表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お城  作者: みぃ
7/40

ニューレトロビルヂング 3F  

 二人の姿は窓から丸見えだった。どちらも全然気にしてる様子はなく、風呂場にいた間中ずうっと薄皮をむいたゆで卵みたいにつるりとした素っ裸のまんまで、浴槽に浸かりながらぐだぐだ喋ったり、急に立ち上がって踊りだしたり、ちゃっちぃオモチャの水鉄砲を撃ち合ったりして遊んでいた。

商店街のアーケードの上に開いた窓の外には三羽か四羽の鳩がいるだけで、二人の側から見える全ての他の窓は暗く閉ざされているか、中に人影が見えないかだったから、こちらから誰の姿も見えないということは誰からもこちらも見られてないということだ、と二人は浅はかにも考えているみたいだった。それともなんにも考えてないか、もしくは見られてても写真とか動画に収められたとしても別にどうってことない、撮りたければ撮ればいいと考えているかだ。二人とも姿が良く、隙間がカビだらけの安物の割れたりヒビが入ったりしたタイルや錆びてぐらつく傾いた磨りガラスのドアノブが一緒に見えていなかったら、神話の世界の気怠げな神々がちょっと翼を外して遊んでるだけみたいに神々しかった。終わりゆく夏のまだ強い昼の真っ白な日光がカーテンのない窓から差し込み、二人の肌の産毛を黄金色に染め、水面に跳ねて増幅しプリズムみたいにキラキラ眩しく水紋を反射し続けていた。

 浴室の壁に反響して音楽をかけているせいで、話す声は途切れ途切れにしか聞き取れなかった。たまに女の方の高いひらひらした笑い声は旋律に溶け込んで風に乗りこちらまで漂ってきた。


 彼女の名前はリリ、男の方は仁。二人は同じ小学校で四年間机が隣同士だった。幼馴染だ。当時は二人ともチビで素行が悪く、縛り付けでもしない限り大人しくできない野生の生き物みたいにすぐフラフラ立って廊下の外へ遊びに出て行こうとするので、教壇の目の前に指定席を作られ、席替えの権利も奪われてずっとそこに座らさせられていた。小学生時代は最悪に仲が悪くて、二人とも一歩たりとも譲らない質なので、どちらかが相手の机を蹴り始めると、授業中ずうっと互いの机を蹴り合って何遍注意されても絶対にどちらもやめなかった。しまいにはこの現代において珍しく完全にブチギレた担任から一撃ずつ頭頂に強烈な拳骨を食らい、教室から追放され他の同級生たちが国語の教科書を広げて漢字の書き取りを自習している間に引き摺られて出て行って、階段だかトイレかの掃除をやらされていた。

 リリは二年生から転入してきて仁は五年生の冬に転校して行った。噂では、二人は高二の秋に再会した。それぞれ別の相手に付き添って同じ大学の文化祭に行くために駅からの広い遊歩道の5mも離れてないすぐ近くを歩いていた。安全な大学の敷地内に何事もなく辿り着いていたら二人とも互いに気付かないままだったかもしれないけれど、大学の門の手前でまだ慣れない運転のブレーキとアクセルを踏み間違えた初心者マークの車が突っ込んできて、リリの目の前で仁をはねた。二人が離れ離れだった間に訪れた成長期の急激な変化によって仁の外見は見違えるほど変わっていたのに、跳ね飛ばされた男の子が誰だかリリにはまだ相手が空中にいるうちにはっきりと分かった。衝撃音。悲鳴。その場で三台の携帯電話が救急車を要請した。仁の女友達は駆け付けた救急車に一緒に乗って病院まで付き添ったのを合わせて入院中二度お見舞いに来ると、これで自分の役目は終えたと判断した。そのあとをリリが引き継いだ。リリは一度だけブラっと立ち寄ったような格好で高校時代からサブバックとして使っているヨレヨレのトートバッグに入れて大きな梨を二つ、どこかの果樹園に忍び込んでもいできたようなむきだしでゴロンゴロンと持ってきて、皿もナイフもない病室で二人で皮ごと齧り付き、手と毛布を甘い果汁でベタベタにした。その日以降、ほとんど仁が退院するまでの間、そのむさ苦しい薄いカーテンを引いて仕切っただけの三人部屋の病室に住み着いたようになり、面会時間を過ぎても帰らず、深夜は看護師の見回りのない間、狭いパイプベッドに上がって一緒に眠った。愛し合っていたからというより、その頃はちょうどリリは家出中でどこでもいいから泊まる場所が必要だったのだ、と仁は思っていた。リリ本人さえそう思っていた。

 

「もう疲れた?」

浴槽から頭と火のついた煙草を持った左腕だけを外へ伸ばした仁が、自分の体を跨いで立っている唯を見上げて聞いた。

「なんで?」

「踊るのやめたから。なんで?もっと踊ってよ」

唯はちょっと小首を傾げた。

「音楽がしっとりしてるのに変わっちゃったからな。一緒になら踊るよ、立って」

「俺はいい」仁はケラケラ笑いながら拒否した。腕を掴んで引っ張られても全く協力しなかったので力のない唯はすぐに諦め、自分も浴槽の底にゆっくり沈み込んだ。湯から突き出した仁の膝と膝の間にやっと瘦せた肩をすぼめて小柄な体を落ち着けたと思ったら、次に始まった曲調のテンポが良くて気に入ったのでまたクネクネ腰を振って湯を波立たせダンスフラワーみたいに立ち上がって踊りだした。

「今日は何時間いられるの?」

「何時間でも。買い占めてくれるなら。」

「ツケで良い?」

「またぁ?」

「じゃあ帰れよ」

「…この曲が終わったら…」

その一曲が終わり次の曲に移行してもまだ唯は目を閉じて肩を揺らせていた。本当は二人とも別れの時刻が迫っていることを知っていた。水鉄砲を窓から撃って、商店街のアーケードの上にヒョロヒョロと芽を出して夏の間にすくすく伸びた、差し出した緑色の腕みたいな枝の先に青いふわふわした花を咲かせた雑草に水もやったし、ちっちゃい虹も作った。やりたかったことは全部やった。ほかに何もすることなどない…忘れ物もないはず…短い休み時間の終わり。唯がここへ来た時には山から吹き下ろしていた風の向きがいつのまにか変わっていて、今は海から潮の香りを運んでくる。

「踊れよ、」湯船の底に自分は身を沈めたままで仁がまた言った。

「どうせ立ってるなら。お前アホだけどお前が機嫌良さそうなら俺も気分いいわ。アホだな俺も。」

もうすぐ迎えの車が来る。唯は営業スマイルを口元に浮かべた。

「立て替えるのはこれが最後だよ。」

「いつもそう言ってるよな」

笑いながら唯は首を横に振った。


(笑え、もっと笑え)と働き初めの頃はずっと言われ通しだった。

城に来ていちこさんの下につくと決まった時に渡されたお揃いの手帳の裏に、自分でも書き殴った。

“笑え”“悦べ”“自分を洗脳しろ。早く”“ここが私の居場所”“慣れだ”“悩んでる時間が勿体ない”

魂に杭を打ち込むように引っ搔くような強い筆圧で太い油性マジックで書いたので、スケジュールをメモるためのページにまでインクが浸透し、12月の最後の週は手帳が使い物にならなかった。でも、もうその頃には時間の管理が自分の頭だけでは追い付かなくなっていて、既に専属の担当もついていたし、手書きでいちいち予約の予定を書き込むこともなくなっていた。今は受付が端末に送ってくる最新の次の予約を見るだけだ。アラームが鳴ってから次のアラームが鳴るまで。目の前のことと、せいぜい次の仕事のことだけで頭をいっぱいにして、グッタリと車に運ばれて行き、その場その場で求められる最善のことを考えて、行き当たりばったりに指示通り生きている。次々と指定されたベッドへ倒れ込むようにして。他の女の子達からは「よくやるよね」とか「飛ぶ鳥を落とすようって貴女の事ね」などと持ち上げたり嫌味を言われたりするけれど、実際にはただ求められるままをひたすらこなしているだけのことだ。他に何もできないから、自ら進んでお城の操り人形になろうとしてるだけの事だ。

自分の時間なんて何にもならないものはいらない、全部お城に捧げよう、そう思ってそのようにしているつもりだけれど、それでも時間はいくらあっても足りない…


 今朝、城の自分の寝室で、横になりながら姉に言い聞かされた。

ほぼ付き人というよりも母親のスカートのすそを握り締めて手放せない幼児みたいにいつもいつも姉にまとわりついているサヤが珍しくくっついてないいちこさんと、清掃の子たちが作業を終えたばかりの部屋の戸口で鉢合わせた。

「ちょっと今話せる?ちょうど良かった…」

いちこさんはほっそりした長い指でしっかりと唯の肘を掴んだ。

「疲れてない?」

「大丈夫です」

二人はピンと張ってしわ一つない唯の清潔で消毒薬の香りがまだ漂うベッドメイクしたてのベッドに並んで腰を下ろした。

細かく切れ切れの空き時間にしか眠れない、明るさに繊細な唯の部屋の大きな窓には、分厚い深緑色の最高の遮光度の巻き上げ式カーテンがかけてあり、たいていいつもピッタリと隙間なく床まで下ろされている。これさえあれば外の世界がどんなに日の光が降り注ぐ真夏の正午でも、映画館の中とか鬱蒼とした樹海とか深海とかドラキュラが昼寝するための棺の中とかみたいに簡単に暗闇を作り出せ、現実の時刻を無効にできる。ボタン一つの操作だけどそれすら唯には面倒で、普段から常にカーテンを下ろして自然光は一切遮断し人工の明かりだけに頼って生きている。そのためか肌は真っ白で血色が悪くしみもそばかすもないかわりに生気もない。

いちこさんのために唯は手を伸ばし枕元の抓みをちょっと捻って鎧のような幕を少しだけ上げ、足元から眩しい朝日を取り入れた。姉さんの部屋と繋がった広いバルコニー付きの贅沢な二部屋をせっかく与えられているのに、カーテンを上げるのはいつ振りか分からないくらいだ。

どんなに短い睡眠時間でも(というか短く貴重な時間だからこそ)しっかり内側から施錠して誰かが間違えてもふらっと入ってくることがないようにしてからしか眠れない癖も唯にはあり、ほかの女の子たちがのびのびと楽に倒れ込んだ場所でそのままグーグー眠れてしまっているのを見ると、自分ってもしかしてちょっとめんどくさい潔癖持ちなのかなと不安になることもある。

 血の繋がらない口下手な姉妹は何となく話し出す前に部屋をぼんやりと見まわした。

妹は姉に何を言われるのか、部屋に使い方の汚いところはなかったかと不安げに姉の視線の後を追って視線を彷徨わせ、姉はそこまでの考えもなく頭の中でこれから話そうとすることをどう口に出すか思案していた。

それでも、いちこさんは、アイスブルーと柔らかい梔子色の薄物に身を包んだ自分たちが鳥籠の中のセキセイインコみたいに小さく仲良く並んで映り込んだ唯の鏡台に目を止めて、一つ発見をした。

(さっぱりとして荷物が少ないせいで広く見えるのがこの子の部屋の特徴なんだな)と思った。

鏡台の上に並ぶ化粧品はミントグリーンの同じ会社の商品で統一されていて、おそらくは化粧水と美容液とクリームの一種類ずつしか並んでない。きちんと引き出しの中にしまえないで出しっぱなしなのはキクちゃんと同じだけど、一度気に入ったメーカーの品を長く愛用し一つを最後まで使い切ってからしか次を開封しない無駄のなさはやっぱり人柄が違う。唯には隙というものがない。

 いちこさんはさっき通り抜けてきた野菊の散らかった部屋を思い出した。

ショッピングや楽しい事が大好きで、珍しい物やちょっといいなと思ったものはいくらでも欲しいまま手に取って買ってしまう自分を甘やかす野菊ちゃんは、まだ使いかけの化粧水がいくらでも残ってても次々新商品やら初めて見かけたのやらちょっと気になったのを全然我慢できずに無計画に買ってきたり注文しすぎたりして、結局使いきれずに持て余し、化粧台の上もグチャグチャでどれが何だかも自分でも分かってなくて、どれもこれも中途半端に使いかけ、しまいに台に乗り切れず床に転げ落ちるので、最終的には同僚に「使って~」と言って気前よくばらまいてあげてしまう。その癖に「お金が貯まんない、万年金欠だ」と常に騒いで慌てふためいている。それでもキクちゃんはみんなに愛され、羨ましいくらい楽しそうでメイク用品や何やかやの様々な特性や種類について語れるし、プライベートでもよく使う安くておいしいごはん屋さんもいっぱい知ってるし下町のどこのドレスショップが品質が良いわりに良心的で値打ちがあるかなど城の外のことにも詳しくて、さすが遊びまわって散財してるだけに何にでも情報通で、集りのような子も中にはいるけれど友達も多く、下の子達からも人望を集めている。まだ城に来て半年にもならないのに、数年自分の下にいる唯と大きな差を開けている。

どちらが正しいなんて言い切れないけれど…

 ストイックに寝る暇を惜しんで無駄をそぎ落とし限界まで仕事して命を削って何のためにか働くことだけに人生の全てを注ぎ込んでいる唯ちゃんははたから見ていると楽しみを持っていなくてつまらなそうに見える。何にそんなに追われてるのかと不思議に思い、いつか、「そんなに働いて何か企業でもするつもりがあるの?」と聞いても「んーん」と言うし、「借金があるの?」と聞いてもまさかという顔をして首を横に振っていた。秘密主義なのか、もともと口下手なのか知らないが…

たまに急な予約の解消があってフッと時間が空いた時などに見せる途方に暮れたような表情(どうしよう、私どうしたらいい…?)という迷子のような顔を見ていると、痛々しくて可哀想になる。多分唯は脆いだろうと思う。この子から仕事を奪ったら他に何もできない瘦せっぽちが残るだけだ。精神安定剤が仕事なのだ。自分でそれが分かっているからこそこんなに狂ったように仕事をギチギチに詰めて不安の入り込む余地をなくしている…いちこさんには唯はそんな風に見えていた。

三人の妹の中で、唯は一番働き者でしっかり収支の管理もできてるし口に入れる物への意識も高く結構栄養や添加物にうるさくて生野菜やフルーツの定期便を自分の部屋にきっかり週に二度届くように手配したりして、一番ちゃんとしているようでいて、実は一番不器用だからこそのやりような気がする。唯はこれまでに悩みを相談してきたこともほとんどないし失敗やクレーム自体もそもそもかなり少ない。入りたての頃を除いて姉の手を煩わせたことがない。自分一人で悩み自分一人で試行錯誤して解決まで漕ぎつけ自己完結してしまう。何でもそつなくこなせるせいで、情報を分かち合ったり別のやり方を教わったり人に助けを求めたりする機会を失って、ちっちゃくまとまってしまってる。せっかくの姉妹制度もうまく使いこなせてない。心のどこかでは人に頼りたい気持ちがあるはずなのに…そうでなければ「私はひとりでいけます」と面接の最初の段階で言ったはずだ。このお城では姉妹制が古くからの伝統とは言え、今は女子同士でさえ顔を晒したくない従業員も多いため、制度は別に拒否することもできたのだから…

 いちこさんは自分の姉さんの顔を思い出し、これから唯に言おうとしていることがかつては自分が姉に言われたこととそっくりかもしれないなと思い始めた…

その時、唯と隣り合わせている方の肩先で、妹が欠伸を嚙み殺す気配を感じ取った。

「あ、ごめんね、眠いところを…」

いちこは慌てて考えをまとめようとした。何から話し、どんな風に決着すればいいか、話し始めてからまだ全然考えが纏まっていなかったことに思い至った。ただずっと前からこの妹とはいつかどこかでちゃんと話がしたいと思い続けてきただけだったかもしれない…

「唯ちゃん、先月は私の売り上げに並んだの知ってる?」

「あ…はい」唯はハッと緊張を取り戻してこちらに目を合わせてきた。

「受付が褒めてたよ。『唯を御指名の電話が鳴り止まなくて』って。『あの子は魔物ですよ』って。レアな出勤でもないのに、毎日予約が途切れないのは凄いことだよ」

「ありがとうございます。お姉さんのおかげです」

いちこさんはちょっと、妹のもつれ合った長い睫が頬に落とす陰に魅せられながら次の言葉を探した。

「私が何も教える暇もなかったくらい貴女あっという間に人気者になっちゃったじゃない、それからずーっと忙しくて、こうして二人だけで話すのは…かなり久しぶりね」

「そうですね」

「…その睫は付けてるの?すごく自然に見えるけど…」

妹は指先で左の眼の片方の目頭から目尻までを撫でた。

「自毛です」

「どこもいじってないの?」

「はい」

「本当?」

「はい」

妹があまり眠そうで必死に目を開けて白目をむきかけゆらゆら揺れてるのを見て、いちこさんは失礼だなと腹を立てるよりも可笑しく、可哀想になってきて、(日を改めようかな…)と思いかけ、(いやいやこの子にはいつも時間がない…今を逃したら話すチャンスはもっと先延ばしになってしまう…)と考え直した。立ち上がり、ハッと驚いてつられて立ち上がった妹を優しく無理矢理ベッドに押し込んで、横にならせ、耳元に囁いた。

「寝ながら聞いて。後でlineでもう一度送るから、その時読み返してくれればいいから」

「横になったら寝ちゃいそうです…」

「いいから。それでいいから。…あのね、結論から言うと、貴女はもう次の段階に差し掛かってる。値段を上げるべき時期だよって事。もっともっと早く教えてあげられたら良かったんだけど…」

「でも…」妹はパチっと目を見開いた。「そんなことしたら…」

「大丈夫。唯ちゃんはしっかり実力をつけてきてるし、一時的には客足が遠退くかもしれないけど、確実にその方が貴女のためになると思う。なんで唯ちゃんには寝る暇がなくてなんで私は暇そうにしてるか、同じ売り上げなのに、どうしてか分かる?自分に付けてる値札が違うからよ」

「でも…」妹は肘をついて起き上がってきた。

でも、の続きが何なのか、姉は辛抱強くしばらくの間待ち続けた。

「…でも、そんなことしたら、これまでお世話になってきた、ここまで支えて来てくれたお客さんが来てくれなくなるかもしれないです」

唯はモジモジしながら小さい声でなんとかそんな事を言った。

「恐れ過ぎ。」いちこさんは素早く厳しく言い切った。

「確かに、文句言うお客さんはいるだろうし、これまでの頻度ではもう通ってあげられなくなるねとか嫌味も言われると思うよ。でもそんなの構ってたらいつまでもこのままだし、そんなわけにいかないでしょ?私だって通過してきた道のりだから。…それにこれまで支えてきてくれたからって、このままの値段でもずっとこれからも続くか分かんないんだし、今までの人は今までの人よ。月に一度通ってくれてたお客さんが二か月に一度しか会えなくなってもそれでもお金貯めて唯ちゃんに会いたくて通ってきてくれるかもしれないし、身の丈に合わなくなった人だと諦めて別の女の子を探すかもしれないけど、それは向こうが決めることだから…でも、良かったねぇ、って一緒に喜んでくれるお客さんもきっといるよ。そういう人が唯ちゃんに本当に親身な方だから。…貴女って、闇雲に頑張るばっかりで、もっと要領よくもうちょっと狡くなれないのかなって見てていじらしい時がある…」

いちこさんは妹の太腿があるあたりの布団の膨らみを上からポンポンと優しく叩いた。

「もしかしたら、多分そんなことないと思うけど、一時的には売り上げが落ちるかもしれない。でも今貴女は確実に階段を上ってる。唯の価値に見合う金額を払えない人のことは一旦忘れて。縁があればいつか必ずまた会えるよ。今はとにかく上を目指して。貴女には私を越える可能性がある…

だっていつまでもその値段でやっていくつもりなわけはないでしょ?とりこぼしてるお客さんの中に凄い太客になってくれる裕福な方がいるかもしれないのに。」

妹は俯いて何も言わなくなった。また眠くなってきたのかなと姉は思った。薄桃色の絹のシーツの端を捩じり回している妹の手を捕まえて、いちこさんはもう一度唯を横にならせた。

「ほら、あと何時間眠れるの?良心的すぎるからこんなことになるんだよ。一人で寝る間も惜しんで頑張らなくてもお客さんたちにもう少しずつ応援してもらえばゆっくり休めるじゃん…

自分で言いにくいなら私から言っておくよ、次のシフトからは一つランクを上げたお花代をお客さんから貰って頂けるように…お客さんにも自分で言わなくても良いよ、シレッと知らなかったふりしてていい。全部他の人が勝手に決めちゃったみたいに言っていいから。他の人達を悪者にして、もっと頼って。安心して人に任せて。そのために大勢裏方がいるんだから。貴女はただニコニコして気分よくみんなから愛されて可愛がられてるだけでいいの。

…これって厚かましいことじゃないんだよ…お城にもより貢献できるってことなんだし、担当もその準備はとおに整ってるって言ってたよ…」

普段あまり話さない印象のいちこさんが、こちらが返事を返さなくて済むように穏やかな声で子守唄みたいに話し続けてくれた。お母さんが子供を寝かしつける時にやるような一定のリズムで優しくぽん、ぽん、と横たわった布団の上から唯のお腹の辺りを摩りながら。姉が自分のためを思って言ってくれてるのは痛いほど伝わってきた。

「唯ちゃんは綺麗で従順で意外と体力もあるし。頭もいいんだね」

一生懸命首を横に振って違うんだと否定しようとした。

「私アホです。喋るとボロが出るから黙ってた方が良いって昔から言われてきたので、そのせいで口を閉じて静かにしてて…そしたら雰囲気が出て優等生風に見られるんですけど…本当は全然…」

昔から涼しげな印象の切れ長の目と整った鼻立ちのせいで黙っていれば賢そうに見られてしまう。全て計算づくなんだろと言われがちだけれど、本当は全くの真逆で、勉強も計算も全然できない。人を見る目なんて自分にはないと分かっていながら、客の言葉や表面的な優しさをすぐ本気になって重く受け止め心の底まで信じ込んでしまう。自分は一人ではこの仕事はできないと思う。

飲めもしないのに大好きなお酒をやたらに飲んでわけの分からない場所で目覚めたり、そこまで堕ちたくはないという深みに嵌ってしまって身動きが取れなくなっちゃってる子と友情を結び情にほだされて自分も後戻りのきかない沼に誘われ嵌められかけたり、正しい場所へ帰りたくても放蕩しすぎてどこが本来の自分の居場所なのか戻るべき場所が失われていたりした迷子の時代を経て、今は少なくともこのお城に拾われてお城で必要とされ、なんとか生活に軸を通し、自ら進んでこのお城の思惑通りの人間になりきろうと懸命に演じている。

「貴女にはもうすぐにも私を抜いていってもらいたいの。」

静かな口調でいちこさんが言った。

「これから私は沈み始め、あなたは登っていく。観覧車みたいに。沈むのはゆっくりが良いけど、上っていくのは素早い方が良いよ。風が吹いてる今のうちに。貴女には私がいなくなった後ここを継いで欲しいの。これは私一人で決めたことじゃない。頑張り屋の貴女の実力もあるし、城が唯を認めて選んだのでもある。それこそ貴女のお客さんの力添えもある。貴女はここら辺でいいやと適当な場所で燻ってるだけで一生を終わるわけない。みんなが貴女に懸け、一流にしようと上へ上へ押し上げてくれてる。だって、1番になりたいんですって言って貴女ここへ来たんだから。覚えてるよね?それに応えようとしてくれてる大勢の人を巻き込んで、期待外れはこの期に及んでやめてよ。

これから自分ではコントロールできない大きな力が貴女の背中を押してくれるけど、飲み込まれずに、うまく乗りこなすしかないよ。」

唯は朦朧とした頭でなんとか頷いた。

「貴女にならできるし、貴女にしかできないことだと私は思ってる。私が引退するには、この塔を継いでくれる子が最低二人は必要なの。

この事はまだ誰にも話してなかったんだけど…貴女に真っ先に言うべきだと思って…

 キクちゃんは多分割り切れた考え方してるから城でそこまで身を入れるつもりはなさそうに思う。仕事は仕事、お金を手に入れるための手段でしかないと捉えて、城の外にちゃんと自分の帰る家も持ってるみたいだし。あの子にはすごい才能と他所のお店で積んできた実績と個人的なお客さんとの繋がりがあって、その自信が魅力となって燦燦と輝いてる。だけど、実力がありすぎて、城があの子を完全には取り込み切れない。どこかまだいつでも一人になってもやっていけるって自覚してるよそ者らしさも抜けない。面白がって観察者の目で城の内部を見学してるように思えることがある。…これ、内緒よ。

まさかスパイじゃないとは思うけど…何にでも興味津々な子だし…でも本人にそんな気がなくても情報を横へ流してしまうってこともあるから…もし本当にそうだとしたらむしろ私達よりもあの子にとって危険なことなんだけど、そんな確証はないし…

 サヤは見たまま、成長が遅い。性格が激し過ぎる。好き嫌いが酷くて言い訳が得意で、やりたくない仕事は絶対やらない。せっかくお客さんの方で気に入ってくれてもこっちから願い下げを出すパターンが多すぎる。それもイエローカードは使ったことないのにレッドカードはバンバン出すの。だけどそれはお客さんからも同じ。クレームが凄く多くて、逆指名までよく受けてる。「サヤ以外の女の子を頼む」なんて言われて。「もうどんな客に当たっても断るの禁止!」って受付から言い渡されて、あの子、客に面と向かってかなり意地悪な辛辣な嫌味を言ってあえて滅茶苦茶に嫌われて帰ってきて「これであの客から二度とお呼びがかかることはないな。いい技を編み出した」なんて清々した顔してクレームが来ても悦に入ってたりするの。トイレに立て篭もり小窓から逃げ出して塔の外壁の蔓を掴んでレースのランジェリー姿で怪盗みたいにキクちゃんの寝室の窓から「匿ってー」って入ってきたこともあったらしいし、わざと客の膝の上でオシッコ漏らしたこともあったらしくて…ただなぜだかその二人の客にはまた指名の問い合わせを受けてる…本人が巧いことかわし続けてるみたいだけど…

私もクレームが怖いのとあの子結構体も弱くてすぐに病むし扱い勝手が悪くってあんまりこれまで無理させてこなかったんだけどこのままじゃ本人のためにもならないなとやっとこの頃気が付いてきた。

 自分が引退を考え出して、私がいなくなった後の妹のことまで考えてあげられて姉って言えるのかな、と思えるようになったの。

サヤのことは本当に心配。あの子、ピッタリくる裕福な太客を数人持ってるから辛うじて首の皮一枚で今はもってるようなもんなの。自分が本気で気に入った相手には凄く甘え上手でとことん尽くせる子なんだけど…この特質を商売用に自分でコントロールして多少嫌な相手にも自分から打ち解けて新規開拓できるようにしていけないと…

これからはあの子にはどんどん一人で癖のある客にもしんどい仕事にもつけていこうと思う。多分あの子は割りと環境の良い家庭で育てられて自己評価が高いんでしょうね。だけど安売りしないということは長い目で見ると財産でもあるから…これからの伸びしろに期待して成長を待つしかない…」

いちこさんはとうとう寝息を立てて眠り込んでしまった美しい妹を見下ろして思った。

(自分の力だけでここまで来たこの子には、私の優しい太客さんをサヤに紹介し始めてるなんてとても打ち明けられないな…でもあの子には助けが必要だ…それにこの子は自分で思い込んでるほど馬鹿じゃない…私も唯には頼ってしまってるのかもしれない…後を継いでもらいたいとは前々からこの子に期待してたけど、引退を考え始めてるなんて、自分でも口に出してみてビックリした。この子の意欲を上げるためだけではない口から出任せの結構本心かもしれない…この頃ふとしたところで自分の老いや限界に気付き始め、夜職以外の城の外の仕事にも興味が惹かれるようになってきているけれど…それにしても引退とは…私もこの子に自分の心の内を曝け出して相談したかったのかもしれない…引退については自分の部屋で後で改めて考えよう…)

眠ってる妹に向かっていちこさんは囁いた。

「貴女のことが三人いる妹の中で付き合いは一番長いのに一番よく分かってないかもしれない。貴女は闇雲に頑張ってる我慢強い後がない子。根はかなり真面目で、人に期待されるとますますやりがいを感じ底力を上げることができる。トップをとることへの拘りも強いし、自分なりのプロ根性をもってこの仕事にあたってる。生半可な気持ちでやってないことだけは隠してもお見通し。無遅刻無欠席。与えられた仕事はとにかく受け、自分がやると言ったことは遮二無二やり通す。ここを追い出されたら自分には行き場がないと思い込んでる弱さの裏返し。だけど自己主張しないからいいように人から動かされ、振り回され、嫌なこと押し付けられても断り切れないかもしれない…これからも…」

いちこさんはポンポンするのをやめて、規則正しい唯の寝息にしばらく聞き入った。

「でもこれからはもう少し休みをとって私と話す時間も作ってね…優秀な貴女が一番昔の自分に似てるって私勝手に思い込みたいのかもしれない。貴女がどんな子なのかやっぱりまだ想像でしかないわ…」

朝日に眩しそうに寝がえりをうつ妹のためにいちこさんは枕元の抓みを捻って部屋の向こうのカーテンを床に届くまで下してあげた。自分も少し眠らなくてはいけない。立ち上がり、もう一度部屋を見渡した。もともと城が備え付けている飾り物の陶器やアンティークの寝椅子やベネチアガラスの蒐集品等がなかったら本当に殺伐とした部屋だと思った。唯自身の私物がほとんど見当たらない。どこにお金を使ってるんだろう。かなり稼いでいるはずなのに自分ではドレス一つ買わず、貸衣裳部屋へ毎週下着姿で現れて、無料の棚から次の一週間分をレンタルしていくらしい。本人の言う通りもし借金がないとしたら鬼のような節約家だ。トランク一つに収まるであろう私物をまとめてある日いきなり「目標額達成したので帰ります」なんて言い出しそうだ。この子のことは何も分からない。

(…ちょっと好きな人でも作ればもう少し心にゆとりとか潤いを持てるかもしれないのに…)と姉は思った。でもそんなアドバイスは決してしないだろう。男に狂わされる子も多いから。


 いちこさんはもともとは自分の部屋だった造りの同じ室内を絹のスリッパで音もなく躓くこともなく滑るような足取りで通り抜けた。隠し扉を出てすぐの自分の寝室で立ち話して待っていた野菊とサヤに驚いた。

(しー!)慌てたせいで二本の人差し指を唇の前に立て、ゆっくりと最後まで扉が閉まり切るのを二人にも見守らせた。

「ハロウィンの仮装のことでちょっと打ち合わせしようと思って…」

「もうあと1分待ってから入ろうって話してたんです…」

「唯の部屋には入っちゃダメ。少なくとも今月いっぱいは…あの子寝る暇ないんだから…」

「えー、なんか唯だけいつも扱い違くないですか」

早速サヤが唇を尖らせた。いちこさんは厳粛にゆっくりと首を横に振った。

「花魁は仮装に入りますか?」と野菊さん。「着物も普段からちょくちょく着てるから私。変わり映えしないかなと思って…」

「花魁ゾンビならギリいけますよね」とサヤ。「怖いか面白いか芸術性高いか何かじゃないと見応えないですよね」

(しょうもない話でもしてしてきてくれるだけマシかな、ちょっと鬱陶しいけど…)といちこさんは思った。


 四時間眠って目を覚ますと部屋は真っ暗で、いちこ姉さんは居なくなっていた。自分が姉さんの話のどの辺りで寝落ちしてしまったのかも分からない。薄ぼんやりと、引退を考えてることを1番に自分に話してくれた事と、やたらサヤの心配をしてる事、野菊さんの事もなんとか言ってたとしか思い出せなかった。それから、自分を1番見込んでくれてると言うこと、値段を上げなさいという言葉だけは聞き漏らさなかった。

それから後いちこさんが何て言ってたか唯には思い出せない。長く悩んでいるだけの気力も持たなかった。最初のショックが通り過ぎると、肉体的疲労からくる獰猛な睡魔に抗うことができなくて、ウトウトの短い格闘から突然の昏倒されるような眠りに落ちてしまった。

前々から「料金をもう少し上げてみてはどうですか」と受付や担当から打診を受けてはいた。寝る時間がないなんて弱音を吐けば必ずその結論に辿り着くアドバイスを受ける事になると分かっていたから、黙って頑張ってきた。これ以上自分の値が上がったら仁に会えなくなる。自分の値段を上げる度に仁に会う頻度を減らしていけば…会えるには会えるけれど…それでは問題の解決にはならない、と自分で分かっている。根源を変えなければいけないのだと自分でも分かっている。

 気持ちの整理が追い付かなくても、出世したくないなんて説明するわけにもいかない。もし仮に優しい姉さんには共感を得られたとしても、彼女の力ではどうすることもできない問題だ…ずっと前から本当は分かっていた、上を目指すならいずれ断ち切らなければいけない、互いのためにならない腐れ縁だと。


 下の階で鳴り響きだしたアラームの音が窓から入り込んできて、音楽の隙をついて耳に届いた。彼にも聞こえてるだろうかと唯は気付かないふりをしながらぼんやり曇った顔の仁をちらちら窺った。二人ともしばらくは黙って聞こえないふりをしていた。それからいきなりザブンと湯を跳ね散らかして仁が風呂の底から立ち上がり「腹減ったな」と呟いて浴室から出て行った。

アラームを止めてくるのかなとちょっと慌てて唯は考えた。そしたら何て言ってここを抜け出そう…

音量を落とすと階段を軋ませて下りていく仁の足音が聞き取れた。唯は窓の外を見た。

(あの子誰の目にも見えないところで咲いたんじゃなくて良かったよね)と二人で言い合った青い花がふわふわ風に揺られている。

「おい」振り返ると、開けっ放しの戸口から仁が齧りかけの林檎を投げてきた。もう首にタオルを巻きスエットパンツも履いている。

「近所迷惑だから。止めてきた」唯の携帯を右手に持っていた。ありがとうを呟きながらすれ違いざまに受け取った。

昔は中華料理屋だった細長い四階建ての急な階段を、迎えに来た車のクラクションに煽られながら駆け下りて、濡れた体にコートを羽織り、着てきた他の衣類はバックに押し込んで、見送られるまで待たず、勝手に裏口から外へ抜け出した。

「この道狭すぎて掠りそうで怖いんすよ…」専属のドライバーさんがブツブツ言うのを聞いて唯は慰めてあげた。

「もうここに来ることはないから大丈夫」




続く


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ