11 そろそろ終わりたい・・・ ・・・前川君?
結論から言おう。鹿島君は撒かれた。あっけなく。
相手がピンヒールを履いた女性だと言う油断があったために?この三日で即席探偵としては上々の成果を得た尾行の腕前に過信を持ちすぎていた?そうかもしれない。
相手が彼のTシャツ一枚を借りて身に付けただけで,くっきりと先端が上を向いて尖った乳首の形さえも擦れ違う男達にジロジロ見られながら電車にだって乗ってフラフラ出掛けてしまっていた16歳の子どもの頃とは違って、今は一般的な良識ある大人の女性らしい整った服装、乱れのない髪、目抜き通りを連れ立って歩くのにこれ以上なく気品ある女性に見えたから、きっとそのように振る舞うであろうという偏見もあったかもしれない。常識的な由貴に慣れ過ぎ、ユキという女がかつてどんな少女だったか、こちらの追跡に気付いているにせよ気付かぬままの天然な行動だったにせよ、とにかくユキの次の動作を予測する鹿島君の勘は鈍っていた。
まだ絶対100%の確信を持てなくて、背後から近付いて行きそのまま腕を捕まえてこちらを振り向かせる強引なやり方に出られなかったせいもある。
(もし人違いだったら・・・)自信の揺らぎ、勘の鈍りが決定的なチャンスを永久に逃してしまった。
(次の信号が赤になったら立ち止まるだろうから、そこで追い越して顔を覗いてからにしよう、声を掛けるのは・・・)鹿島君はそう思って一瞬待ってしまったのだ。
信号が赤に変わり、人々が立ち止まる中、ユキは歩みを止めなかった。黄色信号が点滅の内に走り出していた人々はもうとっくに道の向こうに駆け寄っているのに。
こちら岸の安全地帯からスッと車道へ悠々歩み出て行くその後ろ姿が、数十年ぶりに鹿島君の背筋をサーッと凍らせた。ユキはクラクションや野次、急ブレーキ音の轟音嵐の中、御堂筋を横断する白黒の歩道の上を、闘牛士がヒラリヒラリと猛牛を躱すように優雅に、演舞を舞うかのように渡って行った。コートのポケットに両手を突っ込んだまま、結んだ赤い口元にほんのり薄笑いを浮かべ。
年季が入り、それとも天性のものなのか、鹿島君に追われているのを知っていてのヤケクソな火事場の馬鹿力的追跡の躱し方だったのか、それは分からないが、あまりにも身ごなしが美しくヒヤヒヤものなのに見とれる安定感、オーラを湛えているので、こちら岸に立ち止まって見ている野次馬達も、
「迷惑な人だな・・・」「事故起きるんじゃ無い・・・」等のアンチ意見半分、
「凄いなあの人・・・」
「これ何かの撮影?ねぇこれって映画の撮影?!カメラマンはどこ?」
「ラリってる?あの人・・・」
と不思議そうに賛美する意見半々、と言ったところだった。
ユキが(立ち止まらない気だ!)と閃光が閃いて気付いた瞬間、鹿島君も飛び出して彼女を引き戻そうと走りかけたが、突っ込んできた最初の一台目の車が彼女と彼の間を割り、轟音を上げてそのまま走り抜け、続く二台目、三台目、そして途切れなく後から後から勢いを増し迫ってくる交通量に負け、鹿島君は歩道に下がってもはやただ見ているしか為す術が無くなったのである。
「お兄さんあの人のお連れさんですか?」動画を撮りながら携帯電話のカメラをこちらに向けてにわかカメラマンが鹿島君に聞いた。
「そう・・・いや、・・・」鹿島君は手の甲でこちらに向けられる携帯電話の黒いレンズの瞳を払いのけた。
さっきまでは振り向かせて顔を確認してユキかどうかを確かめたかったのが、これで完全に分かった。
(彼女はユキに間違いなかったんだ…やはり…)
髪の色を変えようと身に付ける服装を変えようと鹿島君の目は欺かれなかった。見間違いや人違いの可能性など考えていないで、もっと早く駆け寄って声をかけていれば良かった・・・
「お兄さんの彼女ならまた信号が変わったらこっちに引き返してきますよね?ねぇ?おじさん?」
鹿島君の隣にピッタリくっついて動画配信を続けているらしい男が聞いてきた。
「別れ話されたんですか?それであんなこと・・・?」
鹿島君は片手を上げて勝手に撮らないでくれと仕草で示し続けた。
まだ信号は赤だった。道の向こう側までユキは渡り切ったようだ。彼女に付随して飛び交っていたドライバーの野次、タイヤの軋み音、クラクションが遠離り、やがては消えた。彼女は向こう岸にも出来ていただろう人集りを突き抜け、霧のように再び消えてしまった。幻の女はまたも人の手の届かぬ彼方、神話の地へ・・・
北か南、右へ行ったのか左へ行ったか、鹿島君はそれだけは見逃すまいと目を凝らしていたのだが、実際のところはまだ彼女が激しい車道の往来の中にいるうちから車の群れに飲み込まれ既に見失いかけていた。
今や彼の目の前にあるのは、交通量の多い黄昏時のただの御堂筋でしかなかった。道を渡るつもりの無い見物客も既につかの間のショーを見終えて散っていた。
信号が青に変わり、動き出す人波の中、鹿島君は立ち竦んでいた。付き合っていた頃は満面の笑みを浮かべて駆け戻ってきたユキだったが・・・
幅の広い横断歩道の真ん中に立ち、こちら側に渡ってくる人々の中に悪戯っ子の表情を浮かべたユキを探し求めたが、彼女はいない。往来のかなり邪魔な位置に立ち、若い女性の顔ばかりを狙って覗き込む鹿島君を胡散臭そうに人々が避けていく。
また信号が点滅する黄色から赤に変わりかけ、やっと鹿島君は動いた。いきなり全速力で走り出し、今度は自身が四方からクラクションを浴びながらなんとか向こう岸へ渡りきった。左右をキョロキョロ見回し、ユキを捜したが、見当たる範囲にはいない。本人の姿を探し求めるのは諦めて、植え込みの縁の煉瓦に腰掛けてたむろしている5,6人の旅行者に話しかけた。
「さっき赤信号の中、道をこっちに渡ってきた人を見ませんでしたか?」
「何か盗られたの?」
「そういうわけでは無いんだけど・・・」
「困った人だよね。見た目は普通の美人さんだったけど・・・」
「どっちへ行ったか見ました?」
「…誰か見た?」5人グループは互いの顔を見合わせた。
「誰も見てない。後ろ指を指そうにも消えた方角も分からないね・・・」
鹿島君は頷き、歩道を右往左往してさらにキョロキョロ目を彷徨わせたが、もうどうにもならなかった。今頃ユキは地下へ潜ってヒョイと地下鉄に飛び乗り時速100キロで彼の元からさらに距離を広げているかもしれない。
(…そう言う事か、…そうだよな…)
大丸の燦めく入り口を見詰めた。ユキとデートしたことがある。雪とも買い物に来た…
(・・・明日の朝に食べるパンでも買って帰ろう・・・)
鹿島君は意識して一刻も早く心の体勢を立て直そうとした。今更見え隠れする、もっと死に物狂いになって食らいつけば尻尾が掴めそうな位置にほ~れほ~れ~と尻尾を差し出し、おちょくってくる、手に入らなかった女やら過去の幻影などに半狂乱になって振り回されてなるものか、という気がしたのだ。
(泣きそうになってはいけない、途方に暮れたような気になってはいけない、そろそろ飽きなくちゃ駄目なんだ…)と彼は思った。(嫌いにならなくちゃいけない頃合いなんだ…)
(この際だからデパ地下で質の良い青果をいっぱい買って帰ろう。とっとと家に帰って、暖房を効かせ音楽でもかけて心安らぐ自分の家で、食べきれないほどホカホカの鍋でも作ろう。無脂肪ヨーグルトが切れていたっけ・・・スーパーよりも割高だなんて関係無い、この際そんなの気にせず豪快にデパ地下グルメを買い物しよう。自分のために贅沢しよう。あの人を見失って途方に暮れたように悔しがってる姿なんて、今もどこかに身を潜めてこちらの様子を見ているかもしれないあの人に見せてたまるか・・・)
こちらが相手の姿を見失ったということは、裏を返せば相手に尾行される立場にこちらが陥った可能性も出て来たのだ。それに気付いて、鹿島君はそっと首を巡らせて後ろを振り返ってみた。ユキの姿はやはり、無かった。
帰る道々、彼はグルグルと頭の中で考えていた。
(・・・ユキ、キミは今日一日由貴をつけている俺をつけていたのか?今日だけじゃ無いのか?いつからだ?消え去るなら永遠に消えていてくれれば良いものを、何故今になって掴めそうで掴めない袖をヒラヒラと僕の目の前に差し出す?一体キミは何がしたい?何が目的なんだ?キミの意図さえ掴めないよ・・・まだ自分に未練があることを僕に証明させたいの?そんなことして何になるって言うんだ?・・・ただ哀しくなるだけだろう・・・)
二つとも自分のための荷物しか入ってない重い紙袋を両手にぶら下げ家に帰ってから、鹿島君は機械的に手を動かし、どっさり買い込んできた一人では食べ切れそうにない食料品を冷蔵庫に押し込み、野菜をどんどん切断し、鍋に放り込んで火にかけた。具が煮えるまでに浴槽をゴシゴシ洗って熱い湯も溜めた。連休中脱ぎ散らかしてそのままだったジャージや靴下もまとめて洗濯機にかけた。
(・・・明日からは仕事に邁進しよう。溜まっているだろう仕事を片っ端からやっつけて、日常に戻ろう。しっかりした規則正しい自分のリズムを取り戻そう。それが一番、間違いが無い。やはりこの連休の使い方は現実的ではなかったんだ。慣れないことをしたせいで、眠りすぎて変にリアルな夢を見て頭がズキズキしながら目を覚まし混乱してるようなものだ。この三日のうちに忍んで見たり聞いたりしたことは頭の中だけに収めて置いて、変な夢を見た位に考えておこう・・・由貴の元彼の半身不随の和菓子屋が真ん中の足はたつんだかそっちも呼びかけに応答しなくなってしまってるんだか、どっちの可能性もあるのかぁ・・・なんて、検索してしまったことも含め、できるだけ速やかに忘れるよう努めよう。仕事があるのは本当に良いことだ。良かった。明日が会社のある日で本当に良かった・・・)
そう思いながらいつの間にやら白菜と一緒に切ってしまっていた親指の切り口を吸い、一人鍋を腹に詰め込み、テレビを消し歯を磨いて布団に入り、目を閉じた。
ありとあらゆる可能性が彼の瞼の内側をよぎり、時にその一つを捕まえ彼はゆっくりと吟味して、それから川の流れにまた戻すように、一片の疑問が意識の表面から無意識の暗い地層の泉へと運ばれるに任せた。例えば、
(・・・由貴から妹に近付いたのだろうか?・・・それとも邪気の無い妹とはたまたま偶然に広い社会の網の目のコミュニティのどこかしらで由貴は俺の妹と出会い、知り合いになり、意気投合して仲良くなる過程のどこかで驚きと共に年下の友達が自分の高校時代の恋人の妹だと知ったのか?・・・)
(・・・由貴から妹に近付いたのだとしたら、それはどんな理由があっての事だろう・・・?)
(・・・和菓子屋の制御可能領域とは本当にどこからどこまでなのか・・・)
(・・・ユキはいつから僕の後ろにいたんだろう・・・?)
(・・・由貴は妹にずいぶん秘密を打ち明けて話していたが、それが嘘で無いという可能性はどうだ?・・・俺と知り合うよりも以前から、愛情深い夫に毎晩愛でられる妻として幸せに暮らすハルカと、釣り合いのとれた友達でいるために、由貴は架空の愛人をでっちあげ、話に尾ひれを付けて騙っていたのかもしれない。哀しくなるような対策だが、いくら事細かに仕上げられていたとて嘘なら証拠は一つも出て来ない。由貴の性格から、実在する不倫相手の話を人の耳もどこにあるかしれない場でベラベラ話していたのが不自然に見えた・・・最近の愛人は実在するこの俺なのだが・・・)
(・・・それにしてもユキはいつから俺の後ろにいたんだろう?気付いたのは今日が初めてだったが、昨日も一昨日もその前にも僕の後ろにいたとしたら・・・?あの子は僕の住所も会社も社内の配属まで知っていたんだ・・・それこそ目的は何だ・・・?何か言いたげな眼差しでジーッとこちらを見詰めてくる猫と同じで、彼女は何も言葉にして教えてはくれない。でも何か僕に伝えたいことが必ずあるはずなんだ・・・)
(・・・由貴が僕の尾行に気付いていて、全て計算された道を歩き、僕は誘導され彼女の見せたい舞台を見せられただけだったとしたら・・・?)
(由貴とユキは実は繋がっているのだとしたら・・・?由貴には僕の会社も所属部署も言ってあるぞ・・・可能性はある…だとしたら目的は…?)
嗚呼、眠れない・・・
わざと浴槽の中で酒を浴びるように飲み雪と同じように死ねないかと試してみたことがあった鹿島君だったが、あの時と同じように、今は布団の中で、目を閉じ、意識を失いたくてもなかなか失えなかった。
灯りを点け、立ち上がり、部屋中をウロウロし、酒をあおったりトイレへ行ってみたりした。カーテンの隙間から誰かに見られている気がして、14階に住んでいるのにゾッと鳥肌を立てて窓を開けて見もした。そしてやってみられることは全て試してみた後、疲れ、もう一度布団に入って目を閉じ、眠りたいフリをしてみた。
今度は自分の鼻息が鼾に近付いていくのが分かった。そしてやっと、緊張して握り締めていた指の隙間から意識を手放すことができ、彼はゆるゆると浅い眠りに身を浸した。疲れと、36年の夜毎の就寝実績がひたひたと満ちる潮となり波となり、横たわる浅瀬から彼の体を揺り動かし持ち上げ、そしてついには一息に、より深い眠りへとさらった。
翌朝起きたとき、彼はすっきりと幸福なシンプルな一匹の社畜だった。他の事は全て後回しにして良い、真面目に深掘りして考えてみるほどに私生活が無い仕事に生きる中年。ピロリンピロリン5時を知らせて震える携帯電話を握り締め、鳴き止ませた。幸せなことに、頭の中は溜まっているだろう仕事のことで埋め尽くされていた。
「先輩、寂しかったっすよ!」
出社すぐ前川が両腕を伸ばして抱き付こうとして来たので、飛んできた大型犬をあしらうようにサッと横へ避け、コートを脱いでそれを宙に伸びた後輩の手にかけた。
「コート掛けに掛けといて」
「先輩先輩、どこ行ってきたんですか?お土産は・・・?」
前川君は鹿島君の鞄しか持ってない手を見て唇をとんがらせた。
「嘘だ、どこにも行ってないなんて・・・誰とは言いませんが入社したての女の子達が騒いでましたよ、先輩のこと見かけたって」
「どこで?」
「夢の国ディズニーランドで!想像を絶する美女と手を繋いでたって・・・」
「人違いだよ」
「シンデレラよりオーロラ姫よりゴージャスなプリンセスをエスコートしてたんでしょ~?白状しなさい?」
「デステニーランドなんてお門違いだ・・・お前は朝からエレクトリカルパレード並みに元気で良いなぁ・・・羨ましい・・・」
「証拠写真もありますよ!」
前川が携帯画面で拡大した男女の写真を突きつけて見せてきた。横顔が自分に少しも似ていると思えない男と、見覚えのある女が映っていた。
「これ誰?」
「パイセンっしょ?」
「こっちだよ。女の方!」鹿島君は前川の手から端末を奪い取り、拡大された女の顔をさらに拡大しようとして画質を粗くした。
「女の方は、そらあなた様の方がよくご存じでしょうに!」
「誰だったかな・・・」
「マジッすか!?そんな何人も彼女いはるんですか?本当に?」
「ああっ、ここまで出かかってるのに思い出せない・・・」鹿島君は両のこめかみを指で押さえ込んだ。
「この連休中の事ですよ?」
鹿島君はウンウン唸り、目をギュッと瞑って、記憶が瞼の裏側に投影する誰かしらの面影を待ち望み、それからカッと目を開けるとまた前川の携帯の横顔の女の顔を食い入るように睨んだ。
「・・・思い出せないの?一体何人のお姫様と三日間で遊んでいらしたの?・・・ヤだわ、穢らわしい・・・先輩がそんなビッチビチのビチ男だったなんて・・・」
「黙れ」
(ユキを捜し回っていた十代後半の一時期に知り合った“お城”の関係の誰かだ・・・多分・・・)と言う気がした。しかしそこまで分かってもそれ以上は思い出せそうに無い。あの短い一時期には一気に色んな女性と顔見知りになったから・・・
雪の友達や先輩、米田先輩の愛人さんやそのお友達達…、彩芽さん、そして彼女を取り巻く部下達、一度は喫茶店で待ち合わせたお姉さんも居た。就職し新しい職場に入ってから、先輩や上司に連れられて飲んだくれて花街をフラフラ歩き、腕を引っ張られるままほとんど後ろ向きに歩かされ相手の顔さえも見ぬまま店に連れ込まれて、そこまで深くはないがギリギリの危ないところまで関与した女性もいないではなかった。『こいつは珍しい男なんだ、熟女好きとか巨乳好きとか鎖骨好きとか男にも色々フェチはあるけど、こいつはゆきって名前の女をひたすら選り好んで愛す男なんだよ、なぁ!鹿島君』酔っ払うと口がペラペラに軽くなる上司がそんな軽いノリで鹿島君を紹介するので、雪には『自分と付き合った後は絶対にユキを捜すのはやめる』と約束させられていたが、鹿島君も冗談で『そうですそうです』と請け合っていた。『ゆきって子を捜し続けてるんです。俺は永遠に。名前の響きに惚れてるんです。この店にゆきちゃんはいる?居るなら呼んで貰えませんか?』酒に酔った浅はかな思考で、雪に分かるはずないなどと考えていたが、どこに雪の友達がアルバイトしていたかもしれなかった…雪と結婚してからは自分は一切本気でユキを捜す気は無かったが…『あたし入店したばかりだし、今から源氏名替えます。ゆきになります。遊女の遊に器で遊器。だからお兄さん、指名してね?』あの子は年も雪と同じくらいだと言っていた…会うときはいつも先輩に連れられて、先輩の推しのキャバ嬢さんが出勤してるときに行くだけだったから、それにいつも酒に酔ってから行ってたから顔も思い出せない。場の雰囲気で『指名してやれよ指名してやれ』と言われ、隣に座る女の子がクルクル回転していちいちまた自己紹介から始めるのも面倒だったし、先輩の行きつけの店に指名の子を持つのも付き合いの一つなんだろうな位に思って、指名してあげただけのことだ…顔も思い出せない…この人生の本流ではない澱んだ部分で、一時は関わったけれども、擦れ違い、今や印象でしかない女性達…(あの人は綺麗だった…)(大人びた顔立ちだった…)(笑顔になると急に幼く見えた…)そんなことくらいしか思い出せない。印象だけの実態のない顔…本名も知らない。何も知らない。
・・・雪がいるときは、生涯この人だけと決まった人生の外側に咲いている良い匂いのする花々、揺れる髪から漂ってくる香りを嗅ぐことや見とれることまでは許されても、摘んで持って帰ることは出来ない、選択しなかった全ての可能性を表す象徴として、憧れることはあった。雪と喧嘩してるときなどは特に。でも、ただそれだけの存在…
先輩がアフターするというので、自分もそうしないではバランスが釣り合わなくなり、ダーツバーやゲイバーへ行って更に飲み、みんなで酔い潰れ、ホテルを二部屋予約してタクシーも手配し、自分だけ帰ろうとした。結局、上司が二人いる女の子のどっちが自分の指名して来た子で、どっちが鹿島君の指名の子かも見分けが付かなくなってしまっていることに気が付き、待って貰っていたタクシーの運ちゃんには詫びを入れ、先輩とその彼女を一つの部屋に押し込み、それから隣の部屋のベッドに自分の指名の女の子を寝かせ、頭痛のする頭を抱え、自分は廊下の半開きの非常階段に凭れて夜を明かした。茜色の明け方にフラフラ昨日のドレス姿で遊器は起きてきて、『ごめんね』と言った。『店の鞄にしかライター無くて…』火が付けてあげられないと謝るのだ。『良いよ。禁煙って書いてあるから』鹿島君は廊下の壁の剥がれかけの張り紙を火の付いてない煙草で指した。『真面目だねぇ。そんなの守るんだな』鹿島君は黙って頷いた。『夜が明けるのを見てるの?』『先輩が間違えて君を襲わないようにここで見張ってたんだよ。一晩』『ありがとう。じゃあ、交代で鹿島君も少し眠ってきたら?今度は私が見張っててあげるから』『何を?』『あなたの上司が間違えてベッドでスヤスヤ眠ってるあなたを襲わないように』遊器の唇がニヤリと横に引っ張られ、昨日のよれたメイクの下から素顔の悪戯な女の子がチラリと顔を覗かせた。鹿島君の肩に顎を乗せ、挑発的な視線を合わせたまま、自分からゆっくり目を閉じた。差し出された好意を全く受け取らないのは気が引けた。自分の指名の子を可愛く思ってないわけでもなかった。鹿島君はどうしようどうしようと素早く悩み、廊下を左右見渡し、それから、そっと遊器の額に唇を付けた。目を開いた遊器が囁いた。
『あなたが捜してる女の人、今もゆきって名乗ってる?』
『俺は誰のことも捜してない。』
『私が知ってる事が何かあなたのためになるなら…』
『昔の話なんだ。今は誰も捜してないから、大丈夫だよ…』夜が完全に朝に変わるまで、遊器が隣に居てくれ、鹿島君は彼女を性別を超えてもっと好きになったのだったが、上司にはその後、遊器のいる店で飲もうと誘われなくなった。だから彼女ともそれ以来会っていない。
写真の女性は伏した睫を透かして男の顎あたりを見上げ、何か話しかけている左の横顔を撮られている。耳の後ろから頭の後ろへかけて緩やかに編み込んだミルクティ色の長い髪に、ミニーの耳のカチューシャを付けている。急いで隠し撮られた写真らしく、ピントがバッチリ合っているとは言えない。20~40代どれにも見える。これが本当に昨日撮られた写真なのか5年前、10年前に撮られた写真なのかだって怪しい。
「これを撮ったのは誰なんだ?」鹿島君は液晶画面の横顔の女を睨みながら前川の肩を掴んだ。
「あ、犯人捜しはやめてあげてください」
「冗談で言ってるんじゃないんだよ」
「絶対言わないって約束したんで・・・」
「誰と?」
前川は急に押し黙った。目が激しくソワソワ泳ぎ、急に仕事に情熱が湧いてきたフリをしようと自分の椅子の背を掴んだ。
「おい。新人の女子社員達って言ったな?この携帯借りるぞ」
「あ…、貸さなぃぃ・・・」
鹿島君は前川のなよなよ伸ばしてきた手を無視して、新人の席に向かった。隣同士で何やら片方のパソコンの画面を突いてやり方を教え合いお喋りしていた新人が、真っ直ぐ近付いてくる鹿島君の軌道上に自分達がいることを察知して顔を上げ、表情をピリッと強張らせた。
「怯えなくて良い。僕が聞きたいのはこの写真を撮ったのが誰かって事だけだから。」
新人二人は顔を見合わせた。
「えっと・・・工藤さんです・・・」
「工藤ってどの子?」鹿島君は携帯にくっついて後ろから金魚の糞として付いて来ていた前川の顔を振り返った。
「昨日で契約が切れた子かな?あの・・・」
「はい・・・あの契約社員の・・・」
おっとりした女の子だった。少し要領も悪い。オドオドして馴染めてない幼い雰囲気の契約社員がいたなぁと鹿島君も分かった。確かに今日は見当たらない。契約を更新されなかったのか。
「今日は来てない?当然明日からも来ない子か?」
「はい・・・」
「本当に?」
初めて頭ごなしに人を疑った。女の子は信用が出来ない。誰一人。これまでの人生で数多くの嘘や嘘に近い言い回し、誤魔化し、含みを甘んじて飲み込んできた。知らずに飲んで腹の中で分かった嘘、知らぬままの嘘もあったかもしれない、でも今、目の前にこれが事実だと差し出された一個の事象は嘘であって欲しかった。(女の子は信用が出来ないと特に思うのは、鹿島君がこれまでの経験から女性に吐かれた嘘の数の方が多いからであって、男女比を計って女性の方が特に嘘つきだと言ってるわけでは無い。女性の目から見れば男に吐かれた嘘の数、大きさの方が多く大きくなるのかもしれない。騙そうとする対象者、自分を偽ってでも良く見せたい相手に人は感じの良い嘘を提供する。立場も違えば、当人がそれを嘘だと自覚しない場合も多々ある。感覚のズレ、勘違い、言った言わないの無限地獄、言葉の定義が違うだとか言葉の正確性に誤差があったりだとか…)
「いなくなった人になすりつけてるんじゃないのか?」
鹿島君は自分に近い方から、片方(卵色のカーディガン)の女の子の左の瞳、右の瞳、それからその隣の女の子(海老茶色のカーディガン)の左の瞳、右の瞳に、ジッとX線のような視線を注いだ。そして振り返り、前川にも同じ事をやった。左の瞳、右の瞳と。誰の瞳にも答えは見付からなかった。
「先輩、そんなに血走った目で話す事でも無いんじゃ・・・たかだか休みの日にデートしてただけのことを…」
「・・・違うんだよ。僕は腹を立ててるんじゃない。ここに映ってるこれは(鹿島君は横顔の男を指差した)僕じゃない。こっちの女性に見覚えがあるんだ。でも誰なのか思い出せない。…この頃僕の周りで何かおかしなことがよく起こっていて、困ってる…誰かに付け回されてるような…身辺を嗅ぎ回られてるような・・・つけられてるような…」
「ストーカーですか?」前川が初めて真剣な眼差しになり、そんな表情をすると意外に男らしい眉を潜めた。
「気持ち悪いですね…付け回してる方はただの好意で何か危害を加えてやろうって悪意は持ってなかったとしても、やられる側からしたらそんなもん知ったことじゃなく一方的に日常がホラーに変えられますからね…たまったもんじゃ無いですよ…」
この三日間の我が身の行動を振り帰ると、鹿島君は首肯し難かった。
「昔付き合った女性ですか?」
「うん…まぁ…昔付き合った女性に関わる変な出来事が多い。とにかくこの頃…」
「僕の妻も僕と結婚するまで変態に纏わり付かれて困ってたんですよ。早く出来るだけの対策を打つことです。曖昧な気を持たせる態度をとらないで断固拒絶の意思表示を貫く、とか、加害者が女性の場合も同じなのかはよく分からないけど、怯え過ぎたり過度に意識して相手に『反応がある、伝わるものがある、自分に気付いてくれてる…!』と喜ぶ要素を与えない、とか。
僕の妻の場合は僕というちゃんとした男が彼女の隣を見せびらかすようにしっかり手を繋いで歩き、同棲と結婚を早めて正当な彼氏が存在することを分からせ、迅速に撃退することが出来ましたが。
・・・被害者が男性の場合は…変に彼女を作って見せびらかすと矛先がその女性の方に向いてしまって巻き込んでしまって危ないかもしれませんね…」
前川は握りこぶしを唇に当て、真剣に親身に目を曇らせて悩んでくれた。
「とにかく証拠があるなら出来るだけ集めて早く警察に相談に行った方が良いですよ。一緒に行きましょうか?」
「お前、急に頼もしいな…前川…」
「妻が被害に遭ってましたから。僕はちょっと専門家ですよ。相手が女性だからって、先輩、甘く見てはいけません。
防犯カメラに写る姿で相手を特定したら、妻の付き纏いをしてた男だって、逞しい男じゃ無かったんです。一人では妻の歩調にも追い付けない杖をついたお爺さんでした。それでも妻の人の良さを利用して多分最寄り駅の階段かどこかで手を貸させたときに、いつも妻が持ち歩いてるリュックのポケットの奥底にGPSを忍び込ませてたんです。それでいつも妻がどこに居るかリアルタイムで把握していた。行動パターンも完璧に記録して、ファイル五冊に渡る周到な誘拐計画も練っていたんです。妻が職場近辺のどのカフェで何時頃に昼休みの昼食をとることが多いか、その時注文するのはいつもカフェオレ。カフェオレに相性の良い、適量の体調を崩させる味に変化の少ない薬品にはどんな種類があるのか、どれくらいの量を混ぜたらちょうど自分一人で帰れる程度に早退するだろうレベルの体調不良を起こさせるか…そして薬はジワジワまわってくるもので無くてはいけない、午後1~2時頃、白昼だが一番人通りが乏しくなる住宅地への上り坂辺りで、駅からは自転車に乗り換えて自宅まで帰る彼女が、眩暈を感じ、自転車から降りて、どうにかしてふらつく足取りで自転車に寄りかかりながら歩いて家を目指す。ちょうどその時刻に自分は友人に借りた軽トラを運転して通りかかる。二人は日頃から顔見知りだから、声を掛けないで素通りする方がむしろ不自然だ。
『あれれ、お嬢さん。いつも駅では階段の上り下りを手伝ってくださってありがとう!今度は儂が恩返しする番のようですね…お可哀想に、昼に食べた物にあたったの?もう安心して良いからね、おじさん、歩くのは遅くても、車に乗ればビューンと速く動けるんだよ…自転車を積み込むことも出来る…立ち止まって踏ん張ればほっそりした君くらいの重さの荷物だって難無く持ち上げられる。積んだり下ろしたり、45キロの土の入った袋で毎日鍛えてるから…』
実際、どこまでが妄想でどこからを本気で実行に移す気でいたのかは神のみぞ知るですが、身の毛がよだつことに老人は自宅に妻を監禁するための窓を塞いだ部屋まで用意していたんです。猿轡と手錠、足枷、犬用の首輪、縄、後ろ手に縛ったまま床に置いて食べさせるための犬用の食器、妻の愛用の化粧品一揃い、種類豊富な性的玩具、着せる自分好みの部屋着まで何着も揃えて。サイズも全て妻にピッタリのを。
これ、ほんの一年前の話だからね。実際に僕の妻の身に起きた事だから」
震え上がって硬く手を繋ぎ合っている新人社員の女の子達に請け合ってから、前川は鹿島君に頷きかけた。
「先輩、警察に相談した方が良いですよ。僕が付いて行きますから」
既に鹿島君は内省に耽っていた。
(ユキが由貴に何か危害を加えようとしているのだろうか?…雪にももしかしたら接触していたのか?俺の妻を何か思い詰めさせ、自殺に追いやるような囁きを耳に吹き込んだのか?何故?僕がいつまでもキミの帰る家を約束してあげなかったから?どこに行ったか分からないキミをずっとは待っていられなかったから?僕を恨んでるのか?僕のそばにいる女性に恨みをぶつけてるのか?雪のことは…キミが何か関わってるのか?
…いや…いや…僕の知っているあの子は…ユキは…そんなことしそうな子じゃ無かった…どちらかと言えば人に無関心だった…誰かが自分の体にさえ何をしようが平気で無関心でいられる子だった…そういうところが心配で僕は長い間キミが気がかりで仕方なかったんだ…自分で自分の肉体をも大切に出来ないくらい物事にこだわらない人だったから…だけど、ユキ、僕はキミに思い知らされもした、自分が自分の恋人について全くなんにも理解していなかったことを…キミは案外焼餅焼きだったの?大人になって、何十年も経ってもいまだ初恋を忘れられない処女性がキミの芯には残されているのか…?それこそ正常じゃ無い…狂気の沙汰だぞ…でもキミは一般的の枠の中から何から何まで抜け出ているような人だったから…もしかしたら・・・)
鹿島君は思い出した。自分と付き合いだしてからも暫くは“城”に通いで働いていたユキが、口癖のように彼に囁いていた言い訳を。
『目を閉じて、あなたとやってるんだと思って仕事をこなしてるの…』
(キミは今も…?初恋の男を相手に辛い仕事を目を閉じてやり過ごしているのか?それがキミの身に染み付いた処世術だとしたら…僕が知っているあの頃と相も変わらず、今も、昨夜だって、一昨日だって、体を売って日銭を稼ぐ生き方をいまだ繰り返し続けているなら…目を閉じて昨日の夜も仕事をこなすために僕と寝るつもりで初見の相手に抱かれ一夜を明かしたのかもしれない…二十年間、毎晩、あの子の魂の世界では恋人としか契りを結んだことは無い…目を開けて自分の体が誰と繋がってるかを見ようとせずに、瞼の裏に焼き付けた唯一の男の姿だけを必死で20年間見詰め続けてきたのだとしたら…
それにあの子は現実と妄想の境界線を溶かす何か薬品に手を出していてもおかしくは無かった…身を置く環境が環境だったのだ。しがみ付ける自らの選択を正当化してくれる免罪符と、脳をとろかす薬物の常用、あの常軌を逸した赤信号渡りが如実に物語っている。ユキの中では、自分で築き上げている妄想の、時を止めた16歳のままの世界と、自分以外の女と俺が仲良くしている許されざる現実の世界とがゴチャゴチャになっていて、自ら手を下し間違っている方を修正しようと、手をベッタリ血に染めて動いているのだとしたら…)
「由貴が危ないかも知れない…」
鹿島君は口の中でブツブツ呟いた。自分がどうすべきなのか、何が真実なのか、誰を疑うべきなのか、やはりそれでもまだ確信が持てず、深刻に焦りばかりが募り、身動きもとれなくなってしまった。
(…逆に…由貴は怪しくないというのか?…彼女の方が奥が深く、頭が回り、半分事実を織り交ぜたボロの出ない上手な嘘が吐けて、秘密を秘密のまま死ぬまで胸にしまっておける忍耐強さがある。ぼろぼろボロを出して嘘が全然吐けなかったユキ、俺の知っている行き当たりばったりな野生児ユキとは違って。
もしどちらかが妖怪めいた自分の執拗なストーカーであるなら、そしてどちらかが雪の死に関わっているとするなら、周到な計画を練り機が熟すまで息を潜めてジッと待て、筋道立てて計画を行動に移すことが出来る、冷静で冷酷で、ここぞという時には胆力もある、より嫉妬深い女は…どちらかと言えば明らかに、由貴の方だ。)
日本に戻ってすぐの鹿島君に真っ先に自らその身をすり寄せて来たのも彼女だったのだ。
彼女とはキチンと別れ、高校を卒業した後ではあったが、ユキと付き合ったりその後も雪と関係を結んだりして、一部の心ない同窓生達の間で鹿島君は『風俗嬢落とし』だとか『プロをも泣かせる真の魔性男』だとか妙な噂を立てられた。その事で、かつて恋人だった由貴には知らぬ間に迷惑を掛けていたのかもしれない。他者からの自分の評価を割と真に受けて気にする彼女のことだ、顔に泥を塗られた、と、風俗嬢と同列に自分を扱われた事に腹を立て続けていたのかもしれない。婚姻の呪縛に縛られながらその中に自分を留め置くことも出来ない可哀想な、矛盾した由貴…抑圧され歪んだ愛憎、押し込められていた爆発的業火で、自由の身の鹿島君を陥れる気でいるのかもしれない。彼女もまた彼を恨める理屈を持っている。
今更彼を頼って来そうな身寄りの無いユキを追い払ったのは、由貴では無いか?何か伝えようと彼の周りに姿を見せてはスッと身を引き、姿を隠すユキ、彼女には彼の背後の由貴が見えていたのでは無いか?・・・
「先輩、先輩、」
前川が本気の顔をして鹿島君の肩をユサユサ揺さ振り、彼を暗黒の物思いの底から白い照明灯と窓から差し込む朝の日差しのオフィスへ、時計の針が一秒に付き正しく一秒を刻む現実の世界へと、引き上げてくれた。
「朝礼が始まります。一旦席に戻りましょう。先輩…」
鹿島君は頷き、新人達にも頷いて、後輩の後について席に戻った。二人がそれぞれ自分達の机の前の定位置に付いてこちらに目を合わせるのを待って、日サロの五郎がフム、と咳払いし、いつもの台詞を唱えた。
「えー、皆さん、本日も各々ベストを尽くしましょう!…はい。では、頑張って!」
そして率先して自分の椅子に座った。
鹿島君もパソコンを立ち上げながら椅子を引き寄せた。
「先輩、大丈夫ですか?」前川がチラチラこちらの顔を覗き込んできた。
「最近身の回りで起きている不可解な出来事って、例えばどんなことです?一人で抱え込んで悩んでないで、僕でも誰かもっと信頼してる他の人でも、とにかく相談してくださいよ!」
「うん。まぁ…後で考える」
「仕事なんか後回しで良いんですよ。仕事なんか鹿島先輩の人生を上回るものじゃ無いでしょう?あの偉大な大先輩をちょっとは見習ってください!」
前川が日向ぼっこしている五郎の額をズバッと人差し指で指差した。
「おいっ、指差すな…!」鹿島君が後輩の人差し指を握って無礼を引っ込めさせた。
「あの大先輩が体張って部下達に示してくれてるのは、『たまには気を抜いて仕事してるフリしてボーッとしたり他の事とかゲームとかしたりしてても良いんだよ』って事です。『それでも我が輩くらいのポジションまでなら出世できるもんだよ』って身を挺して教えてくれてるんすよ!あの方は!(今日サボりたい、でもみんな今日はサボってないなぁ…)って部下が一人でもいたら可哀想だから、人知れずそんな悩みを抱えてる部下が一営業日にでも出たら駄目だから、毎日毎日、ああして欠かさず、身を粉にして、ポケーッとしてくれてはるんす!上がああだと下ものびのびと一日くらい気を抜ける雰囲気じゃないすか?日サロの五郎と比べて、鹿島先輩が陰で何て呼ばれてるか知ってます?」
「えっ、俺?何て呼ばれてるの?」
「ミスター有給流し、ミスター私語無し、ミスター昼休憩時短切り上げ。です」
「えぇえ…それ本当?」
「いや今の先輩見てて思い付きました。これから僕が陰で手を回し広めて本社に浸透させていきます」
「やめてくれ」
「冗談は置いといて。これでも俺、一応、鹿島さんをかなり心配してるんですけど」
前川は真っ直ぐな視線を正面から鹿島君の目の奥へ注いできた。自分の身を自分よりも案じ真剣に気遣ってくれているらしい思いやりが、初めて鹿島君にもハッと伝わった。熱い眼差しがそのまま目から入り込み、喉を伝って胃に落ち、腹の底へジンワリ染み渡る気がした。滋養の高い熱いスープを飲ませて貰ったように。
「そうか…ありがとう」
十歳年下の、まだ温室育ちの大学気分が抜けない今時の子だと思い込んでいたノリの軽い前川が、こんな風に何か一点の揺るぎない自分の信念を持ち、人にも伝えようとして直向きな目をすることもあるんだなと内心で感じ入った。
「そう言えば、お前、結婚してたんだな…知らなかったよ」
「そっすよ」
「そう言えばお前…」鹿島君の中でピーンと点と点が繋がった。
「出世したくなかったのは奥さんから離れるのが嫌だったからか?」
「そっす。俺、働いてるの嫁子供のためなんで。もし下手な出世なんかしちゃって海外赴任でも言い渡された日にはその場で辞表出す腹積もりです。俺、嫁と子供のそばにいなくちゃ生きてけないんで」
「そうかぁあ…」鹿島君はウンウン頷き、それからふっと首を傾げた。
「奥さんを一緒に連れては行けないの?その方がストーカー被害に遭った土地からも遠く離れて、奥さんにも良い気分転換になるんじゃないか…?」
「昔ながらの土地に根ざした街の花屋やってるんです。うちの奥さんの実家。ゆくゆくは妻が家業を継ぎます。働いてるときが一番幸せそうで輝いてて、古典的生け花の腕前もプリザーブドフラワーを使ったアレンジメントも凄腕で、海外でも認められてて、本人の体が一つじゃ持たないくらいあっちこっち式典やら撮影やらに引っ張りダコですよ、僕の奥さん。新規事業まで拡大したがってます。正直、俺より稼いでるんじゃないかなぁ。俺は仕事嫌いなんで専業主夫になりたいくらいですがオムツ替えるのも嫁の方が手際が良いんすよ。俺は何事にも中途半端、その代わり誰の代役もいざとなったら引き受けられる、余力を常に余らせてその日を締めるのが好きな中くらい人間なんです。
高校時代、何部に入るか中三まで悩んで、本屋で拾い読みした野球本に書いてありましたよ、『真のプレーヤーは常に片時も気を抜かずに緊張してなどいない。競技中にも肩の力を抜いて休むことが出来る者こそ一流になる。爆発的本領を発揮すべき時は一瞬、その場面に備えて』嫁にも『あなたが一番ほどほどで私の都合に良かったから』選んだ結婚相手だった、なんて言われますよ。ストーカー被害に遭ってた時期には俺にしがみ付いてピイピイ泣きじゃくってた癖に。でもバリバリやってるときとメソメソ泣き付かれるののギャップにやられましたね、学生時代は女泣かせだった俺も…『この辺が年貢の納め時だな』って腰を据えさせてくれた女性です。僕の奥さんは」
「なるほどなぁ…」
「結局、奥さんと俺とが共働きを続けていける方がストレスはお互い少なく、家庭に流れ込む収入は多いですし、お互い何か仕事はやってる方が元気が出ます。奥さんは俺に『出世しろ』『海外エリートコースで叩き上げて貰ってこい』なんて言ってきますが、俺はほどほど、そこそこを超えないプロなんで。愛する嫁子供のいる幸せな家庭から遠く離れて、余計仕事しなくちゃいけなくなる立場に押し上げられて、65まで泣きながら重責に堪え家に帰る時間も割に合わないくらい遅くなる役職なんか全然全く貰いたくないですもん。キャリアとか名誉なんか別にいらねっす。他のやつに全力パス。もしクビになって転職してもこの生き方は変えません。俺はほどほど、中くらいの天才なんです。この才能を欲する働き口はこの梅田に他にもごまんとあるはずです。俺は結構どこででも輝ける男です。ただこの俺なりの独特の輝きを見抜ける才能が面接官やお偉方の方にちょっとまだ無いらしいだけ。
先輩みたいな常にヒリヒリ、毎日限界を超え続け、キッチリ仕事で全力使い切って終わる、みたいなストイック人生、俺には向かないです。尊敬はしますが、ちょっと可哀想でもあるというか、見ていてこの人ずっとこのままで行くつもりなのかな、大丈夫なのかな、いつかどこかでポキンと折れたら…と心配してましたよ」
鹿島君は言葉も無く頷いた。
人生なーんにも考えずに能天気に生きていると思っていた後輩が、実のところは、生き方は自分よりも遥かに一枚上手で、こういう何事にも盲目的に必死になりすぎず一歩引いて物事をよく見ているやつこそ、今は家庭に力を入れるべき時だな、とか、今は放って置いて大丈夫そうだから俺も別のことをしていよう、とか、一番必要なところへ身を投じられ、守るべきものをしっかりと生涯守り抜けるのかもしれない…
改めて、ストーカーから自分の家族を守り抜いた男の顔を見てみると、黒黒とした太い眉がキリリとやるところではやる負けん気を感じさせ、頼りがいのある頼もしい男にしか今は見えなかった。
「真の一流は肩の力を抜いてプレイする、か…」
「そして肩の荷を預けてください。俺にも。」
鹿島君は頷いた。しかし、どこから語ろう、この長い物語の始まりは自分の高校生時代に遡るが、これまで他人に一から物語ったことなど一度も無く、上手く要約して掻い摘まんで話そうとしても、慣れてないから、言い表せる始まりの言葉さえ思い浮かばなかった。眉を顰めてばかりで一言も発する前からもうくたびれ始め、指だけ上げて、前川君のポケットを、携帯の膨らみを指差した。
「もう一度その写真を見せて」
「これですか」
「この女性に見覚えがあるんだよなぁ」
「それはさっきも聞きました」
「この男は本当に俺では無い」
「それも聞いた」
「…この女性、俺が昔探し回っていた元彼女の情報を何かちょっとでも知っていそうな人に見えるんだ…」
「もしかして先輩がストーカー側なんですか?」前川がギョッと椅子ごと身を引いた。
「昔付き合ってて今は逃げ回ってる女性を捜すなんてやめてくださいよ!そんなことなら俺は協力致しかねます!」
「違う違う。今は捜してないよ。お前が喋れって言うから喋ってるんだよ?・・・昔々、別れ際がいつだったのか有耶無耶にして、サヨナラも何も言わず、置き手紙も無しに、僕の家に自分の荷物をごっそり残したままで、消息を絶った彼女がいたんだよ。心配するだろ?普通…」
「そうか、確かにそう言う事なら。まぁそうですね。携帯はまだ無かった時代ですか?」
「あったわ。お前、馬鹿にするなよ」
「電話したんすか?」
「かけても出なかった。もともと家出少女を僕のうちに転がり込ませたような感じの同棲だった。僕は当時、彼女の仕事を辞めさせるのに必死で、朝も昼も夜も金を稼ぐのに外に出て、結局、仮眠を取りに帰るくらいだったから、家で彼女は退屈してたんだろうなぁ。野生の鳥みたいに、閉じ込めてはいけない人だったんだ。…帰っても彼女が居ないということも時々出て来た。そしてそれが増えていった。徐々に徐々にだったから、僕も毎回キツくは叱れなかった。『僕が働いてキミを養うためこれだけ頑張ってるんだから、キミは絶対に家に居てくれ!』なんて。養われるのなんてそもそもあの子は求めてなかったんだろうなぁ。ただ僕を気に入って付いてきてくれただけだったのに…あの当時は彼女の稼ぎを減らしてしまった分だけ自分が補填しなきゃと頭いっぱいだった…」
「その彼女は何でそんなに稼いでる人だったんですか?」
「水商売かな」
「あぁ-…若い内は敵いませんよね。どう頑張ったって。俺もヒモしてたこともあるんで分かります。こっちが朝早くから出掛けて夜中ヘットヘトになって汗みずくで命懸けで稼いできた一万五千円握り締めて帰ってきても、彼女は夕方からちょっとお化粧して香水振って飲み屋に3,4時間出るだけで、肘にシャネルの新品バックを引っ掛け、ほろ酔いの上機嫌で増やしたお得意さんの名刺を綺麗なネイルの指に挟みタクシーで帰ってくるわけですから。必ずたっぷり余るようにタクシー代も貰って。そんなの毎日見せられてたら馬鹿らしくなって、頑張るの諦めちゃいますよね…
ヒモになろうとしてなるわけじゃない。彼女も唆すし、『今は私が稼ぐからあなたは家に居て私の身の回りの世話してて。そして疲れて帰ってくる私を抱き締めて癒やすの担当して♡』って。そら『はい♡ニャ~ン♡』って甘いヒモ生活に身を堕としますよ。だって好きな女の子に抱かれ感謝されて一日中家でゴロゴロ寝転がってゲームして欲しい物は何でも彼女に買って貰え、ちょっとコチョコチョッと家事するだけですよ?僕の下手な手料理よりも外食とかお菓子とか食べて生きてる子だったから、俺がやるのは洗濯と掃除だけ、それも『あまり物を動かさないで。触らないでそっとして置いて』って、掃除も取り上げられ、『クリーニングに出す服だから…』って洗濯物も出なくなり…とにかく癒やし、ベッドでの優しさの方を何より重視する彼女だったから、何かもう、ほとんど抱かれてあげるのだけが僕の役目でしたね」
「お前…色々やってんなぁ…」
「まぁ一通りは。それなりに。」
「お前、尊敬するよ。前川君。いや前川殿とお呼びしようか。僕なんかよりも余っ程、人生経験豊富そうだな…」
「いやいや、またまたぁ。先輩の話聞いてたはずじゃなかったですっけ?どこまで聞きましたかね?」
「自分の話するよりもお前の話の続きが知りたくなっちゃった。それで何でその素敵な生活とリッチな彼女はキミの人生から退場しちゃったんだい?」
「子犬を貰ってきたんですよ。彼女。ブリーダーもやってるお得意さんから。確か名前はマービュラスプレシャスファビュラスちゃんとか、そんな名前付けてたと思うな。最初は冗談半分で。『私が居ない寂しい時間も遊び相手が欲しかったでしょ』って、彼女も僕の次にその犬を位置付けてたんです。それが、『私が居ない間に…』って言い付け通り、俺がマービーの散歩したり躾したりシャンプーしたりおやつで釣ってお手やお座りや簡単な芸とか覚えさせたりしてるうち、俺にばかり懐くようになって、なんだか面白くなさそうな顔し始めて。彼女。」
「なるほどね」
「ある日、『自分がやる』って言うんで、彼女がマービーの餌をやったんです。『お座り、待て』はちゃんとできました。でも、食べ始めた犬の頭を彼女、『お利口ね~』って撫でようとしたんです。僕も先に注意してたら良かったんだけど、可愛い顔したマービーちゃんだけど食い意地だけはしこたま張ってるやつで、ガブリッて思いっ切り噛み付いたんです。彼女の手に。彼女ビックリ仰天して、反射的に振り払おうとした手に犬はまだ食らいついて、旗みたいに振られて体が宙に浮いても歯を噛み締めてました。一度『良し』と言った後は食べ終わるまで飼い主でも手を出させない子犬だったんです。マービーちゃん。…なんか、僕、何故かメッチャクチャ笑っちゃいまして。マービーちゃんを彼女の手から引き離した後、死ぬわけじゃない傷だって、ちゃんと分かって一安心してからですよ?なんだろう、思い出さないようにしようと頑張っても頑張っても、食らいついて離さず、体ごと鯉のぼりみたいに振られてはためいてパタパタ言ってたマービーの垂れ耳が脳内再生され続けて、ずーっとなんだかツボっちゃって。彼女はプンプン怒って自分で救急車を呼んでました。『手に風穴が空いた!!』って言って。『化膿して体中にバイ菌がまわってあたしが死んじゃったらどうするの?あなたどうやって生きていくつもり?笑い事じゃ無いわよ、笑い止みなさいよ、指が動かなくなったらどうするの?!』って。でも指はちゃんと付いてて動いてるし、それにそんなに怒れる元気があって死ぬようには見えないですもん。俺も笑い止もうとはしますが、なんか…ねぇ…別に悪意は無いんだし…
でも今から思えばあの日以来、彼女の僕を見る目付きに何か、蔑みみたいな憎しみみたいな、許し切れてない不信感みたいな、怨念を感じるようになって…
僕は子犬の餌やりもおやつやりも禁じられ、それでも犬は僕の方にまだ懐いていたから、犬との散歩も禁じられ、終いには犬に自分からモーションかけたり話しかけたり目を合わせる事まで全部禁じられ、最終的に犬と彼女がベッドで寝て俺はトイレの場所を忘れちゃったマービーがそこら中で糞尿を撒き散らしてる床で寝るように言い渡され、犬よりも後で飯を食うように言われちゃったんです。マービーが国産の無添加の高級ペットフードだけじゃ無く、食べきれないほど色んな新しいおやつを見付ける度買って帰ってきて貰えるのに、俺は毎日毎日吉野家の牛丼一択になりました。彼女の仕事中にコッソリ犬のためのおやつを囓らせて貰うひもじい日々。天然の鹿肉のジャーキーとか、子犬の歯を鍛えるため用に薄味でメッチャ硬いんだけど、噛み締め続けると噛む程味が出て来て、旨いんすよ。結構。犬用無添加野菜ミックスとかも。旨いんです。他に食べる物が無いと。ちょちょぎれてくる涙の塩味がして、
『ああ、自分は…彼女から見た自分は、人としての尊厳を本当に地に堕としたんだなぁ、これは明確に犬以下の扱いだ』とそれでようやく気付かされたんです。それでもまだ彼女がヒトの雄として自分を抱き締める役割を僕に与えてくれてたら、俺も相当頭がおかしくなるほどその子にゾッコンその当時は惚れてのぼせ上げてたから、そんな奴隷扱いもまだ長引いてたかもしれないですけどね。彼女、マービーを抱いて寝て、一ヶ月間続けて僕をベッドの上に上がらせなかったんです。風呂上がりでも『あなたは犬の汚物臭い』と言って。生理でも無いのに。それで俺、とうとうついに『ああ、もうヒモとしての俺のここでの役割は全く失われていたんだ』って理解しました。んで、彼女に買って貰った自分の金目の荷物を仕分け、彼女が居ない間に、一人にされたことがなくてキュンキュンクーンクーン鳴いてるマービーにお別れの投げキスをして、『バイバイ、アミーゴ。今日から俺はお前のライバルを卒業する。引退試合もボロ負け、完敗。お前に彼女のことは全面的に任せた。これからは癒やしだけじゃなく番犬としても機能しろよ、マービー!アディオス!』そして、その天国であり地獄にもなった古巣を捨てて娑婆に出て来たんです」
「ほおお、」鹿島君は深い溜息を吐いた。
「売れる物はその日のうちに全部売り払って、それで自分で一人暮らしする部屋を借りて、『やっぱある程度は自分で働いて稼がなきゃなぁ』と思い、この会社の面接に応募したんです」
「良く受かったなぁ」鹿島君は感心した。
「俺、面接は結構受かるの得意なんです。偉いさんが何人並んでても、昔からあまり緊張しないんで。喋るの好きだし。履歴書の書き方も、アレは、コツですよ」
「どうするの?」
「極太の文字で、力を込めて、強い筆圧で書くだけです。内容なんて就職部の先生とか職安のおっちゃんの言う通り上手いこと適当に書いてれば大体書類選考は通ります」
「この会社の履歴書はネット応募じゃなかったかなぁ?…さては裏口入社か?」
「そうでしたっけ?履歴書作成アプリとか取ったかもしれないですね」
「そうか…なるほどなぁ」
「今度ヒモになるときも僕に相談してください。」
「うんん・・・もっと若い内に経験しておくことだったかもな。一度の人生だから…」
「ヒモになるのに遅すぎるなんて事はありませんよ!今日からでも成れます!!先輩にその気があるなら!!何事もやる気次第っすよ!!」
「いやぁ、まぁ、今のところはならなくて大丈夫かな…」
「何の話してたんでした…?」前川君がキョロキョロ目を上げて他の、耳をそばだてながら自分の仕事を黙々片付けている同僚の頭を見回した。その時ちょうどコーヒーを自分のカップに汲んできた帰り道に通りかかった五郎がふと二人の横で足を止めて、話しかけてきた。
「何の話してるの?取り返しの付かないミスが見付かった?」
「いえ。こっちの話です。先輩のストーカー?先輩がストーカー?そんな話でしたね?元々は…」
「あ、部長…」鹿島君は椅子から立ち上がり、傾いてこぼれているなみなみコーヒーの入っている五郎のコーヒーカップに手を添え、世話を焼かせる上司を彼の席まで送り届けた。
それからまた自分の席に戻ってくるまでの短い間に、こちらをニコニコ待っている前川の顔を見返しながら、鹿島君は決めていた。やはり、プライベートにあのノリの男を絡ませるのはやめよう。このデリケートかつ危険かもしれない問題は自分一人の手で解決したい…
「前川君。もう大丈夫だから。悩み聞いて貰えて助かったよ」
「そっすか?俺まだなんにもしてない気がしますけど…」
「いつかその時が来たらキミの手を煩わせるかもしれない。」
「いつでも言ってくださいよ!そういう仕事の方が俺、得意かもしれないし、やる気も出るんで!」
「そうらしいな」鹿島君は苦笑いして頷いた。
二人は自分のパソコンにそれぞれ向かい合った。聞き耳を立てていた周りの仕事仲間達もやがては自分の目の前の仕事に集中し始め、午後には、ようやくこれまで通りの退屈で平和で気の抜けない忙しさの日常がまた戻って来た。
週末はいつもの本屋で由貴と待ち合わせた。
偶然を装ってぶつかってくる大人になったユキの姿もなければ、はらはらとハンカチを落として拾わせる第四の新たなる美女も出現せず。ただ珍しいことに、由貴は約束の1時間も前に現れた。今日は遅れていないのだから、走って駆け寄ってくる演出の必要など無かったのに、はぁはぁ息を切らせて。羽ばたいてきた小鳥が羽を休めるように、テーブルの上に置かれた鹿島君の右手の甲にサラッと自分の手を重ね、それからすぐまたその手を引っ込めた。
「早く。鹿島君。早く行きましょう。会いたくてたまらなかった!」
「僕もだよ」
「あなたの家に連れて行って?」
「僕の家に?」
「そう」
「なんで?」
由貴は可愛らしく首を傾げた。「なんで駄目なの?一人暮らしよね?」
(盗聴器でも仕掛けるつもりだろうか?)鹿島君は相手の丁寧にマスカラを塗られた睫に縁取られた左右完璧に対称の目をジッと見詰めた。
「汚いよ。男の一人暮らしなんて。ホテルの方が断然綺麗だよ。今日は部屋ももうとってあるし…」
「じゃあ来週は?」
「来週も会える?」
「これからは毎週会いたい。本当は毎日でも会いたいけど…隔週じゃ我慢が出来なくなってきたの…あなたに会えない日が辛くて、辛くて…でも、お金もかかるでしょ…いつもホテル代を出して貰っていたら…」
彼も首を傾げた。下唇を親指で押さえ、眼鏡のズレを元の位置に押し上げ、それから頷いた。
「じゃあ僕の部屋へは来週案内するよ。女性を招待できるくらいなんとか片付けるのに一週間ちょうだい?今日はホテルへ…」
「うん!」由貴は今座ったばかりの鹿島君の向かいの椅子からパッと立ち上がった。鹿島君の腕に腕を絡ませたくてたまらなそうに、熱い眼差しで彼の腕をジッと見詰め、彼も見詰められる腕の神経が研ぎ澄まされ血が集中してきて左腕ばかりがなんだか熱くなってきた。しかし人の目がある街中だから、コーヒーカップを返却口に返し、二人は指一本触れ合わせず、少し離れて歩き出した。鹿島君が由貴の先に立って歩き、たまに振り返ってちゃんと彼女が付いて来ているのを確認しながら、そのいつも通りの綺麗に整った髪を見下ろし、考えた。
(僕の家に仕掛けたい物があるなら仕掛けてごらん。盗聴器でも何でもさ。盗み聞く内容のある話など誰ともしない。僕なんかの家を何時間盗聴して聞いていてもおじさんのクシャミと屁と鼾と目覚まし時計の鳴る音くらいしか聞こえないよ。喋るのはテレビとかラジオだけ…退屈で死んじゃうよ…?)
小柄な由貴、愛おしい由貴、何層もの奥深さを持つ由貴、もうよくよく知り尽くしているようで、まだまだ謎多き女、ベッドの上では骨が軋むまで抱き締めることができ、彼女の最後に残った息が肺から押し出される細い呻きも聞き取れる。(このまま更に力を込めれば殺すことも可能だ…)彼女の肩に両目を押し当て、(もういっそここでこのまま死んでしまいたい、この人を殺してから僕も…)と思われる。(謎も未解決の不思議も全部そのまま封じ込めて、命を閉じたい…全て終わらせ永遠に一つになりたい、この人と…今を永遠に…)しかしいつも必ず鹿島君は最後にはソッと由貴の体を放してあげる。可愛い彼女がヒュッと息を吸い込み、噎せるのを聞く。
由貴に彼女を必要としている子どもがいるからでも、旦那さんがいるからでも無い。まだ自分も罪を背負わずに生きていたいから、これからも死にはしないで何とかどうにかやっていけそうだから、一時の辛いお別れにも慣れてきたから、だから放してあげられるのだ。
「先週はキミの後をつけてたよ」
鹿島君は由貴の目を睨むように見詰めながら鎌をかけてみた。由貴は喉の奥まで含んでいた彼の坊やをゴクンと喉を鳴らしてからそっと浅めに咥え直し、深く頷いた。力がこもっている根元にまで、揺れが伝わってきた。
「知ってた」口から全て出さず舌足らずな口調で彼女が返事した。「途中から気付いてたよ」
「いつから?」
彼女は口淫をやめない。涎を溢さないよう器用に舌舐めずりしたり、指で押さえたりしながら、彼の陰茎を口内に含んだまま話した。
「さぁ?あなたがどこかから私の生活を覗いて見てるような気がしだしたのは、もう一ヶ月以上前から」
「実際に僕がキミの後をつけていたのは先週だ。あのイヤーカフ、欲しい?アガットの」
由貴の目が見開かれ、口から鹿島君の陰茎をズルリと吐き出して、片手に握り、もう片方の指先で口元を押さえた。
「本当に?私の後をつけてたの?鹿島君が?」
「ごめん。由貴さんをもっとよく知りたくて…」
由貴は何事か考え込む目をしながら、とりあえずまた彼女のおしゃぶりを口に含んだ。
「いつもどこかからあなたに見られてるような気はしていたけど、それは自意識過剰なだけなんだと思ってた…」
「ごめん。」
「見ない方が良かったでしょ?」
「そんなような気もするし…もう何を見たってキミを嫌いにはなれないって自分の心にも気付けた、だから良かったのかなって気もする…」
「私もあなたの後をつけた事あるの。知ってた?」
「いつ?」
「教えてあげない。でも私はあなたを尾行して、それであなたがようやく嫌いになれた。それで良かったと当時は思った。今はまた違うでしょうけど…」
「学生の頃?」
「正確には卒業した後、春休み」
「そうか…」鹿島君は甘噛みする由貴の頭を両手を伸ばして撫でた。濡れない水のようにサラサラしていて、指の間に滑り込み、ツルンと纏まるシャンプーの宣伝が出来そうな髪を弄んだ。
「キミの方から俺をフってきたんだぜ」
「そう。あの時は…だけど、あなたの事はまだ凄く好きだったの。別れた後も。凄く。あなたからの愛され方には疑問を持っていたけど、…これなら片想いしてた方が幸せだと思ったの…でも…難しいね、説明をつけるのは。…だけどもう終わったことだし…複雑なのよ、子どもだったし…あの頃は」
「恋愛って子どものままの心でする部分が大きいよ。信じる気持ちが無い人に魔法がかかりにくいみたいに」
「そうかな?大人になってからは大人の恋をしてる。私は」
「キミは僕を安全な遊び相手だと思ってるんだね」
「そう。危険な火遊びも安心して出来る大人な人」
「…そうかぁあ…」鹿島君は起き上がった。シーソーのように、由貴の肩を掴んで押し倒し、騎乗位から正常位の体位に移した。由貴の裸の白桃色の腿を撫でた。
「今日は避妊しないで。出すときも、中に…」
「安全日なの?」
「どうでも良いの。鹿島君をもっと最後まで欲しいから」
避妊せずに最後まで突き進み、そのまま放つのは何年ぶりのことだったか?鹿島君は最初から最後まで由貴の目を見詰めていたが、その瞳の中に雪や、ユキ、その他大勢の女性達が見える気がした。こちらを覗き込む由貴の脳裏にも、自分では無い男が映っているのかもしれないと思えた。それでも、彼女を愛していた。
続く