これは」
「会社でいちゃついたらダメじゃないか」
言い訳なんて聞きたくない。
「早く仕事に戻るんだ」
「……先輩! 勝手に誤解しないでください!」
彼女の大声に僕の目が大きくなり、九条くんが「わお」と小さく声をあげた。だが彼女は僕たちに構わず早口でしゃべりだした。
「私と九条くんはただの同期で、私のスマホに九条くんが出たことには何の意味もありません! それにこう見えて私、今まで恋なんてしたことありませんから!」
「そうなの?」
九条の横入りに「そうなの!」と彼女がうなずく。
「私、猫ちゃんを愛する会の会長だから!」
「……ふっ」
短いような長いような沈黙の後、僕は思わずといった感じで吹き出していた。
「玉木さん、ほんとに筋金入りの愛猫家なんだね」
「そうです! 私、生粋の愛猫家ですから!」
僕と彼女、お互いを探るように見つめ合う。やがて二人して自然と笑顔になっていた。
「……あー。俺もう仕事に戻ります」
なぜだろう、九条くんが去っていく。そして九条くんがいなくなると二人きりの空間はさらに穏やかなものになった。
「ちなみにさっきの状況は?」
訊きたかったことが素直に口から出た。
「九条くんのせいで先輩が誤解しちゃったから……ほんとに九条くんとは何にもないんです! 信じてください!」
「うん。わかった。ところでどうして九条くんは土曜の朝に寝ている玉木さんと一緒にいたの?」
「……九条くんが終電を逃しちゃって、それで仕方なく私の家に泊めたんです」
金曜は九条くんに頼まれて合コンを開催したのだとか。なるほど、だから二人しておしゃれをしていたのか。で、そこで好みの女性に出会ってしまった九条くんが緊張のあまり相当飲んでしまったそうで。もちろん、九条くんと彼女の間には最初から恋愛感情なんてなかった。
「勘違いしてかっこわるいな」
冷静になると急速に恥ずかしさを覚えた。すると彼女は「そんなことないです」と壁にもたれる僕の隣に並んだ。
「あの、よかったらまた先輩の家にお邪魔していいですか?」
そう言って見上げてくる彼女に、僕は顔が赤くなるのを自覚した。
「……いいけど。でも僕、玉木さんに一つお願いがある」
もう我慢の限界だった。
「な、なんでしょうか」
「ハナちゃんだけじゃなくて僕のことも好きになってくれると嬉しい、です」
僕の決死の告白に彼女が「なあんだ」と頬を緩ませた。
「私、先輩のことも大好きですよ?」
「……えーと。先輩だからとかハナちゃんの飼い主だからってことじゃなくて。僕が言いたいのは、その」
言い淀む僕の耳に、つま先立ちした彼女がそっと唇を寄せてくる。
「……私、先輩に恋してますよ?」
「え? じゃあさっき言ってたことって嘘?」
思わず姿勢を正した僕の胸に彼女が無言で飛び込んできた。
「たたた、玉木さん?」
「先輩のにおい、ずっと吸ってみたかったんです。ああ、いい匂い……」
ぐりぐりと胸に顔をこすりつけられる。
「待って! ここ、会社だから!」
「もうちょっと……もうちょっとだけ……。はふう……ハナちゃんみたいに気持ちいい……」
積極的な彼女にたじたじとなりながらも、実は僕も同じことを思っていた。いいにおいがするな、と。ぬくもりが心地いいな、と。……好きな人を感じられるのってこんなにも幸せなんだな、と。
「……うん、この幸福感は猫吸いに匹敵するね」
彼女の頭に鼻をよせ、たまらずつぶやく。だけどさすがは彼女、普通の女性なら怒るであろう僕の発言に「ですよね!」と満面の笑みを浮かべてくれた。
完
このたびは企画に参加させてくださりありがとうございましたm(_ _)m