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お城  作者: みぃ
29/40

9 雪ちゃん

 真っ白な地に、黒い蛆虫がウヨウヨいるような、見覚えの無い天井の模様。くすんだ白い薄いカーテンがベッドの四方を囲っている。カーテンのすぐ外を、せかせかと人影が通り過ぎる都度、布でできたやわらかい壁がそよぐように揺れる。鹿島君の左腕には点滴が刺さっていた。

 水に浸かったようなぼやけた視界、ゆっくりとした地震と漠然と不安な悪夢を同時に味わっているようなボンヤリする頭で、何度も何度も右手首が縛られていないかどうか、両方ともの足首が縛られてないかどうかを、手脚を体に引き寄せ、目で見て、手で摩って、確認した。右手の人差し指と薬指に包帯が巻かれている。腕や足を確認すると、腐りかけて切り落とさなければ食べられない林檎のその傷んだ、切り落とすべき箇所みたいな醜い色になっている、自分の手脚の痣が見え、思い出したように急に全身が痛くなってきた。関節も全部曲がりにくく、節々が痛いような気がしてきた。股関節は特に痛い・・・

 カーテンが急に開けられないことを願いながら、自分の分身君がちゃんと居るべき場所に居るかどうか、誰かにチョン切られたり持ち去られたり傷だらけにされたりしていないかどうか、薄い布団を持ち上げ、ズボンの中に手を入れて触って確認した。首をグッと曲げて、目視でも、確認した。

良かった。一安心。

鹿島君は枕にボフッと頭を戻した。彼の分身君は居るべき場所にちゃんとぽてちんと、居た。全身の他の場所と同じく、全く無傷というわけにはいかなかったが、掠り傷程度で済んでいる。

「山本さん、カーテン開けますよ~!」

 どこかすぐ近く、カーテンの向こうで、看護師らしき人が中の患者に呼びかけている。返事を待たずにシャッと開ける音。

「うぬ~ううう・・・」

お爺さんの唸り声、ベッドが軋む音。

「お熱はかりますね~。は~い、お薬も飲みましょう~」

若い女性の溌剌とした喋り方に、モゴモゴ言う唸り声が被さる。

「わしゃあ家に帰りたいんじゃあ。ちょっと飲み過ぎてコケただけじゃあ」

「もうすぐ帰れますよ~。はーい、お薬飲めたらもっと早く帰れるかも知れません。あ~ん、して下さ~い?」

眩しい白い床とよく似ている、手際良い明るいが感情の無い声の向こうに、聞いた事のある声が響いた。

「ああ、もしもし。俺俺。今日は鹿島の面倒見てから帰るから。ちょっと遅くなる。あー、分かった。飯は冷蔵庫ね。チンして食べるから。言われなくても。ハイハイ。いつも旨い飯作ってくれてありがとう。じゃあそういうことで」

(先輩だ・・・)鹿島君はグルグル回る目を閉じた。安心感がお湯に浸かったように染み通ってきた。

(そうだ、担いで貰ってアパートの階段を降りた気がする・・・先輩の車の助手席で、シートベルトを付けて貰って、走行中にドアを開けて物凄く吐いたような気もする・・・)

鹿島君は混沌として夢と混ざった現実を頭を振り絞って抽出しようとした。

(『お前のゲロが途切れ途切れの歩行者用白線の上書きになって、良かったな、後続車が人轢かなくて済むぜ』と先輩が変な励まし方をしてくれて、げぼげぼ吐きながら笑ったような気がする・・・『あーあ、2リットルのポカリ全部吐いたなぁ。ま、吐くための水分が必要だったんだな』・・・

『今度あんたの顔を見ることがあったら、こんなもんじゃ済まさないから・・・殺すよー・・・』

あの小柄な子鬼のような裸の女の子の声が耳の中に残っている・・・腹の上を、喉の上を、下腹部の上を、閉じた瞼の上を、冷たい鋏の刃が撫でる感触が蘇ってくる・・・)

 鹿島君は素早く瞬きして、両目に湧いてきた涙を振り落とした。

(『私達、いつサヨナラする?期限を決めて付き合お・・・』ユキが時々念を押すように確認してきた、何故かこだわっていた言葉が今になって思い出される・・・

『私達、きっと別れるよ。だから付き合わないでいよう。まだ始まってもいないなら、終わりも来ないでしょ・・・』

「鹿島君、ピュアな女の人と出会って付き合ってね、私じゃ無く・・・」

「鹿島君、幸せになって、長生きしてね・・・」ユキは別れる事を前提にした話し方を時々することがあった。本心からそう言ってるのか、前職を僕が知っていることが不安で僕を試そうとして言ってるのか、よく分からなかったけれど・・・今となってもよく分からない。

「僕たち結婚するんだよ。キミが僕を幸せにしてよ」そう言うと、ユキはうん、と答えることもあれば、寂しそうにニッコリ笑って黙っている事もあった。)

「もうきみを捜すのはやめるよ、ユキ・・・」鹿島君は小さな声で囁いた。腕枕して隣に寝ている彼女の耳に囁いたのでなければ聞こえないような微かな声で。

「できるだけ幸せで、元気でいて欲しい・・・でも、もう思い出の中にも出て来ないで欲しい・・・僕は君と二人での幸せを諦めるから。辛いけど・・・」

枕の上で上に向けた手のひらを広げておくのもやめた。ギュッと拳を握り締めた。彼女の冷たい髪の頭を手のひらに受けていた細い首筋の感触が思い出させられてしまいそうだから。

『鹿島君は色んな女の子と付き合ったら良いよ。モテるから。私と別れた後でね。就職したら、私なんかのことはポイッと捨てて、毎週末、お城で女の子を買えば良いよ。一人一人を大切に扱って、親切にしてあげて、誰のことも指名しないのが一番だよ。黒服さんが勝手に付けてくれる子が今夜の彼女だと思って・・・』

『ふーん?』ユキがそんなことを言ってるとき、鹿島君は(理解できないなぁ)と思いながら聞き流していた。

『誰かを本気で好きにならないのが一番良いよ。だけど、女性のことは好きでいて、・・・。・・・優しくして値切らなければ、向こうも気持ちをそのまま優しい態度で返してくれるから・・・。それが一番良いよ。鮮度が落ちない愛情で。必要とするところに必要なものが行き渡って・・・』

(キミの言ってたこと僕は実現できそうにないよ、ユキ・・・)鹿島君はまた眠りに落ちていきそうになりながら考えた。

(一人の人をずっと好きでいるか、女性はちょっともう無理になるか、僕にはそのどっちかしかできそうにない・・・やっぱりまだキミを好きだよ・・・でも女性にはもう懲り懲りだ・・・)

カーテンがシャーッと引かれ、大柄な赤ら顔の先輩が身を屈めるようにして入ってきた。

「狭いな、ここは・・・お、起きたか!鹿島。どう?元気回復してきたか?」

鹿島君は頷いた。

「立てるか?歩けるか?」

「はい。もう帰って良いんですか?」

「そうみたいだな。と言うか、早く帰ってくれ、って感じなんだよ。態度悪いぜ、この病院。早く出よう。こんなところ。お前がもう大丈夫って言うんなら。もう大丈夫か?」

「はい」

「何度『毒を盛られたんだ』と言っても、信じて貰えないんだよ。胃洗浄するまでもない、自分でちゃんとジャンジャン吐けてるし、アルコールしか反応が出ない、とか言って。急性アル中は見下されてるぞ。『結局自分で飲んだんだろ?』って。運び込まれる件数も多いし、医者も絡まれてウンザリしてるみたいだ・・・」

「そっすか・・・」

「点滴が落ち終わったら帰る?」

「そうですね・・・」

「念のため親を呼ぶか?俺が送って帰ってやろうか?実家まで?」

「いや、実家遠いし、そこまで大事じゃないので。もう大丈夫です。・・・でも、先輩に凄く迷惑おかけして・・・済みません」

「・・・一人にするのは心配だなぁ。うち来るか?」

鹿島君は咄嗟に断り文句を口に出せなかった。あの怖い思いをした自分の家に帰りたくなかった。

「・・・そんな、勝手に決めて良いんですか?奥さんに聞いてみないと・・・」

赤ら顔の優しい風神か雷神みたいな先輩は、何やら剃り残しの髭をザリザリいわせながら顎を擦り、唇を擦り、考える顔付きになった。

「・・・彼女の家に泊めて貰おうか・・・?二人行けるかな・・・」

「へ?」

鹿島君は先輩の顔を見上げた。「彼女って誰の?先輩の彼女ですか?」

「うん。ちょうどこの近くに住んでる。」

「マジですか・・・え・・・え・・・、・・・え?・・・彼女・・・?」

「お前にまだ紹介してなかったしな。良い機会だ」

「・・・いや、こんな状態で、それこそ急に行って大丈夫ですか?」

「多分大丈夫だろ。半分は俺の家でもあるし」

先輩はポンと膝を打ち、緑色のパイプ椅子からノシッと立ち上がった。

「行くぞ」

「マジですか?!」


 先輩の車で、鹿島君はハンズフリーの電話で自己紹介した。

「あー、すみません、いきなり押しかける事になってしまいました、米田先輩には大変お世話になってます、鹿島拓人と申します・・・」

「あ、今晩は~。待ってまーす。ちょうどうちにも後輩の女の子達が来てるわ。先に飲んでまーす」

「酒はいらんぞ、俺も鹿島も」先輩が運転しながら断った。

「何かお摘まみ買って行きましょうか?」

ローソンの看板が見えて、胃が空っぽなのに急に気が付いた鹿島君が聞いてみた。

「やった~、」

「何する?」

「・・・アイスが食べたーいでーす!」お酒で愉快になってる女の子達の賑やかな歓声が上がった。何のかの言っても、可愛い小鳥のさえずりのような女性達の華やかな笑い声は気持ちを明るくさせてくれる。

「良いねぇ」電話を切ってから先輩が嬉しそうに横目で鹿島君を見た。

「俺は一刻も早く俺の女が食べたい」

「でしょうね」

先輩の家の大人の事情は全くどうなっているのか分からない。でも、奥さんは浮気をむしろ奨励しているらしい。いずれ先輩が自分から話してくれる時が来るだろうから、それまで、こちらからは何も聞かないでおこう、と鹿島君は思った。物凄く気にはなるけれど・・・上手い聞き方が分からない・・・

 鹿島君は女の子達にアイスと、自分のお腹にも入れたくておでんと、先輩に肉まんをレジ横に温まっているの全部を買い占めて、車まで走って戻った。

「お前、真っ直ぐ走ってこれたな。もう大丈夫だ。一人で走って帰れ。女の子達は俺が全員独り占めにしたいから。食いもんだけ置いていけ」

急に先輩がニヤニヤ笑いながら揶揄ってきた。

「ええー。こんなわけの分かんないとこまで連れて来といて?どこっすかここ」

「嘘だよ。あの目の前のマンション。早よ乗れ」

小豆色の煉瓦造りのお洒落な外観。いかにも女の人が好きそうだ。ピンクと青の電飾がピカピカ煌めいている二階の出窓に腰掛けてこちらを見下ろしていた女の子の人影が、駐車場に入って来たこちらの車に気付くとパッと立ち上がり、ぴょんぴょん跳びはねながら激しく両腕をブンブン振り始めた。すぐにあと三人後ろから女の子達が集まってきて、四人してぴょこぴょこ跳ねながら腕を振り回しだした。一人はクルクル回転しだし、派手に踊る選手権みたいになって、四人は髪を振り乱して踊り狂いだした。激しい音楽でもかけてるのだろうか。

「盛り上がってるなー」

「またあの病院に引き返すことにならないと良いですけど。急性アル中軍団になって」

「お前が言うな」

「さーせん」

二人は外観はお洒落だけれどエレベーターの無いマンションの階段を上がった。沢山酒を飲んだ翌朝とかと同じであるなら、水はガブガブいっぱい飲んだし、後は食べ物をお腹いっぱい食べれば自分の体調は完全復活するはずだ、と鹿島君は確信した。知らない人に体に悪い物を入れられてしまったかも知れないが、どんどん体に良い物を摂って押し流せば外へ出て行くのも早いだろう。人の体ってそんなもんだ、と明るく考えられた。

 辛気くさい一人暮らしの自分の部屋に帰らなくて済んで良かった、先輩が居てくれて良かった、先輩に優しい大らかな新しい彼女さんが居てくれて良かった、今夜だけは・・・と鹿島君は思った。

 吹き抜けの廊下の角を曲がると、先輩の彼女とその友達達は玄関の扉を大きく開けて押さえて待ってくれていた。テンポの良い音楽と眩しい光りが廊下に溢れ出ていた。四人の女の子達のうちの奥に居た一人の子が、特に自分の顔をジッと見詰めてきて、特に可愛いような気がして、光に眩む眼鏡の奥の目を細めてよく見ようとすると、その子は部屋の奥にサッと引っ込んでしまった。

「これが噂の鹿島。彼女募集中」先輩が自分の彼女と他の女の子二人に勝手な紹介をした。

「いや、募集はしてないです。ただの鹿島です。病み上がりの」

鹿島君はコンビニ袋を女の子達にとられながらペコッと頭を下げた。

「病み上がりって?風邪引いてたの?」

「急性女性恐怖症・・・」

あまり受けなかった。

「女子は自分達で自己紹介するシステムでお願いしまーす。とりあえずアイス喰お~!」

「どんだけ飲んでる?もうほどほどにしとけよ」

酒も酒に酔いすぎた女の相手をするのも今日は嫌らしい先輩が次々女の子達の手からお酒の瓶を取り上げて回り、鹿島君はアッと言う間に名前を忘れ去られて、「アイス君」とあだ名で呼ばれだした。

「アイス君、この中で誰が一番可愛い?二人まで選んで良いよ」

「私の事は選んじゃダメだよ」

「先輩に角が立つからね」

「全員可愛くて綺麗で選ぶ必要が・・・」

「そう言うの良いから。好きなタイプって事で良いし。選んでよ二人。早く」

「うわー、怠絡み!」

「先輩助けてください」

「無理だわ。ごめん。」先輩はレッドブルの大きな缶を底を天井に向けてゴクゴク飲み干すと、吠えるような声で大笑いしながらトイレに入ってしまった。

鹿島君はあまりじろじろ見てはいけないものを見る目で恐る恐る女性達の顔を見回した。全員、白紙の紙みたいなスッピンなのだ。あんまり誰のことも綺麗とは思えない・・・正直・・・誰が誰か区別が付けられないくらい、みんな顔のパーツが肌色に溶け込んでいて・・・

(と言うことは、これまで僕が綺麗だとか可愛いとかと思ってた女性の美とは、顔の上に塗られた粉のことだったのか・・・?)鹿島君は誰のせいにすることもできないようなモヤモヤした騙されたみたいな失望しそうな感覚で、悲しくなりそうで、思わず黒い目玉を逸らし天井を向いた。女の子達の方もさっさと鹿島君への興味を失い、ソファへ移動して映画を見始め、鹿島君の周りから急に人が居なくなった。

(さっきもう一人居たように見えた女の子はどこ行ったんだろう・・・)

鹿島君はボンヤリ奥の部屋へ視線を投げかけながら廊下の壁により掛かって立ち尽くしていた。

(横になりたいな・・・やっぱりまだちょっと足に力が入らない・・・フラフラする・・・やっぱり気兼ねなく眠れる自分の家に帰って思いっきりグーグー寝たい・・・)

「そう言えばあの子どこ行った?」

女の子達は酔っていても互いの名前を呼び合わないよう注意してるみたいだ。本名も源氏名も。ここは職場でもなく、かと言って鹿島君や先輩が来た以上は完全なプライベート空間でもなくなってしまったのだ。女性達にとっても。

「おーい!」ソファから三人の女の子が明かりの点ってない奥の寝室の半開きのドアの隙間に向かって呼びかけ始めた。

「こっちおいで~!」

「チャーリーとチョコレート工場始まっちゃうよ~!」

「出て来いって!」

「どうしちゃったの?あの子」

「僕が呼んできます」

鹿島君がフラフラ歩いて行ってドアのところに辿り着いたとき、様子も聞こえているし観念したのか、俯いて出て来たのは、雪だった。

「あれっ」

「ああ、安田さん・・・」

「あーらら、知り合い?」

「その子、今ちょっとうちで療養中の急性男性恐怖症なんだけど・・・」

「今日は私、帰ります」

「どこに?」

雪だけがキチンとしたニットのワンピースを着ていた。他の女の子達はこれからすぐ寝るみたいな柔らかそうな生地のパジャマ姿だったが、雪だけ手にコートと小さな鞄を持ち、お化粧をして、ちゃんと眉もあり、電車にも乗れる見た目をしていた。花魁姿ではなく現代の女性の普通の格好だ。どこにでもいる大学生のお嬢さんみたいだ。もしこんな風に狭い場所で顔をよく見ようとして見たので無かったら、混雑している電車の中だとか時間に追われて急ぎ足で歩いている雑踏の中で擦れ違っていたとしたら、雪さんだと気が付いていなかったかも知れない。

「この人達は大丈夫だよ」先輩の彼女(青いシルクの地にカップケーキの模様のパジャマ、顔にパックを貼り付けている)が鹿島君の腕を叩いて言った。

「悪いことは何もしないよ。ね?」鹿島君をチラッと見上げ、念を押してきた。

鹿島君は頷いた。心の中で、

(そうだった、雪さんも仕事のことで悩んでいたんだった、僕は自分のユキの事で頭がいっぱいであまり相談に乗ってあげられなかったけれど・・・あれはいつのことだったろう・・・最後に雪さんに会ってバイバイと手を振り合ったのは・・・)

と思い出そうとした。

手を振り合ったのではなく、バイバイと振ろうとしてポケットから出した手を雪に握り締められたのだったと思い出した。冷たい風が吹く中を裸足で城の玄関口まで見送りに出てきてくれたんだった。

『この後は私は引き返して寝るだけだから。最後のお客さんは安田さんだったから』と言って。

自分の指に巻き付いたあの細い指先は氷みたいに冷たくて意外に力が強かった。今から思えば、あの心細そうな寂しそうな表情は、こちらを心配してくれる気持ち半分と、自分の事を心配されてないのが分かっている悲しい顔だったのかな、と鹿島君は思った。チクッと、可哀想なことをしたなと思った。

あの後、雪は自分の職場の頼れる人を頼ってここに身を寄せていたのだ。恋人に水揚げされてだか、一時的な仮住まいを与えられてだかで、お城の外で暮らしている先輩の家に泊まらせて貰っていたのだ。雪の先輩だかその繋がりの友達だかが、たまたま鹿島君の先輩の愛人さんだったらしい。

「俺は悪い事しに来たんだぞ」トイレから出て来て米田先輩がヒュッと屈み、彼女の腰を抱えて抱き上げた。

「いや、違うなぁ、良いことしに来たんだ」

ノシノシ歩いて、「手を洗ってよ!」とかキャアキャア騒いで平手で叩きまくる彼女さんを軽々奥の寝室へ連れて行った。ベッドにドシンと下ろす音が聞こえた。ソファで映画を見ていた他の女の子達が寝室の戸口に集まってきて中を覗き込んだ。それぞれ片手に舐めかけのアイスキャンディーを持ち、ペロペロ舐めながら映画を見るように寝室で始まった情事を鑑賞し始めた。

「わーお!」

「暗くてよく見えないな・・・」片方の女の子が壁のスイッチを押して部屋を明るくして、よく見えるようにした。

「あんたたち、映画見てたんじゃ無かったの?チャーリー見てなさいよ」

ベッドの上で先輩の彼女さんがキスの合間に喋った。

「俺は良いぜ、別に見るなら見ても。」

米田先輩もキスの合間に涎を垂らしながら喋った。

「馬鹿なこと言ってないで、ドアを閉めてきてよ!」

「俺は君と二人だけで暮らすのかと思って部屋を用意してやったんだぜ、あの子等を連れてきたのはお前じゃないか?」そう言いながらも米田先輩は彼女さんの頭を枕に戻し、髪を撫でてやって立ち上がり、ドアを閉めに来た。

「まぁ、キミのそういうところが気に入ったんだ。俺も。困ってる下の子達を放っておけない姉御肌なところ、嫌いじゃねぇぜ」

ドアを閉められる前にアイスの棒を咥えた二人の女の子達はスルンと部屋の中へ入ってしまった。

廊下には鹿島君と雪が取り残された。

「今何時か分からないけど、終電はもう走ってないんじゃないかな」

鹿島君が、普段付けている腕時計の付いていない左手首を見てしまってから、言った。「多分・・・」

雪は鹿島君の手首の傷痕にハッと気が付いたように目を見開いたけれど、どうしたの、とは聞かなかった。自分も鹿島君の前の客に何をされたか言えなかったのを思い出したのかも知れない。代わりに壁の時計を目配せして、世界が今何時かを教えてくれた。

「もうすぐ始発が走り出す」

「それまであっちで映画でも見る?」

「そうだね・・・」

何やら寝室が騒がしくなってきた。二人はソファに座り、炬燵を引っ張って近寄せて、テレビの音量を上げた。

「お鍋があるよ。」ソファでゆっくりし始めてすぐに、雪がパッと立ち上がった。

「食べる?お腹空いてる?」

「どんなの?」鹿島君は雪の後についてキッチンに入った。蓋を持ち上げて見せてくれた鍋の中身は真っ赤っかだった。「トマト鍋?」

「そう。豚足スープでぷるぷるコラーゲンいっぱい。ちょっと辛いの。辛いの大丈夫?」

「旨そう」

雪はコンロの火を付けた。「温め直して持って行くから、あっちで映画見てたら良いよ」

「うん」鹿島君はそう言ったけれど動かなかった。

(この子も大変だったんだろうなぁ・・・)とユキよりかなり背の低い雪ちゃんの華奢な後ろ姿をしみじみと見ていた。

(付き合ってたわけじゃなくたって、知り合いの女の子が元気そうで無事でいるのを見るとホッとする・・・落ち着くなぁ・・・)と思った。

背後から気配が消えないので、雪が振り返って鹿島君がまだ後ろにいるのを見上げ、ニッコリ笑った。お玉で鍋の中の白菜や葱やトマトや豚足をぐるっとかき混ぜた。

「相当腹ぺこなの?まだもう少し時間かかるよ」

「キミを見てたんだよ、せめてキミが無事で居てくれて良かったなぁと思って・・・もう仕事は辞めるんでしょう?」

「明日から仕事に戻るよ」

「お城の仕事?辞めないの?」

「辞められないもん。お城に借りがあるし・・・」

「いくら?」

「さぁ。三ヶ月くらい必死で頑張れば返せる額かな」

「俺の稼ぎだと一年くらいかかりそう?」

「分からない。時給いくらで働いてるの?」

「千五百円。良い方だよ。」

「私の方がもう少し高いだけかぁ・・・」

「三千円?」

「二千五百円。そこから、指名やオーダーでポイントが付いて、徐々に上がっていくの。15日間。でも、15日で精算して、お給料貰って、そしてまた二千五百円から再スタート。」

「ふーん・・・俺はルームサービスとかとったこと無いから知らないんだけど、高いシャンパンとか出して貰うとやっぱりガッとポイント付くの?」

「一万円のシャンパンとかキープボトルとかで1ポイントだよ。」

「ふーん・・・1ポイントっていくら分なの?」

「計算が難しくて何度聞いても良く覚えられないの」

「ダメじゃないか、誤魔化されるよ。」

「だって数字苦手なんだもん。計算式をノートにメモらせて欲しいって言っても、『それは規則でダメ』って言われるし。何度聞いても、物凄い早口で掛けたり足したり割ったりしてるから、暗記も理解も出来ないの。あまり何度もおんなじ事聞くと、黒服さん苛ついちゃうし・・・」

「怪しいなぁ・・・」

「誤魔化しは無いと思うよ。ただ、基本給はなかなか上がらないから、どうしたってお城が儲かるようには出来てるよね。そうじゃないとお城の経営が成り立たないから当たり前なんだろうけど・・・」

「まぁそうだね。」(三ヶ月・・・31日×3ヶ月×10時間?×まぁ三千円として、二百八十万円くらい?凄い金額だなぁ・・・)鹿島君はぐつぐつ煮えだしたお鍋の良い香りを嗅ぎながらボンヤリと考えた。

「だけどそれでも、1時間二千五百円かぁ・・・って考えると、その1時間のうちにも凄く嫌な奴に運悪く当たっちゃったら、そいつにどんな事されるか分からないって考えたら、辞めて欲しいだろうけどな。やっぱり、キミのこと大事に考える人間としては」

「そんなに嫌な人は滅多に居ないんだよ?」

「そらしょっちゅういたらたまったもんじゃない。滅多に居ないからこそ、そんな金額なんだろ」

「安いって言いたい?」

「うーん、・・・きみを思う人から見たら、キミはもっともっと高く売ったって買う人は大勢いると思えるんだよ」

「ありがとう、何か」

雪さんはホカホカ湯気の立つお鍋をお皿によそってくれた。

「仕事は楽しい?楽しそうにやってた時もあったよね?」

「優しくてまた会いたいおじさんばっかりだと、毎日楽しいよ。ありがたい良いお仕事だなぁって思えて、ずーっと続けたい、辞めたくないなぁと思うけど、一人でも嫌な人に当たると、急に死にたくなるよね」

「死ぬくらいなら転職すれば良いんだよ」

「簡単に言うけど、それは人事だから言えるんだよ。安田君がユキさんを捜し続けるのと同じ、簡単には辞められない。」

「僕がユキを捜すのを辞めたらキミも仕事を辞める?」

雪さんは首を傾げて鹿島君を見た。

「ふーふーして早く食べなよ。私の仕事とあなたの人捜しは全然関係無いじゃん」

「キミは食べないの?」

雪は頷いた。「私はさっき食べたから・・・」

けれど、隣で鹿島君が食べているのを見ているとだんだんお腹が減ってきたのか、

「野菜ばっかりだしコラーゲンだし、罪悪感が薄くて食べ過ぎちゃうよね~」

と言って自分にもよそってきて食べ始めた。

 お腹がいっぱいになると、二人の目はトロンとしてきた。炬燵の中で雪の履いているフワフワのスリッパが鹿島君の足に凭れかかってきた。鹿島君はうとうとし始めた雪のつむじを見、壁の時計をチラッと見上げた。始発はもう走り出している時刻だった。けれど、雪に働きに出掛けて欲しくなくて、鹿島君は見なかった振りをして、時間だよ、と教えてあげなかった。

騒がしかった寝室もいつの間にか静かになり、先輩の地響きのような鼾だけが時折聞こえてくる。

(1時間だけ、自分も目を閉じよう・・・)鹿島君はそう思って、眠りに身を委ねた。


 先輩が寝室から出て来たとき、一度重い瞼を持ち上げて時計を見ると6時だった。

「俺は家に寄ってから仕事へ行くぞ。お前は・・・もうしばらくここに居たら?」

地声の馬鹿でかい米田先輩がかなり声を潜めてそう言ったのは、鹿島君の膝の上に頭を載せてスヤスヤ眠っている雪を起こさないようにみたいだった。先輩は猫のカップルでも見守るような優しい目で鹿島君と雪をちょっとジッと見ていてから、洗面台へ向かって歯を磨いて髭を剃り、冷蔵庫を漁ってプロテインバーを握り締めると、それをバイバイと振って、行ってしまった。

寝惚けた耳に、先輩の車が駐車場から出て行って走り去る音が聞こえた。

(誰も知ってる人が居ない家に置き去りにされた・・・とは言えないなぁ・・・)と鹿島君は思った。膝の上の雪の頭の重たさがちょうど温かくて心地よかった。炬燵だけでも人をダメにする物体なのに、この膝の上の重みは錨みたいに鹿島君と炬燵と眠気を繋ぎ止めていた。ちょっとだけ姿勢を変える間、ソファの背もたれに凭れておいて貰って、それからまたお腹の上に改めて良い匂いのする雪の頭を載せた。そうすると何故か深く安心できてまたすぐに眠りに落ちていった。


 15時頃、寝室からゾロゾロと女の子達が出て来た。その二、三時間前から、何やら扉の向こうではペチャクチャ話し声がしていたし、女の子達は起きてるみたいだったのだが、鹿島君は雪を起こしたくなくて動かないでいるうちに微睡みを繰り返していたのだ。急に三人で出て来た女の子達を一瞬見て、鹿島君は開けかけた目をすぐに閉じた。二人の女の子が輝くばかりの真っ裸で、一人は完璧なメイクに乱れの一切ないピシッとしたスーツ姿だった。

「ねぇ、どう思う?汚いのはどっち?」

裸の女の子が鹿島君を揺さ振って寝たふりを強制的にやめさせた。

「お風呂に入らないで完璧な見かけしてプンプン匂う体で時間に間に合って来る女と、ちゃんとお風呂に入ってから遅刻して良い匂いで洗い髪を靡かせ走ってくる女。どっちと付き合いたい?」

「いやぁ・・・」

「どっちも嫌だよねぇ?」米田先輩の彼女が浴室から叫んだ。

幸い、浴室はソファの背もたれの後ろにあった。真っ直ぐ前を向いてさえいれば見えない。鹿島君はテレビの黒い液晶に映る白い裸のお姉さん二人がスーツの女の子を裸の仲間に加えようとしてお風呂が沸くまで追いかけ回し捕まえて無理矢理服を脱がす寸劇を見ないように見ないように我慢していた。その間、無意識に、膝に乗った猫にするみたいに、一生懸命、雪さんの髪を撫で付けていた。

 三人の女性達が裸になってしまうと、女体って千差万別だなぁ・・・と思われた。ハンコとか、指紋とか、網膜認証とかみたいに、裸の体そのものもその人固有の持ち物であり、その人の体そのものが世界中の他の誰とも違うその人であることを照明する唯一の証拠品になり得そうだ。手の指先、目の網膜、静脈等、体の小さなパーツがそうなのだから、その一つ一つの組み合わせである体全体が違うなんて筈は無い。

 取っ組み合う裸の女性達と、せっかくキチンとした隙の無い身支度をしていたのに取り押さえられ右から左から上から下から見る見る脱がされていくスーツの女性を見ていて、つくづくそう思った。

ただ細身だとか、色白でポチャポチャタイプだとか、ガッチリ体型だとか、一口に言い表して終わりにしてしまうのではもったいなさ過ぎる。

三人の女性達のうち一人は、白いお餅を捏ねて作り上げたようにポチャポチャしていて、動く度に重たそうな乳房やお腹や二の腕や太もものお肉がゆらゆらたぷんたぷん揺れ、色白なせいで、ちょっと床に膝をついただけですぐに膝が赤くなり、ただ太っていると言うには意外なほど腰が細くくびれ、手足が長くて背も高い。もし彼女のマニアがリアルな彼女のフィギュアを作ったら、多分真っ直ぐ立たせておくのは難しいだろう。腰の位置が高すぎるのに腰から上のオッパイの重みが凄すぎて、絶対に前に倒れてしまうに違いない。もう一人の子は、少年のようにスッキリと痩せ胸がぺったんこで、無駄に魅力的なフワフワしたお肉が無い木の枝のような体をしなやかに、肉厚な二人の体にめり込ませるようにグイグイ抱き付いていく。永遠に大人にならない成長期前の少女のようだ。スーツを着た子の後ろに回って腕を押さえつけているスポーツマンタイプのむっちり筋肉質な子が「今だって!脱がせろよ!」と叫んでるのに、服を脱がせることよりこの場の状況を楽しんでしまって、服の下に指を入れてコチョコチョ、コチョコチョくすぐっては、自分が一番笑い転げている。自分に無い物を弄くり回して遊びながら妬みながら羨ましがっているみたいに、なかなかサッサとブラを外してしまわずに、ブラの中のオッパイに手を突っ込んで柔らかいパン生地を捏ねくり回すみたいに揉みまくっては、笑い転げ、目をギラギラさせている。

それでもついにとうとう、硬い殻のようなスーツを脱がされて髪留めも取られ、ブラも腰に貼っていた湿布も剥がし取られてしまったぷよぷよたぽたぽした女の子は、

「ストッキングは破れるって!ストッキングは辞めて!もう自分で脱ぐから!降参!降参!」と大騒ぎで泣き笑いながら叫んだのに、容赦して貰えず、床の上に尻餅を付いた状態で両脚を高く掲げさせられ結局二人に引っ張られて脱がせられた。

「風呂入るよ、風呂!」

「あーあ、面白かった」

「酷っ!高かったのにこのストッキングウゥ!!」

三人はギャーギャー言いながらも仲良く全員で風呂に入っていった。

風呂の中からも、「冷てぇえぇ!」「アチいぃ!」「やりやがったなこのやろー!!」とキャーキャー悲鳴が聞こえてきた。

(仲が良いんだなぁ・・・)と鹿島君はクスッと笑った。

「この子よく寝るねぇ」三人で狭いお風呂に入って散々ギャーギャー騒いだ後、出て来た一人が鹿島君の後ろから手を伸ばして雪の頭を小突いた。「まだ寝るのっ!」

「あっ、やめてください・・・!起きてしまう・・・」

ちょっと力が強すぎるんじゃないかと思って、意地悪なことするなぁと言う目で、後ろを振り返った鹿島君は、すぐにまた急いで目を閉じた。ホカホカ体から湯気を立ち上らせながら、目の前に立っていた相手はまだ全裸だった。薔薇の入浴剤の薄紅色の雫を両方の豊満なバストの先端から滴らせていた。

「あー、ごめん、妹があなたに迷惑かけてるかと思ったんだけど、・・・」

鹿島君は目を閉じたまま首を横に振った。

「みんな早く服着てあげてー。男の子がいるんだよー」

「ああああああ面倒臭い、どうせすぐにまた風呂入るのにまーたイチからメイクかよ」

「どっかに私のパンツ落ちてないかーい?」

部屋のあっちこっちで女性の声がする。鹿島君はいつまで目を閉じていれば良いのか分からなくなって、目を開けてみた。洗面台に向かってカラコンを入れてるお姉さんも、パンツを探して床を這ってる子も、冷蔵庫を開けて見てる子も、誰もまだ服を着ていない。諦めて雪の頭を抱え、リモコンをとってテレビを付けた。誰も鹿島君に裸を見られることをどうとも思ってないみたいだから、こちらもどうも思わなくなれるよう訓練したい、と思った。

「私ら後10分後にはこの部屋から出て行くけど、アイス君はどうする?居ても良いし、出掛けるならこの鍵ここに置いとくからね。鍵掛けて、郵便受けから中へ落としといてね?」

「はい。分かりました・・・」

「その子のこと、よろしくね。一応お城では私の妹だから。」

「今日まで休めば?って、姉さんが言ってくれてたよって、起きたら伝えてあげて」

「今日までだけならあたしらでなんとか穴埋めできそうだから」

「最近何か色々悩み事とか抱えててよく眠れてなかったみたいだし・・・」

「でもその子が起きたら、担当に電話は一本今日中に入れときなさいよって、あたし等が言ってたって、あなたからも言って貰える?お仕事だからね」

「本当に寝てるのかな?」

三人の女の子達は鹿島君の肩越しにちょっと雪の頭を撫でに来て、それからドタバタと一斉に出掛けてしまった。話を小耳に聞いていると、全員で一台の車に乗って行くみたいだった。ここは最寄り駅からも少し離れた場所なのかも知れない。

 バタンと玄関の扉が閉まり、ワイワイ言い合う声も車のドアが閉まる音と共に消え、車が走り去ると、その後は急にシンと静かになった。鹿島君は壁の時計を眺めた。15時半。女性とは出掛ける前の30分の支度で生み出されるものなんだなぁと理解した。母や妹が家の居間で付け睫毛を付けてるところとかは何度か見かけたことがあるけれど、彼女らは家族だ。多少見栄えがよそ行きになったとて、元々の顔立ちからそんなにかけ離れた存在の性の対象としての“女性”にはならない。


「うーん・・・」

まるで鹿島君と二人きりになるのを待っていたかのように、雪が寝返りを打った。「今何時?」

可愛いなぁと思って鹿島君はすぐ時計に目を向けられなかった。わざと狙ってやってるのだとしても、それでも魅力的なものは魅力的だ。目を奪われ、ちょっと遅れてから返事した。

「15時だよ」

「何時からユキさんを捜すの?それとも今日は仕事?」

「・・・キミは?」

「私は明日から仕事」

「キミが無責任にピュッと仕事をとんで辞められない理由が分かったよ。姉さんや友達達に迷惑がかかるからなんだね?」

鹿島君は雪の顔から髪を払って耳にかけてやった。このお正月休みに会いに行ってやれなかった妹みたいに雪を可愛く思った。

「自分が桁を間違えて買い物しちゃったせいだよ」

「ああ、あの櫛か」

「かんざし」

「花魁にはもう成れたじゃない。他になりたいものは何だったの?将来の夢は?花魁の他に。よく学校で毎年書かされるようなのには何て書いてきたの?これまで」

「普通のお嫁さん、ケーキ屋さん、お花屋さん、制服が可愛いカフェのウェイトレス・・・」

「僕も協力するよ。何かキミにしてあげられることを探したい。もう元彼女を捜すのはやめたから。不毛過ぎて・・・ちょっと疲れた」

「じゃあ、安田さんの彼女にしてもらえますか?」

雪は鹿島君のお臍に向かって聞いているみたいだった。聞こえなかったふりも出来そうなモゴモゴ声だった。ユキの捜索では失敗続きで、自分が女性を幸せに出来る自信も喪失していた鹿島君には、すぐ答えられず、その場で一番簡単だった、よく聞こえなかったふりをして有耶無耶にしてしまった。

「ケーキ屋さんも制服が可愛いカフェのウェイトレスもキミに凄く似合いそうだよ。コーヒー飲みに行ってみたい。キミが働いてるお店だったらお花も買っちゃうよ」

「お花好きなんですか?」

「あ、うーん、ベランダにはいっぱい色々植木鉢の花が咲いてるよ。だけどもうすぐ引っ越すから、俺。次の家は寮でそんなに広くないし、全部なんてとても持って行けないんだよな。困ってるんだけど、ここの人達とかお城に住んでる女の子で貰ってくれそうな人いるかなぁ?キミのご実家とか・・・」

「お花のベランダ見に行っても良いですか?」

雪は目をキラキラさせた。女の子って本当お花とか好きなんだなぁと鹿島君は改めてビックリした。

「お城の私の部屋にはそんなにいっぱいは置けないけど、みんな癒やされたくて部屋持ちの子は自分の部屋で何か生き物飼ったりしてます。観葉植物だけじゃなくて、金魚とか回し車をクルクル回す小さい可愛い鼠とか・・・」

「見に来てくれるのは良いんだけど、もうすぐ引っ越すよ。俺」

「私も明日から猛烈に働くので、今日、今から、見に行きたいです」

「今からかぁ・・・」鹿島君は無意味に壁の時計を見上げた。

「まぁ、良いよ。どうせ帰るし。付いておいで」


 後々、雪は鹿島君の家のベランダにあった植木鉢を一つずつ、一つ残らずお城の自分の部屋に持って帰り、お城でお世話になった姉さんや仲の良かった友達に餞別として贈った。三ヶ月で城への借りを返済しきる、という目標を頑張り抜いて、その間中ずっと情熱的に、

「三ヶ月後、お城を引退したら私を彼女にしてくださいね!」と鹿島君に真正面から何度も告白していた。

鹿島君も三ヶ月間一生懸命に自分にアタックしてくれてパキッと仕事も辞めた雪が可愛くて、偉いなぁと尊敬することも出来、これだけ一生懸命に気持ちを伝えてくれるんだから自分も男を見せなければと覚悟して、三ヶ月、着々と心の準備をして待っていた。ユキのことは彼女のお陰でキッパリ忘れる事が出来た。


 雪ちゃんが初めて鹿島君の家に来た日は、鹿島君の一人暮らし人生の中でも一番に部屋が散らかっていた日だった。手足の自由を奪われてベッドで意識を失っている間に、あの子鬼の女の子は鹿島君の携帯電話に五百円硬貨大の風穴を開けていた。SIMカードも抜き取られ、浴槽の冷たい水底に沈んでいるのを見付けてくれたのは雪だった。ユキの顔写真ももう無くなってしまった。新しい携帯電話を契約するときに、古いデータを引き継げば復元できるのは分かっていたが、鹿島君はそうしなかった。引っ越しと新しい携帯電話の契約と共に自分も生まれ変わりたかったのだ。


 雪を後ろに従えて部屋の扉を開けた瞬間、「あっ」と声が出てしまった口を手で塞いだ。急いでドアを閉め、雪に何て説明しようかと、彼女の目を見詰めながら考えた。

(そうか、この部屋を出て行くときはまだ朦朧としていて、自分一人で歩けもしないし、自分自身が生きるか死ぬかの瀬戸際だったから、部屋の惨状にあんまり気が回っていなかった・・・これは酷いなぁ・・・人を招き入れられる状態じゃない・・・)

「ちょっと見えちゃいました・・・」雪が遠慮がちに言った。「誰かに荒らされたんですか?」

鹿島君は頷いた。雪も、ただの自分で散らかした汚部屋ではないと瞬時に気付いたようだ。

「お掃除手伝います。ユキさんの関係ですか?こんなことしたのは?」

「うん・・・ちょっと待ってて・・・」鹿島君は細くドアを開けて自分だけで先に部屋に入った。色んな物を、あった場所から部屋の反対側へ放り投げて遊んだようだ。キッチンにあるはずの雑多な物(皿、お箸、卵、醤油、インスタントの緑茶、トースター等・・・)が玄関に散乱している。靴や傘は反対にキッチンの方へ投げ飛ばされている。引き出しはみんな引き出され、中の物が床にぶちまけられている。

(ユキの持ち物の中から何かを探したんだろうか・・・)何かを持ち去られていたとしても、自分には分からない。でも、ベッドの位置まで壁から擦れ、シーツや壁紙やカーテンも引き裂かれているのを見ると、捜し物をしたと言うよりもただ破壊行為が面白くてやっただけのようにも見える。

 鹿島君は靴のままでちょっと爪先立ちで室内に踏み込んだ。開いた扉から見える浴室も、鏡が割られ、髭剃りや歯ブラシを入れたコップがどこかに消えて、かわりに寝具や衣類やヘアアイロンが投げ込まれていた。冷蔵庫の中の物も手当たり次第に壁や天井に投げつけたみたいだ。

「何が目的でこんなこと・・・」

部屋の扉がそろそろ開く音がして、振り返ると雪が恐る恐る入ってこようとしていた。

「犯人がまだ中にいるかもしれないですよ・・・」

「大丈夫。僕しかいない。靴を脱いだらダメだよ。足を怪我するから」

「警察に連絡しますか?」

「んー・・・ううん、いい・・・」鹿島君の脳裏にはあの子鬼の声が木霊していた。黙って身を引け・・・

あの子鬼は鹿島君に三つ年の離れた妹がいることも知っていた。自分以外の人間にまで被害が出るのは最悪だ。

「引っ越しの荷造りがかえって楽になったよ。これで思い出の品もみんな人のせいにして捨てられる」

部屋の中央まで来ていた。もうあとの半分も、大股の爪先立ちで進んだ。靴の下で紙類や割れた何かの破片がパリパリ、カサカサ、音を立てた。ベランダに続く、ガラスが二つ嵌まった窓の上の段は割れていた。

「ここから侵入したのかも知れない。」鹿島君はせっかく無傷な上の段のガラスを落とさないよう、そろそろと窓を開けた。

「お花は全員無事だよ。何か不思議なくらい。部屋の外に置いてたからかな・・・靴を履いたまま見においで。気を付けて」

雪も鹿島君がしていたみたいに爪先立って部屋を渡ってきた。

「鉢植えは割られてないですね・・・でも枯れてる?」

「そう見えるかぁ。今は枯れたように縮こまってても、根っこは生きてて冬眠してるだけなんだよ。春にはまた一斉に元気に芽吹く。キミには、冬の間でも一番見た目がマシなのをあげるよ。」

鹿島君は寒さに負けず白い花を咲かせ続けている健気な鉢を手に取った。花の名前は忘れてしまったけれど、雪みたいな花弁の白さが雪に似合ってると思った。

「何か袋に入れてあげたいけど・・・」

「コンビニでゴミ袋とか買ってきましょう。洗剤とかスポンジとか、ゴム手袋とか。私も掃除お手伝いします」


 


続く


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