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何故突然目が覚めたのか分からなかった。
目の前の鶯色の壁紙に揺れる朝の光の加減に違和感を覚える。天井の品の良いクリスタルガラスのシャンデリアに何か引っ掛かってぶら下がり、揺れている。赤いちっちゃなレースのパンティだ。振り向くと、隣で姉さんのお客さんがスヤスヤ眠っている。頭のてっぺんにふんわりとしたホイップクリームを乗っけたみたいな一房の白髪を生やした広瀬さんというおじさまだ。半世紀近くも歳上なのに赤ちゃんみたいな寝顔にホッと和まされる。
昨日の夜はこの広瀬さんのお誕生日パーティーだった。
ソファやこのベッドの上でもピョンピョン飛び跳ねる子達がいて、その子らが各々手に持ったままのクラッカーやグラスやらからあっちこっちにオリーブやパイナップルやキラキラの紙吹雪が溢れ、ニコニコしているだけの広瀬さんといちこ姉さんにかわって(さすがにソファが破けるんじゃないか、高価なベッドがダメになるんじゃないか…)と内心ヒヤヒヤしていた…
人が良くて細かいことをいちいち気にしていられない姉さんは、普段自分の悪口を言ってるような子達でも気にせず自分の部屋へ招いてしまった。「だってどうやって選別するの?私をよく思ってる子だけ呼ぶなんて。無理でしょ…。そんな事言ったらあなた、余計ややこしいわよ。『私をよく思ってる人だけ来て下さい』なんて招待状が届いたら、みんな下の子達は考えちゃうわよ、『行かなきゃ悪く思ってるってことになっちゃうじゃん』って。その日仕事の予約が入ってる子もいるだろうし…みんな呼んじゃえばいいじゃない?自由参加で。『来られる人はどうぞ来てください』で良いでしょ?毎年そうしてるから…」
参加者を募っておいてと言われた時のやりとりを思い出す。
「でも…」3年前にいちこ姉さんのもとに直接拾われて心底から姉を慕っているユイには、本人が屁とも思ってない生意気な反逆分子に対して、まだそこまで寛大にはなれない。
「何か壊されたり、無くなったり、仕掛けられたりするかもしれませんよ…!盗撮とか盗聴器とか!姉さん!(当日来るのはお客さんの付かない予約のない女の子達ばかりなんだから、僻み屋で、売れっ子の姉さんに何かあればいいのにとか、悪意を持ってる子も多いですよ!とは口に出して言えなかった。)みんながみんな、城で一番の姉さんの部屋を一目見て見たいと思ったり純粋に姉さんに憧れたりあやかりたいと思って来る子達ばかりじゃないですよ」
真剣な目をして心配する妹分に気圧されながらも、いちこはボンヤリ不安な顔をしただけで解決策に思い至らなかった。
「ちゃんと毎年どうにかなってきてるし、後片付けもしてもらうし、大丈夫だから。表の部屋しか使わないし。あなたがそんなに言うなら貴女の部屋へ大事なものは移動させる。それで良いでしょ?そんなに大して何も壊れないし無くならないよ、毎年」
「去年はミラーボールが落ちましたよ」
「そうだったかな…?」
「床で粉々に砕けて…」
「ああ、綺麗だったよね。思い出した…」
ロマンチックないいところだけを思い出す姉さんの能力が発動して、夢見るような表情が顔に浮かんだ。
「誰にも当たらなかったから良かったですけど、後片付けが大変でした…」
「放っとけば良いのに。あなたの仕事は掃除じゃないでしょ?掃除専門のスタッフから仕事を奪っちゃダメだよ…」
今も、広瀬さんの肩越しに、向こうから、いちこ姉さんがこちらへ睨みを効かせている。広瀬さんに腕枕している腕がこちらへ伸びて、動かせないその腕の先で、細っそりした人差し指がユイを、そして壁の隠し扉を交互に指差す。
姉さんの口が「早く」と言う形に動き、目が、蔦の絡まる模様の壁画に隠された隠し扉へと激しく目配せしている。そのドアから早く出て行けと言っているのだ。そのドアはユイの部屋へと続いている。
ユイはいきなり上体を起こした。クラクラ目が回ってまたベッドに倒れかけた。昨日飲み過ぎたシャンパンの泡が頭の中でまだシュワシュワ弾けてるような頭痛がする。蝶々の群れのように部屋いっぱいに詰めかけてはしゃいでいた女の子達は夢のように消え失せ、残り香だけが漂っていて、(今何時だろ)と軽いパニックを起こさせる。見当たるところに時計はない。
一番最後まで残って眠ってしまっていたらしい。早くこの部屋を抜け出さなければ…
朝は静かに愛する人と二人きりで迎えたい、というのが広瀬さんの願望なのだ。前夜祭は訳の分からない数の女の子達と入り乱れて乱痴気騒ぎを繰り広げるのだけれど、翌朝目覚める時にはそれら全部が夢だった事になっていたら素晴らしいと思うそうなのだ。
もともとは、パーティーは広瀬さんが自ら望んだものではないのだ。あまりにいちこ姉さん一筋な広瀬さんに、ちょっと他の女の子達をけしかけてみて、赤くなったりモジモジしたりするおじさんの様子を面白がろうと、姉さんが毎年仕掛ける愛のあるサプライズなのだった。仕掛けられた当人は満面の笑顔を俯かせて、困ったふりをしながらそれはそれで喜んでいるのだけれど、でも翌朝には必ず二人きりで一日の始まりを迎えたいらしい。
ここはどんな願いでも叶える魔法の城だ。
自分は急いで消えなければ…
化粧と目脂を指の背中でゴシゴシ擦り、目を開き、腕に絡んだ広瀬さんの手をそっと外して、姉さんの腕に巻き付ける。間違った物に巻き付いた朝顔の蔓の新芽に正しい支柱を掴ませてやるようにして。
ベッドから抜け出そうとするユイをいち姉さんと間違えたのか、広瀬さんが寝惚けながら後追いする仕草を見せる。いち姉さんが後ろから彼を優しく捕まえ、その頭を自分の胸に抱き寄せた。全く安心しきって目を覚ます気配もなくムニャムニャ寝言を言いながら、猫みたいに幸福そうに喉を鳴らし、ポチャポチャした頬をぷにゃっと変形させ、姉さんの胸に沈み込んでまた深い眠りに落ちていく広瀬さんを見下ろして、思わず顔が綻ぶ。それを姉さんに目撃されて、
(可愛いよね)と一瞬見交わした目と目で同じ気持ちを共有し合う。
けれどすぐにキリッと二人の目の色が切り替わる。ユイは姉貴分に黙礼すると、水のようにベッドからスルリと滑り降りた。
昨日の夜に自分が身に付けていたはずのものを床や飾り棚の上やあちこちに探し求めて部屋を素早く一周し(どれひとつとして自分の物は見当たらなかった。みんな慌てているし飲み過ぎて昨日自分が何色の何を身に付けていたかも思い出せないままに探し物をして、結果適当にどれか一つ他人の脱ぎ捨てた下着や羽織やスリッパやらをつっかけ、引っ掴んで持って出て行ってしまってるのだ。ユイ自身にも昨日の夜の自分の最初の服装がうろ覚えだった。あとでいつか自分の服を着ている誰かと廊下ですれ違ったら、「それ私のだから返して」と言えばいいだけの事だ。)
姉さんの品の良い部屋にそぐわない安物の派手な金ピカ下着をゴミのように回収して腕に抱えると、出来の良い黒子が舞台袖へ引っ込むように、壁紙の模様に溶け込んだ隠し扉をそろりと抜け出て、ユイは姉の続き部屋である自分の部屋へと引っ込んだ。
続く