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お城  作者: みぃ
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12  由貴さん

 今となって思い返せば、由貴は既に妊娠していたのだ。この世の終わりが近いかのように、なり振り構わず、もう不倫してることが旦那にバレても構わないといった体で、『毎週末には一緒に居たい』と言い出しただけでなく、鹿島君の仕事中にも切迫したようなLINEを入れてくるようになった。『今夜も会えないかな?』

『鹿島君、今夜は何時にお仕事終わるの?』

『パート先から美味しいお肉を貰ったの。一緒に食べよう?』

『ごめんなさい、昨日の今日だけど…今夜も駄目かな?忙しい?会いたいな』

もう週末どころの騒ぎでは無かった。急に毎日毎日会いたがるようになった。

彼女は学生時代に鹿島君がしょっちゅう送ったメールの文面を真似て、自分の気持ちの切実さを隠すためなのか、『放課後空いてる?』と仕事終わりの事を放課後と呼んだりもした。平日にも会おう毎晩会いたい毎秒会いたい等と言ってくるようになった。

鹿島君には断る理由が無かった。

「この頃どうしたの?・・・」

彼は不思議な夢見心地で自分の殺風景だった自宅のベッドの中に招いた憧れの人の体を力いっぱい抱き締めながら尋ねた。「何かあったのは間違いないよな・・・隠さないで教えてよ?」

「寂しくて・・・ただいつも一緒に居たいだけ・・・」

「何かあったんだろ?心配してるんだよ?旦那さんに不倫がバレた?それで避難して来てるの?もしかして・・・叩かれたり何かひどいこと言われたりしたの?・・・(鹿島君は布団をめくり、今しがた充分に愛でたばかりの由貴さんの体をもう一度痣など無いかどうか点検するという名目で全身眺め回し、手を当てて確かめながら)・・・もちろん嬉しいよ。キミが毎晩来てくれて・・・こんなことなら毎日朝から仕事を休んで朝も昼も片時もキミを離す暇が無いくらいずっとずっとこうしていたいくらいだよ。ぴったり一つになって・・・

でも、気にはなる。一体何の理由があってキミが今こんな風に何かに怯えてるみたいに僕にくっついてきてくれてるのか?今のキミは猛嵐の最中のか弱い小鳥みたいだよ。吹き飛ばされないように必死で木にしがみ付くみたいに僕を求めてくれて・・・僕にしがみ付いて忘れたいほどの何かがあったに違いない、何かあるって事くらいは鈍い俺でも分かるんだよ」

「何も聞かないで。今は出来るだけ一緒に居たいだけなの。ただ一緒に居て欲しいの。色々聞かれると会えなくなってしまう・・・」

(また言えない謎だ・・・ユキと同じだ…雪にだってあった。秘密が僕と彼女たちを隔てる。どんなに知り尽くしたいと思っても、望みは全ては叶わない。相手の心の隅々細部まで全て手に入れたいと願っても、妻にした雪にだって言えなかった過去、手を触れさせなかった秘密はいくつもあった。どんなに親しくなったとしても、女性達には“今は言えない秘密”が必ず存在するみたいだ・・・)

「時間をおいたら教えてくれる?」鹿島君は由貴さんの閉じた瞼を見詰めて聞いた。縺れて捻れた睫、捕まえて強く手で弄りすぎた蝶の羽の鱗粉みたいに、乱れてよれたアイシャドウの下の、ティッシュ一枚みたいな薄い白い瞼。その中でコロコロ揺れている玉の動きが見える。眉の端も唇の端も困ったように下がっている。

「いつかは必ず言います。すごく後になるかもしれないけど・・・」

「じゃあもう良いよ。一緒に居られる時間が増えて嬉しい。とにかく今は・・・それだけ想ってるようにする。本当の事だからね。僕には由貴さんしかいないんだから」

由貴さんはありがとう、と言って目を開け、鹿島君の左の鎖骨に瞼を擦り付けた。そのまま溶け込もうとするように、鼻の骨も唇も頬も、顔が歪むほどグイグイ押し付け、両腕で全力で彼を抱き締めた。

「泣かないで。もう詮索しないから・・・」色々聞くと逃げてしまう。ユキも雪もそうだった。

鹿島君は由貴さんの滑らかな背中、汗ばんで微熱の続く全身を摩った。由貴さんはありがとう、ごめんなさい、を囁き声で繰り返していた。なかなか治らない風邪を引き続けているみたいに微熱の続く由貴さんの体をロープの代わりに両腕で締め上げるみたいにきつく抱き締めた。この幸せがいつまで続いてくれるのか、明日もまた会えるのか、それとも突然今日で終わってしまうのかも分からない。由貴さんに聞いても、もしかしたら彼女にも分からないのかもしれない。

初めて彼の部屋に来た日から、由貴さんの体は平熱よりも高かった。それは彼女の裸の体を裸で抱き締めている鹿島君が実際に腕や胸やお腹や足で、全身の肌と言う肌で直に感じとった体感だった。

思い返せば、それからもずっと下がらなかった彼女の微熱は妊娠の初期症状だったようだ。


 鹿島君に貰った合鍵で由貴さんは彼の仕事中、お昼間に洗濯や掃除や買い物や料理をして彼の帰りを待ってくれ、まるで彼の奥さんになったみたいだった。

新米奥さんの失敗だらけが愛嬌だった雪の変な味や見た目の新婚料理とは違い、ベテラン主婦の由貴さんの作ってくれる晩ご飯はシンプルで、手慣れていて、初めからすんなり美味しく食べられた。カレー、肉じゃが、ポトフ、ムニエル、お鍋、それに必ず生野菜のサラダとお酢の物、汁物かあともう一品のポテトサラダとかお刺身とかが付いてきて急に栄養バランスも摂れ食卓が華やかになった。

汚れていても見て見ぬ振りしがちだった風呂場やトイレ、洗面台、台所、寝室は、一日に一部屋ずつ綺麗に磨き上げられ、実用品ではないけれどもただ美しい良い匂いのする花だとか、ふにゃっとした気の抜ける間抜けな顔のぬいぐるみだとか、女物の甘い香りの衛生用品(シャンプーやコンディショナーや顔、体、お尻と、それぞれ専用の用途別ソープ、)女性のための日用品類がどんどん増えた。(女性の桃の柔肌を痛めない柔らかいタオル、着替えのレースの下着や肌着、ストッキング、繊細なそれらを洗うための専用の洗濯ネットやおしゃれ着洗い用の洗剤等等)・・・

引っ越す度に(なぜまだ捨てられないのだろう…)と胸の奥を刺激した、毛布で覆って隠していた雪のお気に入りだった化粧台、よくそこに座っている彼女と鏡越しに目を見て話した、アンティークの掘り出し物市で雪にねだられて買ってあげた、彼女の面影が濃い化粧台、(それだけに、売ることも捨てることも人に譲ることも出来なかった物なのだけれど、鏡の中を横切る自分の影にふとした時に怯えないで済むように毛布で覆っていた)それも、ある日ついに封印を解かれ、また使えるように埃を払い、由貴さんが自分の美容液や香水瓶、ブラシなどを使いやすく鏡の前に並べて置いていた。生きた女性に拭き清められ、鏡に姿を写し、椅子にかけ、引き出しに小物をしまわれたり引き出されたりして使われて、化粧台がまた命を吹き返したかのように見えた。

「鏡台を勝手に使ってしまってごめんなさい。嫌だった?一言聞いてからにしたかったけど、・・・」

定時で帰ってきた鹿島君のネクタイを解いてくれながら、由貴さんが化粧台を見ている鹿島君に言った。

「いや、良いよ。久しぶりに見て、ちょっと前妻を思い出すかと思ったけど・・・思い出しはするけどね、そりゃあ。でも、良い意味で、もう思い出になったんだなぁって感じがして。自分の心がやっと一区切り付いたんだと分かって、良かった。由貴さんが使ってみてくれたからだよ」

 ただ、あまりに由貴さんは鹿島君の家に入り浸りすぎているようにも思われてきた。

毎晩食事の心配をしなくても済むようになったのは良いことなのか、良いことだと思っても良いのか、よく分からなかった。由貴さんが昼間も自分の妻のように家に居て自分のシャツにアイロンをかけたり等してくれているのは嬉しいのだけれど、駆け出しそうになる帰り道では、定時に仕事を切り上げて無駄に残業はしなくなったのではあるけれども(これ以上に効率化は出来ないと思っていた仕事も、由貴さんに早く会えると思えば、更に効率を上げることが出来た)、それでも(今夜はさすがに旦那さんの家に戻ってるかもしれない…それでもおかしくは無い…)と思いながら帰宅するよう心がけた。明かりの点っていない家に帰って来て必要以上にガッカリしたくなかったから。

由貴さんが毎日自分の帰りを待ってくれているのが当然で、彼女を自分の奥さんなのだと錯覚してしまわないように、(これは非日常なのだ…夢を見ているだけなんだ…)といつも心がけて慣れないように用心していた。いつか来るお別れは必然なのだから・・・


 由貴さんが家出してきて鹿島君の家に入り浸ると言うよりも住み着いてしまってから、一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎた・・・

「あのー、由貴さん・・・」鹿島君は一度は秘密には触れないでおくとは言ったものの、さすがにもう我慢できなくなって聞いてしまった。

「・・・由貴さんは、仕事は?・・・アルバイトは行かなくて良いの?僕がいない平日のお昼間は何をしてるのか知らないけどさ、でも夜は家に全然帰ってないよね?帰らなくて良いの・・・?帰って欲しいわけじゃ無くて、ただ物凄く不思議なんだけど…何が起こってるのかわけが分からなくて・・・さすがにもう何日ここに居る?こんなに帰らなくても旦那さんは全然心配しないの?」

「旦那さんなんて戸籍上にしか存在しないようなものだから・・・」

由貴さんは鹿島君の器には沢山料理を盛るくせに、自分はほんのちょっと口に入れて胸のあたりを押さえ、摩り、悲しそうな表情をして湯気を上げる食べ物に目を落とす。そして皿から視線を逸らせる。お腹は減ってたまらないのに食べると気持ち悪くなるみたいに。

 この頃には、鹿島君の目にさえも分かるように、うっすらと、(まさかなぁ…)(そんなはずは…)と疑いたくなる兆候が彼女の体に表れ初めていた。

彼女の乳房が張り、ミルクの香りを日増しに強く感じるようになってきた。乳輪が大きく、黒くなっていくような気がした。臍から上下に真っ直ぐの縦の線、正中線が色を濃くしていくような気がした。昨日よりも今日の方がより濃くなっている気がした。気がする、と言うレベルは超えていた。昨日と今日とを比べてもよく分からないかもしれない。でも、三ヶ月前までの由貴さんと、今目の前にしている由貴さんの体は全然違う。

彼女の方がそれに先に気が付いていて、鹿島君が自分の体をジーッと食い入るように見ているのに気付くと、すぐ「灯りを消して」と真剣に頼んだり、必死で下敷きになった身をくねらせて、リモコンに手を伸ばしたりするようになった。

灯りを点けたままではお風呂にも一緒に入らなくなった。確実に彼女の体は変化を遂げていた。体が着実に日増しに子どもを産む準備を整え始めていた。由貴さんは鹿島君にまだ気付かれてないと思っているのか、気付かれるまでの一緒に居られる時間を少しでも稼ぎたいのか、キャンドルを買ってきて火を点し、そのゆらゆら揺らめいて全ての物の輪郭を曖昧にする頼りない光の下で鹿島君とまだ睦み合おうとした。

彼の方が(大丈夫だろうか、激しく揺さ振るようなことをしてお腹の子に悪影響が出ないだろうか…)と薄ら内心で気遣った。

「由貴さん、・・・」

鹿島君は気が付かないフリをし続けながらどう考えても妊婦の由貴さんを抱き、そうしてしまってから、自己嫌悪でグッタリとなり、気付かないふりをし続けたまま有耶無耶の眠りに落ちて、そのまま慌ただしい朝を迎え、ドタドタと仕事に出て忘れるフリをしてまた今夜も一日を引き延ばすのか…と考えて、それもまた重い気分で、しかしついには、口に出して尋ねた。

「由貴さん、・・・妊娠してるよね?」

由貴さんから返事がないので、腕枕している彼女の横顔を見ると、由貴さんは天井を真っ直ぐに見詰めていた。大きな瞳が揺れて銀色に光ったかと思うと、瞬きと同時に涙が溢れて落ちた。

「気付かれないうちに姿を消したかったけど・・・あなたのそばから離れられなかったの・・・ここが幸せすぎて、・・・辛くて・・・ごめんなさい」

「旦那さんの子どもだよね?」

鹿島君には確信があった。(もしかしたら…自分の子かも…)そう思いたかったが、由貴さんが「中に出して」と頼んできたその日には、もう彼女の中には正統な血統の赤ちゃんが宿っていたんだろうという確信があった。

「どっちか分からない・・・」

「僕にはなんとなく分かるんだよなぁ」

由貴さんがこちらを向いた。「そう思いたいだけでしょ」

「違うよ。僕らの子どもだったら良いなぁと凄く思ってもみたけど、多分違う。」

「なんでそう思うの?」

「計算だよ」

「私の生理周期を数えてた?」

「いいや。」

「じゃあ、確信なんて持てるはず無いじゃない?何の計算が成り立つの?」

「キミの計算高さのことを言ったんだよ」

「どう言う意味?」

一言ごとに由貴さんの声は氷柱のように鋭く尖り冷え冷えとしていった。鹿島君の腕の中で、柔らかく凭れていた体も硬直し、緊張が漲って石のように硬くなっていた。

「あなたは情熱的な人だけど、線引きはキッチリしてる。ガラスの中で燃える炎みたいに。計画性をもって恋に身を焦がす人だよ。決して間違いは犯さない。ここまでなら良し、これ以上は駄目、と、揺るぎなく一線を引いてるよ。僕に対しても。世界中の何事に置いても。出会ったときからキミはそうだったよ。多分、僕と出会うもっと前の、小さい女の子の時からそんな性格なんだろう。悪いとか、良いとか言ってるんじゃないんだよ。僕はそんなあなたを好きになったわけだから。

・・・で、キミは今、離婚してからここに来てるわけじゃない。旦那さんが長期出張にでも出掛けたのか知らないけれど、何か僕には分からない理由でキミは今ここにずっと居てくれてるわけだけど、そのお腹の子は、どう幸せに考えたって、僕の子どもじゃないと思えるんだよ。キミが婚姻関係に無い男の子どもを身籠もったり、そのままずるずるお腹に抱えて悩み続けたり、そんな事するような人では無いと思うわけだよ。僕はキミを愛してると自負してるけど、キミの頭の働かせ方にも少しは理解を持ってるつもりなんだ。さっきはキミも言ったよね?

『バレる前に消えるつもりだったけれど、・・・』みたいな事を?それで確信したよ。僕も。キミは何故だか分からないけれど、どう言う風の吹き回しか、キミのことをある日突然魅力的だと思った旦那さんに孕まされたんだ。例えば、長期出張に出掛ける前に急に久しぶりにこれから長いこと会えなくなる嫁でも抱いてみるかという気に彼がなったとかで。終始勝手な僕の妄想だけどさ。キミが今更やめてと嫌がったかどうか、それでも無理矢理やられたんだかどうか、僕は知らないけど、そうであって欲しいから、そう解釈するよ。本当はキミの方から生涯で一番好きな男を誘惑したのかもしれないけど。

何にせよ、キミのそのお腹の中の子どもは婚姻関係にある旦那さんの赤ちゃんだって気がする。キミは、僕とは、もっとハッキリ妊娠が分かるくらいお腹が大きくなってきたら会えなくなるから、その前に今のうちにいっぱい会っておこうとしてくれてるんだろうと僕は思ってたよ。それでも光栄だよ。キミが心では僕のことを好きで、でも現実、戸籍は旦那さんと別れられないのかもしれない。だからお腹の子供が僕の子であれば良いのにと思いたい、とキミが思ってくれてるんであれば・・・自惚れかもしれないけど、そんな想像してた・・・」

彼は喧嘩がしたいわけではなく、手でそれを伝えようとして、腕枕に使ってない右手で彼女の肌に触れようとした。が、由貴さんは鹿島君の指を握って止めた。指を握り締める力は必要以上に強く、長い鋭い爪が食い込んできた。鹿島君は大きな溜息を吐いた。そして深呼吸のような溜息をもう一つ吐いた。

「じゃあ言うよ。キミは僕に愚痴ってたよね?旦那さんの事を色々と悪く言ってたよ。『自分を女性としてはもう見てない』とか、『こちらから誘っても駄目だった』とか。セックスレスだって言ってたよね?何年も前から。・・・で、今、キミは不思議なことをぬかした。『どっちの子か分からない?』それってどう言う事なの?矛盾しかしてないよ!被害者ぶりっこはやめてくれ。本当にもうなんにも、一言も、キミの口から出てくる言葉は一切、信じられなくなってしまう。もうそうなってきてる。キミが僕に信じさせようとこれまでに言ってた事も、これから僕に喋る言葉も、もう信憑性がゼロなんだよ・・・」

「あなたは、自分の子どもであって欲しくない、ってだけよね?責任を逃れたいだけでしょ?」

「むしろ責任をとりたいよ。キミと家族になりたい。子ども達を連れておいでよ、って前からも言ってるじゃない?多少、一二年は面倒な手続きや何やかやあるかもしれないさ。それでも僕は良いって言ってるんだよ!キミの旦那さんと正攻法で戦うさ。裁判でも何でもして。子ども達が僕と血が繋がって無くたって良い。自分の子のように可愛がるよ。精一杯。旦那さんほど収入は無いかもしれないけど、生活水準はちょっと落ちるかもしれないけど、僕はキミを愛してるよ。少なくとも旦那さんよりは。

でもキミはどうせ本当の事なんて何一つこれまでも言ってなかったし、これからだって嘘を吐いてばかりで本当の事なんて一つも話してくれないんだろ?自分を綺麗に見せたいばっかりで。旦那さんともこういうことずっとしてきてたの?旦那さんとも愛し合ってた?そんなこと考えたくなかったけど、キミを信じていたかったけど、だって、そうじゃないとどっちの子だか分からない子どもはできるはずがないんだよ!・・・学生時代からキミはモテモテで男子生徒に人気があったよ。高嶺の花の優等生で。あの頃のまま、ずうっと一生チヤホヤされ続けていたいんだね?キミには常に二人以上の男が必要なんだ?信奉者達が?キミの足元にひれ伏す恋に破れた男達の山積みの屍を見ろよ!キミの可憐な花瓶は一輪挿しじゃなかったってわけだ。恐れ入ったよ。キミにはいつも捧げ物のゴージャスな花束がお似合いだよ。クラクラさせる男の数は多ければ多いほどキミは幸せだろうよ、だけど、巻き込まれる方は災害級の災難だよ!一体、キミにとってはどっちが遊びなの?どちらも真剣な遊び?旦那さんも俺も?生まれてくる子の事は考えてあげたことあるの?」

「帰るわ」

「帰る?ここがキミの家じゃなかった?」

「この子の父親の家に帰ります。」由貴さんが布団の中で自分のお腹に手を当てたのが分かった。

「僕の子どもかもしれないんじゃなかったの?」

「その可能性はかなり低いわ」

「そうか…じゃあ…」

「帰ります。」

「分かった。送っていくよ」

二人は同時に素早く上体を起こした。寝室の空気はビリビリ張り詰めていた。

由貴はチラッと、薄闇の中で緑色の蛍光色で真夜中の一時を指す時計を睨み、それから鹿島君の目を下から睨み上げた。

「明日もあなたはお仕事ですもんね。サッサと行きましょう。あなたは充分責任を果たしてくれた。これまでありがとう。良い遊び相手だったわ。時間潰しには最高の相手でした、鹿島君は」

(首を絞めて殺してやりたい、力尽くででも閉じ込めてここに居させたい、帰らせたくない、この可愛い顔が歪むほどどつき回して一生物の大怪我を負わせてやりたい)と鹿島君は思った。こんなに本気にさせておいて、サラッとバイバイを言い渡してくる相手の気が知れなかった。瞬間的に握り締めた拳を鼻息を荒くしただけでなんとか振り上げずに抑えつけた。汚い嫌な人間に自分がなっていくのがたまらなく嫌だった。いまだ自分を魅了し続ける女性の顔にその魅力を損なう一生残る傷を負わせてやりたい等と、自分がこれほどまで噴き出すように憎悪を感じることがあろうとは思ってもいなかった。一番大切な相手に対して。

好きになり、情を入れ込ませ、気持ちを高められれば高められるほど、つき落とされるときにはどん底まで落とされる。もう若くも無いのに、この歳になって、いまだにこんな色恋沙汰でこんなにも激しく気分を乱され、消耗させられるのかとウンザリした。

立ち上がった由貴さんは廊下に置いていたハンドバック一つを拾い上げ、取っ手を肘に引っ掛けただけで、鹿島君の部屋をぐるっと一瞥し、もう玄関までスタスタ歩いて行ってコートを羽織りだした。

「二度と戻って来ることは無いんだから、荷物は全部持って行ってくれ!」鹿島君は自棄になって叫んだ。

「全部捨ててくれて構わない物ばかりよ」由貴さんの声は静かだった。

「片付けは僕に押し付けるのか」鹿島君は精一杯の嫌味を口にした。

「ごめんなさい」むしろ由貴さんの謝罪の言葉には気持ちが籠もっていて、言葉通り二度と戻ってくるつもりの無い覚悟をうかがわせた。

由貴さんは玄関の外へ出て扉を押さえて鹿島君が靴を履くのをもう待っていた。彼女の方がこうなる日がいつか来るのを彼よりもずっと前から心積もりして知っていて、予め覚悟していたのだから、あっさりしたものだった。結局、お腹の子供がDNAレベルで誰の子だとしても、その母親が「この子はあなたの子よ」と言い張れば、事実をもねじ曲げる情熱と根性で言い張り続ければ、鹿島君としてはその嘘も誠も飲み込み全て受け入れる気でいたのに。「旦那の子だけれどあなたと育てたい」と正直に言ってくれたって良かった。その場合も彼の受け入れ体勢は整っていた。選択肢はいつも一つしか無かった。薄々由貴さんは妊娠しているんじゃ無いのかと気づき始めてから、密かにしていたその覚悟さえも、打ち明ける機会も無いままに水の泡になろうとしていた。

(結局、由貴さんが頼りにするのは俺ではなく最終的にはやっぱり旦那さんなのだ。どう足掻いても彼女はやはり旦那さんのものなのだ・・・)

鹿島君が靴を履き家の外に出て、由貴さんを見下ろすと、彼女は揺らがない決断した顔をして、鹿島君が言う前にもう自分のキーケースから外した合鍵を彼に返すために手に持っていた。


 由貴さんを送っていく車中、鹿島君は何も話す言葉が思い浮かばず、できるだけ早く、出来るだけノロノロと運転した。運転する事にだけ集中しようとした。深夜の道は空いていて全く集中力を要さなかったのに、彼は赤信号を二つも見落とし、ほとんど滅多に歩いてもいない歩行者を轢き殺しかけた。

「私が運転代わりましょうか・・・」

「どこかこの辺りで下ろしてくれたら自分でタクシーを拾えるから・・・」

由貴さんが小さい声でポソポソ言うのを鹿島君は聞こえないフリをした。

(彼女がせめて嘘を吐いてくれていたら・・・)と彼は腹の中で思わずにいられなかった。

(『この子はあなたの子でしかあるはずないじゃない』、と、断固とした口調で騙しにかかってくれていたら・・・)こちらもまだ馬鹿になって騙されていられたのに・・・

由貴さんの事が完全に分からなくなってしまった。旦那さんとの関係が持ち直したのは自分と密会し始めてから後なのか、それともセックスレスなんて最初から嘘っぱちだったのか?何故「中に出して」なんて言ったのか?旦那さんの子どもが出来てから、彼女もそれを承知した上で、鹿島君にも父親である可能性を持たせるためにそう言ったのに多分違いない、しばらく何か理由を付けて会えない会えないと言っておいて、出産後も自分と関係を続けるためであろう、子どもが出来たと僕に知られた後も、僕の子かもしれないと匂わすことで縁を繋げておきたかったのだろう、と彼は思いたかったが、今、助手席に座っている由貴さんのギュッと結んだ口元、前しか見ていない冷たい目を見ると、この様子では出産後も二度と自分と会う気はないらしくも見え、どう捉えて良いのかが分からなくなった。

「前を見て!鹿島君!」

由貴さんが悲鳴を上げ、鹿島君は急ブレーキをかけた。全身に力が入ってしまいアクセルを踏み込む足にも力が加わり、知らず知らず速度を上げ続けてしまっていた。轢き殺しかけた自転車の酔っ払いに悪態を吐かれ、そのお爺さんが再び最初からひしゃげていたように見える自転車に跨がってギーコギーコ、フラフラと行ってしまうのを見送ってから、由貴さんが落ち着いた声で聞いてきた。

「一緒に死にたい?鹿島君?そうする?それならそれで構わないよ。私は」

肝の据わった彼女のその口調で、鹿島君はむしろ落ち着きを取り戻した。

「いや、キミと赤ちゃんには長生きしてもらわないと。由貴さんには娘さんもいるし。そのお腹の子も僕の子どもの可能性も1%くらいはあると思うよ」

由貴さんはウンともイイエとも言わなかった。首も縦にも横にも振らなかった。それでも、彼女が最初から筋書きをほぼ描いていたとおりに演じきろうとしているのが彼には分かった。ただ目的が何なのかだけが分からないままだった。

夫の子どもが欲しかったのなら、鹿島君には避妊し続けて貰えば良かったのだ。余計なことを言わないで。何故あんなこと、『中に出して』なんて言ったのか、そこからわけが分からなくなるのだ…

 由貴さんを無事彼女のマンションの下に下ろしてから、鹿島君は無言ですぐに猛スピードで今通った道を引き返し、帰りにかかった。

(助手席から降りて、こちらに手を振り、何か待っているような顔をしてちょっとの間こちらを見詰めて立っていた由貴さんに、鹿島君は一言も声に出しては言葉をかけなかった。「早く家の中に入って暖房器具のスイッチを全部押してまわって体を冷やさないよう、温かくして休んでください、今更こっちを心配そうに見てる暇があるなら」と嫌味半分、本気の彼女の体を思う気持ち半分で言おうかと考えたが、相手にはどう受け止められるか分からないので口を噤んでいた。)

早く酒でもあおって寝たかった。まだ火曜日、明日は水曜日だ。大人が思いっきりヤケクソになれる週末までまだ後三日もある。

隣で予備ブレーキをかけてくれる由貴さんがいなくなり、またスピードがどんどん上がり始めた。今度は長生きして貰いたい人を一人も車に乗せていなかった。生きていても仕方ない、死にたいとまでは考えていなくとも死なないようにしようともさして思ってない、誰に頼られもしない中年の男一人が運転している車はグングン加速した。

 林檎の実が熟していく過程のように青から黄色、明滅する黄色から赤に信号が切り変わるギリギリまで踏み続けていたアクセルからパッと足をはなし、山へ上がっていく横道を横目にチラッと見た。

(ちょうど良いかも知れない…)と思った。

直線で真っ直ぐ家に帰るとこの逆立って興奮した気持ちの整理が間に合わない速度で帰り着いてしまう。気を静めるための他の何かを無意識に求めていた。昔、短い夏休みの一時期にアルバイトしたバイク便の仲間達と、深夜の山道を競い合って法定外の速度で上り下りしたスリルを思い出した。命をすれすれの危険に晒して得るスリル。法外のスピードを出しても許される、と言うか、許す許さないの取り締まりの無い時間帯。行き場の無いモヤモヤの鬱憤を、風を切ってスカッとする別の興奮に置き換えて、気分を一新してから我が家に戻りたくなった。

ハンドルを山道へ上っていく坂の方へと切った。その横道への信号は青だったのだ。苛立ちにジリジリ身が焦がされるようで、目の前の赤の信号が青に変わるまでの待ち時間を一秒もジッとしていられなかったのだ。




続く


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