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お城  作者: みぃ
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8

 最初から寝苦しい夜だった。クーラーを付けると寒すぎるし、クーラーを切って窓を開けても風が入ってこなくてじっとり汗をかいてきて・・・

鹿島君は寝始めはむしろ色々なことを考え過ぎて眠れなかった。いざ眠りに落ちた後は、浅瀬で砂やゴミを掻きながら更に深い眠りへ潜ろうとしているのに波に押し返されて邪魔されるような、細かい複雑で何か見落としている重要そうな事を思い出させてくれそうな夢を見ては、浅く眠りから覚め、薄目を開けて月明かりの室内を見回し、どんな夢を見たかを思い出そうとするのだが、もう思い出せないのだった。

「明日も早いんだぞ!」鹿島君は声に出して自分に活を入れた。

「自分でシフトを出したんだ。穴を開けるわけにいかないし、行くならキッチリ体力満点で行かないと!力仕事だぞ!」大型家具を運ぶ時はペアを組む。相手に負担をかけるわけにはいかない。

ギュッと目を閉じた。

 窓を閉じてクーラーを付けて寝たんだったか、クーラーを止めて窓を開けて寝たんだったか、を、寝返りを打とうとして、それができずに目を覚ましかけるときに一瞬、思い出そうとして考えた。


 次の瞬間に、鹿島君は突然はっきりと覚醒した。部屋に充満する女の香水の香り。

額を蛇のような冷たい指で押さえつけられ、人間の体重が喉の上に乗っていることで寝返りが打てなかったのが分かった。唸り声を上げ、女を押しのけて起き上がろうとした。が、それができない。体重の重い女ではない。でも腕は女の脚に押さえつけられ、頭も枕に押さえつけられて動かせないので信じられないほど力が入らないのだ。

 女が繰り返し冷静な声で何か言ってるのをまずは聞き取ろうと、鹿島君は脚をバタバタさせて抗おうとするのを一旦やめた。

「落ち着きなさい。落ち着きなさい。危害を加えに来たわけじゃないから。ただ、何故私の生家で私の過去を嗅ぎ回ろうとしてるのか、知りたくて来ただけよ。」

「一旦どいてもらっていいですか?」鹿島君は頼んでみた。

女はちょっと考えるフリをしてから、首を横に傾げた。

「このままで話しましょ?どうしても嫌なら、もう一度私を振り落とそうとしてみたら?」

女の目が水色の月明かりを受けてキラキラッと輝き、やれるもんならやってみれば?と自分をおちょくっているのが分かって、カッと頭に血が上った。もう一度渾身の力を込め右に左に体を揺り動かし、起き上がろう、女を振り落とそう、と藻掻いてみた。ジタバタするうち、手が何かに触れ、触れた物を握りしめてみたものの、その手を振り上げることもままならず、顔を限界まで捻って横目で見てみるとそれはただの携帯電話の充電コードだった。今の状況下では武器に使えそうな物ではない。腹筋も背筋も腕力も引き攣るほど総動員してる。それなのに、何度やってみても自分の上にいる大した力もなさそうなほっそりした女をどかせることが叶わない。女の方は涼しい顔でニヤついているので、日頃の肉体労働で力には自信のあった鹿島君は屈辱と酸欠で目の前が真っ暗になってきた。

「ここは僕の家だ・・・あなたは靴ぐらい脱ぐべきだ・・・」

「こういうプレイも楽しむべきよ。そろそろ。坊や」

女は片足のハイヒールを脱いで、その尖った冷たい爪先で鹿島君の耳朶をチョンチョン、と、つついた。鹿島君はもう一度残された全力を振り絞って起き上がろうとした。

(何でもないはずだ、こんなヒョロヒョロの子供みたいな軽い女・・・!簡単に振り落とせて当然・・・!)

しかし、嘘みたいに体が起こせない。自分の喉から漏れる苦しげな唸り声が耳に響く。脚を振り上げ、虚しく空を掻く。腰を激しく右に左に捻る。頭の中でなら軽々とこんな女、すぐに形成を逆転し、自分が馬乗りになって床に組み敷いているはずなのに・・・!

 女が右に左に揺さぶられながらお馬さんごっこをして遊んでる子供みたいにクスクス笑った。

「無駄だから。ヒトって頭を動かせないように押さえ付けられてると普段通りの力が発揮できないの。」

「降参です」鹿島君は下手な芝居を打ってみた。内心では屈辱感と無力感と眼球を裏から脈動して圧するような激しい憎悪に毒が回ったように冒されて、もうどんな汚いやり口でも良いから騙してでもこの状況を打破して、この女を捻じ伏せてひたすら謝らせてやりたい、一心になっていた。

「どいてくれませんか?頼むから。一旦。僕だって普通に落ち着いて話し合いがしたい。」

「ごめんなさいね。私の普通はこれなの。」

鹿島くんは絶句した。こんな青ざめるほどに女性に対して本気で殴ってやりたいなどと歯軋りするほどの憎しみを噛み締めたのは生まれて初めてだ。

「凄い、凄い、怒ってるキミ、セクシーよ。太い首筋に血管が浮き上がって…」

「土足で人の部屋に押し入るのがあなたの常識ですか」

「そっちが私の生まれ故郷にズカズカ踏み込んで嗅ぎ回るようなマネしたんでしょ?最初に。そんなことされてなかったら、こっちだってこんな事しなくて済んだの。お分かり?」

「最初の時も土足でしたが。彩芽さん。そもそもの僕と貴女の出会いの最初は、貴女の家宅侵入からだ」

「あら。覚えてたの」

「なかなか忘れられる経験じゃないですから。ドロボーに入られたのは」

「泥棒…」鹿嶋くんの喉と額にかかる女の細い指の圧がきつくなった。鋭い爪が頭皮に皮膚に食い込んだ。

「泥棒とはあなたの事よ。あたしの秘蔵っ子をダメにしたうえ盗んだのは。あなたよ・・・!」

「ユキは既にあなたの元にはいなかった。僕があの子に初めて出会ったのは“お城”だったんですから…」

「そうよ。私の言うこと聞いて潜入してくれてたの。あの子は愛しい私の片腕、いいえ、腕と言わず脚と言わず私のもっと大切なもの、私の半身だった。自分自身よりも大切にし始めていた、妹みたいな、愛娘みたいな・・・宝物であり刃の切っ先であり・・・!右も左も分からず途方に暮れてるようだった泥臭いあの子を見付けて、一から同じベッドで寝起きして、手塩にかけて育て上げたのはこの、あ・た・し・よ・・・!あたし以上にあの子を愛せて大事にできる男などこの世にいないわ。断言できる。あの子も懐いてくれて…何でもこのあたしに相談し何でもあたしの言いつけを守り、生理の周期もメニューのオーダーも全部私そのままだった。まるで単純なオモチャみたいに私のためのお人形さんみたいに手の鳴る方へ、私の呼ぶ方、なぞるようにして私の思い描いて語った夢を小さな物からコツコツと一つずつ叶えて実現してみせてくれた。

・・・お前なんかに出会うまでは・・・!」

燃え盛る憎しみにギラギラ輝いて今にも噛み付きそうなほどに間近から自分を睨みつけ殺気立っている女の大粒の二つの宝石のような瞳に、鹿嶋くんは怖いような思いで魅入られていた。

「あの子はね、お前に狂わされて壊れてしまったの!お前があの子を幸せにできたことなんか一度もない!あの子は私が与える夢なら易々と叶えることができる子だった!あれは天性の素質よ!他の誰にも真似できる物じゃない・・・それを・・・それを・・・

 ・・・お前があの子に与えられたのは何だったか言ってみなさい?お前が見させた夢は?凡人の夢よ!平凡な女の子になら誰にでも叶えられるかも知れなくても、あの子にだけは叶わぬ夢!憧れるものじゃなかったの。それが分かってなかったとは、お前も子供ならあの子もまだまだ子供、私だって甘く考えてたのね、よもやヒョイと出てきた世間知らずの青二才になんか、あたし等の仲が裂けるとは・・・思ってもみなかったわ!お前なんか、・・・お前なんか、あの子を成長させる上で乗り越えさせるのに丁度良い汚れの一つ、ちょっと躓きかけただけ、膝を擦り剥いた程度の掠り傷だと思ってた・・・それが、この私を裏切って捨ててまでお前の元へ走るほどあの子も間抜けだったなんて!私も過信し過ぎてた。もっと早くに気付いたそばからお前をどうにかしておくべきだった・・・!あの子のまだ柔らかい心の奥までお前が付け入る前に・・・!」

女の両手が鹿島君の喉へかかり、体重を込めて圧迫した。命の危険を感じるレベル。

(こいつガチで俺を殺しに来たのかも知れない・・・!)と直感した。

全身の力を振り絞り、死に物狂いで頭を捻り、女の体重がグラッとバランスを崩しかけた瞬間を見逃さずに更に力を込めて、壁の方へと女を突き飛ばし、一気に起き上がった。ガツンと側頭を激しく壁にぶつけた女のよろよろと動きの鈍った細い首根っこを片手で捉え、自分がされていたのと全く同じ形に脚の下に組み敷いてやろうと、もう片方の手で女の胴のしなやかなベルトを掴み、グイッと引き寄せた。女はまだ目が回っているみたいながらも、闇雲に必死に藻掻いて爪を立てて鹿島君に抵抗しようと暴れた。でもこうなったらもう大きめの猫みたいなものだ。右手で捕まえた女の首を絶対に放さず、もう片方の手の中の女のベルトを握り込んで力任せに持ち上げ、グネグネ藻掻いて逃れようと足掻くのをドスンと布団に叩き付けて捻じ伏せた。

 女の目の色が変わり、真剣な焦りの表情で捲れ上がりすぎたスカートの裾を引っ張り下ろしたがっているのに気付いたとき、突然、鹿島君の胸を突き上げて、これまでに経験したことがなかった動物的な衝動が沸き起こった。女が必死に隠したがっている脚を掴んで開かせ、下着をまさぐって引き千切った。女の喉から漏れた声がますます鹿島君の狩りの本能に油を注いだ。それ以上悲鳴を上げさせないように手で喉を加減しつつ押し潰し、足も肘も使って相手の関節を押さえ付けておきながら、ボタンなど無視して手触りの上質な水のような柔らかいワンピースの生地を破いて肌を露わにさせた。乱れた呼吸で激しく上下し、左右に藻掻いている胸のブラの中央に指を二本差し込んで、力尽くでグイグイ引っ張り、(造作もないなぁ・・・)と内心で思いながらブラも上にずらして胸をはだけさせた。このまま突き進んでも良いのかという心の声は微かに聞こえそうな気はしたが小さすぎて、鹿島君は自分もパンツを下げ、まだ、必死に腰を捻って身をもぎ離そうとぐねぐね足掻いている可哀想な女の中へ突っ込もうとした。手に歯が当たり、鹿島君は(噛まれるっ・・・!)と思ってパッと咄嗟に女の顔を平手で叩いてしまった。するとその瞬間から急に女の体から力が抜けた。ぐにゃり、だらり、とした女の脚を片方、肩に担ぎ上げるようにして、すんなりと侵入し、あっけないほどに簡単に鹿島君は思いを遂げることができた。

喉を押していた手を離してやり、女の顔を見下ろしてみると、潤んだ目がまだギラギラ燃えて、鹿島君の体の下で全身を震わせひとしきりゲホゲホ咳き込んだ後、鼻血で濡れた口元に余裕ぶったニヤニヤ笑いを取り戻して嘲笑った。

「あっという間ね、ボク?まだ覚え立てなの?三擦り半って言葉知ってる?」

それを聞いて鹿島君はまた腰を思い切りひと突きした。まだ中に入れたままの状態だった。女の眉がピクンと跳ねて吊り上がり、表情が苦しげに変わるのを黙って見下ろしていた。女はジッと見られているのを嫌がるように視線を切り離して悔しそうな横顔を隠そうとした。鹿島君は黙ったままもう一度、今度はゆっくり最後まで相手の表情の変化を漏らさず眺めながら事をやり遂げた。

 念には念を入れてもう一度、勝敗をはっきりと体に叩き込んで思い知らせるために、女に両腕を頭の上へ上げさせて充電コードでぐるぐる巻いて縛り、後ろ向きにさせ、背中と縛った手首を掴んで、三度目を終えた。

「貴女の生き方では警察に相談することなんて絶対にできない。そもそも寝込みを襲いかかってきたのはそっちなんだから・・・」

なんとなく後悔しそうな気配が忍び寄ってくる前に、鹿島君は強い口調で打ち消した。やっと、ソロリと解放してやると、彩芽さんは勢いを失った冷静な目で鹿島君をじろじろ眺め、分析しながら、落ち着いてゆっくりと無言で身を起こした。破れたワンピースの残骸を肩からそっと払いのけ、落ちてしまった尊厳を拾ってまた纏えるとでも考えてるみたいに、ベッドの上に散ったもう着られない自分の衣類に視線を落とした。しばらく魂が抜けたようにそのままの姿勢で無言の静止画のような状態が続いた。月明かりがそのシルエットを非力なものの代表者みたいに青白く縁取って浮かび上がらせていた。

 なんだか打ち萎れた細い肩、華奢な首、滑らかな流線の小さな背中、折れそうに締まった腰のくびれと力なく投げ出された裸の脚に、鹿島君は(綺麗だなぁ、ちょっと可哀想な事したよなぁ、女性ってやっぱり哀れな生き物だ・・・なんのかの言ってもやっぱり男が守ってやらなければいけなくて、そうしたくなるような儚げな姿に形作られて生み出されているんだろうなぁ・・・)と感じ入った。

(それなのに自分は・・・)と思わずにいられなくなってきた。

「あのー、・・・ごめんなさい・・・」鹿島君はやっぱり後悔が押し寄せてきてちょっと上目遣いになりながら頭を下げた。「痛みますか?」

「節々が痛いわ。もう歳だから・・・」彩芽さんは血の出た鼻を啜り上げて部屋を見回した。「若い子の相手をしたのは久しぶりだし,自分が前線に出て働く事ももう久しく無かったからかな、そう言えば…」

鹿島君は指で鼻血を拭っている彩芽さんの探している物が分かる気がして、ティッシュの箱を取ってあげようとして油断して完全に背中を彩芽さんの方に向け、自分でもハッとした。

(あっ、しまったっ・・・!)と思った。

けれど、素早く振り向いても彩芽さんはもう何もする気が起きないようにそのままの姿勢だった。二人は見つめ合った。ふふっ、とお姉さんが笑った。

「鹿島君。ずうっと話には聞いてたわ。私のサクラちゃんを骨抜きにしたのはどんな野郎なのか、顔が見てみたいとずっと思ってた・・・あの子、自分では気付いてないのが可愛いんだけど、貴方の事ばっかり話すようになってたわ。私の手から離れていく最後の頃には。だからあなたの事私も少しは知ってたの。・・・あの子が好きになったのがちょっと分からないでもない・・・鹿島君って、可愛らしい男の子ね。力ばっかり強くって。」

「はぁ・・・」鹿島君は褒められたんだか何なんだかよく分からないながらぺこんと頭を下げた。

「それはどうも・・・ありがとうございます・・・」

彩芽さんはだんだんまた元気を取り戻し始めた。こぼれそうな大きな瞳にキラキラした光が戻ってきた。

「それに、あなた、なかなか立派な良い物をお持ちだわね。使いようによってはソレで結構稼げるかもしれないわよ。だって、考えてごらん?お金も時間もあるけれどそれを使う相手がいないって人は、なにも男性だけに限らないから。あなたの体力と精力があれば・・・やる気次第では大儲けのチャンスよ!・・・世の寂しい女性を心身ともに癒やすお仕事よ。あなたにならできる!素質があるもん!まだまだ未開拓の領域、とは言え既に老舗のライバル店も多数。だけど、鹿嶋くんが居てくれれば、男娼業界に割り込んでトップを取る事も夢じゃない!

・・・どう?お姉さんと新しいビジネス始めない?」

(やれやれ、この人は・・・)と鹿島君は気が抜けて笑い出してしまった。

「流石、彩芽さんですね。僕も少しは貴女の人となりを知ってるつもりだったけど、まさかこんな時にもこの僕まであなたの野望に組み込もうとするとは・・・!」

「私、コケてもタダじゃ起き上がりたくないの。そんな女なの。」

「いや、参りました。貴女のその強さには・・・」

「どうするの?のるかそるか?」

「僕はいいです・・・服を着てください。とりあえず…僕のTシャツで良ければ・・・」

「いいってどっち?やるって事?」彩芽さんが握手しようと手を差し伸べてきたので、鹿島君は笑いながら首を横に振った。

「いや、お断りです。もちろん。僕は真っ当に働いて正直に生きていたいんです。たとえ金持ちになれなくても」

「まぁ、今はね。そう言うでしょうね。」彩芽さんはふと真剣な真顔に戻った。

「私も今すぐにって言ってるわけじゃない。でもお金って大事よ。何をするにもまずはお金が必要。人を愛すにも、我が子を我が手で育てるにも、まずお金がなければそれすらできない。お金って、愛よ。

お金って、命よ。

・・・あなたって、・・・自分はこうでありたい、とか、こういう人間だ、と今は立派なこと考えていたいお年頃よ。多分。でもね、鹿嶋くん。あなたはまだ自分で考えてるよりも大人じゃないし、自分をよく理解できてさえいない。こうでありたいと思ってそう口に出して語ってる人物像にあなたはまだ届いてない。ちょっと背伸びしてるお子様よ。24歳?図体は大きいわ、確かに。でも、中身はまだ柔らかい蛹。綺麗なそのままでは汚い世の中を渡っていけないわよ。聖人になろう、綺麗なままでいよう、とするにはあなたは全く、力不足なの。お分かり?もっと人間になりなさい。人間で良いのよ。人間って、綺麗事を言える汚い生物の事よ。」

鹿嶋くんは自分のために真剣に真面目な顔をして真面目なことを言ってくれてる彩芽さんの揺れる乳房や光ってるその二つの先端が気になって気になって、せっかくの有難いお説教が半分も頭に入って来なかった。しんみりとうなだれて、聞き分けの良いふりをして頷いた。

(ああ、俺は駄目だなぁ…)と鹿嶋くんは心の中で悶々と考えていた。(好きな子としかやりたくないってずっと思ってたし、気持ちがないと出来ないとか、両想いじゃないならしちゃいけないとか人には偉そうに言っておきながら…結局、体の欲求の高まりをちょうどいい所に来た大人の女の人にぶつけて、解決してもらっただけだ・・・またしたいと思ってる俺は何なんだ、ただの寂しがり屋か?阿保なのか?でも、もう一度、触りたい…あぁ、どうしよう、誰でもいいのか?俺は?・・・ユキが良い。ユキが良い・・・でも、今だけは、誰でも良い、いや、この人で良い・・・と言うか…この人なら理解してくれそう…だから・・・もう一度頼んでみようか・・・もう一回だけ・・・ただ抱き締めさせてくれるだけで良いんだ、それ以上の事は求めないから・・・ギュッと・・・あと一回だけ・・・)

部屋がシンとしているのに突然、気が付いて、鹿嶋くんは力強く閉じていた目を開いて、顔を上げた。

魔法のように彩芽さんが消えていた。頭が混乱しながら急いで立ち上がり、キョロキョロし、浴室付きのトイレを見に行き、部屋の中央で一回転して、茫然と立ちすくんだ。それから、短パンとTシャツを引っ掴み、玄関から飛び出した。

 階段を駆け下りながら、車のドアが閉まる音、続いて車が走り出す音を聞きつけ、途中の踊り場の手摺から身を乗り出してテールライトに叫んだ。

「彩芽さん!ちょっと待って!頼むから、ちょっと・・・!」

車は一瞬加速し、そのまま大通りへ出て行ってしまうかに見えた。諦めかけながら見ていると、加速してから急ブレーキを踏み、嫌そうに、ノロノロ、ノロノロとバックして狭い道を引き返してきた。

鹿嶋くんは階段の踊り場で急いで手に持っていた短パンを履き、Tシャツを被り、残りの階段を駆け下りて、アパートの前の狭い路地を走って車に駆け寄った。

彩芽さんは助手席から降りてきた。いつの間に着替えたのか、ユキのワンピースを身に着けている。ミルクティ色の生地に淡い水色の泡と桜色の巻き貝と卵色の二枚貝の模様が繊細な線で描かれている。不規則な波の網目模様が柔らかい蜘蛛の巣のように襟元から腰まですぼまりながら体のラインに吸い付き、腰から踝までまた広がっていく。一時期はユキはそのワンピースを気に入って、二日に一回は着ていた。それを着ているユキを鹿島君は何度も城まで送り迎えした。そのワンピースを着ているユキを何度も抱きしめて口付けた。唇だけにとどめきれず、首や襟の開いた喉元まで・・・

 鹿島君は彩芽さんの喉から視線をもぎ離した。足下に目を落とすと、彩芽さんが履いている銀のサンダルが目に入った。それもユキがこのワンピースによく合わせて履いていたものだ。さっき鹿島君の家の中で彩芽さんが履いていた赤いピンヒールは、彼が壁に投げて片方のヒールが折れたのだ。これでよく分かった。さっきこの目の前の女を裸にした時もチラッと思ったが、ユキと体付きもどこもかしこもよく似ている。服も靴もサイズはピッタリ。もともと二人は姉妹か親子かのように顔の造形も似ていた。向かい合うとユキの10年後を見ているような気になった。


 鹿嶋くんは自分が何を言おうとして彩芽さんを引き留めたのだったか、分からなくなった。ただ、知らない間にいなくなられたのがショックだったのだ。何も言いたいことはなかったのだけれど、ただ、まだいて欲しかっただけだった。

彩芽さんは首を傾げ、何も言いださない鹿嶋くんのかわりに自分の方から口を開いた。

「このワンピースは私があの子に買ってあげたものなの。もともと。だから…盗んだなんて言わないで頂戴ね。あの子と私はちょうどピッタリ体のサイズが同じだったのよ。今じゃもう分からないけれど。もう少し身長が伸びてるかもしれないわね。あの子まだ成長期だから・・・」

鹿嶋くんは頷いた。沈黙が流れた。

「前回あなたの部屋で会った時に私が持ち出そうとしてたのはみんな、私がサクラと共有で使ってた物ばかりよ。だから、盗みに入ったという認識は私にはないのよ。無断であなたのお部屋に入ったのは悪かったけれど。でも、鹿嶋くん、あなたの部屋のあの窓の鍵は変えた方が良いわね。・・・」

鹿嶋くんは頷いた。沈黙が流れた。

 鹿嶋くんが話し出さないので、何故か彩芽さんがまた喋り出した。

「あの子、初めて会った時にはワンピース一着しか持ってなかったの。自分がその時着てるやつしか。着替えは無し。当時はまだ子供よ。ヒョロヒョロの。いくつなのかも分からない。日本語もなんだかたどたどしい。でも美形だし、保護者もいないし、ちょうど良い、お互いに利用し合えるとすぐにピンと来たの。私は可愛い女の子を育ててみたかった。ゆくゆくは後継者になってくれるような。あの子は保護者を必要としてた。巡り合わせね。抜群のタイミングで現れたの。ふらっと、車の前に飛び出してきたの。男の子達と追いかけっこをしてたらしいわ。あの子。あなたがユキと呼んでるあたしのサクラの事よ。

私、当時はまだ自分で運転してたの。どうも教習所のオッサンと相性悪いことが多くて、免許は持ったことがないけど。この生涯もう免許とることはないかもね。今はどこへ行くのにもミズキが運転してくれてるし。」

彩芽さんは車の運転席に座ってハンドルに片手をかけてこちらを見ている女の子を目配せで紹介してくれた。

「各都市にお金が必要な若い女の子がブラブラしてるスポットがあるの。そういう場所で直接値段を交渉して一夜の花を摘み取るような買い物をする男の人がいる。私もそういう場所に出向いて、これからの見込みがある長く付き合えそうな仕事仲間を探してるの。質の良い女の子達を集めてきちんとした商品に仕立て上げるの。各々長所が光ってるわけ。少し話すだけで分かる。ああ、この子は気が利くな、頭の回転が速いな、とか、どんくさいけど素直だな、とか、何考えてるかちょっとよく分からないけど容姿端麗だな、とかね。自分の好みに集中しがちだけど、いろんなタイプの女の子が必要なのよ。うちの組織にはね。

 今あの運転席に座ってる、あの子も、京都アバンティの地下駐車場で拾ったの。あなたのユキちゃんと出会ったのも同じ場所よ。あの子、サクラは、今思い出してきたわ、確かに、私と出会った時には京都風のなまりがあったかもしれない。言葉遣いの中に。だけどすぐ影響受けて相手に染められやすい子だったから、2,30分も話してればすぐに話相手の方言真似て使い始めるのよね?可愛い子だったな。私たちのあの子。あなたのユキちゃんは・・・でも、もう卒業しちゃった子の事をいつまでも思い出すのはやめにしなくちゃね?あなたも私も・・・

・・・それともまだ探し続けるつもりなの?鹿嶋くんは?」

鹿嶋くんは曖昧ながら首をふらふら揺らした。左右にふらふら揺らしながら俯いたので、ハイともイイエともとれる仕草になった。

「彩芽さんにも今ユキがどこにいるのかは分からないんですか?」

「出会った場所しか分からない。私と逸れたからって、また同じ場所に戻ると決まってるわけでもないし・・・でも探してみたわよ。一応は。私も。

鹿嶋くんちに入り浸ってるのは最初から知ってた。それからあなたの元を去ったのも知ってるわ。その後またどこかで立ちんぼとかしてるんじゃないかって、あちこちドライブしてみたわよ。でも噂も聞かない」

「本当ですか?僕はまたあなたの組織の中で薬漬けになって無理矢理働かされてるのかと思ってましたが…」

「そんなこと私がすると思う?」

「…しなさそうだと今は思います。でも人は見かけによらないし…彩芽さんの事それほどまだ僕も知ってると言えるのかどうか・・・それに、彩芽さんが落として行った名刺を辿ったら“楽園”と言う場所があるのを知ったんです」

「あぁ、知っちゃったのね。私の凡ミスで・・・」

彩芽さんはやれやれと溜息を吐きながら、首を激しく左右に振った。

「立ち上げたのは私。だけど、もう完全に私の手からは離れた組織よ。今では、目指してたものと真逆の機能を果たしてる。もう暴走を止めることは私にも無理。

初めはね、私は、未成年の子供達を集めて、成人するまで大勢の大人で面倒見られるような何か良いシステムをこの手で作り上げたかったのよ。あまりにも若くして自分の面倒だって自分では見られないような女の子達が赤ちゃんを抱えて困ってるのを目の当たりにして来たから。自分の母親も然り。

 途中までは良かった。お母さんたちが外へ出て働いてる間、休みのお母さんたちが他の子の子供たちの面倒も見てたの。かわりばんこに。でも、子供たちの中には母親の苦労を軽くしたくて早く自分も働きたいと思う子が出てくるわけ。で、また、それに目を付ける大人がいて・・・」

彩芽さんは鹿嶋くんの目を見つめながら首を横に振った。

「私が名付け思い描いた“楽園”は今は別の人間が仕切ってる。私は完全に無関係よ。今となっては。信じる信じないはあなたに任せるけど」

「ユキは今そこにいると思いますか?」

彩芽さんは苦しそうな顔をした。

「一番居て欲しくない場所だけど…私の思い付く中では…でもあの子がそこに居るとしたら、もう私には手が出せない。私は面が割れてるし、それに、あそこは、居たくて居付く子がほとんどなの。しばらくはそうじゃなくても、居続けるほどに出にくくなっていく。

あの子があそこに居るなら、楽園からあの子がポイと捨てられるまでは私はあの子に会えないわね。その後ではもう会いたくもないし。自分の店でももう使えないというだけの意味じゃ無く、変わり果てた姿のもともと綺麗だった子を見ることほど悲しいことはないからよ。考えるのも嫌。子供って若いうちはどんな子でも可愛らしいし、良い年齢の重ね方をして、大事に愛されて自分磨きも怠らなければますます輝きを増して綺麗になっていくはずなのに、そうじゃなかったパターンのあの子なんて一番この世で見たくない。可愛がってただけに!本当に特別に目をかけて可愛がってたから・・・」

「似てますもんね、貴女に」

鹿嶋くんがポツンと言った。

「そうかな?」彩芽さんは少女のようにポッと嬉しそうな顔をして、自分の頬を両手で持ち上げるように触った。

「私も昔はモテたのよ。今でもあの子に似てると思う?面影ある?」

「今もモテますよ。彩芽さんは」

彩芽さんは自信なさげに唇の端に浮かびかけたへなへなした微笑を手で隠した。

「一生懸命老化に抗ってるの。エステに入り浸って。でも太陽の光の下に並ぶと若い子の本物のお肌の張りには到底敵わない。・・・おばさんを褒めるのがなかなかお上手ね、鹿嶋くん。」

プップ、とクラクションが鳴らされ、二人がそちらを見ると、ミズキちゃんが運転席の外に立ち、ドアに凭れてこちらを睨んでいた。なかなか怖そうな外見の女の子だ。スキンヘッドの頭には角が生え、顔中あっちこっちにマキビシみたいなピアスが打ち込んである。

「運転手兼ボディガードみたいですね」

「見た目はね。でも小型犬ほどよく吠えるって言うでしょ?ヒトも同じよ。攻撃的な子って、本当は神経質で傷つきやすい自分の身を守りたがってるの。彼女もそう。傷付きやすい子なの。ハートは」

彩芽さんはポンポンと自分の心臓あたりを押さえた。ミズキさんには見えないように。

「ピリピリしてるところが神経細そうに見えますよ。」鹿嶋くんは武装したミズキさんを彩芽さんの肩越しに眺めながら言った。

「本当?あなた意外によく人を見てるみたいね。じゃ、さよなら。鹿嶋くん。私の運転手、ちょっとヤキモチ焼きだから・・・」

彩芽さんはニコリと笑って手を振り、まだ鹿嶋くんが手を振り返さないのに、後ろを向いて行ってしまいそうになった。後姿がユキに似過ぎていた。長い髪の巻き方が同じ、歩き方も同じ、去り際にお尻の下あたりで手を振り続けるバイバイの仕草も同じなのだ。

「あのっ!彩芽さん!」鹿島君は思わず呼び止めた。「窓の鍵は直さないです。もう僕、あの部屋を出るので…」

彩芽さんが立ち止まってこちらを振り返った。

「それで、あのー、もし良かったら服とか靴とか全部取りに来てください。今度は僕、部屋のドアを内側から開けますんで。」

「捨ててしまえば良いよ。…私も、着る物が無いわけじゃないし・・・」そう言いながら彩芽さんは鹿嶋くんの表情から何かを読み取ろうとする目付きになった。探るような慎重な抑えた口調で続けた。

「それにあなたのもとにユキちゃんが戻って来るまでずうっと服やら靴やら置いて待ってたとしても、流行には流行り廃りがあるでしょ?何年先になるのか分からないんだし・・・」

「そうですね・・・」

彩芽さんは頷き、また後ろを向いた。車の方へ行きかけた。

「あのー、彩芽さん…」

「何?」彩芽さんは笑いそうになりながらこちらに振り返った。同時に、車の方からははっきりと聞き取れる舌打ちの音が響いてきた。

「鹿嶋くんに教えてあげられるユキちゃんの情報は全部教えてあげたつもりよ。まだ何かある?」

「あなたの事は?」

「は?」彩芽さんは目を見開いて、意味が分からないと表情で伝えてきた。

「あなたの事は・・・誰か知ってる人がいるんですか?」

「何?え?どういう意味?」

「例えば・・・寂しくないですか?彼氏さんは・・・?彩芽さんには旦那さんがいらっしゃる?」

彩芽さんは歩いて行きかけていた分を本格的に引き返してきて鹿嶋くんの目の前に立ち、しげしげと目を覗き込んできた。

「私の耳が遠くなったのかな。ちょっとよく分からない。何が言いたいの?」胸の膨らみの下で自分で自分の体を抱きしめるように腕を組み、片手を顎に添えて小首を傾げる仕草が、小学生の時にちょっと憧れた担任の先生みたいで年上の女性らしく感じた。

「あなたの事を気に掛ける他の男はいるのかなと、ちょっと思えただけです。ユキの事は僕が考えてる。だけど、あなたにもそういう誰かが…自分では、自分の事を心配して気にかけてくれる誰かが欲しいと思うことはないんですか?」

「そらたまには思うわよ。私だって女よ。いくつになっても一人寝が寂しいなぁっていう長い夜もあるけど。そこは年の功で、慣れね。それに私には考える事もいっぱいあるし、しょっちゅう新しい事思い付いちゃって次々新しい事業を起こしたいし、やらなくちゃならない事とか解決しなきゃいけない問題も次々沸いてくるし、色々抱えすぎてて、ずっとぼんやり寂しがってばっかりいられる時間が無いの。」

「なるほど」

「私も自分の子供を産めるかどうかの最後の悩み時のお年頃にさしかかってきてるわけだけど、でも考えてみれば、抱えてる従業員達は、若いときに産んでたら自分の子供であってもおかしくないような年頃の女の子達なのよね。そういう子達がまた小っちゃい赤ちゃんを抱えて働いてくれてるの。私も抱っこさせてもらったりちょっとの間預かったり、あやしたりオムツ買えたり哺乳瓶洗ったり面倒見たりするわけ。もう何人も何人もよ。校長先生みたいに。こちらが顔も名前も忘れてるような中学生とか高校生とかの学生服着た大きな子が、街中で声かけてきてくれて、「どうも。昔お世話になりましたっす」とか言ってお辞儀してくれたりするの。もう彼らのお母さんは私の元で働いていなくても、昔の源氏名やらエピソードをいくつか聞くうちにこちらも思い出してくるの。「ああ、あなたサヨちゃんの赤ちゃんだった子?もうこんなに大きくなったの?あたしの髪を一房握りしめて、抱っこしてたらスヤスヤ寝てるのに、ベビーベッドへ下ろした途端パチッと目を覚まして泣いてたのよ、寝ても覚めてもお母さんが抱っこしてもなかなか私の髪の毛放してくれないの。甘えんぼのシローくん?」「そっすー」って。「お母さんは今は何してるの?」って聞くと、「地元で高校の同級生やったおっちゃんと結婚して今はカラオケバーやってます。遊びに行ったってくださいよー」とか誘ってくれたりするの。まるで子供や孫があっちこっちにいて私のこと時たま話して覚えててくれてるみたいで、そういうことが時々あると、(あぁ私の人生は割と豊かで恵まれてるのかも知れない、寂しいなんて思ったら本当に孤独な人に怒られちゃうなぁ・・・)って思えるの」

聞きながら鹿島君は頷いていた。なるほどなぁと感じ入り、安心した気持ちになれた。

「彩芽さんは本当に強い女性ですね。常に前ばかり向いてぐんぐん突き進んでるんだなぁ」

「振り返ることもあるわよ。たまには。それに本当は泣きたくなる時だってあるけど、我慢できる。手近にシャツの胸で私の涙を拭ってポンポン背中を叩きながら弱音を吐かせてくれる逞しい腕の良い男が見当たらないし」

鹿島君はなんとも言えない気持ちになって、なんとも返事をしなかった。

「あなたにはユキちゃんがいるしね」

彩芽さんは鹿島君を励ますように腕をパシパシ叩いた。

「待てるなら待ちなさいよ。でも待てないならさっさとやめときなさい、そんな無駄なこと。無駄だと自分でも分かってるんでしょ?水商売の女の子の帰りを待つことほど消耗することはないわよ。あなたみたいな一途な人にとっては。あなたの心は誠実だし、ずっとそのままでいたいという曲げたくない信念も分かるわよ。ちょっと潔癖というか頑固というのか。そういうところはまだ夢見がちな幼気な子供のままなの。そのままでいて欲しいと私だって思うけれど、実際そうはいかない。なかなか。痛々しくって好きよ、今のあなた。可愛らしくって、力だけ強くって。応援してあげたくなっちゃう。叶えられない夢を追いかけ続けてて、なんだかちょっと可哀想だから。

だけど、あなたのその体は健康で健全な野生の若い雄なんだから、あまり無理矢理抑え付け続けるのもどうかしら?こうありたいという理想は高いままで良いのよ。でも、そこに向かっている今の泥臭い自分自身の生身の体の声にももう少し応えてあげなさい。欲しいものを欲するまま手に入るなら手に入れなさい。あなたを欲しがってる女の子はユキの他にも大勢いるはずよ。彼女等の期待に応えてあげられるのが今しかないのに、今のあなたはそれでも残像のユキの幻影を追いかけて他の女の子達を袖にするの?それって本当に正しい事だと思う?たかだかエッチっぽっち。ちょっとくらい、間違いの一つ二つ、どんなに立派そうな顔してる大人にも消したい過去の過ちはあるのよ。それのどこがそんなにも悪なの?誰かが決めた善悪の定義など放っておきなさい。」

彩芽さんはふと手を伸ばしてきて、鹿島君の下唇に触れた。鹿島君は何をされるのだろうと驚きながらも、その場にじっと立ったまま、彩芽さんのやりたいようにさせていた。彩芽さんは赤ちゃんか歯科医みたいに鹿島君の下唇と上唇を指で開かせ、前歯をなぞり、歯も上下にこじ開けさせて、指先で探るように舌先に触れた。さすがに鹿島君は首を仰け反らせ一歩遠ざかろうとしかけたけれど、彩芽さんはその前に伸び上がって鹿島君の首に腕を回し、口に、指だけじゃなく、自分の舌を思い切り突っ込んできた。

爪先立ってよろけている彩芽さんの体を支えるために鹿島君は彼女の腰を抱いて自分の臍の方へ引き寄せ、彩芽さんの香水の香りに包まれて、クラクラして顔を背けるどころではなかった。爪の長い細い指先が鹿島君の耳をギュッと掴んで、自分の顔の方へ向けさせしっかり固定していた。

彩芽さんは完全に脚の力を抜いて自分の体を支える役目を鹿島君に頼り切りにしてしまい、鹿島君が彼女の腰から手を離せば道端に崩れ落ちてしまうのが分かった。鹿島君は口の中を舌や指で彩芽さんに掻き乱されながらも、必死になってその体を支えて踏ん張り続けた。ほとんど彩芽さんの踵も爪先もアスファルトの道に付かず、もうほぼ片腕の力だけで鹿島君の首にぶら下がっている状態だった。鹿島君が酸欠で目の前が真っ暗になってきて死にそうになり、ズルズルと彩芽さんの体もろともずり落ちて、二人は膝と手を地べたについてゼェゼェハァハァ言いながら激しいキスをようやく解いた。

「殺す気ですか?」鹿島君が息を吸い込みながら聞いた。

「これが大人のキスです」彩芽さんが満ち足りたチシャ猫みたいにニヤニヤ笑いながら言った。

「あなたの汚れのない魂を吸い出して吸収してやりたいくらい、可愛いなと思っちゃったの。鹿島君って母性にも女心にもぐっと訴えかけてくる良い男よ。」

「はぁ・・・それは、どうも・・・」

「窓の鍵は変えないと言ったわね?」

「そうですね・・・」

「引っ越すのはいつ?」

「15日後です・・・」

「それまではいつ行ってもかまわないという意味ね?そういう風に受け取られるようなことあなた自分で言ったのよ。気付いてる?」

「・・・これからは横を向いて寝ますよ。女泥棒に容易く貞操を持って行かれないように」

彩芽さんは眉を上げて肩をすくめ、(さて、その程度でやりたいと思ったことはすべて実現させてきたこの私を止められるとでもお思い?)みたいな素振りをすると、さよならは言わず、立ち上がってスタスタ行ってしまった。

それが最後になるとは思えなくなって、鹿島君はもう声を上げて引き留めなかった。

彩芽さんが乗り込んだ助手席側のドアを、バシン!と勢い良く運転手が閉め、鹿島君をギラギラ光る目で睨み付けながら車の後部を回り込んで、運転席に乗り込み、またバーンと叩き付けるように自分の側のドアを閉めた。鹿島君は付いていた片膝を払いながら立ち上がった。レガシーアウトバックは急発進し荒々しく私道を抜けて、大通りを緩やかに流していた車の群れから悲鳴のようなクラクションを喝采のように浴びながら去って行った。





続く



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