9-2 雪ちゃん2
鹿島君の就職先の寮の窓からは、城は見えなかった。当たり前だ。かなり距離が離れているし、間に山も挟まっている。目を閉じれば今も瞼に浮かぶけれど・・・
雪ちゃんは二ヶ月半遅れて、鹿島君を追いかけて同じ街に引っ越してきた。
本名は山崎心晴ちゃんだった。鹿島君の寮に一緒に住みだしてしばらく後、そこから通える新しい職場を探して、履歴書を書いているのを見て知った。
「こはるちゃんだったんだね、キミ」鹿島君は女の子って字も柔らかくて筆圧が弱くて可愛らしいよなぁと思いながら雪に笑いかけた。
「凄く良い名前だね。凄い似合ってるよ」
「私の本名、今、知ったの?」雪も笑顔だった。
「教えてくれないから、知るわけないじゃん」鹿島君は(いつか私が教えたくなったらこちらから言うから、聞かないで)と言っていたユキを思い出した。
「一度も聞いてくれないから、言えなかったの」雪は俯いて履歴書の最後の署名を書き終えた。
「鹿島君は私には興味が無いみたい」
「興味津々だよ」ただ、新しい職場、新しい人間関係、新しい土地、急な同棲生活で、全てがイチからの再出発で、疲れてはいた。これまで培ってきたアルバイトでの経験もここではまるで全くの無意味、自分がイチから無能なお前を叩き直して育ててやるんだ、みたいなことを言って厳しく叱ってくる上司も、そのそばにくっついて人を小馬鹿にしてくる癖自分は人一倍動かなくて働かないご機嫌取りだけがやたら上手な先輩も、ムカつくけれど、正面切って刃向かうわけにもいかない。一度に全部は覚えきれない、覚えなければならない細かい規則が山のようにあり、どんなに嫌な相手だろうと直属の上司として決められた相手から教わらないといけない。新入社員歓迎会の席では、歓迎される新入社員達が真っ先に会場に来てセッティングし、会の間は上の人達の皿やグラスに食べ物や飲み物が無くならないよう常に気を配り接待して、食べ散らかされた後の会場に最後まで居残り、来たときよりも綺麗に掃除して床を磨き上げて帰らないといけなかった。
提供された料理の味よりも、注いで貰って飲むしか無かったお酒の味よりも、喉の奥に濃い後味を残したのは、本部から来た偉いさんのスピーチの中の一言だった。
「上司は選べません。自分の上に来るのが誰か。嫌な奴だったら、三年間、下を向いて耐えなさい。三年経ったら異動があります。」
職場では悔しい思いもいっぱいしたが、「ただいま」と家に帰ると人懐こい子犬のような雪が走り出てきてくれるのが日々の癒やしだった。
(自分のためだけじゃ無い、この人のためにも頑張らないと・・・)と思えば、ムカつく上司の筋の通らない説教も聞き流せた。
実家ではあんまり料理したことがなかったという雪は、意外と好き嫌いの多い鹿島君の自称グルメな舌に合わせてイチから一生懸命に家庭料理の腕を磨いてくれた。正直、初めのうちは、常に苦い卵焼きが入ってるお弁当や得体の知れない晩ご飯の時間は鹿島君にとっては内心苦行で、そんな苦手なことを無理して頑張るよりもただ一緒にお風呂に入ってくれたり一緒に隣で眠って肌に触らせてくれるだけでこちらは満足なのになぁと思っていた。でも、雪にとっては自分のお金にもならない家事を日々頑張って一般庶民的な金銭感覚を取り戻そうと努力しているのでもあるし、それは自分に気に入られたいがため、自分と長く付き合いたいからこそなんだと分かっていたので、鹿島君も変な味がする雪の作ってくれた食べ物を出来るだけ残さないように食べた。
「大体分かってきたわ。あなたはとりあえずケチャップがいっぱいかかってたら美味しい美味しいって食べてくれるのね」
と言われて初めて、自分がケチャップを大好きなことを知った。
「そんなことないよ・・・」と一旦は言ってから、「だけど確かにケチャップは美味しいよねぇ」と言って笑ってしまった。せっかく雪の作ってくれた物でもちょっと何か不思議な味がするなぁと思ったら、残すよりは全部美味しく食べたいから、やっぱりケチャップをいっぱいかけたくなるからだ。
鹿島君と同棲し始めてから半年ほど経つと、雪は
「貯金も減ってきたしまた働こうかなぁ・・・」と言い始めた。
「家事の効率も掴めてきたし、あなたをただ待ってる退屈な時間に私も何か出来ないかなぁって思えてきて・・・」
市場やスーパーへトマトやトイレットペーパーを買いに出掛けたついでに、求人誌を持って帰ってきたり、職安に寄ってきたりして、お洒落っぽいカフェのウェイトレスのアルバイトだとかお菓子工場のパートとか自分でも気に入ってよく買ってる服屋さんの店員とかの求人に花丸の印を付けているのは鹿島君も知っていた。
お城での仕事や環境にすっかり染まってしまった女の子達は、全くまるで水商売をしたことが無い女の子達とちょうど反比例するみたいに、真水にしか生息できない川の魚が海に憧れるみたいに、昼日向の仕事の女性達のその仕事や生き様に憧れを抱く瞬間が間間あるものなのだと鹿島君は気が付いていた。
それは、絶対に現実には起こって欲しくは無かったとしても、女性がたまにやる妄想の中に例えばストーカーされるほど一方的に熱烈に愛されてみたい願望があったリだとか、無理矢理に犯されてみたい願望があったりだとか、するみたいなのと同じで。
自分の知らない世界、これまで身を浸してきたのとは全く異質な文化には、好奇心をかき立てられて当然だ。鹿島君だって、これまでやったことが無い仕事、今後ももうこの人生でなることは無い職業にはなりたくても成れないから、興味だけはある。
「どんな仕事?」
一人にしておくのが滅茶苦茶に心配だったユキのようには不安定に見えなくて、雪はそう心配をかけさせる人でも無かったから、あんまり心の準備をせずに鹿島君はただなんとなく会話の流れとして、テレビを見ながら聞いてみた。
「音楽に乗って一枚一枚服を脱いでいきながら、踊るの」
鹿島君はテレビの電源を切って、雪を振り返った。
「え?・・・最後まで全部脱ぐの?パンツまで?それ、ストリップっていうやつ?」
「ダンサー募集してるって」
「どこで募集してたの?コンビニの求人誌に載ってた?」
「昔の友達がやらないかって、誘ってきたの」
「昔の友達って?お城の?遠いよ!ここから通うには・・・」
また住み込みで働くなんて言い出すんじゃ無いかと内心ヒヤリとして、鹿島君は雪の小さな手を取り、ギュッと掴んだ。
「ちょっと遠いね」雪は捕まえられた自分の手を見てニヤニヤした。
「それに、恥ずかしくない?普通に・・・知らない人に裸を見られるの。」
「恥ずかしいから時給が良いんじゃない?」
「リスクだよ!かなり!分かってるの?今、サイバータトゥーとかデジタルタトゥーとか言われてるアレになっちゃうよ!キミの裸が世界中の人に見られて、晒されて、ばら撒かれて、それが何年も何年も残るんだよ。死んでも残るんだよ!」
「何も残らないより良いと思わない?」
鹿島君はちょっと言葉を失って雪を見詰めた。言葉は出て来ないまま、首を横に振り続けた。雪は何故だか嬉しそうな顔をしていた。
「今は恥ずかしいかも知れないけど、10年後20年後も・・・まだ30代40代で恥ずかしいかも知れないけど、それを過ぎたら今度は、『お婆ちゃんにもこんなに若い頃があったって証拠だよ!』って孫、曾孫に胸張って言える写真が残ってるんだよ?50年後、60年後。
・・・このままいけばこれから私はあなたの子供を産んで体型が変わっていくだろうし、その後から始めるよりは今が初め時だと思う。残しておきたいの。今の自分の姿を。」
(そうかぁ、感性が違いすぎる・・・肝が据わってると言うのか、何というのか、理解してあげられる次元を超えて来てる・・・)鹿島君はクラクラしながら雪の肩に両目を押し当てた。
(一度でもお城で働くと女の子はみんな化け物級に進化しちゃうんだな・・・きっと・・・)
「・・・僕がしっかりと目に焼き付けておくよ・・・キミの綺麗な裸を・・・そんな、僕以外の誰でも彼でもに見せて回らないでよ・・・」
「鹿島君はあんまりちゃんと見てくれないもん。私のこと」
「めっちゃ見てるよ!!」
「そうかなぁ?」
「写真撮ろうか?俺が撮ってあげるよ!それじゃあ!やりながらの動画だって撮ってあげるよ!いくらでも!」
「プロに撮って貰いたいの。それに、お金を稼ぎたいの。あなたはあなたで個人的に撮りたいなら撮ってくれれば良いけど、それとこれとは話が違うでしょ。」
「お金を払うよ!僕がキミに」
「私はプロとして、仕事としてやってみたいの。二人のお金を増やしたいの。あなたから私にお金が移動するんじゃ意味なくて、外から、世界から、この家に持って帰りたいの」
「もうやめてくれ、お城に戻るなんて。キミはスッパリ辞めたんじゃ無かったの?一生安心できる子と暮らしてると思ってたよ、俺は!安心させてよ!友達とか両親にも会わせるつもりなんだよ、キミのこと。先にキミの裸を親父が知ってたらどうする?!」
その状況を想像してみたのか、雪はヘラヘラ笑い出し、雪の体を力一杯抱き締めていた鹿島君まで小刻みに揺れた。
(笑い事じゃない、こっちは泣きそうなのに!)と思いながら鹿島君は更に腕に力を込めて雪を抱き締め、フツフツ湧いてくるような雪のヘラヘラ笑いを抑え込もうとしたが、小さな体の奥のどこにこんなエネルギーがあったのかと意外なほどに雪の衝動的な発作みたいな笑いと揺れはなかなか収まらなかった。
「冗談だよ」やっと笑い止むと、唇を鹿島君の耳に近寄せて雪が囁いた。
「冗談?」鹿島君は体を離して雪の目を覗き込んだ。こんなに笑顔の雪は見たことが無い、と言うくらい、悪戯が成功してキラキラ輝く目、はち切れんばかりの笑顔で雪がニヤニヤしていた。
「あああ、冗談キツすぎるよ!本気かと思った・・・疲れたわぁ」
「じゃあ、断っておくね」
テーブルから取り上げ雪が何やらLINEの返信でもしている携帯を、取り上げてぶち壊してしまいたいと鹿島君は思った。でも、そんな関白亭主みたいなことして嫌われない自信が無いし、そんな甲斐性もまだ自分には無い・・・と思い直し衝動を堪えた。
「お城の時代の友達とは今もずっとやり取り続いてるの?」
「うん。やめた方が良い?」
「うう・・・ん」
(女の子同士だけのやり取りだろうか?それとも、昔のお客さんともまだ繋がってるんだろうか?・・・)
「携帯見せようか?」
雪がロックを解除した携帯電話を鹿島君の手に滑り込ませてきた。
「暗証番号とか共有する?」
「良いの?」
「鹿島君は?大丈夫?」
「大丈夫・・・」(だと思う・・・)自分の手の中に滑り込まされた雪の携帯と、(さ、あなたも寄越せ?)と差し出された雪の空の手のひらを見詰めながら、鹿島君の脳裏を目まぐるしく葛藤が駆け抜けた。
・・・変なサイトの履歴が残ってないだろうか、米田先輩から送られてくる雪には見せたくない何かのお誘いLINEはどうだろうか、来てなかったか?・・・その他にも、つい1年前に携帯電話をデータごと一新したばかりだから、まだ中身は少ないけれど、男友達や同僚の中には下ネタばっかり言ってくる奴もいるし、オススメの動画サイトとかエッチな女優さんの画像そのものを送ってきてくれる奴もいる・・・よかれと思って・・・こちらもテキトーに男同士のノリで返事も返してるし、それに、思い出した、仕事上の付き合いで女性のいるお酒の席に連れて行ってもらったこともあった・・・酔っ払っていたし、ちょうど雪と口喧嘩してた時だったし、可愛く一生懸命にLINEの交換を迫られて、別にLINEするだけなら浮気でも何でも無いよと上司からも唆され、連絡先交換したんだった・・・時々『おはよ~♡』とか『寒いね~??♡』とか他愛も無い可愛いスタンプが送られて来ていて、あんまり既読無視ばっかりするのも悪いかなぁと思って、三回に一回くらいは返信しているのだ・・・
あああ、時間を下さい、神様、1分で良い、そうすれば・・・
雪の手は一度、パーの状態から、テーブルの上の鹿島君の携帯電話を指さし、それからまた手のひらを上にして広げられた。今度は、さっきよりもその手が鹿島君の顔のそばへ迫っていた。
「・・・まぁ、人には見られたくない部分もあって当然だよね」
雪は鹿島君の震える手から携帯電話を受け取ってから、暗証番号を聞かず、すぐ返却しながら言った。
「鹿島君はまだユキさんを捜してるの?」
「え、全然もう捜してなんてないよ」
鹿島君はホッとして、思わずケラケラ笑った。雪が冷たいような目をして真剣にジーッと見詰めてくるので、不思議なくらいだった。
「今はキミだけとずっと仲良くしていきたいばっかりだよ」
「でも、私のこといつまでもずっと雪、雪、って呼んだり、そうじゃないときはキミ、って呼んで、ユキさんと名前を呼び間違えてもバレないようにするためなんじゃないの?」
「そんなわけ無い。最初にキミを雪って呼び始めてから、なんとなく擦り込まれちゃって抜けないだけだよ。キミを思い浮かべるときは名前も一緒に出て来ちゃうんだよ。雪ちゃん、って。」
「私の今の本名を知ってる?」
「こはるちゃんでしょ。知ってますよ」でもなんだか今更、改めてこはるちゃん、と呼ぶのも気恥ずかしいような気がして、鹿島君はずっと雪を知り合った当初の源氏名で呼び続けてしまっていた。
東京に本社がある鹿島君の三ヶ月の研修期間中も雪は一人で鹿島君の大阪の寮に住み続けた。
平日の間は一人で寂しいだろうから実家に帰ってご両親に甘えてたら良いのにと勧めても、自分の両親に会うより鹿島君の匂いがする家に居残ってる方が良いと言って。
毎週金曜日の仕事終わりに鹿島君は新幹線か飛行機に飛び乗って雪との週末を過ごすために帰ってきた。ちょっと行ってみたいけれど平日に行くには少し遠い話題のご飯屋さんや、土日を関東で過ごせたらやってみたかったことも色々あったかも知れないけれど、それを思い出すのは、土曜日の朝。金曜の夜更けに一度思い切り雪を抱いてから眠り、人心地が付いてからなのだ。喉が渇くように、鹿島君自身も金曜日が近付いてくると雪に会いたくてたまらなさが募ってきてるのに気が付く。
金曜日の定時に近くなってから「帰るまでにこれはお願い」等とのんびりした上司に追加の仕事を頼まれると
(はぁ?もっと前から分かってただろ?もっと早く言って来いよ!わざとなのか?)と内心腹が立ったり疑いを持ったりしてしまう。
雪は雪で、鹿島君の研修中にアイスクリーム屋さんで働き始めたみたいだったが、平日は鹿島君は関東にいるし、例え一緒に住んでいたとしてもヘトヘトで忙しすぎて行ってあげられなかっただろうし、鹿島君が帰ってくる土日は二人で一緒に過ごすために雪が休みを取っているため、鹿島君は雪の働いている姿を見たことが無かった。ベランダに洗って干されているピンクのストライプのシャツとミニスカート、可愛らしいフリフリの白いエプロンの制服を見て、「着てみて欲しい」と言って家の中で着て貰ったことはあったけれど、「これだとコスプレだよ」と笑われてしまった。
「アイスを歌って踊りながら作って出さなきゃいけないんだけど、それが恥ずかしくてなかなか求人に人が集まらなくて、時給も良いんだけど、なんだか人としての尊厳とかをすり減らして稼いでる気がするよ」
と雪が腕枕の中で教えてくれた。
「この頃は、ちょっと歌と踊りを省略する技を覚えたの。『歌と踊りはどうします?』って、アイスの味を決めた後、マニュアルには無いけど、お客さんに聞いてみるの。そしたら、『あ、要りません』って言ってくれる人結構いてくれてね、『あぁっ、助かります~』って言って、その方が結構お客さん受けて笑ってくれて、それで普通にアイス掬って差し出すの。」
「なるほど・・・大変だね」
「何かのキャラのお面でも付けて踊るならまだマシだよ。顔は蒸すかも知れないけど、今私はミッキーです・・・とかって思い込めるから。でも顔が丸出しなんだから、私という人間が歌って踊りながらアイス売ってるの、誰の目にも誤魔化しようがない。フードコートの通路内のワゴンのアイス屋さんだから、アイス買わない他の人達もみんなジロジロ見物していくし、恥を切り売りして稼いでるようなもんだよ。気分が乗ってない時は惨めだよ。『何で私こんなバイトに応募しちゃったんだろう、アイス売るだけでやたら時給が高いのには裏があるって、面接の時に教えてくれなかったあの面接官のおじさん、あの糞野郎・・・』って、呪いながら歌って踊ってアイス掬ってるよ。逆に開き直って、ノリノリになれてる時は良いんだけど・・・」
「やって見せてよ」
「絶対嫌、アイス買いに来てくれた人のためにしか私は歌って踊らないの!」
「プロじゃん」
「アイス買いに来てね」
「営業してるの?魂捧げきってるやん。絶対買いに行くけど。近いうち、いつか・・・」
「約束だよ」
「指切りなんてしなくても絶対行くって・・・」
でも約束は果たせなかった。
何やかんやで五ヶ月に延びた研修をやっと終えて大阪に帰ってくると、鹿島君に期待される仕事の量は増え、毎日残業だらけで、時間があるのは休みの日だけになった。平日はほとんど深夜に帰ってきて、自分も仕事があるから待っていられなくて眠ってしまった雪の隣に潜り込み、朝は二人ともバタバタしていてゆっくり話す時間も無くて、気が付くと土曜日だった。そのかわり土日はずっと自分を待ってくれている雪にできるだけ捧げていたつもりだった。
鹿島君の同窓会のお知らせを雪は何故だか当日まで隠していた。高校時代同じ空手部だった永野君と藤尾君という友達が鬼電してきてくれて、何事かと思いかけ直して、初めて知った。
「お前今日来てないの、なんで?」
「え?」
「今日なんで?来れないの?みんな集まってるよ。同窓会」
「同窓会?」鹿島君は雪の顔を振り返りながら聞いた。「今日?やってるの?何時から?」
「17時。今始まったとこだけど、結構集まり良いよ。由貴ちゃんも来てるよ」
「他は?誰々来てる?」
「部員は揃ってる。お前以外」
「どこ?場所は?」
「えっとー、三宮の・・・後でLINEで送る。今から来い。どこにいる?」
「家。大阪。」
「めっちゃ近いじゃん!早よ来い。みんな会いたがってるから」
「今から用意したら1時間くらいかかりそうだけど・・・」
「大丈夫。みんな今から終電逃す計画してるから。」
「俺は終電には乗って帰るよ」
鹿島君は雪の顔色を見ながらちょっとだけ顔を出すことに決めた。
「お。早よ来い。待ってんど」
「同窓会のお知らせ隠した?」電話を切ると鹿島君は雪に聞いてみた。優しく、からかう口調で。
「だって元彼女さんも来るかも知れないし、お休みの日くらいは一緒に居て欲しかったから・・・」
雪は抱き付いてきて鹿島君が履いたズボンを引っ張り下ろし、かけたボタンを外し、鍵を取り上げ、玄関に立ち塞がり、鹿島君が履くつもりの靴を先に履いて、出掛ける支度をするのを全力で阻止してきた。子供の頃犬を飼ってたときは懐かれすぎて毎朝こんな感じだったなぁと鹿島君は苦笑いした。雪はお城にいた頃はチヤホヤされモテモテで有り余るほど愛情を受けてきていたので、仕事が忙しくてあんまり構ってあげられない鹿島君とだけ付き合うようになってから愛情不足をいつも感じているみたいだった。鹿島君は鹿島君で、これ以上はやりようが無い、と言うくらい一生懸命雪に愛情を注いでいるつもりだったのだけれど・・・
「俺だってたまには昔の友達の集まりに参加したいよ。キミも同窓会があったら行きたいでしょ?」
「私は当然断ったよ。過去の友達なんかよりも鹿島君とできるだけ一緒に居たいもん」
「年に一度もない事だから・・・」
「私とだって一週間に一回しかちゃんと会えてないよ!」
「一緒に住んでるし。毎週末一緒に居るじゃない?」
「たったの週に一回だよ!」
「土曜日も日曜日も一緒に居るよね?二日間とも?」
「それ以外居ないも同然じゃん!」
「ちょっと顔を出して、すぐに帰ってくるから・・・」
ボロボロ涙を流して泣き出してしまった雪の頭を撫でて、ちょっとウンザリし(そこまで泣くほどの事かよ・・・)と驚きながら、
「約束しちゃったから。ちょっとだけ行って来る。ほら、放して。すぐ帰ってくるよ・・・」と、袖にしがみ付く指を一本一本もぎ離し、鹿島君は必死で玄関から外へ出た。
雪はお化粧や身支度に時間がかかるから、すぐに追いかけて外までついて出てくることは無いだろうと踏んでいたが、その通りだった。閉じた玄関の中で大きな赤ちゃんみたいにアーン!!と身も世も無く大声を上げて泣き出すのが聞こえたけれど、(ここで甘やかし過ぎちゃいけない・・・)と思って、鹿島君は引き返さなかった。
同窓会は楽しかった。懐かしい顔が揃っていて、みんなちょっとずつ大人になっていて。誰がどこへ就職したとか、誰と誰が結婚する予定だとか、この場に来てない子も噂には上っていた。学生時代にはフラれてからずっと口も効いてくれず目も合わせてもくれなくなっていた由貴が「あの時は私が子供で、ごめんね」と、自分の方から話しかけに来てくれた。
ただ、雪からの鬼電が凄まじかった。取憑かれたように1分おきにかけまくってくるのだ。鳴り止まぬ携帯電話と、旧友との会話の最中にもしょっちゅう携帯を気にしてオロオロする鹿島君を見かねて、藤尾君が
「その彼女ちょっとヤバ過ぎるよ。もはや脅迫電話の域じゃない?せっかく来たって楽しめないなら意味ない、電源落としとけ」と言って鹿島君の携帯電話を取り上げ、電源を切ってくれた。
自分では出来なかったことを人にやってもらえたことで、(自分のせいじゃない)と思うことが出来、鹿島君はホッとしてしまった。
考えてみれば雪と暮らしだしてから休みの日は片時も雪と離れたことが無かった。一人での外出自体が初めてだった。一旦仕事から帰って来たら「ここからは私との時間。私と一緒に居なくちゃダメ」と言って、職場に忘れ物をしたからちょっと取ってくる・・・と言っても、10分も無い行き帰りすら「すぐ用意するから待って」と言われ、一緒に社員証が無ければ入れない出入り口まで付いて来た。
土曜日も日曜日もそばに居ても、ちょっとボンヤリ考え事をしているだけで、
「何考えてるの?こっちを見て。」と頭の中の余白まで自分で埋め尽くせないと気が済まない独占欲の塊になってきていた。この頃の雪は。
自分でもハッキリとは気が付いていなかったけれど、だんだんしんどくなってきてたのかも知れない、と鹿島君は思った。久しぶりの自由を得た気がして、同窓会の会場で大きく深呼吸をした。
「正真正銘のメンヘラって初めて見たよ。ずーっと鳴ってたもんな、その携帯」
「鹿島君は優し過ぎて何でも許しちゃうから、相手の子も限度が分からなくなってきてどんどん付け上がっちゃうんだよ。たまにはビシッと厳しくても本当のこと言ってあげないと」
と周り中から注意された。
「二次会も当然行くよな?」
「この面子で飲めるのは生涯今日しか無いかもしれんぜ」と海外派遣が決まっている森本と高田に肩を組まれ、
「彼女にはちょっと荒療治にお灸を据えてやれ」と新田に吹き込まれ、酔っ払って楽観的にもなっていたので、(まぁ、許してくれるさ、明日デートで行きたがってたケーキ屋さんのケーキを目の前にすれば・・・)と思い、フラフラ二次会にも参加した。同じ理屈で三次会にも参加させられた。
途中、カラオケ屋でハッと目を覚ました。開放感と楽しい仲間と飲む楽しい酒に飲まれ、日頃の疲れも一挙に出たらしい、いきなり眠ってしまったのだと聞かされた。メンバーは7人、元空手部員だけになっていた。
「お前の彼女、何やってる人?」
「付き合っていけるの?大丈夫?・・・」やたらと触れてはいけない話題だと知っていて聞いてくるような腫れ物に触る感じで、みんなが彼女について急に知りたがるので、鹿島君はフラフラする頭で、不思議に思った。
「なんでぇ?」
「なんでって、お前・・・」
水を持ってきてくれた佐々木と鹿島君の背中を支えていた永野が目を見合わせ、口籠もった。澱んだ記憶をまさぐり、誰かと誰かが殴り合いの喧嘩になりかかったのをすぐにみんなで引き離して止めた今夜の騒動の一幕を思い出した。喧嘩した二人のうちの一人は自分だった。回っていた視界が急にピントを取り戻すようにピタリと一致して、記憶が鮮明に蘇ってきた。
学生時代からなんだかどうも好かない相手だった。別にこちらが何かをしたわけでも無いのに、最初から何故だかいちいち鹿島君に突っかかるような物言いで話してくるネチネチした奴だった。東という奴だ。顔だって嫌な性格が滲み出して水虫の足の裏みたいなモテなさそうな陰険な男だ。学生時代から鹿島君の方では、わざわざ関わらないようにして距離を置いていた。それが、今夜は向こうから急にニヤニヤして近寄ってきたかと思ったら、鹿島君の耳元で囁いたのだ、
「お前まだあの風俗嬢と付き合いあるの?ユキちゃんだっけ?プロのテクはやっぱ堪らんでしょう?高給取りだから色々と高い物も買って貰える?そらなかなか手放せないよなぁ。今はどこで働いてるか俺にも教えてよ?良い声して泣くよなぁ。お前の彼女。ポニーテールにした髪を掴んで捻じり上げると・・・」
「吐きそう・・・吐く。吐く!」誰かが目の前に広げて用意してくれていたビニール袋にドボドボ吐いた。ゲロが塊で喉から吹き出してくるみたいだった。大笑いしながら心配してみんな見守ってくれる。もうここには東はいない。
「水は?水はいるか?」
「馬鹿」
「阿呆!それはチューハイ!」
「お前も酔ってるなら座っとけ!」
誰かが鹿島君に水と間違えて酒のジョッキを渡そうとしたみたいだ。叱られてシュンとしてしまった。誰もがしらふでは無い。ここにいる全員が多かれ少なかれ介護を要している。
「お水を十杯いただけますか?大量の純水を・・・お酒は全部下げて貰って・・・」
誰かがあるかなきかの分別を思い立ったように発動させて、電話して全員分の水を注文しようとして、店員さんに素っ気なく早口にあしらわれていた。
「水はセルフサービスです。二階と五階にサービスコーナーを設置してますのでご自分で。お願い致します」
途切れ途切れの記憶、歌ったり何かを飲んだり嘔吐いたり、背中をさすったりさすられたり、意識を失うように寝落ちしたり・・・を繰り返し、最終的に、誰かに叩き起こされた。
いつの間にやら路上にいた。
「帰るぞ!鹿島!しっかりしろ!二本の足で立て!お前の得意技だろ!!」
「それ以上殴ったら殺すぞ」
鹿島君は閉まった店のシャッターに手をついてガシャンガシャン盛大なやかましい音を立てながら立ち上がった。空気はヒンヤリと冷たくて美味しく、朝の白い光と靄が立ちこめていた。
「始発が走り出してる。電車に乗れる!帰れるぞ!よしゃあああ!!」
気が付くと自分の周りには三人しか残っていなかった。
「他のみんなは?」
「帰った。とっくに」
「おい、座るな!くそ!こっちを起こしたと思ったら次はこっちかよ!糞どもが!順番に寝やがって!」
「もう放っといて行こう。死にはしないさ。朝だから」
鹿島君は携帯で時間を見ようとして何故画面が立ち上がらないのか分からず、最初は電池切れだと思っていた。突如、ああそうだった、と、携帯の電源を切っていた事を思い出した。
「水を全員分買ってきたよ」いないと思っていた四人目の人物が登場した。自分もよろけながらコンビニで二リットルの水を四本買ってきてくれた。
「神様!」
「どんどん飲んでどんどん吐きたまえ。体内を浄化するのだああ」
「仰せのままに!」
「ああああああ、水が最っ高に旨いぃいいい!!!」
みんなゴクゴク飲んでドシャドシャ吐いた。溝に一列に向かって。胃に残ったアルコールを大量の水で薄めては吐き、薄めては吐きするうちに、だんだん人間と言っても過言では無い生き物に戻ってきた。
「蘇ったあああ!!」
「よし、帰ろうでぇ。今のうちに。意識があるうち」
「帰ろう」
「よっしゃ、帰ろう!」
一人は駅前に自転車を停めていた。一人は反対方向だった。最後まで一緒に居たのは藤尾君だった。
「俺の彼女風俗で働いてたけど、付き合ってからは辞めたよ。もう別れたけど」
朝の普通列車に並んで座れ、揺られながら、鹿島君は藤尾君に聞かれる前に言った。
「紹介してくれた子?」
「うん。」
「卒業してすぐ紹介してくれた子?あの髪の長い?」
「そう」
「あのー・・・あの時はみんな『え?』ってなって、ちょっと言い出しにくかったけどさ、あれ隣のクラスの子じゃなかった?松本きよはだよね。同級生の。今日は来てなかったけど。同窓会には」
「えっ?」
鹿島君は藤尾君の目を見詰めた。
「同級生?ユキが?」
「一年の時は俺等と同じクラスだったよ。あの子あんまり学校来てなかったけど・・・」
鹿島君は頭から冷水を浴びせかけられたように一気に酔いが覚めた。
鮮明な記憶が蘇ってきた。何故あの時ユキが必死な顔をして自分をせき立てたのか、何故自分以外の友達が妙な目配せをし合ったように見えたのか、今になって点と線が繋がった。
卒業してすぐのある日、ユキと桜見デートしていたら、藤尾君と永野君と何人かの後輩達に偶然出くわしたのだ。挨拶もそこそこにユキがぐいぐい引っ張って先を急かすものだから、その時はほとんど立ち話らしい立ち話もできなかったのだったが・・・
「俺、卒業アルバム持って来てたんだった。見る?」
そう言うと鹿島君の返事を待たず藤尾君は背中に背負ったリュックから卒アルを出してパラパラ開いた。
「ほらここ」鹿島君の膝の上にアルバムを広げて載せてきた。
「ああ・・・本当だ・・・」
捜してるときには全然見付けられなかったユキがそこに写っていた。3ーCクラス。長い髪を垂らして俯き加減の眼鏡の子、学校で何度も擦れ違ったことのある女子。
『美形っぽいのに何であんなに暗いんだろね』とクラスの女子達が噂してるのを耳にして、学級委員長だったときはいじめられてないかなと気にかかっていた一時期もあった。まさかこんなそばにいたとは・・・
お城のあの葡萄色の絨毯が流れ落ちてくるように敷き詰められた階段と、大人っぽい香水を身に纏わせ、ここが私の職場だと堂々と一人顔を上げていた潔さが目に浮かんでくる。学校とは全然違う雰囲気だったから同一人物だなんて全く気付かなかった。手を繋いで一緒に入った部屋、そこでユキが言った言葉も蘇りかけた・・・『ずっと片思いしてた人に似てるの。高校時代の三年間・・・鹿島君・・・』
「・・・東は一年の時告白して振られたんだよ、『私には彼氏を作る資格無いから』とかって言われて。」
藤田君が鹿島君の膝の上のアルバムを閉じた。
「ふーん・・・詳しいな・・・」
「当人が言いふらして回ってたようなもんだったから・・・」
「ふうん」
「それからちょっと付け回して調べ上げたみたいだな、あいつ。松本さんの事」
「そうか・・・」また酒が飲みたくなってきた。「だけど、今となっては終わった話だよ。俺にとっては・・・」
鹿島君は早く雪に会いたい、と思った。今ほど雪に会いたくなったことはこれまでに無かったと言っても良いくらい、今こそ雪に会いたかった。ユキよりも華奢で小さい、実体のある、ワガママで可愛い雪に会いたい。両脚が床から持ち上がるくらい力一杯抱き締めて、骨がパキポキ立てる音を聞き、雪の付けてる香水の匂いで肺を満たしたい。まさか泣いているままのはずは無いと思うが、今更になって、自分を求めて必死な子を置き去りにしてきたことを悔やみ始めた。
「今の彼女は松本さんじゃないの?」
「違う子だよ。元風俗嬢ではあるけど。」
「お前の彼女元風俗嬢ばっかりかよ」つっこまずにはいられなかったらしく藤尾君が優しい声でつっこんできた。
「殺すぞ」鹿島君も力なく応じた。「俺に抱かれたら風俗嬢はみんな仕事辞めたくなるんだよ」
「お前と穴兄弟だったらどうしよう?鹿島。だけど、今の彼女もいつか紹介してくれる?」
「いつでも紹介するよ。兄弟。でももう彼女仕事辞めてるから。愛してるし。過去誰と何してたとしてもそれは仕事中に起きた仕事相手とのお仕事であって、俺もそれを含めて今現在とこれからの彼女を愛し続けていくから。俺の愛はそんな過去ごときで揺るがない。大丈夫だよ、穴兄弟」
「流石だな。今の彼女さんをお大事に。じゃあな」
「バイバイ」
「バイバイ」藤尾君が西宮で電車を降り、鹿島君は残りの車中を無の境地で揺られながら帰った。何か思い出すことも出来そうだし、感傷に耽ることも出来そうだったが、そうしないでいることが出来たのは、多分、今の自分には雪という人がいるからだ、と鹿島君は思った。
人生で一番心から好きになった女性は誰かと聞かれたら、それはもしかしたらユキなのかも知れないけれど、でもよく分からない。まだ心が柔らかく未熟なうちに深く激しく互いに食い込むようにして愛し合った相手だからそう思えるのかも知れない。
雪との愛し合い方はもっと落ち着いている。大人同士の関わり合い方だ。雪は三つほど年下だから僕に対してまだ甘えがあるみたいだけれど、その甘えは常識的で、家の外で狂ったように急に車道に飛び出したりはしない。彼女は内弁慶ちゃんなのだ。家の外で他人に迷惑をかけたり恥ずかしいことはしないし、できない。被害が僕だけで収まる程度の可愛い迷惑をかけてくる。それは甘えと呼べる範囲内だ。今の自分が愛しているのは雪だけだ。今の自分が愛せるのは、守れるのは、一人だけ、雪だけだ。
「それに、例えもっと早くユキの正体に辿り着いていたとしても、だからってどうすることも出来なかっただろ・・・」
鹿島君は自分に言い聞かせた。
百年の時を超えて家に辿り着いたように疲れ果てていた。泣き疲れて眠っていれば良いのにな、でもきっと恨みがましい泣き腫らした赤い目をして意地を張って起きて待ってるだろうな・・・と雪のことを考えながらそっとドアを開けた。
薄いカーテンを通して家の中にふんだんに入ってくる朝日が、ドアや襖の隙間からこぼれていた。雪は灯りを点けて待っていなかった。ゴチャゴチャ靴やらゴミやらで散らかっている玄関で何かに躓いて転ばないよう、薄暗い玄関に灯りを点けると、段ボールやゴミ袋や壁や靴や床の上に転々と黒い水玉模様が飛び散っているのが見えた。
(なんだろう?これ?)と、屈んで目を近付けてよく見てみて、(もしかしてこれって血じゃないか?)とギョッとした。
雪の名を呼びながら、鹿島君は部屋の灯りを一つ一つ点し、急いで雪の姿を探してまわった。
家中がシンとしていた。
雪は浴室のバスタブの中にいた。血溜まりの中に。血は冷えて縁から固まりかけていたが、鹿島君が見付けたとき、まだ雪は微かに痙攣しながらも息をしていた。
(助かるかも知れない・・・)とその時には思えた。冷凍室の中みたいに冷たい浴槽の底に丸まり、歯をカチカチ鳴らし、顔は灰色、唇は紫、爪は剥がれ、手首やお腹や首の傷から出血し続けていても。鹿島君を見ると、両手で握り締めお腹に抱え込んでいた包丁を持ったままで、雪は彼の首に抱き付こうと腕を伸ばしてきた。
「誰にやられた?」
鹿島君が聞くと、「自分でやった」と涙を流しながらヘラヘラ笑った。
「嘘だろ。誰にやられたんだよ?」
救急車を呼んでから、鹿島君も泣きたい気分でもう一度雪に聞いた。不用意に抱き上げたりして動かしてはいけないかも知れないと思い、自分もバスタブの中に入って凍ったように冷たい雪の体を腕に包んだ。
「僕の留守中に誰が来た?キミにこんなことしたのは誰?教えて」
すると雪は今度は睨むような、恨めしそうな歪めた顔で、鹿島君の耳に赤い手を伸ばした。
「あなた・・・鹿島君のせいだよ・・・全部、全部・・・」
何か幻覚でも見えだしてるのかと鹿島君は思った。でも、救急車の中で、一時落ち着きを取り戻したかに見えたとき、真っ直ぐにこちらを睨み付け、冷静な声で途切れ途切れに雪に言われた。
「あなたは一度も私を好きになったことなんか、無かったでしょ。今でもまだ捜したくてたまらないんでしょ。ユキさんの事。私がいて邪魔をするから動けないのね、ごめんなさいね。これからは好きに出来るよ。もう私死ぬから」
そして雪は目を閉じ、本当に息をしなくなった。
最後に手を繋ごうとして鹿島君の胸に当ててきてるのかと思った手は、雪の魂がまだ体内にある間はギュッと硬く握り締められ、開かなかった。鹿島君は雪の顔から血色も表情も全て抜け落ちていくのを目に焼き付けながら、硬くグーにして閉じたままの雪の拳を自分の手のひらで包んでいた。
あまりにもあっけなさすぎる最後だった。まさかこれで本当に雪の人生が終わってしまったなんて、信じられなくて、鹿島君はずっと首を横に振り続け、冗談のキツい悪夢を見ている気分で、涙の一粒も落ちなかった。すぐに、その場では。
(だって・・・)と鹿島君は思った。
たった一度、恋人が自分といるよりも同窓会に参加する方を選んだと言うだけのことで、死のう、と決意してしまうほど辛いものなのか?・・・女の人って?・・・それとも、原因はもっと前から積もり積もったものだったのか?本当に雪は自分で自分の体に傷を付けたのか?そんなこと彼女は今まで一度もやったこと無いみたいだったけれど、それでもいきなり致死量まで自分を傷つけることなんて出来るものなのか?
・・・やっぱり誰かにやられたに違いない・・・玄関まで包丁を持って行って身構えるほどしつこく、僕の留守中に不審な奴がうちのドアを何度もノックしたんだ、そうでなければおかしい・・・でも、だとすると、あまりにもタイミングがバッチリすぎる。僕の外出をずうっと狙っていた誰かがいたのか?雪が一人になるのを誰かが見張ってでもいたのか?昔の客か?まさか、雪が自分で呼んだ?・・・呼んだは良いが相手が複数人で玄関前に現れたとか?
・・・いや、それとも、帰ってくる僕を脅すとか切りつけてやろうとして玄関で包丁を持って待っていたのか?雪?そうかも知れない・・・それほど切羽詰まってることを実演して見せてやろうとしていたのかも知れない・・・そしてそのうちに待ちくたびれて自分で自分を刺すことにしたのかもしれない・・・
まるで本当に雪が死んでしまったかのように事を進めていく救急車や到着した病院の医療関係者に、夢の中にいるようなフワフワした感覚で接した。あまりにも、こんなことが現実とは信じられなくて、ヘラヘラ笑い出してしまいそうだった。
眠っているのと同じにベッドに横たえられた雪の体の隣で、彼女のご両親が駆け付けるのを待っている間に、両手の中に頭を抱えていた鹿島君の耳に、何か小さな物が床に落ちるカチャ、という微かな音が聞こえた。目を開け、雪の顔を確認し、周りに動く人も物も無いのを見回して、何が落ちたんだろう、と膝をついてキャスターの付いたベッドの下を覗いてみた。床に小さなSIMカードが落ちていた。視線を上げると、ベッドから雪の片手がこちらに突き出ていた。
「なんだ、騙されるとこだったぞ、」鹿島君は雪の肩を掴んで揺すぶった。
「死んだふりをやめろ!怒るぞ!」
雪は目を覚まさない。
「おい!」雪の眉が少し引き攣り、唇もさっきよりもほんのちょっとへの字に曲がったように見えた。
「おい!ほら!死んでないだろ!起きろ!」
廊下から足音が走ってきて、熱く力の強い生きた人間の手が鹿島君の肩をグイと後ろに引いた。
「旦那さん、ちょっと廊下でお話ししましょう」
「この子生きてます!何かやってあげてください!もっと何か蘇生術を!早く!!」
鹿島君は走ってきた医者か看護師達に両腕を取られ後ろ向きに病室から摘まみ出されながら大声で叫んだ。廊下に自分の声がわんわん木霊した。
「雪!おい!雪!!」
「分かりました。彼氏さん、落ち着いて、落ち着いて・・・」
「こちらの部屋で座ってお話ししましょう」
違う制服を着た集団が現れ、鹿島君を取り囲んだ。全員が体格が良く見える。紺色の上着を着た太って見える人達。硬そうな黒い革のブーツ。胸と右腕と帽子の正面に黄色い太陽の紋章が入っている。警察官の人達だ。
「だいぶお酒入ってますねー、お兄さん。どのくらい飲んだか分かる?覚えてる?」
「手に何握ってる?開いて見せてください」
鹿島君はいつの間にか椅子に座らされていた。自分を取り囲む他の人間は全員仁王立ちだった。急に三歳の子供に戻ったような気がした。とにかく雪のそばにいたいだけなのに、この異様な尋問みたいな空気感は何なのだ。僕だって被害者だ、泣き喚きたい、雪と家に帰りたい、この悪夢から早く目覚めたい、日常に戻りたい・・・
「何か握り締めてるな?」
「見せられないような物ですか?お兄さん!」
「手を開いて見せて!」
しつこく言われるので、握り締めていたグーを開いてパーにした。埃と一緒に握り締めていた物は小さな白いSIMカードだった。穴を開けられた古い携帯電話に入っていたやつだ。今更こんな物が何の役に立つ?もう知らない人達に写真を見せて回ってユキを捜そうとなんてしていなかったのに、雪ちゃん・・・キミがいてくれるだけで良かったのに・・・
「一つ一つ質問に答えてくれれば帰れますよ。質問に正直に答えるだけです。簡単でしょう」
簡単だった。ぼーっとしているうちに何もかもが終わった。
雪がいない静かな日々、音のない日常が戻ってきた。
就任してから三年が経ち、鹿島君はカナダへの転勤が決まった。ユキの荷物を処分した日と同じように、台所のシンクの下や押し入れの奥へ、見えない場所へ、ただ押し込んで隠していただけだった雪の荷物を全て処分した。雪の物なのか自分の物なのかよく分からない鍋や薬缶や食器類も全て捨てることにした。雪が選んだカーテン、寒がりな雪のために買った暖房器具等は、次にこの部屋に入る後輩のために洗ったり拭き上げたりして置いていくことにした。出来るだけ何も持たずに遠く離れよう、と鹿島君は決めていた。転勤が決まったときから。
女性は今なお自分を魅了する素敵な生物だったし、優しくして貰えると気分も晴れる。でも、誰か一人を自分だけの女にしたい、独占したい、と願う気持ちはもう無かった。リスクが重すぎる。
寂しさに耐えきれなくなったら、お金で愛と体温を買えるお店に電話して女性の待つ部屋へ出掛ける。それか一晩借りたホテルの一室に相手を迎え入れる。そう言う時にリクエストする台詞も大体決まってきた。
「優しい人、お願いします」
海外でも言語やシステムに多少の差はあれ、人と人、体と体、心と心で、結局やることは同じだ。
指名はしなかった。いつか、ユキを捜し回っていた時に出会った年上のお姉さん、澪さんが言っていたように、特定の女の子にこだわりを持たないようにした。きちんと料金を支払い、ちゃんと人間らしく落ち着いた態度で親切に接すれば、新人でピリついている子であっても、やたらと被害者ぶってる子であっても、ベテラン感が前面に出ている子でも、ある瞬間にふとその子らしい素の表情を垣間見せてくれる。子供の時から変わっていなさそうな笑い方、幼いときからこれまでの間に彼女を支え愛した人々が自分以外にもいただろうな、と思わせる優しい、か弱い表情。心の鎧をふっと脱ぎ捨てた瞬間の、柔らかい素肌に触れさせてくれる商売女達。
(これくらいで良いんだ・・・僕にはこのくらいの方が丁度良い・・・)誰でも無い彼女たちの香りに包まれ、鹿島君は一時の癒やしを抱き締める。
指名しなくても巡り合わせで繰り返し同じ顔に当たることもあった。特に店側の配慮でなのか、日本語が出来る子が数回続けて鹿島君の待つホテルの個室に送られてきたこともあった。情が湧いてしまいそうになるから、その子に落ち度があったわけでは無かったが、三度目くらいの時に自分が彼女の名前を覚えてしまっていることに気付き(アメリアという子だった)次から電話する店を変えた。
中には営業熱心な女の子もいて、事後寄り添って寝転んでいるときに、鹿島君の腕に冷たい鼻をくっつけながら、過去にどんな人と付き合ってきたのかとかどんな女が好みなのかなどと詳しく知りたがった。けれど、鹿島君はあまり身を入れて返事をしなかった。もう誰のことも捜してもいないし、雪を思い出すと辛い。例えば食べ物も、女性と同じで、お金を払えばそれなりの舌にも胃袋にも当たり障り無い旨い物で一時的に欲を鎮めることは出来るけれど、自分の仕事帰りを待って自分と食べるために雪が頑張って作ってくれていたあのちょっと下手な料理を思い出してしまうと味気なく、寂しかった。
「いくときには私の目を見ていってね。」と雪にはよく事の最中に注文を付けられていた。「誰としてるか見ててね。相手が私だって事、見ながらいってね・・・」
自分がユキの代用じゃないかとそんなにずっと気になっていたとは、死ぬか生きるかほど気にしていたとは、気が付いてあげられなかった。最後の瞬間に雪を思い出してしまうせいで、見た目にどんなに美しい人、可愛い子を相手にした時でも、その子達の瞳を見ながらでは精を放つことが出来なくなってしまった。女性にしがみ付くようにして、閉じた瞼を枕に押し当てて事を終えるようになった。
お腹が空くのが面倒臭く、性欲や我慢できない寂しさも煩わしい。それでも、我慢が出来るのはある一定の期間(一週間か長くて二週間)だけで、後からどんなに虚しい気分になるか分かっていても、また寂しさに耐えきれなくなってくる。お腹が空くのよりも苦しい、性欲と、その処理・・・寂しさ・・・自分の体から切り離し取り除いて捨ててしまいたい感情だった。
続く