後編 マンションの話 サンスポ100万獲るぞーッ!!!!
今から十年前のこと、わたくし若菜30歳、これは丁度その年20歳の秋のことでございます、
訳あって、わたくしはその年の秋、忘れもしません、9月9日の早朝4時、1303号室の元彼ヒロキを捨て、1304号室のケンイチと付き合い始めておりました。
ケンイチは優しく、激しく、狂おしく、わたくしを愛情を込めて抱いてくださる色白な頭の良い男の子でございました。わたくしは9月9日の早朝4時をもって、胸の内ではキッパリと、ヒロキを嫌いになり、これから先はケンイチだけを愛すと決めたのです。しかしッ!!
しかーしながらッ!!!!!
愛しいケンイチ君は親の仕送りで生活し親の借りてるマンションに住む、お金のない苦学生さんでございました。努力型の秀才で、コツコツ勉強する時間をとらなければ志す法律家にはなれないので、アルバイトも土日だけに絞って自分の食扶持を稼いでおりました。一円玉一つ持たない丸裸の私を快く受け入れ、愛してくださったのは良いのですが、なにせお金がない!!!!!!!
私が働きに出れば良いのですが、そこは怠惰の国の次期女王、わたくしこと若菜でございます。
わたくしがケンイチ君の部屋に住み始めて三日目、学校もアルバイトも一日ずつサボり、流石にもう三日目だし、ヒトとしてちゃんとしよう、と、本来の真面目さを取り戻したケンイチ君は、
「流石に今日は学校行かなくちゃ・・・」と小さな声で呟き、朝から大きな重たいスポーツバックと黒いリュックを担ぎ、黒縁の眼鏡をかけ、玄関口で私の髪を撫で撫でしてくれ、学校の最初の授業にギリギリ間に合う電車にギリギリの時間になってからやっと嫌嫌ドアを開け、神様がオレンジジュースをぶちまけてこぼしたような朝焼けの外へ出て行きました。
心配そうな目をして、廊下をエレベーターの方へ歩きながら、前方よりもこちらばかり振り返り振り返り後ろ髪をひかれまくって歩くので、躓いて転けて頭を打って大怪我するのではとこちらが心配になるほどです。
自分が帰ってくるまでの私の食べ物は十分あるか、朝はどれを食べてお昼はどれを食べるつもりなのか、冷蔵庫の中の卵とキムチとヨーグルトとキャベツを指さし確認し、「足りる?これだけで・・・もう買いに行く暇ないけど・・・ごめんね、昨日最後の一発やらずに今日の事考えて食料調達しに行くんだったな・・・間違えたな・・・」などと心配して。心根の優しい良い人です。
「夕ご飯は僕が買って帰るからね。18時30には戻るよ。それまで誰が来ても部屋のドア開けちゃ駄目だからね?ちゃんとした女物の服も今度一緒に買いに行こう、ね?僕が買ってあげるから・・・」
訳あって、まともな自分の服を一着も持っていない私に、格好付けたい彼はそんな男前な事を言ってくれます。しかし互いに、これまで一人で生活するのにもヒーヒー言って切り詰め切り詰めして来たらしいケンイチ君の質素な暮らしぶりや、お財布事情や、時間の無さを、なんとなくはこちらも察しており、それを賢いケンイチ君も私の目から読み取り、見抜いています。見抜けていてどうにもすることができないので、悔しそうで、悩ましげで、痛々しくて、またその男性らしい内心の葛藤にこちらはキュンとしてしまうのです。
働く女性が当たり前になってる現代社会ですが、男女問わず、守りたい側と守られたい側は出会い、ときめき、20本の指を絡め合わせ、恥骨を擦り付け合い、惹き付け合って離れがたく心身共に結び付いてしまうのです。
ケンイチ君が私に心配をかけないように自分の男らしさをアピールしようと、いつの日になるのか分からぬ男前な約束をしてくれたその気持ちを、わたくしは無下にできません。でも、でもでもッ、こちらも、うん♡、と可愛く頷きながら、しかし、悲しいかな、この子が服を買ってくれるのをただひたすらボケーッと待っているだけでは、自分が自分の足にぴったりの靴を履いて堂々と外へ出て闊歩できるのがいつの日になることやら、全くのケンイチ君頼みで、サッパリ見通しが立たないわけです。
わたくし、のんびりノホホンとして見えて、意外に待てない子なのです。そして欲張りな子、自分の気持ちというものを社会的ルールや法律などよりも尊重してしまう子、一度こう!と決めたら走り出してぶつかって砕け散るまで人の制止も耳に届かない愚か者なのです。
朝の5時にケンイチ君を玄関でお見送りして、小一時間ほど、彼の本棚の難しい本をペラペラめくってみたり、勉強机や筆記用具、眼鏡のレンズをピカピカに拭き上げてあげたり、シンクや洗濯機のゴミなどを掃除して時間を潰し、既に頭痛のような歯痛のような耳鳴りがするような退屈を感じ、漫画の本一つ置いてない潔癖な部屋の中で静寂に耳を傾けてケンイチ君の仄かな香りだけがするベッドに寝転がっていると、共用廊下の方から聞き慣れた千鳥足の足音が聞こえて来ます。
ヒロキです。
いつもは自分が起きていて1303号室に居たときはこの足音が聞こえると小走りで出迎えに行っていたので、反射的に上体をパッと起こしてしまいました。ナントカの犬みたいな、身に染みついた条件反射です。ヒロキも私とケンイチが1304号室でやりまくっている間も生きていたのです。普通に私が居なくても生活を続けていたのです。当たり前のことですが、なんだか不思議な感じがいたします。
開けたままの窓から、隣の部屋の窓が開くカラカラという音が聞こえてきました。それから、ヒロキが私の携帯電話に電話をかけたのか、私の携帯のヒロキから着信を受けたときの曲が流れて聞こえてきました。
三日も経っているので、私の携帯電話が自分の部屋に置きっぱなしな事にはとっくに気付いているはずではないでしょうか?それなのに一人の部屋に帰宅して、彼女が居なくて寂しくて電話をかけてしまうとは、なかなかヒロシと言う男も、情けなくも憎めない人間味のある男です。煙草が嫌いな私のために、ベランダに身を乗り出して煙をできるだけ外へ吐き出してくれる習慣も、私がいなくても続いているらしいのです。
・・・それとも、仮にも一年近く惚れて付き合っていた元彼をあまり悪く思いたくないこちらの心情がそう良心的に受け取りたがっているのでしょうか?
荒々しくバンッと冷蔵庫の扉を閉める音、(多分、牛乳をパックから口飲みしているのです、その情景が目に浮かぶよう・・・)続いて2本目の煙草に火を付ける音が聞こえてきます。風向きが、懐かしい、火の付く煙草の香りを、カーテンに包まって窓辺に身を寄せる私の鼻腔へ運んできます。
「っす!俺っす!ぉ疲れさぁっすー!」とヒロキの声が、沖縄生まれ神戸育ちの独自な関西弁で、誰かに電話をかけ始めたのが聞こえて来ました。務めているホストクラブの繁盛状況を聞かれ、適当に返事しているようです。相手は別の店の友達か先輩か同業他社の誰かでしょう。しばらく話した後、
「・・・今から?寝るっす!三日寝てないんで今日こそ寝るっす!」と言って電話を切りかけ、こう付け加えました。
「あっ、若菜のこと、どっかで見かけたら一報下さい。まだ見つかって無くて。はい。はいー。あーい。じゃっ。」
一応、少しくらいは心配してくれているようで、こちらも小さく頷きました。更に聞き耳を立てていると、開け放ったままの窓辺のベッドでヒロキが寝入ったのが、聞こえて来た懐かしい鼾で分かりました。口を開けて眠るくせに、鼻呼吸で、時々「ンガッ!!」とか「んごっ!!」等と言って自分の鼾の音にビックリして目を覚ましかけるのですが、後で聞いても本人は一度眠り始めてしまえば起きてからそんなこと一切覚えていないのです。眠りは浅いようで実は深く、睡眠時間が短いのでその分集中して眠っているみたいで、滅多にアラームが鳴る前に起きたりしない人なのです。ヒロキは学はないですが野心家で、起きている間中、雄としてか人間の男としてかは意味は少し違っても、働き者ではあるのです。そこだけは今も、呆れながらもちゃんと尊敬もしているのです。
三日前まで視野の中に一人しかいない、愛し合っていると信じて疑っていなかった男の鼾を聞きながら、わたくしの決意は固まっていきました。
まだその必要はないのに、1304号室の中を突っ切る時から息を殺し、ソロリと共用廊下に首を出し、外に誰も居ないのを確認します。
わたくしは、万が一、ヒロキが起きて私の姿を見たときに、ケンイチの服を着ていてはよろしく無いと考え、色々違う方法も無いかとスカスカの脳を絞ってみましたが、他に何も案が出て来ないので、(ええい、いっぺんやったことではないか、何を今更恥ずかしがることがあるのか!)と自分を叱咤し、必殺・開き直りの暗示術を自分にかけ、ケンイチに貸してもらったシャツを脱ぎ、何も掛かってない帽子掛けに掛け、一度つっかけたケンイチの靴も脱ぎ、この部屋に入ってきたときのままの状態、ヒロキの部屋から放り出された時のままの状態、すなわち生まれてきたときのままありのままの状態で、共用廊下にサッと出ました。
爽やかな金木犀の香りの秋風が、待ち構えていた人懐こい遊び盛りのゴールデンレトリーバーの小犬のように、私の何も履いてない股下を駆け抜け、渦を巻き、背筋を駆け上がり、胸に脇に戯れ付きます。裸の肩幅に足を踏みしめた仁王立ちで見晴るかす足元に広がる町並みよ!服を着たままで見る景色とは一味も二味も違います。ゾクゾクするような密やかな興奮、あの朝日に輝く窓窓の中からもしも今誰かが洗濯物でも干しに出てきてこちらを見上げたら、腰を抜かしてビックリ仰天するのではないか、いっぺんその様子を微笑みながら見物してあげましょうかしらん?という、裸で公共の場所をちょいちょい出歩くことにいつしかスリリングな甘美な悦びの趣味の扉を開き始めてしまいそうな気がいたしました。
敵わない力に屈し、人間としての社会的な皮を毟り取られて、まるでヒトとしての皮膚を剥がされたかのような思いで、三日前、廊下に放り出されたときの惨めさからの無理矢理の必死の開き直りと、今、1304号室の玄関口でまがりなりにも、自分でタイミングを見て、自分で決断し、自分の意思で開き直って、堂々と裸一貫、肩で風を切って、共用廊下に出てきた今とでは、全く爽快に気分が違います。
(見よ、エブリバディ、あたくしのバディを!なかなかのものでしょうが!目に焼き付けておきなさぁい!)
ぐらいの心の持ちようです。
はてさて。
自分でドアを開閉する習慣が今までなかったヒロキの事です。(これまではわたくしが出迎え、送り出し、してきていました。)
(もしかしたら・・・)と踏んだとおり、1303号室のドアノブは、(握り締めるとヒロキの体の中心部に屹立するヒロキの象徴のような大きさ固さの、色だけが違う銀色のドアノブは)、難なく、回り、引くと、キィと微かな音を立ててドアが開きました。
たった三日、隣の部屋で暮らしただけで、もう自分の家ではないかのような違和感と、慣れ親しんだ我が家にようやく戻ったという既視感の、両方が、何に目をとめても、感慨深く押し寄せてきます。
綺麗好きで必要最低限の物しか持たないケンイチの部屋のこざっぱり感と、欲しいと思った物はいくつでも買う、もう既に持っていることさえも忘れてまた同じ物も何度でも買って来てしまうヒロキの物で溢れかえった、足の踏み場のない部屋。対照的でいて、でもどこか、共通の匂いもする二人の男の人の部屋。
わたくしは、物思いに立ちくらみ過ぎて、あわや、何をしに危険を冒してここに来たのか忘れるところでした。いけないいけない!
貴重品とか、携帯電話とか、目下すぐに使いたい自分の私物を取りに来たのです。スッポンポンで。
三日前までは心底から愛してると思い込んでいた今は煙草臭い汗臭いとしか思えないヒロキの濃い体臭と香水と煙の充満する部屋の中を、抜き足差し足で自分の必要な物を探し回ります。とりあえず社会的ヒトたる生物に戻るため、洗濯済みの籠の一番上に乗っていた自分のゼブラ柄のパンツを履き、それとお揃いのブラを探して自分の箪笥の引き出しを開けましたが、ハッと気付くと、さっきまで規則正しく轟いていたヒロキの鼾が聞こえません。
心臓が冷や汗をかいているみたいなゾッとする一秒後、振り返ってみると、目を血走らせたヒロキがベッドの上で捻った上体を起こし、赤い目をしぱしぱ瞬きながらこちらを睨んでいます。獲物との距離を測るライオンの眼差し。と言うか、私は、蛇に睨まれた蛙です。
「お前、どこおったねん?実家には帰ってないやろ?」
私はチラッと考えましたが、勝算がなさそうなので、玄関まで全力ダッシュで走り出すのはやる前から諦め、大人しく、しおらしい声を作りました。
「覚えてないん?」
「何をや?」
「あんたに裸で放り出されて、閉め出されて、あんた、その後、酔うとるから鍵締めて中で鼾かいて寝てたやん。私、非常階段で震えて膝抱えて夜まで過ごしたんやで。飲まず食わず、着るもんも着んと。」
「マジか?」今日も阿呆で、酒に酔って思考回路がアルコールの濃霧で潰れているヒロキで良かったです。
半信半疑で、変な顔をしながら、ここ2、3日のあやふやな記憶を取り戻そうと必死こいているヒロキに先を越されないよう、私は大急ぎで畳み掛けました。
「マジやでなっ!何こっちのこと睨んどん?こっちがあんたを睨む権利があっても、あんたには頭下げる権利しかないわ!あんたの会うた事も無い顔も知らん先輩とあたしが浮気したとか、わけ分からん濡れ衣着せられて、裸で恥ずかしいし寒いのに、何回チャイム押しても起きてくれへんかったやん!阿呆!酷すぎるやろ!私、あんたが仕事行く時間までずーっと裸で非常階段おってんで!あんたのせいで寒くて風邪気味やわ!」
「え・・・嘘やろ・・・だって昨日は?」
「友達の家におったわ!そらそうやろ!あんたの顔も見たくなかったんやもん!もう大嫌いやわ!浮気ばっかりしとんのはあんたの方やのに、なんでなんもしてない私がこんな目に遭わなあかんねん!呆けぇ!」
みるみる涙が湧き上がり、嘘と本物の入り交じった大量のキラキラ光る真珠の涙が頬を伝い流れ落ちます。本当はずっとずっと、自分では気にしてないと思っていたかったけれど、ヒロキの浮気が許せていなかったのです。実は自分でも知らぬ間に、心の奥底の見えにくい柔らかい箇所がずっとえぐられ、涙を蓄えていたのです。自分の体一つでは受け止めてあげきれない性欲と自由思想の持ち主ヒロキを愛してしまったが故に、矛盾や歪みを全部こちらに押し付けられて背負わされ、必死に浮気には目を瞑ろうとし、しかしそれでもこの美しい男を本来ならば自分だけで独り占めにしたくて、この大きな抱えきれない矛盾ごと、それでも抱え続けていられたほどに、それほど本気でこの阿呆ヒロキをわたくしは愛していたのです。浮気相手の無数の女どもごと、全部、ヒロキの世界を包み込む愛で、全て許そう、全て愛そう、と、何度も悩ましい気持ち悪い気分になりかけたこともあったけれど、自分が大きく強くなろうと努力した、それほど良い男だと思い込もうとしてきた、このわたくしに見込まれた男なのです。ヒロキという男は。
「すまん・・・マジかぁ・・・酔うとって・・・なんも思い出されへんわ・・・あかん・・・ただお前がおらん事だけはめっちゃ分かっとって・・・うわぁ、・・・マジかぁ・・・俺がお前を放り出したんか・・・裸で?マジかぁ・・・すまん・・・泣くなよ・・・泣かんとってくれや・・・頼むわ・・・ごめん・・・」
ヒロキは阿呆ですが、根は単純な騙されやすい良い奴なのです。
ノッソリ起き上がってきて、まだ酒に足元を脅かされながら、ふらふら近づいてきて、のしかかるような抱擁をガッチリしようとして来ました。でもこちらはもう意地になっています。絡みつく腕を振り払おうとします。でもヒロキは力も強く、彼の方もこの場面では引くに引けない。何度振り払われても、諦めず、辛抱強く、無理矢理に力尽くでも仲直りに持ち込もうとして来ます。ライオンがハムスターを捕まえるかのごとく、あっという間に私は腕を捕まれ、肩に腰に太い毛深い腕を回され、羽交い締めの強力なハグで腕の可動域をピッタリ封じ込められ、そのままフラフラとベッドへ縺れ込み、せっかく履いたゼブラパンツを速攻でズリ下ろされました。
「お前がおらな俺あかんねん。許してくれ。ほんま、お前がおらなあかんかってん。嘘やないで。あっちこっち、友達全員にお前の写真とか送って、この女見かけたら俺に連絡くれ言うて回って・・・」
「そんなんやめてよ。肖像権侵害やん」
わたくしは既にケンイチとの関係性に未来を見ておりますから、一応必死にどうにかしてヒロキの腕から逃げようと藻掻きますが、怒らせても面倒だし怖いし、怪我もさせたくないしで、ヒロキの目を爪で突くとか、股間を蹴り上げると言ったほどに乱暴な抵抗もできません。そもそも雲泥の差で力の劣るこちら側が力加減している時点で、ライオンの腕の中からハムスターが抜け出せるワケがありません。
「あたしもうあんたなんか好きじゃない!出て行くから!放してよっ!」口で伝えるしかありません。
しかしヒロキに言葉など通用しません。腕力で捻じ伏せ、聞く耳無く、自分の言いたいことばっかり大声で訴えてきます。
「俺お前がおらなあかんってよう分かったんや。今度のことで思い知らされたわ。仕事で客とかよその女と何やかんやあっても、一日の締めには、ほんまに惚れとるお前と一発かましてから寝んと、よう寝れんのやわ!お前を腕枕してんとちゃんと寝た気がせぇへんねん!この目の下のクマ見てくれ!これが証拠や!」
確かに凄い隈だとは正直、目を合わせた瞬間から思っていました。それに、さっきも、これまでなら一度眠り込んだら滅多な事では目を覚まさないヒロキが、ひとりでに起きてきたのです。眠りが浅かったのは証明済みです。
「俺お前がおらなあかんねん!ほんまに!出て行くなッ!何でも買うたるから!何が欲しい?お詫びに何でも買うたるから許してくれ!俺、お前のために働いとんやぞ!お前にいつでもなんかしてやれるように必死で働いて来とんねん!これまでもこれからもずっと!!ディオールか?グッチか?何が欲しい?シャネルか?カルティエか?時計が良い?鞄?せやっ!!結婚指輪買いに行こ!それやっ!!結婚してくれや!」
「そんな!勢いでプロポーズせんといて!阿呆!痛い痛い、やめて、ほんまにやめて!指入れんといて!」
「舌ならええか?」
「嫌や!もう別れるって!放せっ!」
「お前のことが好きやねん!俺は別れへん!!」ヒロキが泣き顔になり、真剣にわたくしの腰にしがみ付いて、骨が軋むような凄い力で締め付け、自分の顔面を擦り付けてきます。涙や鼻水で私のお腹が濡れました。本当に涙をこぼして泣いているのです。ちょっとこれにはわたくしもビックリいたしました。ヒロキにとってわたくしとは単なる都合の良い女、何でもホイホイ言うことを聞くいくらでも換えのきくダッチワイフでしか無いのだともう分かった、と見切ったつもりでしが、それなりに人としての情も一応はあったようです。それとも嘘泣きが上手な男だったのでしょうか?ヒロキが泣くのを見るのはこの時が初めてでした。いつもは上から決めつけるように物を言う人で、下手に出られたことは無かったのです。付き合い始めてから以降は。
頼むように喋るのは付き合い出すまでの態度でした。
「お前これ好きやろ?ん?舌で舐め回されるのが?ん?ええやろ?なぁ、体は正直やな、ん?体は『それそれ、それ好きぃ!』言うとるぞ!美味しい女の子の汁が溢れてきよるぞ!若菜!」
「そんなわけ無い!」
しかし、そうなのです。体はこのヒロシを既に受け入れる体制に入り、ケンイチとの連日連夜のアンアンで掠れ果てていたはずのわたくしの女性器は何故なのか、あふれ出した涙のように突如として潤いを取り戻し嬉し泣きにピクピク身を震わせているのでございます。やっぱりあたくしはこの男が好きだった!!この濃い体臭、真っ白なインプラントの歯が際立つ真っ黒に焼けた肌、ヒロキのごつい腕の中では自分の手足が物凄く華奢で色白でいかにもか弱く見えます。この人に守られ、この人に食べられたい!!
(あぁ、ダメだ・・・力でも精神的エネルギーの強さでもこの激しい人には太刀打ちできないッ・・・!)たった三日で情を完全に捨て去る事などできなかったのでございます!!自分がこの人を好きだった気持ち、積み重ねてきた時間、共に暮らし折り合わせ似てきた習慣や癖、そして何より、抵抗しても逃げられない状況!
「若菜!若菜!お前も俺から離れられへんねや!!お前もまだ俺のことが好きなんや!!別れるとか出て行くとか言うなや!!ほら!ほら!!どんどん溢れてきよるぞ!!若菜ぁぁ!!」
「ひろくんッ・・・!!」
「あかん、もう我慢できん、入れるぞ。いくぞ!」
ヒロキはいつもよりも強い力で、しかし、いつもよりも丁寧に、真剣な血走った目でわたくしの目をジッと見詰めながら、わたくしの両方の足首を力強く握り締め、高く持ち上げ、自分のモノをわたくしの秘密の場所にあてがいました。
「好きやぞ、若菜!」私は涙に濡れた睫をギュッと瞑りました。
「痛いか?痛かったらごめんやけど、やめられへん!すまん!死ぬほどお前が好きやねん!!」
この自分勝手さ、ゴリゴリ内側に押し込んで猪のように一方向へばかり突き進む、独り善がりな燃える情熱、これがこの人のやり方であり、私にしか本当の意味で愛すことのできない男の、嘘偽りの無い、営業スタイルではない、本音のやり方なのです。
「好き!好き!私も好きぃ!!」
気が付けばわたくしも声を限りに泣き叫んでおりました。
「若菜ぁ!離れんとってくれやーッ!!一生お前だけやッ!!ほんまは俺はお前だけなんやーッ!!」
「うん、分かっとう!!」
ちょっと痛い!否、凄く痛い!!無茶苦茶に揺さぶられ、必死すぎて無言になります。歯を噛みしめ、掴めるものを探し手がシーツの上を彷徨い、水に落ちて溺れる蝶のように激しく往復し、襞を見付け、握り締めます。
ヒロキとわたくしの抜き差しの幅が広がりすぎて勢いよく差し込むときに変な方向にぶち込まれてこれ以上痛い思いをさせられないよう、両脚をガッチリ、ヒロキの腰に巻き付け、高さを揃えるために両腕は頭の上に伸ばして、仰け反り、ブリッジの姿勢になります。
この姿勢になるとヒロキの目の前に乳首を突き出す形になるので、差し出してきたと勘違いして、ヒロキは夢中になって吸い付いてきます。するとこちらは力が抜けて、ブリッジの姿勢を保つことができなくなり、ぺしゃりとベッドに落下します。揃っていた二人の重心の位置がずれ、ヒロキが自分の太い腕を私のお尻の下に差し込み、抱え上げて浮かせ、また高さをピッタリ合わせてくれます。自分がもっと突きやすくするために。
息も詰まる激烈な猛攻撃の最中の、自分勝手な優しさよ!こちらは今にも死にそうに閉じている目の中で光がチカチカします。息も吸えず、息も吐けず、終わってくれるのを祈って死に物狂いで耐えています。
「いっぺん出すぞ!その後ちょっと休憩してから何回かやってええか?」
私は夢中で首を振り動かします。
「ええんか?あかんの?ま、ええわ。一旦いくぞ!!」
ヒロキは私の腕や首や肩を押さえつけ、私の一番奥で放出します。こちらも爪を立ててヒロキの腕を握り締めています。もう窒息しそう、骨折しそう、やっと終わってくれたのか、という感じ。ボトボト汗が降りかかり、自分の体もどちらのかいた汗なのか分からない二人の汗でビチョビチョで、ヘロヘロのヘドロになったような気分です。握り締めた私の手のひらの下で、ザーッとヒロキの腕に鳥肌が立ち、一瞬の後にサーッと沈静して、ヒロキが気持ちよくなってくれたのが分かり、私は嬉しくて泣きそうになりました。
ヒロキが額を私の額に当ててギュッと閉じていた目を開けさせ、無言で目の奥を覗き込んできます。
「愛しとる。これだけはほんまや。信じて。」
頷くと、ニッコリと心から嬉しそうに笑って、唇に杭を打つような力強いキスをしてくれます。ここからが私の一番好きな時間なのです。
「あぁ、汗かいたな・・・」ヒロキはもうシャワーを浴びたそうに浴室の方を向いています。下からそのガッシリとした逞しい顎を見上げました。厚い唇。髭は脱毛しているので肌はつるりとしています。見つめられると雲間から姿を現す太陽を待ちわびていた向日葵のように、心から彼の温かい視線に芯から温められます。
「力抜いて。もたれて。ギュッとして」
「俺の汗が付くで」
「つけて」
「・・・これで良い?」ヒロシは早くシャワーに行きたいのを我慢して、汗でぬるつく腕を私の体に巻き付け、辛抱強く抱き締めてくれます。
(あぁ、この体温・・・この匂い・・・この重み・・・三日前にこうして欲しかった・・・)
ヒロキは乱れた酒臭い息を吐き、激しい運動後のドキドキ大きく脈打つ鼓動をこちらの胸に押し付けて伝えてきながら、耳を私の鎖骨にくっつけ、しばらく大人しくジッとしていてくれましたが、根がせっかちな人です。
「もう良い?」すぐ起き上がろうとします。
「あかん。もっと力抜いて。」
「寝てまうわ」
「寝て。もっと体重かけて。全身の力抜いて」
「潰れてまうぞ」
「潰れんから」
「怖いわ。小さいお前にそんなんようせえへん。」
「もっと凄いことしとるやんか」
「そんなこと無いやろ・・・」
「早よ。力抜いて。全力で」
「潰れても知らんで・・・」ヒロキは少しずつ自分で自分を支えていた腕の力を抜いて、私の体からはみ出しながらも、凸凹したベッドに伏して寝るように全ての重みを預けてくれました。確かに潰れそう。重たくて、肺いっぱいに空気を吸い込むのが難しい。でも可能なら今死にたい。圧死したい。腹上死の逆バージョン。ヒロシの重みで潰れて死ねたら最高だ・・・
何故これを三日前にしてくれなかったんだろう。
今の私はヒロキの事だけを考えていられた三日前の私とは違う女なのです。
(あぁ、今だけでもヒロキの事だけで頭をいっぱいにしたい・・・!)と思うのに、ケンイチの顔が、言葉が、瞼の内側にもチラつきます。
「苦しくない?」耳に熱いくぐもった声。
「苦しい。でももうちょっとこのままが良い・・・」ヒロキが慌てて起き上がってしまわないよう、潰れた声を出さないように、平気そうないつもと同じに聞こえる声を心がけて発声しました。
「寝てまうわ。あかん」
起き上がろうとするヒロキの腰に急いで腕を回し、脚も巻き付け、抱っこちゃんみたいにして捕まえ、首を横に振りました。嬉しいのか、悲しいのか、溢れてくる涙の意味が自分にも分かりません。ただ時間に止まって欲しいだけです。
「甘えとんのか?」ヒロシはよく見ようとしてちょっと仰け反って私の顔を眺め、「可愛いな」とニッコリ微笑んでくれました。どんなモヤモヤも、恨み辛みも、一瞬にして吹き払うその温かい笑顔の破壊力よ!
嗚呼、嗚呼、わたくし若菜はヒロシをこれで忘れると言うこともできないでしょう。そしてケンイチのことも、どうすれば良いのか全く分かりません。今は何も考えたくもありません。
「心配せんでええ。お前はなんも考えんとずっとここにおったらええねん。よしよし」
私の変化を何も知るよしのないヒロシは、付き合いたての頃のような優しさで私の髪を撫でてくれます。私は二人の体がもし粘土であったなら同化して練り合わせて一つの人間になってしまいたいというように、全身全霊を込めてヒロシの彫りの深い滑らかなほっぺたに自分の顔面を押し付け、体を密着させて、腕と脚でしがみ付いていました。やがて、ヒロキの、私の髪を撫でる一定のリズムがゆっくりになり、カクッと何度か首が傾き、息を殺して待っていると、そのまま眠り始めてしまいました。
ヒロキが眠っている間、私は彼の眠りを妨げないようできるだけ身動きしないようにしていて、そのうちに自分も眠ってしまいました。夕方目を覚ましたヒロキはいつものようにまた私にとめどない欲情をぶつけ、夕焼けの中、漲る体力で仕事に出掛けていきました。
「金置いとくから、好きなもん買いよ?」
ヒロシはお金はあるけれど一緒に買い物に行く時間は無い人なのです。働き者。その働き方は汚く、狡く、平気でルールや暗黙の了解を破り、先輩ホストの太客を横取りし、たまに殴り合って首から下を怪我して帰ってきます。(職業柄、首から上は殴らないと掟があるそうです。)職場に信頼のおける友達はいない、敵だらけだと言っておりました。『でも大丈夫。俺、友情を職場に求めてないから』と。
ヒロキにはヒロキなりの生き方、物事に対する接し方があり、女を愛すにも、彼なりのやり方があり、それを変えさせることはなかなかできません。彼なりの愛し方の基準の中では私は最大限に愛されているのです。愛とは金、ヒロキがそう信じているのも、あながち間違いでは無く、むしろこの世を生きる人間には全くの真実なのです。そんなのつまらないと思いたくもなります。愛とは、爆発的な夢から幕を開ける物だから。夢、期待、好奇心、スリル・・・新しくできた恋人に夢は膨らみ期待は高まります。誰でも自分に都合の良い恋人が欲しいから。しかし、恋人もいつまでも綺麗事や夢を食べて生きてはいけません。愛の始まりは勘違いから来る幻ですが、愛を継続させるのは、現実的出費です。
ヒロキは学は無くても、物事の真理を見極める鋭さはあり、誰よりも現実をよく知っているのです。
ヒロキの父親は早くに心臓病で働けなくなり、両親と小さい弟妹の生活はヒロキとその兄姉が支えてきました。高校を中退してから休み無くずっと働き続け、汚れ仕事を黙ってこなし、狡くても孤独でも、叩かれてもへこたれず、貪欲に、痛々しいほどそれしかないみたいに、無茶苦茶に荒稼ぎするヒロキのやり方を私は軽蔑し切れないで、ずっとそばで見てきました。彼のやり方に賛同はできなくとも、彼の体を心配し、(この人が体調を崩したときは私に面倒見させて欲しい・・・)とずっと考えてきました。恋人らしく手を繋いで甘いデートをしたいと言う若い女らしい願望もモヤモヤする事もありましたが、どうにかしてこの人に体を休めてもらいたい、休息して欲しいという切実な思いもあったのです。
今でも、私はヒロキを応援してるし、心配しているし、味方でいたいのです。
ヒロキを見送った後、私はテーブルに置かれた札束をぼんやり眺め、一度には持ち出しきれない自分の荷物がそこここに散らばる室内で、1303号室と1304号室とを隔てるたった一枚の薄い壁に背中を凭せ掛けて、窓から差す9月の黄金の西日が爪先から胸の上へと肌を隙間なく舐め、ゴールドに染め上げていくままにしていました。まるで湯を溜めながら湯船に浸かっているように足先から温かく、終いには全身がポカポカし過ぎて熱くなってきて、のぼせてしまいそうでした。それでも動かず、優しく肌を焼くレースのカーテン越しの、時間の経過と共に色が枯れていく西日に染まっていました。
この部屋にいる私はヒロキの女です。
ヒロキは、私が勤めていたアルバイト先の本屋で店主からセクハラされている事を知ると『そんな店辞めてしまえ』と激高して、秘密を打ち明けたその日に、私に出勤させず、自分が一人で本屋に出向いて、店主と話を付け、いくらかのお金を取って帰ってきてくれました。次のバイト先でも私がセクハラされると、『お前もう働くな。養ってやるから』と言い、本当に言葉通り、生活の面では苦労させられたことが無いのです。
許すのが難しい嫌な思いをさせられても、ここに居る限りこれからも同じ辛酸を舐めさせられ続けそうでも、それでも、この部屋にいる私はヒロキの女なのです。ヒロキに与えられた、生涯忘れ去ることができそうに無いトラウマさえ彼に愛された証、消すことのできない、自分で選択して付けてもらった心の入れ墨なのです。
どこかで自分の携帯電話が鳴っています。三日前までは、10分と肌身離したことが無かった携帯電話です。私は枕の下から、充電器に繋がったままの震えている携帯電話を、充電器コードを手繰り寄せて魚を釣り上げるみたいに見付け、手に取りました。
登録されていない番号からの着信です。どうしようか、出ようか出まいかと迷っていると一旦電話は切れ、程なくしてまた同じ番号から鳴り始めました。
「はい」
「若菜さん?彼氏さんの部屋ですか?」ケンイチ君です。思わず開けっぱなしの窓を見ました。それから玄関の方を。
「うん・・・」そう言えば彼に、携帯電話を持っていないのに、番号は教えたのです。
「今、彼氏さんは?」
「・・・」
「仕事へ行ったんでしょ?あの人はいつも僕と入れ替わりに夜に働いてるから。隣の部屋だし、なんとなく職業も分かってます。今すぐにこっちに来て下さい」
「・・・」
「そこにいちゃダメですよ!若菜さん!自分が何をされたか思い出して!許すまじき事をされたんですよ!女の人を裸で家から閉め出すなんてッ!!その上、自分だけ家の中で寝るとか!信じられない!考えられない話ですよ!!」
声がヒートアップして、うるさくて携帯電話を耳から遠ざけると、電話越しだけで無く、窓からもケンイチ君の声が響いて聞こえて来ました。
「若菜さんッ!!目を覚まして下さい!!とりあえず今からそっちへ行きます!迎えに」
「大丈夫。」私は慌てて止めました。「ちょっと荷物を持って・・・自分でそっちへ行く・・・」
「本当?」急に声のボリュームが絞られました。「約束して?何秒後ですか?」
「ちょっと待って。数分。」
「・・・分かりました。ドアを開けて待ってます」
「はい・・・」
「うん。待ってますよ?」
「うん・・・」
電話を切り、私は部屋を見回しました。
ここへ来るときは、ここに来さえすれば必要な物や高価だった物や持ち出すべき自分の荷物がサッサと分かると思っていました。ところが、ここにある物は殆ど全てヒロシが買い与えてくれた物です。携帯電話もそうです。図書館のカードでさえも。
ケンイチ君の部屋に行くのならば一生ケンイチ君の部屋に居るつもりで行きたい。ヒロキに貰った物は持って行きたくない。
箪笥の自分の段を開き、とりあえず目に付いた、母が貸してくれているルビーのネックレスを首にかけました。
それから、胸が膨らみ走ると揺れるようになり始めた中学二年生の夏休みに、初めてランジェリーショップに連れられて行き母に買ってもらった、中央にスワロフスキーのハートのチャームがゆらゆら煌めくブラとショーツのセットを探して、箪笥をほじくり返しました。しかし見当たりません。あれだけはここへ来る前から持っていた自分の品と言える物だったのですが・・・。急かすように携帯電話が再び鳴り出し、
(ええい)と私は思いました。急かされるとパニックになり、ヤケクソになってしまうのです。
誰に対してか分からない腹を立てながら、私は三度、もう慣れっこになってきた開き直りの悟りの境地に至り、裸足でズンズン玄関まで歩き、一旦首を外に出して人がいるかどうかチェックする事さえ省いて、裸のままそのまま共用廊下へ出ました。
風が、風こそがわたくしの真の衣服だというように、何も身につけていない肌に清らかに纏い付きます。清々しいッ!!もはやこの素肌に感じる戸外の海風の感触がわたくしにとっても馴染みのガウン。日本でも有数と謳われる神戸の夜景に絶叫したいほどです。あたくしッ!若菜20歳ッ!!裸で生きていますわぁッ!!見さらせやーいッ!!と。
夜は海から山へ吹き抜ける風。朝は山から海へと吹き下ろす風。それを全裸で全身で感じ取る贅沢。もう病み付きです。
わたくしは爪先立ってクルリクルリと三回転し、どこで誰が口を開けて見ているか分からない光り輝く夜景の上空へ投げキッスを放ちました。
こちらに向けて大きくドアを開いたまま押さえて待ってくれていたケンイチ君が膝をガクッとさせて腰を抜かしかけ、目を見開いたのが横目にハッキリと見えました。「若菜さんッ!!」小声で叫び必死に手招きしています。
「荷物は?」
1304号室に入ると、すぐにドアを閉めて施錠しながら、ケンイチ君が聞いてきました。
「全部あの人に貰った物だから・・・ここには持って来たくなかったの」
「なるほど・・・」ケンイチ君は下唇に中指を当てて言葉を選びながら先を続けます。
「でも、その気持ちは分かるし僕への配慮なら有り難いことですけど、一着くらいは何か着る物着て来るとか、せめて羽織ってくるとか・・・」
「一つでもあの部屋から持ち出そうとしたら、あれもこれもってなるの。だから、やめたの。捨てるなら全部捨てる。命とやる気さえあれば、私だってお金稼げるし、また新しい物を買えば良いだけだから。」
「まぁ、・・・ま、そうですけど・・・」ケンイチ君はブツブツ言います。「でも一着くらい・・・せめて廊下を歩く間だけでも・・・」
私は何も聞こえないフリをして腕を広げ、ケンイチ君に歩み寄りました。
咄嗟に片方を選ぶことができなかった私です。咄嗟に二者択一の選択ができなかったと言うことは、いくら時間を貰ってもできないでしょう。この先も。
ならば、二人の男を同時に愛す術を身につけるしか無い。いつもヒロキが軽々とやってのけていることです。ヒロキはジャグラーのように、同時に三人も四人もお手玉することができるけれど、本気になってやれば同じ人間の私も、二人くらいやれるはずです。もうこうなったら、やるしか無いのです。
「何も持ってない私を好きになってくれたんでしょ?・・・ギュッとして。寒いから」
ケンイチ君はすぐに腕を広げて私を抱き締めてくれました。暑がりで裸族でいつも一物をブラブラさせて部屋の中を歩き回っているヒロキとは違い、ケンイチ君は蒸し暑い部屋の中でも、すぐにそのままコンビニへでも行けそうな格好をしています。私にも、自分のシャツをすぐ貸してくれました。
「もう僕がいない間に外へ出ないで下さい。約束したのに・・・。若菜さん。あなたは自由すぎて、着る物が無くっても平気でフラフラどこへでも出て行ってしまうから、気が気じゃ無い。僕が出掛けなくちゃいけないときは若菜さんをベッドに縛り付けておきたいくらいです。絶対もうあの部屋へだけは戻らないって、約束して下さい!」
ケンイチ君は怖い顔をして私を睨み付けてきます。
「今ここで、僕の目を見て、『あの部屋には二度と戻らない』と誓って下さい」しっかりと今、事質を取ってしまうつもりなのです。
私はふにゃふにゃした笑顔を浮かべ、やんわり視線を逸らしました。
「若菜さん!」ケンイチ君は許そうとしません。両手で私の両肩を掴み、無理にでも自分の方へ向かせます。間違えてはいけない局面です。私も真剣に無い脳を振り絞って言葉を選んで頭の切れる人に立ち向かいました。
「あの人とは一年になる。あなたとは三日前に出会ったばっかり。まだパニックなの。もう少し時間が欲しい。そんなにすぐに、一時は死ぬほど好きだった人をアッと言う間に嫌いになることもできないし、もしかしたら凄く大事な必要な荷物を思い出すかも知れない。例えば今思い出したのは、健康保険証とか・・・
・・・私のこと好きって言ってくれたよね?ケン君は待てないの?私が今はまだスパッと切り替えられなくても、時間はかかっても、やっぱりあなたが好きだなぁって最終的に落ち着くまで?それほどの愛情は無い?無いなら、今すぐ私を隣の部屋に帰らせて!」
今度はケンイチ君が言葉に詰まる番です。
「僕は若菜さんのことが好きだから・・・待てますよ・・・でもいつまでもはキツい・・・暫くは我慢できたとしても・・・」
それだけ言って貰うことができれば充分です。
「ありがとう!大好きだよ!ケンイチ君」
私は骨にまで食い込めよとばかりに、力いっぱいケンイチ君を抱き締め返しました。
ケンイチ君とヒロキは高い鼻が似ています。窓を閉めない習慣も似ているし、天然か人造かの違いはあれど綺麗な歯並びも似ています。使っているシャンプーも同じ。そして二人とも私を好いてくれ、私も二人とも好き。大好きです。愛しています。何が悪いの?誰が決めたんでしょう?二人同時に愛してはいけないなんて?馬鹿馬鹿しいッ。私は世界に対して、二人ともの味方です。もしもどちらかの子供がお腹に宿り、どちらもから捨てられても、三人目の別の人に頼ってでも、自分の子供を産み育てる覚悟があります。それができなければ死ぬ覚悟もできています。恋は命がけ。何事もやるときは命がけなのです。若菜という女はそんな女なのです。
このようにして、わたくしは1303号室のヒロキ、1304号室のケンイチと二股をかけてしまうことになったのです。二人とも、睦み合う時に窓を閉めさせてはくれません。二人とも、わたくしの上げる嬌声を聞きたがります。周り中に知らしめたがります。こちらも喜んで貰いたくて、喉から血が出るほど叫びまくります。向かいのビルに跳ね返って木霊した自分の声が、また窓から入ってくるほどの声量。マンション中の人間のみならずこの近辺一帯全部の家々が、朝な昼な夕な轟かせるわたくしの甘い悶える絶叫を聞き及んでいることでしょう。
ただ、ヒロキとケイイチは部屋こそ薄い壁一枚で隣り合っていながら、完全に生活リズムが入れ違いでした。わたくしは朝の6時~18時まではヒロキと過ごし、夜18時~6時までをケイイチと過ごしました。ですので、この二人だけは、自分が出させる声以外聞いたことが無かったのです。
ある日、枕営業し過ぎて先輩ホスト達からリンチを受けたヒロキが終電で帰ってくるまでは・・・
(一応、後編、終わり・・・でもまだ続いてしまいます・・・上・中・下にした方が良いかな・・・(~_~;))