10-2 由貴2
鹿島君は由貴を、再会してからは由貴さん、由貴さん、とさん付けで呼ぶようになった。なんとなく。
二人は中学からの同級生で、付き合い出す以前は由貴とは鹿島君、浅井さん、と苗字で呼び合っていたから、その延長線上で付き合いだしてからも苗字で呼び合うことが多かった。今は、
(本当はひとの奥さんなんだ・・・)と言うことを忘れてしまわないよう、それに、鎖のついた首輪でも付けておきたいくらい不安定だったユキや幼かった雪のイメージと違って、外で待ち合わせるとシャンとした立ち居振る舞いでどこから誰に見られても隙がないキチンとした大人の女性に見える由貴には、自ずとさん付けの敬称が似合う気がしたのもある。
二人はよく大阪駅ビルのルクアイーレの九階にある蔦屋書店で待ち合わせた。二人とも本屋さんでなら、相手が何時間遅刻して来ても余裕で待っていられるほど(時に、夢中になり出すと、相手の遅刻に気が付かない事もあるほど)本屋さんは好きだったし、なんとなくこのドーナツ型の書店は立ち読みが公認みたいで、特に居心地が良かった。
「ごめんなさい。2,3時間ほど遅れます」と連絡があれば、スターバックスで飲み物を買ったりシェアラウンジのゆったりした椅子に座って、鹿島君はゆっくり家庭持ちの由貴が用事を終えて髪や化粧を整え直してから小走りで駆けてくるのを待った。(購入をまだ検討中の買ってない本を座って腰を据えて読むことさえ公認らしい、ここは大らかな本屋さんだった。)
そして由貴はよく約束の時間に遅れて来た。
子供は親の予定なんて気にせず愚図る。自分とずっと一緒に居て欲しいからか、ママが用事で出掛けるときに限って特に問題を起こすのかもしれない。物をぶちまけたり、怪我をしたり、体調が悪くなったり、急に隠れんぼの才能を上げてどこに行ったか分からなくなりバーバの家に遅刻したり・・・仕事も急に学生アルバイトの子がとんだり、寝坊したり、「学校で居残りを言い渡された」と連絡してきたりして、そんな日に限って団体客の予定が入っていたりする。
休みの日の時間は使い道がないくらい沢山持て余している鹿島君は、どうせ家に居ても本を読んでるか時間を潰すためにパチンコに行くか競馬場に行くかだし、好きでそうして過ごしているわけではなく、他にすることがないから仕方なく時間を潰しているのだった。自分と会うためにパタパタてんやわんやして用事を終わらせている由貴を想いながら待つことなど、目的なく死ぬまで時間を潰し続けてるようだったこれまでに比べれば何のことはなかった。
「由貴さんの用意が整うまで僕は何時間でも待ってるよ。急ぎすぎて転ばないようにゆっくりおいで。本屋でなら僕はいくらでも待ってあげられるから・・・」
予測不能に動く子供を抱え急な頼まれ事も咄嗟に断れない性格の由貴にとっては、鹿島君は惚れ惚れする頼もしい男だった。
初めてのデートの日(由貴の家で会うのは最初の夜以来まだ一度も無かった。流石に、いつ旦那さんが帰ってくるかとソワソワしながらの逢瀬は忙しなく、二人とももっと思いっ切り互いにだけ集中したかったのだ)、キョロキョロ自分を探して本棚の向こうから現れ鹿島君の姿を見付けるとパッと明るい笑顔になって小走りで急いで寄ってくる由貴を見て、鹿島君は
(ああ、やっぱり素敵だなぁ)と惚れ直し、改めて感心した。
(僕が好きになった女性はやっぱりこの世で一番魅力的な人だ・・・)
ユキのときも、雪のときも、考えてみれば自分から選んで好きになった相手ではなかった。他の二人は状況がそうさせたのだったが、由貴の場合は、中学・高校と思春期の境目の感受性の一番研ぎ澄まされている時期に4年間を通して様々な女性達と身近に接する中で、鹿島君が自から(この子が好きだなぁ)と目にとめ、目で追ってしまう時間が日毎に増し、この人にも自分を好きになって貰えたらどんなに良いか・・・と切実に願うようになり、(他人に取られる前にせめて気持ちだけでも伝えておかなくてはいけない・・・)と眠れない夜を越える度に決意を固め、卒業式の日の朝、
「好きです。付き合って貰えませんか」と学生らしくキチンと告白してから付き合うようになった、人生で唯一の女性だった。
彼女の物を選ぶセンス、目立つことより清潔感を重視した上品な着こなし、細部まで行き届いたこだわりには共感が持てた。彼女もユキと同じで、好みが偏るのかいつも同じようなブラウスにスカートを選んで着てしまっていた。清潔で飾り気が無い中にも、その喉元にはいつもずっと大切にして付けているギラギラ燦めきすぎないダイヤモンドのネックレスが煌めいていた。
例えそれが自分ではない男から贈られた品であったとしても、一つの物をずうっと大事に扱う由貴という人の人柄を鹿島君は一番気に入っているのだ。だから、その可愛い胸の上に揺れて光る憎むべきなのかもしれないハート形のペンダントさえ(彼女は全て服を脱いでしまった後も、鹿島君の体の下でズンズン揺さぶられている時も、彼の上でピョコピョコ弾んでいるときにも、お風呂に一緒にゆったり浸かるときにも、まるで黒子とか笑窪とかみたいな取り外しなど効かない体の一部分であるかのようにそのネックレスを首から外さなかった・・・)それさえも含めて、彼は彼女を愛し尽くそうとしていた。
鹿島君はあんまり愚痴を由貴に聞かせなかった。仕事で溜まった鬱憤は同僚と飲みに行くか煙草を吸うか酒で紛らすかで解消していた。そんなに元々お喋りでもなかった。子供の頃から自分の話をするよりも妹や女の子達のお喋りにふんふんと聞いているフリの相槌を打っている方が得意だったが、年を重ね大人になって行くに連れてその性質にますます磨きがかかってきた。自分が喋るより聞いている方が楽だったし、人懐こい女の子ほど沈黙が苦手でペチャクチャよく喋るものだと子供の頃から思っていた。
由貴は鹿島君と待ち合わせて会ってから、初めのうちはいつもあんまり話さない。いつも事を急いている。ホテルに入るまでは無口で、むしろ鹿島君よりも無口で、最初の夜とは真逆に、
「何か食べ物とか買って行く?喉渇くよね・・・飲み物いる?」等と聞いても、
「何もいらない。あなただけ欲しい。早く行こ」と手短に返事する。
まるで、電池が切れかかっているから節電してる、というみたいに生気がない。
「顔が青いよ・・・今日は体調悪いの?やめとこうか?お食事して、それだけにする?」と気遣うつもりで聞いても、
「あなたが欲しい。あなたと会えなすぎて、それで元気がないの。早く欲しい。鹿島君が。他に何もいらないから。早く行こ」と急いでいる。
まるで鹿島君が今にも逃げ出すかもしれないと常に怯えているみたいに、会ったらすぐに彼の袖や裾をギュッと掴んで、ホテルの個室に入るまでその手を放さない。
情事を終え、鹿島君の腕に抱かれて短いうたた寝から目覚めると、本当に頬は薔薇色の血色を取り戻し、見違えて明るく元気になっていて、まるで死にかけていた人が生まれ返り若返ったようによく笑うようになる。それを目の当たりに見ていると鹿島君も
(ああ、良かった、僕がいて本当にこの可愛い人の役に立てているんだなぁ)と思われ、楽しさを感染するように貰えるのだ。
そしてその後で、由貴は噴火するように急にプリプリ腹を立てて、亭主の悪口をこれでもかこれでもかと鹿島君に聞かせるのだ。
「旦那は私に言ったの、『子供を産んだら母親に徹するべきだ』って。『自分もキミのことはもう娘の母親にしか見えない』って。」
由貴は言われて傷付いた言葉や寂しかった日々の悲しい思い出を鹿島君に語ってくれた。時系列は滅茶滅茶でいつどのような状況でそういう台詞が旦那さんの口から飛び出て来たのか、由貴だって何か相手の胸に刺さって抜けない傷付くような酷いことを言い放った後だったのかもしれないし、そこのところは夫婦の片割れからだけ聞いたのでは分からない。でも、別に公平さなんてこの場の誰も求めていないのだ。鹿島君はできるだけ口を挟まないようにうん、うん、と聞き役に徹してあげていた。まるでそうやって由貴の気を引いているようで、自分が狡い男になっていくような気もしたが、それでも由貴の味方になってやれるのが今は自分だけならそれでも良い、味方になってやりたい、できることがそれしかないなら・・・と思った。
「『一度出産を経験した女はもう抱けない』と言われたの。『そういう気が起こらない』って。こちらから、女のプライドもかなぐり捨てて、なんとか夫の愛情を取り戻せないかと、夫婦でなんとかできないかと、私は限界まで努力した。でも相手が悪過ぎると痛感したの。
隠すべき箇所ほど隠せてないような、情けなくなるみたいな、でも男の人はこういうの好きなんでしょって言うような、ヘンテコな嫌らしい透け透けの下着を着けて、キャンドルのムーディな灯りを点して結婚記念日に夫の帰りを待ってみたり。真珠と紐だけで出来てるみたいなパンティー履いて。『22時には帰る』と言った旦那が23時になっても帰って来ず、掃除でもして気を紛らわせていようと家の中を歩き回ってただけだったけど、ああいうセクシーなんだか面白パンティーだかって、そう長く履いて歩き回るために出来てる代物じゃないのね、安物の偽真珠の飾りが私の大事なところにゴロゴロ当たって、紐は全身の皮膚の中でも一番柔らかい皮膚に遠慮なくギシギシ食い込み、擦り剥けて、(なんか痛いかも・・・)(・・・痛いなぁ)(あれ、本当に痛い・・・)って思って、掃除機止めて、立ち止まって。ソファにソロソロと座って、脚を広げて確認すると、もう赤くなってちょっと血が出てるの・・・窓ガラスに映る自分の姿が目の端に見えて、そちらを向くと、(何やってるんだろう、私・・・)って、情けなくて泣けてきそうだったわ。可哀想すぎて笑えた。
(プライドなんてもう私には微塵も残ってないなぁ・・・)って思いながら・・・それでも、夫と正しくもう一度愛し合えるようになりたくて・・・でも、帰ってきた彼、私になんて言ったと思う?
・・・忘れられないわ。・・・」
鹿島君は頷いた。
「・・・それでも、まだ何度か懲りずにやってみた。真っ正面から『寂しい、愛して欲しい』って言ってみたり。泣いてみたり怒ってみたり、浮気しちゃうわよ、って脅してみたり。でも何をしてもこの人には無駄なんだと分かったの。『僕にバレないようにね』って、できるならやってみればと言う風に、私を馬鹿にして言ってくるわけ!私なんて世界中から女としてもう見られてませんよ、って言いたげなの!
それに、自分の浮気のことだってなんとも思ってない!私のことを家政婦で、子供の母親で、それで食っていけてるんだから十分幸せだろ、当然、幸せと思わなくちゃ罰が当たるぞ、とでも思ってるみたい。養ってやってる、って感覚なんだと思う。かなり。私は養わせてやってるの!嫌嫌!仕方なしに!最初から分かってたら誰もあんな奴と結婚なんか・・・!!」
「そうだね・・・そうだね・・・」
由貴が熱くなってくると、本当に彼女の体温もぐんぐん上昇し、肌は汗ばみ、頬は上気し、二人で包まっている布団も熱が籠もって蒸してくる。プンプン怒って発火しそうな熱い由貴はそれはそれでまた可愛らしいのだけれど、鹿島君は熱すぎる飲み物にフーッと息を吹きかけて冷ますように、穏やかな低い声でシーッと宥め、柔らかな髪を撫でてあげるのだ。
「キミは偉いよ。充分我慢して頑張ってきたんだね」
「男のあなた達が羨ましい。お金でなんとか、肉体の欲求を手っ取り早く解消できるお店がいっぱい溢れてるじゃない?男の人には?」
「まあ。・・・だけど、そういうところに行ったって、結局心は寂しいままだし、体はスッキリした後も、『ああ何やってるんだろう、俺・・・』って、虚しくなるんだよ。なんというか、こんなに世の中が発展して何でも指一本ポチッと動かすだけでスッと万事解決できるようになったように見えても、まだこんな太古の野生の本能に引き摺られて、これからもまだ何度も何度も死ぬまでずうっと、ああいう衛生的でないかも知れないお店のよく知らない女の人にお世話になって生きていかなくちゃ満足に生きられないのかなぁ・・・俺、・・・とか、思い知らされると言うか。物凄く嫌そうに働いてる子も多いしね。やっぱり・・・
まあ、慣れればそういうもんかぁって思えるのかも知れないけどね。女の子の生理と同じような、諦めて受け入れれば、どうって事ない悩むほどのことじゃない事なのかも知れないけどさ。
男も女も同じだよ。男用の店の数はいっぱいあっても、そこで働いてる女の子は男の子よりはまだ大勢いたとしても、結局は同じだよ。
女性用のそういうお店もあるじゃない。男側がサービスを提供するような。そう言うのには行ったことがなかったの?これまで?行こうと思ったこともなかった?女性用風俗って言うのかな?」
「怖いよ。男の人と違って、女の人は・・・相手の方が力が強くて体も大きいんだもん。それこそ見ず知らずの相手だよ?こちらが立場上お客さんだとしたって・・・」
「なるほどなぁ、確かに・・・まぁ、そら怖いよね・・・」
「でもそれでも仕方がないかもしれない、って、真剣に考えるところまできてたの。寂しくて堪らなくて。女として私本当にもうダメなのかなぁって・・・もう誰からも相手にして貰えないのかなぁって・・・
開き直って、私もそういう風にもし一度やってみてスッとするなら、やらずに後悔よりやってみて後悔かな、って・・・」
「キミそういうところ、意外な度胸があったんだね・・・昔は気付かなかった・・・」
「子供を産むと女の人ってちょっと肝が据わるの。『絶対無理!』痛い!とか『恥ずかしくて死ぬ!』って子供さえいなければ思うような事もどんどん、次々、ポンポンポンポン、乗り越えていかないといけない場面に出くわすから、お腹の中の子供の成長は待ったが無いから、それで『もう次に何が来てもどうって事無いわ、私、大丈夫大丈夫、さぁ来るなら来い!!』って、気構えになるの。人一人を生み出そうって言うときには、地球上で誰か他の女性に起こり得る全てのことを赤ちゃんを守るためなら私にだって出来ないはずがない、この子のためになら何だってやってやろう、って思えるようになるの。」
「ふーん、なるほどねぇ」
「鹿島君が日本に帰って来てくれてなかったら、こうして会ってくれるようになってなかったら、私もお金を払って見た目の清潔な男の子とか若い男の子にこのどうしようもない寂しさをなんとかして貰ってたのかもしれないなぁ・・・」
鹿島君は頷いた。由貴も寂しさや孤独の辛さにのたうち這いずり回る夜の経験者だった。もっと早く出会いたかった。けれど、今だからこそ、こうして分かり合え、傷を舐め合えるのかもしれない・・・
「ただ抱き締めてくれるとか、一緒に一晩過ごしてくれるとかだけで良いの。と言うか、もっとリアルに想像したら、知らない子を家に呼ぶってことだから、・・・朝が来るまでただ同じ部屋にいて時々話しかけたら返事してくれるとか、それだけでも良い。なーんにも、それ以外求めないかも。ゲームとかしてくれてたら良い。何なら、寝てても良い。挿入とか、キスとか、そういう病気になるかも知れないリスクがあることは本気で、求めてないから。知らない人に。・・・だけど、もしもそういう男の人を派遣するようなお店に電話して、美形の子と二人きりになったりして、私人見知りだし、次も他の子よりもその子が良いなってなって、寂しい夜はいつもその人をお願いするようになっていって、そしたらそのうち、寂しいなって感じると自動的にその人の顔が思い浮かぶようになっていったりしちゃって、だんだん、だんだん、好きにならないようにしようしようと気を付けてても本当に好きになっちゃったら、やっぱり最後まで全部して欲しくなるものなのかなぁ・・・結ばれたくなるものかなぁ・・・?」
「そらそうだろうな。こいつ嫌な奴だ、どうも好きになれない、生理的にも無理だ、って奴をわざわざ注文しない限りは、いつか好きにはなるよ。そもそも最初の段階で、見た目は人好きのするタイプの子が集められてるんだろうし、選べるお店なら自分の好みで選ぶんだろうし。
相手の男だって、商売でもあるけど、キミみたいな綺麗な奥さんにずっと何度も指名されてたら好感も持つし、絶対ムズムズしてくるよ」
鹿島君は考えるだけでも焼餅を焼いた。存在しない男にすら焼餅は焼けるのだ。そういう店にこれからは俺がいるんだから電話かけてみたりなんかしないでね、と言いたかったが、でもそれは由貴の自由かもしれない。どこにでも由貴はかけたいところに電話をかけて好みの男の子を呼び寄せられる。彼女がそうしたいなら。気兼ねしなくてはいけないのは旦那さんのみで、そもそも鹿島君は、彼女の旦那さんから盗む逢い方をしている身なので、(自分は何も言えないな・・・)と思うのだった。
「ねぇ、また会えるよね、鹿島君?」
由貴は別れ際には何度も聞いた。二人は用心していて、電話や長文のメッセージのやり取りは一切しなかった。大抵別れ際に次に会う日を決めて帰った。会えるのは月に一度か二度くらいだった。鹿島君は休みの度に暇だったが、由貴が忙しかったから。
「次は来月の最後の木曜日ね?」別れを惜しむ抱擁も何度も交わした。
「会えるよね?もしその日がダメになっても、別の日に会ってね?会える違う日を教えてね?」
由貴はしつこいくらい何度も念押しして聞いてくるのに、時間の許す限り必死で鹿島君の頬に頬を擦り付け、力一杯体全身を使って一つになろうとしてくる癖に、一旦別れたら、その後は次に会うときまで一切、連絡してこない。
“愛してる”とか、“会いたいけど会えないね、でもいつも会いたいよ”とか“今何してるの?”とか、普通に恋人ならするような甘いLINEは一通も無し。“今日はケーキを食べたよ”だとか、“寒いね”とか、“星が綺麗”とか、別に旦那さんに見られたとしても何を疑われようも無い意味も薄いような文面すら、送って寄越さない。
自分の方から何かメッセージを送ってみようかなと鹿島君は考えてみたが、やっぱりやめておいた。そして、これまでは自分は付き合った女の子からメッセージが送られてくるのをただ待ってるばっかりだったのかなぁと気が付いた。
雪はしょっちゅうLINEしてきた。“今夜は何が食べたい?”“白菜が安かったよ”“腹巻き買っといたよ”“何時に帰るの?”“あと何分で帰るの?”“言ってた時間より遅いじゃない!”“今夜はお鍋だよ”“どこにいるの?”“何してるの?”“心配してるよ!”“電話して良い?”とか、そういうのが多かった。メッセージではなく写真を送って来てくれたりもした。いなくなって二人とも心配していた家の近所の野良猫の写真や、退治して欲しい虫の写真や、次に何ができるんだろうねと予想し合いながら通り過ぎていた近所の老夫婦でやってたパン屋さんの閉まったシャッターに貼り出されていたらしい、次にオープンする店のチラシとか・・・文字はなくても、そんな何気ない写真一枚で、鹿島君には雪の気持ちが雪の声で直接頭の中に響いて来るみたいだった。
“いたよ!”とか、“早く帰ってきてゴキやっつけてぇええ!!!!”とか、“またパン屋さんできるみたい!”とか・・・
・・・ユキは束縛しないかわり本人がフラフラしてる子だった。お城での仕事を辞めてからしばらくは携帯電話を持ってない時期もあったし、その名残でか、新しく携帯を買ってあげてもそれを家に置いたまま外へ出掛けて数日帰ってこなかったりもした。現実離れしているというか、人間離れしてるというか、ヒトより野良猫に近い生き方をしてるみたいな子だった・・・どこかで元気でいれば良いのだが・・・そう言えば一緒に住んでいた神戸の部屋を引き払ったとき、ユキの携帯電話は最後まで見付からなかった・・・
由貴のシフトがまだ出ていなくて、鹿島君の休みの日に会わせられるかどうか、会ったその日には決められなかった事があった。由貴は
「どうしよう?どうしよう?次いつ会えるんだろう・・・」と泣きそうな顔をして取り乱しかけた。
「大丈夫だよ。僕の来月のシフト表を渡しておくから、キミの予定が合ったら教えて。大丈夫、僕は逃げないから」
鹿島君は泣きそうな由貴に自分の全部の日程が書かれた翌月のシフト表を渡して、髪を撫でギュッと抱き締めて慰めてあげた。でも、翌日、ユキから送られてきたLINEは
“2月22日”
これだけだった。ごく簡単と言うのか、超シンプルと言うのか・・・“2月22日”、それだけ。
(その日に会おうってことなんだろうな・・・)とは分かったけれども・・・
22日に会いましょう、とか、会いたい、とか、会えますか?とか、・・・つまり“会う”という単語が入れられないんだろうなぁ・・・と鹿島君はじーっと送られてきた日付だけのメッセージを見詰め、そこに書かれていない苦しい心を読み取った。
「私達、一生この関係を続けましょうね?ね?やめないでね、鹿島君・・・やめるなんて絶対言わないでね。私はやめられないから。あなたとこうして会うこと・・・あなたと愛し合うこと・・・」
由貴は会っている間は切実な目をしてそう訴えてくるのだが・・・一刻も離れがたく、狂おしく、鹿島君だけに夢中みたいに、情熱的に愛情たっぷりに接してくれるのだが・・・
(・・・結婚生活も真剣にやめられないようだな)と鹿島君は苦い思いで画面を閉じる。
由貴と密会するようになって以降、女性を金で買うことは無くなったが、由貴と会わない休日は酒で荒れ、煙草の箱が気が付くと空になっている頻度が増した。
本気になって由貴を愛し彼女からも愛されたとしても、行き着く果てがどこなのか分からない。何十年後の二人の未来なんて、今から見据えるものではないのかもしれないが、あまりにも先が無く見える。由貴への愛情が深まれば深まるほど、彼女に会える日を待ち焦がれるほど、会えない全ての夜、会えない全ての時間が苦しみの時間に変わっていった。由貴が口にしていた言葉を反芻してしまうのだ。
『・・・本来なら夫婦でなんとかして一度は冷え切ったように見えたとしても頑張ってやり直して愛し合うのが正しいはずなのに・・・夫婦なんだから!・・・永遠に二人でって、誓い合ったんだから・・・そう思うでしょう?鹿島君も?・・・』
彼女は夫を責めているつもりだったが、裏を返せば、それは今からでも夫の方から歩み寄りを見せれば、彼女の情熱はまた家庭に戻り、その外側にいる鹿島君には向かなくなるのではとも受け取れる言葉だった。
会えない間に由貴が正式な配偶者ともしや今夜こそどうにかなっていはしまいか、これまでは噛み合わなかった歯車が何らかの弾み(もしかすると自分という男の存在がそのきっかけを担うかもしれない)にカチッと元通りの鞘に収まり、一時の気の迷い、横道にちょっと逸れかかっただけだったような自分との逢瀬ももはや由貴の可愛い小さな頭からは永久に消え去り、もう会えませんと教えてくれることすらもなく、こちらから接触をはかれば邪魔者扱いにされるのではないか・・・今も・・・もしかしたら由貴の存在のありがたみを思い出した夫の腕の中で・・・由貴は自分を憎み始めているかもしれない・・・これまでの秘密を共有する自分を早くも敵と見なして・・・
・・・等と会えない日々は邪推してしまう。
「恋とは苦しいものですね」喫煙室で部下が軽口を叩いてきた。
「恋してますか?先輩。最近、携帯をよくボーッと見てますね。遠い目をしたり、何か休みの日をやたら数えてたり、難しい顔をしたりして。彼女さんの写真あります?」
「キミは自分の仕事にもっと集中しなさい」
鹿島君は溜息を吐いた。灰になった煙草の先端を弾いて落とした。最近自分の仕事を教えている部下は任したい仕事を学ぶのには「責任が重くなるの嫌ぁ」と言って引け腰なのに、鹿島君の私生活に鼻を突っ込もうとすることにかけては前のめりなのだ。これは言っておいてやらないとためにならないと、叱ろうとするときには姿を消すのが上手で、(まぁいいや、俺がカバーしといてやろう・・・)と諦めて片付け終わった頃にニヤニヤヘコヘコ頭を下げながら現れる。人として懐いてくれるのは嬉しいことだが、煙草も電子煙草も吸わない癖に喫煙所までついてくる。目的が何なのかは分からないが、観察していて気が付いた。こいつに何か目標とか目的とかがあるとも思えない。単純にミニオンみたいに入社してからずっと『次ついて行くのこの人に決~めたっ!』という誰かを見付けて永遠に誰かの後ろにくっついて回ってるやつなのかもしれない。自分でこれは自分の仕事だと分かってる仕事を処理するのは早い。自分で興味を持ってる事案には情熱的に取り組む。でも、新しく任されそうなやりたくない仕事には徹底対抗してノロノロノロノロと嫌そうに嫌そうに、『誰か他の人が受け持てば良いのに・・・僕にやらせたらホラこんなにも遅くなりますよおおおお』と意固地になって態度でハッキリと示してくる。やればできるはずなのに、わざとかと思うほどしょうもないミスの多い書類を期限に遅れて提出してくる。
(『出世したくないのか?』と聞いてみたことがあるが、『出世興味ないす』とのこと。『じゃ自分の実力を上げたいとか。認められたいとか。そう言うのは?無いの?』と聞いてみると、『実力はあるんで。実は持ってる力のことを実力って言うんじゃないすか』とか口答えして来やがった。『あのさぁ、自分のためじゃなくても、会社とか周りとの兼ね合いで、誰かやるしかない仕事を自分が引き受けるしかないときもあるだろ。任されたら任されたで責任持てよ。やりたくないこともやるのが、それが仕事なんじゃないのか』と言ってみたが、無駄だった。『じゃ俺以外の誰かがやれば・・・出世したいやつがやれば良いんじゃないですかね?・・・俺は別に出世も評価もいらないんで。この辺止まりで俺は充分幸せなんで』・・・
育てたい気概のある部下をずーっと引っ張ってきて自分の下に置いておき続けられる社風ではない。そのかわり、(こいつどうにもならんな)と思う子もそのうち放っておけば自分の下に居なくなる。今の直属の部下は、正直すぎてケロッとしていて憎めないやつではあるが、仕事場で知り合ったけれど会社ではない場所で仕事から離れて飲みに行くとかの時の方で面白いやつだ。本人がこのままで良いと言ってるのだから鹿島君も今の部下の力量を伸ばしてやろうと頑張るのは諦めていた。気質が分かれば扱いやすく、人としての性格は決して嫌いではないのだ。)
「注意力散漫だから凡ミスを繰り返すんだよ」
「はぁい」
「何?鹿島君が恋の凡ミスに悩んでる?」隣の課の部長が後輩から話を引き継いだ。「なかなか聞かなかった鹿島君の本命の彼女さんの話ですか?そら気になるねぇ!前川君だって」
「気になります!」
(ややこしいのに絡まれたぞ・・・)と鹿島君は煙草の火を揉み消した。
「待ちなさい、彼女の写真を見せてから行きなさい。」
「彼女なんていませんよ・・・」
「チラッとで良いから」
由貴は当然鹿島君の携帯電話で写真を撮らせたことなどない。写真を撮らせて欲しいなんて当然断られるに決まってる事を鹿島君も最初から口に出して言ったことがない。
「じゃあ、チラッとと言わず、全部見てみますか?」
自分でも情けなくなるくらい詰まらないなと思うアルバムのページを開いて鹿島君は携帯電話をテーブルの上に置いた。星崎課長と前川君と近くで話を聞いていたあと二人の同僚も寄ってきて四つの頭をぶつけ合って鹿島君の携帯の画面を見に来た。
「スクロールしても良いですか?」
「どうぞ。お好きに」
「・・・悲しくなって来るねぇ・・・」
「先輩・・・王将でも社員してるんすか?」
「してない。家の近所にもあるんだよ」
「毎日ラーメンすかぁ・・・」
「餃子も食ってる」
「1ミリも女子は出て来んねぇ」
「猫の女の子ならいっぱい撮ってるでしょう?」
「確かに。悩殺ポーズのシングルマザーですね・・・なかなか良いショットだ・・・」
「おお、モテモテだねぇ・・・」
「タダでお触りさせてくれるのは猫だけすか?」
「甘いな。その子もチップ差し出さないと近寄ってきてもくれないよ。」
「・・・侘しいねぇ・・・」
「そんなもんですよ・・・」
「おっ」
みんなが一枚の写真に釘付けになった。
「女の子だ・・・」
「卒業アルバム?」
鹿島君はヒヤッとした。実家に寄ったときにいらない荷物を仕分けて捨てろと言われ、全部捨てて良いと言ってしまってから、卒業アルバムからユキの顔写真を転写したのだ。忘れていた。
「どこに先輩写ってるんですか?」
ユキの顔写真は一番最初に画面いっぱいに拡大して写した。それから彼女のクラス3-Bの全員が写っているページ全体(あの嫌な東も写っている)を引きで写した。それからついでに自分のクラス3-Aの集合写真のページも撮ったのだ。仕事仲間達は最近撮った新しい順に遡って見ていってるから、まだユキの顔だけを撮った一枚には辿り着いていなかった。みんなが見ているのは鹿島君のクラスメイト達の顔写真が並んでいるページだ。
「拡大して見ても良いですか?」
「いた!鹿島って書いてある!」
「うわぁ、犯罪者みたい」
「やめとけよ、前川」
鹿島君はみんなの目の前から携帯電話を取り返した。八つの目がまだ名残惜しそうに鹿島君のスーツの内ポケットに仕舞われる携帯を追ってきた。鹿島君はホッとしながら言い訳を口にした。
「そろそろ危なくなってきました。お世話になってるデリの女の子の顔とかもしか写ってたら可哀想なんで、この辺でやめときましょう」
「えー、良いじゃないですか」
「顔出しNGの女の子だから」
「そっかぁあ、残念!」
「先輩昔からイケメンだったんですね!」
「もう遅いぞ。前川」
「デリバリーかぁ。金を払って手に入れる女なんて虚しいじゃないですか、鹿島君。まだ若いのに・・・」
部長がお節介を焼いた。「愛し愛され、そしてそれが節約にもなるってもんだ。その浮いたお金で別の彼女とも遊ぶんですよ」
「最っ低のアドバイスっすね!」前川が持ち前の許される朗らかキャラで隣の課の部長と打ち解けて嬉しそうに大笑いした。
鹿島君も笑いながらみんなよりも一足早く休憩を切り上げて喫煙室を出た。
鹿島君の部署には“日サロの五郎”というあだ名が付けられている、ゆるキャラみたいな部長がいる。ポカポカ晴れた日に池の畔で甲羅干ししている亀みたいに、日がな一日する事がなさそうに、ただボンヤリと日当たりの良い席にジッと座って丸く禿げた頭を日光浴させている。みんな『後光が眩しすぎる』とか『反射でパソコンの画面見えづらくて迷惑』とか『何で亀と同じくらい仕事しない生物があの席に着いてるんだろう』等と散々陰口を叩いているが、鹿島君は大して気にしていなかった。組織にはのんびりした人も一人くらい必要だ。多少能率が良かったとしてもピリついて全体の雰囲気を悪くする者ばかりが集まっていては息が詰まる。空気が悪くなる。いじられ役とかみんなで手を貸しいつまでも助けてやらないといけないようなオッチョコチョイな人もいて、それでかえって場が纏まったり他の者の自信がついたりみんながホッコリする事もあるのだ。五郎は害がない。亀と同じくらい仕事もしないが悪事も働かない。我慢強く、動じない。時々誰も思い付かないようなことをしていて面白い。湯飲みに残った雫を手のひらにとって、後頭部になすりつけていたり。
『頭の後ろにかけててください』とプレゼントされたサングラスを、言われたとおり毎朝出勤してくるとかけていたり。(誰かがジャンケンをして、頼んでみたらしい。それはカーカーカーカー毎日窓の外で鳴き声がうるさい「カラスよけ」とのことだった。)彼は彼で会社に必要な人材なのだ。
五郎が「鹿島君、鹿島君、ちょっと」と席に戻ってきた鹿島君の肩をチョンチョン叩いて、廊下を指さし、ついてこいという風に先に立って歩き出したので、鹿島君はビックリして誰も使っていない会議室まで(何の話だろう?)と想像を巡らせながらついて行った。空室の札を裏返して使用中に変え、扉を閉めるとすぐ、五郎がこちらを振り返って言った。
「鹿島君、警察が電話してきたよ」
「警察ですか?」
「お姉さんが話したいと言ってるそうだ」
「姉・・・?」鹿島君は眉根を寄せ、首を捻った。「妹ではなく?・・・警察が?・・・それ本当に僕にですか?」
「総務課の鹿島と言ってきたよ」
「僕ですね・・・」(姉はいないんだが・・・でも同じ課に鹿島と言う苗字も他にいない・・・)と鹿島君は五郎の目を見詰めながら思った。(由貴だろうか?僕の個人番号にかけるのを嫌って会社にかけてきた?いやそんなこと由貴はしないだろう・・・)
「また電話するって。キミの社用の携帯番号教えてしまったけど、良かったかな?」
「まぁ、はい。大丈夫です。」
「後からになったけど、番号調べたら本当に曾根崎警察署だったよ」
「そうですか・・・」
「まぁ、それだけなんだけどね」
「分かりました・・・」
「戻ろうか」
「はい・・・ありがとうございます、ご迷惑おかけしました」
「いえいえ」
二人は短い廊下を引き返した。
「そういうことだから、今日はちょっと携帯気にかけといてね」
「はい」
「あ、使用中の札、元に戻すの忘れてた・・・」五郎はもう一度廊下へ消えて行った。
何なんだろう、気になるなぁと思って鹿島君は妹に電話してみようかとも考えたが、社用も私用も同じ一つの携帯を使っているから回線を塞ぎたくなかった。電話の代わりに“元気?変わりない?”とLINEしてみた。
“どうしたの?何か急用?”返事はすぐに返ってきたが普段通りだった。
電話は三十分後にかかってきた。
「鹿島拓斗さんのご携帯ですか?」
「はい。そうですが・・・」
「兵庫県警です。お姉さんが身柄の引き取りを求めています。」
「はぁ・・・?」
「お姉さんがですね、身よりはあなたしかいないと言うことで。誰か迎えに来てくれるご家族の方が必要なんですよ。今どちらにいらっしゃいます?」
「大阪ですが・・・私、姉はいないんですよ。妹なら奈良に住んでますけど・・・」
「妹さんなんですかね?本人は姉だと仰ってますけど。神戸拘置所までご足労願えますか?」
「えっ・・・と・・・人違いではありませんか?」
相手は鹿島君の勤める会社名と所属部署をスラスラ読み上げた。「・・・の、鹿島拓斗さんはあなたではない?」
「・・・いや・・・僕ですね・・・」(僕しかいないな・・・)助けを求めるように鹿島君はオフィスの同僚達のそれぞれ自分のデスクに向かっている頭を見渡した。声はグッと潜めたまま。
「・・・」
「・・・」
「神戸拘置所までお姉さんを引き取りに来て頂きたいんですよ。ご家族はあなただけと言うことなので。」
相手は辛抱強く喋っているが、お互い時計を気にして時間を確認したのは分かった。
「・・・今からですか?その僕の姉と名乗ってる人は何をしたんですか?」
「それはきよはさんから直接お聞きになって。出来れば今日中にお願いしたいんですが。何時頃来られそうですか?」
(きよは?)鹿島君は携帯電話を耳から離し、耳にくっつけ、それからまた耳から離して意味も無く時刻を確認した。
「今からすぐ行きます。ちょっと、どれくらい時間がかかるか分かりませんが・・・調べて・・・すぐに・・・」
「梅田駅から来られるんですかね?」
「はい」
「JR?」
「はい」
「現在地から梅田駅までは大体何分くらいか分かります?」
「30分くらいでしょうか・・・」
「乗り継ぎがスムーズに行けば1時間半くらいで来られますよ」
「ちょっと、調べて、すぐ行きます。今から1、2時間後に。神戸拘置所?ですよね?」
「そうです。お待ちしております」
鹿島君は五郎に「急用で帰ります」と言って、出来るだけ急いで用意して会社を出た。急用の理屈をどう付けたかも分からないくらい急いで、取るものも取りあえず、上着とコートを手に持ち、自分のデスクの上をサッと見渡して。引き取り人になどこれまでなったことが無かったから、分からないけれど、さっきの電話のお巡りさんも言ってなかったけれど、もしかしたら必要になるかも知れないと思ってポケットにシャチハタのハンコを入れて。
それなのに、拘置所の受付に着いたとき、電話を受けてからまだ1時間半しか経っていなかったのに、出来る限りの最速で来たのに、鹿島君の姉と偽るきよはと言う名の女性は、鹿島君の身分証を持った鹿島と名乗る誰かと一緒に既に帰った、と言われてしまった。しかも受付のお巡りさんはすぐにその事を認めなかった。
まず一人目の刑務官が鹿島君の話を聞き、(「きよはを引き取りに来ました。鹿島拓斗です」)相手は目を丸くして鹿島君の顔をジッと見詰め、彼が差し出した運転免許証をジッと見詰め、写真と鹿島君の実物の顔を何度も見比べた。
「ちょっとお待ちくださいね・・・」と言い残し、彼の身分証を持ったまま奥の見えないドアの中へ消えてしまった。受付のカウンターに凭れたまま鹿島君は10分待った。
もう10分待った。
その間に隣ではお菓子を紙袋にどっさり持ってきたお婆ちゃまが孫への面会を拒まれて受付の刑務官さんと押問答していた。
「お婆ちゃん、ダメなんです。お菓子はねー、規則違反なの」
「危険なもんが入っとうように見えるか?あんた?こんなヨボヨボのばーちゃんが鉄砲とかナイフとかをポテトチップやカッパえびせんの中に仕込んどうように見える?ええ?」
「見えませんけどね。でもダメなんです。規則だから。」
「ダメダメって、そんなん・・・そんなことないやろ?何かお菓子食べるやろ、あんただって?」
「お婆ちゃん。お孫さんは反省中だからね・・・」
「食べるもん食べな反省も糞もできますかいな。孫は痩せーて、偏食なんですよ。ここで出すもんは多分食べよらんと思うの。もっと痩せーたらどうなってしまう?・・・爺さんも病院で食べんで痩せーて・・・そんなことならんように・・・!」
お婆ちゃんはもう手にぶら下げて持っているのが重くて疲れてしまったのか、カウンターの上にお菓子がいっぱい詰まった紙袋を持ち上げて、中のお巡りさんに押し付けようとした。
「ダメダメ、お婆ちゃん!」
「あんたのお婆ちゃんじゃないわい!儂ゃ!あんたなんか今日生まれて初めて見たわ!」
「昨日も一昨日もお会いしましたけども・・・」
「へん、そうかい!じゃあ今日はちいっとでも考え変わったか?」
「いや規則なんですよ。毎日来て貰っても規則はそんな簡単に変えられませんから・・・」
「若いのにねぇ、規則規則って凝り固まった頭して・・・頭が硬いよ本当に・・・カッチカチじゃ・・・!」
ブツブツ言ってたと思ったらお婆ちゃんは急にプン!と後ろを向いて杖を突いて出口へ向かって去り始めた。
「お婆ちゃん!お婆ちゃん!ちょっと・・・」カウンターの中からお巡りさんが紙袋を抱えて走り出てきて、すぐにお婆ちゃんに追いついた。
「お婆ちゃん、これ持って帰ってください。お孫さんには渡せないので・・・」
「そんなにダメならあんたが食べればええやないの!黙って受け取って、孫に渡す言うて裏で処分してくれたらええのに!」
お婆さんはとうとう最後にはプリプリ怒りながら持ってきた紙袋をまた持たされてしばらく付き添われて出口から出て行った。お巡りさんが駐車場に車を止めて待っている運転席のお爺さんと今度は何やら揉めているようだった。(「毎日来て貰っても困りますよ・・・」とか言ってるのか?「そら婆さんに言うてくれや・・・儂も何回ももう言うとんのじゃ。儂が言うてハイハイ分かりましたと納得してくれる婆やったら毎日ここまで来とらん」とか言い返されているのか・・・)
「お待たせしました。」鹿島君はカウンターへ振り返った。
さっき鹿島君に対応していたのとは違う別の刑務官がカウンターの向こうに立っていた。
「お姉さんですが、ここにはもういません」
「は?」
「引き取りの件なんですが・・・実は先ほど弟さんと名乗る方がお見えになりましてですね・・・」
「誰ですか?それは?」
「その時も一応、身分証の提示は求めたんですが・・・」
「鹿島拓斗でしたか?」
「・・・実は・・・ええ、そうなんです・・・」
「そいつ偽物です。僕が本物です。」
鹿島君はクラクラ眩暈がして、両手をカウンターについた。
「で、・・・え?・・・僕の姉は偽物の僕とどっかへもう行っちゃったんですか?それ、いつのことです?今さっきですよね?追いかけたらまだ間に合うかもしれないですよね?・・・まだそんなに遠くには行ってないはずですよ・・・」
「その弟と名乗る方が車でいらしていたので・・・」
「何分前の話ですか?それ?」
カウンターの奥から最初の刑務官が現れ、手に持った鹿島君の運転免許証とそのコピーを上官らしい今鹿島君の目の前にいる刑務官に手渡しながら小声でコソコソ耳打ちした。
「・・・確認を取りました。この身分証は本物です・・・」
「さっきの男の身分証は確認してないんでしょう?ちょっと形だけ見たフリしただけでしょう?」鹿島君は聞き漏らしていなかった。「僕が本物です。何やってるんですか!今すぐ追いかけましょう!手遅れにならないうちに!」
「失礼しますが、鹿島さん。おたく、ご兄弟にお姉さまはいらっしゃいませんよね?」
「・・・いません。」鹿島君は悔しくて目の前が青ざめて見えてきた。
「さっきの電話の時もどうも最初のうちはピンと来ていらっしゃらないようでしたしね?『妹はいます、でも姉はいません』と仰って・・・」
「そうです。その通りなんですが、きよは、と言う名前には心当たりがあったんです・・・!」
カウンターに肘をつき、自分の前髪を両手で掴んだ。
(きよはには実の兄弟がいるんだろうか?それがまさか俺と同姓同名?いや絶対考えられない・・・会社名も部署も全部僕だ。ユキが僕を頼ってきたんだ・・・他に頼れる身寄りが無くて・・・他に思い付ける人が僕以外にいなかったから・・・)でも助けてあげられない。警察官や刑務官に何と言って事情を説明すれば伝わるんだ?二十年前に付き合ってた恋人だと言ったら分かってくれるだろうか?分かってくれたからとて、動いてもらえる事案だろうか?・・・警察署の真っただ中で警察官の目の前で誘拐が行われたという事なのに・・・
「身元引受人・・・身元引受人て言うんですよね?その、きよはが名前を出して呼んだのとは違う人物が現れて、そいつが彼女を連れ去ったってことになると思うんですが。これは。これは誘拐事件にはならないんでしょうか?捜査して貰えないんですか?今すぐに・・・!」
鹿島君は力なく最後の力を振り絞って足掻いてみた。刑務官と警察官を、二人のその困ったような顔をした目を、交互に必死に見詰めてみた。
「いえ・・・正直、誘拐事件にはなりません。きよはさんが帰れるのに帰ろうとしないものですから、じゃあ引き取りに来てくれはる人間はいるのかと聞いたら、一人だけいると言うので、電話をかけたんです。あなたに。鹿島さんにはご迷惑をおかけしてわざわざ来て頂いたのに無駄足を踏ませることになってしまいましたが。申し訳ない。きよはさんは、自分一人ででも帰ってくれて良かったんだが、警察署のロビーにジーッと居座られても困るので・・・」
「先に引き取りに来てくれたのはどうも私どもがお電話差し上げたあなたとは違う誰かだったみたいですが、別にきよはさんはそれで騒ぐでも嫌がるでもなく、スッと立って一緒に出て行きはったんでね。こちらでは刑期を終えた囚人さんが出て行ってくれたらそれで結構なんで。」
「誘拐ですよね?」
「いやぁ・・・」
二人の刑務官は目を見合わせた。
「事件性は感じ取れませんでしたねぇ・・・」
「でも事件ですよ!恥ですよ!?警察署の中で連れ去りなんて・・・!!」鹿島君は大声を上げ、両手を振り上げてみたが、何人かの仕事中の刑務官がパラパラと顔を上げてこちらを横目でチラッと見た程度だった。柄にも無く振り上げた両手をソロソロとカウンターに下ろした。
上官の方の刑務官が後輩に目で頷き、鹿島君にもちょっと黙礼して、奥の自分のデスクらしい席へ戻って行った。彼らも忙しいのだ。一人カウンターに残った方の刑務官も鹿島君の視線を捉えて、頷いた。
ここではどうすることも出来ないから、諦めてもう帰れ、という無言の頷きだ。
鹿島君はしばらく右手で作った拳骨をカウンターの上に置き、そいつをジッと睨み付けていた。しばらくして目を上げると、さっき最後まで鹿島君の前に立っていた刑務官も目の前からいなくなっていた。自分の席に戻って何やら彼も処理しなくてはいけない仕事を片付け始めていた。当たる相手も言葉も失って、鹿島君は後ろを向いて神戸拘置所の出口を出、トボトボ来た道を引き返し、会社に戻った。
「あれっ、先輩・・・どうしたんですか?」隣の席で資料をめくっていた前川が鹿島君を見上げ、二度見してきた。「家族が急病で帰ったって聞きましたけど・・・日サロの五郎に・・・」
「ピンピンしてた」
鹿島君は適当に答え、コートと上着を椅子の背にぞんざいに引っ掛けてパソコンを立ち上げた。
「本当ですか?大丈夫ですか?何か・・・」
「何だよ」
「いや、何でも無いですけど・・・」
(仕事しよう)鹿島君は帰り道のバスと電車で心に決めていた。今日が半休扱いになっていたとしても、家には帰らない。家には何もない。何の音もしない。誰も居ない。別に早く帰ってくることを求めている人もいない。こちらも、私生活に求めるものは何も無い。就業時間中は仕事のことだけを考えて、由貴に会える日の朝に由貴の事を思い出して、それ以外の休みの日は何か別に打ち込める趣味を持とう。釣りに行くとか。本を読むとか。ジムに通っても良い。一週間分の献立を考えて手間暇のかかる料理を作ってもいい。一から家具を作ってもいい。何でもできる。何を趣味にしても「釣り竿が邪魔だ」とか「そんなの後にして掃除手伝ってよ」とか「たまにはデートに連れて行って」等と怒ってくる嫁も恋人もいない。誰かの趣味に無理に合わせる必要もない。
(・・・ただ、趣味については今考えることでは無いな・・・)とバスに揺られ電車に揺られながら鹿島君は思った。休みの日の過ごし方は次の休みの日の朝、目が覚めてから考えよう。今日は仕事に戻ろう・・・とにかく。周り中で人が忙しく立ち働いていて自分に任された仕事が山のように待っている責任ある立場を任されている職場に戻ろう・・・自分を必要として帰りを待ってくれているのは仕事の山だけだ。それで十分だ。人間の女性は恐ろしい。もう大嫌いだ・・・
ユキ・・・僕を頼るならあともうちょっとだけ待っていてくれれば良かったのに・・・今度は誰とどこへ消えたんだ?・・・キミは本当に掴めない・・・ちょっと前に居た場所が明らかにされるだけで、まるで掴んだと思ったら溶けて消える冷たい雪と同じ・・・あとちょっと、いつもあとちょっとのところで僕の指をかすめて消えてしまう・・・
「鹿島君、どうしたの?」
「ゆき・・・」鹿島君はハッと目の前の由貴の顔を見た。口紅は落ち、瞼に丁寧に施されていた繊細な薄化粧も今では汗やシャワーや摩擦で落ちて、ただ素肌の色だけの美しい由貴の顔を、心配そうな問いかける大きく開いた瞳を、見た。
「ああ、ちょっと最近眠れてなくて・・・」
「仕事が忙しい?」
「いや、全然。仕事は楽すぎて退屈なくらいだよ。延々毎日代わり映えのしない同じ事の繰り返しで・・・デスクの前に座ってれば目を閉じてても出来る・・・」
「じゃあなんで眠れないの?」
「由貴さんのことを考えていて・・・」
由貴の表情が心配そうな暗さからじわじわと華やかな笑顔に変わった。
「会えないときも私のこと考えてくれてるの?」
「頭から離れないよ。片時も」
「私も・・・」
「キミには考えることが他に沢山ありそうだけどな」
由貴はゆっくり首を横に振りながら「毎日鹿島君のこと必ず一度は考えてる」
鹿島君もゆっくり首を横に振りながら、左右に振る度、由貴の鼻に自分の鼻をぶつけて「僕は毎日300時間くらいキミのこと考えてるよ」
「じゃあ結婚しよう」
「うん。結婚しよう。」
「あなたが私の名前になってね。浅井タクト君。もう人の苗字に変わるのは懲り懲りだから」
「良いよ。名前なんてどうでも良い物、すぐにサッパリ捨てるよ。キミみたいなイイ女が僕の奥さんになってくれるなら・・・」
「子供も連れて行って良い?」
「もちろんだよ」
「子供のオモチャも全部持って行って良い?」
「僕が取りに行くよ。持っておいで。全部。」
「旦那さんは?」
「旦那さんは連れて来ちゃダメだよ」
「私のこと探しに来るかなぁ?娘は取り返しに来るでしょうね・・・」
「そしたら殺す」
「それはちょっと可哀想だから懲らしめるくらいにしてあげて・・・」
「いいや、それだけは譲れない。殺す。」
二人は絶対に結婚などしないと分かっていて口先だけで結婚の話を進めていた。想像の世界でなら二人はもう何十回も結婚していた。
由貴に今の旦那と離婚する勇気がないのも、正式に鹿島君に乗り換えるほどの厚かましさや情熱がないのも、子供の病気について率直に説明できるほど愛されている自信が無く、元気がなく、二人の心の距離を信じ切れていないのも、鹿島君には見抜けていた。死に物狂いで頼られたら、死に物狂いで受け止められるほど、鹿島君も由貴と同じくらい寂しくて、しがみ付ける本物の愛情がたまらなく欲しい人間なのに、お互いに相手の出方を待って動けないほど愛情に憶病になっていた。
奥ゆかしい、どこまで行っても遠慮がちで、最後の殻を割るあと一歩が踏み出せない、調和を乱す原因に自分がなることが許せない、狭い世界に縮こまり、自分の限界まで歪んだ部屋に鹿島君を引っ張り込んだ癖に、用のないときは閉め出して鍵を掛け、自分のタイミングでまた扉を開けて彼を誘い込む。ドアも壁もぶち破ってやろうか、外へ引っ張り出してやろうか、僕が全部責任持つから、キミもキミの女の子もと彼が提案しても、可愛い頭を横に振る。真面目で融通が利かない泣いてばかりの狡い小悪魔。でもそれが鹿島君の知っている昔から変わらない由貴だった。彼の方でも、詳しく知ることを恐れて由貴の一番繊細な場所に触れることは出来なかった。
「キミの赤ちゃんに会ってみたいな」と言ってみたことはあったけれど、その時由貴の顔を占めた苦しそうな表情は忘れられなかった。
「もう赤ちゃんじゃないんだけどね・・・」由貴は萎んでいく声で語尾を葬った。
「いつかね」鹿島君は慌てて付け加えた。
「人見知りが激しい子だから・・・」
顔を俯ける由貴と同時に、鹿島君もゆっくり頷いた。
彼は由貴に会いたくてたまらずに彼女のパートが終わるまで焼き鳥屋の向かいのパチンコ屋の台に座って彼女が出てくるまでチビチビ缶コーヒーを飲み、煙草を吸いながら待っていた事があった。初めは彼女の姿を一目見たいだけだった。その日が彼女の出勤日かどうかも分からないし、もう帰ったかも、帰るまでにあと何時間待たされるかも分からない状態だった。一目見れば満足できる、一瞬で良いからチラッと好きな人の元気な姿が見たいだけ・・・そう思っていた。由貴の元気な姿を見たら、それでもう帰ろうと思っていた。
由貴が本当に目の前の小汚い店の引き戸をガラガラと開けて、「お疲れ様でしたー」と言いながら出てくるのを見たとき、もう鹿島君は立ち上がっていた。
(一瞬で我慢できるはずがなかった、)とここまで来てしまった自分を悔いた。目の前に由貴がいるのに、
(はい計画通りここまで)と満足して帰れるはずがない。もっと見ていたい。揺れるポニーテールの髪、見え隠れする細いうなじ、歩きながらキュッと締める腰のベルト。向かうべき場所と遅れられない時間が定まっているのか、それともいくらでも片付けなければならない家事に追われる主婦の宿命なのか、意外に歩調が早い。鹿島君になど気付かずにどんどんスタスタ行ってしまう。立ち止まっていては彼女の姿は遠のいていくばかりだ。夢中で追いかけた。
見るだけで我慢しなくてはならないのだってこんなにも苦しいのに、触れたり抱き締めたりしたいのに、これだけで満足して引き返せるわけがない。
(どこかでバッタリ出会った振りをしよう。チャンスを見て・・・彼女が立ち止まったところで、ちょうど通りかかった振りをして声を掛ければ良い・・・ちゃんと周りに彼女の知り合いがいないのを確認して・・・)と素早く頭の中で計画を変えた。
もしも由貴にこの後の予定がなければ、まだ会える約束の日はもっと先だけれど、今日も短い時間でも二人きりの場所に籠もって抱き合えるかもしれない・・・ちょっとでも・・・温かい由貴の肌に触れさせてもらいたい・・・彼女の体温で温もった香水の香りで肺をいっぱいに満たしたい・・・
姿を一目でも見ればより思いも高まり身も心も居ても立っても我慢できなくなるのが何故予測できなかったのか・・・
そして鹿島君は最初からそのつもりで待っていたかのように尾行し始めた。学生時代と同じ、罪のない片思い。今はただ後をつけるだけ・・・彼女の都合が悪そうだと分かれば、(例えば誰かと待ち合わせているのが分かったりしたら、)声さえ掛けないで立ち去るつもりだった。ただ一秒でも一分でも長く、彼女の姿を見ていたい・・・視野の中に動く彼女の姿を捉えていたい・・・今はそれだけだった。
由貴は通勤時と仕事中とで服装を完全に分けているみたいだった。焼き鳥屋の厨房では動きやすそうなTシャツとパンツと運動靴のスタイルは、いつも退勤時にロッカーで着替えるらしく、膨らんだバックの中に仕舞い込まれている。今は淡い水色のガウンコートにフェイクファーの付いたくすんだベージュのスカーフを首に巻いている。
急いで出て来たのか、歩きながら一つに纏めていた髪を解き、手櫛で梳いた。コートのポケットからライターくらいの大きさの持ち運び用香水瓶を取り出して、左手の手首に振りかけ、右手の手首と擦り合わせ、それから耳の下にもその手首をくっつけた。コートの下に出ているスカートの裾めがけて、香水を振った。鹿嶋くんには透明なはずのその香水の霧に色がついて見えるような気がして、思わず歩調を速めて由貴のすぐ後ろに近寄ってしまった。彼女の香りを嗅ぎたいと思ったのだ。由貴は先を急いでいるためか、全然後ろを振り返らない。鹿嶋くんに気が付かない。歩きながらバックから取り出したスカーフをふんわり巻き直し、広がった髪で耳まで覆って隠してしまった。それでも寒いのか、赤信号でちょっと立ち止まったときにガラスに写る自分の髪を確認し、スカーフに鼻を埋め、小さく肩をブルッと震わせた。
振り返れば、この時が絶好の声を掛けるタイミングだった。まだもうしばらく自分に見られていることに気が付いていない普段の自然体の由貴を見ていたくて、鹿島君は声を掛ける機会を先に延ばした。急がなくてもまだ何度でもチャンスは訪れると思っていた。由貴は真っ直ぐ駅の方角へ向かっていたから、そのまま駅を越えた先にある自宅へ急いでいるものと思っていた。
(梅田駅の人混みの中でぶつかりかけたフリをしようか・・・)と鹿島君は内心で企んだ。実際にほんのちょっと体当たりして、よろけかけた由貴の小さな体を両手で支え、「わぁお嬢さん、運命ですね」とか言ったら笑ってくれるだろうか・・・由貴の微笑む顔を勝手に想像してニヤニヤ頬が緩んでしまいそうだった。
ところが、由貴は駅を通り抜けるのではなく改札へどんどん突き進んでいき、スッと携帯を翳して中へ入って行ってしまった。鹿島君も慌ててポケットの中のICOCAを探り出し、改札を通った。淡い水色の後ろ姿は三番線ホームへ上るエスカレーターに運ばれて行くところだった。ホームでは人の列を二つ間に挟んで並び、電車が来たら由貴が乗り込んだ女性専用車両の隣の車両に乗った。
(水色のコートを着てくれていて助かった、見失いにくくて・・・)とその時には思っていたが、後から考えれば見失っていた方が良かったのかもしれない。見られたくない姿、特に鹿島君に見せたくなくて遠ざけている顔には理由があったのだ。彼はあまりジロジロ由貴の顔を見ないようにしながら、今バレてももう構わないとも半分開き直って、窓ガラスに映る由貴の横顔を眺めていたのだったが、彼女は一度も視線をこちらへ向けなかった。鹿島君と会っているときには嬉しそうでいつも自然に引き上がっている口角が、今は力なく垂れ下がり、電車に揺られながら軽く瞼を閉じたりして、彼のよく知っている、はしゃいだ少女のような弾ける笑顔は一度も表に現れなかった。疲れ切って誰に見られている意識もない中年のおばさんの顔をした由貴を見詰め続けていると、あまりにも自分の前にいるときと顔が違っているので、
(あれ・・・もしかして俺、いつの間にか由貴と間違えて違う女性を追いかけて来てしまったんだろうか・・・)と心許なく不安な気持ちになってくるほどだった。しかしその女性は間違いなく由貴だった。彼は一度も由貴の姿を見失わずにここまで追いかけてきたのだ。
続く