10 由貴
鹿島君が大阪に戻ってきたのは37歳になる年の初めだった。
それまではずっとエジプトやらチェコやらシンガポールやら、海外派遣が続いていた彼がやっと日本に戻って来ると知って、お正月休みの最後の日を利用してまた集まろうと、高校時代の空手部員だけで同窓会をやることに決まった。同じ学年の部員は七人だったが、集まれるのは多くて五人という話だった。
永野君は今では(大恋愛の末に追いかけて行った奥さんの地元の)沖縄に住み着いていて子供も小さくて遠くまで来れず、森本君は連絡が取れなくなっていて、高田君は何をやらかしたのか今拘置所にいるらしい。新田は若くしてバイクの事故で亡くなった。柴田は子供や奥さんや親の機嫌が良くて家庭の都合が付き次第行けたら行く、先に始めといてくれ、って言ってきた、と藤尾君が言った。
「他にも仲良かった奴二、三人に声かけてみたけど、…最悪、さしで飲も。」
「どこを予約してくれたの?店はまだこれから探す?俺が探そうか?」
「2~5名で予約できたのが焼き鳥屋だけだった」
「充分充分。ありがとう!」
鹿島君は深く感謝した。自分がどこにいるかを気にかけていてくれたり、わざわざ“お帰り会”なんて開いてくれる奴が地球上に一人いてくれたというだけで、ちょっと涙が出そうなほど嬉しかった。
「16時から開いてる店だから」
「16時めがけて行くよ」
「俺もそうする。遅れるかもしれんけど。」
「先に飲んでるかも知れない」
「俺も」
「待ちきれなくて準備中の店の前で煙草吸ってるかもしれん」
「俺も」
笑い合って通話を切った。
空港では余裕を持って7人分のお土産を買った。家財道具は直接次に住む会社の単身寮に届けて貰う予定で、スーツケースも持たず、パスポートで顔を仰ぎながら帰国した。他に寄るべき場所も思い付かず、藤尾と昔の友達に会えるのが楽しみすぎて、三時半には約束の店の前を彷徨いていた。
パチンコ屋だらけのゴミゴミした幅の狭い商店街の中の良い感じに小汚い店だったが、かえって鶏が旨そうだ。隠れた名店ぽい。入り口は幅が狭いが中は奥行きが広そうだ。曇りガラスではないのに曇っているガラス窓からちょっと店内を覗いて見ると、高いカウンタースツールに可愛いお尻の片側半分を引っかけて座っていたまだ休憩中の従業員らしい女性が、吸っていた煙草を急いで揉み消して、パッと立って隠れるように急いで厨房の方へ引っ込んでしまった。アルバイトの女の子かな、パートのおばちゃんかな?まかないを食べ終わって一服してるところだったのかな?不躾に覗き込んで失礼してしまった・・・と鹿島君は思った。
人に慣れてない野生の生き物をそこにいるとは知らなくて思いがけずビックリさせてしまって、その驚きようにこちらもビックリしてしまったみたいに、鹿島君はビックリした後、ジワジワ微笑ましくなってきて、一人でクスッと笑った。
女性がスパスパ煙草を吸ってるのなんて別にこのご時世珍しくも無いのに、さっきの女の人の様子は、ボンヤリ煙草を吸っているところを不意打ちで見られてしまって物凄く恥ずかしかったみたいな逃げ去り方だったのだ。その後ろ姿はシュッとしていて、体の線に沿った長袖のTシャツにズボンに足に馴染んだスニーカーが、いかにもテキパキ動ける焼き鳥屋のお姉ちゃんらしくて、(イイねぇ)と鹿島君は思った。
「よー久しぶりー!何?ニヤニヤしてるの?良いことあった?」
藤尾君が登場した。
「太ったな!」鹿島君は見たままをすぐ口に出して言ってしまった。
「うるさい、禿げ!」
「禿げてない!禿げてない!」鹿島君は慌てて手で触って最近気になりだした髪を確かめた。
「人の弱点をいきなり突くべからず」
「失礼しやした」
「まだ開いてない?」
「まだだなぁ。さっき綺麗な女の人が休憩してたよ。中で」
「誰だか分かった?」藤尾君が急に興奮しだした。「顔見えた?」
「後ろ姿が見えたけど」
「顔は見ず?」
「顔は見えなかったよ。すぐあっちへ隠れちゃった」
「じゃお前、なんで綺麗だって分かるんだよ?綺麗じゃなかったら責任とれんのか?ああん?鹿島よお?」
「何でこんなしょうも無いことで喧嘩になるの・・・小学生かよ?・・・雰囲気だよ!雰囲気!」
「雰囲気なんて当てになるか!一番当てにならんのが雰囲気だぞ!てめぇこの野郎!多分振り向いたらさぞや美しいお嬢さんなんだろうなぁって雰囲気の女の子ほど、追い越して顔見たらショックでその日一日中立ち直れないレベルの打撃与えてくるんだよ!!」
「知るか。後ろ姿美人を追い越すな。男は黙って後姿を拝んでろ」
「小走りになって回り込んで顔見に行っちゃうのが男の性だろ!」
「最近何かそう言うことがあったの?」
「毎日あるよ!」
「そうか。毎日楽しそうだな。良かった」
「お前も元気そうでちょっとしか老けてなくて良かった。何か大変そうだったもんな」
「ああ」雪の事知ってるのかと鹿島君は思った。
火が消えていた煙草の先にもう一度ライターで火を点した。
「お前まだこういうのじゃないの?」
藤尾君がiQOSを吸い始めながら聞いてきた。
「早死にしたいんだよ」
「悲しむ人がいないから?」
「いる?藤尾君には?」
「これ、姪っ子がプレゼントしてくれたの。『おっちゃん、長生きしてね♡』って」
「良いなぁああああ」
“準備中”の札を裏返しに店員が出て来たので、鹿島君は煙草の火を消し、雨水が溜まった赤い灰皿へ落とした。
「先に食べ始めといてってみんな言ってるから」
と言って藤尾君がどんどん注文し、
「冷めないうちに喰え」
と言うので、空腹に任せ何も考えずにパクパク食べて、二人はすぐにお腹いっぱいになってしまった。お腹が減ってるときは無限にいくらでも食べられるつもりでいるのに、満腹になってしまうともう食べ物を見るのも匂いを嗅いでいるのも嫌になってしまう。
「何歳になっても食欲には逆らえない。逆算も出来ない・・・嫌になるなぁ・・・」
「誰も来ないな・・・」
「食べられる量も昔に比べて減ったよなぁ・・・」
「昔は食べられても金が無かったのにな」
「もう帰ろうか・・・」
「まぁ待て待て」藤田君がニコニコしながら厨房の方をチラチラ覗き込んだ。
「綺麗な店員さん?出てくるのを待ってるの?正面から見たらまたガッカリするかも知れないよ?それとも、もうとっくに出て来ていて、さっきからこの店内でウロウロしてる誰かかも知れない・・・」
「あの子は正面から見ても綺麗だよ。この狭い店内に出て来てたらお前でも気が付いてるよ。多分・・・彼女もうすぐ上がり時間だから・・・本当はランチの後片付けまでの契約で働き出したパートさんなんだけど、学生アルバイト達が出勤してくるのが遅い日は帰りがずれ込んで、この時間帯まで居残ってる」
「なんだ、知ってる子なの?狙ってるの?」
「お前に会いたがってたんだよ」
「え?誰?」ユキの顔がまず咄嗟に思い浮かんだ。松本きよはの正体を教えてくれたのが藤尾君だったからかも知れない。心臓が痛いくらいドキンとして、鹿島君も染みの浮いた揺れる暖簾の向こうの厨房に首を伸ばして見入り始めた。中で忙しそうに立ち働いている料理人の足元ぐらいしか見えない。そう言う事ならそう言う事ともっと早く教えて欲しかった。食べ始める前に。ユキがここで働いてると分かった時点で。
「もうそろそろ出てくると思うんだけどなぁ・・・」
「二人で見張ってたら裏口から逃げてしまうかもしれない!」鹿島君は椅子から立ち上がった。急に勢いよく立ったせいで椅子が後ろに倒れかけ、藤尾君が手を伸ばして支えてくれた。
「まぁもう少し待とう。焦るなって。座って」
鹿島君は座り直し、もう一杯ずつ飲み物を注文した。それを奥で見ていて(こいつら帰るつもり無さそうだぞ)と観念したのか、クリーム色のコートを手に持ち帰り支度を整えた由貴が暖簾をくぐって出て来た。ひとまとめにしていた髪を下ろし、品の良い薄化粧で、焼き鳥屋さんのお姉ちゃんの制服は着替えて畳んで鞄に仕舞ったのか、ブラウスと膝下までのスカート姿だ。オフィスビルから帰宅していく事務職の奥さんみたいだ。
鹿島君は藤尾君と共にもう一度立ち上がった。恥ずかしそうな苦笑を浮かべこちらに歩み寄ってくる由貴の表情を見ると、学生時代、自分の部活帰りを待ってくれていた20年前の情景が鮮明に蘇ってきた。歳は取ってもまだ由貴は小柄で可愛らしく、丁寧に積み重ねられた月日が大人の魅力となって加わっているほかは、鹿島君が友達と一緒だといつもよりも余計に恥ずかしそうな顔をする、その表情も仕草も二十年前と全く何も変わっていなかった。
「久しぶり~」
「久しぶり。藤尾君、これは反則だよ」由貴は鹿島君には恥ずかしそうに顔を赤めながら、藤尾君にはグーで叩く真似をした。
「こいつに会いたがってたじゃない?」
「職場では会いたくなかったの!もっと綺麗な場所でもっと香水付けておめかしして再会したかったのに・・・」
「充分綺麗だよ」鹿嶋君が心からの言葉を口にした。「良い匂いもしてきた気がする。僕の妄想かな?」
由貴は鹿島君の目を見詰め、見詰められながら、顔が赤くなりすぎて、ついに目を逸らした。
「俺もう帰って良いっすか?」藤尾君が上着を持って席を立ち帰ろうとし出した。
「え?どう言う事?」
「そう言う事。」
「他の奴らは?」
「お前等を会わせたかったのさ」
「帰っちゃうの?」そう言いながら由貴の手はバイバイ~と藤尾君に向けて振られていた。
「後はお二人でごゆっくり」自分でこの状況を仕組んだのだろう癖して、藤尾君がなんとなく本気で臍を曲げ始めたのが鹿島君には分かった。
「待って待って・・・一緒に出よう」
「嫌だっ!俺は払いたくない!一銭も払いたくない!つまんないっ!」
「ええ~?よく分からんけどここは俺が出しとくけど・・・」
鹿島君が支払っている間、店の外で二人は何を話していたのか、打ち解けてニコニコして煙草を吸いながら鹿島君が出てくるのを待っていた。
「御馳走様です!鹿島君。あざっす!」藤尾君がぺこりと頭を下げてきた。
「次はどこへ行く?二軒目は払ってよ」
「送って行ってあげなよ。姫を」藤尾君が由貴にコートを着せかけてあげながら鹿島君にウインクした。
「もう帰っちゃうの?」鹿島君はちょっと女性がいると面倒だなぁとうっすら感じながら、そうとは言えずに由貴に窺ってみた。
「帰らないと。用事があるから・・・」
由貴が携帯電話で時間を見たのを見て鹿島君も自分の携帯を出して時刻を見た。18時半だった。
「じゃあ・・・」鹿島君は藤尾君の目を見た。「駅まで送る?」
「とりあえず駅か」
なんとなくみんなでブラブラ梅田駅の方へ歩き出した。
「こいつ由貴ちゃんの後ろ姿見て綺麗な子が居る~って騒いでたんだぜ」と藤尾君が言った。
「騒いでたのはそっちだ」小学生の会話だなぁと思いながらそれでも黙って聞き流せず鹿島君が訂正した。
「どっちか真弓ちゃんと連絡取ってない?」
「取ってない」鹿島君が答え、藤尾君も頷いた。
「そうかぁ・・・」
「この辺は変わってないけど梅田駅周辺はだいぶ様変わりしたねー」
「テナントが入れ替わっただけでしょ」
「そうかな。あんなのあったかなぁ」鹿島君が駅の隣のビルを指さした。
「そっか、あれが建つ前だったか、お前が出張でいなくなったのは」
「みんなだんだんいなくなっていっちゃうねー」
「女子同士は連絡取り合ってるんじゃないの?」
「そんなことないよ。年々音信不通になっちゃう子が続出。電話やラインでは繋がれてても、パッと会いにまでは行けないような遠くに嫁に行ったり出稼ぎに行ったりして、みんな日本中に散っちゃったよ。外国に行っちゃった子もいるよ。」
「由貴ちゃんは行き遅れたの?」
「ねー?」由貴は返事を濁した。
駅に着くと藤尾は電光掲示板を見て突如、走り出した。大人が出せる全速力を出して。「俺あれに乗るわ!」
鹿嶋くんも藤尾の後を追いかけて走り出した。「待て!藤尾!」
由貴も走ったが、仕事用のスニーカーは焼き鳥屋のロッカーで履き替えてきたのか、踵がお箸でできてるようなまるで電車に乗り遅れるために履いてるようなブーツで、男二人にみるみる差を開けられ始め、叫んだ。「待って!鹿嶋くん!」
鹿嶋くんは由貴を振り返り、失速した。「藤尾!止まれ!諦めろ。次の電車に乗れ」
「1分後の新快速に俺は乗る!」藤尾くんは後ろも振り返らず、腕時計を翳してさっさと改札をくぐってしまった。藤尾は本気のようだ。鹿嶋くんはポケットの中で手にICOCAを握り締め、藤尾の背中と由貴を交互に見比べた。
「由貴ちゃん…」由貴が自分に追いつくまで待ち、藤尾を振り返ると、親友だと思っていた裏切り者は人混みに紛れて姿がもう見当たらなくなっていた。
「鹿嶋くん、ありがとう…待ってくれて…」息を切らせた由貴が鹿嶋くんの肘の上あたりを掴んで呼吸を整えた。
「大丈夫?まだ走れる?」
「え、もう走れない。藤尾君行っちゃったね」
「あぁ、うん、・・・(俺一人ならまだ追いつけるかもしれないが…と鹿島くんは思ったが口に出さなかった。)…あいつがあんな奴だったとは…」
「何か気を遣ってくれたのかな」
「さぁ・・・」
「でも良かった!二人で飲み直そうよ!」
「えっ?帰らなくて良いの?」
「もう少し一緒にいたいなぁ」
「用事は?」
「無いよ」
鹿嶋くんは明らかに自分に気のある女性に肘に凭れ続けられていて半分は良い心地になれそうだったけれど、半分は何か裏があるような予感がして、上目遣いをしてくる由貴を可愛い妖怪を見るような気持ちで見下ろした。気味の悪い胸騒ぎを起こさせる上目遣いだった。でも見つめ続けたくなる自分のためだけの上目遣いだ。間近で見る由貴の表情は妖艶で、顔は自分と同年代の女性だった。年を取ったな、と鹿島くんは思った。お互いに年を取ってしまった。簡単に騙されるのは難しくなってしまった。自分も歳をとりすぎて。彼女の方も、イチコロに男を魅了するにはちょっと年齢を重ね過ぎた。
「どこへ行く?」
「鹿嶋くんはどこへ行きたい?」由貴の声がゆったりとした甘く優しい囁きに変わった。学生時代にはこんな声音で喋る人ではなかった。
「僕はお腹いっぱいだけど、由貴ちゃんはお腹減ってるんじゃない?」
「お腹は中くらい。映画でも見る?」
瞬間的に鹿嶋くんは学生時代の甘酸っぱいデートでの失敗を思い出した。映画よりも見ていたい好きな女の子がせっかく隣の席にいるのに話しかけることも見詰めることもできない二時間が辛すぎて、せめて手を繋ぎたいと思い、彼女の膝の上に重ねられた手を握ろうとして、上映中の映画に集中していた由貴をひどく驚かせ勘違いされてしまって、『痴漢の真似事がしたいんなら二度とあなたとは映画は見ない!』ときつい囁き声で叱り付けられたのだ。同じことを同じタイミングで思い出したのか、現在のその女の子が言った。
「もうあの時みたいなこと言わないから。私。大丈夫だよ。」
「そうか…」鹿嶋くんは若くて女心も男心も分からず擦れ違いの多かった自分達の未熟な恋に今更照れながら、上映中の映画を調べるため携帯電話をポケットから出した。
「そう言えばメープルシロップクッキーをキミの店のあのテーブルの下に置き忘れてきた。明日店のみんなで食べてよ」
(世界各地を数年おきにパタパタと異動して回った慌ただしい十数年だったが、鹿島君は最後の年にはバンクーバーに戻って来ていた。アメリアという女の子のことだけうっすらと覚えていたが、数ある店の電話番号の中からどの番号が彼女のいた店の番号だったかももうハッキリと覚えていないし、おなじ店に同じ子がずっと働いているはずもない。満開の植木鉢のシクラメンと同じだ。一つの花は数日間しか持たないが、後から後から別の花が開くからいつも鉢は花で溢れている。
(確かこの店だったかな・・・)と思う店のサイトには色んな女の子のセクシーな後ろ姿や体の艶めかしい一部分を切り取った写真や、気を引く短い紹介文や名前などが載っていたが、・・・アメリアという子はこの夜に何人もいる。ゆきと同じで。それに鹿島君自身も、あの彼女にもう一度会いたいのかどうか自分の心がよく分からない。もし会えたとして、本当に彼女だと自分が見極められるかどうかも・・・会って何をしたいのかも・・・恋をしたいのか、しているのか、それとも何か女性に対する罪悪感を拭い去りたいのか・・・
生涯一人の女性とずっと寄り添い同じ時を重ね一緒に手を取り合い老夫婦になりたい、子供を作ったりとかして、と、十代二十代の頃はそういうのが自然で普通だと思って見ていた夢もいつの間にやら有耶無耶になり遠のき、消え去っていた・・・自信が無い・・・今更もう遅い・・・
・・・彼女とは、アメリアとは、三度目の夜が過ぎ、明け方に、次に立つ街の名を彼が口にしたとき、『連れて行って。私も・・・』とねだられたのだけれど・・・
あの日のアメリアと今夜のアメリアとの間に沢山の女性がいすぎて、目を瞑って真剣に思い出そうにも、次々に様々な幻影が通り過ぎていく。窓の外を鳩の陰が飛び過ぎるみたいに、捕まえることは出来ない。手を伸ばすことさえ、もう遅い。
ある女の子は、鹿島君の耳を噛むのが好きだった。甘噛みだと思って好きにやらせていたが、翌朝髭を剃るときになんだか左耳だけ痛いなぁと思って思い出した・・・
ある女の子は、彼女の部屋に着いてから、抱いている間中もずうっとお腹をグーグー鳴らせていたので、出前を取り寄せてやると美味しそうに食べ、麺が伸びるよ、と言うのに半分はとっておこうとした。『弟のために』と言って。『自分を選んでくれてありがとう、でも妹も困ってるんです、店には所属してないけれど・・・呼んであげて貰えませんか?ちょっとお小遣いをやってあげて貰えませんか?』と言うので、『良いよ』と内緒で承諾した。彼女がどこかに一本電話をかけると、妹という子はすぐに現れた。二人の女性を同時に抱くのは忙しないだろうなぁと鹿島君は予想していたが、彼はただ寝転んでいるだけで良かった。二匹の敏捷な猫が鹿島君の柔らかかったり硬かったりする身体中の様々なこそばゆいところをペロペロ舐めてくれてるみたいだった。彼はクスクス笑い、ちょっと手を伸ばして黒髪と金髪の揺れる巻き髪を撫で、少し微睡み、三人でチョボチョボとしか出ないシャワーを浴びてお風呂に浸かった。あのシャワーは力一杯栓を閉めてもまだチョボチョボと出続けていた。ラーメンは妹という子が食べ、(でも髪の色も目の色も姉妹は似ていなかった。魂の双子なのかもしれない・・・)鹿島君は同じ近くの中華料理屋にもう一度電話をかけて冷めても美味しく食べられるチャーハンと餃子と肉団子の弁当を取り寄せてやった。二人のそれぞれに一人ずついる“弟達”のために。店に所属している女の子と同じだけの料金を手渡してあげたので、妹という子は飛び跳ねて喜んだ。こちらに分からないと思って二人は早口のフランス語でお喋りした。「いい人だねこいつ」「今日は店じまいしよう」二人は鹿島君の左右に寝そべり、漆黒とゴールドの長い巻き髪を彼の脇や腕にサラサラ擦り付けて、両側から四本の腕と脚を鹿島君の体に巻き付けて少し寝息を立てて休んだ。鹿島君は深く眠らないように注意して意識を保っていた。商売女の部屋へ出向く時には財布やカードや身分証など無くなって困るような物は自宅に置いていき、万が一盗まれたとしても(一万回に一度ではなく、盗まれることは結構あった、)無くなっても良い現金しか持ち歩かないようにはしていたが、命や脈打つ心を家において出てくることはできない。そういった体から切っても切り離せぬもののために彼はこれまでも苦しんできたのだ(もし彼女らの弟と名乗る男達に目覚めた瞬間取り押さえられこめかみに銃でも突きつけられていたら・・・)簡単に想定できることは簡単に実現する。弟達が登場しなくても、女性は二人いる。侮ることは出来ない。目を離した隙に飲み物に薬品を混入するのは男だけの手口ではない・・・優しさや癒やしを求めこちらは金を支払う約束をしているのだが、苦い裏切りに遭うこともある・・・
・・・また、ある女の子は、『右側のオッパイにだけは触らないで』と言った。『そっち側で子育てしてるから・・・』・・・またある女の子は、いまだに半分夢の中の出来事だったように、あれは女性であったのか男性であったのか定かではない。『今夜はダメだ、どの子も予約が一杯です』と何軒かの店に断られ、バーで飲みながらの直談判で引っかけた水着のショー・ダンサーだった。こちらもグデグデに酔っていたのだけれど、思えば相手の骨組みはガッシリしていて、腿にグイグイ押し付けてくる相手の恥部の小ぶりだが形のあるしっかりとした漲る物を感じて、ごめん、下は脱がないでくれと頼んでしまった・・・まだ自分にはそちら側の新しいドアを開く度胸はないと思い知って・・・彼?彼女?の部屋で宅飲みしながら酔い潰れ、起きたら『15時に帰る』と置き手紙が残されていた・・・・・・またある女の子は、思いっきり強く引っ叩いてくれないからと言う理由で、腹を立てて半裸の鹿島君を家から追い出した。・・・黒いブラに包まれた褐色の硬いおっぱい、緑のショーツからこぼれ落ちんばかりの可愛い白とピンクのフワフワたぷたぷしたお尻、かくれんぼが得意なバレリーナの卵、(家まで待てない)と囁きタクシーで下着を、廊下でワンピースを脱いでしまったダイヤモンドのブレスレットだけの子、下よりも上になる方があたし好きなのと囁く雨のような声・・・
チームで異動し慕ってくれた後輩が、『地球儀を買って鹿島さんの女友達のいる国にピンを刺していきましょうよ。針山みたいになりませんか?』と言ってやたら鹿島君に遊び人の印象を持っていたが、当人はいつも真面目に緊張しながら予約を入れるのだ。一晩、我慢の出来ない孤独をどうにか共に乗り越えさせてくれる人を求めて、そう言うサイトを分析したり予約のボタンを押したり、電話をかけたりする最初の瞬間は、目の前に現れた初めましての相手の最初のホックを外す瞬間と同じで、自分の六畳の畳の部屋の布団の上でユキの喉のジッパーに初めて指をかけた17歳の少年に戻り、まだ今でも緊張して手がほんの少し震える。何か事情があって嫌嫌やむにやまれず働いているのかも知れない彼女たち女性から、金の力で愛を買うのは今でも本当は気が引ける。上手に完璧に抜かりなく騙して欲しいが、それを求めるにはまだ地上の通貨では足りないのかも知れない・・・彼女らはどこかにビジネスライクな一面を必ず持っていて、時間が来るとか、決められた仕事が終わると『それじゃ、グッバイ』と後腐れなく立ち去るが、また、そうでない場合にはこちらが困る・・・
鹿島君自身も、歯切れ良く後腐れない関係を実は内心求め始めるように今ではなっていて、いちいち縁切りのために手切れ金として一夜の恋人達に別れるための金を支払う事に同意し、この契約を今では活用し始めている節もある・・・)
「明日は私お休みなの。」
「・・・そう…」
「だから今夜は夜更かしできるの・・・」
鹿嶋くんはチラッと由貴の目を盗み見てみた。怖いような気分になって来た。由貴が何を考えているのか掴めない。
「今何やってるだろ…」映画館で上映中の映画に話題を戻すつもりで呟くと、
「うちで見る?」由貴の目がギラッと光った。捕食者の目をしていた。
(男にも生理って言い訳があったら良いのに)と鹿島くんはたじろいだ。しかし、後ずさりしそうな一歩を踏みとどまり、なんとか持ち直した。
「キミのお家?お邪魔して良いの?ご両親は?」
「一人暮らしよ」
「そう…」辺りを見回してみた。何も辞退する言い訳になりそうなものが見当たらなかった。
「キミのお家にお邪魔して良いのかなぁ?僕…」
「招待してるの。むしろ」何か妙な自信満々さが由貴にはあった。確かに、年の割には若く見えるし、色気もあり魅力的だと思う。でも…
少女のうちから可愛らしかった彼女は、チヤホヤされすぎて自信家になってしまったんだろうか?男なら誰でも自分にホイホイ付いてくるのが当たり前だと思っているのか?誰にでもこんな風に誘いかけているわけではないのだろうが…でも、もしそうだとしたら、なんだか焦っているようにも見える…
「今日は映画館でやってる映画を見よう。次の機会があればキミのお家に…」
「そんなふうに言うってことは、次の機会なんかないって事よね?」まだ鹿嶋くんが全部言い終わらないうちに由貴が拗ね始めた。
「いや…」
「あなた私の部屋が見てみたいって凄くしつこく言ってたの覚えてる?たまたま両親が今家にいないって、私が口を滑らせた時の事」
「え…」(一体何年前の話してるんだよ…)と鹿嶋くんは驚いた。
「あの時は家の門の前で粘られて粘られて早く家に入りたいのに入れなくて、帰りたいのに帰れなくて、次の日も断っても断っても『送るよ』『送るよ』って言ってくれて、私物凄く有難迷惑で困ったのに、今は来たくないの?私の家。なんで?狡いじゃない!」
(なんでって言われても、…なんでだろう?)鹿嶋くんにも確かに、理由ははっきり言えなかった。ただ単に、どうも気が進まないだけだ。
「私がおばさんになっちゃったから興味が失せた?」
「いや、全然、全くそんなことはないよ。キミは凄く魅力的な女性だよ。今も昔も。多分僕が自分勝手なんだろうな・・・。送って行くよ。それでキミの気が変わってなかったら映画を見せて。キミの家で」
由貴は二秒くらいふくれ顔をしたままでいたが、その後ニヤリとして、鹿嶋くんの腕に腕を絡め、それ以降はずっとニコニコ機嫌良さそうにしていた。成城石井に寄り道し、『映画見ながら食べよ』と言ってちょっと良いお菓子を三つも四つも選んだ。イカリスーパーにも寄って、映画を見ながら飲むちょっと珍しいお酒を沢山仕入れた。フルーツ飴を売ってる露店の前を通り過ぎながら、これも食べてみたい?と叔母さんみたいに聞いてきた。(鹿島君の本当の叔母さんは息子がいなくて、男の子がずっと欲しかったようで、おばあちゃんの家に帰ると毎年一族総出で行く初詣の帰りに鹿島君にだけ欲しい物がないか、林檎飴は食べたくないか、フランクフルトは?ベビーカステラはどうか?男の子はいっつもお腹がペコペコなんでしょ?食べられるでしょ?と構ってくれた。少年期のどんな髪型の時にも、『叔母ちゃんその髪型好きよ』と目を細めて褒めてくれた。)
「君が食べたいなら買ってくるよ」
「私はあなたが食べてるところを見たいの。昔はちょっと苦手だったけど。今は見たい。夢中で食べるじゃない?凄い勢いで。腹ぺこのワンちゃんみたいに、早く食べなくちゃ誰かに取られると思ってるみたいに。気が付いてなかった?付き合ってた時・・・」
鹿島君はちょっと恥ずかしくなって、眉をハの字にひそめた。
「お腹が空いてて、さあ食べる、ってなると、部活帰りの若い時って目の前の食べ物に集中しちゃうからなぁ・・・余裕持って女性とお喋りしながらのお食事って、なかなか大人になってからでないと出来ないよ。」
「それが良かったの。待てが出来ないワンコみたいで、可愛くて。一度に一つのことしか出来ないんだけど、その時はその事で頭がいっぱいになっちゃうのね、鹿島君。それがあなたの良さだった、何事にも一途で。私も付き合ってるときには分かってなかったの。何話しかけてもモグモグしてて次の一口に夢中だから、自分がハンバーガーとか唐揚げとかドーナツに劣る存在なのかと真剣に悩んでた。後から後から、振り返って、あなたがどんなに真面目で素敵な可愛い人だったかが分かってきたの。そういうのだって、大人の女にならないと分からないんだよ?」
「そうだね・・・そういうもんだね・・・」
「だけど確かに一晩では食べきれないかな?ちょっと買い込みすぎたね?」
自分と一緒にいられてルンルン楽しそうな女性を見て鹿嶋くんだって悪い気はしなかった。
「荷物貸して。持つよ。家はどこなの?」
「ここから歩いて15分くらいのところ」と由貴は言った。
「良い所に住んでるんだねー」
「梅田って駅から15分歩いて離れたら田舎だよ」
由貴が住んでいるマンションは外から見上げると高級そうな煌びやかな外観だったが、内側に入ってみるとそれほどでもなさそうな高層マンションだった。なんだか造りが荒っぽくて塗装が未完成のままみたいに見える灰色のロビー、舞台裏のエレベーターみたいな雑なエレベーターが四基。二人が入ってくるのと同時に吹き込んだ冷たい風が、廊下の角の灰色の大きな埃の塊を動かして、目の端で黒い影が揺れ、鼠がいるのかと鹿島君は一瞬爪先に力を込めた。寒々しい廊下の突き当たりにある灰色の殺風景な箱に乗って、中の上の階に降り、見上げても見下ろしても何も見えない吹き抜けの中庭を回り込み、由貴の住む家に案内された。
ドアを開けて一歩中に入ると、彼女の部屋は女性らしい温かみのある配色で彩られ、ドアを開けた瞬間、花か焼き菓子のような甘い芳香剤の良い香りがして、鹿島君はホッとそれだけで人心地が付いた。帰国後すぐだからか、天井だけはとても低く感じたけれども。目測で頭をぶつけてしまうはずはない高さがあることは分かっていたのに、なんとなく鹿島君は片手を上げてすぐに届く天井を撫でてしまった。珍しさと嬉しさで。それから振り返った由貴に見られたのが分かって(あ、なんか今ちょっと嫌味に見えてしまったかな・・・)と口内で舌を噛んだ。
客用の柔らかいスリッパを踏み、案内された居間のオレンジ色のソファにお尻を沈めながら、鹿島君はほどよく片付いた室内を見回してとりあえず部屋を褒めた。
「綺麗なお宅だね…」
「外観だけはね。戸数を多くとるために天井が低くて家の中は狭いけど、おかげで結構安かったの。暖房の利きも良いし、住めば都。凄く快適。外から見上げてるときは『わぁ、ここに住んでる人ってどんな人達なんだろう、お洒落!住んでみたい!』って思えたんだけど、内覧したら『わぁ、窓からの眺めが素敵!』って思えたの。歩いて職場にも通えるし、買って良かったと思ってる。今も窓からの眺めは一番のお気に入り。来て。見て・・・」
由貴はカーテンを開け、手招きして窓辺に鹿島君を呼び寄せた。最初、室内の灯りが窓ガラスに反射して外がよく見えなかったが、由貴が部屋の灯りを消すと夜景が綺麗に浮かび上がって見えるようになった。
「本当だ、凄い。綺麗・・・」
「本当は夕暮れ時が一番綺麗なの。沈みかける太陽と点り始めるビルの窓灯りが同時に見えて、一時間でもここに立ったままボンヤリ見とれていられるの。刻々と景色の方が変わり続けるから、何度見ても見飽きなくて・・・」
鹿島君は由貴の横顔をチラッと盗み見た。今は青い月明かりと外からの街の淡い灯りにシルエットだけが照らされて、凄く素敵だった。簡単に言葉にして口に出して褒めても良いものかどうかよく分からない。この状況がよく分からない。自分はここで何を求められているのか?
由貴が自分を見上げて笑いかけてきたとき、鹿島君はつい色々考えることを放棄して、昔付き合っていた今も大切な女性の肩に腕を回し、少し屈んで唇に唇を寄せた。由貴は嫌がらなかったし、なんならもっと強い力で鹿島君の背中に腕を回してしがみ付いてきた。
(灯りを消したのはこの人だ・・・)と口付けながら鹿島君は思った。(自分を部屋へ誘ったのも、藤尾を邪魔者扱いして帰らせたのもこの人だ・・・)
鹿島君の頭よりも左手の方が賢くて、どうすれば良いかをよく承知しているみたいに、何も考えなくても、唇を唇に押し当て舌を絡めたまま、由貴のコートを片手で肩から払い落とすように脱がせた。由貴の手も鹿島君の上着のボタンを引っ張っていた。
「寝室はどこ?」
「ソファで・・・」
二人は内緒話みたいにヒソヒソ声で息継ぎの合間に話し合った。鹿島君は一旦屈み、何をされるのかとちょっと驚いて目を見張った由貴の膝の後ろと背中に腕を回して、彼女の体を軽々抱き上げた。ソファまで歩いて行き、由貴をそっとソファに下ろして、床に膝をついたまま彼女の着ている物を脱がせた。上から順番に、カーディガン、ブラウス、スカート、ストッキング・・・純白の上下お揃いのブラとショーツが現れた。光りの乏しい部屋の中でも輝いて見えるような真っ白さだった。そこまできてから由貴は恥ずかしがり、それ以上脱がされる前に「鹿島君も」と言って、彼の上着のボタンを今度は両手でスルスルと外した。火の付いてないキャンドルだけが載ったテーブルに二人の服が重ねて置かれた。由貴のブラウスとスカート、ストッキング、鹿島君のスーツの上下、由貴のブラ、鹿島君のパンツ、由貴のショーツ、鹿島君の腕時計・・・
弾む息が整ってきたとき、鹿島君は自分の体の上で寝息を立て始めた由貴を床に落としてしまわないように、両手と背もたれのない側の膝を立て、そーっと重心を動かし、首を巡らせて壁に時計を探した。時計はあるのか無いのか分からないが、見えない。眼鏡もどこかへ行ってしまった。(いつの間に?・・・多分、あの出窓の少し棚みたいになったところへ由貴が置いたのだ・・・それとも、狭いソファの上で汗みどろになって一生懸命に貪り合っている間に顔から振り落とされたのか・・・)テーブルの上の自分達の服の頂上の銀色の腕時計に片手を伸ばしてみたが、由貴を体の上に乗せたままでは絶対に届かない距離だと分かって、諦めた。
「どうしたの?お手洗い?」由貴が目を覚ました。
「もう帰らないと・・・シャワーだけ借りられる?」
「朝までここに居れば良いのに。」
「ここに居て何をするの?今から映画を見る?」
「まだ・・・(由貴は窓辺まで裸足で歩いて行って、部屋の灯りを点けた。眩しさに目を瞬きながら、)まだ夜中の二時だよ?」
「朝までここに居るわけにはいかないだろ」
「なんで?」
鹿島君は首を横に振った。(自分が一番分かっているでしょうに・・・)と思ったが、口に出さなかった。真っ白な灯りの下に立つ由貴をまじまじと見詰めていると、彼女はもう一度スイッチを押して視界を闇で閉ざした。
(シャワーはもう良い・・・帰ってから浴びよう・・・)と諦め、腕に時計を巻き、パンツを履いて、着て来た衣類を身に付け始めた。由貴がそばに寄ってきて、両手で鹿島君の背中やお腹に触りながら、身支度するのを阻むでもなく、手伝うでもなく、何も言わずに、裸のまま素振りだけで帰って欲しく無さを伝えてきた。
「トイレだけ借りて良い?」
「うん。こっち・・・」
廊下に出るとひとりでに明かりが点った。自動に点る明かりはいつも城を思い起こさせる。由貴がトイレのドアを開けてくれた。
「ありがとう・・・」便座に座り、鹿島君は溜息を吐いて頭を掻きむしった。
(やってしまった・・・)今は後悔しかない。はめられたようにすら感じてしまう。藤尾も、あいつもグルなのか?聞くのが怖いが、由貴は多分既婚者だ。離婚してるか未亡人なら良いが、多分違う。そうならそうと言うはずだろう。きっと旦那さんが出張中なのだ。こういうことは、旦那の出張中に男を誘って自宅の居間で火遊びするのは、慣れているのか、今日が初めてなのか・・・何故か避妊具が必要なとき必要な場所(ソファからすぐ手の届くティッシュの箱の陰)からスッと出て来た。まるで売春婦の部屋みたいに・・・何故なのか知らないが、知りたくもない・・・慣れているようにも、慣れないことをやってたようにも見えたが、そんなことはもはやどうでも良い。吐きたい。時間を二十四時間前に巻き戻して、昨日の自分に毒を盛りたい。警告してやりたい。もう一度海外出張を命じられて明日から出国したい。
再度深い溜息を吐き、トイレを流して無表情の顔を取り繕った。鍵を開け、洗面台で顔だけ洗い、廊下に出ると、音が聞こえたのか由貴も居間から出て来た。下着を身につけ、ブラウスの袖に腕を通しながら。
「黙って帰ろうとした?」廊下に続く玄関にも点っている明かりをチラッと見て、由貴が聞いた。
鹿島君は喋ることさえもうしんどかった。忘れ物はないだろうか・・・?忘れ物をしたら最悪だ・・・由貴の隣を彼女の体に触れないように通り抜け、居間に入って、泥棒のような心境で、自分が歩いた場所を窓辺まで確認しに行き、何も痕跡を残していないのを確認して引き返してきた。そのまま廊下へ出て、玄関へ向かった。黙って後ろからついてきた由貴が、涙声で聞いてきた。
「ねぇ・・・まだ連絡先を教えて貰ってないんだけど・・・」
「うん。ごめん。」鹿島君は振り返り、肩を震わせている由貴を見た。「風邪引かないでね」
「鹿島君・・・また会いたい・・・」
「ごめん」
「もう会えないの?」
鹿島君はそろりと頷いた。
「ひどくない?」
何がひどいのかもうよく分からない。確かに由貴は結婚しているともしてないとも言ってないし、騙したか騙されたかとか、よく分からない。ただ二人して動物みたいにやりたいと思ったことをそのままその場でやってしまっただけのことだ。お互いが一度限りの秘密にして墓場まで口外しなければ済む事なのかも知れない。しかし・・・
「繰り返すのは良くないと思う。ごめん、僕も・・・後からこんなこと言って・・・」
由貴が両手で顔をギュッと覆いヘナヘナ膝を床について正座するような姿勢で嗚咽を漏らしだしたので、ギョッとして、鹿島君は帰りにくくなってしまった。自分に出て行ってくれるなと言って玄関で泣き崩れる女は雪以来だった。置いては帰れない。例えこの後、由貴の体が湯の抜けた浴槽の中で見付かる事になったとして、それを見付けるのが旦那さんしかいないにしても、そうすればこの秘密は永久に封印されることになるとしても、この状態では帰れない。
「ちょっと、立って。由貴ちゃん、お願いだから。泣き止んで・・・」
「あの人は女の人の家に居るの。」由貴が洟を啜り上げながら言った。
「もう証拠も掴んである。あなたを巻き込んでごめんなさい、鹿島君。でも、どうしようもなく寂しかったの。一人では・・・」
「そうか・・・話を聞こうか・・・」鹿島君は諦めた。もうどうにでもなれ。急に、早く旦那さんに帰ってきて欲しくすらなってきた。そういうことなら。三者面談してやろう。俺が由貴夫妻のいざこざに決着をつけてやろう、第三者が間に入った方が話が纏まるのも早いのではないか、とさえ思えてきた。こうなったらとことんまで付き合ってやろう、昔は自分と結婚するんだと思っていた、自分が全力で幸せにするんだと思っていた、可哀想に、冷たい床に座り込んで今は涙を落とし助けを求めている、幸せではないらしい由貴に。
「何か温かい物を飲もうよ。居間に戻ろう?」
「朝までいてくれる?」
「いるよ。」
「夜が一番寂しいの。朝になったら大丈夫だけど・・・仕事場に行けば友達もいるし、人に電話をかけても良い時間帯になってくるし・・・夜が明け始めれば、気持ちにも光が差し込んでくるの。なんとかなるはずだって。ずうっとこのままのはずはないんだって。でも、夜は毎晩、凄く辛くて、寂しくて、眠ってしまいたいけど、薬に頼りすぎるのも怖いし、何で何で、私ばっかり我慢してるんだろうって、悲しくて、情けなくて、悔しくて・・・」
「うん。分かるよ。夜が一番辛いのは・・・」
「鹿島君の事ばかり思い出してしまってたの。この何年か、ずうっと。ああ、高校時代のあの頃が、私、本当は一番真面目に真っ直ぐに男の子に愛されてた時だったのかも知れない、って。当時は気が付かなかったけど・・・」
鹿島君はうん、と頷いた。真剣に好きだったよ・・・
「今の旦那さんだって、結婚する時は真剣だと思ってたの。絶対に幸せになれる自信があって結婚したの。こんなに浮気する人だと分かってたら、誰も結婚しないわ!」
「うん・・・そら、そうだね・・・」
鹿島君はブルッと震え、上着を脱いで自分よりも寒そうな由貴に着せかけてあげようとした。
「そういうところよ、ちょっとムカつく!あなた、私が覚えてるままの鹿島君じゃなくなってる!海外赴任中は物凄く遊び回ってたって噂だった!」
まさか自分に火の粉が飛んでくるとは予想外だった。
「本当、ちょっと色目を使っただけで、あなただって簡単にノコノコここまでついて来たでしょ!私が結婚してるって薄々気付いてた癖に!楽勝過ぎて嫌になったわ!畜生!誰にでもこんななの?男はみんなどうしようもない生き物なの?!」
「ちょっと待ってよ、えぇえええ?・・・僕だって・・・君が毎晩こんな風に男を誘って自宅に持って帰ってるのかと、呆れて、悲しかったんだよ?」
「やり終わった後ででしょうが!?私だって・・・私だって、・・・自分だってそうだから、自分の事ももう大嫌い!糞旦那とおんなじだわ!全員、死んだ方がマシ・・・!死にたい・・・ウ・・・エ・・・エ・・・」
由貴は喉を詰まらせ、えづきだした。一瞬は怒りに燃えて引っ込みかけていた涙が、またボタボタと裸の脚に、床に、鹿島君のズボンに落ちた。ヒュッヒュッと過呼吸になりかかったみたいな呼吸を意識的に自分でなんとか持ち直し、フーッ、フーッ、ハアハア、ゲホゲホ、噎せながらも、息をゆっくり元通りに落ち着かせた。鹿島君は由貴の背中をさすってあげながら、本当に帰らなくて良かったと考えていた。心に抱える闇の深さは外傷と違って目に見えないから、一見大したことなさそうなように見える状態が実は致命的な一刻も余地のない重症だったりして、後から後悔するのは二度と御免だった。
「私はあなただけよ・・・今日が初めてよ!」
「もう分かったよ・・・」
「あなたとは違う・・・」
「う、うん・・・」(俺・・・そうかなぁ・・・?)と思いながら鹿島君は一応謝った。「ごめん・・・でも、僕が遊び回ってるなんて、誰がそんなことキミに吹き込んだの?」
「風の頼りに聞いた!」
「藤尾か?あの野郎・・・」
「違う人よ!」由貴はヨロヨロと立ち上がった。しっかり鹿島君の腕を掴み、「朝までは居てくれるって言ったよね?」ともう一度念を押してから、手の甲で目を押さえて涙を拭った。
「温かい飲み物、私も飲みたくなってきた・・・」
「飲もう。場所を教えてくれたら僕がやるよ。キミは座ってて。」
「あなたは朝まで居てくれるだけで良いの。ごめんね、鹿島君。本当はそれだけでも迷惑かけてるのは分かってるんだけど・・・私はあなたには、ずっと『ごめん』ってだけ言わなくちゃって思ってるし、本当にそうなんだけど、何か他の違うことまで色々言っちゃって・・・ごめん」
鹿島君の覚えている大人しい、声の小さい、恥ずかしがり屋の由貴が急に戻って来た。彼女もまた、年を重ねたり、必死になったり、情緒を乱したりして、鹿島君の知らなかった一面や別れた後から形成された性格を表面に表し、妖艶な誘惑者や駄々っ子や打ちのめされ怒り狂った人妻やら、一夜にして何重人格かに見えたが、落ち着きを取り戻してくると、やっぱり昔からの優等生の由貴はこうだったなぁと懐かしく感じさせられた。自分はこうでありたい、人にこう見られていたい、という一番外側の仮面は、彼女の場合、今も変わっていないらしい。
(素の表情が見られて良かった、今も自分を頼りにしていてくれて、好きでいてくれてると言うのはどうやら本当のことのようで、喜ぶべきなのかはよく分からないが、そら遊び目的だったと分かるよりも、嬉しいに決まってる・・・)と鹿島君は思った。
「良いよ。胸の痞えを全部吐き出してくれれば・・・僕で良かったら聞くよ・・・」
二人は居間に戻り、さらに奥のキッチンへ移動した。飲み物は自分が用意すると言いながら、由貴が袖を掴んだまま歩くので、鹿島君も台所まで連れられてきた。まだ目の届くところに居て貰わないと逃げ帰ってしまう恐れがあると疑われているのかも知れない。鹿島君はカウンターに凭れて、自分の上着を羽織った由貴が目を泣き腫らし化粧のとれた汚れた顔で、脚は裸のまま、湯を沸かしたり生姜湯やらココアやら梅昆布茶やらゆずジャムやらを戸棚や冷蔵庫から取り出すのを見守っていた。
「何杯飲ますつもりなの?」
「朝までは長いよ。お風呂も沸かすね」
「・・・旦那さん、明日は帰ってくるの?」
「帰ってこない。だけど自分の家はここなんだから、いつでも帰ってきたら良いんだけど、・・・でも、あなたがお風呂場で裸でいる間は内鍵を外さない。だから安心してくつろいで。」
(そう言われてもなぁ・・・ソワソワしちゃうよなぁ・・・)と鹿島君は内心で思った。
(体格は良い人なんだろうか・・・?自分の事を棚に上げて、すぐカッとなるタイプとかでは・・・?・・・まぁ、いいや。もう・・・)
「映画も見る?初めはそう言ってたんだよね」
由貴が嬉しそうにキラキラ輝く悪戯っぽい目で鹿島君をチラッと見た。裸足の脚の爪先には、上品な手指の桜色と違って派手なラメの赤いネイルが光っていた。
「そう言えばお酒も食べ物もいっぱい買ったんだった。エッチしたらお腹が空いちゃったね?鹿島君もお腹空いた?少しくらい食べられるよね?」
鹿島君は頷きながら、ルンルン鼻歌でも歌い出しそうに間夫のための酒と摘まみを用意する由貴がまた分からなくなってきた。泣いていたかと思ったら今度は急に踊り出しそうだ。夫のことも後先を考えることも吹っ切れてやめてしまって、ただ、今を楽しもうとしているだけなのだろうか?さっきの涙は本物だったのだろうか、それとも何度も流したことのある迫真の演技の小道具なのか?
「由貴ちゃん、旦那さんの浮気の証拠ってどんなの?写真?」
由貴は動きを止めて鹿島君を見た。また瞳が暗く、表情が硬くなってしまった。
「ごめんね、気になって・・・」
「いっぱいあるよ。旦那の携帯のLINEのやり取りを自分の携帯で写したり、本当は出張も単身赴任もしてない事を会社に問い合わせたり・・・バレバレなの。子供が出来てから怪しいなぁと思ってたんだけど、だんだん大胆になってきて、今では隠す気もあんまりないみたい。私に離婚を迫る勇気がないと思って・・・」
「そうか・・・踏み込んだこと聞くようだけど、離婚はするの?」
由貴は黙り込んだ。
「子供は・・・今どこに・・・?」まさかと思いながら鹿島君はグッと声を潜めた。今更ながら。寝室に入れてくれなかったのは子供が寝てるからなのか?
「病院に・・・」由貴が涙を堪え始めた気配を察して、鹿島君は一歩そばへ歩み寄った。
「病弱な子なの。離婚したら、医療費を私一人じゃ工面しきれないと思う・・・娘とは死んでも離れたくないの。あの子のそばには私がついて居ないと・・・」
「そうか。それで我慢してるんだね。ごめんね、辛い事情を話させて・・・」
由貴は首を横に振り、黙々と沸騰した湯をお盆の上に用意した8杯のマグカップに注いでいった。
「僕が運ぶよ」
「大丈夫・・・」
「キミは脚が裸で危ない。落としたら大変だ。重たいし」
鹿島君は由貴がお盆を持ち上げる前にサッと盆の取っ手を横取りした。
居間のソファに戻り、見る映画を選んで、映像が流れ始めると、すぐに、由貴は鹿島君の肩に凭れて眠ってしまった。一日働いて夜更かしして泣いたり怒ったりエッチしたり、今日は凄く疲れたんだろう、寝かしといてあげよう、と鹿島君は肩を貸していた。映画を見ながら、(自分はこの場所で眠くなるはずがない)と思っていた。しかし由貴は鹿島君の腕にほっぺたを押し付けて凄く心地良さそうにスヤスヤ寝息を立てていて、金で買った見知らぬ女の子達とは違い、ずっと昔から身元の分かっている、安心できる相手だった。そして映画はどうも詰まらなかった。もうちょっと見ていたら面白くなってくるかと思って辛抱強く観ていたが、いつまで経っても退屈だった。初めて見る映画だが、何度も観たことのあるような先の読めるストーリー。女優も俳優もそれなりに美形だが、今は胸に訴えかけてこない。ウトウトッとして、それからダメだ、と目をパチパチ見開いて瞬きし、由貴の頭をそーっとソファの背もたれに預け、玄関まで内鍵がロックされているかどうか見に行った。ちゃんと施錠されていた。
居間に戻り、由貴の隣に座ると、深い眠りに落ちていると思っていた由貴が鹿島君の方に腕を伸ばし、自分で凭れかかってきた。
「寝室から布団か何か持ってきて良い?君の脚が寒そうだよ。風邪引くよ」
「寝室で寝よう?ちゃんと寝る場所で寝よう。鹿島君が嫌じゃなければ・・・シーツを張り替えてから旦那は帰って来てないから・・・」
「じゃあそうしようか。僕はどこでも眠れるよ。君の脚が見えないところでなら・・・」
「脚?私の脚が寒そうで眠れないの?」
「またそんな気持ちになってきちゃいそうなんだよ。ムラムラと」
「じゃあ解消しましょう。今度はちゃんとした広いベッドで・・・」
「本気?」
「嫌なら良いけど・・・」由貴は欠伸をしながら、脚を鹿島君の膝に擦り寄せ、しっとりと誘う目をした。鹿島君の唇をジッと見詰め、自分の唇が無意識に少し開いて、口の中でとろっと動く舌の気配を感じさせた。熱くて柔らかい由貴の美味しい舌が・・・
「嫌なわけはないよ。でも・・・」(ちょっと考える時間が必要かも知れない・・・)と鹿島君は思った。(次こそは確信犯だ・・・)しかし頭は何度捻ろうとしても回転せず、思考するという仕事を脳がボイコットしていた。こんな時間だからか、日中は頭蓋骨の中で懸命に働いている鹿島君を動かす本来は働き者の小人達は、全員、鹿島君の両脚の付け根辺りに集中して集まって来ていて、そこでしか今は働きたくない!!と、暴動を起こせと旗を振り全員で肩を組んで士気を高めているみたいだった。
(否もう既に確信犯だった・・・)と鹿島君は思い直した。(時間をおいて考えても、答えの出る問題でもない・・・)懐いてくる猫の頭のような由貴の膝頭をコチョコチョと撫でた。
「じゃあ、もう一度しよう。やるならとことん、朝までしよう。欠伸してる場合じゃないよ?寝かさないからね?」
由貴は花の蔓みたいな細腕を伸ばして鹿島君の首に巻き付き、膝の上に滑り乗ってきた。
「お姫様抱っこして連れって行ってくれるんでしょう?これまで付き合ってきた女の人全員にそうしてあげてきたの?そうしなさいって教わってきたの?留学中に?」
「僕が世界中に流行らせたんだよ」
ふっくらしていた雪よりも背が高かったユキよりも軽い、痩せているように見えても中身はギュッと詰まってるみたいだった外国で遊んできたどの女の子達よりも軽い、一番華奢で小柄な由貴を腕に抱えて廊下に出ると、点る明かりの先の扉を由貴が指さして案内してくれた。
「あれが寝室。今夜があなたと結婚した初夜だと思いたいなぁ・・・」
「そう思おう。僕たち、本当はそのはずだったんだ」
鹿島君はこれまでに何度か味わった心境に再び立ち戻っていた。
(彼女にも立場があるから、ああ言ってはくれても、きっと旦那さんにバレたときは僕のせいにするだろう。そうするしか無いんだし、それが一番良い方法だ。誰にとってもそれがきっと正しい。全部僕が責任を取ってあげよう。彼女が望むなら、彼女の吐く嘘に話を合わせてあげよう・・・もし僕が襲いかかったと彼女が訴えるなら、「そうです」と僕は頷いてあげよう。どうせユキとも、雪とも、最後まで付き合いきれなかった、何度も死に時を逃してきた命だ。この人に捧げ、使い捨てにされても構わない・・・この人が僕を必要としてくれるまで、どうせ、いらなかった人生だったんだ・・・)
続く