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お城  作者: みぃ
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12-2 鹿島君、ユキ!!!! 

 細く開けた窓からヒュンヒュン唸りを上げて入ってくる冷たい夜風、湿った土と木の葉の森の香り、木々のざわめき、闇をくり抜くヘッドライト、加速、減速、車体が自身の体と一体となり、思い通り自在に動いてくれる特殊能力を得たかのような感覚。開放感。強靱な翼を生やし低空飛行する鳥になったような。限界速度でカーブに突入し右に左にドリフトを試す。

腰を深くシートに沈め、直線で更に加速する。この時間帯にこの場所を通る車は他にない。こんな山の上にこんな夜中に用があるとすれば同じ趣味の走り屋くらいだ。昨日降った雨が、冷え込む今夜は道をツルツルに凍らせて滑りやすくさせているかもしれないこんな真冬にわざわざ走りに来る者も少ない。

鹿島君が山道に入ってから、しばらくは前にも後ろにも自分の車以外のヘッドライトは見あたらなかった。が、山肌をなぞる大きく緩やかな夜景スポットにさしかかったとき、ずっと後方に、同じ道を走ってくる一台の小さな光が見えた。

(カーセックスの場所を求めて走っているお金のないカップルの乗った車ならいるかもしれない)と鹿島君は気が付いた。

(でも、走っている車なら必ずライトを点している。)

脇に寄せて事に及んでいる車にまで注意を払う必要は無い。歩いている人なども居るはずが無い。彷徨いているとしたら野生の鹿か猿か猪かだ。気を付けるべきなのはそういう野生生物だけ、他に車があれば光で分かる。

そう思っていた。

鳥肌が立つ身の危険。ヒリヒリするほど間近に、皿に載せて我が身を死に神の目前に捧げ、サッと奪い返す。次のカーブでは死ぬかもしれない。ギリギリの天井を叩き上げ超え続けていく。生ぬるい速度では思考に追いつかれてしまう。消え去って貰いたい物思いを吹き飛ばし、一瞬でも無の境地を勝ち取りたい。誰のことも今は考えたくない。生きるか、死ぬか、それだけしかない場所で限界速度のまま走り抜けたい・・・


 急ブレーキを踏んだのは、子どもが一人で歩いていたからだった。街灯も無い真っ暗闇の中、何も無い山道の真ん中にポツンと立ち止まり、振り向いてこちらを半身、振り返って見たところで、眩い白い灯りの中に捕らえられ照らし出され身をすくめていた。フラッシュを焚いてその子の写真を撮ったみたいに、鹿島君の目には彼の怯えて見開いた丸い瞳、青ざめた頬、手のひらを合わせ唇に当てた両手の指先、少し猫背のひょろひょろした姿勢、片方だけ履いているスニーカーの反射する蛍光色のブランドロゴ、全てが鮮明に焼き付いた。


 そこからはスローモーションだった。

鹿島君はハンドルを左に思いっきり切った。握り締めているハンドルは自分の体をそこに固定するためだけでしかなくなり、制御を完全に失った車は暗い樹海の中へ猛然と突進していった。片方ずつ目が潰れるように、まず左のライトが、そして右のライトが潰れ、視界が全き闇に閉ざされた。体が浮き上がり、宙返りし、自分の腕だか肘だかどこかが押し付けられてけたたましいクラクションが山の静寂をつんざいた。力の限り踏みつけているブレーキも急斜面を横倒しに転がり落ちる車にとって何の意味も成さなかった。壮絶な闇の中、ボンという音で、助手席側のエアバックの方が先に開いた気がした。それから運転席側のエアバックが開き、車が何かに衝突し、全身に大きな衝撃が加わった。体中の骨が全部折れ内臓が全て潰れたような気がした。一筋の光も無く、目が見えず状況の判断も何もできないながら、鹿島君には自分の意識が薄れていくことだけが分かった。顔にかかる女の長い髪の感触、しかしそれが頭を強打した事による血の流れだと手で触れて確かめることもままならなかった。腕が持ち上がらなかったのだ。

(嗚呼、死ぬんだ…)と思った。思い出が走馬灯になって出てくる余地もなかった。

(せめてあの男の子は無事だっただろうか、)と鹿島君は最後に考えた。




 部屋から溢れる灯りに照らされる距離までヒラヒラと近付いて、闇の中から不意に現れるように見える白くチラつく雪が、冷たい夜の風と共に室内に舞い込んでくる。数キロ先の隠れ家で不審な音を聞きつけ窓を開けて外を覗いて見ている姉弟がいた。

「トモヤくん」今はクルミの名で通っている姉が窓辺に立つ弟に近づき、一緒に外を覗いた。

「何か見える?」

「いや。何もここからじゃ何も見えない」

「犬が鳴き止まないね。見に行ってみる?」

二人が眺めているのはしっとりと冷たい雪に濡れた深夜の森だった。こんな凍える寒さの夜更けにこんななんにも無い山奥まで上がってくる物好きは滅多にいない。たまにただ風のように走ることそれだけを目的にした車やバイクの集団が勢いよく通り過ぎて行くが、そういう走り屋達は一過性の雨みたいにザッと来て、黙っていてもザッと通り過ぎていく。犬小屋の犬もそう長く興奮し続けない。何かが山を登ってきて、そのまま居続け、まだ降りていってないのだ。しつこい犬の吠え声がそれを知らせている。

「そうだな」

「誰かがもう見に行ったかな?」

「いいや、馬鹿ばっかりだから俺が指示するまで誰も持ち場を離れてまで確認しに行ったりしてないよ。多分」

「自分で行くの?」

「うん。この目で確かめないと。節穴どもに行かせてもどうせ何も見てこないから」

「ついて行って良い?」

「良いよ。他にやることが無いなら」

「最近外に出て無さ過ぎるから…」

「じゃあ上着を取ってきて。懐中電灯と。変な羽根の付いたフラミンゴに見えるようなやつじゃなくて、本気の防寒用のやつだよ。登山用の」

「ノースフェイス?モンベル?」

「そういうやつならどっちでも良い。」

「その下に付ける防弾チョッキもいる?」クルミは険しい表情の弟の顔を少しでも和ませようとして笑顔で言ったのに、弟は真面目に受け取った。

「それはもう車に積んである。その靴、履き替えて来いよ。車を回してくる。正面階段の前。遅刻したら置いて行くから」

「何分後?」

「俺より先に着いてなかったら置いていく。」

弟はゴム底の分厚い踵をギュッギュッと踏み鳴らして出入り口の方へ大股で歩いて行き、温かい姉の部屋から出て行った。帽子を被りマスクをすれば似たようなヒョロリと痩せ型の体格の黒服は大勢いて、みんな纏めて陰ではシャクトリ虫とか骨ボーイとか呼ばれているが、誰もクルミの弟に面と向かってはそうは呼ばない。年下の者も、年配者も、クルミとトモヤ姉弟を下手に見る者は今では園内には一人もいない。

 寄せ木細工の床の上に付いた弟の大股の濡れた靴跡を見た。クルミには彼がさっき外から帰ってきたばかりで、何も食べたり温かい飲み物を飲んだりもしていないのが分かっていた。

弟の頭の中には常に新しい計画があり、先を読んでいつも先手先手で動く。人を動かす立場にのし上がったはずの今でも、誰かを動かすより自ら率先して動くことを好む。自分一人で大概のことが器用に何でもこなせてしまう分、かえって人間に対しては不器用で、自分一人の頭の中で色々考えているらしいアイディアを、言葉足らずなのか、なかなか人を信用出来ない性格のためか、他に打ち明けない。突如事を起こすから、これまで一丸となってついて来ていたつもりの者達はパニックをきたし、『もっと前もって言っておいてくださいよ…』と現場は混乱する。それが狙いなのかと思える事もある。

クルミには弟が怖いときがあった。

『あの人、次に何を言い出すんでしょう?』

『クルミさんなら何か聞いて知っていますよね?』等と弟の下の者に聞かれても、自分にもあの子が何考えてるのか分からないよ、と答えるしかない。

弟が誰かを心から信頼していると確信できたことはなかった。この世にたった一人の血の繋がった姉である自分さえも、スパッと切り捨てる日がいつか来るかもしれないと思っていた。口に出して愛情表現なんて当然してくれないし、優しい態度もとらない。ただ、(あれ、これってもしかしてこの子の甘えなのかな)とチラッと気付く分かりにくい小さな事、例えば、外から帰ってくると真っ先に自分の部屋に寄ってくれてるらしい事とか、他者から『クルミさんにだけ空気感が違いますよ、あの方。他の者の前ではもっともっと断然ピリついてますよ』等と度々言われて初めて(そうなのかなぁ?)と半信半疑になれる程度だった。

 弟がそんな風に心から人を閉め出すようになったのも仕方の無い、自分にも一因のある事なのかもしれない、とクルミは思える。


 まだ二人がとても小さくて日本語も満足に喋れなかった頃、旧体制だったこの“園”の窮屈な統治から「一緒に逃げよう」と誘った。弟は自分よりも二つ年が下で、足も遅く、泣き虫で怖がりだった。その当時は体力も到底自分に及ばなかった。ただ尻込みし怯えるばかりで、行くとも行かないともハッキリ答えられなかった。逃げ出そうとした者が連れ戻されるとどんな酷い目に遭わされるかは、二人とも実際に見て知っていた。

『もう少し待ってよ…』『もうちょっと考えようよ…』『置いていかないで…』

そればかりメソメソ言うだけなので、衝動的に激情で動くクルミはイライラしてジッと待ってなどいられなかった。自分の方が年上で、先に客を取らされることになる。弟にはまだ猶予がある。“楽園”と呼ばれる敷地の周囲をグルリと囲う塀に補修が必要なヒビ割れて金網が見えている弱い部分があることにも、いずれ自分以外の大人も気付くだろう。自分には時間が無かった。

『もう待てない。後からおいで』と友達に伝言を頼んで、真昼に一人で脱走計画を実行に移した。夜は弟が眠らずに目を泣き腫らしてお腹や腰にきつくしがみ付き、勝手に行かすまいと必死で阻止してくる。互いに毎晩消耗させ合っているだけでは無駄も良いところだ、と幾夜を明かしながら思っていた。足手まといだった幼い弟を先に切り捨てて逃げたのは自分なのだ、とクルミはずっと胸の中でジクジク後悔していた。

 クルミ(当時はカホと呼ばれていた)の脱走計画とは、計画とは名ばかりの勢いに任せたただの衝動、(とにかく走って走って逃げ切りたい)と言う魂の叫びの呼び名だった。当時は規制の緩いところは緩緩で、昼間しらふで敷地内を自由に遊び回れる時間も多くあったし、キチンキチンと決まった時間に必ず薬を飲み飲み込んでいるかどうか喉の奥までチェックされる、あるいは血流に直接注射針で液を注ぎ込まれ、朦朧となっている間にだけ縄を解かれるというわけでもなかった。脱走する子は逃げ出したまま逃げおおせることも五分五分くらいの率で、まだあった。

 初めに脱走計画を企てたとき、クルミが金網を切るために用意した品は、ただその辺に転がっていた手頃な大きさの石一個だった。それを振り上げ、振り下ろし、ひたすら汗みずくになりながら金網を殴り続けた。朝から初めて、昼過ぎにやっと自分一人が通り抜けられそうな穴を広げた。耳や腕や脚や、頭から被って着るスモックワンピースをビリビリに破きながら、蛇の脱皮のように身をくねらせ、なんとか塀と金網の外側へ抜け出した。

 塀の外はたじろぐような深い森だった。

(とにかく走る!!)にしても、どっちの方角へ走るのが正解なのか分からない。が、怖いよりもワクワクで胸が高鳴っていた。置いてきた弟の事を考えないわけでは無かったが、姉は楽観的だった。

(出られたものはいつでもまた戻って来られる)、とでも考えていたのだったか。

とにかく今は先に進みたかった。道なき道をシダ草に埋もれ溺れそうになりながら進み、獣道に行き当たった。今度はその、細い微かな途切れがちの、しょっちゅう何本にも枝分かれして本筋などない獣道を運を野生の勘に任せずんずん辿った。やがて人間の踏み固めた広い山道に辿り着いた。道は山の中を下ったり上ったりした。しばらくその一本道をひたすら何も考えず足だけ動かして黙々と歩いて、分かれ道まで来た。

ここで初めて足を休め、脳味噌を働かす出番が来た。

道は二つ。親切にも、二つの矢印には言葉が読めない人間のために言語の他にも絵でも分かり易く表現してくれていた。片方の矢印には山をさらに登っていく曲がりくねった道のマーク。もう片方にはテントとキャンプファイヤを囲む人々の姿が簡単に描かれていた。

クルミは人がいそうな表札のマークの矢印が指す方を選んで進んだ。

道は緩やかに下り坂になり、やがて掴む草も生えていない急勾配の砂と土だけの命懸けの滑り台のような斜面に突き当たった。クルミはしゃがんだ姿勢でズルズルと滑り、埋もれた岩が突き出たところで少し休憩し、それからまたズルズル滑り、滑り落ちながら、次の滑り止めに地面にしっかり埋もれていると勘違いして掴んでしまった役立たずな石のせいで、ゴロンと頭からひっくり返り、宙返りし、回転し、さらに加速を付けて回転し、それから死に物狂いで手当たり次第手を伸ばし、藪を引っ掴んで我が身の回転を止めた。全身傷まみれ、赤とピンクの生傷の肉の中に砂や小石もめり込んで痛そうに両手両膝からドロドロ血が滲み出ていたが、涙は一滴も湧いてこなかった。土の詰まった黒い爪の先を使って、小石を傷口からえぐり出し、スモッグの土埃をバサバサ片手で払っただけで、この場を切り抜ける最優先の課題に野生の頭脳をフル稼働させる事に集中していた。

下を見ると、乾いた砂の斜面がまだ残っていた。上に上る方が遥かに楽そうに見えた。しかし、耳を澄ませば、鳥や風、細い渓流、木の葉が擦れ合わさる音に交じって、人声も下から響いて来るような気がした。下る方が険しいが、もう少し頑張ったらその先にはもっと平らな歩きやすそうな道が待っていて、人がいる場所へ出られると信じ、藪草から手を離し、さらに斜面を滑り降りた。

真っ直ぐ立って降りられる松やツツジや下草の生えた山道に出てからすぐに、丸太と丸石で整備された階段が現れ、お祭りでもやっていそうな賑やかな人声が一挙に近くなり、それから、緑の濃く茂った梢の分厚いカーテンが割れ、突然、グレーの塗装されただだっ広い駐車場に出た。

 無料駐車場にゆっくりと入ってくる車、出て行く車、家族連れ、ツーリングの仲間達、のどかな山のハイキング日和。

時刻は昼下がり。季候も良く、ちょうど山桜の開花する季節だった。家族連れの多さや賑わい、露天の繁盛等から見て、カレンダー通りに生きている人々にとっては今日と言うこの日は日曜日であるらしかった。

 クルミが山から降りてきた階段のすぐ脇の木陰で、蜂の軽い羽音を圧し鼾を立てている大きな生物がいた。組み立ての簡易式ハンモックに寝ている熊のようなおじさんだった。ベルトまで隠れない丈の短すぎるTシャツから出ている毛むくじゃらのお臍。指を突っ込んで深さを測ってみたくなるその暗い穴。表面をフサフサした毛が覆い、まるで虫への罠の落とし穴みたい。スイカのようにまん丸く盛り上がったお腹。傍らには食べかけのサンドイッチ、飲みかけのオレンジジュース。表紙まで紙で出来た柔らかい本も、読みかけて眠くなったのか芝生の上に敷かれた雑誌の上に伏して置かれている。

クルミは急に空腹を感じた。

(この人は食べ飽きて眠っているのだし、お腹にいっぱい貯蓄されてる)と躊躇無くサンドイッチを掴んで食べ、ビッグサイズパックのオレンジジュースで喉を潤した。下草にしゃがんで夢中でむしゃむしゃ食べ、すっかり全部食べ終えてから、広げて四隅を石の重みで止めた新聞紙のスペースに寛げそうなクッションが置かれていたことに気付いた。

(どうせならクッションにどっかり凭れてゆったり食べれば良かった)とクルミは思った。おじさんの鼻鼾は規則正しく、時々無呼吸になっては、プハァッ!と浸水していた人が海面に浮上してくるみたいな呼吸法で、その瞬間に一時的に意識が覚醒しかけ眠りが浅くなるらしいが、その瞬間瞬間で走り出す身構えをしていれば後は平和にまだまだ眠り続けていてくれそうだった。芝生に前輪を乗り上げ車体の半分を木陰に入れ、残りの後ろのもう半分は日向の砂利道にはみ出す形で、小さな船みたいな大きなバイクがハンモックの近くに寄せて停めてあり、籠にオレンジジュースの紙パックやサンドイッチの包み紙と同じ赤いチェックの模様のクシャクシャに丸めたゴミ屑が詰まっていた。

(このおじさんのバイクだな)とすぐに分かった。(この人は一人でツーリングを楽しみに来た。山に登りに行って後でここで集合する約束のガールフレンドも無し。その彼女がヘルメットを被って山登りしてるなら話は別だけれど)と、そのくらいはクルミにも予想できた。

あまり長くこの平和な食べ物を恵んでくれた眠れるジャムおじさんのそばにいて安定的な鼾を聞いていると自分まで眠くなってきそうだった。遠く車の向こう側の屋台にどんな物があるのか見に行ってみようと、ヨッコイショと立ち上がった。親切な眠りおじさんを横目にもう一度チラッと一瞥して、森の通貨3どんぐりをポケットから取り出し、空にしてしまったサンドイッチの容器の中にポトポトポトンと落として、あくびをかみ殺しながら日向へ歩き出した。

駐車場を突っ切り、ケバブの屋台、花と野菜とパンの市、投げ輪や風船売り、たこ焼きの屋台、猿に首輪を付けて芸をさせている男等等を見て回り、アイスクリームの屋台の前でクルミの足は自動的に止まった。フレーバーは3種類あるようだった。苺かミルクかチョコレート。クルミのお腹の中から巨大な誰かがまだ腹ぺこだよぉとグーグー抗議の哮りをあげた。列には5人くらい並んでいる。クルミの見ている目の前を両手に苺とミルク味のアイスを受け取った少年がペロペロ交互に舐めながら通り過ぎて行く。アイスクリームはいかにも美味しそうに表面が速くもトロリと溶けかかり、太陽の光を反射しキラキラ輝いて見えた。

(ああ、コーンの反対側を早く舐めないと、手に垂れかかってる!)

クルミは思わず目でずーっとアイスクリームの行方を追ってしまう。食い入るように見詰め、眼力だけで味わおうとするみたいに、見るからに美味しそうなアイスを受け取って通り過ぎていく人々の手に握られている眩しい羨望の丸い塊を見詰めた。あまりに必死でアイスクリームだけをその他のどうでも良い物から切り離して見詰めるせいで、クルミの目には、それを持っている人は亡霊のように影が薄くなり、まるでピンクの苺味や真っ白なミルク味やチョコレート色に輝くチョコレート味の瑞々しい丸いアイスの塊だけがふわふわ宙を浮いて漂って目の前を通り過ぎていくように見えだした。

クルミの口の中から舌が勝手にチョロリと出て来て、何の味もしない乾いた唇をペロペロ舐めた。しょっぱい血の味くらいはしたかもしれない。あちこち擦り剥いたときに唇も切れたかも。サンドイッチの切れ端だけではまだまだ食べ足りないお腹の虫が怒ってグルグル胃を捩じ上げ、空腹でお腹が痛むほどだった。喉もまだ渇いていた。

母親の手をグイグイ引っ張ってクルミと同い年くらいの女の子二人が前を横切り、アイスクリームの列の最後尾に並んだ。

「キキちゃん、ソラちゃん、何味にするか決めた?」

「ぜーんぶっ!」

「あたちもぜーんぶ味ーっ!!」

幼い姉妹が甲高い声で叫び、母と両手で繋いだ手をブンブン振ってピョンピョコ飛び跳ねる。お母さんが怒り出さず大らかにアハハと笑ってお揃いの大きなハートの飾りのツインテールの愛娘達をしゃがんで引き寄せ、順番に頬擦りした。

「じゃあ三つとも買おうね」

「やったーっ!!」

「やったーっ!!」

「お父さんとも分けっこしてあげてね」

女の子二人がパパ~っ!と大きく手を振り、車から降りてきた3人目の赤ちゃんを抱えた父親らしき男がニコニコ顔で空いた方の手を振り返した。

足がひとりでに動き出し、自分でも知らぬ間にクルミは双子の女の子達の後ろにピタリとくっついて列に並んでいた。母親がクルミの後ろを不思議そうにキョロキョロ見回して、目で彼女の親を探した。お母さんは?どこ?と聞きたそうな顔をしてクルミをジッと見詰めていたが、意識して目を合わせないようにしていると、話しかけるのを躊躇っていた親切そうな母親は諦めて、また自分の子ども達の額に交互にふんだんにキスしだした。

列が進み、クルミの後ろにも若いカップルが並んで、「自分は苺にする」とか「じゃあ私はチョコかなぁ」等と話し合った。それからちょっと潜めた声で、この子、お金持ってるのかな…親はどこだろ…と囁き合った。目の前にいた双子とお母さんがそれぞれ手にカラフルなアイスの乗ったコーンを持っていなくなると、クルミはついに高すぎるカウンターに背伸びしてアルバイトの店員と視線を合わせた。優しそうな美人な大学生くらいのお姉さんが店員だった。

「わぁ~。可愛い小っちゃいお客さん・・・何味にしますか?」

「チョコレート?」クルミは一丁前に注文した。スカートの下で手の中にどんぐりをギュッと握り締めていたが、薄々とは、こんなものがママゴトの外で通用しないことはもう理解し、自分が大人の優しさや哀れみに付け込もうと一か八かの賭けに出てしまったことにも気付いている年頃だった。三、四歳。子どもは大人が思っているより以上に実際は賢くて、大人に求められている可愛い子供らしさを意図して演じてあげているのだけれど、それは養って貰っている事をちゃんと自覚しているからこそのお返しのサービスなのだ。

アルバイトのお姉さんは注文を聞いてから、もう一人の男の店員の手が空くのをちょっと待っていて、ちょいちょいと手招きして相方を呼び寄せた。男の方も美人のお姉さんと同じ年頃の爽やかな大学生アルバイトみたいだった。二人はクルミの方をチラチラ横目で目配せし、二言三言コソコソ囁き声で話し合い、お姉さんが首を傾げ、そのままお姉さんの方はチョコレートのアイスクリームを掬い始めた。

「500円です」男の店員さんがクルミにニコニコ笑いかけてきた。手の中のどんぐりが汗でベトベトに湿っているのが分かっていた。泣き出したいような気持ちだった。列に並んでごめんなさいと今からでも謝ろうか、どうしようかとクルミは考えた。お姉さんがアイスクリームのコーンを白い指にピッタリとした手袋をした手で捧げ持ち、男の店員の隣に並び、二人してジッとこちらを見詰めて待った。クルミがお金を払うのを。

お金と交換にすぐ渡すつもりで手に持たれているチョコレート味のアイスクリームがしっとりととろけ始めている。

列の後ろのみんなも自分をジッと注目しイライラして待っているのが分かった。

「500円持ってないの?」お姉さんが優しい小さな溜息のような声でついに聞いてきた。

クルミは(もう良いよ、代金のことは気にしないで)と言われないかともう一瞬待ってみてから、ソロソロと蟹歩きして店の前から離れ始めた。アイスクリームからまだ目が離せずにいながらも。

「ママはどこにいるの?」お兄さんもカウンターから身を乗り出して優しい声をかけてきたが、クルミがキッチンカーの前から横にずれ、どんどんずれて黙っていなくなると、追ってまでは来なかった。

潤んだ目をして指をくわえ大人を見ないようなフリをしてチラチラ見詰め、屋台の近くで、ひもじそうな顔をしてグズグズして待っていれば、いつか誰かが自分のためのアイスクリームを余分に買って「どうぞ」と差し出してくれるのではないかと甘い期待を胸にまだジトーッと待ってみたが、この場には誰もそういう小さな英雄めいた行いをしてくれる人は現れなかった。成功率は低くは無いのだが。今日はダメな日のようだ。自分の後ろに並んでいた若いカップルも、チラチラこちらを見ながら、手にそれぞれ自分達の分だけのアイスクリームを持って通り過ぎて行った。二人いた店員さんのどちらかが裏口のドアを開けてソッと手招きしてクルミを呼び戻し、こっそりアイスクリームを差し出してくれる、ということもなかった。

「まだいるよ…」

「親はどこなんだろ?…」

「ヤバくない?あの子…」

通り過ぎていく人々が自分の噂をしているのが耳に入ってくる。

「迷子センターとかに連れて行ってあげた方が…」

「お巡りさんとか…」

「この近くの交番…?」

耳に入ってくる声音は低かった。邪魔になる場所に立っているせいで、本当に気付かずにお喋りしながら歩いてきた背の高い青年に蹴飛ばされかけ、「おい、邪魔だよ」と叱られた。雲行きが怪しくなってきた。目立つ事にはなりたくない。“楽園”の関係者がこの人混みのどこかにいるかもしれない。今はまだこちらに気付いていなくても人々に勝手に迷子認定され親探しされだしたら気付かれるかもしれない。

クルミは遠目にあるトイレから出て来た女性を目がけ(母親を見付けた!)みたいなフリをしてパッと走り出し、急いでその場から離れた。横目に、クレープやチョコバナナ、コットンキャンディの屋台も見えたが、列に並んでまた同じ事を繰り返す元気は損なわれていた。ちょうど始まった猿使いの大道芸を観衆の中に紛れて見てみたが、紐に繋がれ玉乗りや縄跳び等猿であれば簡単そうな芸をしてバナナの切れ端等おやつを貰えるのを見ていると切なく、(あの猿になれたら…)と思えてくる。ショーが終わり、猿が猿使いの帽子を裏返しにして手に持って二足歩行で観衆の間を練り歩き、チップを集めて回り、サーッと人がはけると、クルミはポツンとまた一人で佇んでいた。白いパンツの見える赤いスカートを履かされたメグちゃんという猿への声のかけ方が凄く優しかった(というか、丁寧に頼む口調だった)おじさん猿使いに近寄り、(おじさんは向こうを向いて折りたたみ椅子に腰掛け、メグちゃんと次のショーまでの間のお茶休憩をしていた)

「どうやったら私もなれますか?」と愛想良く話しかけてみた。

おじさんは最初気が付かないフリをした。粘り強く動かないでジーッと後ろに立って待っていると、怠そうにノッソリとこちらに振り返り、クルミを爪先から頭の先までジロジロ眺め、いかにも迷惑そうな渋い表情をした。

「行って、お家の人に聞きなさい。どうやったら猿使いになれるかって。今度は親を連れて見においでね。次のショーは20分後だから。それまでは、お猿さんを休ませてあげないといけないから、さ、もうお行き」

クルミは猿使いでは無くお猿側になるなり方を聞いてみたのだったが、おじさんは思いの外怖い人のようだった。ショーの間の観客向けのひょうきんな顔とは別人みたいに違う苦い顔、気の短そうな貧乏揺すり。お猿のメグちゃんも座っていたおじさんとお揃いのサイズ違いの椅子から跳ねて飼い主の膝に飛び移り、腕にしがみ付いてクルミに歯を剥き出して見せてきた。ショーの時の可愛らしさは微塵も無く、近くでよく見たらズラリと黄色い鋭く恐ろしい牙、意地悪な毛むくじゃらの小っちゃい老婆みたいな邪悪な顔をしている。

クルミはすぐにその場を離れた。

弟は今頃“園”で湿気たパンを囓っている頃かもしれない。捕らわれていると言うことは一応最底辺ではあれど生命は保証して貰えていたのだ、猿と同じように芸を仕込まれ、やれと言われれば言われたことをやるしかなくても、それでも野垂れ死にはしなかったのだ、と今更ながら改めて気付かされた。

この後どうしよう、と途方に暮れた。

勢いに任せ、出られそうだからと闇雲に出て来てしまったが、先のことなど何も考えていなかった。進退窮まった。今更引き返す道も無い。間抜けでカッコ悪いからと言う理由だけではない。今頃はもうクルミの脱走は黒服全員に知れ渡っているだろうし、戻ったら絶対に罰を受ける事になる。食事抜きとか、閉じ込められっぱなしとか、そうのよりも何よりも体罰が一番恐ろしかった。

空も陰り、夕暮れの気配が深まってきた。温かかった日差しの力が薄れ、冷たい風が吹き抜けて、藪に引っかかれ傷だらけの剥き出しの手足をゾクゾクさせる。人々も帰り支度を始め車にピクニックの荷物を積み込んでどんどん駐車場を去って行く。ベビーカステラや鯛焼きやお好み焼き、バーガーなどをお土産に買って帰る列が伸び始め、甘い生地やソースの焦げる香ばしい香りが嫌でも空中を漂い鼻から吸い込まれクルミの空っぽの胃に染み入って、お腹の虫がトサカを立て暴れ出したようにグーグー唸り、空腹過ぎてきゅうきゅうお腹が痛みだした。近付けば余計匂いを吸い込んでお腹が減ると分かっているのに、たこ焼きの屋台にフラフラ足が向いてしまう。近付きすぎず遠からぬ距離で立ち止まり、淡い期待を込めてクレープ、イカ焼き、フルーツ飴、ステーキ串の屋台とそこに並んでいる家族連れ、友達グループやカップルを物欲しげに見て回った。

「見てあの子、まだ居るよ」

「まだ迷子みたい…」

誰かが自分の方を向いて他の人々の注意もこちらに向けさせる気配を察知して、クルミは未練を断ち切り、屋台の連なりから視線を引き剥がし、駐車場の方へ自分の体を無理矢理向けた。

(ここに居てはダメだ。これからここからはどんどん人が減っていくばかり。街まで降りなければ。すぐに夜になる。どこかの車の後部座席に忍び込もう!)

そうと決まったらすぐ行動に移すのがクルミだ。駐車場をウロウロ歩き回り、ドアを大きく開けて畳んだキャンプ用品や登山用具、荷物の積み込みをしている人を見付けると背後でジッと車内に飛び込む隙をうかがった。なかなか誰もドアを開け放ったままで自分の車から離れる人はいなかった。すぐ背後霊のように付き纏うクルミに気付き、余計に用心深くなる。目の前でバンと扉を閉められ、首を傾げたり手を振ったりして、みんな帰って行ってしまう。だんだん車がいなくなりますますだだっ広くなっていく駐車場をさまよい歩く内、山から最初に下りてきた時にサンドイッチを食べかけて寝ていたハンモック男のところへ戻って来ていた。

おじさんは今さっきまで眠っていてようやくついさっき起きたところみたいに、なんとも言えぬボンヤリした顔をして手に取ったどんぐりをジッと眺めていた。

自分を見ているクルミに気付くと、どんぐりを太い人差し指と親指でつまみ上げ、

「子リスさん」とクルミに呼びかけた。「お前さんがこれをくれたのかな?」

おじさんの声は深みがあり、ゆったりと温かかった。クルミに向かって大きなクリームパンの手を上げ来てごらんこっちへ、と手招きした。さっきは帽子を顔に被せて眠っていたから気付かなかったが、ふっくらした淡ピンクの頬を包み隠す豊かな白髭がサンタさんみたいだ。

「ここにあった残り物でお腹はいっぱいになった?」頬の両脇の髭が持ち上がり、サンタがニッコリ笑ったのが分かった。

クルミのお腹の虫がグルグル鳴って「いいえ全然足りません」と答えた。

「よし。おじさんも腹が減った。何か買って帰ろう。おいで」

まるで最初から二人は一緒にここに来ていて、一緒に同じお家に帰ることも当然決まっていたみたいな当たり前の事を言ってるみたいな言い方だった。クルミはホッと心から安堵した。

 後々、おじさんの名前は江原さんで、お昼寝とお昼寝の微睡みの合間に、帽子のひさしの陰から、クルミが屋台や駐車場をさまよい歩いているのもハンモックから見ていたと教えてくれた。

立ち上がるとおじさんは背も高かった。横幅が大きいのは前もって分かっていたが。ずっと前からそんな風に手を繋ぐのが当たり前だったみたいに二人は手を繋ぎ、片っ端から面白いように屋台の食べ物を買って回った。午後の太陽は急速に陰り、客が引き潮のように帰り支度をして車で去っていくのと同様、屋台の店主達も急に売り物を半額引きやら同額倍増量などにして叩き売り初めていた。キッチンカー達も客がいなくなったらここにいる意味が無くなる。みんながみんな、今や我先にと早く山を下りたがりだしたみたいだった。クルミのおじさんはこういうことの全てをちゃんと熟知していたみたいに、急がず慌てず、効率良く、値引きされたイカ焼きの大きな串を三つと、たこ焼き3パックと、ケバブと、チョコバナナ五本、ホルモン焼き3パック等等、ついさっきまではキッチリ定価で売っていた物を底値で買いまくった。

「見て!ほら!良かったねぇ、あの迷子の子!お爺ちゃんが見付かって…」

誰かが遠くからこちらを指指すのが分かった。クルミの胸はホクホク温かかった。

「食べたい物何でも買ってあげるよ」休暇中の自分だけのサンタのおじさんがクルミに優しく囁いてくれた。

クルミは急に降って湧いた夢のような状況に萎縮して、擦れ違った男の子が手に持っていた赤く透き通ってピカピカ輝く苺飴をチラッと見て、フルーツ飴の屋台だけを指差した。

「林檎が良い?苺?蜜柑?」

フルーツ飴の種類は苺だけではなかった。葡萄もマンゴーも透き通った飴に閉じ込められいくつもいくつも買い手を待ってズラリ並べられていた。

幸福に喉が詰まって声が出て来ず、とにかくウンウンと頷いていると、サンタのおじさんが一番大きな林檎飴を選んでポケットからいくらでも出てくるらしいおカネで支払い、クルミの手にハイ、とズッシリ重たい輝く魔法の杖のような林檎飴を持たせてくれた。クルミは落とさないように両手でしっかりと胸の前に林檎飴を抱えて持った。小さな気泡をいくつも含んで赤く透き通りキラキラ輝く飴は分厚く、甘く、大きすぎて滑って、歯を立てようとしてもなかなか歯が立たず、囓れない。口の周りからはみ出る口紅のように顔を赤く汚しながら夢中で飴を舐め回した。お腹はますます狂ったようにグーグー鳴り続けた。

クルミのサンタさんが子リスと林檎飴のこの狂おしい格闘に気付き、ワッハハと笑い、「どれ」と飴を取り上げて、大きな口と強い顎、力強く歯に当てたまま押さえる力で、硬く分厚い飴を貫通して一口林檎を囓り、子リスに「ほい」と返却した。彼の囓り痕から、子リスもやっと自分でも歯を立てて囓ることができるようになった。ガリガリとした飴のホッペの落ちる甘さ、林檎のシャリシャリ瑞々しい果実、瞬く間に子リスはガリガリ、シャリシャリ、ゴクン、ガリガリ、シャリシャリ、ゴクンを繰り返し、キッチンカーを一回りする間に大きな林檎飴一個を丸ごと食べ切った。“楽園”でもこんなに美味しい物でこんなにお腹がいっぱいに満たされたことはなかった。

焼きそば、鯛焼き、焼き芋を買って屋台の会場をグルリと巡り、引き返してまたもう一度同じフルーツ飴の屋台の前に帰ってきたとき、子リスのおじさんは子リスから串と種と芯だけになった(それでもまだ歯を剥き出して囓っていた)飴の残骸を取り上げ、屋台のゴミ袋にポイと捨て、また新しくもう一つ、さっきと同じくらい大きな(多分店の中に残っていた中で一番大きくて赤くて美味しそうな林檎飴を)買って持たせてくれた。クルミは(これは食べてしまわずに一生大切に持ってて見ていよう)と胸に決めた。見ているだけでも目にも美しく、食べて無くしてしまうのがもったいなく、自分のためにこんな良い物を買って与えてくれた人の優しい気持ちや感動を記念にいつまでも残しておきたかったからだ。

 二人は大きなバイクの荷台に畳んだハンモックとクッションと新聞紙と、その上に買い込んできた食べ物を積み込んだ。クルミは本当に野生の子リスさんのように、おじさんの後ろ前に着たジャンパーのお腹側に潜って、

「しっかり掴まっていて」と言われたとおり、ホカホカのおじさんのお腹に両手でギュッと抱き付いてバイクに跨がった。

おじさんのお腹は肉まんのようにふかふかとしていて柔らかく温かかった。歩き疲れてヘトヘトで、張り詰めていた緊張感がここへ来てプツンと切れた。ジャンパーのスベスベする内側と寝心地抜群の低反発モチモチお腹の薄闇世界に包まれて、子宮に戻った赤ちゃんみたいに、走行中すぐに眠たくなり、何度もしつがみつく手が離れてしまったが、ハンモックの部品の一部だったロープをおじさんが二人の合わせたお腹が離れないようにしっかり帯のように巻き付けて固定してくれていたので、クルミはバイクから振り落とされず、山から街まで外を一度も見ずに運んで貰った。カンガルーの赤ちゃんがお母さんのお腹のポケットで眠りに落ちるみたいに自然な温かい眠りだった。もうこのおじさんに自分の命運を委ねきりだった。

この人が自分のこれからをどうするか全部決めてくれ、教え導いてくれるんだ、もう安心、安全だ、という安らいだ心地だった。おじさんの甘酸っぱい体臭を吸い込みながらぬくぬくととても心地よく眠った。

・・・


 あの日々、つかの間の、日常から切り離され浮遊する幸福な逃避行の日々を誰に理解して貰えよう?

誰にも分かって貰えるものでは無い。

弟にも、説明できなかった。

「最初に脱走したときには何処で誰に匿って貰っていたのか?本当の事を言えよ。もっとまともな嘘を吐いてみろ」

鹿島君にも、説明できなかった。

「父親みたいなおじさんが複数人いるって?恩人?意味が分からないよ!理解できない。連絡先を消してよ!もう会わないで!僕と真面目に付き合うつもりなら!」

否、クルミは何度も何度も何時間もかけて説明はしたのだが、二人とも良く噛み砕いて自分自身の血となり肉となり魂に染み渡るほどまでには、クルミと同じように恩人達の存在をありがたく思ってくれるほどまでには、理解しようと努力してくれなかった。二人とも、耳で聞き、必要なら図まで描かせて、頭では一応クルミの身にこれまで何があったかを理解しはしても、心では(それはその時には仕方の無かったことなんだろう、非力な子どもだったから他にやりようが無かったんだろう、)(でもこれからは違うはずだ、)と拒絶して、決して受け付けようとしなかった。

「俺の言うとおりにやれよ。これからは」何度目かの脱走後、捕まえられたときにトモヤが呆れた顔で言い聞かせようとした。

「わけの分かんない爺に喜んでタダで体弄らせてたんなら、俺の言うことだって聞けるだろう?金を貰いサービスを提供する、この方が余っ程まともだろ?」

結局、理解したいと自分が望むものに対してしか、人は心を開いてくれないのだ。頑固な弟、頑固な元彼。

「理解しようとしても、どうしようもなく胸糞悪いんだよ。虫唾が走るんだよ。キミが禿げで脂ぎった年寄りの爺と裸で絡んでるなんて想像しただけで…ゲロ吐きそうだよ。理解してあげたいけど!生理的に無理って、あるだろ!?」

でも『気持ち悪い気持ち悪い』と言われ続けると、こちらも嫌になってくる。じゃあ聞くなよ、とウンザリしてくる。理解できないと言われ続けると、それなら理解してくれなくて結構だ、と思われてくる。軽蔑されれば、こちらも見下したくなる。

柔軟な物の考え方が出来ないやつ等だ、言っても無駄、分かり合うことは永遠に出来ないのだろう、と。

世界は自分の頭で思い付ける物事意外にも深く広い、それを理解できないししたくもない等と駄々を捏ねてる限り、あんた達はずうっと馬鹿だ、とこちらも嘲笑いたくなる。種を超えた交配だって自然界にも起こりうるのに、たかだか年の差の色恋ごときが理解できないのかな?自分は歳を取らないつもりなのかな?

似たような心の働き方、選択をして生きてきた友達は共感し分かってくれる。けれど、ふんふんと神妙な顔をして熱心に耳を傾けさも良く分かる、自分も同じ出来事に直面したら同じように行動する、と言いたそうに話を聞き出そうとしてくる人物には、要注意。陰で、「あの子ってさぁ・・・」と人を怪物か妖怪かのように語り言いふらし回ったりする。人の信用を落とそう、品格を汚そうとして。

信用できるのはやはり、最後の最後には、弟や鹿島君のような、当てにならない常識や倫理にがんじがらめにされて動けなく見える人達だったりする・・・動けない、と言うことは、最後に見た場所から時間が経過しても一歩も動いていない、と言う信頼性があるのだ。理解し合えはしなくても、彼らは同じ型にはめた考えに凝り固まっているから。その点でブレない。

 クルミはフラフラ、フラフラ、している。呼び名が自分自身にさえ覚えきれないほどいつくもあったり、気分や環境によってコロコロ変えたりするように、その時々で一番身近にいる人の影響を強く受け、あるときには囲われの身、またあるときには風に吹かれるままのモンシロチョウ、

(これからはこの生き方をするんだ、生涯一貫して!)と決めたかと思ったら、もう心変わりする・・・

(いや、でもなぁ…)と・・・

・・・自分でも分かっている。自分に信頼性など無いと。自分でも自分の判断よりも人の判断を頼りにして生きている。


 江原さんは農家のおじさんで、お兄さんと二人暮らしだった。二人とも仕事は引退して、畑で野菜や果物を育てたり週に二日くらいはシルバー人材派遣でアルバイトに出掛けたりしていた。どちらかが家に居ないときはどちらかが家か畑にいて、クルミの遊び相手をしてくれた。クルミ(江原家では子リスちゃんと呼ばれていた)も苺や金柑やサクランボや柿を摘むお手伝いをしたり、街から帰ってきた江原兄弟のお土産のリボンを解いたりして、幸せに愛されてそこにいた。

納屋には半野良の猫の家族が住み着いていて、桜が満開を迎える頃には籠いっぱいの白と黒の子猫がニャアニャア鳴いていた。オタマジャクシもタンポポもメダカも燕もヤモリも遊び相手だった。夜には江原兄か江原弟の温かいベッドに潜り込んで眠った。二人ともそれなりに要求するものはあったが、ケチな取引とか(例えば、お人形を買ってやるからあれしろこれしろ…だとか)、「ここに置いてやってるんだから・・・」とか、そういう風に言うのではなく、もっと自然に、無償の気持ちで、冷たい方の手を温かい方の手が包んで温めようとするような、自然な成り行きで、寂しさを慰め合った。ふかふかした布団に頬を擦り寄せるのとそれは何の変わりもなく、同じように、くっつき合い、くすぐり合い、より気持ち良くなるところを触り確かめ刺激し合い、求め合って、高まり、達し、そして疲れ果てて、もたれ合って幸せな眠りに落ちるだけの事だった。毎晩。

江原兄は髪のほとんど生えなくなった砂漠の頭皮に優しく雨のように無限に口付けて貰うこと、舌を吸って痛いくらいに引っ張って貰うことが大好きだった。子リスへの触れ方はごく優しく、痛くないかとしつこいぐらいに聞いた。江原弟とは瓜二つの兄弟であっても全く女を愛す愛し方は違うのだなぁと子リスは感慨深かった。時々は兄弟が同じ部屋に入ってきて、自分と過ごさない夜の子リスの過ごし方を椅子に腰掛けジイッと観察している事もあった。一人と戯れ、それからすぐ休憩も無しにもう片方に抱き上げられもう一方のベッドへと運ばれて、二晩を一晩に詰め込んだ長い激しい夜もあった。でも兄弟が同じベッドで眠ることは決して無かった。二人の巨漢が眠るそれぞれのベッドはどちらも子リスが潜り込むにはゆとりがあっても、もう一匹の巨体が入り込む余地はなかったからだ。

本を読むこと、簡単な計算、それ以前に勉強という物事自体について、学びの初歩は江原兄弟が教えてくれた。

「子リスちゃん、お前はどこから来たの?」

江原兄は弟にも何度も尋ねた。

「子リスはどこから連れて来た?」

「山から一人で下りてきた」江原弟は自分も子リスに聞いた。

「山の上に家族がいたのか?」

「弟がいたけど、置いて来ちゃった。いつかは弟もここに連れて来て良い?一人で可哀想だから。四人で暮らそうよ」

「良いけどよ。お母さんとお父さんもいたの?山に」

「山にはいないよ」

「じゃどこにいる?あんたの家族は?」

「もう帰っちゃったかな。お母さんと、お母さんのこと好きなおっちゃんと、四人で飛行機で来たんだよ。私達、はじめは。お母さんとそのおっちゃんの新婚旅行で来たの。この国へは」

子リスは霧の彼方に忘れかけていた遠い記憶を呼び覚ました。自分ではなく二人の老いた友達のために。

「弟と二人で、お土産物屋さんでちょっとお小遣い貰って、友達とか自分達用に買って帰るキーホルダーとか、珍しい小物を見てる間に、居なくなっちゃってたの。」

「お母ちゃんがか?おっちゃんは?」

「おっちゃんもお母さんもいなくなってた。二人とも」

「ほんで?どうした?」

「弟に『お母さんがいない』って教えて、二人で手を繋いで自分達だけは金輪際はぐれないようにしながら、店の中も外も捜し回ったの。何度も、何度も。でも、いなかった。」

「ほんで?」兄弟は真剣に知りたがった。子リスの方ではもう忘れかけていたことだった。忘れたままにしておきたいことでもあった。二人のために思い出そうとするとあの時の悲しい、喉の奥から込み上げてくる苦しい味が口いっぱいに広がり、全身に冷たい毒のようにまた辛さが巡るのが分かった。視界までが塞がってきて、辛く暗い重苦しい気持ちに全身が支配され、力が出なくなってしまうのだ。強い悪霊に取憑かれたかのように。あの時の絶望、無力感を思い出そうとすると…

しかし、しつこく二人が聞くので、なんとか記憶を呼び覚まし、少しずつ教えてあげた。

「夕焼け空と海が繋がって一面赤とピンク色だけで出来てるように見える綺麗な坂道の上のお土産屋さんだったの。坂の右側にも左側にも、ずらっとお土産物屋さんが軒を連ねる観光名所で。サンセットを写真におさめようと、道行くみんながカメラマンとなり、海に溶け込んでいく赤い夕焼けを写真に写してた。

私達だけが、困り果て途方に暮れて涙も出て来ずに、お母さんを捜してた。でも、私には分かっていた。

(ああ、そうかぁ、私達、置いて行かれたんだぁ、)って。

それまでも、旅行中、ずうっと分かってた。始まったときから、なんか変な旅行だなぁって思っていた。普通なら、私と弟は邪魔になるから、家に置いていくはずなのに、なんでわざわざ連れて来たんだろうって、ずうっと不思議だった。異様な旅行だった。私達がいるとママもおっちゃんも誰にとっても楽しいはずないのは分かりきってた。夜はホテルのベッドでおっちゃんがママを抱いてるのに気付かないフリをして私と弟は同じベッドの端っこで壁の方を向いて私語をせず大人しく眠ったフリしていたけど、・・・

その前の観光名所でも、怖かった。断崖絶壁の海を見下ろす崖の上で、弟が首を伸ばして遥か下の、波が岩に打ち寄せて砕け散る景色を覗き込んで見てるときは、今突き落とされるんじゃないかと、ハラハラヒヤヒヤしていた。弟の背中を蹴飛ばすのにちょうど良さそうなところに、おっちゃんは立っていたから。そして弟を蹴飛ばして突き落とした後は、私のことも捕まえて放り投げれば良いだけだから。それでおっちゃんとママは二人きりになれる。旅行の後も、帰国してからも、二人きりでいられて、欲しければまた自分達の子どもを作ったり出来る。

おっちゃんとお母さんは、初めからそういうつもりでこの旅行に来たんじゃないかと薄々ずうっと気が付いていたの。

だから、お土産物屋で(置いて行かれたんだ)って分かったとき、(ああ、やっぱり、)って、凄く腑に落ちたの。(これで良かったんだ、)と納得できたの。(このくらいで済んで良かった)って。

(私も弟も生きている。ママも姿は消しちゃったけど、どこかにはいて、これで幸せになれるんだろう)って。

弟は私の手にしがみつき、(私はこの子の事をこれからどうしよう、私のことをこれからどうすれば良いの)とは思ったけど、道行く誰かに聞きたいくらいだったけど、でも(分かっていたことだった、)とも思ってた。途方に暮れてはいたけど、お母さんにもこうするしか無かったんだって、分かってた。せめてお母さんだけでも、幸せになって欲しかった。みんなで一緒には幸せになれないなら、切り離して別々で一人一人自分の幸せの道を捜すしかないんだって、前もって私には言い聞かされていたから。寝るときに、子守歌に混ぜてね。もうお母さんの顔は忘れることにした。いつか大人になってから再会できても、その人をお母さんとは思えないかもしれない。でも、恨んでもいるけど、私と弟をこの世に産んでくれた人には、元気でいて欲しいよ。どこかでは。もう飛行機に乗って帰っちゃったと思うけど」

「現代のヘンゼルとグレーテルだな」

「なるほど。旅行中に迷子になったわけだね?それで、見付けに来なかったんだ?親が」

「じゃ誰が君ら姉弟をこれまで世話してくれたんだ?」

「親切なおばさんが現れたの。『あらあら、迷子なの?あなたたち?』って。その人が一緒にママとおっちゃんをしばらく捜してくれるフリをした。それから、諦めて、その人のお家に連れて行ってもらい、夕飯を食べさせて貰った。湯気の立つクリームシチュー。ホクホクのお芋がゴロゴロ入ってて、それを白いご飯にかけて食べるの。初めての食べ方だった。でもほっぺがとろけて落ちそうなくらい美味しかった。

『迷子ちゃん達、可愛いわねぇ、』って。ニコニコ、ニコニコ、『おばちゃん物凄く嬉しいわぁ』って、本当に嬉しそうにずうっとニコニコしてくれて、

『もう大丈夫だからね』と何度も約束してくれて。ご飯を食べさせて貰うと、今度はすぐに一人一人順番に温かいお風呂に入れて貰い、スポンジでフワフワに泡立てた石鹸とおばちゃんの温かい手のひらで体を隅々、髪から脇の下から足の指の間まで、全部綺麗に洗って貰った。何故か

『あんた達みたいな可愛い子供を産んで育ててみたかったんだよ、子どもがいなくて寂しかったの』

と言うおばちゃんの家の浴室には水色の子供用のシャンプーハットがあって、目に滲みずに頭を洗って貰えた。全身ピカピカに磨き上げて、大きな全身鏡の前に立たされ、私も弟も銀色の重たいブラシで髪までとかして貰った。

『別々の大きなベットがあるよ』と言われたけど、私と弟が

『一緒に寝たい』と言うと

『良いわよ』と二つ返事で許してくれた。私と弟は大人しく寝かしつけられ、顎までふかふかの布団をかけてもらい、私達は布団の下でしっかり手を繋いでおばちゃんの子守歌を聴いてあげた。それから部屋の灯りを消し、おばちゃんがドアを閉め、カチャンと外から鍵を掛ける小さな音が聞こえて、私達は抱き締め合って眠った。弟は震えてなかなか眠れないみたいだった。私は

『なるようになるよ』と弟の背中を摩って、あくびが出て、先に眠ってしまいそうだったけど、弟に

『ママの子守歌を歌ってよ、あれが本当の子守歌だよ、これからは姉ちゃんが毎晩俺に歌って!』

とせがまれて、ママが歌ってた子守歌を思い出して歌い、弟の寝息を聞いてから私もやっと寝たの。

 次の日、朝ご飯にホカホカのオジヤを出して貰って、椅子に座って床に届かない足をブラブラさせながら二人並んで食べてるところに、別の親切なおじさん達が現れた。親切な人から親切な人の手に、私達は受け渡された。ゴニョゴニョと横っちょで値段交渉して、お金と交換に。

それからも、次々に、色んな親切な人達が現れ、…

もう全部は覚えてない。思い出せない。大勢の親切な人がいっぱいいすぎて。みんな少しずつ本性が見えてきて、親切そうに見えて、結局は何か企んでる。最後には嫌な意地悪なことをしてきたり言ってくるようになる。言うことを聞かないと物凄く叩いたり、蹴ったり、弟まで連帯責任だとか言って、痛いことをして言うことを聞かせようとする。大人って、意地になると子どもよりも子どもになるの。絶対に何が何でも言うことを聞かせないと気が済まない。力尽くでだって、自分の言うこと聞かない子なら当然殺したって良いと思ってる。何日も弟にも何も食べさせてくれなかったり。

時々は、言うことを聞いていても、何も悪いことなんてひとつもして無くても、急にわけもなく叩かれたり。自分の虫の居所が悪いだけのことで・・・」

「可哀想に…」

「それから?」

「それから?それから・・・」子リスはうーん・・・と考えた。

「それから・・・弟と私以外にも、他の子もいるところへ連れて行かれた。大きなザラザラした袋に弟と二人で死体か暴れ猫かみたいに入れられ袋の口を閉じられて、わけの分からないうちに移動してる事もあれば、ただ車の後部座席に座らせて貰えて、景色を見ながら楽しくドライブできる事もあった。ある倉庫みたいな窓の無い場所では、『寒いか』と震えてる弟に毛布を貸してくれて、二人共に温かい甘い飲み物を飲ませてくれた親切なお兄ちゃんもいた。その人は私達に袋を被せるかわりに、自分が目と鼻と口だけ出した袋みたいな帽子みたいなのを被ってた。だからその本当にずっと親切だった人の顔は見えなかった。目が大きくて綺麗だったことしか分からない。あのお兄ちゃんは顔だけ寒かったのかな?飲み物を飲むと私達はすぐ眠くなって、そして、気が付くと、もっと沢山の他の子ども達と一緒くたになって、大きな大きなお屋敷にいた。勝手に逃げ出さないように目が覚めてる間は両手を後ろにくくりつけられ、五人ひと組でムカデみたいに繋がっていた。

五人の子どもの束が何束あるかで数えやすく仕分けされてたの。誰かが立ちたがると全員が立たなくちゃいけなくなるし、誰かが転べば他の全員も引っ張られてよろけるか、みんなで転ぶことになる。それは最初の内だけだったけど、その間は逃げ出すことは絶対に出来なくて、だんだん逃げてどうしようとかいう気がそもそも起こらなくもなってくる。前の子とか後ろの子とか、先頭の子とか最後尾の子とかを気遣ったり、呼び合ったり、支え合ったり、共にわけの分からない理不尽な罰を受けたり同じひもじさを乗り越えたりしてると、ロープに縛られなくなってからも、友情に縛られて、身動きがとれなくなる。

学んだことは、『とにかく言われたとおりにしておけ。』

他の子ども達からもそう教わった。先に来ていた子達が後から来た子達に呪文のように唱えて聞かせてた。

『言われた通りにしてれば何も怖いことは無いよ、心配ないから』って。ほとんど同時期に来て、私にそう言ってるその子も、自分に言い聞かせてるみたいでもあった。

『もっと前にここに来た子達には、焼き印が押されてたけど、今はもう印は付けないんだよ。でも付けて貰いたかったらいつでも付けて貰えるよ』って、それは後から教わった。

大人の言うことと子どもの言うことと、両方よく聞いて、矛盾するところは大人の言うことの方を優先して、でも子どもだけにされたときに仲間内で虐められないように、時には庇い合い、・・・子どもが自分と弟と二人だけじゃ無くなってからも、一カ所の居る場所が大きくなってあまり移動させられなくなってからも、やることは同じだった。いつも同じような訓練を受けてたの。

『やりなさい』と言われることを出来るだけ上手くやって、『はい力を抜いて、』と言われたらその通りにして、『笑って』と言われたら笑う。『何笑ってるんだ』と言われたらピッとすぐ笑顔を引っ込める。

『さぁおいで』と言われたら、『もう良いよ』と言って貰えるまで、何をされててもジッとそこにいる。

痛い事や気持ち悪いことも、何度もやられる度にグッと堪えて我慢して、だんだん慣れた。慣れない事もあるよ。でも、そのうちいつかは終わりが来る。いつまでも終わらない痛みじゃない。その後も泣きそうなくらい歩くのが辛い時間や悔しい気持ちも残るけど、まだ痛いのにもうやらなくちゃいけない時間が来て呼び出されても、辛さそのものにだんだん慣れるんだよ。鈍感になっていくの。日常のことだし。

・・・毎日逃げたいは逃げたい。だけど、逃げた先の当てもない。留まれば仲間はそばにいる。逃げようとして捕まった子の世話も交代でしてるから、どんな目に遭うかもみんなが見て知ってる。

そのうち、何も言われてないうちから、呼び出されて、相手をする人の顔を見ただけで、この人は何をして欲しがっていて、これは求めてないんだなぁ、とか、なんとなく読めるようになってくる。言われる前にやれば褒められるの。自分のその場での居心地を良くしようと思ったら、イヤイヤ言うことを聞くだけじゃ無くて、好かれそうなことを考えてやれば良いの」

「ここに居るより幸せだった?」

「逃げてきたんだから幸せじゃないだろう?」

「ずっと大人しくして逆らわなければ良い子認定されて、スーツの大人の人達はだんだん優しくなっていくんだよ。厳しい目は悪い子に向けられて、こちらには向かなくなる。だけど閉じ込められてるのとどうしても嫌なやつの言うこと聞かないといけないのが一番嫌だったなぁ。大きなお屋敷の周りには遊び場がいっぱいあって、温室とかでは実ってる果物も食べて良かったし、良い子にしていれば、ここと一緒だよ。ここには弟は居ないけど・・・」

「ここと違わないかぁ」

「こことそんな恐ろしいところが同じに見えるとはな」

子リスは慌てて付け加えた。

「ここには嫌いな人はいない」

「そうか!そうか」

「よく言ってくれた。可愛い子!」

江原兄の奥さんは若くして亡くなっていた。今は東京に娘さんが二人。子リスちゃんはおおむね江原家の家の近所か畑のそば、『大体二人のどちらかの目の届く範囲、それか声の届く範囲』内に居れば良かった。“楽園”ほどではないが江原家の敷地も広く、柵や畑の囲いもあったがキッチリと人を閉じ込めるために作られた柵でも囲いでもない。どちらかと言えば野生生物が畑を荒らすのを防いだり、隣の家の畑と自分ちの畑の境目を明らかにするためとか、帽子や熊手をチョイと引っ掛けたり立てかけたりするためくらいにしか存在してない、ボロい、子リスでも跳び蹴りすれば倒れそうな今にも勝手に崩れ落ちそうな、地面に刺さっている下の方が腐りかかった木で出来た柵や囲いだった。もしここから逃げ出したいと思ったらいつでも逃げ出せる環境だった。隣の家までの距離はだいぶ遠いとは言っても、家の二階の窓からは見えるくらいだったし、助けを求めたい何かがあったならそこへ走って行くこともできた。

“楽園”との違いは、連れてこられて居るしか無い場所に居るのか、自分でついていこうと思った相手についてきて(ここに居よう)と思ってここに居るのか、その違いだけだった。やることも同じだった。それも、ただやらされてやるか、やってあげても良いなと自ずと思って自発的にやるかの違いだった。

振り返り、離れて客観的に見れば、“楽園“の中も外も何も違いは無い。ただ、その場で実際の状況に身を浸せばその違いは大きかった。

“楽園”では朝でも昼でも嫌でも見知らぬ人の相手をさせられた。どんなに嫌でも。江原家にいればそんな事はなかった。嫌なら嫌と言えば多分済んだ。喧嘩くらいはしても江原兄弟が子リスは大好きだったし気に入られていたかったので、夜に抱き締め合うことも全く嫌だと思ったことがなく初潮もまだだったから、断ったことがなかった。


 江原兄弟とのお別れは突然だった。前触れは無いわけでは無かったが・・・

隣の家のお婆ちゃんが「ごめ~ん、江原さ~ん」と両手を口の周りに当てて、孫のお裾分けのお土産を持って訪ねてきて、畑の方へも顔を出し、江原兄を見付けるより前に田舎らしくあちこち覗いて捜し回って、小屋で子猫とじゃれ合って騒いでいる子リスを先に見付け出し、目を丸くして見知らぬ少女と見詰めっているところへ慌てて江原兄が駆け付ける、という日常の中の小事件が起きた。

「この子誰?」

「いやぁ、あのぅ、そのぅ、親戚の子」

「あんたの何に当たる子?」

「いやぁ、まぁ、・・・ええじゃない。今ちょっと預かっとるだけ」

「娘さんの子?」

「そうそう!そうそう!」

「でもさ、この前帰ってきてたときには二人ともまだ独身だったじゃない?あれはまだ去年の夏祭りでしょ。こんな大きなお孫さんがいきなりできる?」

「だから親戚の子、って!」

江原兄は何故だか子リスをギッと睨み、お隣のお婆ちゃんの背中をどんどん押して小屋の外へ出させ、小屋の中は真っ暗になるのもお構いなく、小屋の蝶番の壊れて斜めにしか閉まらない戸をグイグイ力任せに閉めて、お婆ちゃんの視界の中に子リスが入らない場所までお婆ちゃんをどんどん引っ張って行ってから、家と門の間の砂利道の所でお婆ちゃんが手に持ってきたお土産の箱を受け取り、(これで用は済んだろ)とばかり、立ち話もさせずにまたどんどん背中を押して門の外に押し出し、早々に帰らせてしまった。子リスは小屋の細く空いた戸の隙間からその様子をジッと見詰めていた。お婆ちゃんの方でも、不可解そうに何度も何度も振り返ってこちらを眺め、(何度も目が合ったように子リスには思われた、)首を傾げながら道を自分の家までテクテク帰って行くのが見えた。

 それからは江原家に“楽園”よりも面倒なルールが出来てしまった。

「日中は家の外で遊ばないこと。大きな声で騒がないこと。誰かが家に訪ねて来たら二階に上がって、居ないフリをしてること。」

こうなると遊び回れる範囲は“楽園”よりも遥かに狭く限られてしまった。

「人に見付かったらここに子リスを置いておけなくなってしまうんだよ」

「お前を山に返さなくちゃいけなくなる」

「そんなことになったら嫌だろ?」

「儂らも捕まっちゃう」

「でも子猫と遊びたいよ!」子リスは膨れた。

「猫くらいなんぼでも連れてきてやるよ」

でも猫も閉じ込められるのを嫌がった。窓ガラスやドアに爪を立てて引っ掻き、怒ってミャーミャー鳴いた。家中の棚や冷蔵庫の上や箪笥の上に跳び上がって登って、そこにある物を床に落としまくり、爪で裂ける物は全部裂いて暴れ回って自由を求め抵抗した。母猫が外に出たがると子猫も真似をしてジッと大人しく抱かれているのを嫌がった。家中ありとあらゆる物が可愛い顔をした凶暴な小型肉食獣達によって破られ、毟り取られ、噛み付かれ、歯形と爪痕と怒りのゲロ糞尿だらけになった。円らな瞳で猫たちは人間が大事に傷つけられないようこれだけは守ろうとしている物をジッと見ていて、買ったばかりの新品の高かった品から狙って破壊していった。

 近所の詮索好きなお婆ちゃんの突撃訪問回数もあの小事件以来急に増え、子リスと猫たちは家の中でも二階だけにしか居られなくなってきた。


 ポカポカ晴れた日差しが心地良さそうな長い退屈なお昼間にも外遊びが禁じられ、ずっと流し続けて見ていたお昼のドラマで、子リスは、子どもを誘拐して閉じ込めたり悪戯した大人は警察が来て捕まえ牢屋に入れる法律がある事を知った。それで江原兄弟が自分を隠そうとしている理由が分かった。自分がここに居るのが外の人に分かると江原兄弟も捕まえられるのだ、子リスにもやっとそれがなんとなく理解できてきた。

テレビや家の中にあった雑誌が教えてくれたのはそれだけではなかった。街の誘惑。自由への渇望。時々家事やら何やらを手伝って貰える小銭はどんな品々と交換が出来るか?

「あのテレビの子が食べてるチュロスってやつ、食べてみたい」

子リスは料理上手な江原弟に言ってみた。弟は色々と試してそれに似せたような小麦粉の練り棒をカラッと揚げて雪のようなサラサラの粉砂糖をまぶし手作りしてくれたけれど、それはそれで試行錯誤を重ねられ愛情たっぷりで作る度美味しくなっていくのではあるのだけれど、子リスが食べたいアレではなかった。

「これじゃないの!」子リスはワァワァ泣いた。

それは街でしか買えなくて不味くったって良いから街を歩きながら片手に持って食べると言う食べ方も含めて憧れる食べ物なのだ。家でどんなに完璧にそのコピーを作って貰え、実物よりも実際味が美味しくても、それは子リスが求めているアレではないのだ。テレビを指差し、ドシドシ地団駄を踏んで鼻水を垂らして泣き喚く子リスに兄弟は

「子どもの理屈の無い癇癪だ」

「駄々っ子だなぁ」

と言って終いには取り合わなくなった。街に連れて行ってやれないことや、どうしても与えられない物をねだられている事に気付かないフリをしたい大人の解釈だった。

(仕方ない、自分でここから出るしか無い、泣いて駄々を捏ねたって兄弟を困らせるだけだ、)子リスはついに心の中で決心した。

二人にねだっても永遠に与えて貰うことはできない物を自分は欲しているのだから、このままここに居て拗ねたり二人にどんな風にアピールしても手に入らない。ここから出て行って自分で手に入れるしか無い。子リスが欲しいのは自由、町歩き、そして自由だった。野垂れ死んでも構わない。過保護に閉じ込められるよりはマシだと思われた。

 週に二日くらいずつ、兄弟は片方ずつ軽トラに乗って街に仕事に出て行くので、その時車の荷台に乗り込んで古布に包まり息を潜めて隠れていよう、と計画した。弟か兄が車を駐車した場所から遊びに出掛け、夕方近くになったらまた乗り込んで帰ってくれば良い。それとも、もう帰ってこなくても良い。ここには充分居させて貰ったし、これ以上長居し続けたら大きな迷惑をかけることになるかもしれない。まぁ、まずは半日だけ家出してみよう。

 計画実行の日と内心で心積もりしていた朝、兄弟のどちらもがまだ出掛けない早朝のうちに、お巡りさんが三人で、兄弟に話を聞きに来た。どんより曇った空模様の明けない夜のような朝だった。

お巡りさん達はたまたまこの辺にプラッと立ち寄って

「どうですか、この頃?異常は無いですか」等と何てこと無い立ち話をしに来たようにも見えた。一人は車の運転席に座ったまま降りてこずに、運転席の窓を開けてこちらを見ていた。朝が早くてもそれがそんなに珍しいことでもなんでも無いような土地柄で、お巡りさんの様子も気軽な調子だった。でもその後、1時間もしないうちに、今度は警察官を満載したパトカーが4台、赤い光とサイレンをワンワン唸らせ家の敷地に乗り込んで来て、一気に靴も脱がず、家中に雪崩れ込んで来た。サイレンが聞こえだしてから警察官達が家の中に入ってくるまでがあまり早くて、まるで突然、家中の部屋という部屋全てに警察官が二人ずつ現れた、という感じだった。彼らは全部の部屋のドアをぶち開けて、中にいた子リスと江原兄、江原弟を捕まえ、まずは一部屋に集めた。

 子リスには笑顔を向けてくれる女性警察官が味方のように熱い両手を子リスの肩に当てているだけだったが、江原兄弟は有無を言わせず頬や顎を硬い床にゴリゴリ押し付けられ、腕を背中の後ろで捩じ上げられ、頭を乱暴に押さえつけて引き立たされ、命令口調でまた床に膝をつかせられて、みんなが立っている床に見下ろされながら座らせられていた。

まるで慣れ親しんだ家の中が突如テレビドラマの撮影現場に変わったみたいで、現実感のなさに子リスは一瞬、発作的な甲高い笑いが込み上げたほどだった。ドッキリとかブラックジョークみたいで。

「この家に居るのはこの三人だけか?」

とか、簡単な同じような質問を三人共が受け答えさせられ、それから、その次はアッと言う間に子リスは江原兄弟達と引き離され、まず違う部屋で、それからすぐに別々の車に乗り込み、さらに詳しく細々とした事情を聞き取られた。車が走り出す前から子リスは、自分がどこかから無理矢理誘拐されてここに連れてこられ監禁されていたのだろう、と今自分を取り囲む制服の大人達に思い込まれているのがなんとなく自分に質問される問いから分かった。自分のか弱い立場、守ってやらねばと思い込まれている状況を守りつつも、江原兄弟達も決して悪い人達では無い、無理矢理させられたことなど何も無い、自分に優しくて面倒を見てくれた良い人達だったのだから厳しくしないであげてね、と懸命に訴え続けたが、話が通ったのかどうか。

夢に続きが無く突如として断ち切られるように、江原兄弟とはそれで会えなくなった。二度と。

(大人同士とか同性同士が一緒に住むのとは全然わけが違うんだ、)と子リスはその一件で懲りた。この国には優しい人を捕まえて二度と自分と会わせて貰えなくする意味不明な法律というものがある。自分と一緒に住む大人の人が収監されてしまわないよう、絶対自分は身を潜めてコソコソしていなければいけない。自分をコッソリと迎え入れようとしてくれる大人には大きなリスクがかかる。特に小さい子どものうちほど自分は優しい人達の負担になる。

江原兄弟の事で身に染みてそれが分かった。


 引き取りには祖父を名乗って園長先生が迎えに来た。“楽園”から逃げ出した子への通常は厳しいお仕置きを、何故だかカホは比較的軽く済ませて貰えた。一度のお仕置きで一生真っ直ぐ立って歩けなくなる子も出るほどなのに、次の日には目が覚めて他の子達と一緒に働けるほど回復していた。そのことで

『カホは園長先生のお気に入りなんだ』

『えこひいきだ』と一部の子達からは陰口を叩かれた。一度外を見て来て連れ戻された子を“園”の中から出たことが無い子達の一部は尊敬しもてはやしたりもした。どんな風にして食べ物を手に入れどこで雨風をしのいで暮らせたのか、カホの家出話を根掘り葉掘り聞きたがった。一度脱走した者への大人の警戒は強くなり、自分でも目を付けられているのは分かったが、遠ざけられるとなお一層、一度味わえた自由の味が忘れられなくて、カホは虎視眈々とまた逃げ出せる日を狙い続けた。

(一度は外に出られた。世界はこの“園”の中だけじゃ無い。もっともっと広い。)カホにはそれが実感として分かっていた。一度出来たことはまたもう一度出来る、チャンスさえあれば・・・カホには自分が外でもやっていける自信がついていた。

(今度はもっと上手に出来る。江原兄弟に迷惑をかけてしまったようには、次はもうしない。)


 両手を広げメソメソ泣きながら向こうから駆け寄って抱き付いてくると思っていた弟は、全く予想外に、こちらから駆け寄って抱き締めようとすると歯を剥いて嫌がり、突っぱね、長い間目も合わせてくれず、口を利いてもくれなかった。逃げ出した姉の身代わりに自分が居ない間きつく仕置きされたのが分かって、一生懸命に何度でも謝ろうとしたが、あまりに頑ななのでカホも終いには諦めて近寄らないよう、ソッとしておくようになった。

 次の脱走の話は後でするかも知れないし、しないかも知れない・・・けれど、弟との心の溝はこの時から出来てきたことは間違いない。

「次に脱走するときは必ずあんたのことも誘うから」

カホは時に突発的に耐えきれないほど寂しくなって、なんとか唯一血を分けた弟の気を引こうとして真剣に話しかけ続けた。より真実味を持たせるために、本腰を入れて脱走計画を練り続けた。次は必ず弟と二人で…

弟の方でも置いて行かれた恨みをいつまでも忘れきれず怒った顔を表面上はしていながらも、時の経過と共に、次は必ず誘うからと言う言葉に次第次第に心の耳は傾かせているのが姉には分かっていた。

 二人が“楽園”にいる間に周辺警備は強化され、脱走はますます容易ではなくなっていった。それでもいつも弱点は必ずどこかにはあった。どんなに壁は高く厚くなり石ころでどうこう出来なくなったとて、出入り口は必ず毎日開き、出入りする者が存在する。開閉するのは人間だった、出入りするのも人間だった。生身の人間には必ずどこかしらに弱みがある。買収。籠絡。十八番の誘惑。やりようはいくらでもあった。

・・・

 



「さっき・・・」

「うん・・・」

すぐにはUターン出来ない幅の狭い山道、ヘッドライトが照らし出す周辺を、異変が無いかをゆっくりと見回る夜行性の姉弟が、二人とも同時に気付いた。

ハンドルをとる弟が指図されずとも黙って幅の広がった道に出るとすぐUターンして、ついさっき来た道を引き返した。さっき二人して異変に気付いた場所まで戻り、少しバックして、周辺を照らしながら弟がまず一人で車を降りた。

闇の中から白く浮き上がって現れ細い帯になって光に照らし出されまた闇の中に沈んで消えていく一本のガードレールがある箇所で破れ、その向こうの森の細い木々がなぎ倒されている。積み上げてあった丸太の小山がはねられバラバラに転がり落ちている。道に黒々と残る急ブレーキ、それから急角度に曲がって森に突っ込んでいくタイヤ痕をヘッドライトが照らし出していた。

「何か踏んでパンクして制御を失ったのかな」弟の制止を無視して姉が車から降り、ガードレールの向こうを見ている弟の隣に立った。

「動物かな?鹿とか?避けようとしたのかな」

「理由なんかどうでも良い」

「どうするの?」

弟は手で姉に(ここに留まっていろ)と示し、塗装された道から外れ、懐中電灯のスイッチを入れて森の中に踏み込んだ。姉も即その後に続いた。なぎ倒された若い木々、踏み潰されてペシャンコになった藪、軟らかい腐葉土にめり込んで続くタイヤ痕。その先は、断崖絶壁と言うほどではないが急な崖になっていた。すぐ下にひっくり返って底を上に向けているダークブルーの乗用車が見えた。

「救急車を呼んであげなくちゃ」

「使い捨て番号で電話しよう。公衆電話までは遠い」

「中の人がどうなってるか確かめてくる」

「おい!」

弟が姉の肘を掴んで止めようとしたが、姉はサッと身を捻って躱し、素早く木を伝って崖を下へ降り始めた。弟が仕方なしに姉の次に掴めそうな頑丈な枝を探す手元を照らしサポートした。カホはお猿さんになったように身軽に脚を少し曲げたり振り子のように振って原動力にして、腕の力だけで体を支え、足が土から離れてしまうところも越えて、崖を降りた。両足を地面に着け両手が自由に使えるようになってから、自分のポケットの懐中電灯を取り出した。ひっくり返った車の運転席に近付き、岩と盛り上がった土砂に半分持ち上げられて傾いている車の窓から中を照らして見た。意識を失って首を向こう側に捻じ向けた男の喉の辺り、開いた襟元からのぞく鎖骨を見たとき、息が詰まり、仰け反り、倒れて自分も死んでしまいそうな気がした。彼と離ればなれだった長い年月が一挙に巻き戻り、気付けば開いたガラス窓から両手を突っ込んで男性の頬に手を当て、顔を優しくこちらに向けさせた。

「鹿島君…!」

頭から血が流れ出て一筋の前髪からポタポタ垂れていた。力が抜け、グッタリとシートベルトで宙吊りになった体。瞼は安らかに閉じていた。でもまだ温かい息を吐き、首筋に手を当てると脈も体温もあった。

「早く救急車を呼んで!早く!」

車から後退って離れながらユキは掠れ声で崖の上から光を照らす弟に叫んだ。崖をよじ登りながらも何度も叫んだ。

「早く!まだ息してるから!この人!救急車を!」




続く

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