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お城  作者: みぃ
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 雨宿りさせてもらった部屋を出る。

“ありがとう。またね。少しお金借りました”と書いたルーズリーフを一枚あとに残して。まだ連絡先も交換してなかったことに驚きながら、ちょっと迷って、名前は書き込まないことにした。昨日はかなり酔っていて、何て名乗ったんだったか忘れてしまった…


三時からクラウンホテルでアフタヌーンティの約束が入っている。商店街を駆け抜けて、(外は雨が降ってるらしい。歩き過ぎる人々みんなが濡れた傘を畳んで手にぶらぶら下げている。)一生懸命走って約束の時間にギリギリ間に合わせられそうだ。

トランプの兵隊みたいな肩幅の広い四角いドアマンが開けてくれる重たそうなガラスのドアを潜り抜けるときには、背筋をピンと伸ばし、薄紫色のドレス風ワンピースに似合わない穴の開いたリュックを腕でできるだけ隠して持つ。エレベーターには誰も一緒に乗り込んで来なかった。鏡に映り込む自分の目の化粧が濃すぎないかを点検しながら、最上階へと運ばれていくうちに息を整え、汗が引いていくのを感じとる。

「東本さんの名前で予約してると思います…」

カフェバーの入り口で店内をちょっと覗き込むフリをして、待ち合わせ相手が先に来てないか店員さんに確認をとってもらう。

「東本さんですね…どうぞ、こちらです」

海を見晴るかすソファの背にゆったりと背中を凭せ掛けて、もう先に席に着いて待ってくれている優しいパパに手を振り、笑顔でお辞儀する。

「すごく会いたかったです」

「八重ちゃん…うん。僕も…10階に部屋を借りてるから、この後はそこで…」

隔週に一度だけ会ってくれる優しい東本さん。最初のうちは値段交渉で少し揉めたけど、今は仲良しさんだ。三年くらい前に知り合って、それから今になって少しずつ本気で愛し始めている。もし仮にこの人がいなかったら今も大学には通えてなかったかもしれない。恩人でしかない。それに、ただ経済的に援助してくれているだけじゃない。本当にこちらを気にかけてくれている人の気持ちはじわじわと心に染み込んで、後からでも確実に分かってくる。本気で死にそうなくらい沈んだ気分になった時には命綱のような確かな心の支えになる。

「いなくならないでね。僕の癒しは八重ちゃんだけだから…」なんて、優しい言葉をかけてくれる。


 豪華な装丁のメニューを開いてシャンパンと紅茶をそれぞれ一つずつ選ぶと、香ばしい香りの湯気を漂わせながらまず焼き菓子が運ばれてくる。白手袋の店員さんがいなくなるのを待ちきれない気持ちで待ってしまう。

「この頃はろくなもの食べてる?」

「昨日は林檎を食べました。それから…後何食べたかな…」

東本さんが笑いながら、八重の背中の開いたドレスの腰から手を入れて背骨をさすり上げた。

「それはダイエット?お金がないから?」

「え…どっちかな…」ソファの中で身をくねらせてこそばゆい指から逃げかけながら、八重も笑い声を上げる。

「でもこーんな大きい林檎でしたよ。体にも良いし…」

「やえちゃんにはダイエットは必要ないよ。…この頃は大学にはちゃんと通ってる?お母さんとはあれからどうなった?仲直りできた?」

どう答えるかに迷ってもたもたしていると、また一つ質問が追加された。

「どこから大学に通ってるの?」

急に白けた気持ちになる。お互い答えられないと分かってることを聞かないで欲しい。

(私もう八重って名前じゃないし…)と思う。

東本さんと初めて出会ったお店では八重と名乗って働いていたけど、今は別のお店で別の名前で働いている。店を移るとき、一応移籍先と新しい名前も伝えたけど、

「三年間八重ちゃん八重ちゃんって呼んできて、僕にとってはやっぱり八重ちゃんは八重ちゃんだから…」

と言って東本さんは今も昔の源氏名で呼び続けてくれている。

八重歯は削って歯並びも整えたし、八重桜にも飽きて今の一番好きな花はプルメリアだ。でも本当は何て呼ばれても別に気にならない。優しい気持ちがこもった呼び方ならどんな風に呼ばれても同じ事だ。お馬鹿ちゃんと呼ばれたらそのように振舞う…おばあちゃんの家で飼ってるダックスだってこれによく似た芸をする。本当の名前はポッポだけど、コッコと呼んでもトットと呼んでも嬉しそうに目をキラキラ輝かせて走ってくる。自分のことを呼んでるなと分かればそれでいい。二人の間で伝われば…

 八重は詮索とお説教が少し苦手なだけだった。…せっかくためになると思って言ってくれていても。言われてることが真っ当なのは分かるんだけど…


 部屋は10014号室だった。ブラインドを上げてみる。神戸の街並みが広がっている。雲間から光が差し、山には雨上がりの印の白い靄がかかっている。すぐ真下を歩いている小さくて可愛い人々は傘をさしたりささなかったり半分半分くらいで、爪楊枝よりも小さい身長で、ちゃんと信号を守って走る小さな車の流れを横断歩道の前に集まってきてみんなで見送っている。ところどころ雨の粒に滲んで歪められたり拡大されたりした風景。鋭いクラクションの音さえも、ここにいれば耳に届くまでに遮音ガラスに遮られ、くぐもって、小さくまろやかな他所事の響きに変わる。

「今度は山側だぁ」

「さっきの景色に比べると見劣りするな…」

「まだお昼過ぎだから…夜景になれば多分凄く綺麗なんじゃないかな…ちょっと待って…」

周りのマンションやオフィスビルの窓もいくつかは中で人が動き回って働いてるのが見える。太陽の光をいっぱい浴びられるように窓辺に並べて置かれた観葉植物の緑の葉が揺れるのも、せっかくの大きな窓を覆いつくす日に焼けたカーテンのまだらに色褪せた襞も、ここからハッキリとよく見える。向こうからも見られているかもしれない…

「ちょっと、ちょっと…待ってって」

八重は慌ててブラインドの紐を引っ張り、慌てすぎて引っ掛けて、ガシャガシャさせてやっと床まで下ろし終えたときには、もう服を身に着けていなかった。ワンピースは東本さんが腕に引っ掛けて持ち、ブラは後ろのソファの背凭れに載っている。下はもともとから履いてなかった。

「ああ、もう」笑いながら振り返る。東本さんはカメラを構えている。八重は窓に背中を向けてもう一度ブラインドを天井まで一気に引き上げた。眩しい光線が耳に首に肩に背中に燦燦と降り注ぎ、血まで染み通ってポカポカ体が火照った。カメラに向けてにっこり微笑んだ。

「どうせ撮るなら綺麗に映して」

「逆光で写りが悪くなったよ」

「どうでもいい」

「綺麗に映りたいんでしょ」

写真写りに評価を付け合ってから、メロン色の水着に着替え、ガウンを羽織って宿泊者用エレベーターを使い温水プールのある8階まで降りた。

東本さんは昔はジムで水泳のトレーナーをしていたらしい。でもそれは30年近く前の学生時代の頃のことで、今は机の前にぼんやり座って空間を眺めるだけみたいな退屈な仕事をしてるから体が鈍りそうなんだとよくぼやいている。愛人に何度教わっても八重は息継ぎができない。

「絶対に水を口に入れないようにしようとするからそんな変な立ち泳ぎみたいなことになるんだ。途中まではうまくいってるのに」

専属コーチが厳しく指導してくれる。広々とした温水プールには飾り物みたいな監視員の他に誰の姿もまだなくて、図書館よりも静かだ。声が響かないように二人は顔を近寄せて小声で話す。

「多少は水を飲むつもりで…そう怖がらず。もう一回。ほら頑張りなさい」

「もういい。息せずにあっちまで泳げるもん」

「そんなことだから八重はこれも下手なままなんだ」いきなり抱き締めて東本さんが八重の唇にぶちゅっと口を押し付けた。八重はきゃあきゃあ言いながら相手の胸に手を突っ張って距離をとり、監視員さんを気にせよと視線で合図した。

確かに、八重はディープキスが苦手だ。小鳥がつつき合うような可愛いのしか受け付けない。それは仕事の時に限らず、彼氏ができてからも同じことだった。ベチョベチョして、汚くて、別に夢のような美味しい味がするわけでもない。本当にウットリとなれるのは最初の数秒間だけで、あとはずっと我慢。黴菌の事とか口臭の事とかを考えないようにしながら、しばらくは耐えていられるけど、舌を混ぜるとかはやっぱりどうしても駄目だ。汚いとか気持ち悪いとしか思えない。そういう希望に添えないのは売春婦としては失格なんだろう…お金を払って雇ってもらってる以上、できるだけ男の人の願望を叶えてあげたいから、(それに純粋に不思議でもあって、)探求するため、お客さんに聞いてみたことがあった。

「何が良いの?ベロベロするののどこが?誰が何のために始めたんだろ?」

「何って…」(それを聞いた相手は東本さんではなかった…誰だったか忘れてしまったが、その時その相手の顔に浮かんだキョトンとした表情だけが印象に残ってしまって忘れられない。まるで「えっ…みんな気持ち良いのが当たり前じゃないの?」と一途に思い込んでたのを目が物語っていた。)それから他にも何人かの深い口づけが好きな人々の意見を聞いて(ある女の子は付き合う前にそれで相手と自分との身体の相性が大体分かると言い切ったし、別の子は「気持ち悪さを乗り越えてしか辿り着けない気持ち良さの境地がある」と言った。けれど、最初に聞いた男の子が「そんなにどうしても気持ち良くなれないんだったら無理してやることじゃないのかもね。人それぞれだから…気持ちよくしてあげようと思ってやってるのが逆効果なら早くそれを相手に伝えて別の気持ち良くなるやり方を探す方が良いよ」と言ったので、)結局自分は自分だという結論に達した。

「別に競技に出たいわけじゃないし、自分が今のままでも気持ちよく泳げてるから私は息継ぎできないままでいい…」

「溺れてしまえ」

東本さんが八重の頭を掴んでぐいぐい水面下に押し込み、水責めにした。八重はキャーキャー笑ってプールから上がり、監視員も休憩室へ消えた誰もいないプールサイドに初めての足跡をピシャピシャ残しながら走って、もっと水温の高い小さなドーナツ形のジャグジーへ逃げ込んだ。すぐに後を大股で東本さんが追いかけてきた。

「はあ。せっかくお腹いっぱいになれたのにまたお腹が減ってきそう」

「夜は肉を食わせてあげますよ、お嬢さん」

「やった、ありがとうございます。いつもこんなに幸せだったらいいのになぁ」

東本さんは頬に苦笑を浮かべ首を横に振った。

「家族にもこんなサービスはしたことないよ。でも八重ちゃんにはいっぱいいるんじゃないの?僕の他にも優しくしてくれる親切なおじさんたちが…」

仮にいるとしても、「そうですよ、いますよ」なんて絶対言えない。だけど思うのだ。(そう言うなら明日も明後日も面倒見てよ…貸切って養って…それができないなら黙ってて…)

「…背泳ぎなら…ずっと顔が空気に触れてるから、どこまででも無限に泳げるかなぁ」

顎までお湯に沈んで温まりながら聞いてみると、やってみるか、とまた鬼コーチが目に火を灯して八重の腕を引っ張り、25mプールへ連れ戻した。

「まず浮かないと話にならないぞ…もっと俺に体を預けて。支えてるから。腰の下に手を当ててるの感じとれるはず…信じて!」

「信じてるけど…」

「緊張してるから、ほら、体に力が入って硬いから沈む。だから心を許して…ぼーっと、リラックス。開放して。もっともっと、俺に全部委ねて。うん、そうそう、おお…上手い上手い。だんだん良くなってきたよ…水より柔らかく、体をふわーっと開く感じ…水と一体になるような…溶け込むような…もう少し脚を開いて…力を抜いて。そうそう…浮いてるよ。そのままそのまま、その感覚を体で味わって、覚えて。自分も波の一部になったみたいに…」

八重はクスクス笑いが始まって止まらなくなってしまい、水をがぶっと飲んで心砕け、バタバタもがいて水底に足をつけ立ち上がった。

「なんで笑っちゃう?」東本さんも笑いながらしかめ面を作った。

「なんとなく、何かエロいなと思って。ジムで働いてたときのこと想像してみたら…」

「ああ…女の子を受け持つのが嫌いだった。そう言われてみたら。勝手に勘違いしてくるから…」

バナナの木に隠された更衣室の出入り口で賑やかな声が響き、ビーチ板を持った家族連れがペタペタお揃いの色違いのサンダルを履いて現れた。八重の15歳上くらい、東本さんの15歳下くらいの、二人のちょうど間くらいの年頃の夫婦が穢れたものを見るような目…とまではいかなくても、何かちょっと曰く言い難い目つきでジロジロと見てはいけないものを見るようにこっちを見てくるのが分かった。子供が同じ水に浸かるのが嫌そうという感じだった。(こんな公共の場でイチャイチャしてくれるなよ…)という牽制の意味を込めた目付きなのかもしれない。

東本さんが白い壁にかかった白い影のようにシンプルな時計を見上げて言った。

「よし。引き上げよう。これから親子連れで混みそうだから。続きはベッドで教えてあげるよ。」


 抱きしめ合ってゆらゆら揺れる。風の中で絡まり合った二本のすすきみたいに、サラサラ髪が擦れ、縺れ合う。いつもみたいに、八重を後ろ向きにさせてまず東本さんが最初にしたのは、背中のほくろを指先でなぞって探し当てることだった。

「あったあった。ここに…僕のほくろ」と言って大喜びした。それはいつだったかの昼下がりに、裸で布団の上に眠ってしまった八重の隣で小腹が空いたのを埋めようとクッキーを一人でボソボソ食べていて、ポロリと小さい破片をこぼし、これかなと思って摘まみ上げようとして、間違えて抓ってしまい八重を飛び起こさせることになった、いつ見ても東本さんにはツボにはまってしまうらしいほくろだった。

「あのクッキー、チョコチップ入りじゃなかったのに…」

「まだそんなに笑える?」と振り返って見上げながら八重もヘラヘラつられ笑いした。


一度外して枕元のガラスのコップに入れたはずのピアスを探す。ぐったりとした幸福な倦怠感。このまま眠ってしまいたいけど、東本さんに「予約が7時だから…」と揺り起こされる。

「一緒にピアス探してよ。去年買ってくれたやつ…」

「カランって音立ててその中に入れるのを聞いたよ。」

(その時も腕の画面をじっと見てた…)と八重は東本の横顔をじっと眺めながら思った。今も彼は腕時計を気にしている。

「明日の朝は何時までいられるんですか?」

「今夜帰らないと。奥さんが急に出張から帰ってくることになったから。今夜は一人でゆったり眠れるよ。僕が帰った後、この広い部屋を独占して」

「わあ~」八重は半分は本気で嬉しくてもう半分の半分は本当に寂しかった。残りの気持ちについてはよく説明がつかないもやもやしたものだった。認めたくないがやっぱり寂しいのかもしれない…でもそれは特定の想う人がいない人間の漠然とした寂しみだと思いたかった。なぜなら、八重は、自分をプロだと考えていたかったから…プロの娼婦なら肉体だけじゃなく心も切り売りできなくてはいけない、いつスパンと『これで終わりだよ』と馴染みのお客さんに爽やかに宣告されても、『了解です』とすんなりと受け入れなくてはいけない。傷付いたり被害者ぶったりしない。こちらには恋愛感情はなく、相手が求めるから恋をしているフリをしてるだけ…私は自分の感情くらいコントロールできる。この人のことを愛してなんかない。そのためにもお金を貰ってるんだから…奥さんへの返信の文面を考えている東本の横顔をあまり見なくて済むよう、自分も自分の携帯電話を弄る。

「お金忘れないうちに今渡しておくね」

「はい」八重はベッドサイドの寄せ木細工の小テーブルの上に揃えておかれた紙幣を見た。

「朝は部屋に温かいパンを持ってこさせよう。最上階にビュッフェもあるけど騒がしいし…落ち着いて部屋で食べたいよな…ルームサービスのオーダー表はどこだ?」

ベッドの上で座ってぼんやりしている八重をそっとしておいて東本さんはソファテーブルに置いてあるパンフレットをいくつかぱらぱらとめくってみた。

「あった。これだ。和食と洋食を選べるけど、洋食が良かったよ。両方食べてみたことがあるけど、和食はいまいちだったから…洋食でいいね?ここのクロワッサンは名物だよ。ジュースは何が良い?オレンジ、グレープフルーツ、トマト、ベジタブル?」

東本さんはチラッとベッドの上の八重を見て、聞いてないみたいなので勝手に選ぶことにした。

「グレープフルーツかな。シリアルはどうする?コーンフレーク、オールブラン、ブランフレーク、グラノーラ?」

まだ反応がない。もう次の仕事のことでも考えてるのか、誰かへの返信のメッセージか何かを入力し始めた。飄々としてるところが八重の可愛いさだと思うことも多いけれど、たまに耳が聞こえなくなってるのかと不審になるほど一人の世界に入り込むことがある。頭の働きの鈍さには疑問を感じる。もともと回転が速くはないのだろうが時々はわざとかと思うほど動作や質問に対する答えが遅い。普段からたまにフリーズしておいて、本当に答えたくない問いかけにもそうやってのらりくらり誤魔化してやっていこうという魂胆なのかもしれない。彼女を心配しているし全力で助けてあげたいのはやまやまだけど、実はなかなか要領よくやっていけてるのではないかと疑うこともある。もしかして俺より稼いでるかもしれないぞと感じることがある。約束すれば必ず時間通りに指定のホテルに現れるけれど、どこから来たのか、そして手を振って別れた後はどこへ帰るのか、互いに知らない。東本さんは一生懸命に考えてあげるのも馬鹿らしくなって適当に女性が好みそうだと思う項目にチェックした。(それはこの前に奥さんと泊まった時に奥さんが確かこれを美味しいと言ってたっけなと思う選択肢だった。)

「最後。飲み物は自分で決めて。」

ベッドまで歩いて行き、注文票で八重の手を叩いた。ハッとしたように八重が視線を上げた。

「僕は朝食を食べないから自分で選ぶんだよ。これをドアノブにかけて外に出しておけば選んだ時刻に届く」

「ありがとうございます。今日一日で栄養満点だぁ」

八重は心から感謝して言った。


 鉄板焼き屋さんを出ると東本さんは「じゃあね、ホテルまで一人で帰れそう?」と急いで道端で手を振って八重を残し帰ってしまった。八重はニコニコ手を振って見送った。家ではまた奥さんが用意してるものも食べないといけないらしく、東本さんがこちらの皿へポイポイ塵箱みたいに高価な料理を放り込んできたので、できるだけ残さずに食べたい質の八重も最後まで全部は食べきれなくなった。お店の人に我儘を言ってご飯はお土産用のわっぱ容器に入れてもらい、東山の分も合わせて二つ手にぶら下げて持っていた。

(でもこれいつ食べよう…)

バイバイした手をゆっくり下に下ろす。そこは横断歩道の前だった。信号が青に変わり周り中の人々が進み始めたので、とりあえず道を渡った。手錠を弄びながら立ち話して客引きの相手が通りかかるのを待っている二人の可愛いミニスカートの婦人警官の前を通り過ぎた。町全体が酔っ払ってるようだ。曇り空が町明かりを反射して夜空は不思議なほど薄明るい。上を見上げながらぼんやり歩いていたら、まだ早い時間帯なのにすでにフラフラな友達を両脇から支え、次に行く店の相談をし合って歩いて来た三人の陽気なお兄さんにぶつかりかけた。

「おおー、あぶないよー」

「ごめんねー」

人にぶつからずに真っすぐには歩けない。すれ違う人、追い抜きたくて煽ってくる人、道の真ん中で跳び箱の罠みたいに座り込み顔を白く照らされながら携帯を弄ってる人、スタスタ軽快に歩いていたのに突如方向転換する人、自転車で突っ込んでくる人…みんな声が大きくてセカセカしていて体格が良いみたいだ。そしてみんなゆらゆら揺れている。ちょっとお酒を飲み過ぎたかもしれない…建物さえもが、しっかり地面から垂直に立ってるかどうか怪しく見える。でも気分は悪くない。まだ眠りたくない。雨に洗われて空気は澄み、火照った頬を撫でて吹き抜けていく10月の風が心地良い…一人でホテルに戻って閉じこもるにはまだ早い…ここにはいればまだ何かが起こりそうな予感がする…

後ろから小走りで近寄って来た誰かが、ぽんと肩に手を載せた。

「小松さん?」

その名前にも相手の男にも覚えはない。でも人懐こい目の表情には馴染みがあった。

「小松菜奈ちゃんかと思っちゃった。そっくりだよ。一般人?凄く可愛くて…えーっと…お声をかけさせてもらったんだけど…ご飯行かない?」

「いや…今お腹いっぱいなんです」

「荷物持ってあげようか?」

「…」一人では寂しいけれど、まだ誰にも捕まりたくもない…

「ナナちゃんはお仕事何してる人?学生さん?」

「…お兄さんは?」

「お兄さんじゃなくて僕の名前はケンジ。普通の会社員。お姉さんは?お名前」

「ナナです」

「本当!?嘘?えー!嘘っぽい…教えてよー!…まあいいや、当てるから。じゃあお茶しながら当てるから奢らせてよ。一杯だけ。」

ナナは立ち止まった。赤信号で周り中のみんなが立ち止まっていた。横断歩道の向こうは駅で、ケンジ君はこの信号が青に変わったらナナが電車に乗って帰ってしまうと思い込んだのか一生懸命に刻み始めた。

「1時間だけ。ダメ?じゃあ30分…15分でいいから。お願い。じゃあ10分ならいい?…5分?」

ナナはクスクス笑い始めた。

「5分で何ができるの」

「連絡先交換くらい?あと、ナナちゃんの好きな飲み物が何かは分かるかな」

「そっか」

「ね?5分でいいから時間頂戴?3時間でもいいよ。なんならうちに来る?永遠にいてもいいわ。ナナちゃんなら」

「家この近くなんですか?」

「王子公園」

「…ふーん」

「え?うち来る?」

ナナはニコニコ笑いながら首を横に振った。信号が青に変わり、一斉に動き出した人混みの中でナナはまだ立ち止まって憎めないケンジ君の黒い瞳に見詰められていた。

「え…えっと…どっか行きたいとこある?好きなカフェとか…」

「私クラウンホテルに泊まってるんだけど、そっちが来る?」

「えっ…」ケンジ君は言葉に詰まり目を丸くしてナナと見つめ合った。

「10014号室。あなたなら3万円でいいよ。」

ケンジ君が意味をようやく飲み込んだころには目の前からナナは消えていた。

信号は明滅する黄色から再び赤に変わったところだった。


ナナは歩きながらいつも持ち歩いているリュックのポケットに手を入れ、いつもは入ってない二枚の硬いカードキーに触れて、さっきまでの楽しい気分を取り戻そうとした。これから朝までゆったり肢体を伸ばして眠れるふかふかなベッドや、空気清浄機や、どこの国の言葉か分からない言語で流れるテレビ、質の良いアメニティ、広々として白とアップルグリーンの可愛いタイルで装飾されたお姫様が使うみたいなバスルームを思い出して…

(浴室には可愛らしい小窓も付いてたなぁ…熱い湯を溜めて明日の朝も浸かろう…洗面台にジャスミンの香り付きのバスソルトが置いてあったから…)

でもケンジ君に声をかけられてからは、無限に広がっていると思えた可能性はしぼんで縮み、子供の頃いつまでも空にぷかぷか浮かんでいると信じていた初めての風船みたいに気分は地に落ちて、ズルズル引き摺りながら歩いてるみたいだった。

ナナは真剣に(もう本気の恋はしない)と心に決めていた。


駅の高架下を通り抜ける時に、シャッターを閉めた花屋の陰の薄暗い隅の方で、無断駐輪の自転車のさらに奥に、ホームレスのおじさんが大きな繭のようなものを体の周りに作り上げて寝ているのが見えた。遠くからだとその姿は人か何か分からず、放り出された大きな荷物か潰れかけのテントかみたいだったので、

(あれなんだろう、見極めよう…)

と思って少し近くに寄ってみて、裸足の男の足の指が見え、被っているのが他では見かけない派手な継ぎはぎの柄のマントだったので、それで誰だか分かった。多分あの人だ…名前はもともと知らないけれど、知り合いの知り合いではある。

前の店で一緒に働いていた女の子が掛け持ちしていたコンビニで、日付が変わると廃棄処分になるお弁当を、深夜に店員が店の裏口の塵箱に捨てに来るのを、いつも四車線の道路を隔てた歩道の街灯に照らされて立ち、じっと切実な目をして待っていた…

ナナは友達を迎えに行って何度かその姿を見かけていた。

彼はまだ若くて(40代?)長身で、他のひっそりと目立たないように生き抜こうとしてるみたいな路上生活者とは一線を画していた。

 足を止めずに通り過ぎてしまってから、ナナは色々と考えて、大回りしてもう一度同じ道に引き返して来ると、おじさんから少し離れた場所に立ち止まり、手にぶら下げ続けて持ってきた袋の中にちゃんとお箸もお手拭きも入っているのを確認した。足元にそっと忍び寄る。裸足で寒くないのかなと心配になる…心積もりはしてきたけれど、余計なお世話だと怒鳴られることはなさそうだった。頭まですっぽりくるまって眠っているみたいだ。

潰れかけの空き缶がいっぱい詰まったおじさんの自転車の籠の一番上にお土産をそっと載せた。こちらは知っているけれど向こうがこっちを覚えていることはないだろう…音を立てないように後退りしてその場を離れ、ホテルに戻った。


お風呂場でワンピースを洗い、ペンケース兼メイクポーチからいつも持ち歩いているブラシと歯ブラシを出して、新品のアメニティと取り換えた。


翌朝は7時にドアベルの鳴る音で目を覚まさせられた。本当は一時間前に起きているはずだったのだけれど、うっすらと自分でアラームを止めた記憶がある。ベッドから飛び出して、ガウンを羽織って紐を結びながら慌てて走って朝食のワゴンを出迎えた。持ってきたのはひょろりと痩せた若いお兄さんだった。カチッとした制服の中で体が少し泳いでいる。寝乱れたベッドや寝起きの女性をあまりジロジロ見てはいけないという教育なのか、ただ自分でそう思い込んでるだけなのか、硬い表情で意識して真っ直ぐ部屋の奥の窓辺のソファテーブルを見つめて聞いた。

「窓辺のテーブルで召し上がられますか?」

「はい」ナナはテーブルの上に広げてやりかけだった課題を素早くまとめて鞄に突っ込み、ブラインドを上げて回って部屋に朝日を取り入れた。急に真っ暗だった室内に眩しい白い光が満ちた。

クロスを敷いたり食器を並べたりするのにもう少し手間取りそうなのを見て、手伝い方もよく分からないし、あまりジロジロ見ているのも感じが悪いかなと思い、浴室へ行き、銀色のつるりとした二つの蛇口をひねって湯と水を出しっ放しにし、溜めておいた。真っ白なタオルで手をふきながら部屋に戻ってくると、青年が深緑色の制服のベルトの位置で両手を組み、こちらに向いて直立して待っていた。

「あ、ごめんなさい…」

「こちらでお間違いないでしょうか」

指し示されたテーブルの上を眺めてみた。サラダやパンや紅茶のポット、こちらを向いている二人の顔が映り込んだ銀の丸い蓋つきの皿や、ナイフとフォークとスプーン、角を揃えて折り畳まれた純白のナフキン等が用意されていた。どことなく、整然とはしていない…少し間隔がずれ、位置も少しずつ歪んだりしているが…聞かれているのはそんなことじゃないんだろう…何か抜けてないかどうかとか…でも正解が分からないから間違いがあるかどうかも分からない…でも何か答えないといけないようだ。

「…はい…多分…」不安げな受け答えをしたので、青年も少し不安になった顔をした。急にお尻のポケットをゴソゴソしてよれよれになった朝食メニューの表を引っ張り出し、書いてある内容とテーブルの上に並んだ物を確認し始めた。ナナも近寄って行って真横に立ち、書き込まれたメモを覗き込んでみた。印刷された4つの朝食メニューのそれぞれの余白のところに下手な絵で食器と食べ物の配置図が描き込まれていた。

「…間違ってないと思います…これですよね?ヘルシーブレックファースト?」

「はい。すみません」

「では」青年は気を取り直してピンと背筋を張った。一瞬間近でナナの顔をジッと見下ろし、さっと目を逸らしてドアへ向かった。

「失礼します」早く出て行きたかったみたいに急いでお辞儀してドアを開け、身を翻してドアを閉めた。


 パンは本当に食べきれないほどの量だった。サイズは小さいけれど8種類もあったし、他にもねっとりした低脂肪のヨーグルトやシリアルやオムレツもある。東本さんが是非食べた方が良いと言ってたクロワッサンだけサクサク齧って、残りはそっとナフキンに包んでリュックの一番上にふわりと詰めた。昨日の夜手洗いしたワンピースはクローゼットの中でまだ雫を滴らせていた。ブラも全然乾いてない。自分が着ているガウンを脱いでワンピースをくるくる包み、ギュッと抱き締めて水気を吸い取らせ、ドライヤーを当てて強制的に乾かした。それに手こずって1限目の講義には遅刻した。

 教壇の横を通るとき、淀みなくマイクに向かって話し続けながらこちらを横目で睨んできた教授にペコリと頭を下げた。壁際を忍者みたいにするする歩いて一番後ろの席に着く。友達が隣の席から、とっておいてくれたプリントを差し出してきてくれた。

「ありがとう~」

「お前、そろそろ出席やばいぞ」

「うん」

「泊まりに来いって。そしたら毎朝私が叩き起こしてやるのに」

えへへと笑ってみずきちゃんを見た。

「笑ってる場合じゃねぇ。朝一の授業毎回全部遅れて来やがって…遅刻二回で欠席一回の扱いだぞ、お前…欠席何回でアウトか知ってるか?」

「愛してるよ、みずきちゃん」

「そこの遅刻してきた子!」マイクを通して気の短い老教授が吠えた。

「名前を言いなさい!遅れてきたうえにベチャクチャと…!」

「中山みずきです!」

「違います!」みずきちゃんが思わず椅子を蹴って立ち上がり、訂正した。

「松本きよはです!」

「ええい、サングラスを外しなさい!喋って授業を妨害しない!」

「すみません…」二人同時に謝った。

「他の子の迷惑になるなら出て行ってもらって構わんから…」白髪頭の小柄なおじいちゃん先生はギロッと睨んでから、読みかけていた参考書のページに目を戻し、どこまで進んでいたか指で行を追って探した。

「…寝てるならまだいいが…やる気のない…なんだあのピンク色の頭は…」

シャツの胸ポケットに刺したマイクが小言を拾って拡大した。

きよははみずきちゃんの視線を捕まえて笑い合おうと頑張ってみたが、みずきちゃんは本気で怒って前を向いたままなかなか視線を合わせてくれなかった。

お昼休みは一人で食堂で食べた。数少ない友達がどこかに見当たらないか、入り口のところから一階全体を見渡してみたし、席を探しついでに螺旋階段を登って二階もざっと探してみたけれど、誰も見付けられなかった。キャンパス内の女子寮に住んでいたもう一人の友達はみずきと同じくらい打ち解けて、頭は悪かったけど凄くまじめで、時々部屋に呼んでもらって難し過ぎる課題を一緒に考えながら眠ってしまったこともあったけれど、夏休み明けに地元から戻って来なくて、いつの間にか退学届けを郵送で済ませて辞めてしまっていたことが分かった。“どうしてるの?”“おーい?”“もう学校始まってるよー”等と何通かメッセージを送ってみていたけれど返事は返って来なかった。みずきちゃんは午後からは研修に出ていて大学にいない。

窓ガラスに向かい合わせるカウンター席にリュックを下ろし、降り出した雨を眺めながら、一人でナフキンに包んだ朝食の残りのパンを出してもそもそ食べ始めた。自分で自販機で買ったのは紙パックの牛乳一つだけだ。

(お昼ご飯代まで浮いちゃったなぁ)と思った。東山さんにありがとうのメッセージを送っておこうかなと閃いて、一枚写真を撮ってみた。モグモグしながら添える文章を考える。

「朝食べきれなかったパンを今学食で食べてます。美味しいー。ありがとうー!」

本当の気持ちなのに、なんか嘘臭くないかと不安になってくる。恩に着てますアピールというか、結局は営業っぽくないかなと…そんな気がしてきたらますますそういう風に見えてくる。

(そういえば次に会う約束してないな…)と気付いた。いつもならバイバイの前にこの次はいつ会おうかと東山さんの方から聞いてきてくれるのに…昨日は慌ててたからかな…

きよははできるだけ自分からは、次に会う日を聞かないことにしている。自分から押し売りするようでなんとなく気恥ずかしいから。それに、「ごめん、次はないよ」なんて言葉を聞きたくない。サヨナラを口に出して告げられるくらいなら、いつも通りにニコニコ手を振って永遠のお別れにして欲しい。(そう言えばあの人にもうずっと呼んでもらえてないなぁ)と思い出しても、こちらからは連絡せずに自分に都合のいい解釈をするから。(きっと事故に遭ったか、奥さんにバレたんだ、本当は会いたいと思ってくれているけれど会えない事情が何かあるんだ…)と。飽きられるかもしれないという怯えはずっとある。だから、本当にそうなった時、事実など教えてくれなくていい。初めから終わる準備はできている…

朝はもっと柔らかくて美味しかったパンは時間が経ってふわふわではなくなっていたけれど、それでも柔らかく、バターの味が濃く、あと7種類もあって(ポテトとチーズが乗ってるの、ナッツが練り込んであるやつ、シナモンロール、オレンジピールとチョコチップが練り込んであるの、等…)どれも美味しかった。

時々泣きそうになる。実のお父さんからは学費を融資してもらえなかった。それでもこうして赤の他人の優しいおじさん達が少しずつ手を差し伸べて私を支えてくれている。この感謝を言葉で言い尽くす事はできない…

全部のパンを食べ終え、メッセージも写真も送らないことに決めた。

 ガラスの向こうでは雨がだんだん激しさを増している。歓声のような悲鳴のような声が響く。色もデザインもとりどりな傘を開いて悠々と歩く生徒達の間を縫って、傘を持たない学生達が笑い転げ鬼ごっこしながら駆け抜けて行った。急に後ろのテーブルの男子学生の会話の一片が音量を上げたように耳に飛び込んできた。

「…あいつ別れたらしいよ。その理由が彼女がパパ活してたからだって。」

「うええー」

「気持ち悪―」

背筋がゾッと水を浴びせられたように強張り、思わず後ろを振り返りそうになる。

「無理だわそんな女…」ハハ…嘲笑…

窓ガラスに映る影を凝視して、後ろを振り返らずに自分の事じゃないと分かる。でも他人事でもない…

 ずっと昔に言われて信じ続けた言葉を思い出した。

『俺は全部理解するよ。全部飲み込んであげられる。…だから俺のところへおいで…』

その言葉を私は頼りにし過ぎたんだ…それに彼は自分の言葉に縛られ過ぎた…

この人さえ理解してくれるなら自分はやっていけると思ってしまった。この人と二人の生活、将来のために、いっぱい稼ぐんだと考えて…彼の若気の至りの情熱的な一言を、一生涯の言質にとり、自分の行いを正当化する唯一の命綱にしていた。彼と一緒にいた間は自信と誇りを持って仕事していた…迷いは全部彼に預けてしまい、自分は完全に幸福で、認められた嬉しさで一人だけ薔薇色の幸せを謳歌していた…彼の苦悩に気付けずに…


 乱暴に椅子を引く音がして、後ろの席の男子学生達がトレーを持って席を立った。振り返るとさっきまでは空いた席を見付けるのが難しいほど混雑しざわめいていた食堂はみるみる潮が引くように閑散とし始めている。みんな次の教室に大移動し始めている。取り残されないように、急いで席を立つ。

 午後の講義にも身が入らなかった。今夜どこで過ごすことになるのかまだ知らなくて、考えて答えが出るものじゃないのにぐるぐるそのことばかり悩んで頭が一杯になっていて…これでは何のために大学に通っているのか分からない…いくつか掛け持ちしているアルバイト先のどこかに出ようか…出勤できるか今から聞いてみようか…それとも野崎公園をゆっくり散歩して、孤独を抱えた優しいおじさんが声をかけてくれるのを待つか…雨降りでも濡れることがなかった泉の広場の水はお巡りさんに底を浚われ、それでも人魚姫たちは陸に上がって泳いでいる…


 今日の全ての講義が終わると急に目が覚めたようになる。行動しなければ今夜の寝床がない。傘をさして公園の入り口に立つ。これまではすぐに声をかけてもらえる事ばかりだったのに、そうじゃない日もあるのだと初めて思い知った。凍えそうな雨のこんな寒くて薄暗い日になかなか誰もこちらへ近づいて来てくれない。後から来た子が先に売れていく。自分から積極的に売り込みをかけに行ける元気で明るい女の子たちが周りにたくさんいて、増え続け、人見知りきよはは怖気づき、気圧されて、目立たない場所へ隠れるように後退りした。誰かと視線を結ぼうとして掲げていた透明な傘がだんだん目線よりも沈んできて、外界を遮る角度へ俯いた。流れ落ちる大粒の雫を上目遣いに睨み続けていた。

 水溜りに踏み込んでしまったのか、片足だけ灰色が濃さを増して鼠色に濡れそぼっている履き古した白いスニーカーを履いた足が歩み寄って来て、すぐ横で立ち止まった。傘と傘が触れ合う。

「お姉さん…」やっと話しかけてきてくれた相手と目と目を合わす。50代くらい、太った人で、雨をついて蒸した汗のにおいが漂ってくる。

「はい」

「アルバイトしませんか?」

「はい」

「えっと、おいくらですか?」

「三万円くらい?」

「えっ、ちょっと高すぎません…?」

高い?そうなのかな…東山さんはもっと沢山くれる…一桁多いくらい…でもそれは二人の関係が深く長いからか?特別な相手だから大切にしてもらえているのかもしれない…

ここで初めて会ったこの人にとっては、きよはは複数人いる中から適当に選んだ一人の女、その辺に転がってる石ころと思い入れは全く変わらない、どれを選んでも大差ない、客待ちしている大勢の中の一人に過ぎない…

「普通二万とかだよ。一万五千円の子もいたし。美人で、愛想も良くて。」

「そうなんですか…」

値切ろうとしてるだけなのかな…分からない…値段交渉はいつも苦手だ。言い値をすんなり聞き入れてくれる人はすんなり好きになれる。値切られるとこちらの自信が揺らぐ。

「三万円じゃ高すぎるなぁ…」

本当はこういう場所での自分の値打ちをよく知らない…相場なんてお天気で変わるものなんだろう。これ以上雨の中に立って打ちひしがれた気分を深めたくない。本当に優しい人ならタダだっていい。でも酷い人なら100万貰ったって一億貰ったって嫌なのだ。でもホテルに入ってみなければ相手の正体は分からない。お兄さんは体を外に向け、立ち去りかけようとしている。

「2,5ではどうですか…」掠れ声が出る。

「高いよ?でも良しとしてあげましょう。そのかわり何でも言うこと聞いてよね」

何でもって何だろう…漠然と最後までという事かなと想像する。どうでもいい。嫌な予感しかしないけど、それすらどうでもいい…この場から立ち去れるなら何でもいい…

「名前なんて言うの?」

「ユウヒです。今日は見えない夕方の夕日の夕に、お妃さまの妃。」

すらすらと適当な嘘が口から滑り出てきた。

「へえ、夕妃ちゃん…」



続く


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