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お城  作者: みぃ
6/40

1号

(うわ、見なかった事にしよう…!)

咄嗟に俯いてソワソワ隠れられそうな場所を目で探しながらワタルさんは思った。社内恋愛は禁止されている、それなのに、堂々と、城の従業員と飛ぶ鳥も落とす勢いの売れっ子が、指を絡めて手を繋ぎ、同じコンビニに入ってきた。普段からよく通る声でよく喋る女の子(多分野菊さんという源氏名だ)の、はしゃいでいつもよりも大きくなった声が華やかに店内に響いた。

「…でも車で食べるなら汁物はちょっとなー…だけど口はお蕎麦なんだよなぁ…ツルツルっとした物が食べたい…あっ、待って、入浴剤!わぁ、どれかしようよ、どれが良い?…」

お菓子の棚でパンダの顔をしたチョコレートを手にとったまま硬直して息を潜めているワタルさんの隣の棚で二人は立ち止まったらしい。

「虹色の泡だって…嗅いでみて!外国のお菓子みたいな甘い匂い。やっぱりほらっ!米国製。一緒にお風呂入るでしょ?選んで」

男が何か答えたがボソボソと低い声で聞き取れない。ワタルさんは頭を抱えたくなった。

(あああ、聞かなかった事にしよう…!それ以上喋らないでくれ…!一緒に風呂なんてもう確定じゃないか…!)

耳を覆いたくなりながらワタルさんはパンダのチョコを棚に戻した。右往左往、どちらから抜け出せば二人に鉢合わせずにコンビニから出られるか、キョロキョロと首を左右に振り悩んだ。華やいだ声が左側から迫って来、ワタルさんは体ごと素早く右を向いた。レジの店員としっかり目が合った。首をすくめている彼の背後を声の主達は通り過ぎて行く。

「お酒も買って行こう!満点の星空の下バブルバスなんて、記念撮影しなくちゃだね!誰にも見せられないけど…」

ケラケラ笑う二人の声が明るくこだまする店内をコソコソと抜け出して、まるで自分が悪いことをしてるかのように長身を丸めワタルさんは何も買わずにすぐ近くの駐車場に停めた自分の車に素早く乗り込んだ。深い溜息を吐く。

(何であんなに堂々としていられる?ジェネレーションギャップ怖い…本当に酷い罰則があるの、知らないのか?)

すぐに車を出しコンビニから逃げるように離れながら運転するワタルさんの目に30余年に及ぶ城のドライバー経験で目にしてきた恐ろしい光景が次々と蘇る。振り払おうとしても忘れられない…口の中に苦い血と痰の味が広がってきた…

(知らないぞ…私は何も見てない…関わらない…)

ついこの間も人気者の女の子が一人消えたばっかりではないか…

薄紫色のシャボン玉のような模様の入った涼しげな浴衣を着て髪にお揃いの生地のリボンを編み込みお洒落したさっきの野菊さんを思い出す。

(そうか、あの子は今年入ったばかり…まだ一年にもならない…男の方もそうか…知らないのか、本当の怖さを…)

ワタルさんにとってはあの恐ろしい出来事が昨日のことのように思われるが、考えてみれば、あれは数年は昔の事だった…

中身が何なのか分からないまま港まで運ばされたずっしりと重いスーツケース…何重にも重ねられたビニール袋、土砂降りの雨の日をわざと選んだような夜だった。それでも生臭い匂いに混じった香水の香りはいつまでも鼻腔から消えなかった…


 城の地下には天然の水牢があるという噂は本当だった…地響きのような声が頭の中にこだまする…

「遊んでいいのは客だけなんだよ。一晩に動く金の厚みを考えてみろ…断然人の命よりも尊い…」

隙間風のようなヒューヒューいう音がしていた。床に這いつくばった女の喉で鳴る息の音だ。

「お前…」

持ち上げられた革靴の底が顔を踏むのを見ないでおこうとギュッと目を瞑ったが、音は聞こえた。

「女王様気取りだったなぁ。いつからそうなった?痩せっぽっちの身一つでこの城に拾われて来て…借り物の綺麗な服と化粧で身元を誤魔化して…いつの間に履き違えた?この世は自分の天下だと…自分の代わりはいないと思い込んだのは…何?」

男は屈み込み、じっとり血濡れた髪で隠された女の顔の方へ耳を近寄せる仕草をした。女が何か言ってるようには見えなかったが、男はみんなに聞こえるように芝居がかった声で繰り返した。

「自分がいなくなったら太客が嘆き悲しむんだと!」

男は唸り声のような咆哮をあげ、その場にいた全員が身をすくませた。それは男の誘い笑いだったが誰にもそれと伝わらなかった。暗い笑い声が長さの違うあちこちのトンネルにわんわん反響しいつまでも尾をひいて続いた。何人もの男が笑っているようだった。ぴしゃぴしゃ裸の背中を叩かれ頭をゴロンゴロン転がさせられて鍾乳洞の白く硬い床で女は事切れているみたいに見える。

 この茶番が現実だとは信じられなくて、ワタルさんは背中の後ろに回した手の甲を試しにつねってみたほどだ。

「まぁしばらくはなぁ。そうかも知れない、客も落ち込んでくれるかもなぁ。急に消えた女は余計惜しくて…でも一年も嘆き悲しんでいられるか?金持ちの生きた男が。同じ事して慰めてくれるのは生きて手の届く女の子達だよ。やっぱり。城にいくらでもいるんだよ。傷心を癒してくれる…

それに磨けば物になる身寄りのない可愛いらしいお嬢さん達…毎日掃いて捨てるほど求人に応募してくる。野心に溢れた捨て身の女の子達。この城は彼女等のためにも大きく門を開いている。」

死体の頭を撫でながらしゃがんだ男が、誰かと視線を合わせようと下から鋭い眼光を飛ばしてきた。見せしめのために呼び集められ壁際に固まっていた従業員、女の子達、その場にいた誰もが目の前の光景から視線を逸らしジッと足元の地の底を見つめていた。

ただ恋をしたというだけのことで売れっ子が一人死んだのだ。

「仕事だよ。遊びじゃないんだ…舐めてもらっちゃ困る。客に夢を見せて金を受け取ってる。この城は客を裏切らない。絶対に。」

目が地面に長々と伸びた色白な肢体に吸い寄せられる。どうしても。死んでしまったのか気を失っただけなのか怪我の度合はどうかと案じ、知ろうとして、床に落ちた溶けかけのバニラアイスみたいな滑らかな背中や肩やお尻や脚や腕の先を視線が彷徨う。体はピクリとも動かない。

ワタルさんの首が意思に反して痙攣し、その微かな揺れを察知した鮫のように、しゃがんでいた男に視線を絡めとるように合わせられ、しっかりと覗き込まれた。ズキズキと喉で心臓が脈打っているようだ。男はワタルさんの目を見つめたまま話を終えた。

「…ルールを守って働いてくれてればみんな幸せだ。城も全力で助力する。

一つしかない単純なルール。一つの命を賭けて守ってもらわないと…だろ?」

男が合図をすると壁沿いにずらりと並んで息をのんでいた従業員達の間から姉弟のようによく似た顔立ちの若者二人がスッと抜け出して、横たわる死体に絨毯をかけ、くるくると器用に巻いて担ぎ上げた。

城には顔を合わせたことのない幹部がまだ何人もいた事を思い知らされた。素っ裸の死体が運び去られた後の地底は染み一つなく何事もそこで起こらなかったかのようだ。まだ中学生にだって見えそうなさっきの二人組が血溜まりも素早く拭き取って行ったらしい。仕事が手慣れている…

立ち上がった男が優しく全員に号令をかけた。

「戻っていいよ、各自。自分の仕事に」

そしてもう一度ワタルさんを見た。名前も地位も知らないこの男の顔を見るのは二度目だった。男の目の中に首を縦に振る自分が見える気がした。


 永遠に回り続ける観覧車のように一番上の座につく女の子の代わりも次々すぐ下に控えていて、いなくなった子は忘れられた。ワタルさんも彼女の顔を思い出せない。の、の付く源氏名の娘さんだったような気がする。ツンとしてるとかお澄ましさんだと言われていたが、ただ表情の変化に乏しいだけの、誰の悪口も言わない真面目な子だったように思う。何度も車に乗せて送迎したことがあった。話しかけたことも話しかけられたこともなかったけれど…城には大勢いるただの美人の一人だった…

無理に顔を思い出そうとすると映画のワンシーンの撮影みたいだったあの現実離れした恐ろしい記憶を呼び覚ましてしまう。血で固まった黒い髪が張り付いて隠れた顔…もともとはどんな綺麗な顔をしていたのだったか…後部座席に青白い頰をしたあの子を乗せていたのもいつも夜だった…


 真夏の炎天下、クーラーを効かせた快適な車内でハンドルを握り、点滅する黄色い信号できちんと停止して、横断歩道を渡って行く家族連れや夏休みのヤンチャそうな子ども達の自転車をぼんやり目で追いかける。まるで違う世界にいる今は、あの仄暗いひんやり湿った地下牢の存在そのものが夢だったみたいに疑わしく思われてくるが、あれは現実に起きたことなのだ…

 ワタルさんはガサゴソ車内のあちこちのポケットへ手を突っ込み、やっと見付けた袋の底にへばり付いていたベタベタに溶けたキャラメルを包み紙ごと口の中へ入れモグモグ噛んだ。口の中に蔓延る血の味の記憶を消そうとして…


 人見知りがなく気配り上手でお喋りも面白い野菊さんは、ドライバーの間でも人気があるお嬢さんだ。朗らかで元気いっぱいで、夜通し飛び回って働いた後にもまだペチャクチャお喋りし通す余力を持っている。真夜中を真昼に変えてしまえそうな明るい人だ。

 コンビニで見かけた翌週、ワタルさんの車に乗り込んできた彼女は、人懐こく後ろのシートから身を乗り出して、助手席の首に抱きつき、ワタルさんの右の横顔に向かって話しかけてきた。

「ねぇ聞いてよ、おじさん。先週、電車で痴漢糞野郎に遭った話。そんなに露出してない服装だったのに…その日はね。息子の担任の先生とバトルしに学校へ乗り込んだ帰りだったから、自分なりにそんなふうな服選んで着て行ってたの。それなりのスーツよ、でっかいCのマークじゃないさりげないCのマークがちょこんとこの辺にお淑やかに付いたような…」

彼女は豊かな胸の右側のひとところを、散りばめた宝石が眩しく煌めく銀色の爪で示した。

「かえってそう言うキチンとしてるようなのが良いらしいの。私を狙ってくる痴漢さん達の場合は。暑苦しくって敵わないからって、下着みたいな恰好してる時になんやかんやの事情で同じくらい混んだ電車に乗る羽目になっちゃった時だって、蚊の羽音がブンブンする竹藪でおしっこしなくちゃいけなくなった時とかみたいに、心の中で『さぁ来るぞ、かかってこい、やってやったらぁ』って伸びてくる手伸びてくる手を叩き落とし叩き落としするつもり満々で待ち構えてても、意外とそんなになのに。まぁそう言う時は自分でも気を立てて自分が迷惑にならないように、肌があんまり他所の人に直接くっつかないようにピリピリしてるからかな?

でも統計的に分かってきた、この頃…自分に寄ってくる痴漢くん達の種類が。年齢や職業はバラバラ。でも割と初心者が多いみたい。

…他の女の子から聞いた話とか自分の体験では、上級者は引き際とかタイミングがすごく上手くて、悔しいけど(クッソ、あの野郎…あれはなかなか捕まらないだろうなぁ…)って感心させられちゃう。逃げ道を確保しながらやるから。自分の降りる駅でドアが開く瞬間にヌルッとやりやがるの。スカートの中に素早く手を滑り込ませ、的確に一瞬でやりたいことやって、降りる。スリと同じ。でもそれでおしまいじゃなく、大勢の他の人達に紛れて電車を降りてちょっと行ってから、人混みの中で振り返り、ゾッとして身をすくめ硬直してる女の顔をネットリとした目で舐め回す。そしてニッタリ笑うの。(良いお尻だねぇ、触ったのは俺だよぉ)って。ねっ、胸糞悪いでしょ?ドアは閉まって電車は走り出すけど、しばらくは吐きそうよ!呪わしくて悔しくて…気持ち悪い相手の男の顔を真正面から見せつけられて…本当に公衆猥褻罪…!思い出してまたムカムカしてきちゃった…

コツ教えちゃったけど、やっちゃダメよ、おじさん?」

「なるほど」

「犯罪だからね。女の子が可哀想。やられた方には一生忘れられないトラウマだから…」

「私は電車は使いません」

「あ、そっか。この車はおじさんの?」

「そうです」

「ふうん…」

美女は不意に何かに気を取られたように後部座席に引っ込み、小さな鞄から携帯を取り出して着信をチェックし、ポイと放り込んで戻し、マスカラの具合を気にした後、またガチャガチャと鞄を漁って上品なオーロラ色の小型ミラーを取り出して、自分の顔を照らしながら目の中に入ったらしい塵を指の背で擦った。なかなかとれないらしい。唇を少し尖らせ急に内気な子みたいに黙り込んで目のゴミの事だけで頭がいっぱいになってしまったみたいにパチパチ瞬きした。さっきまであんなにうるさいくらい賑やかだった車内は静か過ぎて、歌の途中で歌いやめた主演の舞台女優を待つ観客のように、ワタルさんは彼女の次の一声を待って、気が付くと鏡に映り込む野菊さんにチラチラ目がいってしまっていた。

 今夜の彼女はメロン色の爽やかな夏の着物に鈍い銀の帯を合わせ、結い上げた豊かな髪にほんのちょっと幼稚なようなゆらゆら揺れる赤と金の金魚の形の髪飾りを挿して、まだ一心に目からゴミを取り除くことに集中しきっていた。グーにした手の甲でゴシゴシ瞼を擦り、目ばかりを気にするその仕草が、なんとなく幼い日の彼女を偲ばせた。つるんとした滑らかな白い頬を染めて流れ去る青や赤のネオンから、どこか別のもっと静かで落ち着いた場所へ彼女を運んであげられたら良いのにとワタルさんは思った。彼女も夕方から早朝にかけて働く子だった。ワタルさんは野菊さんをまだまだ続く次の仕事場所へと運んでいた。

「それで何の話してたっけ?」

しばらくして急に彼女が聞いてきた。

「…痴漢の話をしてましたね」

「そうそう、その痴漢がこの前来たの。私を指名してお城にね。言ったっけ?私、(ああこの子は初心者だな)ってすぐ分かって…電車の揺れに合わせてもないし、痒いくらいソロソロやってるから。根性がないって言うか、明らかに肝が座ってないって言うか、本当に初めてですって感じで、チラッと睨むと普通の男の子なんだよね。ヒール履いてる私より背が低く、耳まで真っ赤になって、俯いて、申し訳なさそうに、まるで自分が被害者みたいなの。でも意外にしつこいの。まぁいっか、好きな人からLINEも返ってこない時間帯だし、ちょうど退屈だったから、この程度ならもう虫だとでも思うわ、私を練習台に腕を磨きな、とか思って一駅一駅、サラサラ、ソロソロに付き合ってやってたんだけどね。普通電車だからしょっちゅうドアが開くの。私達ドア口に詰めて立ってて。駅に停車してドアが開く度に溜息が聞こえ、手が引っ込む、そして電車が走り出してだいぶ経ってからやっと勇気を振り絞ってまた手を伸ばす…だからそんなに触れないわけ。可哀想でしょ、何だかだんだん、私、笑いそうになってきちゃって!それでね、(そうだ!)って閃いて、次に手が伸びてきた時に、その手に名刺を握らせてあげたの。無料お試しはこれでお終い、これ以上は有料よ、って。そして電車を降りた。自分じゃすっかりそんな事忘れ去ってたんだけど、その彼が昨日来たの。初めてでも指名のお客さんは別にしょっちゅう来るんだけど、その子は『電車でお世話になりました』って言うから、それで分かった。でも帰り際によ。ずうっと無口だった癖に。何の事だかよく分からないまま時間切れだし手を振ってお見送りしちゃった。その後で(あああ、あの時のあの子か)って思い出した。(普通電車の痴漢初心者さんだったか、あいつ…)って。もっと早く言ってくれなくちゃ分かんないじゃん、ねー?人見知り過ぎて聞かれたことにしか答えなかったな、時間いっぱいあったのに。学生ぽいけどお小遣いもらってそうだし、まぁ多分また来ると思うから、今度来たら忠告してあげなくちゃ。痴漢プレイがやりたかったら付き合ってる自分の彼女にお願いするか、お金払ってそういうのやってくれる女の子雇わなきゃダメだよ、一般の女子にとってもそうだし、貴方にも良くない。そのやり方じゃすぐ捕まるよ、って。大丈夫かなぁ、次会う時までに一回牢屋に入れられちゃうんじゃないかなぁ…あの子…牢屋と言えば、おじさん、知ってる…?城の地下にあるって噂の…」

「着きましたよ」

「あっ。じゃあね、おじさん。またね」

野菊さんはバイバイとひらひら手を振り、ワタルさんが手をハンドルから離して振り返した頃にはもう前を向いてバタンとドアを閉め、着物に似合うお淑やかな歩運びの中に独特のどこか弾むような腰の振り方で、急いで、彼女らしく、開いた料亭の門の奥へと消えていった。

一口齧った青林檎のような清々しい香りが車内にまだ漂っていた。



 翌日もまた野菊さんを迎えに行くのがワタルさんの担当になった。城には常時運転手が十数人はいるけれど、顔見知りはほとんどいない。みんなすぐに辞めてしまうか辞めさせられてしまう。女の子につまらない事を言って嫌われてしまって首になったりだとか、女の子と仲良くなり過ぎて辞めさせられるとか、元々本人が長く続けるつもりのない仕事だったからとかで。長くいるのは他人に干渉しない男女3人くらいだけだ。一人は一昨年の暮れに入ってきた暗い目をした青年。一年いるだけでも長い方なのだが、この鬱陶しく垂らした前髪の奥から目を凝らして人を観察する癖のある無口な若者の無口さにはただならぬものがあり、まるで一言も口を利かないという宗教上の神との誓いを守っているかのように頑なに首を縦に振るか横に振るかだけで意思疎通の全てをはかろうとする。激しく首を横に振るとか、ちょっと首を傾げるとかいう抑揚で表現をつけて。

この青年が口がきけることはワタルさんも城の他の従業員も分かっている。面接では割とハキハキと受け答えしていたからだ。

 城の外堀の内側の地下にある車庫の奥、一番明るい電球と電気ストーブが三台揃っている鼠色のロッカーの前の溜まり場で、なんとなく古株のワタルさんも空いていたパイプ椅子を勧められ、半分面接に参加させられた。城の幹部候補の若い社員はまだ頼りなさげに、いつもくっついて回っている上司から預かってきたメモに書いてあるままの質問事項を全部読み上げるようにして形式的な面接を行い、最後に「大丈夫そうですよね…?」と上目遣いにワタルさんに伺いを立ててきた。天性の甘えん坊な心根が気弱な顔に現れている。普段からつまらないミスがいっぱいで仕事の覚えも悪く体力も理解力も経験値もないどうしようもないポンコツなのだけれど、どんなに叱られても意外と打たれ強くて、一切口答えをせず、自分のぶをわきまえていて、いつもしっかり一歩下がって邪魔にならないところで待機してここと言う時に誰かのお手伝いを買って出る。空回りでもとにかく頑張る気だけはあるらしい。自分に任されてこれだけはできると本人にも思えるらしい単純作業だけは毎日毎日きちんとこなしている。たとえば洗車とか。女の子の待機所の床磨きとか。ゴミ捨てとか。トイレ掃除とか。みんな忙しくて駆け回っており電話は鳴り止まず猫の手も借りたいような時にフリーズしてしまっていて使い物にならないくせに、ピークを越えて駆けずり回っていたみんながふっと気を緩め休憩し出した頃になってこの男は淀みなく次のやらなければならない仕事をコツコツと捌いて行く…誰にでもできる仕事だけれど、誰もあまりやりたがらない地味な作業を。

そう言うところがどこかこの子の憎めないところで、丸顔の中性的な童顔もなんとなく可愛げのあるミックス犬の子犬のようだ。

この社員のしでかすミスの後処理で駆けずり回って客に頭を下げに行ったり女の子に無駄足を踏ませ機嫌とりをしなくてはならなくなったりといらぬ仕事が増える事も多いのだけれど、仕方ない、みんなで面倒を見てやらなければという温かい雰囲気が何となく出来上がっている。真っ直ぐで根は頑張り屋の明るい青年だ。どう言う訳か何をやらかしても絶対クビにならないので、実は城の人気嬢の弟だとか偉いさんの誰かと親戚繋がりだとか言う噂もある。本人曰く、教習所に通って車の免許を習得中とのことだけれど、何回も落ちてるし、晴れて免許が取れた暁にも、女の子が怖がって誰も乗りたがらないだろう事が今から目に見えている。

他の社員は名札をつけていなくて直接関わり合う機会も少なくみんな「社員さん」と呼ぶので特に他人に関心のないワタルさんは人の名前が覚えにくい中、この子の名前はよく呼び捨てで呼び付けられたり叱られたりしているのでしっかり頭に入っている。白井くんという。短くてもクルクル巻く天然パーマの髪が定番のとぼけた表情に良く似合う、清潔感だけはある子だ。


 ワタルさんはアルバイトに応募してきた若者と社員の年頃の近い2人の男の子を見比べた。

 履歴書の氏名欄には渡瀬と記入している、その時にはまだ目より上の長さに切り揃えられていた前髪の下の青年の目を真っ直ぐ見詰めることができた。相手も真っ直ぐ見詰め返してきた。

「やってみなければどっちにしろお互い何も分からないでしょう」

と言う意味を込めて、ワタルさんは二人に頷いた。誰もバイトくんがこんなに前髪を伸ばし喋らなくなるとはその時には予想していなかった。今では髪とマスクに隠れ顔が全く見えない。それでも仕事は抜かりなくこなすし不気味がられてはいるようだけれど女の子との距離感も絶妙で、仕事はなかなか続いている。借金があるのか何の事情があるのか知らないが昼間は正職員として植木の配送をしているらしいのに日が暮れるとほぼ毎日こっちへ出勤してくる。歩いて。腕の良い運転手だけれど自分では車を持ってないらしい。制服の半袖の腕章と、その日乗る車の、タクシーなら料金を示すあたりにある透明の名札差しにきちんと名札を差している。


もう一人は太った中年のおばさん。目の化粧の濃い、仕事のできる人で、ワタルさんとはどちらが長いのかよく分からない。ドライバー同士ではあまり口をきくことがないがこの人とはほんの少しだけ話す。青柳さんという人だ。名札にそう書いてある。

彼女はワタルさんと同じで家から車に乗って来ている。天井からやたらと紫色の色んな物がぶら下がって揺れている怪しげな車だ。


「あの人とおじさんってどっちの方が長く城で働いてるの?」

同じホテルから出てきたもう一人の女の子と手を振り合い、別々の車に別れ、こちらへ乗り込んで来ながら、野菊さんが聞いてきた。

「おじさんの車の事みんな1号って呼んでるんだけど、実際どうなんだろうって思って」

「1号?」

「おじさんにそっくりな若い人いるじゃん、20年前のおじさんみたいな。あの子の事みんな二号って呼んでる…え、ちょっと待って…、これって言っちゃいけない事だったのかな…別に悪口じゃないから、良いよね?」

「ふむ」

「まいっか。まぁいいよね?別に悪口じゃないもん…

私、働き出した順番かなと思ってたの。1号2号って。でもあの男の子は三番目に古くて、おじさんかあの姐さんかが本当に昔からここで働いてるんだよね。おじさんの方が先に働いてるの?」

夜の街を別の方角に向けて曲がって行く青柳さんの車のテールライトを見送りながら、ワタルさんは首を傾げた。

「ふーん。おじさんにも分からないの…プラセンタあげる。」

野菊さんは三本入りの鮮やかな発色のピンク色のガラスの小瓶を透明の包み紙から剥いて一本をワタルさんの左手のそばのドリンクホルダーに入れてくれた。

「今度あの人の車に乗った時に聞いてくるよ。あの人は結構お喋りだよ。人の事をよく見てて、占い師みたい。相手が話し始めるまで自分からは話し出さないみたいだけど、普段から本当によく人の癖やら内面まで観察して把握してるらしいのが的確なアドバイスで分かるの。あの人には嘘もお見通し。あのクレオパトラみたいな目で…」

野菊さんは両手の五本の指を目の上に翳しパチパチ瞬きをして長い睫毛の青柳さんの物真似みたいな事をした。

「未来まで当たる当たらないとかは別として、誰にでも心当たりのつくありきたりだけどとにかく前向きになれる助言をしてくれる。良い人だよ。情にあつくて。どっかのスナックとかのお世話好きママみたいな存在だから、悩み多い女の子達の恋の相談役によくなってあげてて、わざわざあの人の車が空くの待ちたがる子もいるくらい。」

「何でもかんでも話すのは良くない」

思わずワタルさんは忠告した。

「うん。私は大丈夫。悩んだりしないもん。人に相談もしない。恋したら誰の忠告もいらない。一直線に突き進んじゃうタイプ。自分でダメだと分かってても誰にダメだって言われても止まれない。だってそれが本当に人を好きになるって事でしょ。理性が働いてるうちは恋してるなんて言わないよ」

ワタルさんは首を横に振り続けた。

「じゃあ聞くけど、おじさんは?好きになった人と結ばれた?」

まっすぐ前を向いたままワタルさんは聞こえなかったふりをしようかと思った。赤信号で他にすべきこともないのに黙ったままのワタルさんの答えを目をキラキラさせて野菊さんが待っているのが横目に写り、ワタルさんは何か甘いものを探して無意識に手をウロウロ伸ばした。気の利く野菊さんがプラセンタドリンクの蓋を捻って開けてくれ、彷徨う手に握らせてくれた。一気に飲むとヨーグルトとパイナップルのコッテリした美容に良さそうな味が喉の奥まで膜を張った。

「奥さんは?」

ワタルさんは手短に首を横に振った。

「なんだかおじさんみたいな人って意外と過去に一世一代の大恋愛してそうなんだけど…」

「もう着いたよ」

「あっ、ありがとう、またねっ!おじさん」

野菊さんはまだ停止しきらないうちから車のドアを開け、もう次の仕事に向かって頭の中は疾走し一度に一つの事しか考えられないと本人が言う通りサッパリと今まで話していた内容など忘れてしまってバタンと閉めた窓の外から蕩けそうな満面の笑顔でワタルさんに激しく短く手を振ってスタスタ行ってしまった。

(あ…ありがとうって言わなくちゃいけなかったな…)とピンク色の小瓶を捨てる時にワタルさんは思った。



続く



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