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お城  作者: みぃ
33/40

10-3 由貴3 

 普通電車を降りた彼女が真っ直ぐ向かったのは暖簾の古びた町の小さな和菓子屋さんだった。

それまで普通に道の端っこをテクテク歩いていた彼女が、突然フッと横道に吸い込まれるようにしていなくなったように見えて、鹿嶋くんは自分の目を疑った。急いで彼女が最後に見えていた辺りまで駆け寄ってみた。ちゃんとした曲がり角はもう少し先で、彼女は狭い薄暗い横道の路地裏に入り込んだらしい。お酒の瓶や煙草の吸い殻や猫の餌の皿やレジ袋などなどが散らばって落ちている、暗くて見えにくい奥は吹き溜まりになっている路地裏の、配管の向こうにあるらしい裏口のドアの鍵がカチャンと閉まる音がした。

「来たよ~」だか「おはよ~」だか言う由貴の声も店の中から聞こえた気がした。

その裏口は、表の道に面して今日は店を閉めている和菓子屋さんに通じているらしかった。

『水曜定休日』と書かれたシャッターの文字を見て、

(ああ、なるほど。そっかそっか)と鹿嶋くんは合点がいった。

(ここでも掛け持ちして働いてるんだ。働き者だなぁ。由貴さんは…)声をかけて引き留めたりして迷惑をかけないで良かった,自分と会えない間に彼女が何をしてるのか少し覗いて見ることが出来て良かった、安心したし流石彼女だと感心した…と彼は思った。

今日は明かりが点っていない薄暗い店内のガラスケースの中には、鹿島君の手のひらにいくつも載りそうな小っこい丸っこい可愛らしいぽい色とりどりな和菓子が整然と並んでいるみたいだった。道端から覗き込んだだけでは、よくは見えないが。どら焼きとか羊羹とかボーロとか最中とか、日持ちのするものはケースの上に籠に入れて積み上げてある。奥に仕込み場があるらしく、ガラス戸に手を当てて覗き込んでみると、台の上に卵色の大きな盆が積み上げてあるのが見えた。調理場の奥の方には仄明るい電球が点っていた。

店は定休日でも、手間のかかる仕込みは今日もやるのかもしれない・・・キュンとお腹が空いてきそうだ。そこはかとなく甘い香りも漂って来そう・・・

(二つもアルバイトをしてたから、それでいつも時間に追われてたんだな…頑張り屋さんだなぁ…由貴さんは・・・)

(今度会ったときに和菓子の話題を持ち出してみようか、「俺結構和菓子好きなんだよなぁ、バレンタインは別にチョコじゃ無くても、餡子でも良いのにね?」なんて言ってみたりして・・・そこから話が広がるかもしれない・・・これまではきっかけが無くて教えてくれなかったのかもしれないけれど、話題に上ったら、和菓子屋でも働いてるんだと別に秘密にもせずに教えてくれるかも・・・手作りの和菓子を僕のために作ってくれるかもしれない・・・)

由貴の柔らかい可愛い手が自分に食べて貰うための和菓子を手作りして、餡子を牛皮で包んだり黒文字で手鞠の模様を刻み込んだりする愛しい光景を想像して、口元を綻ばせながら、帰ろうとして来た道を引き返しかけた時、頭上で二階の窓がカラカラ開く音がして、くっきりした由貴の声がした。それは開けた窓の内側にいる誰か鹿島君には知るはずの無い人物に向けられた台詞だったが、道の外にも降って来た。

「先にお風呂入ってて。ちょっと換気してから行くから。私も…」

鹿嶋くんはショックで息が詰まり、両耳を塞いでその場にうずくまりそうになった。聞き間違いようがない。由貴の爽やかな喋り方やリズムやあの温かく分厚い舌の上を転がって出てくる湿り気のある甘い声は世界中の他の誰とも聞き間違えるわけがない。短い一言だったが、よく耳に聞き馴染んだ台詞でもあった。鹿嶋くんとホテルの狭い個室に入った時にも、彼女はよくそう言うのだ。

『このお部屋、変な匂いがする…ちょっと窓開けるね…』

『鹿嶋くん、先にシャワー浴びてて…私も後から行くから…』

彼女は自分でも煙草を吸う割りに、密閉された室内の空気の匂いには敏感だった。いつも煙草を吸う時は窓辺に立ち腕を体から離して伸ばし、髪や服に匂いが付かないように、煙が外へ出るよう手首を窓の桟に引っ掛けているか、換気扇の真下に立って高速で回転する刃に向けてふうっと尖らせた唇から煙を吐いていた。

この頃では鹿嶋君もホテルの小部屋に入った瞬間に一呼吸して、一歩後ろから続いて入ってくる由貴が何て言うか予測できるようになっていた。彼女が声に出して言う前に、換気扇のスイッチを探し、硬くて動きにくい窓を力を込めて開けるのが最近では彼の役目になっていた。

 今、この和菓子屋の二階の窓辺、自分の頭上に立っている由貴がどんな風に窓枠に凭れ、煙草を吸っているか、スカーフを片手で外し、コートの腰のベルトをどのように緩めているか、鹿嶋君には見えるように目に浮かんだ。

『・・・娘は私が煙草を吸う事を知らないの』と彼女は言っていた。

「旦那さんも?」と聞くと、

「さぁ。旦那の前で吸った事あったかどうだったかももう思い出せない。…本当に覚えてないなぁ、多分旦那も知らないんじゃないかなぁ。お互い、相手が何しようが興味が無いわ」

と煙を見ながら呟いていた。

彼女は大学時代に付き合った男の影響で煙草を覚え、妊娠が分かってからは一本も吸わなくなり、娘さんが入院し旦那さんが帰って来なくなり出してから、眠れぬ長い夜に再び新しい煙草に火を点けて吸うようになった。マッチ売りの少女みたいに凍えて火を灯す煙草の本数は夜毎増えていった。指ににじり寄って来る炎は愛らしく温かく、揺れて立ち昇る細い煙が、自分一人しかいない部屋の中で唯一の動く存在だった。煙や吸い殻の香りは、バイクの事故をきっかけに別れなければならなくなった男を思い起こさせた。口寂しくなると昼間にも吸うようになった。親指をチュパチュパ吸う子供と同じ、大人のおしゃぶり。昼間人前ではアイコス。でも夜は本物の炎と煙が出るケント。

『あなたが煙草を吸うようになったのと多分、同じ時期よ。私も』と由貴は言った。

『私も、昔付き合ってた人と別れてから、その元彼が吸ってたのと同じ銘柄の煙草を吸うようになったの』

『香りが懐かしくて?』

由貴はうん、と頷いた。『付き合ってた頃は煙たがってたのに、別れてからは恋しくなって』

『僕が煙草を吸い始めた時期がどうして同じだと分かる?』

『人伝に聞いたの。あなたが付き合ってた人と分かれたみたいだって…』

『そうか…』と鹿島くんは頷いた。『煙の不思議な静かな動きに癒されるよね…いつまでも見てしまう。白いリボンの最後の先端が空間に解けて消えていくのを…』

 最初の夜は、鹿嶋くんが煙草の箱を見せながら『吸って良い?』と聞くと、由貴は黙ってニコニコ頷いた。夫婦の寝室の窓を開けに行こうともせずに、鹿嶋くんの腕枕から頭を起こさず、『私にも』と彼の手首を引っ張るので、彼は、自分が火を点けた煙草の吸い口を彼女の唇に寄せ、一本の煙を交互に吸った。

灰皿が無いね、と鹿島くんが囁き、そこにコップがあるから中に落としてと由貴が囁き返した。今のこの瞬間の繊細な幸福感を下手な身動きなどして壊してしまいたくないのだと恐れる由貴の気持ちが鹿島くんにも伝わって来た。彼も全く同感だったから。だから、最初の夜には、由貴がこんなに煙草の匂いを本当は気にかける人だと知らなかった。

鹿嶋君と出会う以前に由貴が吸っていたのはケントだったが、再会したあの最初の夜以降は彼がいつも吸うのと同じメビウスを彼女も吸うようになっていた。

(でもそれも俺の目の前でだけだったのかも知れない…)鹿嶋くんは思った。


 カラカラとまた窓が閉まる音がした。聞き耳を立てているわけではないと思いたい、全神経を両耳に集めて聴覚を研ぎ澄ませジッとその場を立ち去れないでいた鹿嶋くんの耳に、男性の微かな声が聞こえた。

「お湯が溜まったよ。一緒に入ろう…」その後も何か言っていたようだが、喋りながら二人は窓辺から立ち去ったようだ。男が女の頬に触れ、冷たいな、寒い中よく来てくれたね、ありがとう…とかなんとか言いながら彼女の背に手を添えて浴室へ連れ立って行ったのだろうと鹿島くんには容易に想像できた。自分と彼女の場合も同じだからだ。

 鹿嶋くんも駅への道を引き返して歩き始めた。

これ以上この場にいて由貴の高まった声など聞こえてきた日には、たまらない。閉まったガラスドアを蹴り破り由貴と男を引き離しに和菓子店に乱入してしまうかもしれない。

黙ってジーッと由貴ともう一人の不倫相手が想いを成し遂げて出て来るまで変態みたいに耳を澄まして寒空の下に居続けるのも切な過ぎる。

(なぜ彼女が自分以外にも男を必要とするのかが分からない…)と歩きながら考えた。

(今日が土曜日で、明日は日曜日だ。俺とは来週まで会えない…由貴は今日も明日も和菓子屋と会うのか?俺とは今月は二度しか会わない予定なのに…和菓子屋の野郎とは毎週会ってるんだろうか?…由貴にとって俺は遊びのさらに遊び?だから会えない間はあんなにも素っ気ないのか?和菓子屋は自分とよりも古い仲なのか?今夢中になってる新参者か?この伝統スイーツ野郎は氷山の一角で、他にも由貴には男が山ほどいるんだろうか?・・・)

…旦那さんは娘の入院してる病院の医師だとチラッと前に教えてくれたが、それは本当だろうか?あの和菓子屋が本当の旦那さんだという事はないか?…

…病気の娘の話は本当か?…

こうなってくると由貴の言った言葉の全ての信憑性が怪しく見えてくる。何もかも信じられない・・・


 家に帰っても何もする気が起こらず、かといって何もしないではいられず、本屋に来ても文字が上手く読めず、考え事が出来そうにないほど音が煩いパチンコ屋に来ても、鹿嶋くんは落ち着いて座っていられなかった。もう一度梅田に出てウロウロ、ウロウロほっつき歩き、できるだけ人が多くて賑やかな筋を選んで行ったり来たり、夜が更け歩き疲れて脚がフラフラしてくるまで時間を潰した。何度かあの和菓子屋の前に戻ってみようかと考えてみたが、(いやもう由貴は流石に家に帰ってるだろう…)と思い直した。初めて由貴の携帯電話に電話をかけてしまった。何度も。夜更けに。由貴は電話には出なかったが…これでは教えてくれた電話番号も意味を持たない。

ベッドに横になり、眠らないと・・・と思いながらイライラして、携帯でニュースを眺めていると、由貴からの返信が来た。

“どうしたの?”由貴は電話では無く文章で聞いてきた。まだ起きてはいたようだ。

鹿島君は携帯電話に表示された文字をジッと見詰めた。

(なんて返そう?・・・“今日仕事帰りのキミの後をつけてしまった、”とか?“僕以外の人とも不倫してる?”・・・違うなぁ・・・)鹿島君は目を閉じた。

“話したい”と打ち返した。

率直に思ったのはそれだった。とにかく声が聞きたいだけなのかもしれない。自分と電話するために由貴に彼女の時間を割いて欲しいのかもしれない。彼女が自分と会えない間に誰に抱かれていようと、そんなことは今はもはやどうでも良くて、今、自分のために時間をとって貰いたいのかもしれない。

・・・もともと先の見えない付き合いだったし、ひとの奥さんだという意識も常にあって、そんなに期待してなかったからかもしれないが、ショックも長くは引き摺ってないみたいだ・・・連絡が返ってきたことで少し落ち着いたのかもしれない・・・と鹿島君は自分の心を分析した。

“電話は今できない。何かあった?”

(今夜は旦那さんが珍しく家に帰って来て居るのだろうか?それとも、彼女が娘の付き添いで病院に泊ってるのか?)

鹿島君は大きく息を吸い込み、大きな溜息を吐いた。

“なんでもない。”

LINEの画面を閉じ、部屋の灯りも消して、ひどく消耗した気分で、瞼を閉じた。

(明日も尾行しよう…)布団を引き寄せ、結論を導き出した。

(真相を突き止めなければ落ち着けない。明日由貴を尾行してまたあの和菓子屋に行くか見届けよう…明日は店の前で由貴を呼び止め、説明を求めよう。何が嘘で何が本当なのか、隠し事をしてるなら全部つまびらかに教えて欲しいと本人に真っ向から聞こう。明日は…だから今は眠るんだ…)

そう考えることでやっと気持ちを鎮め眠りに就くことができた。


 日曜日。

由貴は昨日と同じ時間帯にアルバイト先の焼き鳥屋から出て来た。今日はクリーム色のフード付きコート。鹿島君と再会した日の夜に着ていたのと同じスタイル。このコートにはこのブーツを合わせると決めているみたいだ。編み上げ紐が留まるところに品良くキラキラ光る留め金の付いた黒のハーフブーツ。今日も一つに纏めていた髪を歩きながら、首を振って解いた。足早に前だけ向いてスタスタ歩み続けながら香水を手首に付ける。その手首を首に付ける。スカートにも香りを纏わせる。鹿島君は不意にある女性を思い出した。

 夢に登場する過去の意外な人物、意識的な日中の生活時間帯にはなかなか思い出さない、彼の人生の一瞬を流れ星の如く通り過ぎて行ったに過ぎないある大人の女性、・・・名前を思い出そうとしたが、暗闇の中に身をくねらせるほっそりした裸体とユキに似た面影、“あの人だ”という認識だけが脳裏を通り過ぎていった。前だけを真っ直ぐ向いてずんずん進んでいく由貴の、鹿島君の前ではあまり見せない強い大人の女性の表情をした横顔がよく知らない人に見えて、そしてあの人に似て見えて、それで思い出したのかもしれない。大昔に二度ほどしか会ったことは無い、ユキの母だと名乗ったあの人・・・

・・・しかしすぐに彼の頭の中も、周りの風景と同じように景色を変えた。

様々な物思い、雑念を浮かべては消し、別の考え事をとりとめも無く巡らせながら、脚は勝手に動き続け、由貴の後ろ姿から付かず離れずの距離を保って鹿島君を運んだ。

昨日と違って今日は何か降っていた。赤信号に引っかかり由貴が歩みを止めたアーケードの途切れ目で、鹿島君は気が付いた。同じ信号に足を止められた周りの人々も空を見上げ、隣に連れがいる者達は囁き合った。

「雨?」

「みぞれ?」

「わぁ、寒い…」

「雪だぁ・・・」

由貴も空をちょっと見上げた。そう必死に隠れているつもりはないのだけれど、二、三人を間に挟んで数メートルほどしか離れていない鹿島君に、由貴は今日も気が付かない。パート中ギュッと縛っていた髪のあとを気にして、アーケードの柱のミラーになったところに自分の姿を写し、手で撫で付けたり手櫛で梳きながら引っ張ってみたりして、なんとか髪の癖を元通りに整えようとした。その時、銀色の鏡の中で自分と目が合っているのではと思える数秒間があり、鹿島君は眼鏡に手をやって彼女の瞳の正確な向きを見定めようとした。しかし、信号が青に変わり、人々が一斉に進み始めると、由貴もこちらを振り返らず人波に乗って歩き出した。やっぱりすぐ後ろから鹿島君に尾行されているとは気が付いていないようだ。

今日も駅まで真っ直ぐに来て、昨日と同じ普通電車に乗り込んだ。

鹿島君もまた隣の車両に乗った。

女性専用車両の隣だから、周りに立っているのは男ばかりだ。今日は車両の奥に乗り込んだ由貴にちょっとでも近付きたくて、車両と車両の連結部に一番近い吊り革を掴んで立っていた。寂しすぎて、もう何だって許すから、別の間夫に会いに行くこの移動中の合間ででも良いから、自分の隣に立ち自分と話したり顔を見上げたりして欲しい、お愛想で良いから微笑んで欲しい、どんな嘘でも構わないからその優しい声で僕に何か言い訳を言って欲しい、と頼みたくなってきた。騙されてるのはもう分かったから。それでもまだ嫌いにはなれないと、自分の心にも気が付いたから・・・

 由貴が昨日とは違う駅でホームに降り立ったのをハッと窓から見て気付き、鹿島君は慌てて、

「降ります!」

と嗄れ声を出し、道を空けてもらってなんとかドアが閉じる前に同じホームに降りることができた。

(今日はまた別の男と会うんだろうか・・・)もう何を知っても驚かない・・・

由貴の後ろ姿を追いながら鹿島君は悟りの心境に至りそうだった。

(土曜日は和菓子屋、日曜日は何屋?・・・俺に会ってくれる来週の金曜日までキミは毎日別の誰かの腕に抱かれて眠るのか?・・・何でも良い。他の日にキミが誰と過ごそうが・・・そもそも最初からあの人は僕だけのものにはならない人だったんだ・・・予定通り金曜日は俺に会ってくれ。そしてこれからも会い続けて欲しい・・・キミは女神様だ。淫欲の。その果てしの無い魅力と湧き水のような性欲で世界中の虚ろな男達の胸に火を点して回ってくれ・・・)

 由貴の行き先は程なくして分かった。

駅名からも容易に推測できたはずだったが(市民病院前駅)、暗い妄想で視界が塞がり歪んで見えていた鹿島君には、頭上、ホームに大きく掲示された駅名の看板の下を歩きながら、気が付くのが遅れた。この駅で電車を降りた乗客の向かうところは一つしか無いみたいだった。由貴を含め、二階の改札を出てからそのまま広い渡り廊下を歩いて地上に立つこと無く歩いている鹿島君以外の誰もが見舞客か、通院患者か、院内の売店や事務所や患者に向き合って働く医療従事者かだった。

病院の二階受付に直通の広い滑らかな渡り廊下をスイスイ歩き、由貴は消毒薬の香りがする真っ白な蛍光灯の清潔なロビーに吸い込まれていった。鹿島君は白壁とガラス窓と全面ガラス張りの渡り廊下で出来た巨大な要塞みたいな病院を首を巡らして眺め、由貴に10秒遅れて、いちいち大きく開閉する閉まりきることが無いガラスの自動ドアから中に入った。

外の渡り廊下もそうだったが、院内も、脚にギプスをして松葉杖をついて歩く人やパジャマ姿でゆっくりゆっくり手摺りに沿って歩く人、その腰に手を添えている薄緑色の制服姿の介助士、点滴や鼻カニューレに繋がってベンチに腰掛けて話す友達同士など、風景としてその場に馴染んでいる全ての人々が、ここがどんな場所かをハッキリと鹿島君に教えてくれていた。

(今日は娘さんに会うんだ・・・)由貴の全てが嘘とまやかしで出来ていたわけでは無いと分かって、かえって複雑な思いがした。

悪女であるなら徹底して真っ黒な悪女であって欲しかったのか?嘘と真実を混ぜこぜにされると、余計に混乱し彼女をどう捉えれば良いのか分からなくなる・・・でも嘘を吐くのが上手な人は真実を織り交ぜて騙るとも言われる・・・)

エレベーターに乗ってしまう由貴を目の端に捉えてはいたが、流石に同じ箱に乗ったら気付かれないはずは無かろうと、そこで後を追うのを一旦諦めた。エレベーターは混んでいて、車椅子のお爺さんや若い男女、白衣や薄緑色の作業着を着た仕事中の数名の医療関係者も由貴と一緒に乗り込んだので、回数を表示するボタンを見ていても由貴が降りたのが何階なのかは分からない。

 鹿島君は焦らず、観葉植物で廊下と区別する仕切りを作ってあるベンチに腰掛けた。由貴の後を追っているときに早足で追い抜いた真っ白な頭の老夫婦が、ゆっくり鹿島君の座っているベンチの前を通り過ぎていく。お婆さんがお爺さんに

「あなた自分でこれ持ってて・・・自分の書類ですよ」

と言いながらハンドバックからごそごそ“病院からのお便り”を出して渡し、お爺さんは震える手を伸ばして紙の束を鷲掴みして受け取った。

(いつかは自分も、こんなふうに同じくらい腰の曲がったお婆さんにブツブツ文句を言われたり仲良く喧嘩したりしながら一緒に病院に通って、それを孫に『じーじとばーばはデートばっかりしてる』と揶揄われたり、転ばないように歩くためにも手をギュッと繋ぎ合ったり、するんだと思ってた・・・)と人事に微笑んだ。

十代の頃は、何も努力などしなくても大人になれば自然と惹かれ合う相手が隣に立っていて、自然に共に老いていき、当然いつまでも一緒に居ることが出来るだろう、それが普通だと信じていた。二十代、自分は努力しなかっただろうか?いつかから疲れて諦めて開き直ってしまったのは分かっているけれど・・・三十代、今俺は何をやってるんだろう?こんなところにボーッと座って、ひとの奥さんを追いかけ回して・・・

(彼女にも逃れられないしがらみや俺とは相容れない性質があるのだ・・・諦めて帰ろう・・・)由貴に似ている人がエレベーターから降りてきて、人違いだ・・・と浮かせた腰を下ろす度に鹿島君は自分に首を振った。それなのにまだ立ち上がって帰ってはいなかった。彼が帰れる場所は孤独、虚無、灯りを消した、誰も待ってない家だけだった。

時々雪の幽霊が見えそうな気がする丸一日の長い休みの日は、色々どうしようも無いことを考えてしまって沈み込まないよう、出来るだけ起きたらすぐ、午前中に一気に家事を片付けて、お昼からは外へ出てしまうことにしていた。そしてクタクタになって、すぐにシャワーを浴びて眠れる夜までは家に戻らない。それが彼の正しい休日の過ごし方、間違いの無い習慣、習性になっていた。

どうせ時間ならいくらでもあるのだ。

鹿島君は廊下の角に見える売店に本棚があるらしいのを目を細めて確認した。(本を読んでいる時間はこの境遇を脱ぎ捨てて全く違う誰か別の人間の人生を疑似体験できる一時だ。電力の代わりに己の力で体感できるVR。何か読んで待とうかな・・・何を売ってるか見に行こうかな・・・)とチラッと考えたが、結局ベンチから立ち上がらなかった。ここまで来てちょっと目を離した隙に由貴を見逃しては詰まらないと考え直したのだ。

(これから先、誰かをまた尾行するような事があったら、携帯食と時間を潰せる読み物を詰めた鞄を持って出かけよう・・・この人生でまた誰かを追跡したいと思う事があったら・・・)

 由貴は一時間後に現れた。

三台あるエレベーターの真ん中、さっきは一人で乗った同じ箱から、今度は4,5歳の可愛らしい女の子の乗った車椅子を押しながら出て来た。主治医も一緒だった。正面から見えたのは一瞬だったが、あれが由貴の娘の父親で由貴の旦那さんだとすると彼女や自分より一回り近く年上ではないかなと思われた。でも、老いぼれと侮れる要素は一切ない。白衣の内側から漲る精力を発散させるガッチリと張った肩幅、胸板。背も高く、主演を演じる舞台俳優のように背筋はスッと真っ直ぐに伸び、眼光鋭く、野性的な面立ちのなかなかの男前で、銀髪混じりの短いクルーカットの髪と光沢のある緑色のネクタイがよく似合う堂々とした男だった。自分から誘わなくてもいくらでも腕の中にコロコロコロリンと勝手に女性が潜り込んできそうな貫禄。

 車椅子の中でウサギのぬいぐるみを抱いている小さな女の子は血色も良く、ニコニコ嬉しそうに両親を燦めく大きな瞳で見上げ、何やら元気いっぱいに甲高い声で二人に話しかけていた。パジャマの上に羽織った苺の柄のパーカー、白いフリルの付いた小さな赤い靴。ポーズを決めたプリキュアの模様のピンク色の膝掛け。車椅子の上から飛び出しそうにぴょんぴょん弾み、膝掛けが滑り落ちかけて、父母からシーッと窘められ、すぐお澄ましして大人しくなった。二人にいっぺんに構って貰えて嬉しそうなニッコニコの顔をしたまま。子犬のような素直な子みたいだ。ブンブン振ってる見えない尻尾が見えるようだ。一見しただけではこの最高に機嫌の良い可愛らしい女の子の体のどこがそんなに悪いのか分からない。

 三人が廊下を歩いて行った後、鹿島君はゆっくり立ち上がって後を追いかけてみた。

チラホラと雪が舞う中庭から外に出て、三人家族は身を寄せ合い、キャアキャア言いながら急いで、庭のガラス張りの小さな温室に入った。ガラスの扉をピッタリ閉じると、温室の中は温かそうだった。鳥籠型をした全面のガラスが白く曇っている。鹿島君は廊下から目を凝らして温室の中の三人の様子を眺めていた。

女の子が指を差す上方を両親が見上げ、鹿島君も、何か綺麗なハンカチの切れ端のようなものがひらりと空間を斜めにさらに上方へと優美に横切っていくのを見た。まるで水槽の底に三人家族は入り込んだみたいだ。女の子があっちにもこっちにも指を差す上方に、重力を無にして宙に浮く、時を止めるような綺麗な生きた端切れが、ひらりひらりと羽ばたいて舞いながら黄色に白に、黒のレース模様に紫にと、大きいのも小さいのも、一匹また一匹と仲間を増やし、縦横に飛び交っている。熱帯魚のような、羽だけでほとんど出来ている生物。ほぼ美だけを追求して自然界が生み出した1グラムの天女。幻のような光跡。

(本物だろうか?機械仕掛けの何か精巧なオモチャかな・・・)

廊下の内側の冷たいガラスについていた手の下、子供でも押せる高さに設置されたボタン式の自動ドアのボタンの横に、中庭の花壇の植物や温室で育てられている蘭と蝶の種類の説明書きがあった。

『通常は卵で冬を越す蝶も、この温室では年間を通し成虫や蛹の状態も観察することが出来ます』

祖父母の田舎で虫取り網を肩に担ぎ美しい蝶を追いかけ回すのに明け暮れた小学生の夏休みが急に眼前に蘇り、鹿島君は童心に返って、

(僕もあの温室の中に入りたいなぁ・・・)と羨ましく思った。

でも由貴が乗ったエレベーターに同乗するのを遠慮したのと同じ理由から、我慢した。それに今、あの温室は親子三人がいるだけで調和がとれているように見えた。

葉陰に隠れて休んでいた蝶蝶達がはしゃぐ女の子の声に驚いて次々と飛び立ったらしく、由貴とその家族は、激しく振ったカラフルなスノードームの底にいるみたいに、蝶の吹雪の中に埋もれて見え隠れした。娘が笑顔で体調が良さそうだからか、由貴も旦那さんの顔も綻んで輝いているように見えた。

舞い落ちる雪を挟んで、離れた廊下から見ているだけでは、女の子の体のどこが悪いかの分からないのと同じくらい、笑い合っている由貴と旦那さんの仲もどこも悪くは見えなかった。三人は完璧な幸せを絵に描いた家族を具現化しているみたいに鹿島君の目には映った。

(良かった、少なくとも由貴の笑顔が見られて・・・)と彼は思った。

(キミは今日も僕を騙してるつもりかもしれないが、僕は騙されてない。君の頭に今僕は影すらも存在してないだろうけど、キミが幸せそうで僕も幸せなんだよ・・・)

蝶の吹雪が舞いやみ、囲われた羽虫の逃亡を阻むための目の細かい網をくぐって、三人家族が温室から出て来そうな気配を察して、彼はすぐに一通行人でしかない灰色の人影になり、廊下を何食わぬ顔ですーっと引き返した。さっきのベンチに戻って来て座って待っていると、車椅子を押して廊下に戻った家族は、長い間売店に寄り道してから(女の子は色々迷った後にグミを二つほど買って貰えたようだ、)鹿島君の目の前を通って、また同じエレベーターに乗り込み、上階へ消えた。

今度は他に誰も乗ってなかったので、何階で降りたかを知りたければ階数を示す表示を見られたのだけれど、鹿島君は自分の爪先を見下ろしていたせいで、見逃してしまった。でも多分、どうしても本当に突き止めたければ小児病棟のナースセンターに問い合わせれば分かることだ。


 鹿島君はそのままそこに座って待ち続けた。由貴が自分にそっくりな可愛らしい一人娘のお見舞いを終えてエレベーターを降りてきて、家路につくのを待って。

(この後は真っ直ぐ家に帰るんだろうか、それとも男の家に寄ってから帰るのか?男の家に泊まりに行くの?もはや、キミがどこへ行きたがってるにしても、その場所へ無事に辿り着けるよう僕は送るよ。ひっそりと・・・キミの無事を確認したら何も言わずに帰るから・・・)

膝に肘をついて顎を手で支え、エレベーターから降りてくる人々に顔を向けて、ボンヤリ眺め続けた。同じ姿勢でジッとし過ぎて腰が痛くなってくると、ベンチの冷たくて硬い無機質な背もたれに凭れて、さらに待った。頭の中を様々な考えや思いが往来し消えていった。目の前の廊下を色んな種類の人間が通り過ぎて行った。

手の中に捕まえていられなかった野生の少女、満足に相手してやれない時期に可哀想に見ている前で死なせてしまった妻、今も昔も手の届かない高嶺の花・・・

昔は学生証の規定通り喉まで留めたボタンを三つまでしか外させてくれず、そこから先は肌に触れるのを絶対許さなかったが、今は、体は隅々まで開いてくれても、何層もの硬い殻と秘密に閉ざされた本心に近寄らせてくれない、寂しがり屋なのに愛を寄せ付けない、矛盾した、悩める由貴・・・


 右から左へバタバタ走っていった看護師二人が、今度は左から右へ、とぼけた顔をしたお爺ちゃんを両脇から捕まえて連行して行った。

「ダメですよ、野田さん!手術前に食堂行ったりカレー食べたりしちゃあ・・・」

ピンク色のカーディガンを羽織った厳しい顔の看護師が、お爺さんと若い見習い助手を叱った。

「手術前のこの人には特に用心してねって、あなたにも、あれだけ頼んだよね?このお爺ちゃん、とぼけたフリして手術が怖いから、わざと食べちゃうからって。お腹の中に食べ物入ってたら手術延期になるのちゃーんと知ってはるんやから。この人」

「はい・・・すみません・・・」

救急車のサイレンがどこか遠くから近付いてきた・・・と思ったら、いきなり「どいてください!」「危ないですよ!」と叫ぶ声、足音、呻き声とストレッチャー、巻き上がる風、血の香りが一挙に駆け抜け、一時廊下が騒然となった。それからすぐにまた人々がゆっくり行き交う病院の午後の静かな澱んだような流れの遅い時間が戻ってきた。

とてもゆっくり、ゆっくりゆっくりと、カタツムリみたいな速度で、手摺りに掴まってジワジワ、ジワジワとしか進めない、片脚が付け根まで物物しいギプスの青年が、「ダメですよ、まだ一人で勝手にトイレに行ったりしたら・・・戻りましょう・・・ねぇ佐伯さん・・・!」と看護師に叱られ、見守られながら、制止を完全に無視して、歯を食いしばり、廊下の角より先にあるトイレに行って、それからまたガミガミガミガミ叱られながらゆっくりゆっくり手摺りに沿って戻って来た。その顔からはさっきまでの脂汗とまだら模様に上気した煮えたぎるような焦燥がすっかり消えて無くなり、かわりに、晴れ渡った清々しい排泄後のスッキリ爽快感、してやったりな悪戯っぽいニヤニヤ笑いが溢れんばかりに浮かんでいた。

「もおおっ、佐伯さん・・・部屋の尿瓶を使ってください!今度からは!最悪、今度からはお手洗いに行くって、一言言ってからにしてくださいね?本当にお願いしますよ・・・私が師長に怒られるんですからね?もおおっ・・・!聞いてますか?!・・・まだ一人では歩けないはずなんですよ・・・!」

ギプスの青年は鹿島君の視界の片方の端からもう片方の端に見えなくなるまで、終始、歯を食いしばり、一言も付き添いの看護師に返事を返さなかったが、(きっと彼はこれから先退院するまであの看護師の言うことは一回も聞かないだろうな、おトイレに関しては・・・)と鹿島君は彼の表情から読み取った。


 おそらく一時間が過ぎ、二時間が過ぎた。由貴の帰りを待ち始めてからすぐ時計を見なかったせいで、今で何時間待っているのかよく分からなくなってきた。自分もさっきの青年と同じくらいトイレが我慢できなくなってきた。でも私情から、サンスベリアの葉陰からエレベーターを見張れるこのベンチを動きたくない・・・さっきの青年から使わない尿瓶を借りたいくらいだ・・・

脚を組んだり、組み替えたり、腰を反らして重心をゴソゴソ移してみたり・・・それでも我慢が出来そうになくなってきて、そして気が付いた。

 この広い病院のいくつもある娯楽室のあちこちに立ち寄って遊んだり、娘を病室に戻してから親同士だけで別の休憩室かどこかで話を付けたり、説明を受けたり、何やらして、それから家路に着くとしたら、由貴がこの同じエレベーターを使って降りてくるとは限らない。駅と病院は目と鼻の先にあり、一階からでも繋がっている。それにもしかしたら今日は駐車場に停めてあった旦那さんの車に乗ったりして既に一緒に帰ったのかもしれない。まだこの病院のどこかに彼女はいて、帰っていなかったにしろ、ここを通る確率は100%ではない。・・・どのくらいなんだろう?

帰りは真っ直ぐ家に帰るのか見届けようと思っていた。ただ同じ道のりを前後に別れてずっと声も掛けずに歩くだけで良かった。歩く姿も愛おしい彼女の後ろ姿を眺めながら、もし今声を掛けたら・・・あの角の辺りなんかで・・・等と悩む甘い算段も、今日は出来ないのかもしれない・・・

トイレに行って爆発しそうな膀胱を空にし、また一旦はベンチに戻って来たけれど、もうこの僅かな時間差で隙を突いて彼女はここを通って帰ってしまったに違いないという思いに捕らわれた。今日は待ち続けても仕方が無い・・・

裏切られたような気分になるのは間違いだ。ベンチから立ち上がりながら、彼は決めていた。

(明日もやろう。平日の由貴はどんな動きをしているのか・・・見てみたい・・・)


 月曜日。

前々から取れ取れと言われていた有給をとった。仮病を使ったことは学生時代にも無く、生まれて初めてで、緊張のあまり鹿島君は(やっぱり普通に出勤しようか・・・)とギリギリ乗ればまだ間に合う電車の時刻を示す壁掛け時計を何度も確かめながら日和りかけた。

いざ(ええい、)と電話をかけて直属の上司である日サロの五郎に繋いで貰い、

「今日休みたいんです。急ですが・・・すみません」

と言ってみると、五郎は特に理由も聞かず

「良いよ。」と言ってくれた。

「じゃあ休みにしておくね。有給消化ね」

そしてちょっとだけ黙って待ってみてから、鹿島君が休む理由を言いかねていると、

「じゃあ」

と言ってプツンと切ってくれた。


 由貴はパートを終えてから、真っ直ぐ駅へは向かったが、改札を通らず、今日は駅前のカフェに入った。

午後からの予定には規則性が無いみたいだ。

トレーを手にし、パンは取らず、カップ一杯の湯気の出る温かい飲み物を頼み、入り口の見渡せる奥の席に壁を背にして座って、携帯電話を弄りながらも、出入り口に向けて常に気を張っていて、しょっちゅう出入りする人がいると目を上げてチラッと顔を確かめる。その様子で、人と待ち合わせしてるんだなと鹿島君にはすぐにピンと来た。彼はカフェの中には入らず外のガラス張りの壁に凭れて由貴を見ていた。

彼女はふーふーと熱いカップの液に息を吹きかけ、ちょっと啜ってみて、(まだダメだっ!)と言う渋い顔をしてカップを顔から遠ざけ、サクランボ色の口紅を塗った下唇をペロリと赤い舌先で舐めたりしていた。寒がりで早く温まりたくて喉も渇いているらしいのに、猫舌で、熱々の物がすぐに口に入れられないのだ。鹿島君は離れた場所でふふっと密かに微笑んだ。

鹿島君が付き合ってきたゆき達は全員がそうだった。寒がりの猫舌。冬に好んで冷たい飲み物を飲もうとする子は一人もいなかった。ユキはハーブティーを好んで飲んだ。ハイビスカスとかルイボスとかアサイーとかローズヒップとか、天然で赤い色のやつが良いみたいで、カフェインにはかなり偏見を持っていた。雪ならミルクティー、甘ければ甘いほど好きだった。置いてある砂糖が粉でも角でも、スプーンや小さなトングを使って、数え切れないほどどんどこ砂糖をカップにせっせと放り込むので、『その飲み物は紅茶と言うより砂糖入りミルクだ、』と彼はよく揶揄った。

由貴は何を頼んだのか?ここからでは遠くてカップの中身が見えないが、多分コーヒーかなと鹿島君は思った。彼女が一番、自分と似た味覚をしていると感じていた。現在という同じ時を共にしているからなのかもしれないが・・・

雪が生きていたら、ユキがこの場にいたら、彼女たちも自分が記憶している地点の幼さを失い、所作や味覚や物の考え方も変化を遂げ、もはや彼の知る余地のない別人のような大人の女性になっているはずだ・・・


 由貴がパッと椅子から立ち上がった。

(・・・さて、どんな男が来るのか・・・)と身構えていたが、ついに現れた人物を見て鹿島君はエッと声を上げそうになった。由貴と手を振り合い、華やいだ笑顔で彼女の元に駆け寄ったのは若い女性だった。彼もよく知っているが、顔を見るのは数年ぶりだ。由貴の待ち合わせの相手の女性は、五つ年下の鹿島君の妹、ハルカだった。

二人はずっと以前からの大親友みたいに仲良さそうに手を振り合いながら駆け寄り、その振っていた手を合わせて、指を絡め、握り締め、その両手をなおもフリフリした。両腕を広げ、胸を胸に、お腹をお腹にギュッと隙間無く押し当てて、ロープのようにしっかりと四本の腕を巻き付け、互いの首の後ろに口付けるような熱烈な抱擁を交わした。それでもまだ物足りず再会の喜びが冷めやらぬみたいに、抑えた声でキャアキャア言いながら両手で手を繋いだままキラキラ輝く目を見詰め合って小さく飛び跳ね続けていた。下手な恋人同士よりも固い絆で結ばれあった友情。いやそれ以上の熱を感じる。

鹿島君は怪訝な思いがした。学生時代、由貴を自分の妹に紹介した覚えは無かった。彼の家の方が学校から遠かったし、男子が女子を家まで送り届けるものと信じ込んでいたから、由貴の実家の周辺で親や兄弟に自分が頭を下げて挨拶した覚えはあっても、自分の家族の誰かに由貴が会いに来たことは一度も無かった。由貴とハルカには接点が無かったはずだ。自分の記憶違いだろうか?

由貴とハルカは鹿島君とは無関係に、たまたま別のところで知り合って仲良くなっていたのだろうか?




続く



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