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お城  作者: みぃ
16/40

7-1

 老犬トムの散歩はイラチなメイにとってはとにかく気が遠くなるような苦行になり始めている。よぼよぼ、よぼよぼとちょっと歩いては立ち止まり、もうちょっと歩いてはまた立ち止まる。チラリとこちらを見上げて悲しそうな目で、抱っこして欲しいとすぐに甘えて訴えかけてくる。家族みんなで甘やかし過ぎて育てたせいだ。足が四本もあってめちゃくちゃ歩みがのろい。亀だって結構もっと早く走れるのをメイは知っている。

大きなホールケーキの箱みたいな段ボール箱に入れられ、首に虹色のリボンを巻いて、うちに迎え入れられた子犬の時は、起きている間中ワンワンキャンキャン飛び跳ね走り回りながら吠えまくって、電池が切れたみたいにいきなり眠りこけるまで、ずうっと元気いっぱいのハイテンションで一人運動会してるみたいに騒がしい生き物だったのに。

「人間なら100歳を超えてるくらいご長寿なんだから、敬意を払いなさい」とママは言う。

子犬の頃は主従関係を躾けようと、自分の前を歩かせることは決してなかったのに、今では

「引きずって歩くわけにいかないじゃない…」と言ってトボトボと渋々歩くトムの後ろを辛抱強くママは歩く。まるでちょっとでも目を離したらその隙にポテっと倒れて死んでしまうかもしれないと怯えているかのようだ。ママは自分と同じようにメイにもこの耳が垂れさがった雑種のカフェオレ色の老犬を慈しんで別れを惜しんで散歩させてやってほしいみたいだけれど、メイはある程度歩かせたら、抱っこして、丘の下の公園まで行って、木陰のブランコの柱にトムの散歩紐を結び付け、自分はブランコを漕ぎながら携帯ゲームをする。頃合いを見計らってまた抱っこして、家のそばまで来たらトムを地面に下ろす。こうやって家に帰れば、母親も犬もメイも誰もが満足する。トムもママよりもメイと散歩する方が好きだと言って、首輪を咥えさせるとメイの方へ持ってくる。どうせ歩かなきゃいけないならメイの方がマシだ、ちょっと楽させてもらえるし、と分かっているみたいだ。あざとい犬だ。

今日もいつもの手順でトムとメイは家の近所まで帰って来た。

「ワン!」

老犬トムが珍しく急に勇ましい使命感を目に宿し吠え立てる。視線の真っ直ぐ先、我が家の玄関先に、体つきの大きな男の人が片膝をついて屈み、トムの小屋の中を睨んでいる。この知り合いしか見かけない住宅地の中で、見たことがない人だ。不審に思って立ち竦んだメイと、トムの吠え声に素早く反応して振り返った男性の目が合った。

「こんにちは」男がすっと立ち上がって挨拶してきた。立つと背が高く、肩幅もある。年も近そうだ。黒々と太い眉。熱のこもった黒い瞳。

(ちょっとカッコ良いかも…)と思いながらメイもペコッとお辞儀して、挨拶を返した。

「こんにちは。うちに何か用事ですか?」

「はい、僕は鹿島と言います。多分、そのワンちゃんの友達と友達で…」若い男は急いでゴソゴソ上着の内側のポケットから一枚のはがきを出してきた。

「住所はこちらで合ってると思うんですけど、表札は違うなぁと思っていて…この人を探してるんですが…」

メイはまだワンワン吠えているトムを抱き上げて男に近寄り、葉書の名前を呼んだ。

「庄野彩芽。それ、うちの従姉です」

「あぁ!そうですか…!」若い男は嬉しそうに急にパッと目を輝かせ、声音までが明るく大きくなった。

「僕、彼女をずっと探してるんです。確かに貴女に少し面影が似てる気がする…」

男は嬉し過ぎてニコニコの笑顔で、一瞬、今にもメイに抱きついてきそうな勢いに見えた。でも愛想笑いを浮かべながらも一歩引いたメイの表情を見て、さっと表情を引き締めた。

「彩芽さんが今どこにいらっしゃるかご存じですか?」

(そう来たかぁ…)とメイは思った。(彩芽を探して誰かがここへ訪ねて来るとしたら、それは借金取りか、警察か、頬に自分で縫ったような傷があってサングラスをかけて黒塗りの防弾ガラスのベンツから降りて来る感じの闇の組織か、あるいは、泣き濡れて悲しみに暮れてる男か、どれかだろうと、いつも親族の集まりがあると、予想されていた。)

メイはもう一度用心深い目で鹿島さんを見てみた。

(彼氏のふりをした違う種類の人探しではないか?…)

「ワンワン、ワンワンち、どうした?トムちゃん」おばあちゃんの声が開けっ放しの玄関の中から聞こえてきた。

「トムちゃんの鳴き声がした気がしたけどな…?」

サンダルに足を突っ込むジャリジャリいう音、それからいつもの出典不明の独創的鼻歌が聞こえてきて、そして本人の姿が登場した。メイの中学時代の半袖体操服の上に、ベージュの地に薄紫色の小花が散る柄のいかにもおばあちゃん用~って感じの前掛けをかけた、白髪頭を後頭部の後ろで丸いお団子にした小柄なおばあちゃん。片手に愛用の万能鋏(柴漬け色で、鰹節の袋の口から、お仏壇にお供えする庭のハイビスカス、その葉を食べる虫まで、何でも切れる。)と水やり用の柄杓を持ち、もう片方の手はグーにして腰に当てている。

 今朝、「坊さんが来なるき朝のうちに花を摘んでお供えしとこ」と言ってたのをメイはその姿を見て思い出した。

トムがおばあちゃんの所へ行きたがってもがくので、メイは犬を地面に下ろして放してあげた。

「あら。こんにちは!」おばあちゃんが鹿島さんを見上げて立ち止まった。背筋を急にぐっと伸ばした。

「あらあら。まぁまぁ…メイちゃんの彼氏?」

「いや違うよ。」メイが急いで鹿島さんを紹介した。「彩芽ちゃんの彼氏さん」

「彩芽ちゃんの!?」鹿島さんが深いお辞儀をして肯定すると、おばあちゃんの目が真ん丸になった。

「彩芽ちゃんの?!…まぁまぁ!入んなさい、そんなとこにお客さんを立たせとらんと、メイちゃん、早う」

おばあちゃんは後ろ手に手招きしながら率先してトムと一緒に家の中へ引き返し、「お茶は…?!茶菓子は…?!何かええもんあったかいなぁ…??」と慌ててせかせかした即興の鼻歌と冷蔵庫や戸棚をパタパタ開け閉めする音がウキウキしてるようなリズムに乗って聞こえてきた。

(彩芽ちゃんはあんまりおばあちゃんに会いに来ないから…昔からおばあちゃんは彩芽ちゃんに目に見えて贔屓だった。「心配かける子の方が可愛いもんだ、気にかかって」なんて言って。多分、おばあちゃんは早とちりして、鹿島さんが彩芽ちゃんの事を何か教えてくれると思い込んでしまったんだ…)とメイはおばあちゃんの鼻歌に耳を澄ませながら思った。

 おばあちゃんも彩芽ちゃんの事を知りたがり、鹿島さんも彩芽ちゃんの事を知りたがり、どちらもが互いに誰も彩芽の消息を知らないと判明すれば二人ともガッカリすることになるのはもうすぐで、目に見えている。メイは今から気の毒で胸が痛み、鹿島さんを家の中に招待するのが気が重かった。

この場にいつもいない、勝手気ままに生きているスナフキンみたいな彩芽ちゃんが恨めしかった。

「何しちょるの?メイちゃん?お客さん、どうぞどうぞ」おばあちゃんが玄関からまたヒョコッと顔を出してメイと鹿島さんを激しい手招きでおいでおいでおいでおいでと呼んだ。そしてまたヒュッと顔を引っ込めた。

 メイは鹿島さんに頷いて、先にどうぞ入ってください、と玄関を掌で示した。

「おばあちゃん、鹿島さんから彩芽ちゃんの事聞きたがるかもしれません」と大きい背中に声をかけた。


「あの子は昔っから家出娘でしてねぇ、でもまぁそれも仕方がない、可哀想な娘ですよ」

三人で食卓につくと、冷たいカルピスのコップを両手で包んでおばあちゃんが鹿島さんにニッコリした。

「男ん人はアイスコーヒーやらが好きやろと思いましたけど、爺さんがおらんごとなってから切らしちょりまして…」

「どうも…」鹿島さんはカルピスを両手で厳かに受け取った。

「おじいさんはお亡くなりに…?」

「いいや、まだ死んではおりません。どっかで生きちょります。深夜徘徊して、帰り道が分からんようになって、まだ帰って来てないだけです」

「はぁ…」

おばあちゃんは重々しく頷き、その隣でメイが小さく首を振った。鹿島さんはおばあちゃんとメイを交互にじっと見つめてから、おじいちゃんの話題は深堀しないで、置いとくことに決めたみたいだった。おばあちゃんに合わせて一つ、頷くと、喉が渇いていたのか、自分の目の前に置かれたカルピスをごくごく飲んで一気に半分以上減らした。おばあちゃんがそれを見て目をキラキラ輝かせ、いそいそと立って台所へ消えた。

「おばあちゃん、どこ行ったの?」鹿島さんがメイにヒソヒソ声で聞いてきた。

「多分、台所。お客さんに何かお出ししようとして取りに行ったのかなぁ」

「いいのに…」鹿島さんはちょっと椅子から腰を浮かせて揺れる暖簾の向こうへ大きめな声を出した。

「お構いなく!マダム!」

「大丈夫だよ。うちのおばあちゃん、男の人とか若い人とかがいっぱい食べたり飲んだりするのを見るのが大好物だから。おばあちゃんの携帯覗くと世界の大食いユーチューバーがずらずら出てくるの。」

「おじいさんは…?」

「死んでるよ。生きてるときは悪口言い合って糞爺、糞婆って呼び合ってたんだよ。毎日毎日。朝から晩まで。でもおじいちゃんのお葬式も火葬も全部おばあちゃんちゃんとしてたのに、火葬場から帰って来てからそこだけは頑なにボケてるの。「爺さんはまたどこかをほっつき歩いてる」って言い張って。他の事では誰よりもしゃんしゃんしてるのに、おじいちゃんの事だけだよ。絶対に死んだって認めようとしないの」

「ふうん。なるほど…」

「あんなに悪口しか言ってなかったのになぁ…ゴキブリ叩くのと同じスリッパで頭叩きあったりして…」

「仲良さそうじゃない」

「違うよ、本人たちは眉間に青筋立てて顔真っ赤にして真剣に相手の頭マジで叩こうとしてるんだよ。ずうーっと半世紀も昔のネタで喧嘩して。早起きして、毎朝、朝ごはん時から始まって、昼も夜も寝る直前まで飽きずに…」

「そういう愛の形だったんだよ。」

メイは首を傾げた。

「私だったら皺皺の手を繋いだり、薄くなった頭にはそっと帽子をかぶせてあげるようなラブラブ老夫婦になりたいけどなぁ。この結婚せずに生きられる世の中でせっかく添い遂げるられる相手と出会ったなら…」

鹿島さんはニコニコして頷いたけれど、何も言わなかった。優しそうな温かい目がメイをじっと見つめている。

メイは手持無沙汰を隠そうと、三つの汗をかいたコップの下のレース編みのコースターを指さした。

「これおばあちゃんの手作りなんだよ。ネットで売っててなかなか人気なんだよ。このちょっと不揃いな編み目が他にはない味わい出してるって。ほっこりするとか言われて。」

「確かに。機械では出せない味わいだねぇ」

「うちで使ってるのはちょっと失敗しすぎてるやつだから。売りに出すのはもうちょっと巧妙に失敗してるやつだよ」

「ふーん。」

白いレースのカーテンが微風を孕んでふんわり膨らんでは萎む。その度、日差しがふわっと入ってきたり、暗くなったり。ちりん…ちりん…、と、二階の窓に吊るしている風鈴の音色が微かに風に乗って聞こえてくる。

「暑くないですか?クーラー入れましょうか?」

「ううん。外は暑かったけど、ここは風がよく通って気持ち良いね。」

「部屋暗くないですか?」

「ちょうど良いよ。…椅子が六脚。六人家族なの?」

「今は三人。…四人かなぁ?…五人揃う時も時々あります。兄達が帰ってきて。常にいるのは私とおばあちゃんとお母さん。その端の座布団付きのはお爺ちゃんがいつも座ってた椅子。」

「ふーん…」

鹿島さんはテーブルの中央のクチナシを飾った花瓶の下に敷いたレースにちょん、と指を伸ばした。花瓶の底をぐるりと囲うように白鳥の親子が一列になって泳いでいる立体編みだ。白い首の長い親鳥が一羽に、黄色い雛が十二羽。

「それもおばあちゃんが編んだんです。可愛くないですか?一羽一羽ちょっとずつ不細工さが違うところが。」

「うん。可愛い…」鹿島さんは白鳥を見ないでメイの目を見つめながら言った。「キミも編み物習ってる?」

「今はもうできないかなぁ…でも、小学校の夏休みの宿題は六年間、おばあちゃんと作った編み物を提出したよ」

「それはどこに飾ってあるの?」

「ええー、…恥ずかしいなぁ…」

メイは客間をぐるっと見回してみた。

「二階のお爺ちゃんの部屋に幾つかあったのは見たけど…模様替えして、私が捨てようとしたのをおじいちゃんがごみ箱から拾って自分の部屋の本棚の中に飾ってくれてたけど…」

メイは立ち上がってテレビの前へ来た。飾り棚から写真立てを手に取って振り返ると、真後ろに鹿島さんがついて来ていて、ぶつかりかけた。

「おお」

「あっ、ごめんなさい…これ、私が編んだレース…」

鹿島さんの目がふと真剣みをおびて、写真立てではなく、写真に写っている一人の女の子に集中したので、メイは本題を思い出した。

「それ彩芽ちゃんです。10歳ぐらいの時の。」

「ここに住んでたんだ?」

「住んでたというか、あやちゃんは…時々ふら~っと遊びに来る感じで…長くても一週間も居なかったかなぁ。」

「ここに居る以外の時はどこにいたの?」

「さぁ…」

鹿島さんはメイが何か隠してないかと疑うみたいに力を込めてメイの目の奥をしばらくジッとのぞき込んでから、また写真の中の少女に視線を戻した。

「写真に撮られるのを嫌がる子だったから、その時も不貞腐れて横を向いてるんです。それにジッとしてないからブレて…」

「本当に彩芽さんかどうかよく分かりませんね?」

「私には分かるよ。隣で手を繋いでるのが私だから…」

「この小さい子が?」

「私です」

「ふーん。」鹿島さんはチラッと写真に写っているメイと今のメイを見比べ、また表情を和らげた。「可愛い。小さい時も今もショートが似合いますね。可愛い…」そして写真立てをもとの場所に戻した。

「他には彩芽さんが写ってる写真はないのかな?」

「ないと思います。カメラを構えられると逃げ出す子だったから。この時だけは私が手を握って踏ん張ってたから写ってる。奇跡のショットです。」

「そうか。他に女の子はいないんだな。彩芽ちゃんは遊び相手としては良いお姉さんだったの?」

「うん…刺激的というか、大人っぽくて、いつも珍しくてお洒落な物を持ってたり大人も知らないような変わったこと知ってたりして…」

「例えばどんな?」

「うーん…」メイは言葉に詰まって鹿島さんを見つめ返した。「子供の頃には魔法にかかりやすくて、物珍しさとか新鮮さで憧れてたけど、今から思えば…何がそんなにかっこ良く見えてたのかな? …あやちゃんはたまにしか来ないし次にいつ来るのかも分からなかったけど、ここに居る間は私には優しかったし…メイクのやり方や爪磨きとか教えてくれたのもあや姉だったし…お兄達は、私の事『おい不細工』とかって呼んでガサツだったけど、あや姉ちゃんは『可愛いねぇ可愛いねぇ』って優しくて『髪が綺麗ね』って構ってくれて、秘密のプレゼントとか私だけにお下がりの口紅とか香水とか内緒でお小遣いとかくれたりして。

…あや姉がこっそり出て行こうとしてるのを見付けるとしたら、いつもくっついて回ってる私が真っ先に見付けて、そうなったら全力で錨みたいに足にしがみ付いて、行かすもんか、行かすまいっ、とするんだけど、そんな風にしてるとポンポンと頭に手を載せて、約束してくれたのね、『もう少し大きくなったら一緒に連れて行ってあげるよ。』って。『でもこの約束は秘密ね?誰にも言っちゃダメだよ』って。指切りしたの。『それまでもっと可愛さに磨きをかけておきな?』『自分で自分の事すっごい可愛いと思い込める子は最強の翼を持ってる鳥みたいなもんなんだよ。どこへでも飛んでいけるんだよ』って。『でも今はメイちゃんはまだ雛だから、巣から離れたら弱って死んじゃうよ』って。

…彩芽ちゃんがどこかへ行こうとしてたら、もう誰にも止められなくて、一日か二日は出発を後らせられても、私にはそれ以上の力はなかったから…私は泣いても大暴れしてもスイミングスクールやらECCや習い事とかやってたし、学校には絶対に引きずってでも連れて行かれてたからね。だけど誰も彩芽ちゃんにはそんな事しなかった。おばあちゃんがたまにゲンコツ振り上げて追いかけ回してたけど、ひらひら蝶々みたいに逃げ回って、捕まるような子じゃなかったから。彩芽ちゃんは逃げ足の女王って呼ばれてたから。…多分そういうところが、子どもなのに全然大人の言うことを聞かなくても生きていけてるっていう、自由で強くて気儘なところが、ピーターパンみたいで、ちょっと真似できないおとぎ話から抜け出てきた子みたいで、それで余計にかっこよく見えてたのかなぁ。…子供の頃はね…」

「いつ頃からかっこ良く見えなくなったの?」

「それは…」メイは苦い思い出に触れそうになり、スッと視線を逸らした。「…ちょっと、おばあちゃん見てきます」

メイはお婆ちゃんが台所でやってる事のお手伝いをしに行った。


 おばあちゃんは冷蔵庫からプリンや水羊羹や、どこに隠してしまっていたのか、冷やして食べるはんなりとした上品なうちわの形の柔らかい個包装のお煎餅(朝顔やひまわり等一つ一つに違う水彩画が施してある)や、葡萄や西瓜やトマトを出してきて、(「おばあちゃん、そんないっぺんに出したら温もっちゃうよ」と鹿島さんと二人で待つのにいたたまれなくなったメイが隣に来て小声で注意すると、大皿に製氷機の氷をガラガラと敷き詰め、そこへダイナミックに夏のおやつを全部盛り付けて、「ほら、若いあんたは力持ち。頑張れ!食台へ運んで!」とお手伝いさせられた。

「いっぱい食べてね」

「どうぞどうぞ」

二人にニコニコ見詰められ、鹿島さんは恐縮しながら西瓜に手を伸ばした。

「カルピスももっと飲んでね」

「馬のようにモリモリ食べてね」

「はぁ。どうもありがとうございます」

「あんたは何歳になりなさると?」

「僕ですか?」

「あんたしかおらんやん」

「22です」

「22⁈」

お婆ちゃんはちょっと目を見張った。メイも同じくビックリした。

「彩芽ちゃんに比べて大分若いんですねぇ…」

「私も、同い年くらいかと思ってました…ごめんなさい。先入観で…」

「彩芽さんはおいくつですか?」

「あんた知らんと?」

「あの人ももう今年いくつになるのかな…」

「メイちゃん、あんたは幾つ?」

「私より6個か7個上だったから…」

「36か7ね」

「エッ?ああ…そんなに離れてたのかぁ…」鹿島さんが今度はビックリして狼狽えた顔をした。「年上だとは初めから分かっていたんですが…女性の年齢って全然分からないものですね…」

「あんた彩芽ちゃんと付き合っとったんじゃなかったと?」

「3.4年一緒に暮らしてましたが…」

「そらいつの事?」

「僕が高校を出てから、つい半年ほど前まで…」

「あんたんとこにおったんかぁ!そんな長い間?」

お婆ちゃんはしみじみと鹿島さんを見詰めた。

「はあぁ、そぉねぇええ。そんな長い間一つ所に?はぁああ!…あん子はその間は元気やったんですね?あんた優しそうな良い好青年やもん。あん子は幸せやったでしょう」

「今どこに居るか分かりますか?」

「分かりません」お婆ちゃんはメイをチラッと見た。「あんた知っちょる?」

「私が知るわけないじゃん」

「そやろな。誰も知りません」お婆ちゃんは2度言った。

「昔からあん子はどこにおるんか分からん子でした。フラ〜ッとどこからか現れて、『お婆ちゃーん、お金貸して〜』って言うこともあれば、『お婆ちゃーん、これ食べた事あるー?』とか言うて、珍しい変わったお菓子やらどっかのお土産のスカーフやら花の種やらハイカラなもん持って来てくれて。2、3日泊まって、1週間後の花火大会一緒に行こうねとか約束しといて、またいつの間にかおらんようなっちょるんです。フッと消えたようにいのうなるから、こっちがせっかくあん子の好物のロールキャベツ今夜は煮込んじゃろ思うてその用意しちょっても、その夜に食卓に現れんのです。時には、ただ居なくなるだけじゃなく、ガレージから自転車がのうなったり、車がのうなったりして、ちょっと大変な事もありました。昔はね。

あん子も学生時代はそう言うても、月に一回とか半年に一度とか顔見せに帰って来てくれよったんですが、成人してからはねぇ。羽が生えたようにますます自由気儘に生きるようになってしもうて。ここ数年は顔を見せにも来よりませんでした。そこへ、ひょっと来られたのがあんたです。」

「…はぁ」

「まぁ、そう言うても、それも仕方の無い事かも知れません。あん子の親達はあん子がまだ母親のお腹の中におるうちから喧嘩ばっかりしちょりました。くっついたり離れたーり、くっついたり離れたーり。ねぇ。本人たちはそら退屈せんでおもしろーてええか知れんが、生まれてきた子にとっては迷惑ですな。ちょーっとしたことですーぐあっちへフラフラ、こっちへフラフラと、見知らぬ土地へ連れ回され、母親と住んでるところを父親に見付かって母ごと連れ戻されたり、母に手を引かれてまた逃げ出したり、放浪生活したり、母は母でよう子を育てきらんのに連れて出るもんだから、また自分の身内のどっか、友達の家やら新旧の別の男の家やら職場やらへあん子を預けて仕事へ出るんですな。ここにもよう預けに来よりましたわ。この家はあん子の母方のジジババの家ですから。そうして父親がまたヒョッと攫いに来よるんですわ。幼稚園とか小学校の帰り道とかに。そうしてまた父親も父親で、自分一人ではよう育てながら働けんき、攫っときながらまた自分の身内のどっかへ預けよったみたいですたい。新旧の彼女やら自分の親やら、職場や友達の家やらへ。あん子を。ね。」

「はぁ…」鹿島さんは右の眉の尻尾をカリカリ右手の人差し指の爪で掻いた。

「だから昔っから一つ所へ留まって落ち着いて生活するという事をした事がない子なんですよ。彩芽って子は。」

「なるほど」

「あんたみたいな真面目で良さそうな男ん人がここへ彩芽ちゃんを訪ねてくるとは、だから、思いもよりませんでしたよ。ねっ?」

お婆ちゃんは突然メイに話題を振って来た。

「うん、そうかな…」

メイも思わず咄嗟に頷いた。

「爺さんも私も、彩芽ちゃんの事には赤ちゃんの時分から気を揉んできました。この子は絶対ぐれる、まともに育つ要素がない、とみんなで心配して。ところが酷い迷惑をかけられる気で、その用意をして待ってるつもりでいたら、あん子はただ消息不明になり、迷惑すらかけに来てもくれない。どちらかというとここでずうっと面倒見て育ててきた孫たち、このメイちゃんやお兄ちゃん達の方が時期が来ると口が悪くなったりドアをバーンと荒く開閉したり煙草を吸いだしたりする普通の可愛い反抗期が来て、それからまた大人になり優しくなりましたよ。彩芽ちゃんはずっと婆には当たりは優しいまんま、ただ会いに来てくれないところは一番冷たい子です。子どもは自分が受けた通りを世に返すと言いますが、その通りですね。あん子は小さい時から自分の面倒は自分で見てきた。幼い頃は賢い子に見えました。何でも一人でできるから。ただ、他人が困ってても知らんフリ。大人になってもそれが続けば、半人前な未熟な大人です。いつまでもあん子は子どものまんまです。自分一人の力ではどうにもならん壁に直面するとシュルッと逃げ出す癖がついてしまってる。他人に頼らないかわり、人を助けもしない。逃げ道ばっかり幾つも増やして、一本通った本筋がない。…あん子はずうっと一人でふらふらフラフラ生きていく気なのかと思っとりました。人間、一人で成し遂げられることなどたかが知れているのに。やっぱり可哀想な子に育ってしまったなと。あん子の母親も父親の事も見限らずにずっと口酸っぱく言い続けて来たつもりでしたが、婆の影響力なんぞ無きに等しいものです。

だから、もしもいつかここに彩芽ちゃんの消息を知らせに来る人がいれば多分それはお巡りさんとか、それともヤクザ家業の人かどっちかだと思ってました。」

メイは(おばあちゃんもおんなじこと考えてたのか!)と思った。思わず声に出た。「確かに…」

「…そうですか…」

全員がしばらく口を噤んで、この場にいない一人の女性に思いを馳せた。

「じゃあ、僕はどこを探せば良いんでしょう?ここの他に?ここを出たら僕はどこへ向かえば…?」

「あんたお仕事は何なさってるん?」

「今は運送屋でアルバイトしてます。この春に大学を出て、就職が決まったんで引っ越すんですが…彼女の荷物がまだ家にあって…」

「とりあえずここへ持って来なさる?」

「でもおばあちゃん、」メイがすぐ横から口をはさんだ。「ママがどうせ捨てちゃうよ。ここに住んでる人の、まだ使うって言ってる物まで『使ってるとこ見たことない』って言って捨てちゃうんだから。」

鹿島さんの方へも向いてメイは言った。「うちのママが今、断捨離にはまっちゃってるんです」

おばあちゃんは鹿島君の顔を見て言った。

「あんたの事を思って言うなら、彩芽の婆が言うのもなんですが、あんたはあんたでご自分の道をちゃんと考えて、これからの引っ越した先での自分に必要ない物はこの際、捨てて行きなさったら?未練を切って。…ここに置いてあった彩芽の荷物も、今は一つも無いと思いますし。もともとあん子は自分の持ち物への情も薄い子でしたよ。他人様からの貰い物を着て来て、このメイちゃんと交換して行ったり。…もしも縁あってもう一度再会するようなことがあれば、その時に、また一から二人でデートして着替えなりお揃いの食器なり増やせばよろし。その方がまた楽しかろうもん。あんたも自分の幸せを考えなさって。ね? …彩芽の心配をしてくださるのはそら嬉しい事ですけれど…」

「花は貰っていただけますか?」

「花?」おばあちゃんは目を丸くした。「はぁ。良いですけど。何の花?」

「それがよく分からないものもあって…植木鉢に最初はなんか説明書きが差してあったりしたんですが、風に飛ばされたのか無くなってたり…あと花も咲かなくなっちゃって葉っぱだけになったやつとかもあって…」

「あんたそんなもん捨てれば良いのに…まあ良いわ、彩芽ちゃんらしくて。本当に小さい子どもの頃はよくどこかよそ様の家の庭から盗んで摘んできた豪華な大輪の百合の花やら謎の種やらを婆にプレゼントしてくれよりました。あん頃は人形みたいに可愛らしかったけど、やっぱり普通の子とは違って…喧嘩となったら命懸けで体の大きな学年も上の男ん子にも牙をむいてかかって行って勝って泣かして帰って来よりましたよ。肝が据わっちょう言うんか、恐れ知らず言うんか…あちこち怪我して血を流しながら、ニヤニヤ笑て。向こうの親が叱りに来ると分かるとふ~っと消えていなくなりよるんです。ほとぼりが冷めた頃またポッと現れよるんです」

「学校はどこへ通ってたんですか?」

「通ったり通わんかったり。一回ちゃんとここでうちらで面倒見ようって、爺さんと息子夫婦と家族会議して、あん子が小学生の頃にきちっと手続して学生服もランドセルも全部揃えて、ちゃんとこの家から通ってまともな教育をつけられるよう、やってたんです。半年ほどは。あん子もしばらくは朝起きれんとかみんなで同じことするのが苦痛だとか子どもは煩いとか学校まで距離が遠いとかブチブチブチブチ文句垂れとりましたが、だんだん慣れてきたかなぁと思って見守っていた矢先、父親がレンタカーで学校に乗り込んできてカナダでフランス人のお母さんと暮らそうとか言うて連れ去りました。そっからまた長い長い裁判です。戸籍もウロウロしちょります。」

「あっちこっちの学校へ通ったり通わなかったりですか?」

「そうです」

「うわぁ。そうかぁ」

「小学校の低学年くらいまではあん子も、親に振り回されてあっちへ引っ張られこっちへ引き摺り戻され、振り回されて言いなりになっちょりましたが、高学年になってくると今度は自分でどこへなりと行きよりますからね。母親の家に居ないときは母親は父親のとこへ行ってるんだろうと思い込んでるし、父親も自分のとこにいなければ母の家に居ると解釈しよる。互いに連絡して確かめ合うほど仲も良うないし、それに、もう親たちもあん子から関心が薄うなってきちょりましてん。そん頃には親は親でまた別の相手と付き合ったり忙しくて、あん子が自分の元に居てくれない方が都合が良うなって来たりしちょりましたから。人間、年はとっても、子どもと同じです。自分が一番可愛い。自分にとっても受け入れたい、そうであって欲しいちょうど良い嘘つかれるとすんなり信じよる。『どこ行っちょったん?』『お父さんとこ』『あ、そう』てなもんです。『その鞄も靴もまた新しいの買って貰ったの?お父さんから?なんで誕生日でもないのに?そんなわけないでしょう…』なんて話が長くなりそうな面倒臭い事には気が付かない振りして目を瞑っとく。

そして、そのうち今度はこっちから提案しだす。『お前、週末はまたお母さんとこ行っといてくれないか?ちょっとこっちは用事があるから…』って。あん子もようわきまえちょりました。『お母さんも私に居て欲しくないらしいよ。どうしよう?私もいなけりゃいいのにって思われてる家には居辛いからさ。お小遣いくれたらどっか適当に友達んとことか泊めてもらいに行くけど?』って、金せびるのがやたら上手になりましてねぇ。まだ小さいのに。親も小遣いを渡しておけばちょっと心苦しさから解放されるからか、手っ取り早くて面倒臭くないからか、ピュッと袖の下みたいな小遣い渡してやるんですね。渡さんと勝手に盗みよるしね。

 結局、あん子は悪い仲間と早うから知り合いになって。私も何遍か拘置所へ迎えに行きましたよ。

『あんた捕まるようなことするなよ、親を泣かすな』って言うてやりましたら、あん子は頭を下げてしおらしい事言いよりました。『ごめんね、婆ちゃん、迎えに来てくれるのはお婆ちゃんだけ。今度から捕まらないようにする。』って。あん子を見たそれが最後です。むしろ捕まってくれちょった方がまだ安心ですたい。『捕まらんようにする』ちて!全然改心しちょらんとです。そばってん、子どもでも必要な場合がありますから働く場が全く無いというのもいけない事のように私には思えましたね。(ああ法律もこん子の敵になっちょるとか…!)と。未成年でも真面目に働ける働き口がすぐにあればあん子もまだ改心できる余地があったかもしれんばってん、子どもが働くのをこの国は禁止しちょりますからね。真っ当な働き口がないから日陰の働く場所しか選べない…気丈な子ですから下手に出て大人から小遣いをせびるばっかりではやりきれず、盗んだり悪事に手を染めて自分一人で生き抜こうとしてしまうんでしょう。

…姫路駅前のサーティワンでアイスクリーム二人で食べて、それから「バイバイ、」言い合うて、またどっか分からんとこへいなくなる細い肩をホームで見送りました。「どこ行くん?婆ちゃんとこへ来ない。今日だけでも?」ち誘うたばってん、「いい。とりあえず東の方へ行く。神戸か大阪かどっか」ち言うんですたい。頭はたいて引き摺ってここへ連れて来てもどうせ出て行く子です。私も他の孫らの面倒も見なけりゃなりません。あん子一人に全力を注いでやる事はできんやった。今でもよう寝る前やらに思い出して考えてしまうとです。あん時やっぱりああした方が良かったかなぁ…とか、…いやもっと前に…どうした方が良かったかこうしといたら良かったか…とか。考えだしたらキリがありません。どこで間違えたんか。あん子んためにもっとできたことはあったはずやろと…自分が情けなくてね。子どもを育てるのは二周目やのに…

 子どもはどんどんすくすく成長します。今しかない、そこは間違っとる、正してやらな、と思った時すぐそうしてやらな、タイミングを逃すとそのままごんごん突き進んでいってしまいよる…もう手の届かんとこまで…

『捕まらんようにする』ち…一体…今頃なんをしよんやろか。考えとうもない…」

「彩芽さんは何の容疑で捕まったんですか?」

「…」おばあちゃんは鹿島さんをぼんやりとした遠い目で眺め直した。さっきからそこにいたのを忘れていたみたいに、ゆっくりとピントが合うのを待って、やがて重々しく再び口を開いたときには、ちょっと声が余所行きの声に変っていた。

「…身内の恥ですけん。私もちょっと熱くなって口が滑りました。証拠も不十分で正式には一遍も捕まったことは無いとです。私の知る限りでは。…でもあんたんとこに居た時は大人しいしとったとですよね?あん子は?」

「そうですね…僕も…僕の知る限りでは…」

「そら良かった。一時でも人間らしく真面に愛し合える人と暮らせて…あん子も幸せやったでしょう。…ありがとうございます。あん子にかわって祖母が心から感謝します」

「いえいえ…」涙もろいおばあちゃんがポロポロッと皺皺の手の甲に涙の雫を落としたので、鹿島さんは慌ててオロオロ椅子から腰を浮かせ、半分逃げ出したそうな、半分手を差し伸べたそうな様子であたふたしていたが、実際的でもあるおばあちゃんの涙はそれ以上には落ちなかった。皺皺の手をこすり合わせて皺の中に潤いを染み込ませると、「あんた、もう帰んなさい」いきなり天然なところを全開に出しておばあちゃんがケロッと(話はこれにて終了!という声音で)言った。

「ここに来ても彩芽ちゃんのなんも見つからんち、もう分かったやろもん?」

「ああ、はぁ…」

「じゃあ、帰んな。雨が降り出す前に」

「雨が降るんですか?これから?」

「降るち言うとったよ。あんた朝のニュース見ちょらんと?傘は?」

鹿島さんは首を横に振った。窓の外を全員が眺めた時、まるで呼んだみたいにザーッと雨が降り始めた。

「あーあー…」おばあちゃんの目がメイに向いた。

「あんた傘持ってこん人を駅まで送って行ってあげ」

(えー私がー?しょうがないなぁ…)という表情を作ってメイが立ち上がり、鹿島さんに頷いた。

「お構いなく!大丈夫ですよ!」

「一緒に行きましょう?ちょうど犬の散歩になりますから」

大人しく床で寝ていたトムがギクッとした顔をしてサッとこっちを向いた。


 雨がザーザー降っていたので、駅まで歩く道々、二人は最初のうち二言三言会話しようと試みたものの互いの声がよく聞き取れず、話すことは諦め、それぞれの傘の下、ただ一緒に同じ道をテクテク歩いた。

狭い道で車が差し掛かった時だけ、鹿嶋さんはメイを庇うようにして車道側を自分が歩いてくれた。

 メイは黙って自分を歩道の奥へ、車道側から遠ざけるように導いてくれた鹿嶋さんの、シャツの袖を折り返したところから出ている逞しい腕に目がチラチラ行ってしまった。

「次は何のお仕事をされるんですか?」とか、「引っ越し先はどこですか?」と聞いてみたい気がした…(彩芽ちゃんがもしかフラッと現れた時に、こちらから連絡が取れるように…)という口実を添えて。でも本当は自分が鹿嶋さんを気に入ってしまっただけなのかもしれない…。駅に着いたら鹿嶋さんは帰ってしまい、もう二度とこちらから連絡を取ることはできなくなる。切ないなぁとメイは思った。

(だけどこの人は忘れられない彩芽ちゃんを追いかけてここまで来たんだもん…)

(昔から私は彩芽ちゃんその人や彼女の持ち物に憧れ続けてきた…ねだったら彩芽ちゃんはすぐに何でも私にくれた。前回に欲しいと言ってたネックレスや髪留めも、次に来た時にはもう持っていて、既に使って飽きてるみたいだった。それでも私は欲しがった。「良いなぁ、頂戴…」と言うとすぐくれたのは、もう彩芽ちゃんにとっては興味が無くなった品だったからなのかもしれない…でも彩芽ちゃんは「自分のお下がりを欲しがるメイちゃんが本当の妹みたいで可愛い。愛しい。大好きだよ!」とよく言ってくれていたんだ…)

とメイは思い出した。

(彩芽ちゃんは次々に新しい物、欲しいなぁと思ったものを全て手に入れては、一つの物をとことんまで大事にするということが全くできない人だった。昔から多分今も変わらず。いつも私の方がお下がりを大切に扱い、長持ちさせて使いこなしてきた。一度などは、「絡まってもう解けないし鬱陶しい、いらない、」と言って彩芽ちゃんが捨てようとしたブレスレットをメイはもらい受け、時間をかけて縺れたところを丁寧に解いて、曇ったガラスの飾りを一つ一つ磨いて、腕にいつもつけていた。すると何年か経って、いつものごとくフラ~っと現れた彩芽ちゃんがふとメイの手首に目を留め、「そのブレスレット可愛いね」とちょっと羨ましそうに言ったので、メイは驚いて「これあや姉から貰ったやつだよ」と教えてあげた。彩芽ちゃんは本気で忘れていたみたいに「えっ?そうだっけ?」と言っていた…そんなこともあったんだった…)

(私は彩芽ちゃんの物だったものがいつも欲しかったんだ。それが今も変わらないのが…なんだか悔しい。今でもまだ、彩芽ちゃんの目を自分の目よりも高く評価して、その目に適ったものに安心感を得て、それでそれ以外の物よりも彩芽ちゃんが一度でも欲したことがあるものを自分も欲しい、という発想に至るからだ…まだ私も彩芽ちゃんに憧れているんだ、彩芽ちゃんのセンスにまだ憧れ続けているんだ…あの時にはあんなにもガッカリしたのに…)

とメイは思った。

(「私も彩芽ちゃんについて行く。一緒に行く。」と言って譲らなかった日のことだ…

「家出する!」メイは彩芽ちゃんの腰にしがみついて断固譲らずに言い張った。

「連れて行って!」と。

「あたしもう子供じゃないよ!」

「ここより彩芽ちゃんと一緒に行きたい!」

「連れて行って!!」…

彩芽ちゃんが品定めするような、メイの根性を本物かどうか見抜こうとするような、どうしようかと迷っているみたいな表情をして、ちょうどこの今歩いている駅までの道の途中で、立ち止まって頭の中で何やら考え始めたらしいのに気が付いて、メイは本気度を激しくアピールするために言い募った。

「私も彩芽ちゃんみたいになりたい!!彩芽ちゃんみたいに生きていきたい!!将来何になりたいかって、学校で聞かれたの。作文にも書いたんだよ。彩芽ちゃんみたいになりたいですって。」

ちょっと嘘も混じっているけれど、ここは多少のハッタリも必要な運命的場面だと幼心にも気が付いていたのだ。

メイは小学4年生で、あの時も今みたいな夏休み中だった。五つ歳上の彩芽ちゃんは当時のメイの目には、学校に拘束されていないもう完成された大人に見えていた。

「お小遣いは持って来てるの?」彩芽ちゃんは誰も周りにいないのに少し低めた声で聞いて来た。

「うん!全財産持って来た!」

「ふうん。いくら?」

「七千円!」

「ふうん。七千円…それじゃあ帰りの切符が買えないよ?」

「片道切符で行くもん!彩芽ちゃんと一緒の仕事して稼ぐから大丈夫だよっ!それに帰り道なんてまだまだずうっと先のことだもん!」

メイは(それが可愛い)といつも彩芽ちゃんが褒めてくれるぷうっと頬を膨らませるあどけない表情をわざと自覚しながらやってみせた。

「どこまでも彩芽ちゃんについて行くもんっ!」

「ふうん。じゃあその全財産一回私に預けて、もう七千円お家に今から走って帰って取って来な」

「えっ?」メイはビックリして彩芽ちゃんを見つめて立ち尽くした。

「でもまだお小遣いの日じゃないからくれないよ?ママもお婆ちゃんも…多分…」

「それが試練じゃない?これから生きていくために絶対に必要になってくることだから。巧いこと言って騙し取って来るも良し、黙ってこっそりヘソクリの隠し場所からパクって来るも良し。どうでもいいから、さっさとやって?私も待つの嫌いだし。早く。」

彩芽ちゃんは右手を手のひらを上に向けてメイの顔の前に広げた。

「今持ってる全財産寄こせ?」

「はい」メイはポシェットから白い羽が生えた黄色とピンク色の水玉模様の豚の貯金箱とパウダーブルーのガマ口財布を出して彩芽ちゃんの手のひらの上に載せた。それからクルッと後ろを向いて振り返らずに家に走って帰った。

 お婆ちゃんは鼻に眼鏡をかけて上のお兄ちゃんの靴下を繕っていた。修繕した靴下なんてお兄ちゃんは絶対履かないのに。ママはまだ仕事部屋で誰かと会議中らしい。ドアの中からそんな声が漏れていた。メイはママの仕事部屋とお婆ちゃんが居る居間の間の階段を上ったり下りたりしながら短い時間で素早く頭をフル回転させた。

(…盗むか巧い嘘を思い付けるか?お金が今すぐ欲しい理由に無理がない自然な嘘でなくてはいけないし、面と向かってそれを口にする時は演技力も問われる。嘘を吐くのがダメなら忍びやかな実力行使で七千円を手にする道を自力で切り拓かなければならない。手の届かない台所の食器棚の上の方の湯飲み茶碗の中に隠されたブツを得るためには、まず居間のお婆ちゃんが座っているテーブルから椅子を引き摺らずに持って来て、それに乗り、… …駄目だ。居間のテーブルにおばあちゃんがいる。その時点でアウトだ。いくら縫い縫いに集中していようとて!そっ、とこっそりお金を持ち出すことは今はできないっ…!)とメイは判断した。やり方は一つに絞られた。

(そうだっ!「今すぐ学校に持って行かなくてはいけない部費の事を言うのを忘れていた!今から直ちに学校にもって行かなくちゃいけないんだ、部活の夏合宿費用!」…って、言おう!!)片方の道が塞がれた瞬間に、まるで霧が晴れたように罪悪感も迷いも吹っ切れ、嘘の口実をでっちあげる一つの出口へと一気に全エネルギーが集中したせいか、道が開けた。これでいくしかない、と開き直りの肝も据わった。

 メイは冷静におばあちゃんに歩み寄った。こんなに落ち着いた心境で大慌ての演技が自分にはできるのかと驚きだったけれど、猿芝居の間中ずっとメイには三人の自分が存在するように一部始終が見えていた。

一人は演技中のメイ。取り乱し蒼ざめ迫真に迫る演技力を発揮している。もう一人は演技中のよりもなお蒼ざめ取り乱しているメイ。今にもおばあちゃんに「下手な嘘をつくな、なんでお金が欲しいか言ってみろ」と即効バレて叱られるに違いないと怯えている。そして三人目のメイは、二人のメイを冷静に少し後方上空から眺める事ができ、客観的にどちらのメイが優勢なのかを見極めようとしている…

「ヤバイ!おばあちゃん!どうしよう!忘れてたっ!!今日部活で夏合宿の部費集めるんだったんだ!七千円ある?今からすぐ学校行かなくちゃ!!」

 おばあちゃんは縫物をしていた手を止めて、真っ直ぐメイの目を見つめ、疑う必要性についてさえ疑問の余地をさしはさむ間もなく、実にあっさりとあっけなくコロッと簡単にメイのその場しのぎのでっち上げの嘘に騙された。(後から、「まさかこれまで嘘ついてまでお金など盗った試しのないメイが嘘をついてるとは考えも及ばなかった」とおばあちゃんは振り返って語った。)

「おお、そうか!それはヤバイ!ほい!早よ行け!」

おばあちゃんはそう言って、大して本気では隠していないみんなにバレバレの隠し場所から一万円札を出し、メイの手に握らせた。

「お釣りが出んようにせないかんと?」

「いや、大丈夫。多分これで」メイはあっけなさすぎて、おばあちゃんの事が逆に逆ドッキリの仕掛人ではないかと疑われてくる疑心暗鬼を振り切り、「ありがとう」と慌てた演技のままで言うと、すかさず踵を返して彩芽ちゃんの待つ駅の途中の道端へと急いだ。一万円札を握り締めて。

 それなのに彩芽ちゃんは二人が別れた場所で待ってくれていなかった。メイは彩芽ちゃんが「ここで待ってる」と確かに言ってたはずの、青い細かな目盛りにクリーム色の地盤、黄色の三本の短い針に濃紫色の三本の秒針を持つ涼しげな顔をした時計草がゆらゆら、ゆららと風にそよいでこちらを見上げ見下ろしている丘の途中で、不安に駆られながら立ち止まり、それから早足になり、ふっと立ち止まって一度引き返しかけ、それからこっち、と決めて走り出した。一旦走り出してからはもう後ろを振り返らなかった。急斜面を下りきると、田んぼの中の道を左右をきょろきょろ捜しながらずんずん進んで、メイの顔ほどもありそうな水色と淡桃色の触れば柔らかそうな朝顔がふわふわ瑞々しい紙風船のように揺れてる田舎家の竹柵と、毎年秋になるとおばあちゃんが柿を分けて貰ってくる付き合いのあるお家と、怖い焦げ茶の大きなすぐ吠えかかってくる犬を庭で放し飼いにしてる広い敷地の一片の塀と、枯れてるのも青々してるのもごちゃごちゃにセイタカアワダチソウがぼうぼうに生えてる空き家と・・・の間の狭くヒンヤリした薄暗い道を駆け抜けた。

 駅までメイは迷いが生れる隙もない全速力で走り続けた。

 田舎の一時間に一本しかないローカル線を待ってベンチでビーチサンダルを履いた足をブラブラさせながら彩芽ちゃんは電車だかメイだかを待っていた。

「電車の方が私より先に来てたら乗って行っちゃってたんじゃない?」

とメイが多分そうだろうな…いやそんなことはないはず…と半信半疑の不審な目で彩芽ちゃんを睨みながら聞くと、彩芽ちゃんは

「そうだよー。」と別に悪びれる風もなく気楽に言ってのけた。

「それも運。電車が先ならメイちゃんは今回まだ早かったってこと。それより、七千円は?ゲットして来た?」

「ゲットして来たよ」

メイは彩芽ちゃんに一万円札を渡そうとした。彩芽ちゃんは首を横に振った。

「やったじゃん。言ったよりいっぱい。それはあんたが人生初自分で手に入れたお金だよ。自分で持っときな」

それから彩芽ちゃんはさっきメイから預かった豚の貯金箱とパウダーブルーの財布を自分の眩しいくらい真っ白なシャネルのチェーンウォレットから取り出して、中身のお金をミニスカートの上に広げて数えた。

「本当だ。七千円と二十五円。これはメイちゃんが怖気付いて『やっぱり帰りたいぃぃぃ』って言い出した時のために私が預かっとくよ。メイちゃんの帰りの電車賃」

そう言って彩芽ちゃんは自分の小さなバックにメイの豚をしまった。

「帰りたいなんて私言わないから」とメイは威勢良く言い返した。

「多分すぐ言うよ」パチンとバックルをかけ、ホームに滑り込んできた朱色の播但線のドアが開くのを見つめながら、彩芽ちゃんが口の中で言ったようにメイには見えた。

「絶対言わないっ!」駅の雑音に負けない声を張ってメイは言いつのった。


 二人で電車に揺られている間は、メイはまるで魔法にかかっているかのような夢見心地だった。

家出してやった!彩芽ちゃんとこれから先ずうっと一緒に居られる!これまで思い描いてきた夢が叶ったのだ。これまでずーっとどんな風に暮らしてるのか謎だった彩芽ちゃんの放浪生活に同行している。これからはメイも彩芽ちゃんのように、学校にも行かなくていいし何したって誰にも怒られない!何してもいい!何でもできる!街に出て、あちこちウィンドショッピングとかしまくって、学校では同じクラスの子たちがちまちま退屈な授業を受けてる頃にアイスでも舐めながら「次は何して遊ぼう?」と彩芽ちゃんと無限にある選択肢の中から自分たちで選ぶことができる。自由!どこまででも広がっている青い空のような。期限も宿題もない夏休みに突入したみたいだ。

メイは嬉しくて楽しみでニヤニヤ笑いが止まらなかった。車窓の外を飛び過ぎていく田舎の風景。メイにとっては見慣れた退屈なしょうもない日常がどんどん遠く離れて行き、播但電車は若い従姉妹同士を乗せて山裾をなぞり海の片鱗に触れ、次第に建造物の背丈は上に高くなり密度が増していき、青空は小さく区切られて、街の景色へと変わっていった。それでも変わらないのはまだ暮れない青い空の彼方にモクモク湧きたっている真っ白な泡立てたばかりのホイップクリームみたいな入道雲と目が痛いくらいに輝く眩しい夏空だった。

時刻は午後三時をまわったばかりだった。

「降りるよ」彩芽ちゃんがメイの手を繋いで二人は一緒に込み合う駅のホームに降り、行きかう人の流れに乗って、そのまま歩き続けた。

「ねぇ何して遊ぼ?」

「遊べるのは今夜泊まれる場所を確保してから。まずは乗り換えるよ」

エレベーターに差し掛かるまでは前ばかり向いてずんずん先を行き、話しかけても聞こえないのか、こちらを振り返ってくれなかった彩芽ちゃんは、エレベーターを歩いて登る人波の列さえ上から詰まってそれ以上先に進めなくなった時になって、やっと初めてこちらを振り返ってくれた。それまでメイは彩芽ちゃんのショートパンツの後ろのポケットの縁をギュッと抓まんではぐれないようにしながらキョロキョロ辺りを見回していた。彩芽ちゃんは一段上の段から見下ろした従妹の顔がニッコニコで溢れんばかりに期待と喜びに満ちて止められない様子なのを見て、取り出して確認しようとしかけていた携帯に目をやるのを後回しにして、メイのキラキラ輝く瞳を二度見した。そしてしばらく目が離せないように魅入り、思わず伝染したようにニヤニヤしだした。

「楽しい?」

「楽しい!すっごい!人生最高!」

「アハハ、若いって良いな」自分だって若い、と言うかまだ子供の彩芽ちゃんが前を向いてケラケラ笑った。繋ご、という風に後ろ手に手を差し出してきて、メイが早速その手を掴むと、彩芽ちゃんはスラリとした長いピカピカネイルを施した鋭い先端の爪の五本の指を大きく広げ、しっかりと絡め直してギュッと力を込めて繋いだ。まるで大切なものみたいに。その時メイにもチラッと彩芽ちゃんの心の隙間が垣間見えた気がした。(今までは彩芽ちゃんも実は一人で寂しかったり心細かったりしてたのかもしれないな、…昔おばあちゃんの家の前の砂場でお城を作ったり壊したりする遊びを欠伸まみれで付き合ってくれながら、『早く大きくなって一緒について来れるようになりな』って言ってくれてたのは本心だったみたいだ…)と感じた。(私もあやちゃんの役に立てるのかな、立ちたいなぁ…早く…)とメイは思った。

「どこに泊まるの?」エスカレーターを降りるとまたずんずん先を急いで歩き出した彩芽ちゃんの耳に届くように声を張ってメイはさっきの会話の続きを聞いた。

「まだ決めてない」彩芽ちゃんが答えた。「これから探す」

返って来た答えにメイはまたワクワクしだした。これまでママとパパとお兄達とパパの実家へお泊りしたり、家族で旅行に出掛けたことはあった。学校の合宿でキャンプしたことも、クラスの友達のお誕生日会でそのままその子のお家にお泊りした事もあったけれど、行き先が大人にも主催者にも誰にも分かってないような旅は初めてだった。『さすが放蕩娘の子は放浪娘だわ』…おばあちゃんが彩芽ちゃんについて言ってた言葉を思い出した。


 乗り換えた電車の中で彩芽ちゃんは忙しく携帯電話を弄りだしたので、メイは窓の外を眺めながら思い返していた。


彩芽ちゃんのママとパパはメイも小さい頃に見た事があって、凄く優しいか凄く怖いかのいつもどちらかな激しい二人だと思っていた。自転車に乗れる二人の兄達がそれぞれ自分達の学年の友達と自転車に乗って遊びに行ってしまい、玄関先の砂場でメイが犬と一緒に紐に繋がれて取り残され、駄々をこねて泣くのにも飽きて一人遊びしていると、猛スピードで走って来た派手な、この辺では見かけたことのない変わった車がうちの前で停まる。何やら喧嘩しながら降りて来るデパートの紙袋をどっさり抱えた彩芽ちゃんのママとランドセル姿の彩芽ちゃん・・・遠い日の記憶だ。涼しげな香水の香りをたなびかせた彩芽ママが紐に繋がれ砂場にしゃがんで片手にスコップを持ち目を丸くして珍しい人を見上げるメイの元へハイヒールを気にしながらピョコピョコ歩いて来て、サッとしゃがんで視線を合わせる。『彩芽ちゃんを何日か預かってって、おばあちゃんに伝えてもらえる?よろしくっ!』女の人はまたサッと立ち上がり、もう行こうとする。デパートの紙袋に入ったお菓子と娘をメイが繋がれている庭の木の根元に置き去りにして。メイの背後でガラガラッと小窓が開く。おばあちゃんが怒鳴る。

『あんた!ちょっと待ちない!ちょっと!逃げる気か?!金はぁっ!?子供預けるのにタダで済むと思っちょるとか?!またあんたの事や、引き取りにいつ戻って来るんかも分からんっちゃろ!こらぁ!』

彩芽ママはヘラヘラ笑いながらピョコピョコ走って逃げて行く。おばあちゃんが玄関口から走り出て来て、彩芽のママを捕まえる。またある時は、取り逃がす。

 彩芽のママは捕まると家の中でおばあちゃんと話し合い(という名の値段交渉)をする事になる。子どもを預かるのにどれだけの金がかかるか、金ばかりでなくどれほど老体に労力がかかるかとお婆ちゃんは主張する。彩芽のママは彩芽のママで、孫の顔を見るためなら婆がいくらでも金を払うという家だってあるのになどと言う。最初から喧嘩腰の二人は二言目には地響きの鳴るようなキンキン声の怒鳴り合いを始める。閉めた窓の外にもその声は響き渡って聞こえてくる。

「あんたふざけるなよ、デパートの菓子ごときで母親が騙されると思うな、馬鹿垂れが!娘預けるのに菓子で済むか。金を寄こせ、金をぉ」

「糞ババァ、そっちこそ舐め腐りやがって。幾らじゃ言うてみぃ。」

「あんたが何日あん子預けるかにもよるばってん、十万とりあえず置いていきない」

「はぁ?高々2,3日預かってもらうだけの事やんか。金取ろうとすること自体ががめついのに何をぬかしてけつかるん?人の足元見腐りやがって…!」

「なんが2、3日か!?日数もよう数えんのか?!この馬鹿女は?!この前にあん子置いて行った時は2,3日どころじゃなかったやろ!何ヶ月置いて行ったと思っちょるん?それに、あんた、また良い服着ちょるが、あん子はいっつもおんなじ服。いつ見ても!それも、今日見たが、ありゃあ、この前にここにあんたがあん子預けて行ったときに可哀想にあん子が、もう小さすぎて臍が見えそうな汚いTシャツ着ちょうき、あたしが爺さんに町まで車出して乗せて行ってもろうて、買ってやった服やないの?あれだけか?またあん子の着替えは?無しか?着た切り雀か?あんたの一人娘は?

 あんた自分には着きらんほどブランド物の服しこたま買いよるとにあん子に着せるもんは買う暇がないん?あんた自分が産んだ子が可愛くないん?」

「あたしだって子供の頃そんなに着替え持ってなかったわ。よう思い出させてくれたのう!?恥ずかしい時代遅れの継ぎ接ぎの服着させられて学校行きたくなかったの思い出してきたわ!恥ずかしい!あたしは自分の子にそんな思いさせたくないねん!あの子だって私のドレスやワンピース着て喜んどんねん、こっちでは!いっつも!でもここではジジババが気に入らんやろ思て『ジジババがビックリして腰抜かさんような子供服買っておいで』言うて金渡したねん。その金あの子がどうしたんかあの子本人に聞いてみてよ。あたしだって働きながらやれるだけの事あの子にしてあげよるつもりやわ!働いたことがない良いご身分のお母さんとは違います!あたしは!」

「ほおぉ?よう言うたな、この尻軽女が!ホイホイ男について行って媚び売って、それがあんたの言うろくな仕事か!?社会のゴミクズが!親の面汚しめ!あんたには二度とうちの家の敷居を跨がせんわい、あん子にも二度と会わせん。あんなに痩せーて!服も買うちゃらん、食べもんもろくなもん食わせてやってないっちゃろ!?あんた、ろくな仕事もしてないし子育てもできてないやん。なーんもできてないやん?人間のすることもできてなけりゃ、動物でもすることすらできてない。燕でも見てみない?雛に親鳥が日が昇ったら日が沈むまで朝から晩まで餌運んで来て一生懸命食べさしよろうが?猫でん犬でん親は子供のためにお乳飲ませよろうもん。あんたは鳥よりも犬猫よりも以下じゃ・・・」

「黙って聞きよったらええ加減なことぬかしやがって・・・糞婆ぁが・・・なーにがうちの家の敷居は跨がせん?やねん。はぁあっ?笑かさんといてくれる?ちゃんちゃら可笑しいわ!こんなちんけなおんぼろ小屋に貧乏家族が犇めいて暮らして、敷居も糞もあらへんがな!あたしに置いて行かせるお金でここの家族全員が食べるもん食べれとんのとちゃうの?嫁も嫁で計画性もなく稼がん旦那とようボロボロボロボロ子供ばっかり作りよるな?お盛んに。犬猫と違てホモサピエンスには避妊って方法があるの、あの子等は知らんのやろか?面倒見切れるだけの、自分らが生んだ人間の子供らにしっかり今の時代の教育最後まで受けさせてあげれるだけの、身の丈に見合うほどのいくら稼ぎがあるんかお母さんは聞いて知っとんの?しっかりしいや?お母さんも!あたしから毟り取らな取るもんもあらへんとこからはそらなーんも取れへんもんなぁ?哀れな一家!」

「あんた・・・そこら辺にしちょきないよ・・・嫁や弟のこつまで・・・あん子等はあんたと違って、真面目にコツコツ働いてジジババも心配してくれちょる・・・」

「何がよ?自分らの稼ぎじゃ暮らせへんからここへ家賃も払わず住んどんやろ?自立でけへんもん同士が共依存して成り立っとんねん、このボロ小屋は!」

「おい、なんを言いよっちゃが・・・?」ついに二階の自室からお爺ちゃんが階段をのしのし踏みしめて降りてきて母娘・妻娘の対決に参戦しだす

「おう、来ちょったんか。どら娘が。何かさっきから下で声がしようと思うちょったが。またお前、彩芽ちゃんを置きに来たとか?俺に一言の挨拶も無しか?お前、ついこの前も、泣きながら彩芽を引き取りにここへ来たときに置き土産になんて言うて帰ったか覚えちょるか?『もう頼らん』、『もう二度とここには来ん』ち。お前言うたんぞ!娘預からしてありがとうの一言も無しに!あれから何ヶ月か?ようノコノコと、どの面下げて来れたもんや?あん時も言うたが、お前、二度とここへは来るな!もう金輪際、死ぬまで彩芽には会わさんぞ!今すぐ出て行け!」

「ちょっとあんたは黙っちょって。」お婆ちゃんが冷静な声でお爺ちゃんをいなす。「出て行くんはええけど金置いていって貰わんこつには話にならんき。今その大事な話しよっちゃから。」

「金なんか一銭も受け取るな!こげなやつから!」とお爺ちゃん。「このど阿呆娘が。お前なんかうちの娘じゃねぇっ!とっとと、今すぐに、出て行けっ!」

「あんたええ加減なこと勝手に決めんといてくれる?」とお婆ちゃんが今度はお爺ちゃんに牙を向けだす。

「『預かれ預かれ、金は貰うな』、ち、この前もそげんこつ言いよったが、誰が面倒見ると思いよると?自分は日がな一日二階でタバコ吸うて髭抜いて寝転んで新聞読んでテレビ見て。『飯はまだかー?』ち。なーんも増えた孫の面倒見腐らんが。口だけは達者な事言うてけつかるが。あん子が喧嘩して噛み付いた家の親御さんに謝りに行った時もあんたは車から降りて来んやったんと違う?忘れたとは言わさんで?『何時間かかっちょうとか?』ち、『女同士は話が長ぇのぉ』ちて。あたしが一人で菓子折持って噛まれた子供にも土下座して泣き真似の一つもして、やっとこさ、話つけて車に戻ったら、えぇ?自分は暢気に車ん中で鼻くそほじりながら相撲の中継やら見腐って・・・!」

「・・・相手ん子はそげん怪我しちょったとか?・・・」お爺ちゃんのか細くなった声。

「そらぁ・・・あんた!・・・包帯巻いちょったんをわざわざ解いて向こうさん、見せてきたけど、あらぁ噛み痕が一生残るかも知れん、くっきり歯形が楕円形に・・・」

「それいつのこと?」と彩芽ママ。

「半年も経たん、12月やったかいな?・・・」

「どこ噛んだん?彩芽はその子の?」

「喉よ。あたしが見せられた時は血はもう止まっちょったが、青紫色の痣もできて痛そうに腫れ上がって、目も泣き腫れて・・・」

「相手ん子は男ん子と違うかったか?」とお爺ちゃん。

「おうよ。ここら辺一帯で一番のワルソの、来年中学生に上がる体ん大きい糞ガキたい。彩芽ちゃんよりも体も学年も倍も大きい。」

「へぇえ・・・」なんとなくお爺ちゃんは、彩芽ちゃんを誇らしく見直したような空気感の溜息を漏らした。

「まぁ普段から悪ソばっかり働く評判のこの辺の番長やったき、年下の体も小さい女ん子に泣かされて喧嘩も負けて家に逃げて帰って、相当悔しかったっちゃろ。大人に怒られるよりも薬にはなったとと違う?」

「ちょっと待ちんか。」と彩芽ママ。「その男の子は彩芽ちゃんに何をしようとして喧嘩になったんか、お母さん、そこんとこ追求してくれへんかったん?なんで体の大きい男の子と華奢で顔も可愛らしい彩芽ちゃんを二人きりとかにしてくれとるん?彩芽ちゃんに何事かあったらどうしてくれるん?どう責任取ってくれるん?喉を噛むて、上に乗られて両手押さえられた女の暴れる最終手段ちゃうの?」

「お前は自分の娘が今何歳か、知っちょるか?」とお爺ちゃん。

「さぁ、多分・・・8歳やったんと違う?」

「9歳やろ?」

「10歳じゃ馬鹿垂れどもが。子供の喧嘩やき、いずれにしろ。相手ん子も大事にはしとないみたいやったき、親の怒りが修まったらもうなかったことにしてくれたけど・・・」

「お前も、自分が生んだ子供の歳くらい覚えちょけぇ」お爺ちゃんが彩芽ママをなじる。「何年前自分が生んだかやろもん」

彩芽ママが鋭いキンキン声で噛み付き返す。

「お父さんだってあたし等の歳が何歳かとかなんて一回も覚えてた事なかったやんか!あたしらが子供の時から!『お前等、何歳になったとか?学年は?』って、たまに日曜日家におると思ったらそこから会話が始まりよったやんか!いっつも!自分にできひんかったことなんでもかんでも人にはできるようになれとか、言わんといてか?!偉っそうに!それに、さっきから臭いし!」

「何をぉ?お前・・・それはわしが家の外で45年間まいんちまいんち、お前等のために一生懸命働いてきたから・・・」

「あたしは今も働いちょんですけど!」とお婆ちゃん。「あたしはこれから昼ご飯の支度して洗濯もん取り込んで夕方から雨が降り出す前に卵買いにスーパーへ行ってそれから晩ご飯の用意しないかんったい!放っちょっても目の前にお膳が出てくるあんたとはわけが違うんです!時間がないと!あんたと結婚してからこのかたずうーっと!引退がないわけ。一生死ぬまでこれからもあんたの三度の飯炊くんはあたしん仕事!洗濯もん干すんも食器下げて洗いもん洗うんも町内会出て溝掃除するんも!引退した爺さんは自分で自分の世話もようしなさらんき!もうあんたには誰も意見求めてないと!話がややこしくなるき、あんたはちょっと引っ込んじょきないっ!」

「・・・」返す言葉を失ったお爺ちゃんがすごすご退室していく、スリッパを引きずって歩く音がズルズルと近寄ってくる。妻と娘の親子喧嘩に割って入って、威厳ある一家の主として、お婆ちゃんの肩を持ち、一声で喧嘩を収束させるつもりだったのが、味方したはずのお婆ちゃんからも邪魔者扱いを受け藪蛇になるわで、ションボリしゅん太郎になってしまったのだ。

 メイと彩芽ちゃんがしゃがんで手とスコップで砂のお城を築きあげている砂場の上の窓をガラガラ開けて、お爺ちゃんが白髭の顔を出し、孫娘二人を見下ろす。叱られた灰色の犬のような情けないハの字眉毛の顔で「へっ」と笑う。なんとも言えない哀愁漂うもさもさ眉毛の下、二人の幼女を見つめる目尻がしわしわでいっぱいになり、胡麻塩の無精髭に囲われた口元がムズムズするように動いて、ニヤリ・・・と笑う。

 彩芽ちゃんとメイは顔を見合わせて、ニヤリと笑い返す。

「アイスクリーム食うか?」ヒソヒソ声で聞いてくる。本当は、犬に自分の皿から食べ物をやってもお婆ちゃんに怒られるし、孫にアイスを勝手にやっても嫁に怒られるのだ。お爺ちゃんは。この家では子供は一日に一回しかアイスを食べてはいけないルールになっているから。でもお爺ちゃんだってせめて犬とか孫にくらい何かしてやる立場になりたいのだ。

「うん。食う」と優しい彩芽ちゃんが頷いてあげる。メイも秘密を分かち合う悪い顔になりながら頷く。本当にアイスクリームは食べたいし。・・・でも体がでかくてノソノソしたお爺ちゃんにできるだろうか?居間で喧嘩している二人にバレずにこっそり階段裏から回って台所に侵入し、冷凍庫からアイスを持ち出して来るというミッション・・・?この家の子供達なら全員その技には長けているけれど・・・

お爺ちゃんは窓辺から離れ、家の奥へと引っ込んで、見えなくなった。メイは窓の中へ視線を投げている彩芽ちゃんと視線を合わせようとした。

「あやちゃんちには砂場ある?」

「さぁねぇ・・・」

「この前集めたマルムシ王国、めっちゃマルムシ増えたよ。見る?」

「んん・・・」

「ちょっと待っててね!」

メイがお婆ちゃんに貰った古い炊飯器のお釜を隠し場所まで取りに行って、両手で胸に抱えて走って戻ってくると、お爺ちゃんも窓辺に戻ってきている。嬉しそうにニコニコして大きなしわしわの手にキャンディーアイスをブラブラぶら下げている。

「ほら、すぐ食え。アッちゅう間に溶けるぞ」

そして分厚い縦に線のある爪の節くれ立った指で透明の包装を剥いて窓から差し出してくれる。透き通った橙色のパイナップル味、黒いつぶつぶのあるキウイかメロン味。一番目と二番目に美味しそうな赤いスイカと水色のソーダ味はお爺ちゃんがくれるつもりがないらしい。自分の方へ寄せて窓枠の内側に置いてしまった。年下のメイが先に選ぶのを彩芽ちゃんは待ってくれる。

 二人は砂のお城の門に使うためにアイスの木の棒をお爺ちゃんに返さない。証拠隠滅を図ろうとするお爺ちゃんに「ゴミを寄越せち!」と何度腕を伸ばして催促されてもニヤニヤ首を振って断る。暑がりで寒がりで面倒臭がりなお爺ちゃんがこんな糞暑い灼熱地獄の炎天下に家から外へ絶対出てこないのを二人とも重々承知しているからだ。腕の届かないところに居ればお爺ちゃんなんて屁でもない。

「俺がやったち、言うなよ?約束事ぞ?」とついにお爺ちゃんは根負けして、お婆ちゃんと彩芽ママの足音にドキッとした顔をして、悪いことをした犬のような顔で部屋の入り口を振り返り、「じゃあな」と言って腰を上げた。

「彩芽ちゃん、ここでいっぱい食べて。できるだけここにおれよ」最後に手招きに応じて彩芽ちゃんが頭を下げながら窓の側まで近づき、お爺ちゃんに髪を撫でさせてあげた。メイや兄達はおじいちゃんに絶対に頭など触らせない。犬がお爺ちゃんに撫でられるのも家族全員で悲鳴を上げて止めようとする。お爺ちゃんはトイレに行った後も手を洗わないで出てくるし、面倒臭がって何日もお風呂に入らず黄色くなったステテコを履いてるし、煙草ばかり吸って歯も磨かなくて歯も歯茎も真っ黒で、体も口臭もプンプン匂うからだ。でも彩芽ちゃんは変なところで凄く優しい気持ちを起こすから・・・


 お爺ちゃんがそそくさと退場し、さぁこれから砂のお城に地下トンネルを開通させようと取りかかったところで、バーンと玄関のドアが蝶番の吹っ飛びそうな勢いで開き、彩芽のママがデパートの袋を全部抱えて飛び出してくる。彩芽ちゃんの腕をもぎ取りそうな勢いでひっ掴み、ほっそりした体のどこにそんな力があったのか、彩芽ちゃんの踵も爪先もが地面から離れるほどの力尽くで抱えて引きずっていく。運転席に男のシルエットが見える、さっき降りてきた派手な車の方へと。

「あんた二度と顔を見せるな!彩芽ちゃんだけ置いていきっ!お前と一緒におらせたら孫が心配じゃ!」

とお婆ちゃんがさっきまでとはまるで二重人格みたいな真逆の叫びを上げながらつっかけで砂利を蹴散らし、彩芽のママを追いかけて走って行く。彩芽のママは後部座席に彩芽とお菓子を放り込んで自分は助手席に飛び乗り、急発進する車の窓から意地悪に歪めた綺麗な顔を突き出して、捨て台詞を吐く。

「優しい気持ちが1ミリでもあるかとオンドレに期待したあたしが馬鹿だったわ、守銭奴ババァ!」

「あんたなんか産むんじゃなかった、この淫売め!」

「とっとと死にやがれ、こっちだって生まれたくなかったわ、お前なんかから!」

メイはスコップを放り出して道路へ出て行き、遠くなって行く車とお婆ちゃんの後ろ姿を眺める。頭に血が上りきったお婆ちゃんは恐ろしく足が速すぎて、なかなか車がお婆ちゃんを振り切れず、悪口の応酬は近所中に響き渡りながら下り坂を物凄い勢いで駆け下りて行く。

「お前みたいなもんが出てくるち分かっちょったらこっちこそお前なんか生んでねぇわ、この迷惑娘が!連絡先教えぇ!」

「嫌じゃ!誰が教えるか!だあぁぁぁぁぁぁぼ!!」

「こん糞ガキゃぁあああああああ!!」

ついに車はスピードを緩めずにカーブを曲がって見えなくなり、肩を怒らせてしばらく道の先を睨み付けていたお婆ちゃんが鬼のような顔をしてブチブチ言いながら坂をのしのし上がって戻ってくる。その頃にはとっくに庭に引っ込んでメイは黙々と砂の城にお堀を掘るのに忙しくしている。俯いて、鬼とは目を合わせないようにしている。

お婆ちゃんはうちの敷地から飛び散った砂利を蹴って戻し、メイの前を通り過ぎるときに、

「あんたも泥んこで汚れてまぁまぁ、汚ぇこっちゃ!」と頭を強く押さえるように撫でて家の中に入っていく。窓からはとげとげしい鼻歌が響いてくる。いつもよりガチャンガチャンと荒々しく戸棚を開け閉めし掃除し始める音がする。


 それから日が暮れ、メイの二人のお兄ちゃん達が部活や習い事から帰って来、ママとパパ達が帰ってきた後で、夜も更けた頃に、時々ぷらりと彩芽ちゃんが一人でデパートのお菓子を手にぶら下げ、戻って来て玄関のチャイムを鳴らすこともあった。


 また、翌朝早くに、まだみんなが二階の寝室で寝ている時間に、なんとなくふと目が覚めたメイが居間に降りて行ってみると、ソファで彩芽ちゃんが犬と一緒に寝ていたこともあった。

(どうやって家の中に入ったんだろう?もしかして昨日の夜に私たち子供が寝させられた後で呼び鈴を鳴らして来てたのかなぁ?)とメイは思った。

揺り起こすと、彩芽ちゃんは眠たそうに目をゴシゴシこすりながら教えてくれた。

「この家の窓の鍵はチョロいんだよ。見ててごらん。」

そう言ってメイの兄達が自転車を留めている裏庭にポンと裸足で飛び降りると、中に居るメイに窓を閉めさせて、そこからもう一度メイの目の前で鍵のかかった窓を開けるやり方を実践して見せてくれた。彩芽ちゃんはただ、両手で窓枠を掴み上下にガタガタ揺すっただけだったが、それで差し込み式の錠は上に上にずり上がっていき、ポロンとあっけなく簡単に外れた。十秒もかからずに。こんなことで良いのかとビックリするシンプルさで。

「お婆ちゃんが毎晩夜寝る前に必ず点検して回ってるんだよ。全部の一階の窓とドアの鍵。『閉まっちょるか?閉まっちょるな、よし』って声に出して言って。」

「そら意味ないことやってるね。でもこれからもさせてあげよ?これやってれば安心って信じ込める習慣って大事だからね。安眠のために」

・・・

・・・

 

 これまでどこから来てどこへ居なくなっているのか、本当はいつもどこに住んでるのか分からなかった彩芽ちゃんと、ついに寝食を共に行動して、同じ場所にいつもいることができるのだ・・・と大人びた憧れの人の涼しげな横顔を見つめながらメイは期待に震えていた。


 「次の駅で降りるよ」

携帯電話のやり取りから顔を上げた彩芽ちゃんがパチッと目を合わせてメイを見た。

「今から紹介したい人に会わせるけど、あんたは黙ってニコニコしてれば良いから。あたしの言う通りにして、ウンウンって可愛く頷いて、細かいこと間違ってても訂正しなくて良いから、全部話し合わせて?」

「分かった・・・」

メイはいきなり彩芽ちゃんと二人きりでなくなるのがちょっと不満だったけれど、まぁいいや、とすぐに気分を持ち直した。聞き分けの良いところを見せようと笑顔は崩さなかった。

「誰と会うの?」

「優しい大人のお兄さん。色々言うこと聞いて親切にしてあげたら、親切にし返してくれるから。欲しい物とか何かある?」

「欲しい物?」

突然そんなこと言われてもメイにはすぐに思い付けなかった。彩芽ちゃんの目を見て小首を傾げた。

「あんたのその癖、良いね。ちょっと困った顔して首を傾げるの。可愛いよ。変にベラベラ喋るよりも。それは使えると思う。ここぞって時に繰り出すんだよ。」

メイは気恥ずかしくなって首を真っ直ぐに戻した。彩芽ちゃんは電車を降りるとまた前を向いてずんずん歩き出し、メイの手を引いて早口に喋った。

「・・・欲しい物なんて別に無くたって良いんだけど、考えるだけは考えといて。何も貰わないじゃあ相手も気が引けるし、可愛いなって思っても貰えないから。基本的にお金のやり取りは私が最初はやってあげるよ。でもそれはそれ、これはこれ、プレゼントはオマケじゃなくて、結構本気度の表れの気持ちの物だから貰った方が良いからね。一応最初はブランドの物言うと良いよ。ダメ元でも。自分じゃ買えない、相手もちょっと奮発しなきゃいけないくらいの物おねだりするくらいが丁度良いんだよ。それ買ってもらえなくたって、ちょっと格が落ちても、それに近い物もらってあげればあちらさんも一応納得できるんだし・・・」

「何の話?これから買い物に行くの?」

「まぁ・・・そんなとこかな」彩芽ちゃんはチラッとメイの目を振り返って見つめた。気遣わしげな疑るような不安の色が滲んで見えた。

「いま口で説明してもなかなか分かんないよなぁ・・・こういうのはぶっつけ本番でどう出るかだから・・・」

むにゃむにゃ何やら独り言を言い出した。

「あんた、可愛がってた近所の猫がいたじゃない?いつの間にか居なくなってたって言ってて、あたしも一緒に名前呼んで探し回ったのになぁ、思い出せない・・・ほら、大雨の日に死んで溝から流れて出てきたって言って大泣きしてた・・・あの猫の名前何だった?真っ白な毛が汚れてるのは死んで初めて見たって言ってたじゃん、ほら・・・」

「ハナちゃん?」

「そう、華ちゃんか。それでいこう、あんたの今日からの名前ね?間違えないように今からずうっとあたしあんたのこと華って呼ぶから」

「ウン・・・」メイは(この年になってオママゴトごっこでもなかろうに・・・)とちょっと異様な雰囲気を感じ取り始めながらも素直に頷いた。

「華、あんた彼氏いたことある?」

「同級生には仲いい子いたよ。青柳君とか、戸田君とか。卒業式の次の日に同窓会して、・・・でもなっちゃんが二人とものこと好きって言うから、譲ろうと思ってて・・・」

「ああ、いいや、そういう話。今いらないわ。分かったわ、大体ハナの男関係の進み具合は」

「ウ・・・ン」メイは少しムッとしながら口をつぐんだ。彩芽ちゃんもしばらくムッツリと静かになっていたけれど、やっと口を開くとこんなことを言い出した。

「不安になってきたな・・・華ちゃん成績表では頭は悪くないらしいし可愛い顔もしてるのにやることなーんもやってなさそうだね」

スイミングスクールも英語の塾も子供用ワクチンもやれと言われたことは全部受けてきたし、嫌いなグリンピースもこの頃は言われる前に最初に食べてしまうから、周りの大人達は苦手を完全に克服したと思い込んでいるほどだ。できない子だとか後れた子だなんてメイは今まで滅多に言われた事が無かった。

「やることはやるよ。今までやったことないことも頑張ってすぐ覚える。物覚え悪くないもん」

「まぁ、そうだね。今から心配しても無駄か。・・・適正の問題だからな・・・」彩芽ちゃんは一旦納得する事に決めたみたいだった。

 二人はたくさんある改札口のどれか一つを出た。さっきまでは迷い無くすいすい歩いているように見えた彩芽ちゃんも、天井や柱の地図や表示を見たり携帯電話でどこかに電話をかけたりするのに端によって立ち止まったり、軽快に歩いていたのが突如立ち止まって今来た道を引き返し出したりするので、行き当たりばったりにどこへでも良いからただ歩きたくて歩いているのではなく、目的地があって、そこに向けてどう進んで良いかに迷っているようだとメイは気が付いた。

「私たち迷子?」メイが彩芽ちゃんのミニスカートの端を引っ張って聞くと、電話中の彩芽ちゃんは人差し指を唇の前に立てて「シッ!」と言った。これでは普通の大人と一緒に居るのと同じで、つまらない。

「こっちだって。8番出口」彩芽ちゃんがまた元気を取り戻してメイの手を握ったとき、一瞬メイは反抗的な態度を取ってやろうかと内心で考えた。でも簡単には家出をやめたくない。自分から彩芽ちゃんについて行くと言って連れてきて貰ったのに、すぐ帰ると言い出したのでは次からが二度と無い。そう考えて、意地になりそうなふてくされた気分を引っ込めた。

 地下街を手をつないで8番の矢印を目指して進み、かすれてきた赤い西日の差す地上に出ると、道を渡ったところに留まっている黒い車の中から「おーい」と男の人が手を振って待っていた。いきなりメイの胸の中で嫌な予感がサイレンのように鳴り出した。

 小学三年生の時に、登下校中の同じ学校の一つ上の学年の子が黒い車に乗った人に誘拐されかかった事件があった。通りかかった大人が親ではなさそうな大人と子供の不審な会話を立ち聞いて、通り過ぎずにその場に居たので一大事にはいたらなかったが、もしも誰も通りかからなかったら・・・という回覧板やら全校集会やらが開かれ、その年から体育館で婦警さんを招いての防犯強化週間とか護衛術マスター朝練とかが始まった。

 誰も「もしも・・・」の先、車で連れ去られた子がその後どんな目に遭わされるのかは、はっきりと具体的には教えてくれないのに、ただ漠然と恐怖心だけ煽られて、とにかく恐ろしい目に遭うのだ、とだけはメイも染み込まされて覚えさせられたのだ。

 彩芽ちゃんはちゃんと学校に通ってなかったから怖い目に遭うことを知らないで自ら進んで車に乗り込もうとしてるんだ・・・とメイは思った。

 車のお兄さんしか見ていない彩芽ちゃんと繋いだ手が引っ張られ、メイも立ち止まって尻込みしたままグッと握りしめた手を離さずに引っ張り返したので、二人は歩道の上で一瞬綱引きをしているような形になった。

「何よ?華!約束は?今更なに人見知りしてんの?」彩芽ちゃんが振り返ってビックリした顔で怒り始めた。

「知らない人の車に乗っちゃ駄目なんだよ、彩芽ちゃん」

「私のことはノアちゃんて呼んで・・・!て言うかあんたは何も喋らなくて良いから、教えたとおりに・・・」

「なんで?やめようよ、変なあだ名とか、訳分からない危ないことするの」

「じゃあんた帰りな。今すぐ!」彩芽ちゃんはさっき二人で出てきた地下鉄の入り口を指さし、それから肩にかけたシャネルのバックの留め金を片手で開けようとし始めた。焦っていたためか、何故か、手を振り解こうとはせずにますます固く握りしめたままで口でだけメイを突っぱねようとした。

「腰抜けとは一緒に居られない。幼稚な豚の貯金箱持って、私に迷惑かけないうちに・・・」

バンと車のドアが閉まる音がして、二人はハッと口を閉じて道の向こう岸を見た。四車線の車道の向こうでお兄さんが車から降り、車の流れの途切れ目を見計らってこちらへ走り出す体制に入っていた。なかなか爽やかな大人の男の人だ。35歳より上ではなさそうだと、パパ以外の大人の男の人をあんまり見たことが無いメイでも思う。

「行こうよ、彩芽ちゃん、あの人がこっちに渡って来る前に・・・」

「礼儀正しくして・・・!」彩芽ちゃんは歯を食いしばって怒った。「失礼の無いように!私の言ったとおりにして!お願いだから!」

「こんちには、お嬢さんがた。何を揉めてるのかな?」爽やかにふさふさした前髪をかき上げて少しばかり走ってきた乱れを整えながらお兄さんが二人の間に割って入ってきた。自分の見てくれが悪くないことをよく自覚している人の一つ外しすぎてるシャツのボタン。

「あ、こんにちは。むつみさん・・・」急にトロンとした従順そうな優しげな目になって彩芽ちゃんがメイの手を離した。

「この子が一緒に来たいってずっと前から言ってた子で・・・」

「言ってたね。前から。確かに可愛いな。君に良く似て・・・従妹?」

「いえ、全然血のつながりは無いんですけど。顔の系統は似てますかね。昔住んでた家から近かった幼なじみで。華ちゃんです」

「ふうん?名字は?」

「何が良いでしょう?考えてあげてください」

「なるほど。本名は教えないって事か。だとすると華ちゃんって言うのも既に偽名の可能性が濃厚だな。用心すると言うことを覚えたのか、君もいっちょ前に。賢くなりやがって」

むつみさんは彩芽ちゃんを片腕で抱き寄せて自分の胸にギュッと押しつけ、髪に唇を当てながら、余っているもう一方の手をメイの方へ差し出してきた。

「行こう。喉が渇かない?とりあえずスタバの新作でもお二人には飲んで貰って・・・もう飲んだかな?メロンと桃。僕は両方もう味見したよ。ドライブスルーで良ければ・・・移動しながら話そう。いつまでもこんな道端に用はない・・・さぁ」

メイが差し出した手をいつまでも受け取らないのに爽やかに肩をすくめて、逆に目と口の端で温かくニッコリ笑いかけ、別に意にも介さないようにむつみさんは腕の中の彩芽ちゃんの向きをくるりと回転させ、車に向かって軽やかに走り出した。ちょうど少し先で信号が赤に変わったところだった。車の流れも穏やかだった。このままでは置いて行かれると分かって、メイは慌てて二人の後を追いかけた。

 車に引っ張り込まれると言うのでは無かった。全然。まず微笑を絶やさない男が助手席のドアを開け、彩芽ちゃんが乗り込むのを待って、「閉めるよ。良い?」とちゃんと聞いてからそっとドアを閉めた。そして後部座席のドアを開けて絶えない微笑みを今度はメイに向けて輝かせ、どうぞ、と言う風に頷いた。車の中から背もたれにもたれて彩芽ちゃんがこちらを黙って見ていた。メイは彩芽ちゃんの目を見つめながら車に乗り込んだ。


 その後のことを思い出すとちょっと現実じゃないみたいにしか考えられない。あれは全く夢だったと今では考えることにしている。時々、あのとき撮られた写真は今もどこかで誰かが見られるような状態に保管されて残ってるんだろうかとか・・・でもあの時とは顔も今と違っていて、もし仮にあの映像を見た人が成人した今の私と擦れ違ってもきっと気付かないはず・・・とか、心が丈夫で前向きに考えられるときになら、思い出してしまっても(気にしても仕方ない)と意識の外へスーッと送り出すことができる。(今はこれに集中しよう、)と、どうせやらなければいけない仕事を目の前に広げたりして。

 でも、くよくよとどうにも変えようが無い過去のことで頭を悩まされて眠れない夜も未だにある。もうあの直後ほどに深刻では無かったとしても、漠然とした不安が鮮明な記憶を呼び戻しそうになる寝苦しい夜が・・・

 それでも、今では、日中に立ち働いている最中にフラッシュバックに襲われて過呼吸になったりなどと言うことは無くなった。


(私は大人になった。あれから乗り越える時間は十分に貰った。もう大丈夫だ・・・もう大丈夫・・・)とメイは激しい雨が打つ傘の下から前をゆったり歩く鹿島さんの背中を見て思った。

(彩芽ちゃんの知り合いだというこの人とでさえ、今の私は普通に話すことができたんだし・・・)


 駅に着くと、鹿島さんは傘を畳んで振って滴を落としてから、返そうとしてきた。

「持っていてください。まだこの雨は今夜中降り続く予報ですから」とメイは受け取らなかった。

鹿島さんが乗る電車を待つ間、メイは一緒にベンチに座っていた。何を話すでも無くの15分くらいの時間だったけれど、父親と兄弟以外の男の人とその近さに一緒に居られたのはあれ以来初めてのことだった。

 多分、この人が一番欲しがってる情報はあのときの私の体験かも知れない・・・とメイには分かる気がしたけれど、とても人に話せる内容でも無く、自分にとってもまだ落ち着いて筋道立てて整理が仕切れていない話だった。

「これまでにも色んな人に会ってユキの消息を尋ねて来たんですが・・・」と鹿島さんはポツポツ語った。

「みんな女の人は簡単には人に話せない過去を持っていて、そこでユキや他の女の子達と繋がっているような気もしてきて・・・いきなりぷっと目の前に現れた僕という初対面の男にそうそう簡単に打ち明けられるもんじゃないのかもしれない・・・そういう深いところへ僕はいきなりずけずけ踏み込んで行こうとして、女性が一番つつき回されたくない痛い傷口のような場所を嗅ぎ回ってるんじゃ無いのかと言う気が、最近してきてるんです・・・」

「何故そう思うんですか?」(この人勘が鋭いな・・・)とメイは思いながら聞いてみた。

「なんとなくだけど、女の人全員が言いたいことの半分も僕にそのままは言えなくて、そして僕も聞き取ろうとするけれど半分もよく理解ができなくて、その上に、もともとの秘密の半分以上は何か人が一生涯口から外へ出さないでいる事によって生きていられてる、みたいな、それほど大事な秘密ももしかしたらあるんじゃないのかと・・・・僕の探してる人も彩芽さんも・・・二人は同一人物なのかも知れないし、全くの別人なのかも知れない、だけど、二人に共通する部分は、捜されるのも見付け出されるのも、全然本人達は望んでないんじゃないのかなぁ・・・と・・・

・・・どこかで野垂れ死んでるんじゃ無いのかとか、死ぬほどのことになったときには流石に僕にもすがりついて来てくれるんじゃ無いかなぁとかも、色々想像したり心配したりするんだけど、あの子にはあの子なりのプライドとか変に据わった肝とかがあって、そもそも最期には野垂れ死ぬつもりでそういう生き方してるのかしら・・・とか思えたり・・・

考えるだけ無駄なのかも知れない、と虚しくなったり、でも他の自分の事何かしようとし出しても、やっぱり手につかなくて集中力が直ぐに途切れて、あれ、俺こんなじゃなかったのになぁ、もっと昔は・・・とか思ったり・・・

でも本人達はなーんにも考えずに僕のことなんか綺麗さっぱり忘れて、むしろ僕と一緒に居たことを忘れたい過去に数えられるような良い暮らし今はどこかでしてるのかも知れないし・・・」

「そうですね。」メイは暗い大人の世界へ早く自分を引きずり込もうとした彩芽ちゃんの最後に見た子供の頃の姿と、それから大人になってからお婆ちゃんに会いにお婆ちゃんの好物の梨を贅沢なデパートのリボンをふんだんにかけた籠いっぱいに持ってきたりしていた相変わらずの都会風な従姉のますます洗練された出で立ちを思い浮かべた。『その香水どこのブランドのなの?』なんて会話のきっかけとしてメイの方から話しかけてみると、昔の気分を取り戻したように嬉しそうにすぐに鞄から取り出して、まだほんのちょっぴりしか使ってない金木犀の香りの香水を押しつけるように断るメイの手に握らせて、一瞬チラッと寂しそうな目をした。

「あの人は強い大人の女に早くから憧れて、早くからなりたいものになれていたような気はします。誰の力も必要としない気丈な性格で。環境があんな風にあの子を生み出し、作り上げたんだと思います。転んでも蹴飛ばされても砂を掴んで立ち上がり、私のために体の大きな男の子とも対決してくれました。『負けても負けても戦い続ける、勝つまでは負け続けでも良いから、いつか勝てるまでは挑み続けるんだよ。こっちから喧嘩売ってる間は負けじゃないんだから』なんて、口癖で。」

メイはいきなり自分がボロボロ涙を落としているのに気が付いた。鹿島さんがこちらを見ないようにして気付かないふりをしてくれているのが幸いだった。

「彩芽ちゃんを沼の縁から引っ張り出せるとしたら私だったかも知れないのにとは今でも思います。でもあの時の全力以上の力を振り絞っても、あの子自身があそこから出てきたがらなかったし、私は限界だったし、・・・私から見たものは地獄でも、あやちゃんにはそうではなかったのかもしれないし・・・

人って、強い力で必要とされる方へグイグイ引っ張られて行くのが必然で幸せなのかも知れないと思うんですが、あの時私と彩芽ちゃんを引っ張り合ったのはとにかく強すぎる地獄の怪物達に私には見えました。怪物達はうようよ無数にいて、真っ暗な底無しの深い闇の世界そのものが重力を持ってて物凄い力で彩芽ちゃんを引っ張ってるような・・・でも、彩芽ちゃんは喜んで求められる場所に居られて、まるでそこでしか咲けない貴重な花のような丁重な扱いで、楽屋にも溢れて入りきれないほどのゴージャスなお花や風船が彩芽ちゃんを待ってて・・・

あやちゃんは、あやちゃんのために仕立てられたドレスを着てあやちゃんが主役の舞台で踊ってたんです。

裸の腰に鈴を付けて。毎晩どこで踊るかは本人も知らずに、大人のエスコートに委ねてました。大体は地下何階かとか雑居ビルのワンフロアとかの、小さなバーとかショー・パブです。

 確かに彼女の舞台は見とれるほど綺麗でした。やらされてる感が滲み出てる他の子の演目とは大違いで。舞台袖から私は見てたんですが・・・あやちゃんが舞台に上がると、それまでとは違う特殊なスポットライトに切り替わり、白じゃなくて黒い光が丸く当たって、彩芽ちゃんの肌に普通の光では見えない技法で施された薔薇の入れ墨が浮かび上がるんです。足の指や甲から伝って這い上がる蔓薔薇と蝶のモチーフで、腰から胸にかけてまで花のつぼみが膨らんで、デコルテと肩の辺りにはまだ中に色を塗ってない下書きのデッサンがそれはそれで絵になる模様みたいに描き途中で。その線すら、角度によって光沢が変わっても見えて。あやちゃんは彼女のために運び込まれたサルスベリの木に絹のリボンをかけてスルスル登り、満開の花が咲く枝の上で蛇のようにクネクネ踊り、ブランコを漕ぎ、片足の足首を頭の上で両手で持ち、木の枝に結びつけたリボンに掴まって、妖精みたいにクルクル回ったりして、本当は隠すはずの秘部を曝け出して見せるんですが、動きが速くてちゃんとじっとよく見る事は誰にもできないんです。そうしてるうちに彼女は今度は更に高い枝に登って茂った葉と花の間に隠れて見えにくくなり、観客は身を乗り出し下から覗き込むようにして彼女の姿を目で追います。目だけで追うんじゃ我慢できなくて、中には客は立ち入り禁止の毒蛇模様のラインを超えて身を乗り出しちゃう人も居て、すぐスタッフに注意されるけれど、そういうのが彼女の演技に引き込まれてる印なんです。木の茂みはガサガサ揺れて、時々意外な場所からあやちゃんのピンと爪先を伸ばしたすらりとした脚や、指を狐の形にした腕や、お澄ましした表情の頭が、ピョコンと現れて、観客の誰かが「あそこだ!いたぞ!」と叫ぶと、スポットライトが遅れて彼女を照らし出そうとし、他の観客も最初の客の指さす方を探してだんだん発見者の数が増えてきて、「こっちだ!早く!照らせ!」と叫ぶんです。でもスポットライトが照らすとあやちゃんは眩しそうな顔をして、また茂みに引っ込んでしまいます。あやちゃんが木の上を移動する速度は速くて、まるで木の中に同じような手足の女の子を数人、あらかじめ仕込んでおいたよう。スポットライトは追い付けず、照明係は諦めて、両手のひらを上に向けて降参のゼスチュア。それでも更にスピードを上げ、彩芽ちゃんはより高い枝へと登っていきながら、すんなりとした綺麗な腕や脚をあっちからピョコン、こっちからピョコン、と茂みの中から突き出して、ひらひらリボンを振って観客や照明係を挑発します。別の照明係が彼女の姿をやっと丸い光の中に捉えた、と思った時には、手から離れたリボンがヒラヒラと光の中をはるか下の床まで落ちていくんです。物言いたげにスポットライトが床に落ちきるまでリボンを追いかけます。そして、彼女を捜索する照明係は二人から三人に増え、三人から四人に増え、そして仕舞いには最初の照明係が放って置いてもう動かしてない梢のてっぺんに彩芽ちゃんの姿がバーンと現れます。ニッコニコで両手を大きく振り回して、仰け反って落ちそうな振りをして片足まで大きく浮かせて見せ、また秘部を見えそうで見えないチラリズムで晒し、観客は二重の意味で響めきます。心配と、惜しい、あともうちょっと!という叫びです。梢の上でバランスを持ち直した彩芽ちゃんは客席の隅から隅まで投げキッスをふんだんに飛ばし、そして柔らかい体を二つ折りにして手早く足首にリボンを巻き付け、ピンと背筋を伸ばし直してもう一度キスを天井へ放つと、いきなりポーンと飛び降ります。何の予告もないので初めてこのラストを見た人は悲鳴も出ません。ヒャッと喉の奥へ息をのみます。私も目を瞑ってしまいました。でも、ゴチンとあやちゃんが床に落ちる音がしないので目を開けてみると、あやちゃんは今度は片足に巻き付けたリボンで天井から吊り下がり、シュルシュル音が立つような高速で回転しながら片足の膝を胸に抱え、床すれすれに額を擦りそうな目の前で回っているんです。もちろんちゃんとは秘部は見えません。ストリップと題打って最後まで見せなくちゃいけない場所をあんまりちゃんとは見せない、このことで、『ブラボー!』と叫ばないで怒り出す客もいれば、指笛を吹いて盛大な喝采を送る客もいます。観客は概ね賛否両論どっちかにキッチリ分かれます。『美しいから良し』『高度な技術に良い意味で裏切られた』と言う人も居れば、『サーカスの曲芸を見るためにチケットを買ったんじゃない』と言う人も・・・

でも私は彩芽ちゃんの演技中の生き生きした表情が他のどこでも見たことが無いくらいの本物の真剣な顔だったから、

・・・それだけなら、

彩芽ちゃんのやってることがそれだけなら、まだ私も納得できたかも知れない・・・だってストリップとは言えない演技でも見事で綺麗だったし、これは傑作かもしれない、法律的にはアウトでも、って、それだけなら思えたんだけど・・・

・・・嫌だったのは、目の肥えた観客の付け所の違う目線とか、潜めもしない下卑た内容の会話とか、チップを彩芽ちゃんのエスコートに払う時の感じです。自分の出番を終えると彩芽ちゃんは汗を拭いながら息を弾ませて控え室に戻ってくるんだけど、ハイヒールも王冠もそのままで水の入ったペットボトルを持ったエスコートと奥の鍵のかかる部屋に『もう一仕事あるから彼女には』って連れて行かれて。小さな肩に大人の大きな手が添えられていて、さっさと歩かされながら通り過ぎざま、私にはニッコリ笑いかけてくれて、まるでこちらを落ち着かせるみたいに頷くんですが、彩芽ちゃんもさっきまでの舞台での笑顔とは違う固い表情なんです。彩芽ちゃんが消えていった奥の部屋からは低い大人の声と、あやちゃんの腰の鈴が鳴る音と、他にも変な音が聞こえてきて・・・

・・・私は三日も家出していられなかったけど、夜寝るとき、二人で二段ベッドをあてがわれても、一応ジャンケンしてどっちが上の段を使うか決めた後も、私は彩芽ちゃんに抱きついて同じ狭いベッドで寝ました。いつ誰が役立たずの私を役立たせようと寝込みを襲いに来るかと怖くて。ずうっと泣きながら『一緒に帰ろう』って何度繰り返して誘っても、『帰り道は教えてあげるし豚も返したでしょ?』って、彩芽ちゃんは囁くんです。目を合わせようとすると向こうは目を閉じ、明かりを消すんです。『なんで技術だけでも十分客を魅了して場も沸かせる事ができるのにストリップなの?百歩譲って脱ぐのまでは良くても、なんでそれ以上もしなくちゃいけないの?』って聞くと、『そういうもんなんだよ、舞台に立つって。舞台裏でも何幕も演技しないといけないし、客に見せない裏の避けて通れない立ち回りもあるんだよ』って。『世の中は甘くないんだよ』って。

私が堪えきれずめそめそ泣き出すと、彩芽ちゃんも泣きたそうな顔にはなるけど、あの人はリアルには涙が流せない人です。使える涙しか流せない人です。泣けば辛い場所から救い出してもらえるかもと思える相手の前でならいくらでも泣くでしょうが、私の前では涙を流したことが無い人です。『泣いて解決できるなら私も泣くけど』と彩芽ちゃんは言いました。『あんたは朝になったら始発で帰りな。送っていってやれないけど。ごめん。』って、言われて、背中をさすってもらって、少し寝て・・・私は一人で家に帰りました。家に帰り着くと私が家出したことについては祖父母も両親もめちゃくちゃ怒ったんだけど、誰もいつも家出中で家出継続中の彩芽ちゃんの事は心配してないんです。『あの子にはもう二度とついて行くな』と言われましたが、私だって二度も同じ事をしようとは思えないです。彩芽ちゃんの現実が見えたからです。ふわふわ現実離れした世界に生きてるようで一番現実に日々直面しながら命知らずな芸をしたり生々しい戦いに明け暮れていたり、これならよほど勉強して一生懸命良い素行をしてちゃんと就職して親の言うとおり生きてた方が楽だとしみじみ身に染みて脳髄に叩き込まれました。だから私は家出から帰った後はそれまで以上に優等生になろうとしてきました。彩芽ちゃんのようにはなりたくない、というか、彼女のような生き方は自分には絶対にできないと分かったから・・・」

鹿島さんはよく分からないなりにも優しく頷いて話し続けるよう促してくれた。一度電車が停まり、ドアが開いたけれど、鹿島さんはベンチから立ち上がらなかった。メイは人差し指の背で涙を抑えた。

「まだ子供の頃は憧れでした。彩芽ちゃんの事は。大人びていて、いつも守ってくれて、自由で気ままで。どこへでも行けて。でも今は、可哀想な子供にしか見えない。いい年して、帰り道が無い迷子の子供のままのように思えるんです。人生の最初に、必要な時期に、ちゃんとした帰る場所が無かったから進み続けるしか無くて、突き進んで突き進んで開拓者みたいにどんどん行くばっかりだったんです。大人になってあの人は行動範囲は広がったかも知れない、もう大阪とか東京とか、大都市でも迷わずに歩けて、行きたい場所へはすいすい行けるかも知れない。でも、本当には大きな迷路の中をまだぐるぐる迷い続けてるだけなのかも知れない。自分の人生に最終目的地とか出口とか、ここまで来たらほっと一息つこうって言う達成地点を設けられないみたいに・・・」

鹿島さんは頷いた。

次の電車まではまだ長い待ち時間があったけれど、沈黙がメイには苦しく感じられなかった。

 従姉にくっついて家出したときの詳細のうち、鹿島さんに話したことと話せなかったことを頭の中で整理してみようとした。起きた出来事はもう十年以上も前のことで、話したのはつい今さっき。でも作り話をベラベラ話して、それは話すそばからもう忘れていってしまい、昔現実に起きた出来事の方も、もうやっとこれで忘れられそうな気がしてきた。

「僕が捜してる人と実はメイさんがお話ししてくれた従姉のお姉さんは別人かも知れないんですよ。」

鹿島さんはさっきもチラリと言ってたような事を再び言った。

「分かってます。彩芽ちゃんみたいな生き方してる女の子達も一定数いるのは私も知ってるし。」

「僕は自分が捜してる子の本名も知らないんです。何か、自分の彼女だと思い込んでた人のことで、知ってることがあったのかと考え出したら、全部あやふやになってきて・・・誰を捜してるのかとか、どんな子だったかとか、人に説明しようとしても僕自身もよく知らなかったことに気付かされるんです。ただ、彼女の荷物が僕の部屋にいっぱい残ってるだけなんです・・・」

「名前になんて大した意味は無いですから。鹿島さんが呼びやすい名前でその子のことを呼んであげてたなら、別に良いじゃ無いですか?」

「名前では呼んでなかったんです。それも心残りな事の一つで・・・僕の部屋に初めて泊まりに来たときに、彼女、僕に『新しい名前を付けて』って頼んできたんです。考えてみれば他にあの子にねだられた物はない。自分で何でも買える人だったから。この頃はずっと考えるんです。あの子、今は自分で自分の事なんて名乗ってるんだろう、誰に何て呼ばれたら振り向いてるんだろう・・・名前を付けてって頼まれたときに何で僕は真剣に考えてあげなかったのかなぁ・・・って。名前なんていつでも付けてあげられるし、ずっとそれで呼ぶとしたら結構大事じゃないかとも思えて、ついついずうっとほったらかしにして来てたんです」

「じゃあ何て呼んでたんですか?」

「『なあなあ』とか、『ちょっと、』とかって呼びかけて・・・本当に必要なときは結局ユキって呼んでたけど、それは僕たちが知り合ったお店での彼女の源氏名なんです。些細なことと思い込んでたけど、当時は・・・でも今から考えれば大事なことをずうっと後回しにしてきたのかも知れないなぁ・・・と思えて。

『新しい名前をあなたが私に付けて。今日からその名前で呼んで』って言われたのに・・・」

メイは頷きかけた首を最後には少し肩へ傾げた。

「置き去りにされてる荷物と結局は同じで、彩芽ちゃんがユキさんだとしても、結局大事なのは鹿島さんがこれからどうするかだと思います。捜し続けるんですか?これからもその子のこと?」

鹿島さんも変な首の振り方をした。ウン、とも、イイエ、とも、自分でもどうしたら良いか定まってないような、横に振ったのか縦に頷いたのか曖昧な。

 次の電車が来て止まり、鹿島さんとメイはベンチから立ち上がりながら顔を見合わせた。

「傘ありがとうございます。おばあさんによろしく・・・」鹿島さんはそんなことをボソボソ言いながら電車に乗って行ってしまった。シートには座らずに、ドア口に立ち、何か言い残したことがあったような気持ちのまま、お互いに閉まった窓を挟んで電車が発車するまで手を振り合っていた。

「彩芽ちゃんに会ったらよろしくと伝えてください」と言えば良かったかなあとか、もっと他に自分が何を言いたかったのかと考えながらメイは来た道を引き返して祖母の待つ家に帰り着いた。

 住み慣れた家の居間の中に立ち、ドングリを両手で持ったリスが尻尾をゆらゆらさせている古い時計を見上げると時刻は四時だった。お婆ちゃんは近所のお友達の家に行ったのか、鼻歌も聞こえてこない。家の中は誰もいないかのようにシンと静まりかえっている。メイは出たことがないこの家を点検して回るように一つ一つの古い品に目をとめて、ぼんやりと考えを巡らせた。女性で一人暮らしすると言うだけでも今のメイには怖い。ある地点までは私も彩芽ちゃんと一緒だったのになとメイは思った。

『私たちが大人になる頃には女同士でもきっと結婚できるようになってるよ』と二人のどちらかが言い出し、それからずっと約束していたのになと思い出した。『結婚しようね、ずっと一緒だよ。私たち』と。





続く


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