8ー別バージョン
最初から寝苦しい夜だった。もういっそのこと眠らないで明かそうかと思うほど。
ユキの事を考えたり、雪さんから送られてくるなんだか取り留めの無いどう返事したら良いんだかよく分からない内容のLINEの返信を考えたりして、鹿島くんはぼんやり3時半過ぎまで起きていた。
お風呂にも入らずにグダグダ携帯電話を弄っていて、気付くと突然の気怠さで、お風呂に入る体力は残されていない、それでもまだ眠りたくはない、でも明日の仕事のために睡眠は欠かせない、と言うジレンマに陥っていた。ウトウトっとし始めて,仕方なく立ち上がり,シャワーをダラダラ時間をかけて浴びて、ボトボト雫を滴らせながらベッドに寝転んだ。また頭が冴え、結局、部屋の明かりを消したのは四時頃だった。
「少しは寝ろ,俺!」声に出して自分に喝を入れた。
「明日も新人とペアを組むんだぞ!」
大型家電は2人がかりで持ち上げて階段やら狭い廊下の曲がり角をぶつけないように曲がったりしなくてはいけない。鹿島君は、自分では自身をまだまだ新人だと思い込んでいたのだが、会社の方ではそうは考えていなかったらしく、「もう君もベテランなんだから」と、入ってきたばかりの新人の子と組まさせられるようになっていた。先輩に変わって最近ペアを組むようになったのは、体格は男に引けを取らないガッシリとした力持ちな女の子で、ただ無口で、何を考えているのかちょっとよく分からない。自分の方が男なんだから、と思って、重い方の荷物を率先して自分がどんどん先に運んでいると、彼女も重い荷物を運びたくて運送屋を選んでバイトに来ているのか、なんとなくムッとしてしまうみたいなのが分かってきて、この頃は重い荷物も軽い荷物もとにかく手近な積み荷からサッサと積むようにだけは心がけている。
長く先輩とペアで動いてきたため、かえって相方が変わると自分までが新人に戻ったみたいに、気疲れや力の分配が難しくて仕事が大変になる。一から人に教える事で、自分ももう一度会社のルールを復習することにもなり、(あぁ先輩も最初の頃は僕に「お前は声が小さい」ってよく怒鳴ってたなぁ、「聞こえない声で喋っても喋ってないのと同じだぞ」って、同じ事僕も今後輩に言ってるなぁ・・・)等と感慨深いものもあった。もうよく分かってきて飽きるほどこれからもここで同じ事の繰り返しが延々と続くだけなのかなぁと思えていた仕事も、新しい立場に立たされるとまた急に学ぶことだらけになって、たまに廊下や倉庫で先輩と擦れ違うことがあっても互いに大忙しの最中なので、「おぅっ!」「うっす!」と言い合い両手が塞がっているので頭を下げながら擦れ違うだけになっていた。
「お前の今度の教え子は女の子か?大変だな、頑張れよ、手出すなよ!また飲み行こうで!」とこの前、先輩らしいLINEが来ていた。
壁に沿わせて配置したベッドの上、二つ並べた枕の、奥の空いた側に、鹿島君は、手のひらを上に向けてポンと乗せた。手の甲でひんやりとなめらかな純シルクの枕カバーを撫でた。「この肌触りだけは譲れないの」と言ってユキが自分の分と鹿島君の分と二つ買ってきてくれた柔らかい枕。淡いブルーと淡いカスタードクリーム色の。その上に開いて置いた鹿島君の手のひらに、尖った骨の小さな鼻を擦り付け、頬を乗せて眠るのがユキは好きみたいだった。「いつも鹿島君の手の中は石鹸の良い香りがするね」と褒めてくれて、幸せそうに目を閉じる。甘えて喉を鳴らす猫みたいに、ぐうぅ・・・とすぐに安心して眠りに落ちていく。それを見ていてから自分も眠るのが、鹿島君にとっても凄く幸せな入眠方法だった。
「考えても埒があかない事だ・・・」
鹿島君は何も乗っていない手のひらを枕の上でグッと握りしめた。ガバッと勢いよく起き上がり、大股に部屋を横切り、冷蔵庫のドアを開けた。飲みかけの無脂肪飲むヨーグルトを取り出し、ちょっと振ってみて、全部飲み切れそうだと判断した。底を天井に向けてゴクゴク一気に飲み干した。全部飲み終わってしまってから、
(あれっ?)と微かな違和感を感じた。
後味が何だか変な気がしたのだ。古かったのかな?と思って、賞味期限を確認してみたが、9月20までいける。全然まだまだ余裕で大丈夫だ。開けたのも昨日だ。自分で開封したのだからよく分かっている。自分の他にこの部屋を使っている人間はいないのだから。
歯ブラシに歯磨き粉を付け口に入れながら、なんだか歯磨き粉の味までいつもと違うような気がして、鹿島君は鏡の中の自分の目に見詰められながら首を捻った。
(風邪かな・・・?)と思った。
確かに最近、休む暇なく動いていて、疲れが溜まってきているのかも知れない。急に脚が重たいような気がしてきた。逆にすぐに眠れそうだ。突如、瞼が、全身が、一挙に重たく感じられ、鹿島君は歯磨き粉の泡を吐き出して、くちゅくちゅぺーもせずに、ズルズルと足を引きずってベッドに引き返してきた。そのまま、大木が倒れるように、ドサッと突っ伏してベッドに横たわり、大儀そうにゴロンと仰向けに寝返りを打った。信じられないほど重たい右腕を持ち上げ、やっとのことで口の周りの歯磨き粉の泡を拭い、まるで何者かに体の自由を奪う薬品でも混入されたかのように、崖から突き落とされるかのような、足掻いても自力では浮上できない泥の中にドロリと沈み込まされていくかのような、強制的な眠りに落ちていった。
誰かが眠っている自分の体に触れているような感じがした。最初は右手、それから左手・・・
眠りを妨げないように気遣っているような、優しい触り方だったのと、意識が朦朧とし過ぎていたのとで、鹿島君は抵抗する気力さえ起こらず、気のせいだと思うことにして眠り続けていた。どうせ重い瞼を開けて見てみても、ユキじゃないんだろ、という投げやりな気分も手伝っていた。何かロープのような紐状の長い物が鹿島君の臍のあたりから脚へ向けて滑り降り、今度は優しく何者かの指が鹿島君の右の足首に絡みつき、そろりそろりと引っ張ってベッドの脚と鹿島君の右の足首をしっかりと繋ぎ止め、固定した。
(何か変だぞ・・・)と混濁した夢の中で警鐘が鳴り始めたが、まだ瞼はまるで外側から厳重に鍵を掛けられた鉛のシャッターみたいに持ち上がらず、ちょっと体を捻ろうとしてみても、それも叶わなかった。腹の上を冷たい、まるでナイフの刃のような物に撫でられ、パンツがジョキジョキ切られる鋏のような音が耳に飛び込んできて、鹿島君はやっとのことで鉛の瞼を持ち上げ、薄目を開けて、自分の腹の上で行われている事を目撃した。ほっそりとした生っ白い体の鬼が鹿島君の右脚と左脚の間にいて、本当に鹿島君のパンツを鋏で切っていた。
(夢だ。)と鹿島君は思って再び目を閉じた。目を閉じてから、こっそり両手を動かせるか試してみた。駄目だった。両手首が縛られている。脚を動かそうとしてみた。するとその時、ちょうど、鬼の方も、鹿島君のパンツを端布に切り刻み終え、左足の拘束に取りかかろうとしているところだったみたいで、唯一、まだ自分の体の中で左脚だけ自由が効くと分かった鹿島君と鬼との引っ張り合いが起こった。
鹿島君は一生懸命、なんとかして相手を蹴飛ばしてやろう、この脚まで縛り付けられてなるものかと、脚を自分の体の方へ引きつけようとし、鬼は鬼で、唇の片端に「勝敗はもう付いてるのにさ」と言わんばかりの余裕のある笑みを浮かべ、我慢強く鹿島君が疲れ果てるのを待っていた。
鬼はスキンヘッドの頭に捻れた三本の角を生やしていた。色白の線のほっそりした体付きは子供か女性のように軟弱そうだった。もし薬を盛られていなければ、それかあと一本でも手足の自由が効けば、こんな女、一瞬で蹴飛ばしてやれるのに・・・と鹿島君は苦々しい思いで、蜘蛛のように鮮やかに手際良くロープを巻き付けられ、グイグイ引っ張られてベッドの脚に固定されていく思うように力の入らない自分の最後の動く脚を睨んでいた。
「大きな声を出したくなる前に、ね」と掠れた甘い声で囁かれながら、女が自分の脱いだタンクトップを雑巾みたいに捻って口に押し込んできた時点で、やっと鹿島君の方でも(そうか、大声で助けを呼べばさっきまでならなんとかなったかも知れないのに・・・!)と気付いたが、もう遅かった。もう手も足も出ない。口もきけない。このわけの分からない女に何が目的なのか、尋ねることもできない。裏を返せば、この女の方も、自分から何かを聞き出そうとか金のありかを教えろと言う目的でここへ忍び込んで来たわけでもなさそうだ・・・鹿島君はゾッとしながら女の目を覗き込んだ。この部屋には一体自分以外の人間が誰でも出入り自由なのか?ユキもユキの母と名乗ったあのおばさんも、この訳の分からない縄使いも・・・冷蔵庫の飲み物やら歯磨き粉にまで薬品を仕込んだのはまた別の人物なのか?
「あんたに忠告してあげに来たの。感謝して」女が溜息のような、砂を落とすような掠れ声で話し出したので、鹿島君は自分の呼吸音を沈めて懸命に聞き漏らすまいと耳をそばだてた。
「これ以上あちこち嗅ぎ回っても誰の得にもなんないよ」
鹿島君はウン、ウン、と頷いた。ユキか彩芽さんの関係者だと言うことは彼女の一言でもう分かった。腹の上から今すぐに退いて欲しい。タンクトップを脱いでしまった女はブラを着けていなくて、二つの小ぶりなスモモのような乳房が、鹿島君の呼吸に合わせて目の前で上下していた。気分が悪くなりそうなほどに、今そんな状況では全く無いのに、下半身の方へ急速に血流が集まっていくのが自覚できた。願わくば、この女が何も気付かないまま鹿島君の上から降りて、この部屋からもとっとと出て行って欲しい。用は済んだのだから。もうそれが無理ならもう一度気を失って眠りこけて知らんぷりしたい。
「なんだ、聞き分けが良すぎて面白くないね、鹿島タクト君・・・もう少し歯応えあるお兄さんなのかと思ってたのに・・・」
女は鹿島君の表情の変化に気付いてか気付かずにか、鹿島君の広い胸に小さな片手をついて、ヒョイとお尻の位置を下にずらした。背中に回っていたもう一方の手が意図せず鹿島君の充血している部分をパシンと叩いた。鹿島君はビクンと体が引きつり、女の子も一瞬ビックリした顔になってジャンプする馬上で身を伏せる騎手のように鹿島君の喉に耳をピタリとくっ付けた。その時、まだ固いスモモの片方もギュッとみぞおちのあたりに押し付けられた。
「どうしたの?」
女の子はソロソロと鹿島君の胸に両手を当てて顔を起こし、間近から囁き声で聞いてきた。
「あんなので私を振り落とせると思った?」
鹿島君の下半身の状態にはまだ気が付いてないようだ。子鬼の口元に怖いような得体の知れないニヤニヤ笑いが広がった。
「忠告するだけじゃあ物足りないなと思ってたんだぁ。あたしも。ちょっと痛い目見せてあげなくちゃねー」
プリーツのミニスカートの襞のどこかから鋏を取り出し、何やらカチャカチャやって二つに分解して、片方は無造作にポイと床に投げ捨て、もう片方の輪の中に中指を入れてクルクル回した。銀の刃に窓の外から差し込む車のライトが反射してギラリと煌めいた。人の腹の上でやらないで欲しい危険な遊びの始まり始まりだ・・・と鹿島君は思った。
(怖いよ、怖い怖い、・・・だから頼むから俺の息子よ、静まってくれ・・・)
感覚的にタクト君のタクト棒はまだ静まってはいなかった。無駄だと分かっていながら首を持ち上げて目視で確認しようとしたが、腹の上に乗っかっている鬼の女の子の向こう側だから見えはしない。でも感覚的に絶対の自信があった。まるで縛り付けられて自由を奪われてしまった四肢の代わりに、自分が戦ってやろうとでも言うみたいに、雄々しく立ち上がって戦闘の構えを取っている感覚がジンジンと痛いほどに伝わってきていた。
「お兄さん・・・聞いてる?」
女の子がどこかから更に縄を取り出して鹿島君の首に巻き付け、彼氏のネクタイを結んでやる彼女みたいに、こちらの体の大きさを測りながら一つ二つ三つ・・・と結び目を作り、胸に、腰に、巻き付けていくのを、これが自分の体にされていることでなく手の自由も効くならば拍手喝采を送りたいほどのお手並みで縛り上げられていく行程に、鹿島君は意識を戻させられた。
「右の乳首と、左の乳首、どっちだったら無くなっても良いかって、さっきから聞いてるんだけど?」
(どっちも無くなっちゃ困るだろ・・・)と鹿島君は思った。
「前から思ってたんだけどさぁ・・・」早秋の乾いた風がまだ落ちないかと試しに枯れかけた木の葉をくすぐって吹き過ぎていくような遊び半分の声で、鬼が鹿島君の耳朶に唇を付けながら囁いた。「男の人に乳首って必要ないよね・・・?」
サッと野生の子猿みたいな素早い動作で身を起こし、臍まで縛り上げたキツい縄の戒めを、鹿島君の呼吸のリズムをジッと見極めて、息を吸うタイミングに合わせグイッ、グイッ、と更に締め上げた。目が異様な輝きを放っていた。禁じられた遊びにこそ喜びを見いだす危険な子供の目付き。鹿島君は首を激しく左右に振りながら必死に止めてくれと全力で訴えた。人間の言葉で伝えることはできなくて、自分の耳にも虚しくウーッ、ウーッと唸る自分の喉の音しか聞こえなかった。
「何々?誰も助けに来ないよ。」鬼はクスクス笑った。
「誰にも聞こえないよ。大丈夫だから。死にはしないって・・・」
鬼が鹿島君の臍から更に下も縛りを進めていこうと、もう一歩お尻をヒョイと下へずらそうとしたところで、行き止まりのコーンみたいに突き出た出っ張りにそれを阻まれ、ついに女の子は(何だろう・・・?)と不思議そうな表情になって後ろを振り返って見た。
「ひゃあっ」と息をのむ可憐な声が細い喉の奥から出かかった。
(あーあ、ごめんよ)と鹿島君は思った。(きみを驚かせたくなかったんだけど・・・)
予想に反して、女の子は気持ち悪がって鹿島君の体から飛び降りたりはしなかった。石像になってしまったように硬直して、しばらくしげしげと鹿島君の鹿島君を観察しているみたいだった。なかなかこちらへ振り返らない。やっと向き直ったとき、初めて鹿島君はゾッと恐怖で身の毛がよだった。
女の子はさっきよりも爛々と目を輝かせ抑えきれない笑みを満面にはち切れんばかりに溢れさせていた。造りの整った目鼻立ちを醜く歪め、粒の揃った真珠の歯を全部見せて笑っていた。これ以上にないオモチャを発見してしまった子供の目付き。
無言で鹿島君の体から滑り降り、床の鋏の片割れを拾い上げて組み立て直し、シャキン、シャキンと切れ味の良さそうな音を立ててこちらを振り返った。鹿島君の目の表情を覗き込む正気ではない眼差しを見返したとき、流石に鹿島君の鹿島君も負けを認めた犬の尻尾みたいに縮こまってしまった。
「あらあら。駄目だよ。肝心なときにピシッと直立不動でいなきゃ・・・」
一人遊びに熱中している女の子の呟きみたいにブツブツ言いながら、鬼の角が生えた頭を深々とお辞儀するように下げて、鹿島君の下腹に額を押し当てた。鹿島君は何をするつもりなのかと必死になって首を持ち上げ、フーフー荒い鼻息を立てながら、その挙動を見届けようとした。女の子は鋏を持った左手も右手も、両方とも鹿島君の腿の内側に当てていた。もっと左右に開けというように。
そして舌と唇だけを使って器用にションボリしてしまっていた鹿島君の性器を吸い、優しくて愛情すら感じる丁寧なやり方で、また大きく奮い立たせた。造作も無いことのように。とても子供とは思えない。この子がいくつなのか、小柄な大人の女性なのか、全然見当も付かないし、ここまでくると正真正銘の子鬼にしか見えない。
鹿島君は怯えながら死に物狂いで首を横に振り続けた。今こそ必要なすがりつきたい時に、すっかり盛られた薬の催眠効果は消し飛んでしまった。さっきまでは思い通りに力が入らなかった手足にも、今は無駄に漲る力が籠もる。ただ、きつく縛られ姿勢も変えられないので痺れだけが虚しく全身を駆け巡っている。特に手首と足首はロープに擦れて皮が捲れ血が出ていそうな予感がする。でもそれどころでは無い。鹿島君の体の中心部にいる一番鹿島君を代表する部分が今、本体から切り離されるかもしれない危機に瀕している。
女の子はもう一度いきり立った鹿島君の性器をチョンと鋏の背で弾いてみて、職人が自分の仕事を確かめるみたいに、その硬度を最終確認すると、鹿島君と視線を繋ぎ、満足げにニタリと笑った。女の子が動き、鹿島君は目をギュッと閉じて息も殺した。
(なんでこんな時に大きくなれるんだ!?)と自分自身に問いかけた。(ちょん切られる!!!!!)
一秒が経ち、二秒経ち、・・・それから熱い何かで性器がヌルリと塞がれ、締め付けられた。また縄とか変な小道具で人の体をオモチャみたいに何かやってるのかとパッと目を見開いて、見てみると、鬼の女の子が勝手に体を繋いでいた。見た瞬間に目を閉じたが遅かった。ブルッと震え、我慢できず射精してしまっていた。
女の子はアハハハハハと朗らかに笑った。鹿島君の腰骨の上をペチペチ太鼓みたいに叩いて。声だけ聞くならブランコでも押してもらって喜んでいる無邪気な子供のような笑い声だ。もう鹿島君は天井しか見ていなかった。
(ああ、頼みます、神様、神様、神様・・・)
もう一度目を閉じ、真剣に何か別の難しい問題を考えようとしたが、また間に合いそうに無い。女の子は鹿島君の上で飛び跳ねていて、どこかその発作を起こしたような笑い方はユキのそれに似通うものもあった。ほんの刹那でもユキを脳裏にイメージしたのが駄目だった。それとも、何にせよ無駄な足掻きだったのか。
この狂気じみた状況の中、鹿島君はグッと首を横に捻って懸命に堪えようとしたが、また放出してしまった。
女の子は一旦体を離した。この子の無自覚な怖さは、可愛い顔をしたその小さな頭の中で一体全体何を企んでいるのか一つも喋らないところだ。放心状態の鹿島君をそのままにしておいて、住み慣れた我が家のように足音も無く部屋を横切り、蛇口を捻って水を出し、何やらピチャピチャ音を立てた。できうる限り体を捩って、逆さまでも良いから、子鬼が何をしているのか見ようとしてみたが、鹿島君の縛られているベッドの位置からでは見ることができなかった。股を洗っているのか、水を飲んでいるのか、それとも何かまた他の事をやろうとして準備しているのか・・・
(そう言えばこの家にあるすべての封の開いた飲み物とか食べ物の全部、俺が口に入れるもの全てにおかしな薬品を仕込んだんだろうか、この子は・・・)
と鹿島君はぼんやりする頭で考えた。
(封が開いてるものもまだ開けてないものだってもはや信じられない。全部捨てよう。・・・この状況が過ぎ去ったら・・・)
この状況がいつどのようにして収束を迎えるのか、詳しくは想像したくなくて、鹿島君は情けなくて涙が湧き出してきた目を瞑った。
(あぁ、ユキ、どうして僕たちこんなことになってるんだろう、・・・何か間違った事したのかなぁ・・・)
鼻を啜り上げるのも一苦労した。鼻が詰まったらもうそれだけでおしまいだ。息ができなくなって。女の子は帰ってしまったのかも知れない。物音がしなくなっていた。でもそれすらもうどうでも良かった。焦りもしなかった。
(・・・俺はただきみのことを心配して、・・・元気ならそれだけで良かったんだ・・・確認したかっただけ・・・ユキ・・・きみのことが心配だったよ・・・だけど、もう捜さないから、どこかで元気で幸せに生きていてくれ・・・)
柔らかい指に頬をなぞられ、目を開けた。
「お兄ちゃん。お水飲ませてあげるから、口の中の詰め物が無くなっても、叫び声あげないでね?」
まだ鬼が部屋の中にいて、鹿島君はホッとしたのかゾッとしたのか分からなかった。なんだかもうどうでも良くなっていた。大人しく頷いた。
「良い子良い子ねぇ」
女の子は優しい手つきでぬいぐるみや人形にやるように鹿島君の固定された頭をよしよしと撫で、顎が外れそうなほど奥まで押し込んでいた唾液で濡れたシャツを口から取り除いてくれた。
「この部屋にはもうストロー無いんだもんなぁ・・・」
何故だかこの正体不明な女の子は鹿島君にしか分からない筈のごく個人的な事を何気なくポツリと呟いた。ユキがいたときはコンビニ等で店員が飲み物にストローを付けて渡してくれていたが、鹿島君はパックの口に直接口を付けてゴクゴク飲むか、コップに注ぐかの二択なので、ストローは最近では受け取らなくなっていた。こんなことはユキにさえ分かるはずの無いことだ。何者かが鹿島君を少なくとも数日間付け回していなければ分からないはずの事だ。
「きみは誰の回し者なの?」
鹿島君は小さな声で女の子に聞いてみた。口の中がパサパサに乾いていて、女の子と同じくらい掠れた囁き声でしか喋れなくなっていた。
「シーッ」女の子は人差し指を唇の前に立てて厳しい目をして首を横に振った。
「今度勝手に喋ったら・・・」鹿島君の腰の右側あたりのベッドの上に置いていたらしい鋏を拾い上げ、睫でも切ろうとするみたいに目の前でチョキチョキ鳴らした。
「分かるよね?」
鹿島君はウン、ウン、と頷いた。
鬼の女の子はコップに汲んできた水道水をまず自分で口に含み、それから口移しで鹿島君の口の中に注ぎ込んできた。無駄な抵抗はもうしないと決めていた鹿島君は素直に口を開いて水を飲んだ。
「もっと欲しい?」
鹿島君は迷いながら頷いた。女の子は面倒臭くなったのか、次はコップの縁を鹿島君の下唇に当てて「いくよ」と言い、流し込んできた。鼻からも水が入り、口からは溢れ、満足に姿勢も変えられなくて、鹿島君はゲボゲボむせた。女の子は愉快そうにお腹を抱えて笑い出し、まだこの悪夢は続くのかと情けなくて本気で泣きたくなってきた。
「もう殺してくれても良いよ」と鹿島君は囁いてみた。「きみもその方が楽でしょ?お嬢ちゃん・・・?」
女の子はチラッと悩ましげな素振りを見せてから、ダメダメと自分を戒めるように首を横に振った。
「今夜は死体を出しちゃいけない夜なの。生きてれば良いこともこれからいっぱいあるからね。よしよし」
女の子は鹿島君の頭をポンポンと撫でてくれて、また口の中に自分のシャツを捻じ込んできた。
「あと何回セックスできるか試してみようよ。朝日が昇ったら終わりにしてあげるから」
鹿島君は考えることを止めにした。どうにでもなれと、明かりの点ってない照明を力なく睨んだ。蜘蛛の巣に絡め取られた虫みたいだと思った。過去のどこかの地点で、いつか見たことがあった。白い糸にぐるぐる巻きにされた体の大きなトンボが、自分よりも小さな蜘蛛にまだ生きてピクピク動いていながら食べられていくのを。大きな瞳が蜘蛛もトンボも魅入られて息を詰めて見ている少年の頃の鹿島君をも、全てを映していた。
今、照明の暗い電球の表面で、鬼の女の子が自分の股間に顔を埋め、口と手を使って上手に自分のやりたいことをやりたいようにやり抜くさまを見ていた。悲しくて情けなくて目が開けていられなくなるまで見ていた。
ピンポンピンポン連打されるチャイムの音と、ドンドンと部屋のドアを叩く音、携帯電話の着信音、
「おーい!鹿島ぁっ!生きてるかぁぁぁっ?!」とドアの外から叫ぶ野太いがなり声で、鹿島君はのろのろと痙攣する瞼を持ち上げた。体中痛くないところが全く無いほどどこもかしこもズキズキ痛く、あちこち擦り剥いたり引っかかれたり鋭い何かで切られたような傷ができていて、全裸で眠る習慣など無いのに一糸纏っていなかった。恐る恐る股間を見下ろし、後ろの方は触って確かめてみたが、そこには怪我はないようだ。ただ、毛が中途半端に雑に剃られていた。
鹿島君はそうでもしない事には頭から脳みそがはみ出してしまうと思えるみたいに、両手のひらを自分の側頭に押し当てて、ベッドから両足を下ろし、体を折り曲げた状態で、しばらくグルグル回り続ける部屋を吐き気を堪えながら眺めていた。もう、いっそ、吐いてしまおうと、指を喉の奥に差し込んでみても、胃の中に吐く物が無いらしい原因は床を見れば明らかだった。昨日既に全部吐ききったみたいだ。
「おおおおいっ!鹿島ぁぁぁぁぁ!」
ドアの外にいるのが先輩だとは分かっていた。無断で仕事を休んでしまったことも、そんなことこれまでに一度も無かったことだから先輩が不安に思って駆けつけてくれたことも、現状からすぐに察しが付いた。ただ、誰かと顔を合わせるのが今だけはどうしても無理だと思った。
居留守を使う事に決めた。
よろけながら二本の脚に力を込めて立ち上がり、切り刻まれていない新しいパンツをとりに忍び足で押し入れの前まで移動した。
「鹿島っ!影が見えたぞっ!観念してこのドア開けに来い、何があったか知らんが。生きてるお前の面を拝むまではわしはここを動かんからな!」
勝ち誇った先輩の声がして、郵便受けの蓋がパタンと閉じ、ドアの外でどっかりと腰を下ろす先輩の胡座を掻いた姿が脳裏に鮮明に思い浮かんだ。
鹿島君は溜息をついた。引き出しを開けて一番上のパンツを掴み、それを履くと、2段目の引き出しを開けて一番上のTシャツを掴み、それを被って着た。三段目の引き出しの一番上からはズボンを取り出し、ベッドに戻って腰掛けてから、一晩でとてつもなく年を取ってしまったお爺さんみたいな心境で、片足ずつゆっくりと持ち上げて左右の穴に片脚ずつ脚を通し、慎重にチャックを引っ張り上げて、紐を固い蝶結びにした。他にもうすることが無かったかと、急に訪れた静寂に耳を傾けた。
(今何時なんだろう・・・)
指の隙間から睨んだ壁掛け時計は十時を指し示していたが、それが午前のだか午後のだか、何月何日のだか分からなかった。見当たる場所に携帯電話も落ちてない。部屋は散らかされ、カーテンはピッタリと隙間無く閉じられていた。
「うおおおおい、鹿島ぁぁぁぁぁ!!!出て来ぉぉぉぉぉぉい!!!!」また先輩がドアの外で雄叫びを上げ始めた。かなり近所迷惑だ。先輩の怖い顔や派手な頭髪を見たら近所の人はどんな風に悪い方向へ想像力を飛翔させるか知れない。
「分かりましたよ、もおぉっ!・・・」鹿島君はダンッと両足で一度だけ地団駄を踏んで、それで心の整理が付いたものとして、憤然とドアの鍵を開けに行った。
部屋の外は曇り空だった。昼なのか夜なのか判然としない。
先輩の顔が鹿島君の顔を見てひゅっと息をのみ、怯んだのを見逃さなかった。
「お前、顔、どうしたの?」さっきとは打って変わった優しい声音で聞かれ、鹿島君はそろりと頬に指を当ててみた。指に血は付かなかった。
「どうしたんでしょう?どこかで転けたのかな?」
自分の顔がどうなっているのか知らないまま、鹿島君はヤケクソで当てずっぽうな白を切ってみた。
先輩は鹿島君の顔をジロジロ眺めてもっと何か突っ込んで聞きたそうに口元をムズムズさせていたが、今度は違う質問に切り替えた。
「お前、昨日今日とどこで何してたの?」
「えっと・・・」鹿島君は吐き慣れない嘘をどうにかして捻り出そうと、ドアノブをギュウッと握り込んだ。そうか自分は二日間も気を失って仕事を無断欠席してしまったのか・・・とじんわり衝撃を受けた。まだ頭は真っ直ぐ地面に垂直に立てておくのが難しく、見えない誰かに今も殴り続けられてでもいるかのようにガンガン痛むし、足腰にピシッと力も行き渡らない。気を張っていないと今にもこの場で膝から崩れ落ちて先輩の見ている前でまた気を失ってドアに挟まれて眠りだしてしまいそうだ。耳の中で何やら不吉な音まで聞こえる気がする・・・これが耳鳴りってやつか・・・
「・・・お酒飲んでました。・・・同級生の集まりがあって。つい・・・深酒しちゃって・・・」
自分の声がそれなりの嘘を棒読みするのを鹿島君は耳で確かめ、うん、と自分と先輩に相づちを打った。
「じゃあ、先輩。お休みなさい。明日はちゃんと遅れないように仕事出ます・・・」
これでよし、と、ドアを閉めようとした。
「おいおいおい、待て待て・・・おいおい」
先輩ががっちりと鹿島君の手首を掴んだ瞬間、駆け抜けた電流のような鋭い痛みに顔が歪んだ。先輩がパッと手を離し、指を掴み直して、鹿島君の長袖のシャツの袖を捲り上げた。血の滲む生々しい縛り痕が晒された。鹿島君自身も今の今まで気付いていなかったので、二人してビックリ仰天した。だんだん頭が冴えてきた。
・・・とにかく喉がカラカラだ・・・だけど家の中の飲み物はもはや蛇口から出る水すら信じられない・・・自販機かコンビニまで買いに行かなければ・・・
「先輩、・・・」鹿島君はついに立っていられなくなってその場にへたへた沈み込んだ。
先輩も素早く膝をついて鹿島君の肩を抱き、頭からコンクリートにくずおれるのを防いでくれた。
「お前、・・・何に巻き込まれてるの?・・・その顔鏡でまだ見てないだろ?・・・口紅で書いてあるぞ・・・゛立ち入るな゛って。・・・お前のユキちゃんは・・・一体何者から追われてる何者なんだ・・・?」
続く