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お城  作者: みぃ
25/40

マンションの話6 共用廊下で

 生理があけ、ちょっとした喧嘩からの仲直りもあって、睦み合いがいつもよりも凄まじく激しく、また、長引いたため、ケイイチ君と私はアラームをかけ忘れたままちょっと朝寝坊してしまいました。

「ハッ!!」と言ってケイイチ君が頭を起こし、携帯の液晶画面で辺りを照らしたので、私もつられて一瞬後にはその同じ画面で時刻を確認し、二人して、

「ヤッバッ!!」

「遅刻するッ!!」と跳ね起きました。

大慌てで互いの唇と全身、そして秘部に朝のお目覚めのキッスを慌ただしくも礼儀正しく、済ませると、ケイイチ君は泡を飛ばして毎朝やってるにも関わらずあいかわらず上達しない髭剃りをし、私は彼のお弁当とお茶を詰め、ドタドタバタバタと二人して部屋を飛び出しました。

 彼が先に外へ出てエレベーターのボタンを押すと同時に、私は彼の部屋1304号室の鍵を閉めます。エレベーターが13階まで上ってくるまでの間に、ケイイチ君は廊下を走ってこちらに引き返してきて、私に我武者羅に抱き付き、熱く甘くミルキーのミルクキャラメルみたいに濃厚に喉の奥まで焦がすおいキッスをして、離れがたくも、またエレベーターの前に走って引き返していきます。私は三歩歩いて1303号室の前に辿り着き、まだ来ないエレベーターの扉の前に佇んでこちらを切ない目で視姦しているケイイチ君にこちらも劣らぬレーザーのような視姦の眼差しを送ります。

朝焼けに溶け込む仄かな階数表示ボタンの点滅と、掠れたポーン・・・と言う音で、エレベーターが到着を告げ・・・


 いつもなら、私たちはそんなものどうとも思わず、互いに朝の最後の投げキッスを交わす事に忙しくて、無視しているのですが・・・

 この日は違いました。

空気は澄み、肌寒いを通り越してもう完全に寒く、清流のように流れ続ける風にはまるで黄金の色が付いているかのような金木犀の香りがする、朝のこと、

扉を開けたエレベーターの箱からヒロキが降りてきたのです。

 ケイイチ君がこちらに送ってくれた投げキッスをいつもなら私はパクンと食べ、飲み下してお腹をさすり、自分もキッスを投げ返す、という別れ際のヤングアダルトな遊びを遅刻しそうであっても必ずしているのですが、今日の私はできません。こちらを向いているケイイチ君にはできることが、私にはできない。彼の肩越しにヒロキがユラリとエレベーターから降りて来たのが見えているのですから。

ヒロキのドロリと濁った赤く充血した目がそこだけ拡大されたように私を見据え、目と目が合い、視線と視線がぶつかり、絡み合い、私は完全に、

(アウトだこれは)と思いました。

膝から崩れ落ちそうな私の血の気の引いた表情の激変ぶりに、ケンイチ君も不審げな顔付きに変わり、前に向き直りざま、ヒロキにドシンとぶつかられました。ヒロキはよろけて尻餅を付き、咄嗟に手を差し伸べようとしたケイイチ君は離れていても分かるほどに全身でたじろいで、出した手を素早く引っ込め、彼も後ろへよろけ、倒れかけて壁に凭れたくらいです。

「やあ、おうぅ、兄ちゃぁん!!!」

ヒロキのドスのきいた声。

しかしその声は泥酔のために、目付き同様ドロリと間延びして、普通に発音できてすらいない。

(ケイイチ君ッッ!!今のうちに早く逃げてッ!!二人とも、私のために血を流したり殴り合ったりしないでッ!!あたしを奪い合っての喧嘩なんてッッ!やめてッッ!!)と私は体内で全身全霊で叫びます。本当は自分を巡っての雄同士の戦いほど見物で、雌に生まれて来甲斐のある事なんてこの世に他にありません。しかし、そこは外面と本音。

(戦ってエッ!!さあ今こそ命懸けで戦って頂戴ッ!!あたくしを溺愛する男達よ・・・嗚呼ッ、なんて見物なのかしらッ!!わくわくッ!!)と魂が鬨の声を上げました、と認めるわけには参りません。

 しかし妄想と現実とはこうも違うものなのか!情けないことに、私が目にできたのは、酔いどれ千鳥足(どころかもはや二本の足で立ち上がることすらままならないような三足動物みたいな姿の)ヒロキと、ヘタレちびりかけビビりまくりケンイチのよたよたチキンバトルだったのです。泣きそうな見応え!!悲しくなってきてしまいます。むしろ私が出て行って双方のお尻を蹴っ飛ばし、「ちゃんとやれやッ!」と活を入れたくなったほど!ナヨナヨしいったらありゃしない!!

ケンイチの襟首に手を伸ばし、やっとこさ立ち上がったヒロキの様子はまるで掴み掛かると言うより、杖に寄りすがる腰を抜かしたお爺ちゃんみたい。ケイイチ君はその手を掴んでもぎ離そうとしながら、

「やめろおぉッ!」

と雄叫びを上げますが、遠くまで響き抜けたその声はとてもとても線の細い、甲高い、痴漢に始めてあった少女の悲鳴みたいです。

 どうなることかと見守る私の目に、ケイイチ君の唯一の脱出口であったエレベーターの扉が無慈悲に閉まるのが見えました。

 嗚呼、ああ、本当に、どうなってしまうのぉお!?

(ケイイチ君には悪いけれど、ここは私達三人の関係性を理解してくれているケイ君に甘えて、私が、今だけはヒロキの肩を持ち、とりあえず介抱するという名目でヒロキの腕を引っ張って引き剥がし、あわよくばうちの中に連れ込んでしまい、その間にケイ君には学校へ行って貰おうか・・・!?)と私は思いました。

(それしかない!!)動き出そうとしたその時です。

「お兄ちゃん、よおう、俺と一緒に働かね?」

ケイイチの首に腕を回し、壁ドンしながら、ヒロキが勧誘をかけているのです!!

「よぉおう、にいちゃああ、・・・」ヒロキは震え上がって壁に張り付いているケイイチの全身を爪先から髪の先まで舐め回すように視点の定まらないドス赤い目で品定めし、

「今さあ、11,12月のかき入れ時に向けて人募集しててぇ。お兄ちゃん、スタイルだけはやたら良いしさあ。脚長えし。金欲しくね?俺ホストやってるんだけど。店紹介してやるからよお!」

ヒロキは声も出せずに藻掻いて逃げようとジタバタしているケンイチを、酔いの勢いで力加減無しに肩を組んだ状態から喉を締め上げ、ケン君の喉から「ぐぅう」と危険な音が漏れます。

「一ヶ月だけ。試しに。どうよ?今臨時ボーナス出るんだよ、なあ。今月末までに友達紹介して入店させたら、俺にも、お前にも、ボーナスが出んの!!なあ、にいちゃああ、前から思ってたんだけど、あんた何やってる人?」

ヒロキはケン君に答える間は与えたけれど、空気を吸い込む腕の隙間は作ってやってません。ケン君はギブアップの合図に必死で締め付けるヒロキの腕をパシパシ叩いていますが、酒で鈍くなっているヒロキにはそんなあるか無きかのか弱い振動は伝わっていません。

「まあエエわ。どうせ九時五時とは名ばかりのどっかのブラック企業の社畜でしょ?それか貧乏学生?兄ちゃん、そんなもん辞めちまえや。学校なんて行ったって意味ねえぞ。それより一緒に今すぐ甘い蜜吸おうやぁあ、お兄さーん。あんたも、もうちょっと垢抜けるチャンスだよおお。一ヶ月。」

ヒロキがバシンとケン君の背中を叩き、ケン君は全身を痙攣のようにブルッと震わせます。まるでライオンに仕留められかけのキリンみたい。細い脚を踏ん張って必死にぷるぷる仁王立ちしながら、体格の良いヒロキにもたれかかられ喉を絞められ、死に物狂いで肘を張って両手で気道確保しています。白黒している涙目が、私に助けを求めているようだけれど、フラフラしているヒロキの背中に隠れたり見えたりして、私には自分が出る幕なのかどうだかまだ判断が付きかねます。

「一ヶ月だけで良いからさぁ。同じ階に住むよしみで。良いじゃん。どうせ彼女いないっしょ?抱き放題だぜ!?、金持ちの手入れのキレーな艶々の髪の女ども、抱いて下さーい、って金払って股広げてくる子もいっぱいいるよ?何でこんな世界に踏み込んで来ちゃったの?って言う、そこら辺歩いていそうな普通の女子大生の姉ちゃん達もいいーっぱあい、腐るほど。飽きるほど抱き放題だぜ!それで金貰えるの!天国だろッ!?」

「離して下さいッ!」咳き込みながら、ケン君がやっと喋れました。

「俺なんかどうせ無理ですって!面接で落ちますよ!顔面不採用で。それに向いてないし。それより今日、急いでるんで!!離して下さい!!」

「いいや、やればできるさ!」ヒロキの目に悪魔の暗い光が宿りました。完全に悪酔いの悪絡みです。

「俺が見初めて誘ってるんだぜ!お前はなれる!!キタの皇帝に!!その長ーい足を一歩踏み出せ!!もったいねぇど、その長い脚を無駄にすんな!ホストなんて根性次第でブスからでも始められるんだよ!!整形整形!住む世界変えようぜぇえ!!兄ちゃん、歳いくつ?」

「は、17ですけど、離して下さいよ!!」

「明日誕生日な?明後日には18になっとけ。で、夕方は空けとけよ、お前。名前何?」

「け・・・ケイイチですッ・・・!苦しぃいッ・・・!」

「オッケーのケー君。もう覚えたぞ、七時な。ここ、待ち合わせ。俺に付いてこい、この世に存在する極楽浄土拝ませてやんよ!!なっ?!約束だぞ、お前。ケンイチ!!可愛いやつだなああ、お前!!しょっちゅうここで擦れ違ってただろ、前から思ってたんだよ、俺お前に及んでねえのタッパと若さだけだなあって。俺の引き立て役にしてやんよ!嫌ならのし上がれ!!俺の屍を踏み超えていけ!!お前と似たようなモッサイ弟がおるんよ、俺!それで可愛いんかな、お前のこと!」

ヒロキは死に物狂いで顔を背けるケン君の横顔に噛み付くようにブチューッと痛そうなチューをしました。私は複雑ながら(これもまた・・・案外悪くないわね・・・)と目が離せず怖いもの見たさのような思いもしながら熱い視線で見届けました。

「約束したからなッ!!忘れんなよ!!ケチン!」

お尻をバシンとぶっ叩いてから、やっとヒロキはケンイチ君を解き放ち、初めて私に気付いたみたいに、こっちに向き直って、言いました。

「お前さっきからなんで外に居るの?」

「あんたが人に迷惑かけてるのが聞こえて来たから、出て来てたの!」

良かった、目が合ったと思ったのは私の思い込みで、ヒロキは酔っ払ってほとんど眠りながら夢遊病みたいにして帰ってきていたので、ケンイチとぶつかって意識を覚醒させるまで、辛うじて目は開いてはいても、何も見てなかったのです。

私とケン君が同じ隣の部屋1304号室から出て来たのも、キスを投げ合っているのも、見てはいなかったのです。

「今日さあ、そこで・・・」ヒロキは後ろを見ずに自分の背後を指さし、私にもたれかかってきながら、「ナンパしちゃったよ」と私が見ていたままを報告してきます。

「ガリ勉君みたいな野暮ったい奴だったけど、背だけはまあ高いしさぁ、『え、こんなのが?』って芋っぽいのも磨いてみれば結構客付く事もあるしさあ、業界じゃあ。ま、入店して二ヶ月目からは俺の知ったこっちゃねんだけど、なっ!」

「まだそこにいるよ、エレベーターまだ来てない。ボタン押したばっかだから・・・あの人」

私は倒れてきたヒロキの耳にヒソヒソ声で教えてやります。

「別に聞こえたきゃ聞こえて良いよ、おい、お前!」ヒロキは私の肩に肘掛けみたいに肘を置き、またまたケン君に大声を出して絡みます。

「野暮とかモブとか芋とか呼ばれたままでエエわけねぇよな!?男ならッ!?男上げたいよなぁッ!?俺がお前を磨いてやるぜ!原石君!俺に付いて来い、なッ?!この俺様の一番弟子にしてやっから!!名前なんだっけ?」

「ケンイチ」私とケン君が同時に両方の耳からヒロキに教えてあげます。

「もう覚えたぞ!!ケンイチ!!明日、ここ、夕方、集合だぞ!天変地異の新・地動説、沈まぬ夜の太陽はホストの周りを回ってた、って事、体験させてやるぜ!お前の兄貴分、この俺様が、なっ!!」

「シーッ、シーッ、静かに静かにッ・・・!!共用廊下は静かに!」と私。

ヒロキは自分の胸を叩き、それから人差し指をケン君の心臓向けて、バンと撃つ真似をしました。地上からやっとのろのろと13階まで迎えに来てくれた恵みのエレベーターのドアから中に入りながら、ケン君が微かに私に目でお辞儀します。急いで返した私の目配せは間に合わなかったけれど・・・


 部屋の中にヒロキにもたれ掛かられながら縺れ込み、何とかドアにちゃんと鍵を掛け、奥の部屋まで息を切らせながらヒロキと共にフラフラ歩いて、ベッドに一緒くたに倒れ込みました。今さっきケン君のベッドから飛び起きてきたばかりですが、もう今度はこの人に付き合って横にならなければなりません。

「ノルマやねん!!」ヒロキが酒臭い息を吐きながら吠えます。

「俺を仕込んでくれた先輩が引退するねんて、来年の春。やから誰か代わりになる人材入れなあかんねん。あいつでエエよな?とりま。しゃーなし。先輩等に、何か俺も動いとるで、ってとこちょっとくらい見せなあかんやん?やろ?お義理でも。そう言う世界やさかい」

「そうなん?」

「そうみたいやわ。よう分からん。俺にも。ゆーても俺自体がまだ一年未満やっちゅうねん。なんでも知っとんでー、もうこの夜の業界も長いから、って顔しとかんと、下の奴には舐められるから、知ったかぶりもようするけどな、本間は勘やねん。迷ったら勘。運頼み。全部そればっかし。

一応先輩は立てとかなあかん、それは頭ではわかっとる。わかっとるけど、俺より先に入っただけの何もおる価値無しの無能な先輩もよーさんおんのよ!でも、人脈とかだけはやたらにあんねん。そこが俺のよー理解でけへんとこやけど。ホスト同士で仲良なって何か意味あんの?、そのエネルギー全部神様のお客様に100パー注ぎ込んだらエエんちゃうの?って、俺は思うねんけど。

・・・でも、あんまりおっても意味ない古株が何か知らん幅きかせとって、みんなで手組んで働き者の後輩を蹴落とそうとする。俺が飛ぶ鳥落とす勢いでどんどん駆け上がって来よるさかい、自分の座が脅かされんのが目に見えてもーて、怖いんやろな、それやったら自分も下向かんと上向いて死に物狂いで切磋琢磨、頑張ればええもんを、もう守りに入っとるつまらんやつらやで、俺にしょうも無い要らんことしよるんは!誰やねん、俺の替えのスーツ毎回破きよる奴?出て来やがれ!!みんなで知らーん顔しやがって!!大体誰がやっとるか、誰の仕業かこっちはなんとなーく分かっとんねん、ただ、証拠が無いッッ!!しょうもない者同士皆で庇い合いやがって証拠隠滅しやがって!!毎回毎回・・・しょうもねぇええ!!俺にも俺の息の掛かった後輩がおったらなぁああ!!今は全方位敵だらけ。一人勝ちやからな。負け組どもが徒党組みよんねん!

なあ、若菜!!あいつ俺の手下になってくれると思うか?さっきのあのヒョロ男!」

「無理ちゃう?あんたにびびり散らかしとったやん」

「まあ無理でもともとや。いっぺんあの原石俺が磨いたろ。名前忘れたな・・・えっと・・・覚えとる?」

「ケンイチ君やったかケイイチ君やったか・・・私も覚えてへん。名前なんかどうでもエエやん。隣の子やん」

「せやな。本名なんかどうでもええわ。確かに。どうせ呼ぶ時は源氏名で呼ぶしな。何か考えたってくれや、カッケー名前!!源氏名って大事やぞ!結構!!俺ももっとハナからそれ知っとったらなぁあ!!もっとエエ名前真剣に考えたのにな!」

ヒロキはケイイチの源氏名をブツブツ声に出して考え始めました。私はその隙にベッドを離れ、大きなコップになみなみと浄水器の水を汲んで来ました。ベッドに近寄ると、ヒロキはもう寝かけています。自分のための努力は惜しみなくするけれども、他人のための努力をさせると10秒も起きていられないのがヒロキです。やっぱりな、という感じ。

「お水飲める?」

私はヒロキの睡魔に呪われて重たい頭を抱え起こしてあげて、口移しで水を飲ませてやります。

「お前だけや、若菜!世界中で俺の味方なんて、お前しかおらん。職場は本間に、鬼だらけ。右向いても左向いても。上も下も、みーんな俺の敵・・・それでもここまでのし上がってきた俺のこと、褒めてー?」

「ヨシヨシ」

わしわしと大型犬の背中の毛を撫でるみたいにヒロキの髪を撫でます。彼がそうされるのが好きだと私は知っているから。

「今のうちに出来るだけ水で薄めな。寝る前に。もっと飲んで!はい、お口開けて!」

ヒロキは半分寝ながら黙って口だけ言われたとおりパカッと開けます。(可愛い男!)閉じた貝殻のような形の良い瞼を手のひらで覆うと、フサフサの睫がサラサラと、手の中に捕まえていると逃げ出そうとして暴れる蝶々のように瞬きしてくすぐったい。

「睫まで熱持ってるみたい。もっと水飲まな。はい、お口は?」

「あ」

「ん、。・・・アルピタンはもう店で飲んで来た?今日はどんだけ飲まされたん?」

「飲んでった。今日はやっすい酒で酔うてもーた、しかも同期の席の!なんっも俺のポイントにもなれへんのに。呼んでも俺の客一人も来やがらへんし。普段何のため枕やったっとる思とんねん!!!!」

「あーあー、荒れてんな・・・もっと飲んどき、水。お腹の中のお酒薄めな。ちょっとでも・・・もう自分で飲める?」

私はお尻を撫で始めたヒロキの手にコップを握らせようとしますが、ヒロキの手は何故だか私の胸やお尻は握れるのにコップを握る力はないみたい。

「嫌じゃ~。お前が飲ませてくれや~。囲ったっとんねんから。それがお前の仕事やろ。仕事せえや~」

言葉は悪いが、口調は男同士で喋っている時と全く違う甘え声。もう大の大人の雄猫がゴロゴロ喉を鳴らしているような。私は、

「はいはい」

とまた水を口に含み、冷たいうちにと、急いで雛のように開けたヒロキの口に注ぎ込みます。

「そんな日もあってもエエやん。一日くらい。周りとの協調性も大事やで。普段他のホスト君達にヘルプ付いて貰ったときは自分のお席のお酒飲んで減らして助けて貰っとんのやろ?そのお返しもたまにはせな。持ちつ持たれつやん?どこの人間関係も。なっ?」

「ほん」ヒロキは聞こえているのやらいないのやら、口を開けたまま寝始めました。『ほん』、とは、うん、と肯定する意味なのか、それとも「阿呆らし」、と鼻で笑って小馬鹿にした音なのか、確かめたくてももう寝落ちしてしまっています。ヒロキという男はいつもこう。付き合い始めの頃は、

浮気疑惑を抱く度、酔っ払いヒロキの首を絞めて問い詰めようとしていましたが、私に首を絞められてゆさゆさ揺さ振られているその時にもグーグー眠り出す人なので、こちらの諦めもいっそ早かったのです。彼はまったく騒々しい竜巻みたいな人です。自分自身が他の人々にとっての大災害だから、逆に他人から影響を受ける暇が無いみたい。関わる人関わる人にジャンジャン迷惑をかけまくりながら動き回り、いきなりコトン、と眠りに落ちる。寝顔は天使。まるでヤンチャな子供そのもの。

嗚呼、慣れてしまえば可愛い・・・これぞ私の男ヒロキなのです。

 私は美貌の顔に垂れかかっている一房の髪をかき上げてやり、額にピタリと口づけをしたまま、深呼吸して、ヒロキの香りに肺の空気をすっかり入れ換え、身も心も完全にヒロキのオンナになり、そっと私の男の頭を自分の膝から枕へ転がして移し、ベッドから腰を上げかけます。ヒロキの重たい腕がすかさずまた巻き付いてきます。

「おって。変な夢見た」

「もう?夢見たん?どんな?」

「お前とさっきのあの野郎がヤっとる夢や!」

「エ?・・・」

私は背筋がヒヤリ、凍り付き、枕から膝に戻ってきたその頭を凝視しました。どこまで本気で言ってるんだろう、何を見たのか、見定めようと。

「さっき廊下におっただけのあの人と?私が?何の接点もないのに!」

「まあええやん。夢なんやし。エエ夢やったわ。なんか。嫌やねんけど、夢やしええわ、もっとやれや~と思て、こっそり電柱の陰から覗いててん。」

「電柱?私とあの子がどこでやってたん?道端?ヒロ君の夢の中では?」

「せやな、そう言う事なるわな、俺が電柱の陰から覗き見できるちゅうことは」

「道路なんかに寝転んでヤったら背中痛いわ。ずる剥けなるわ背中。それどころちゃうわ」

「夢やねんから背中の心配いらんのやて。夢ん中なら寝取られもなかなか乙なもんやったで~」

「あんたが早よ寝え。もう水飲まんのやったら・・・」

「今日は流石に飲み過ぎてもーてお前の事抱きたーても抱かれへん。このままじゃ負けた気がする。」

「ほどほどってできひんの?いっつも潰れてるか限界まで枕して帰ってくるかのどっちか、二択やんか。それ以外ないん?丁度良いところで止めとかれへんの?」

「いつも限界超えるまでいってまうねん。毎日天井突き破って限界値を突き上げよんねん。それが俺や。昨日の俺よりも今日の俺の方が酒が強い。明日の俺はもっと強い。そうやって日々努力して進化していきよんじゃ」

「可哀想に・・・そう言う生き方しか出来ひんねやな・・・長生きできんで・・・そんな肝臓を少しずつ削って日銭稼ぐみたいなやり方して、生き急いだら・・・」

「そんな俺が好っきゃろ?」ヒロキは両腕を広げ、ハンサムな顔を綻ばせてキス待ち顔をします。私は磁石のように引き寄せられてその突き出された薔薇の色の唇に口を付けます。

「結婚したるさかいに俺に目いっぱい生命保険かけとけよ。嗚呼、今日はお前を抱かれへん。悲し。悔し。寂しい・・・男として情けない!俺、お前抱くために生まれてきたのに。20年前に。

・・・今日はせめて俺が寝落ちするまで子守歌でも歌てくれや。俺のために生まれてきた若菜ちゃん!」

私はゆっくりなリズムに合わせヒロキの背中をポンポンと優しく叩き摩ります。メロディは出て来ても歌詞が出て来ない。けれど、瞳をキラキラ輝かせ私の膝から男前の顔が期待して見上げてきています。

「ね~んね~、ね~んね~・・・」

ヒロキは飲み過ぎると、寝落ちのタイミングでそばにいて貰うことが大好きなどこにでもいる甘えんぼの駄々っ子の大きな赤ちゃんになるのです。私と二人きりの時だけは、やっと全ての防御を解いて安心して深い眠りにつけるのだと言います。彼は戦士なのです。ボロボロに内蔵も時には喧嘩して体表面も傷ついて帰ってきて、家でしばし休息し、また毎日戦いの最前線へ出て行くのです。だから、武器を置いたときには思いっきり可愛い、愛されるだけしか出来ない、無力な生物になりたいのです。母の腕に抱かれたぷにぷにの自分一人では立つこともできない赤ちゃんに。そしてそうなれる相手を私に設定してくれたのですから、こちらも全力で答えたいではありませんか!?

「・・・私の愛しい坊や~・・・」

私はうろ覚えの即席子守歌を適当に浮かんだ歌詞で歌い終えました。

ヒロキがグウウ、と鼾で答えてくれます。本当に愛おしい。今度こそちゃんと眠りの底まで安全に沈んでいったのを確認し、指を一本一本私の腰から剥がして、重い頭を枕へ戻し、私も体勢を変えて彼の隣に俯せに横になります。顔をヒロキの方へ向けて。


 嗚呼、私の人生とは何だろう・・・?

ひっくり返り、仰向けになって私は考え出します。

1304号室と同じ天井、同じ壁紙の1303号室の天井や壁紙を眺めながら。結局、二人の男のどっちを最終的に選んで愛し抜いたとて、私はとにかく選んだ方の相手を支えるだけ。それでこの花の人生を散らして良いのでしょうか?目標を持って夢に向かい邁進する二人が眩しく、羨ましい。

ならば自分も夢を追いかければ良いだけの話ですが、私にはこれと言って別になりたいものがないのです。

 幼稚園や保育園の時は、「将来なりたい姿で働いている自分を絵に描いてみましょう」という時間があって、いつも食いしん坊な私はケーキ屋さんを描いたり、友達グループで真似し合ったりしてお花屋さんを描いたりして、そこに自分を画き加えていましたが、花屋もケーキ屋もアルバイトで経験し、そんな少女の夢みたいな良いものじゃないことを身をもって知りました。経営側になれば話は別ですが、大概何をしたってアルバイトはアルバイト、最初のうちは慣れなくて叱られて嫌ですし、三ヶ月もやっていれば今度は大体分かってきて飽きてきてどうせこき使われるなら経験値を増やそうと、次の仕事に移りたくなります。

 福岡にいる7つ歳上の綺麗な尊敬する従姉は、性格はキツくて好きじゃないから近寄らないけれど、遠目に見る分には美しくて凜として自立していて素敵ですが、彼女はお茶と生け花の先生です。私とは血の繋がらない方のお婆さまのお教えで、年を取れば取るだけ箔が付き客も取れるからと、小さい頃から着付けにお茶に生け花にと一気にお婆さまの手ほどきを受け、いつも手の甲に扇子でピシャリと叩かれた折檻の痕を付けて幼少期からピリピリしていましたが、今では「先生、先生」と呼ばれ慕われる立派な一人前の講師です。

熱心な受講生には、お花もお茶も掛け持ちして習いに来ている男子生徒が多いと聞きます。早くも抱えているお弟子さん達も、何やら関係性が怪しそうなイケメンの青年軍団です。グッと年上の受講生は、お婆さまから引き継いだ生徒さんだと言います。お婆さまの引退に合わせて奥様方は教わる方の生徒から教える側に立場を変えるか、やめてしまう人も多かった中、大分年下の従姉をまだ「先生、先生」と呼んで教えを請う熟練の生徒さん達は男性比率が高い!

母がこの従姉をよく引き合いに出して私を貶し、「男にたかっとらんと自分の二本の脚で立ちなさい」と一本の電話で必ず一度は口にするので、従姉を嫌いにならないように、従姉にアラを探そうとしない努力をするのに、私は命懸けです。

物言わぬ天井に向かって、溜息が出ます・・・

 昔、ささやかな私の夢はたった一つだけでした。

『図書館のそばに住みたいなぁ・・・』

それだけでした。あとは、まあ、蛇口を捻れば水が出る、日の当たるベランダのある家で、毎日ビスコを囓れるくらいの生活水準を保てれば、それで良い。そのくらいの質素なものです。夢と言うより、もはや生活保護レベル。しかし、高望みしなければ私はそれで充分幸せになれたのです。贅沢を知らなかった昔は。

ところが今や、二人の男を手にしているのに、一人の時間も欲しいわ、一人の部屋も欲しいわ、それでいてどっちもを三年後にだって手放したくないわ、その上自分の夢も見付けて追いたいだの、自分でもまた何かアルバイトして外で稼いでみたいだの、新しい秋冬服が欲しいだの、ネイルサロン通いがしてみたいだの、デパートのクリスマスコフレが欲しいだの・・・気球に乗ってみたい、寝台車に乗ったことも無い、温泉に行きたい、蟹が食べたい、河豚も食べたい、ブドウ狩りに行ってたらふくブドウをお腹に詰め込みたい・・・満天の星空が見えると言うグランピングとやらもしてみたい・・・お婆ちゃんにも会いたいし、美容室にもまた行かなくちゃ・・・ホテルの温水プールで泳ぎたい・・・モンブランが食べたい・・・チェコ行きたい・・・ブーツが欲しい・・・欲望が果てしなく湧き出てきて尽きません。一体いつから私という女はこんなにも欲深くなってしまったのか?


・・・実家の母の言うとおり、やはり私も自分の物を買うお金くらい自分で稼ぎたい。自活力を再び取り戻せたら、もっと自分自身を軸にした生活の方針が立てられるかも知れない。メトロノームの針みたく二人の男の間をカッチンコッチン時間通り行き来して世話を焼くだけの何の身の上の保証もない不安定な生き方をするよりも、もっと広い外の社会に出てみれば、また全く違った世界が開けてくるかも知れない・・・

今は、流石に寒いのでもう裸で廊下を行き来することは諦めてやってませんが、ヒロキの生活に必要な買い物を学校帰りのケンイチ君に頼んだり、ケンイチの家で足りない物を買うお金をヒロキに貰ったりして、過不足のお金と時間を平らにならして工面しています。

(もし、アルバイトするなら、ヒロキの時間を削ろうか・・・ケンイチと過ごす時間を借りようか・・・?)私はクリーム色の天井に悩みを投げかけました。

 ヒロキが留守の間、開けるなと言われているドア越しに喋った彼の先輩だと名乗る男は、

「キャバクラで働きなよ、自分も。短時間なら絶対バレないって。ヒロキが出て行ってから出勤して、チョロッと働いて、奴が帰ってくる前に戻って寝てりゃ良いさ。チョロいもんだぜ?あいつは気付くはず無いよ!自分の事に忙しいから!!ヘソクリ貯めてこの家が嫌になっても出て行ける底力蓄えとかなきゃダメだって。いざって時のために。女の子は強かにもっとズル賢く立ち回らなきゃ!」

と唆し、その気になったら自分の番号にかけてくるように、と、郵便受けの隙間から自分の名刺を滑り込ませてきました。

「こっちはヒロキに自慢されてきみの顔は知ってるからさ。可愛いと思うよ。売り物に出来るうち換金しときなよ?!その若い可愛い顔をこんなしけたアパートの一室にじとーっと閉じ込めとくのは勿体ないよ。後でおばちゃんになってから俺の言ったこと思い出してももう遅いんだぜ?」

とその男は言いました。褒めながら脅す、巧妙なやり口です。

まだケンイチ君に出会う以前、まだヒロキの留守中はこの家でじいっと閉じ籠もってヒロキの帰りばかりを待ちわび、退屈しきっていた頃のことです。念のため、その名刺は今も買い物鞄の中敷きの裏に潜ませてあります。が、ヒロキに内緒でキャバで働くのなら、なにもヒロキに繋がりのある男にわざわざ頼らなくても、キャッチがウヨウヨしている時間帯に街に出掛ければ良いだけのことです。

 しかし今は、ケンイチ君と過ごす時間を削りたくはない。かと言って、ヒロキと過ごす時間も減らせない・・・ケンイチ君は規則正しくいつも同じ時刻に出掛け、大体カッキリ同じ時間帯に帰ってきます。ヒロキはちょくちょく帰りが遅いなぁと言う時があるけれど、いつも通り帰ってくることもあるから、読めません。本人自身、客商売なので、太客様にお呼び出しを受けると時々寝ていても半目で眠り足りない目を擦り擦り出て行ったり、いきなり帰ってこなかったりする日もあります。本人も毎日が想定外の連続の中を生きているので、それに運命共同体の私も、予定を立ててしかも秘密裏にバイトをするなど出来ることではないのです・・・

 人は出来ない言い訳ならいくらでも思い付ける生物だと言いますが、まさにそう。悩み考えれば考えるほど、私は眠くなっていきました。大きく開けた口は、明暗を閃いたからではなく、欠伸をするためです。

「愛してるよ・・・」

私は悪い魔女に魔法をかけられたように眠りこけている隣の美男子の耳に囁き込みました。

「愛してる。何があっても。何年後も・・・死ぬまで永遠に・・・」

「ワカちゃん・・・」ヒロキが寝返りを打ち、私の腰を抱き込んで、ラッコのようにグルッと回転しました。それで私は壁際に寝かされ、もう自由に起き上がれなくなりました。これでは目を瞑って寝るより他ありません。

「愛してる・・・」ヒロキも眠っているくせに的を射たことを囁いてきます。私は彼の腕に頭を包まれ、腰を抱かれて、彼の吐いた煙草臭い息を吸い込み、やがて眠りに落ちました。




続く






 

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