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苺が実る草むらに白いふわふわの兎が二羽潜んでいる。一羽は下草についた朝露を舐めている。もう一羽は後足で立ち上がり、短い前足を突っ張って赤い野苺の実の左右の茎を押さえつけ、ピンク色の舌を絡めて軸についたままの果肉を食べている。果汁が滴り落ちて上を向いた白い喉を濡らしている。木漏れ日が筋状に差し込む春の森の清閑とした風景を描いているように見える。パッと見た第一印象は。陽だまりで青い羽の蝶が可憐な花にとまってストローの嘴を刺し蜜を吸っている。可愛いだけの風景に見える。けれどよくよく見ると、兎の背後に一対の鋭い目が暗く光っている。さらに深い茂みの奥でとぐろを巻いた縞模様の蛇だ…
蛇が兎を絞め殺す場面は怖過ぎて壁紙には使われなかった。
姉さんの部屋の壁には描き込まれている。けれど、そこには上から額に入れた別の絵が掛けられて隠してある。
「不意に見ると怖いから…」と言って。
でも何が描かれてあるかを知っていて見ると、そんなにグロテスクには見えない。兎は逃げようともがき苦しむ段階は既に越えているみたいだ。充血して飛び出した目に恍惚とした光が宿っている。ふわふわな白い毛並みが逆立つ中に、蛇の黒光りするロープのような体が食い込んでいる。体を不自然な角度に捻じ曲げられて、四肢をピンと伸ばし、兎は何かを待っているようだ。飲み込まれる運命を甘んじて受け入れ、身を委ねてしまっているようだ。
この絵を見ると連想する噂がある。かつて城下の花街で一世を風靡した小柄で色白な可愛らしい遊女がいた。喉の障害で言葉が話せなかったが十五年にわたり街一番の花代をとっていた。夕凪さんと言うその子が有名なのは売れっ子度合いではなく、殺され方なのだ。間夫に一晩力いっぱい抱き締められたせいで圧死したという。
(それってどんな感じだろう…)と考えさせられる。好きな人に抱き締めて殺されるなんて、死に方として最高の贅沢かもしれない…
姉さんの部屋で時間ができると、怖いもの見たさに何度も上に掛けられた花の絵をずらして下の壁画を覗いた。森は同じパターンで静かに部屋を一周している。格闘の後の踏みしだかれた下草の上を、驚いて飛び立った蝶がひらひら舞っている。蛇が這った後らしき折れた若芽のシダの上に二匹目の青い蝶が飛んで来た他に、何も変わったところはない。天窓からは本物の植物の蔦が垂れ、赤ちゃんがバイバイしてる手のような可愛いちっちゃい葉っぱを微風にそよがせている。塔の外壁に絡みついて自生している蔓植物が晴れた日に開け放たれる天窓から新天地を求め触手を伸ばして侵入してくるのだ…
天窓はないけれど、姉さんの部屋と同じ壁紙を巡らせたこの続き部屋が気に入っている。
今は名前が売れ始めているある若い画家が、昔、内装業のアルバイトをしていた頃に、入り浸っていたいち姉さんの部屋で壁画を練習したという。その人がデザインした同じ模様の壁紙の、憧れの姉さんから貰い受けた念願の続き部屋だ。この部屋には他にも色んな姉さんからのお下がりの品々が置いてある。装飾が本気すぎて頭の上に持ち上げるのも重たい金のブラシ。姉さんが使っていた時のまま「重くて動かすの面倒だから」と置きっぱなしの宝石箪笥には、中身もそのまま入れっぱなしになっている。片方をどこかに無くしてきてしまったからとゴミ籠に入れられていたクリスタルガラスのサンダルは、化粧戸棚に入れてどの角度からも鑑賞できるように飾ってある。この部屋にはない天窓のかわりにバルコニーへ続く大きな窓にかけているカーテンも、もともとは姉さんの部屋の天蓋ベッドに張られていたレースだった。糸の中に屑ダイヤが編み込まれており部屋の照明を落としてもベッドサイドの小さな灯りを拾って、寝転んで見上げると、高い空に瞬く星屑みたいに綺麗だった。
姉さんにお客さんがついてない珍しい夜に、一度だけ、手を繋いで同じベッドに寝かせてもらえた時に、(自分も稼ぎを上げていつかこんな素敵なレースを手に入れたい)と思ったのだった。
それなのに、ほんのちょっと埃が溜まってほつれてきたというだけで捨てられそうになっていたから、姉さんの手から慌てて引っこ抜いた。
「新しいの買ってあげるから、こんな汚いの捨てなさい。お客さんを通す部屋なんだから。仕事部屋よ?!」
姉さんは捨てようとして奪い返しにきたが、部屋中レースを抱え走り回って守り抜いた。
「洗いますから、洗いますから」と言いながら。
沢山貰い物をする姉さんは何気なくすぐに物を捨ててしまうけれど(そうでないと溜まって仕方がないのかも知れないが)側で見ているこちらはもったいなくて、ついゴミ箱から拾ってしまう。
何度目かまでは見て見ぬ振りをしてくれていた姉さんも、終いには眉をハの字に寄せて苦笑しながら
「せっせと…人の捨てた物を…貴女…」と流石に小言を言うようになった。
「部屋を新鮮な内装に保つのも仕事のうちなんだよ?いつも同じ部屋、同じ香り、同じ顔じゃあ、飽きちゃうでしょ?お客さんだって。」
(それは分かってるんですが、どうしてもこうなっちゃうんです…)
「貧乏性なんです」嗤ってもらおうとしたら、本気で怒られた。
「少しは投資しなさい。自分のお客さんが可哀想でしょ」
そう言うけれど、褒めてくれたこともあるのだ。
「この部屋に来るとなんだか懐かしい気持ちになる…」
と言って。
「貴女にあげたものが惜しくなりそう…良い意味でね!返してとか言ってるんじゃなくて。貴女の才能が羨ましい。これは凄い才能だと思うよ。物を生き返らせる…
…このドレスは…」
姉さんは広く開いた背中側をこちらへ向けて壁にかけて飾っていたワンピースの、クリーム色の生地に薄紫の幾何学模様が散ったふんわりした袖にそっと触れた。
「これは、地中海を巡る客船で酔っ払ってサーカスを見てる時に、気分良くなり過ぎて、手なんか挙げちゃって、舞台に引っぱり上げられ、3匹のロバの上から浮かび上がるという役をやったらしいの。私。自分じゃ覚えてないけど。その時着てたワンピース…に似てるけど…凄く似てるけど少し違う…」
「大幅に襟を外して腰回りのリボンもとっちゃって裾もグルリと修繕し直したから、半分以上違う服ですよ。」
「そっか!もうずっと前に捨てたと思ってた…でもこうして見ると新しい別の衣装みたい…」
「裾がほつれてたのはロバに噛まれてですか?」
「さぁ…覚えてないの。後からみんなに聞かれたけど、本当にサクラなんかじゃなく、その時が正真正銘にお初にお目に掛かるピエロの太っちょさんに手を引かれて、なにやら、ドラマの殺人鬼みたいな革の黒手袋をはめたマジシャンに額と瞼を覆うように隠されて、催眠術をかけられてから…だから本当に自分の記憶には無いんだけれど…その旅行に誘ってくれたお客さんと他に一緒に行った女の子達がみんなして客席の上空を漂う私の動画を残してくれてるの。ワイヤーで吊り上げられてるようには見えなかったってみんな言うけど、それでもワイヤーでしょ?…あの時だと思うんだけど…分からない。旅行中は色々羽目を外したり常にほろ酔いで朦朧としたりしてたから…他にも色んな物を無くしたり、知らないうちに買わされた訳の分からない物が増えてたり…木彫りの人形とかオモチャみたいな扇子だとかが何ダースも客室の入り口の傍にバナナの木箱に入れて積んであったりして…
後で帰国してから気付いたの。定期のクリーニング屋さんがドレスを引き取りに来てくれた時に、洗い物に出す中から一枚一枚あらためながら自分のところの袋に入れて持ち帰るんだけれど、…後で破れただの汚れただの因縁を付けられないためにね。…これまでは必要ない面倒な作業だなぁと思いながらも仕方なしに立ち合ってたんだけど…そのおばさんがこの1着を摘み出し、『あらこれこんなに破けてますが修繕屋の方へ先に回しときましょうか?』って言ったの、それで初めて気が付いたの。あっちこっちちっちゃいほつれだらけだったでしょ…お腹側の方ばかり…旅行に行くのに買ってもらったばっかりの凄く私好みな新しいドレスだったから、高かったし、悔しくて、しばらくは捨てられないで私もクローゼットにかけて置いてたの。でもどうしたって着られないしと思って、…いつ捨てたんだったかな、貴女にあげたんだったかな…破れてるのをあげたりはしないから捨てたと思うけど…」
「拾いました」
「やっぱり」
「でもちゃんと断り入れましたよ。捨てるんなら下さいって。私も修復不可能なほど破れてるなぁとは思ったけど、お腹側だけなので見返り美人風に飾れば綺麗かと思って、しばらくはここに吊り下げて飾ってるだけでした。でもどうにも着たくなっちゃって。多分新品を買うよりも修繕費の方が高かったですよ。」
「なんで?せっかくお金出すなら新品の今流行ってる物を買わないの?」
「もともとは姉さんの物だったと言うところに価値があるんですよ!」
こちらの目を見つめ首を傾げながら姉さんはじわじわと広がる苦笑いをした。
「…私にとっては思い入れがある一着だけど貴女には何の値打ちもないじゃない…」
それからぐるりと部屋を見渡し、
「なんだかここは私の…捨てた物で作り上げた部屋みたい…」
「まぁそうです、いや…むしろその通りです。私は姉さんが無意識に更新していってる記録を拾い集めて保存してるんです。ここは保管庫です。博物館とか。姉さんの伝説を保存する責任者みたいなものですよ、私は」
「なにそれ…なんか怖いわ。蝋人形とか作り始めないでよ。まだ私生きてるのに」
「姉さんは自分で分かってないんですよ、自分の凄さが。この城に来る前からもう私の耳にまでいちこさんの名前は轟いてましたし。お客さんが噂するんですよ。「この辺で一番上品な店の名前は〝お城″、そこで一番の美人はいちこちゃんだ」って。「あの子を目指せば間違いない」って。
それにここに来てからも、電話番の長のあの名物姐さんも仰ってましたよ、『飛び抜けた売れっ子はいつの時代にもいるけどこの現代で一時代を築いてるのはあんたのところの姉さんよ』って。『私が見てきた中ではダントツ、別格。』だって。姉さんは『群を抜いてる』そうですよ。あの口達者な電話番長をしても、姉さんのお客さんは他の子にちょこっとも浮気してくれないそうですよ。姉さんがワクチンで2日寝込んだ時も、濃厚接触者の疑いで一週間休んだ時も、姉さんのお客さんは他の女の子に流れないで『待つ』って言って通話を終えたらしいです。『仕方ないね、あの子がいないんじゃあ』って、一筋に。珍しい事らしいですよ。普通は大してこだわらず誰でも良いからあんまり変わり映えしない女の子の一人とそこそこ楽しい時間を過ごして満足できるんですよ。電話番も客と女の子を繋げてナンボのもんですから。大体似たような子を推薦します。だけど姉さんのかわりはなかなかいないから…受付が嘆いてましたよ、お見舞いの電話が鳴り止まないって。あの子が元気に働いてくれないと城にお金も落ちないしなんとなくみんなしょんぼりして困るって。」
「ふうん」
「伝説です!姉さんは!自覚無いんですか?恐ろしい。もったいない…どうやってそんなボーッとしててお客さんの心を掴んで離さないでいられるんですか?秘訣は何?」
普段から褒められ慣れているせいか姉さんには誉め殺しの技は効かない。
「さぁ。ただ長くやってるだけ…」退屈を紛らせてくれる拠り所を探す目になってウロウロ視線を投げかけている。
「私の目には姉さんの足跡がキラキラした物語に見えるんです。伝記を書いてあげますよ。それが私の使命かもしれない…」
「足跡がキラキラしてるのはナメクジよ。貴女は貴女の仕事をしなさい。この部屋で客をとるのがここにいる人の使命なんだから」
姉は姉で日頃からどう言おうかと常に胸に蟠っていた事をこの時ついに今しかないと思って頑張って口に出した。
「他の子達を見習って。ユイちゃんもキクちゃんも売上上げてどんどん城に貢献してるでしょ。貴女だけが方向性を何か間違えてる気がする…慕ってくれるのはもちろん私は嬉しいし有難いことなんだけど、自分が何しにここに来たのかを忘れちゃダメ」
「はい…」
俯いてしまった妹を見て、姉は、ずっとどう言おうかどう言おうかと伝え方やタイミングに悩んで言葉を捏ね回してきた挙句に、この子にとって一番嫌な言い方をしてしまったなとチクチクと胸が疼いた。この子が自分よりも先に入った姉達を何となく敵対する目で見ている事にはとっくに気付いていたのに。
だけどこの間廊下ですれ違った周旋人のあの言葉が脳裏に引っかかっている。
「おたくんとこの新しい子どうなってます?いちさんの妹としては相応しくなかったですかね?リピート率思わしくないそうじゃないですか?やる気あるのか聞いてみないとですよ。
たまにいるんですよね、何のために城に来たんだか分からない子が。客をとって稼ぐよりも掃除の方が向いてることに気付いただとか…」
使う部屋代以上は最低でも稼がねばならない。懐いて可愛いからといつまでも姉が養ってあげていたのでは本人のためにもならない。
「サヤちゃんは頑張り屋さんなんだから、その方向性さえ間違えなかったら自分が伝説になれるかもしれないじゃない?」
「まさか…姉さんのようには…とてもとても…でも、はい。頑張ります」
「うん。頑張って」
しばらく無言で立ち尽くし、それから姉は何をしにこの部屋へ来たのだったか思い出して宝石箪笥に歩み寄った。
「横山さんに頂いた真珠のブレスレットを付けていこうと思って…今日はアーモンドがテーマの新作アイスクリームの試食会にお呼ばれして、そのあとも食べなくちゃいけない仕事だから…
…どう?これに合う真珠のピアスかネックレスか…どっちもは重た過ぎるよね?」
宝石箪笥の中身は姉妹で共有され、これは誰のもので誰のものでは無いなんて言ってる場合では無い有様だった。サヤがこの部屋に入るまでは。
前の前の前にこの部屋を使っていた今では誰も顔を見たこともない先代達の骨董品もそのままごっそり残され、人造の偽物なのか天然石なのかの区別もつかない。やかましく光を跳ね散らかす赤や深い青や透き通る無色や揺らめくオレンジや斑らのオーロラ色や濃淡を変える紫やギョロギョロ動く猫目の…ブローチ、指輪、ペンダント、イヤーカフ…海賊が鷲掴みにして強奪してきたままここへ放り込んだみたいだ。
やる気に満ち目をキラキラ輝かせて入ってきた新人が新しくこの部屋を使う事になった度に丁寧に時間をかけて絡みついたネックレスの鎖を一度は解いたりするのだけれど、すぐに馬鹿らしくなって何度も同じ時間を無駄に費やしたりはしなくなる。絡まり合ったアクセサリーは使いたい者がその都度解いて身に付ければ良いのだ。外す時にはヘトヘトに疲れていたり朦朧としていたりして丁寧にしまう気力は残されてない。自分の体を自分のベットに運ぶ事さえままならないのに…
この部屋を使う女の子達は売れる見込みが高いと選ばれてきた特別な少女達なのだ。働けるだけ働いてもらわなければ困る。サヤもその一人だった。
姉に真珠の首飾りをつけてやりながらその細いうなじから香り立つお揃いの香水を嗅ぎ、(忘れるところだった…二度と同じ事をこの人の口から言わせてはいけない…!)と硬く胸に誓った。
(憧れの人を追うのではなく追い越すつもりにならなければここでは生き残れない…)
まず自分よりもたった二日早く入っただけなのに姉と呼ばなければならないのがムカつくユイ姉さんと、まだ2回しか顔を合わせたことがないキク姉さんを追い越さなければ…
本来ならこの二人のことは名前にちゃん付けで対等に呼び合いたい。こちらでは姉妹関係を結んだのはいち姉さんだけのつもりなんだから。それでも先にいちこさんの妹になった二人はやっぱり姉さんと呼ぶらしいのがここのしきたりみたいだから、それに従うより他にやりようがない。自分が一番後から入ってきた下っ端なのだ。
塔には部屋が六つあり、自分を入れて四人が暮らしている。
続く