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お城  作者: みぃ
15/40

(6)-3


 ユキはまず部屋を突き抜けて歩いて、正面の窓を開けに行った。右側にハートの形の、お湯が噴水みたいに湧き出てくる浴槽がある。左手にはオリーブグリーンの柔らかそうなシーツがかけられたクイーンサイズのベッド。頭上にはクリスタルガラスの小ぶりなシャンデリア。

(良かった。今日使うのが清潔で可愛い部屋で。)

 部屋の明かりが灯るのと同時に、飾り戸棚の中にも小さな明かりが灯り、キラキラした何かが回転し始めた。何かなと思っていたけれど、近づくと、小窓の中の明かりの下で、陶器のティンカーベルが透き通った羽をパタパタ羽ばたかせ、オルゴールの音色と魔法の粉を振りまいていた。


 ユキは夢の中を歩いているみたいな気分だった。窓を開けてから振り返る。鹿嶋くんがユキの仕事部屋の中に立っている。まだ靴も脱がず、部屋の入り口から室内を興味深そうにキョロキョロ見渡している。

ユキはもう一度部屋を突っ切って、玄関の鹿嶋くんのところに戻った。

「靴を脱ぐとそんなに小さくなるんだね」

二人きりの小さな部屋の中では鹿嶋くんの小声が耳の中で木霊するみたいに大きく聞こえた。

ユキは借り物のハイヒールを持ち上げてお箸のような靴の踵を見せた。

「15㎝あるから…」

「竹馬に乗って歩いてるみたいなものだね。女の人って大変だなぁ」

「時々厚底の靴を履いてる男の人もいるよ」

「ふーん…ちょっと…そんなに近寄らないで…ちょっともう少し離れてて…」

何をモジモジしているのかと思ったら、鹿嶋くんは汚れた靴をあまり見られたくないみたいだった。底の擦り減ったぼろぼろのスニーカーを脱ぐと、今度は靴下が破れているのに二人同時に気が付いた。ユキは(可愛っ!もっと見たい…)と思ったけれど、鹿嶋くんの慌てように気付いてスッと見なかったフリをした。


 いつもはどんなふうにしていたんだったかなと、ふいに分からなくなりそうだった。これまではいつも、部屋に入るなりお客さんが抱きついて来たりチューチュー唇を寄せてきたりしていたから、ユキはそれを押しとどめつつシャワーを浴びてもらいにお風呂の方へ苦笑いで客を誘導していた。でも鹿嶋くんはそういうお客さん達と様子が全く違う。

二人は顔を見つめ合ってキョトンとしていた。

「僕はどうすれば良い?」とうとう鹿嶋くんに聞かれ、ユキはお風呂を指さした。

「まずシャワーを浴びます」

「服を脱いで?」

「…うん、そうなりますね…」

「恥ずかしいんだけど…」

ユキは頷いた。自分も恥ずかしい。いつも流れ作業的にもう何の感慨もなくやっていたことが急に恥ずかしく感じられる。

「私も一緒にシャワーを浴びるから…」

「お姉さんは、だって、慣れてるでしょ?」

グサッと来た。その程度のことなら言われ慣れて何も感じなくなっていたはずなのに…

「そうですね…」

ユキは恥ずかしさも何の感情も無いふりをして、自分の首の後ろで留まっているホックを外してストンとドレスを床に落とした。

(私は慣れてる。確かに。否定のしようもない。いつもやってるようにやればいいだけのことだ…恥ずかしくない)

そう思おうとした。

(相手が誰でも、他の人と同じように…一生懸命、目の前のお客さんを満足させてあげられるように努めればいいだけの事…いつもの手順で…)

ユキが裸になった瞬間、鹿嶋くんは一歩後退ろうとして壁に背中をぶつけた。目をチラッと盗み見てみた。ひかれてないか気になって。でも相手が何を考えているかは全然分からない。ただ目のやり場に困っているだけ、場慣れしてない男の子なのだと思うことにした。相手の服も脱がせてあげようとして、鹿嶋くんの雨雲みたいな色の繋ぎのジッパーに指をかけると、手を掴んで制止された。

「自分で脱ぐ。汗かいてるから…仕事終わりだから…あまり近寄らないで。」

作業着には運送会社のロゴが入っていたし、その下に鹿嶋くんは学校の体操服を着ていて、左の胸の上に“鹿嶋”と名字が学年のカラーの緑色で刺繍されていた。ユキはチラッと見てしまったけれど、鹿嶋くんが名前のところを鷲掴みにして隠したので、それも見なかったフリをした。


 階段で、黒服から耳打ちで“安田様”と聞かされていた。ユキにはなんとなく鹿島くんの遊び名の由来が分かる気がした。鹿嶋くんを気に入って助手のように使う数学の先生の名前が安田先生なのだ。

 鹿嶋くんは上半身だけ裸になれたけれど、その後は、何度も溜息を吐いて、両手の親指を体操服のズボンに引っ掛けたまま下に下ろす決意がなかなかつかないみたいだった。

「こういうお店は初めてですか?」

「うん」

「なるほど…」

「女の人の前で服を脱いだこともまだなくて…」

「噓でしょ?」

ユキは一年生の夏休みに目撃していた。出席日数が足りなくて埋め合わせに呼び出された補講の帰りに。夕暮れの薄暗い教室で、明かりもつけず、鹿嶋くんが彼女さんの頭を抱き締めて激しいキスをしているのを。彼女さんの肩や肘や踵がぶつかって、掃除道具入れの扉がガタンガタン音を立てていた。それまでユキは、淡々とそつなく学生生活をこなす物静かな学級委員長がそんなにも情熱的な人だとは思っていなかった。抱きすくめられて窒息しそうな小柄な彼女さんが羨ましくて、しばらく息をのんで見惚れていた。教室の明かりのスイッチに伸ばしかけた手を引っ込めて。細い脚の華奢な彼女さんは小鹿とか小動物みたいで、大きな鹿嶋くんに食べられているところみたいだった。二人の体が離れそうな時になってやっとユキは静かにその場を離れた。自分には経験することがないだろう清純な恋愛だと思いながら。

「彼女はいたことあるでしょ?」

「あるけど、ない…」

「ない?」

「彼女の前でも、服を脱いだことはないままで…」

「…なるほど」ユキは頷いた。

「一年半付き合ったけど、それでも。だけど、今ここでは、ついさっき会ったばかりの人の前でズボン下ろすのかと思うと、何か…感慨深いものがあるよね…」

「まぁ、…そうですね…確かに」ユキは腰のくびれに手を当てて少し考えた。

「じゃあ、こうしましょうか…」

手をひいてお風呂の前まで移動し、鹿嶋くんの後ろに回って、両手で自分の目を塞いで、言った。

「私目を閉じてるから、先にお風呂に浸かってください」

お風呂の蒸気はバニラの香りがし、湯は濃度の濃い苺ミルク色に染まっている。浸かったら下は見えない。

鹿嶋くんはチラチラこちらを振り返り、本当にユキが見ていないか確かめながら、渋々みたいにズボンを下ろして急いでお湯に浸かった。ユキは溢れる水音と気配と指の隙間から垣間見えた情景で状況を察した。手を下ろすと浴槽の縁に両手をかけて鹿嶋くんがこちらを見上げていた。

「向こうを向いて?」

ユキは溢れ続ける湯に膝を付いて、バスタブの外から、お湯の外へ出ている鹿嶋くんの肩や首筋に、濡れた手のひらに馴染ませたボディソープを滑らせて肌を洗ってあげた。他のお客さんに教えてもらった肩凝りのマッサージを取り入れてしてあげようとすると、鹿嶋くんはプルプル震えだした。顔を覗き込むと、笑いを堪えている顔をしている。

「こそばゆいですか?気持ち良くなくて?」

「うん、ちょっと…」

「それなら早く言ってくれたらいいのに。たまにいるんですよね…肩が凝らない人…」

「運動してるからかな」

「体質もあるかも」

ユキは自分の体にもボディソープをつけて洗った。鹿嶋くんはいつの間にかこちらを向いて、自分は恥ずかしがるくせに、湯の中で体を隠していながら、子どもみたいな興味津々な目付きでじーっとこちらのやることを観察している。

「ちょっとずるくない?」

ユキは噴き出して笑ってしまいながら言った。

「私だけ見放題…」

鹿嶋くんは慌てて向こうを向いた。

「ごめんなさい」

「別にいいんだけど…」

ユキは体を洗い終わり、鹿嶋くんの肩に手をかけて湯の中にそろりと入った。二人は同じ方向を向いていた。小さな珊瑚礁から見え隠れするもっと小さな熱帯魚の模様のタイル張りの壁の方を。

(自分が緊張していては駄目だ)とユキはもう一度自分に言い聞かせた。(ここでは私の方がリードしないと…人見知りなお客さんにいつも対応してるように…)

硬直している安田さんの肩にユキは顎を乗せて、後ろから腕を回して抱き締めてみた。

もともと緊張してガチガチな鹿嶋くんの腕が石像みたいにますます硬くなるのがユキの腕の内側や、胸やお腹にハッキリと感じとれた。

溢れ出る水音が静かになると、二人は同じ方向を向いたままで話し出した。

「意識してリラックスしてね?」

「うん。」

「深呼吸して?」

ユキの腕の中で鹿嶋くんの体が大きく息を吸い込み、少し止めて、またゆっくりと大きく吐き出した。

「じゃあ、こっちを向ける?」

「まだこのままで、何かもう少し話していようよ」

「いいよ」

「…」

「今日は仕事終わりなんだね?何か食べてきた?」

「えっと―…そう言えばコンビニおにぎり二つ食べたくらいかな」

「部屋にルームサービスをとることもできるから、言ってね?ちょっと割高だけど…」

「はい…いや、でも大丈夫です。先輩に連れて来てもらってるし、この後焼肉食いに行こうって約束してるから」

「肉好きなんだね」

「うん、まぁ…」

「今度一緒に行きたいな」

「…営業ですか?」

「…違うけど、まあいいや…もうそろそろこっち向ける?」

「いや、僕、考えたんだけど、今日は時間が来るまでずっとこのままで良いです。」

「このまま?」

「このままお喋りして過ごしたら…」

「顔も見ずに?」

「僕の顔なんか見たいですか?」

「見たいよ」

「えー…なんで?」

「なんで?」ユキは返事に困って鹿島くんの首に頭をもたせかけた。なんで?

「お姉さんは仕事だから、そりゃそう言うしかないでしょうね…ごめんね…あの階段でさっき、本当は選ばれたくなかったのかもしれないのに、優しくしてくれて…もう充分ですよ。

こういうところでどういう風にしてるのが普通か分からないけど、なんというか、…うまくやれそうにもないし、僕…そういう気分でもないというのは失礼かもしれないけど…お姉さんに魅力がないというのではなくて…何か嫌なんです。お金を払って内心嫌がってる人と無理矢理するみたいなのが。そんなの意味ないような気がして…だって中身がないじゃないですか?愛情とか、全然…」

「…」

「あの時やっぱり嫌がってましたよね?多分、他の人を選んで欲しくて、それで『もっと他の人も見て来て』って言ったんですよね?」

「ちょっと違うけど…」

「僕、一応、先輩に連れて来てもらったし、貴女を選んだんですが、社会勉強としてとか男として、一応こういうところがどんな場所か知っておきたいなって言うのはあったんです。前から。このお店って目立ってるしこの辺では結構知名度もあるじゃないですか?だから一度は来てみたかったんだけど、これで分かったし、もう充分ですよ。時間までこのままこうしていよう?」

「壁を向いたまま話して終わり?」

「お姉さんもその方が良いでしょ?楽な客だと思って、ちょっと気を抜いて過ごしたら?」

「…」

「…」

ユキは涙が湧いてきて、寂しくて悲しくなってきて、思わず鹿嶋くんの肩に唇をつけた。

「私、安田さんのこと好きです」

「仕事人ですね」

「違う。本当に。嫌々とか無理矢理とかじゃなく」

「だってそんなわけないじゃないですか?誰でも良いんですか?」

「それは違うけど…」

「僕たちさっきあの階段で初めて会ったのに」

「…そうだね…」ユキは苦しい気持ちになってきた。腕に力を込めてギュッと安田さんに抱きついた。

「でも大好きだった人に凄く似てるの、安田さん。去年まで三年間片思いしてた、高校時代の初恋の人に。」

「仕事熱心…」

ユキは身悶えし、細い腕を回して締め付けた鹿嶋くんを揺すぶり、二人は湯の中でゆらゆら揺れた。

「その人には気持ちを伝える事ができなかったの。その時から私ここで働いてたから,迷惑をかけたくないと思って。でもずっと凄く憧れの人で…安田さんに本当に良く似てるんです。だから…さっきのあの階段では、本当はお客さんの事私達は見てはいけないことになってたのに、じっと見てしまって。本当に凄く良く似てるから…」

「ふーん…」鹿島くんはちょっと首を回してユキの目と目を合わせた。

「事情は分からないけど、なんかここで働いてる人達にも色々複雑な思いがあるんだね…」

「寂しさは常にあります。社会的にどうしても理解されにくい職業だという自覚も…かなり…」

「可哀想にね…」鹿島くんは手を伸ばしてユキの頭を優しく撫でてくれた。

(ああこれだけでもう幸せ…生まれてきて良かったなぁ。生きてて良かったなぁ…)とユキは思った。頭に鹿島くんの暖かい手のひらが置かれている間中目を閉じ、嬉しくて泣き出しそうだった。ヒマワリが陽光を受けるみたいに全身全霊で鹿島くんに当ててもらっている手のひらの向きに魂を沿わせていた。

しばらくして手を離されそうになると,両手で鹿島くんの手を掴み,また自分の頭に戻して当てたままでいてもらった。

時間が経過するほどに欲が出て、

(抱きしめてもらいたいなぁ)と思えてきた。

うっとりと閉じていた目を開けてみると、鹿島くんの顔が真っ赤に上気し汗が目に入って痛そうにシパシパ瞬いていた。息も荒くなって苦しそうだ。外した眼鏡をもう片方の手で持ち,ユキの目が開くのを見計らってみたいに、弱々しい声で

「ダメだ,ちょっと、のぼせたみたい…」

と弱音を吐いた。

(大変だ)とユキも思った。毎年一人二人はお風呂で倒れてしまうお客さんがいるけれど、今の鹿島くんはそうなりそうな症状に見えた。

「ベッドまで歩けますか?ちょっと横になって風に当たればマシになるかも…」

ユキは浴槽を出てパタパタ走り回って恥ずかしがり屋の鹿島くんが腰に巻けるようバスタオルを取ってきた。

「足元、タイルのところは気を付けてね?滑らないように…」

「ちょっと刺激が強過ぎたんだよ…裸の綺麗な女の人に抱き付かれて、ずっと背中に感触感じてるし,お風呂にも長湯して、正常でいられるはずがないよ…」

「そっか…」

「鼻血出るわ…」

ユキに手を引かれ、鹿島くんはフラフラベッドまで歩き、ドシンと布団の上に倒れ込んだ。

「上を向いて?死んだんじゃないですよね?」

鹿島くんは打ち上げられた鯨が陸の上で寝返りをうつかのような億劫さでやっとのことで仰向けになった。

「目が回ってる…天井がぐわんぐわんしてる…」

「すぐ冷たい水持って来ますね」

ベッドの幅いっぱいを使い切るように大の字に横たわり、はぁはぁはぁはぁ言っていた鹿島くんは、大きなコップに一杯半の冷たいお水を少しずつ飲み,ユキに顔を扇いでもらっているうちに徐々に回復してきた。

「お姉さん?」

「はい?」

「お姉さんは寒くないですか?」

「死んじゃうかと思って背筋にゾッと冷や汗かいたよ」

「もう服を着て。目のやり場に困るから」

ユキはベットの上から服を脱いだ場所を探して首を伸ばした。

「あなた玄関からずっと裸なんだよ」

「そっか」

「扇いでくれるたびに胸とかが揺れてるんだよ。落ち着かないんだけど。触るよ?」

「いいよ」

「いや、いい。服を着て。どうせもう時間でしょ?」

「時間はまだもう少しあるよ」

「もう行くよ。どうせ何もできない気がするから。俺。ここにいても」

「行かないで。まだここに居て。」

「なんで?休憩時間が増えて助かるでしょ?」

ユキはぶんぶん首を横に振った。

「…時間前にお客さんに帰られたら怒られるの?」

「そういう事じゃなくて…」

乾いたタオルで鹿島くんの体を包み、その上から、彼の胸の辺りに額をつけた。平伏して祈るような姿勢で。

「時間が来るまで一緒にいて欲しい。もうあと少ししかないから」

「この時間帯に嫌なお客さんでも来るの?」

ユキはタオルに顔を擦り付けるようにして涙が滲みそうな目を拭いた。

「良いよ。じゃあ、帰って。そんなに早く帰りたいなら。…こういう所に長居したくないんだね?貴方そんなタイプの人じゃないもんね」

そう言いながらユキはもうほんのちょっとの間だけ…と、鹿島くんの体にギュッとしがみついてなかなか放すことができなかった。置いて行かないで、と言うみたいに。

「いや、別に…君らの仕事を差別とかしてるわけじゃないよ…」

鹿島くんはユキの顔を覗き込もうとして、ギュッとしがみつかれ続けてそれが叶わず、諦めて、ユキの肩甲骨の真ん中あたりに乾いた暖かい手のひらを乗せた。濡れた髪に指が触れ、無意識な優しさでその髪を梳かしつけるように撫でてあげながら、ボンヤリと天井を見上げ、考えた。(今何時なんだろう…。この子、ここで何時まで働くんだろう…)

「ここに居て。もう1時間も残ってないから…」

胸に押し付けられたユキの小さな硬い鼻の骨の痛みと温かく湿った息を感じる。

(…いつも誰にでもこういう風に接する子なんだろうか…こんなに俺に必死になる必要があるんだろうか…)

鹿島くんには不思議だった。

(この人、綺麗でスタイルも良いし性格も優しいし、自然に上客が付きそうなものだけど…。僕みたいな金の無いリピートもしてあげなそうな客なんて喜んでさっさと帰して、もっと大物とか狙えば良いのにな…自分が女でここで働くならきっとそうするだろうけど…こんな貧乏アルバイト学生なんか相手にせずに…)

「お姉さんが好きだった、僕に似てる人って、本当にそんなに僕に似てるんですか?…今はどこで何してるんですか?」

ユキは何とも返事をしなかった。鹿島くんはチラリとその男に対して嫉妬みたいな感情が微かに湧いた。

「その男に告白したら良いのに。付き合って下さいって。そいつが働いてるなら、付き合って結婚とかも考えて、そして上手くいけばお姉さんもここで働く必要がなくなるかもしれないじゃないですか?」

ユキは顔を鹿島くんの胸に擦り付け、黙って首を横に振った。

「もう聞いてみたの?」

「ううん、一言も話した事も無かったよ」

「お姉さんの大学時代とかの同級生?」

「そう。同窓生」

「今どこに居るか分からないの?」

「分かるけど…」

「言う勇気が無いんだ?」

「…うん。全く無いなぁ。」

「良いなぁ、そいつ。羨ましいよ」

「そう?」ユキは動きを止めた。

「そらそうだよ。こんな美人なお姉さんからそんなに真面目に何年も密かに好かれてるなんて。その人も知らないままでいるなんて可哀想だな。きっと何年も後になってから知ったら残念がるよ。好きなら好きって、今言わなきゃ今伝わらないよ?」

「うん…でも…」ユキはやっと鹿島くんの胸から顔を離した。自分もゴロンとベッドに寝転んで、勝手に彼の腕に頭をもたせかけ、腕枕して貰う姿勢になった。2人の目と目の距離はとても近かった。鼻と鼻の先が擦れ合い、鹿島くんが身を引こうとした分だけユキが彼の首に腕を回して引き寄せた。

「彼に自分の気持ちを伝える事は無いと思う。生涯、無いと思う。ここで働き続ける限り、私の好きな人は今目の前に居る人だから。今は貴方ね。

こういう仕事をしてる子には信念などないって思うでしょ?

でも私は真剣にやってるんだよね。意外に。

…仕事中はその瞬間その瞬間で、私の体もだけど心も含めて、私の時間をお客様は買ってくださってる。だから、多少自分の好みとか相性は必ず少しは出てしまうとしても、そこは人間だから少しくらいは仕方なくても、でも、この仕事を続けている以上、今目の前にいる私を選んでくれた、私の時間を買おうってお金を出してくれたお客様に、全力で自分の全てを捧げなくちゃいけないと私は思うの。今の私はこう言う仕事だけで生きてて、生かさせて貰ってるんだから。だから、心の中に自分の本当に好きな人のためにとっておく隙間なんて微塵も持っててはいけないから…自分の理想の理論上はね。だから…私が好きになった人に私が告白するのはダメだと思う。仕事相手のお客さん達のためにも、その好きな人のためにも、自分のためにも、絶対、ダメだと思うから…全部うまくいかなくなってしまうから…」

「…ふぅん…」

鹿島くんの気の無さそうな返事に、ユキはスッと心が冷え渡るのを感じた。

「ごめん。職業観なんか聞かせてしまって」

「いや、…貴女って人の人と成りが少しだけ分かった気がしたよ。凄く真面目な人なんだなぁ…と思ったよ…」

「私が真面目?」ユキはビックリして鹿島くんの顔をジロジロ見つめた。

「真面目だと思うよ。ストイックと言うか。…ちょっとも、なんて言うか…ほら…遊びが全然無さ過ぎて、痛々しいくらい。」

鹿島くんはユキの顔をよく見るためにみたいに、肘をついて上体を起こし、眼鏡をかけた。そして本当にユキの顔をジッと見下ろした。

「なんかそんな風に考えてたらプライベートまで全部仕事に捧げなくちゃいけなくなってくるんじゃない?仕事は仕事だよ。何のためにやってるかって言うと、自分のため、生活のためだよ。1番大切なのはどっちなの?仕事なのか自分なのか?

僕だって自分の目標のために親に頼らない金が欲しくて内緒でバイトしてるけど、働く先には大したこだわりなんか無くて、どこでも良かったんだよ。そら、一旦やり始めたらある程度は任された仕事に責任は持つよ。だけどさ、別に働くとこはここ一つじゃなくない?(鹿島くんは運送会社の社名ロゴが入った制服の胸ポケットを指差した。)でもどこで働こうがお姉さんの人生はお姉さんのものなんだよ?別にここじゃなくても何処にでも働き口はあるんだし…

もっと気楽に働いて稼いだら良いんじゃない?仕事なんてただの金を得るための手段なんだから…

…お姉さんが人生で1番大切にしたい物って何?」

鹿島くんは壁掛け時計を探すようにウロウロと四方の壁の時計がかかっていそうな高さに視線を走らせて、それから諦めて、自分の腕時計を畳んだ繋ぎの制服の1番上から取って左腕に巻き始めた。ユキが見守る前で手首に器用に片手で時計を巻き終わると、鹿島くんは時計のガラスの文字盤を右手の指先でトントンと叩いて、言った。

「例えば、カチッと時間区切ってやれば?仕事は仕事、って。魂まで捧げるべきものではないよ。自分の時間も必要、それに大切だよ。心に正直に、好きな人にハッキリ好きって伝えられるのは今しか無いかもしれないよ。その男は今1人なの?彼女が居る?」

「多分、今は1人。失恋からまだ立ち直ってないみたい。噂では。」

「じゃあ今が狙い目だよ。相手は寂しい時期。ユキさんも彼をずっと好きだった。チャンスじゃない?…僕は帰るよ」

「ちょっと、待って、お願い」

ユキは鹿島くんが履こうとしたパンツを掴んで履くのを阻止した。

「貴方の事が好きなの」

「ああ、もう良いよ。君のためを思って言ってあげてるのに。パンツ離してよ。頭硬い人だなぁ」

「まだ時間があるのに、行かないで!お願いだから…」

「分かったから。そんな泣きそうな顔しないで。時間まではここに居てあげるから。離して。パンツのゴムも伸びちゃうよ。」

「ごめんなさい…」

ユキはパッと鹿島くんのパンツを離した。鹿島くんはハアアと大きなため息を吐いてバタンとまたベッドに大の字に横たわった。

「何か違う話をしよう。あと残りの30分間」

「まだあと45分あるんだよ…」

「他に好きな男がいる女の人となんて俺絶対考えただけで何もしたくならないよ。早くその人のところへ行けば良いのにとしか思えない…」

「…」

「まぁ、今はお姉さんも仕事中だからね。仕事中に好きな人のところへ行くなんて当然どんな仕事場でも出来ないよなぁ」

「貴方の事が大好き。だからここにいる今が1番幸せだよ」

「…凄いなぁ…やり口が滅茶苦茶強引過ぎるよね…今さっき初めて会った俺に…なかなか無理があるよね…まるでロボットとかみたいだけど…」

「大好きだよ、鹿島くん…ごめん、安田さん…」

「…キミたちの仕事って本当大変だよね…」

「ごめんね、制服の胸の名札がチラッと見えて…」

「うん、良いよ、そう言う事もあるよね?多分。」

「速やかに忘れます。」

「どうせ覚えていられないだろうしね。お姉さんはそう言えば、名前はなんて言うんですか?さっきからもう何回か聞いてるけど…」

ユキは名乗る事も、名刺を渡す事も渋って迷っていた。鹿島くんが自分の事を全然同級生だと気付いていないのを喜んでいいのか嘆いていいのか。寂しいけれど、そのお陰で今のこの時間が持てるのだと思えば、ありがたい事でもある。だけどリピートして貰いたいかどうかはまた別の問題だし、(今日気付かれなかったとしても、明日はまた学校で擦れ違うかもしれない…)それに源氏名も名乗りたくない理由があった。

「こう言うところって源氏名があるんですよね?」

「源氏名はユキです」

とうとうユキは名乗った。あまりもったいぶっていても仕方がないと思ったのだ。名前を名乗りながら鹿島くんの右の眉がピクンと跳ねるのを見ていた。

 お城に面接を受けに来た時、面接官に即採用を言い渡され、源氏名考えてきましたか?と聞かれて、ユキは咄嗟に鹿島くんの彼女さんの名前を名乗ってしまったのだった。当時は特に、いつも頭の中に(あの子みたいな良家のお嬢さんに生まれていたら…あの子みたいになりたかったなぁ…)と羨む気持ちがずうっと渦巻いていた時期だった。常に鹿島くんとその彼女さんの由貴さんの事ばかり考えて生きていた。

「ユキさん…どうしてユキにしようと思ったの?名前の由来ってある?自分で考えた?」

「白雪姫からもらったの」ユキは適当にスラスラ返事した。

「可愛すぎて継母に迫害されても七人の小人に支えられて森で生き延び、水汲みに行った泉で王子に見初められ、王国に返り咲く女。持ってるよね?私、努力するのしんどいし、強運の持ち主になりたいから。頑張ったってどうしようもない事とか、頑張りすぎるとかえってよくない事とか、この世の中いっぱいあるみたいだし…」

「偶然だなぁ。僕の元彼女と同じ名前だよ。ユキって。キミも綺麗なきめの整った肌してるもんなぁ…」

また片肘を立てて半身を起こした鹿島君の黒い睫が伏して瞳が動き、自分の体を額から爪先まで眺め渡されるのを感じて、ユキは全身にサーッと鳥肌が立った。ベッドの端に寄せた薄い布団の端を掴んで引き寄せ、自分の体と鹿島君の体にふわっとかけた。

「こういうところで目立とうとするなら白雪とか姫とかでも良かったんじゃないの?」

「本名がしらゆき、ひめなの」

「はー、そうですか」

「貴方の彼女さんの話を聞いても良い?どうして別れちゃったの?」

「んー、…どうしてだろうね…」

鹿島君は片手で眼鏡の二つのガラスを覆うようにして、ちょっとの間、目を閉じていた。

「女心は分からないなぁ…」

「女には男の人が何考えてるか分からないんだけどね。その子何か言ってなかった?最後の方とか。別れ際とか」

「うーん…そう言えば、でも、もっと言っといたら良かったのかなぁと今になって思うのは、もっと『好きだよー』とか。凄く好きで付き合ってるんだからそんなの言わなくたって当たり前のことだろとこっちは思ってたんだけど、何回も何回も聞かれたんだよなぁ…『なんで私と付き合ってるの?』って。そんなの好きだからに決まってるじゃない?だけど彼女は聞きたがってたよなぁ…何回も何回も。なんで分からなくなるのかな?僕が彼女のこと凄く好きだってこと…」

「貴方もさっき自分で言ってたじゃない?言わないと伝わらないよ、って。」

「態度では最大限に伝えてたつもりだったよ」

色んな恋愛話に触れる機会が多く同性でもあるユキには、由貴ちゃんの気持ちが鹿島君よりもよく分かってしまう気がした。多分、鹿島君は意外にビックリするほど情熱的な人だから、学校でも下校中の道端でも送って行った先の彼女の家の近所でも、あっちこっちで好きという気持ちに抑えが利かなくなって、品の良い彼女が小声で『ここではちょっと…』と優しく静止しようとしたくらいでは止まらずに激しいキスをしたり羽交い絞めみたいなやり方で抱き締めたりしまくっちゃったのではないかなぁと予測がついた。多分、若くてあまり男の子の生態や情熱をよく知らない由貴ちゃんからすると、(この人、私じゃなくてもキスしたり触ったりしまくれる誰か、誰でもいいからとにかく女の体をした誰かが欲しかっただけじゃないのか?)と不安が募っていったのではないかな…と思った。

同時に、若くて初々しい二人の恋のすれ違いを分析できる自分が凄く年老いているように感じられて、切なかった。

「急に、もう顔も見たくない、って言われちゃったんだ。弁解の余地も何もなく。女の子っていきなりシャッターが下りたみたいに心を閉ざして、昨日までと今日とではコロッと別人みたいに変わっちゃうんだね。LINEもブロックされて。謝りたくても、こっちでは知らず知らずのうちに何か嫌なことしてしまったのかとか聞きたくても、改善できることなら直すからやり直したいって言いたくても、一切、もう聞く耳が無いんだ。とにかくその顔が見たくない、って。何の前触れもなく。昨日までは僕にすっごく優しかった子が。

物凄いショックだったよ。青天の霹靂ってこういう事を言うんだぁ…って。多分一生もう立ち直れないよ。こっちが彼女と結婚して子供ができて…老後は…とか色々薔薇色な将来を思い描いてるその、同じときに、隣で彼女は全然俺のことが嫌いになっていってて、それに自分は全く気が付かずにいたなんて…

ああ…」

鹿島君は眼鏡を外し、腕でしばらく目を隠した。ユキは鹿島君の胸をふさぐ悲しい気持ちが伝わって来て自分も胸が詰まり、その時間は何も見なかったことにした。再び鹿島君が復活して話を続けた。

「…元カノ、最近は年上の男と付き合ってるみたいなのが友達伝いに分かって、『そうかぁ…』って、あの子ももう完全に俺のこと吹っ切れてるんだしこっちも前向きにならなきゃだよなぁって、周りのみんなにも言われるし、自分でも頭では分かってるんだけど…」

「まだ気持ちの整理が追い付かない?」

「本当に凄く好きだったから…」

「遊び相手でも良いから、って誘われたら?」

「…え?…うん、」

鹿島君はチラッと目の端でユキの目を盗み見た。その視線がずり落ちて、一瞬、布団から出た裸のユキの肩に止まったけれど、目をギュッと瞑って煩悩を断つ、みたいに頭を激しく左右に振った。

「あとで虚しい気分に絶対なるって、やる前からもう分かるんだもんなぁ」

「終わった後のことまで最初から考えてしまうんだね…」

もうすぐ時間が来てしまう。ユキには夢のようなつかの間のひと時だった…一度でいいから自分を見てほしいと憧れた男の子に選ばれて、でも体のどこにも触れてもらうことも叶わなかったけれど、自分が好きになったこの人の良さはこういうところだったんだ…と再確認できた。もう今死にたいくらい生涯最高のひと時だったなぁとユキは思った。

話が弾んでいない間も、同じ一つのベッドに寝転んで天井に描かれた同じ星座を眺めて過ごすことができた。本当に好きな人と隣り合って過ごす時間と、仕事相手の下敷きになって見上げる天井とでは、こんなにも同じ星座の見え方も異なって見えるんだなぁと思い知った。

「もうすぐ時間が来てしまう…最後にお風呂は入る?」

「さっき入ったとこだし、何もしてないしな」

「そうだね…」

「何もしなかったけど、気を悪くしないで下さい。僕がヘタレなだけで、お姉さんは凄く…女性として魅力的だよ」

「貴方はまだまだ。若過ぎて…ちょっと男性の魅力に欠けるわ。ね?」

ユキは年上だと思われているらしいからその通り年上らしく振舞おうと、ちょっと別れが惜しい気持ちを揶揄いに変えて言ってみた。

「そうですね。自分でも自分の事、ちょっとつまらないやつなんじゃないのかなぁって心配になることがあります。このまま、また誰かを好きになったとしてもおんなじミスを繰り返して、その人はまた僕から離れていっちゃうんじゃないかなぁって、夜考え始めたら眠れなくなったり…」

鹿島君は大真面目に返事した。

二人はベッドの上に起き上って座っていた。鹿島君はまだ服も着ていなくて、Tシャツから出るところだけこんがり日に焼けて、焼けていないところは色白で、こちらを見つめる目に何の作った表情もなく、裸で、本当にとても心細そうな年下の男の子に見えた。力強い生き物になりかけの、まだ未熟な美しい男の子。私が何とかして守ってあげたいと女心にも母性にもくすぐりかけるような寂しそうな眼差し。思わず励ましてあげたくなった。細い腕をしなやかなロープみたいに鹿島君の体に巻き付けて、ギュッと目いっぱい力を込めて抱き締め、背筋をポンポンと叩いてからパッと放してあげた。

「貴方のことを好きになる女の人はこれから先何百人も何千人もいるから。だから貴方は最初の一歩を踏み出すだけ、とにかく一歩踏み出すのが肝心だと思うよ。体から入っても別に大して悪い事じゃないと私は思うけどなぁ。そのあとでその人を好きになれれば良くて、ダメだったらダメで、誠心誠意、ごめんなさいって言えば良いと思う。あなたには多分、少し年上のお姉さんが向いてると思う。」

「なんで分かるんですか?」

「貴方が若いからかな。」

「お姉さんはいくつですか?」

「貴方より何か月か年上なだけだよ」

「僕、年なんて言いましたっけ…?」

そろそろボロが出てき始めた。ユキは上手い誤魔化し文句が咄嗟に思い付けず、黙って裸のままベッドを降りた。床に落としたままだったひんやりとしたドレスを拾い上げ、身に纏いながら鹿島君を振り返った。鹿島君もベッドの上で綺麗な引き締まった体を薄曇り色の作業着を着て既に隠してしまっていた。

 二人で使った部屋のドアを出ていく前に、鹿島君がちょっと振り返って言った。

「また会いたいなぁ、とか、できればお城の外で会いたいとか、お姉さん…ユキさんはよく言われるでしょ?」

「そうだね、まあ私に限らず、ね」

「ですよねー…」鹿島君は体つきは大きな癖に寂しそうなペットショップの子犬みたいな目をして言った。

「僕も今そう言いたい気分ですもん…」

「先輩と焼肉行くんでしょ?肉焼いてるうちに忘れるよ。私の事なんて」

「そうかなぁ…」

 私は忘れられないだろうなぁとユキは思った。


 階段の上で鹿島君に手を振り、列に戻ると、すぐに黒服さんがユキを列から抜いた。次の仕事はお馴染みさんの予約指名だった。「この次もまたすぐに予約入ってるからね、テキパキ動いて」と黒服さんに耳打ちされながら、いつも通りの一連の仕事をこなした。お風呂に入って、二つの体を綺麗にして、重なり合って、錯覚でも良いから愛と呼ばれているものに触れた気になり、またね、とサヨナラをする。

 階段に戻ると、すぐに担当の黒服さんが「最初の部屋に戻って」と耳打ちしながらカードキーを手の中に滑り込ませて渡してきた。

「安田さんがまた戻って来てくれてるから」


「どうしたんですか?」

ユキは部屋に入るなりベッドに腰かけて自分を待っていた鹿島君を見て笑い出しそうになりながら聞いた。

「焼肉は?」

「食べてきたよ。でも肉焼いてるときに、先輩に言われたんだ、もう一回行って来いって。」

「怒られたの?」

「そう」鹿島君が大きな肩を小さく丸めてベッドの端でしょんぼりしているのが可愛らしくて、ユキはまた彼を何とかして励ましてあげたくなった。

「なんて言って怒られたの?」ユキはそっと鹿島君の隣に腰かけて彼の横顔に優しい笑顔を向けた。

「んー…、『どうだった?』って聞かれたから、正直に答えたんだ、『やっぱり自分は好きな子としかやりたくないっす』って。そしたら、『ダボかお前は、やったら好きになれるんだよ!世の女を!もう一回!』って。『女ってものの存在に感謝できるようになれるんだよ!』って怒鳴るんだよ。僕に女嫌いとかになって欲しくないんだって。」

「ふーん…」ユキは鹿島君のお兄さんかお父さんかみたいだった大柄なモジャモジャ頭の男を思い出しながら頷いた。

「貴方の先輩もなかなか愛ある熱い男だな。あなたの事、どうにかして前へ進めてあげたいんだよ。」

「それはそうなんだろうねぇ…でも僕は最初から『自分の順番は好きになってからっす』って言ってたんだよ?その押し問答は来る前からも何度もずーっとしてたんだけど…」

「なるほどー…なかなか有難迷惑な先輩なんだね?」

「いや、良い人だよ。凄く。ユキさんが言った通り、熱くて愛がある力持ちな先輩だよ。ちょっと大雑把で声が大き過ぎるけど、誰よりも動く人で。カッコ良くて尊敬してるよ。…だけど確かに、自分の思い込みをちょっと他人に押し付けて通そうとするところは前からあったかもしれないなぁ…良かれと思ってのことだから憎めないんだけど、頭ごなしなんだよなぁ…」

「ふーん…」

「俺の言う事聞いてりゃ間違いないから、任せとけ、って言ってここへも引っ張って来てくれたんだけど…

こっちも、もう口で言い合うのにも飽きたし、一回お城に来るだけ来れば、あとは先輩も落ち着いてくれるかなぁと思ってたんだけど…」

「貴方も正直に、『何もせずに帰ってきましたっすー』って報告しちゃったんだね?そういうところ適当に『やってきましたっすー』とかって上手い事言えば良いのに。なかなか貴方だって頑固だよ?」

「嘘はすぐばれるから。…そしたら先輩、せっかく二人とも機嫌よくお肉焼き始めてたのに、『おい、もう一回行くぞ』って。『お前、肉は一人前の男になってから食え。これは前祝だぞ』って言うんだよ。それからはずっとダメ出しだよ。『お前は何しに行ったんだよ、男にしてもらってから帰って来い、馬鹿垂れが…』って。」

「結構めんどくさい先輩だねぇ…」

「で…俺あんまり他人に裸を見せるのとかもキライなんだよね…。だから、『またさっきのお姉さんがいいです』って、ユキさんにしてくださいって、スーツの男の人に『ご指名ありますか?』って聞かれた時答えたんだよ。」

「ご指名ありがとう」

「ユキさん話しやすいしね」

「さて。じゃあ、どうしますか?」ユキは立ち上がり、ハート形の浴槽を見て、それからまだ座っている鹿島君を振り返って見下ろした。「今度こそ嫌々でもやっちゃいますか?サクッと」

「んーん、ちょっと作戦を考えてきた」

「どんな?」

「ユキさんの経験値を借りて、僕の初体験話をリアルに作り上げて、先輩にはそれを話して聞かせようと思うんだよ。それなら嘘がバレなさそうかなぁって…」

「つまり、やる事やらないで、さもやってきたかのように報告してやろうって魂胆?」

「そういう事です。ご協力お願いします。」

ユキは今度こそ鹿島君に何かしてもらえるんじゃないかと淡い期待を抱いたのに、やっぱり何もしてもらえなさそうなのでガッカリした。でもこれが期待通りでもあった。これでこそ鹿島君、じれったいけれど、これが私の好きになった人なんだ、と、全てを肯定してしまう恋心で納得した。

「お姉さんもよく知らない人と抱き合ったり、しんどい仕事しなくて良くて、助かったでしょ?」

(その方がむしろもう慣れてるから楽かもしれないけどなぁ…)とユキは思ったけれど、それは口に出さずににっこり微笑んだ。

「また会えて嬉しいよ。貴方に呼んでもらえて凄く嬉しい。協力する。安田君の初体験話、二人で考えよう」

「ありがとうございます。…まずお姉さんの胸のサイズとか知っておいた方が良いかなぁ…いきなりで失礼かもしれないけど」

「絶対触った方が早いと思うけど。サイズなんて言っても即効触った感想じゃないなってバレるよ。『あの子はCカップでした~』なんて言っても。色んな女性経験豊富な人にしかそういうのパッと当てられないものなんだから。」

「ふーん?」

「例えばこんなのどう?(ユキは両手で鹿島君の右手を取り、手のひらを広げて大きさを触って確かめながら、目を閉じて、自分の二つの胸のふくらみに意識を集中させた。まるで自分が二つの胸の膨らみだけになってしまったみたいに)…私のは、多分貴方が思ってるほど小さくもなく、大き過ぎもせず、貴方の広げた手のひらにちょうど収まりの良いサイズ。かな?…二つの桃くらいの大きさで、柔らかくて暖かくて、少し汗をかいててしっとり湿り気があるの。生きた人間の肌だからね。撫でると鳥肌が立ったり。耳を当てると早い鼓動も打ってるし。…でね、貴方が力いっぱい両方の手で両方の私のオッパイをギュウッと握りしめると、指の隙間からスライムみたいに溢れそうになるんだけど、手を離すとプルンと元通りの形に戻って、貴方の爪の痕だけがしばらくの間私の胸に赤く残ってるの。…リアルじゃない?」

「ちょっと本当にそうなるのかどうか、試してみたくなっちゃうなぁ」

「どうぞ?」

「いやここで触ったら負けだ」

「良いんじゃない?負けて」

「もう少し頑張れるよ。俺の信念と自制心。」

「そう?じゃあ続きね。…でもまずは貴方は私のドレスを脱がせなくちゃだな。意外とよく分からないでしょ?このドレスの脱がせ方」

ユキは立ち上がって鹿島君の前でクルクル回転した。

「どこに留め金があるか分かる?」

「ちょっと止まって。探してもいい?」

ユキが回転をやめると熱帯魚の優美な長い尾ひれみたいにゆっくり風に乗ってふわふわ漂ってついてきていた軽いレースのリボンも遅れて動きを止め、ふんわりと下に垂れ下がった。

「さっきと衣装が違うんだね」

「貴方が帰ってから別の方とお仕事したから。毎回着替えるの」

「ふーん…」

鹿島君はユキの周りをゆっくりと一周して、目視だけでドレスの留め金を探し当てようとした。

「見ても分からないでしょ?触っても良いんだよ?」

鹿島君は手の甲や指の背中をユキのドレスのあちこちにソロソロと沿わせて当てながら、もう一周回った。さっきユキが首の後ろでジッパーを下したのを見て覚えていたのか、首の後ろのリボンの下に指を二本差し入れて、少し入念に調べているみたいだった。微風にくすぐられるような心地よさで、ユキはクスクス笑いを一生懸命に堪えていた。

「え、本当に分からない…肌は薄っすら透けて見えてるのに、どこに留め金があるのか…」

「これはね、一度着たらそれで終わりのドレスなの。二度と同じ衣装は着られない。なんでか分かる?このドレスは破って脱がせる衣装なの。大胆でしょ?」

「凄いねー…」

鹿島君は感心して目を丸くしてユキの着ているドレスをもう一度眺め渡した。「贅沢だねー…こんなにスパンコールやビーズやリボンがひらひら付いてるのに!一度脱いだらもう着られなくなるなんて…もったいないなぁ。こんなに似合ってるのに…」

「それだけ手間暇もお金もかけても良いって言うくらい大事な工程って事。互いの衣服を脱がせ合う行為も。これからの行いの始まりの合図だから」

「なるほどなぁ」

「エッチってそう考えると奥が深いよね」

「そうだね」

「どう?ちょっとはやる気出て来た?」

鹿島君は笑い出した。

「ユキさんって面白いね、本当にここじゃない場所で出会いたかったなぁ」

「私、ここか学校にしかほとんどいないもん。」

「学費が大変なんですか?」

「家賃も。でもここにいれば光熱費だってかからないから。」

「家は?どこかにはあるんでしょ?」

「今はここに住んでるようなものかな。お城で働いたことない人たちは色々悪口も言うけど、ここってなかなか人情味があって優しいところだよ。この前も、早朝に、裸足で、小さい赤ちゃんを抱きかかえて、顔中痣だらけの女の人が血相を変えて駆け込んできたのをお城の偉い人たちはすぐに受け入れて部屋を貸してあげたらしいの。DVの旦那さんから命からがら逃げて来た奥さんなんだって。体にも酷い生々しい傷があって今すぐにはまだ働ける状況じゃないんだけど、落ち着いたら必ず働きますからって口約束を信じて、保護してあげてるんだって。私も赤ちゃんを抱っこさせてもらいに行ったからこの目で見たの。ここは私たちみたいなはみ出し者とか、ちょっと躓いて助けが必要な人にとっては揺り篭のような温かい場所だよ。今更生家に帰るなんて考えられない。その方がきついよ。だってここは自分の頑張りを正当に評価してくれる場所だから」

「そっかぁ…」鹿島君は何とも言えなくなってひたすら小刻みに頷き続けた。

「なんか生きてる世界が違うねぇ」

「同じ世界よ。世界は一つしかないんだから。ただ今までは私たち出会ってなかったってだけの事よ。でも私と出会ったからこれからもっと安田君の世界は広がるかもしれないよ?このドレスを破ったらもっともっと世界が広がるかもしれなくてよ?」

ユキは冗談ぽくドレスの裾を持ち上げて鹿島君の両手に握らせ、一気に左右にビッと引っ張って生地に裂け目を入れた。

「うわぁ」鹿島君は仰け反り、ベッドに尻もちをついた。

「鼻血が出るよ。そんなことしたら。そんなふうにチラチラ見えるか見えないかっていうのが一番良くないよ。凄く良いんだけど、凄く良くない。今の俺には。ちょっと、何か上着持ってないの?このツナギでいいから貸すから着といて。まだ僕には気持ちの整理が追い付かない。作戦通り、嘘で塗り固めたやったフリで今日は十分だよ」

「今日は?」ユキは鹿島君の腕を上に向けさせて時計を覗き込んだ。22時38分。

「…まだ今日か…明日には決意が変わるの?」

「明日も来いって事?」

「来てほしいな」

「上手い事言うね、この商売上手め。」

「で?」ユキはベッドにバタンと倒れこんだ。「貴方は私のドレスを破り捨て、胸を揉むところまではいけたわけですが、その次はどうするのでしょうか?」

「最後までやったことにしないといけませんからなぁ」

「全部人任せにせずに貴方もちょっとは考えてよ?私いつもと違う仕事する方がなんか恥ずかしいんだからね?」

「ごめん…」

「じゃあ、こうしましょうか。貴方は私にチューするんです。こうやって優しくベッドに寝かせてくれてからね。ネトネトしたしつこいのは私苦手だから、爽やかな、乾いた、ポンポンとパフを置くような軽いやつを。唇から喉へ、耳へ、お腹へ、掌の中へ、それからもっと下へも、ポンポンって降りていくんです。ここにも透明なキスマーク、ここにはまだだったかな、ここにするのは二度目だけどまぁいいや、…って。スタンプラリーみたいに、私の体中、押してないところがないくらいにハンコ押すみたいに。残ったドレスの生地をもう少しずつ破いて広げながら…」

「大変そうだなぁ…」

「自分で考えないから悪いんじゃない?」ユキは開き直って楽しくなってきながら続けた。「それから貴方は私の下の毛に鼻を埋めて聞くんです。『もういいかーい?』って。太ももの間の柔らかいところを指で撫でてくれながら。」

「なんか馬鹿みたいだな」

「馬鹿みたいなことを実際ここではみんな真剣に目を血走らせてやってるんだから。良いんじゃない?で、そしたら、私も言うの『もういいよー』って。貴方のあそこに手を当てて、どうなってるか確認してから『安田君ももう良さそうね』って」

「う、うん…」

「そしたら、始まるのです。ちゃんと避妊してからね。どうやるかは分かるよね?」

「そら一応は…一応の知識はもちろん、あるよ」

「私が花で貴方が蝶々だとすると、だから、ストローを差し込むような感じ」

「分かってますよ?やったことはないけど…」

「それから二人でゆっくり揺れて、蜜が行ったり来たりするような感じ。最初はあんまり激しくしないで、時々髪を撫でたり耳に優しいこと囁いたりしてね。」

「例えばどんな?」

「キミの事好きだよ、とか。可愛いよ、とか。有り触れたことでも言われると嬉しいから」

「僕にも何か言ってくれる?」

「大好きだよって言って欲しい?…凄く、大好きだよ」

鹿島君は真面目な顔になってユキをまじまじと見つめてから言った。

「ユキさんて本当に親切な人だなぁ。ありがとう」

「時間まではまだここにいるよね?」ユキは不安になって聞いた。

「いるよ。あと一時間」

「何しよう?今言ったやつで良ければ、もうやったことにする作戦はこれで良い?復唱する?」

「いや、大体分かりました。もう大丈夫。」

「お風呂にでも入る?」

「さっきも入ったしもう良いかなぁ」

「しりとりでもする?」

「こうしてるだけでも十分。なんだか、凄い充実した良い時間過ごしてる気がするから。何故だか、ユキさんの部屋に戻ってきたらホッとしたから、それにユキさんがここに来てくれたらもっとホッとしたから、もう大丈夫。これ以上何もいらない感じ」

「どれくらい待ってくれてたの?」

「さぁ。10分くらいかな。部屋の掃除は済んでるからって、先にここへ通されて、ここで待ってて良いって言われてから時計は見てなくて…ここの壁結構厚いんだね。両隣の部屋は使ってるみたいだったけど物音が全然しなくて凄く静かなんだよ。だけど一人でこうやってベッドに座って耳を澄ませてキミを待ってると、どこか遠くからはやっぱり女の人の色っぽい声が聞こえてきて、そしたら、(ああ、あれはもしかしてユキさんの声なのかなぁ)とか考えちゃうと、やっぱりちょっと色々胸がギュッと苦しくなるね。何か酷い目に遭わされてないかなぁとか、逆に、凄く好きな客が来てるのにその人と過ごす時間を僕が縮めてるんじゃないかとか、頭の中グルグルグルグル考えてしまう…キミがそこの入り口から入って来てくれた瞬間にそういう悩み事がサッとどっかへ消えて、(良かった、怪我も無さそうで、笑ってくれてて、また会えて…)って思えたんだけどさ」

「そっかぁ」

「一度会っただけなのにね」

「…そうだね」

夜が深まったからかさっき見上げたのと同じ天井の色も、より深い青に染まっているみたいに見えた。運命の不思議で二度もこんなあるはずがなかったチャンスが巡って来たのに、鹿島君は一度も私のものにはなってくれないんだなぁとユキはまた切ない気持ちになって来た。切ないけれど満ち足りた時間が少しずつ過ぎていってしまう…

「…ちょっとだけ触っても良い?」

「どこを?」ユキは全身に急に緊張感が漲った。

「手を繋ぎたい」

「どうぞ」ユキは鹿島君に近い方の右手を差し出した。その手を包み込んだ鹿島君の手は大きくてちょっと汗をかいていて力が凄く強かった。ちょっと変な向きに折り曲げられたまま握り締められた指が痛くてもユキは言い出せずに我慢していた。声に出して痛いと言ってしまったら、優しい鹿島君はずっと力を緩めてしまうかもしれないと思ったから。

「時間になったら行かなくちゃいけない。当たり前のシステムなのにこんなに寂しいもんなんだね」

「寂しいよ」

鹿島君が腕を持ち上げて、二人で時間を確認した。「時間ぴったりだ。行かなくちゃ」

どこかから小さいけれどしっかりとした目覚まし時計のピリリリリリリという音が鳴り始めた。夢の時間のお終いの合図の音だ。

「これ、時間が来たよって言うしるし?さっきは鳴ってなかったね」

「安田さんさっきは2,3分前には廊下に出てたから」

「そうか…」

「いつも10分前行動だもんね」

鹿島君の部活の顧問の先生の口癖をユキは迂闊にもポロッと口走ってしまった。

「どこでもそうなんだな」鹿島君は廊下へ出る前にユキを振り返った。

「一回だけギュッてしても良い?」

頷いた瞬間に抱すくめられていた。

「あぁあ、はまっていく人達の気持ちがよく分かるよ。こうやってキミ達みたいな業界の人は顧客を掴んでいくんだね。単純なのによくできたシステム。勉強になっちゃったよ」

(私にも、間男なんて作って依存してしまう女の子の気持ちがやっと分かったなぁ)とユキは思った。

「この後もまだ働くの?」

強い力で腕と胸の間に首を固定され、喉が潰れて言葉が出にくいけれど、「うん」とユキは返事した。

「まだ働かないといけないのか…そうか…体を大事にしてね。じゃあ、ね、ありがとう。」

「ありがとう。こちらこそ」


 ユキはその夜もう一人の客から予約が入っていた。いつも一番最後の予約枠に滑り込んで来てくれるお客さんで、いつも自分以外に代わりのきかない仕事を抱えきれないほど抱えさせられて疲れ果てている人だった。ずっとパソコン作業をしていて目と気持ちが今にも潰れそうだと嘆いている。

「ユキちゃん、助けてー」とユキの膝に頭をのせて会社と家庭での愚痴を吐き出すので、全部の毒素を体から吐き出してしまえーと言うつもりで、ユキも背中をさすったり頭をなでたりしながら最後まで全部聞いてあげる。

「救いの女神だよ、ユキちゃんは。癒しの天才だよ」

「今日も大袈裟ですね」

「いやマジ本当だよ、ユキちゃんに出会ってなかったら俺確実に死んでたもん。」

「他の誰かが救いの女神役になってましたよ。私じゃなくても」

「いや、キミはちょっと特別だよ。これまでだってお城には来てたけど、ずっともっとイライラしてたから。治まったのはユキちゃんに出会ってからだよ」

(このお客さん優しいなぁ)とユキは思った。

「私も宮田さんにそんなに言ってもらえると良かったなぁって思います」

「ここ辞めないでね。辞めるときは必ず教えてね。お小遣い渡すから、ずっと会ってね?」

「分かりました…」


 最後のお客さんをお見送りした後で、今夜泊まる部屋の鍵を担当の黒服さんに貰いに行くと、

「ちょっと…」とカウンターバーの中へ手招きされた。

「この携帯、安田さんの落とし物ですかね?あの部屋でお二人が使われたすぐ後に掃除中見つかったんですが…すぐ必要なものですし…またすぐにリピートしてくれそうな感じでしたか?安田さん」

「うーんんんんん…どうかなぁ…また来るとは言ってくれなかったけど…」

「でも今日同じ日に二回も来てくれたし気に入ってはりましたよね。ユキちさんの事。かなり。連絡先交換しました?」

「んーん…」

「そっか。まぁ、携帯ですし…すぐ気が付かはりますよね」

「私が預かっておきましょうか?」

「そうします?じゃあ、はい」

ユキは鹿島君の携帯電話と日払いの現金を受け取り、ハート形のお風呂の部屋に帰って来た。今日の宿として一泊させてもらう代わりに最後の客が帰った後の部屋の掃除はユキがしなくてはいけない。自分と自分の客が使った後ではないから、どこに誰のどんな手が触れているか分からないので、片手に消毒薬を構え、もう片方の手にキッチンペーパーを巻き付けて、念入りにあちこちの取っ手や床やスイッチ等を消毒して回った。お風呂も磨き上げてから自分が浸かりたいからもう一度新しく湯を張りなおした。8時半の一限目に間に合わせて起きるとしたら8時起床で、今すぐ眠ったとしても5時間くらいしか寝る時間がない。

 部屋には時計が無い。ついこの前、酔っ払って携帯電話を無くしてしまったので、自分自身も時刻が分かる物を持ち合わせていない。

テキトーに眠ってテキトーに起きるしか無い。

お湯に浸かりながらガラステーブルの上に置いた携帯電話を眺めた。鹿島君の携帯だとユキにはすぐに分かっていた。

(急いで必要なものだったら明日何とかして学校で渡してあげたいけど、どうしよう…彼の机にでも入れておいてあげようか…)

 窓を開けて洗い立ての髪と裸の体を夜風に当てて自然乾燥させながらボンヤリ街の夜景を見下ろしていた。なんとなく、部屋の玄関の方から極々控えめにノックしているような音が聞こえる気がして、振り返ってみた。

 少し怖くなってきた。

誰かの指名のお客さんが部屋を間違えて入ってこようとしているのかもしれない…自分がキチンと施錠したかどうか確信を持って思い出せない。ロックだけはいつもしっかりしているつもりなんだけど…

 微かな遠慮がちなノックはしばらく止んでから、また躊躇いがちに始まった。

黒服さんが何か言い忘れて部屋の前まで話しに来たんだろうか…営業終了後にガールさんが部屋まで今後の深い話し合いをしに来た事もあった…でも、だとしたらもっと決然としたノックの音を響かせるはずだ。

 居留守を使おうかとも一瞬考えたけれど、やっぱり出よう、と考え直した。ノックの音はもう止んでしまっていた。自分に用があったかもしれない誰かは廊下を遠ざかって行ってしまいそうだ…

 ユキは「はーい!」と声を上げる事を思い付かずに、ロッカーからとって来た学校の制服を大急ぎで身に付け、学校でしてるのと同じ顔を隠すように下ろした髪のままで玄関を開けた。廊下の先に鹿島くんの後ろ姿があった。扉が開く音が聞こえたからか、ハッとこちらを振り返って立ち竦んでいる。

「鹿島くん」ユキは言いかけて言葉を飲んだ。

「安田くん、ちょっと待って…!」

営業終了後に仲の良いお客さんや男友達を部屋に呼ぶのは暗黙の掟で禁止事項に入っている。見付かったら恐ろしい目に遭うと聞いている。囁き声の叫び声で呼びかけた。

「ちょっと、待って…!」

ユキは鹿島くんに大きな仕草でおいでおいでと手招きして、彼がこちらに向いて歩いて戻って来るのを確かめておいてから、急いで部屋の中へ戻って制服を全部脱ぎ、ティンカーベルが回っている戸棚の下の扉を開けて通学鞄と一緒に突っ込んで隠し、髪を纏めて頭の上にアップにした。

「失礼します…あ、ごめん…」

ユキがちょうどテーブルの上の携帯電話を掴んで振り向いた時に、鹿島くんが部屋の扉を開けて、目と目が合った。

バタンと扉が閉まった。ユキは大きなドアの音にヒヤリとした。裸を見られる事にはもう慣れきっているから全然良いのだけれど、営業後に男の子を部屋に呼んだ事を他の誰にも知られたくない。

自分のためと言うよりも鹿島くんのために、ユキは天蓋ベッドから外して洗ってこれから干すところだったレースのカーテンを体に巻き付け、ウエディングドレスの長いベールみたいに引き摺りながらドアまで走った。

「鹿島…安田くん、いた。良かった、」

ユキはドアの外でモジモジして待っていた鹿島くんに腕をいっぱい伸ばして携帯電話をハイッと渡した。

「お疲れ様。ユキさん…今日はもう終わってるんだよね?お仕事」

ヒソヒソ声だ。

「うん」

「本当は予約取ろうとしたんだけど…本当だよ。だけどユキさん人気過ぎるよ、今日はもうご予約満了ですって言われて…」

「そんなことないよ」

「いや、そんな事あるでしょ。毎回予約入ってたじゃん」

「ごめんね、受付で忘れ物預かる事も出来たんだけど…」

「僕の携帯電話は…大した用事でかけて来る奴も居ないし。明日バイト先行けば多分社員さん用の貸してくれるかな…とは思ったんだけど…」

「うん…」

2人はなんとなく廊下の左右に視線を走らせた。鹿島くんも、ここの従業員ではなくても流石に時間外にこう言う仕事に携わる女性の部屋を訪ねてはいけないというルールくらい暗黙に分かるみたいだ。

「携帯、わざと忘れたわけじゃないよ。」

「うん。分かってるよ」

「あのー、キミここに泊まるの?今夜…」

ユキは何も答えず慎重に鹿島君の目に見入っていた。ユキが黙って返事をしないので、仕方なくまた鹿島君が喋り出した。

「毎晩ここに泊まってるの?それって仕方なく?他に行く場所が無いから?」

(表情が凍り付いて固まってしまったな…)と鹿島君は思った。(人形みたいだ…)

 後になってユキをもっとよく知るようになると、鹿島君にもだんだんと分かってくるのだけれど、彼女が言葉の通じない猫みたいになってしまって、ジイッと相手の目に視線を反射する綺麗なだけの鏡のような瞳になり、はっきりそうと分かるくらい瞼を開けていても心にシャッターを下ろすのは、まだ立ち入らせることができない領域に回答がある、不用意に答えを渡すことができない質問をされた時なのだ。

 ただユキが仕事以外の時間をどんな風に過ごしているのか聞いてみたかっただけで、それ以上の提案をするつもりなど話し始めた時には全く頭に浮かんでいなかったのに、鹿島君は、化粧を落としても長い睫に縁どられたユキの黒い瞳の奥の虚ろな暗闇の中へ吸い込まれて落ち込んでいくように、続く言葉を口に出していた。まるで自分の口が勝手に動いて喋ってしまって、自分の耳がそれを聞き取って、それで初めて、我ながら自分がそんな大胆で計画性も何もない急な思い付きをいきなり今夜初めて会った女の子に対してしてしまうことにびっくりだし、それにこの子に対する自分の気持ちにも我ながらビックリしてしまう…みたいに。

「あの…もし良かったら…他に行くところがないなら…僕の所へでも…良ければ…一人暮らししてるから…今夜は僕が先輩の家にでも泊めてもらうし…内側からロックしてくれても良いよ。…なんでこんなこと言うのかというと、眠るときくらいはせめて…仕事場から離れて寝ても良いんじゃないかと…思ったんだけど…」

 ハッと2人は目を見開いて左の廊下の先を見た。白い明かりが洪水のように廊下に溢れ出していた。またねー、と笑い合う男女の声。別の部屋の扉が開いたのだ。

「入って!」

ユキは扉を大きく開いて鹿島くんを招き入れ、すぐに、パタンと扉を閉めた。

「これバレたら結構不味いよね?」と当たり前な事を聞く鹿島くんに人差し指を立てて頷きながら(当たり前でしょ、静かにして)と合図して、ユキはドアに耳を当てた。

「もう行った?」

「分からない…」

「どうしよう?」鹿島君はユキと見つめ合ったままドアに耳を寄せた。

「僕どうしたらいい?」

「…まず私が先に外に出て、廊下に誰もいなかったらノックするから、すぐに出てきて。」

そう言ってから何故かユキは部屋の奥へとスタスタ引っ込んで行った。何やら飾り戸棚の下の開かなそうに見えていた隠し扉を開けて、丸めた衣装をゴソゴソ鞄に押し込んでいる。

「何してるの?」

「荷物まとめてる。」

「なんで?」

「貴方の家に泊まりに行くからよ。今夜泊めてくれるんでしょ?そう言ったよね?」

「え、うん…」

「携帯ちゃんと握り締めてて。もう忘れ物取りにこの部屋には戻れないよ」

「うん。分かった」

「じゃあ、」ユキは颯爽と鞄を肩に担いでドアを細く開け、片目を出して廊下を覗いてから、鹿島君を振り返って念を押した。

「ノックしたらすぐに出てきて。それまで出てきたらダメだからね」

「はい」

ドアの蝶番の方へ鹿島君が身を潜めるようにして、ユキだけがサッと部屋の外に出た。ぱたんとドアが閉じてからすぐにはノックの音が聞こえなかった。誰かがユキを呼び止めて話している声が微かに聞こえた。内容までは聞き取れない。相手も多分女性だということと、二人とも声を潜めて話しているらしい気配とだけが感じ取れる。断片的に耳にとらえられた単語は、

「…だから…」

「…いいえ…」

「…やめておきなさい…」

「お願いだから…」

「…でも…」

「見なかったことに…」

「そこまでして…」

「…」

「…」

十分、十五分、扉の外でヒソヒソ声での応酬は続いていた。扉に耳を押し付けて手に汗握り締めている鹿島君の緊張感は高まり、最高潮に達し、その状態が長くなりすぎて逆に緩んだり再び引き締まったりを繰り返した。

(…多分、他の女の子が僕が部屋に入るところを見たんだ…黒服さんを呼ばれてしまう…ユキさんに凄い迷惑をかけることになるかもしれない…どうしよう…でも…そうは言っても、もう一度数時間分の料金と上乗せの罰則料とかを支払えば許してもらえそうな事じゃないのかな?…いや、この雰囲気はなんだかそんなことでは済まなそうではないか?…ユキさんはここでの職を失うのかな?…そんな凄いいけない事なの?忘れ物を取りに戻っただけなのに?…でも…だとしたら僕が責任を取れば良い。もうすぐ卒業だし、そしたら働いてユキさんが働かなくても済むようにしてあげれば…いやでも大学は…?…それにユキさんが僕なんかと一緒にいたくないと言ったら…?)

扉の外が静かになった。それでも鹿島君は大人しく言われた通りノックの合図を待ってジッと息を潜めていた。

(…二人はもしかしてどこかに行ってしまった…?ユキさん、僕がここにいることを忘れて家に帰ってしまったんじゃないのか…?)

コツコツ、 コツコツ、と、爪でドアを叩く待ちわびた合図の音がいざ聞こえた時、待ちくたびれ過ぎて鹿島君はドキッとした。

「もう良いの?」

「早く!こっち来て!」

のろりと首だけ出した鹿島君の手をパッと掴み、ユキは半分駆け足でどんどん無人の廊下を進んだ。明かりが灯らない。最初のうちは窓の外から差し込む街の遠いネオンと月明かりとだけが差す薄闇の中を、まだ闇に目が慣れていない鹿島君は何度もメガネのフレームを空いてる方の手で触って鼻の上に載ってるのを確かめながらユキに引っ張られて大股にずんずん進んだ。そのうち、ポッと明かりが灯った、と思ったら、なんだか異常事態を周知しようとしてるに違いないようなチカチカ、チカチカ、灯ったり消えたりする照明の無音の警告が二人の進む廊下を照らしたり闇に沈めたりし続けて、廊下の角を曲がっても、階段に差し掛かっても、ずうっとその状態が追いかけ続けてきた。

(これはマジでやばいやつだな…)と実感しすぎて、鹿島君は逆にどんどん先を急ぐユキに声をかけて確認を取ることができなかった。鹿島君は城を出るまでずっとユキの髪を上げた細い首筋の後れ毛が艶めかしい後姿しか見ることができなかった。あまりにもユキさんがこちらを振り向かずに、鹿島君が入ってきた道とは全然違う通路を通って、わけの分からない土の壁と苔むした地面とぽたぽた雫が垂れてくる洞窟のような地下通路なんかに突き進んで有無を言わさず先導していくので、まるで知らないうちにホラー映画の登場人物に自分がなってしまったみたいな気持ちがしてきた。例えば、「ねえ怖くない?」と話しかけたら、「私の事ぉ?」と振り向いたユキさんの顔はゾンビだったりとか吸血鬼だったりとかするような…

 でもそんなことはなかった。

突如、国道二号線沿いの歩道を二人は歩いていた。あまりの唐突さに鹿島君は

「えっ」と声に出して驚いてしまった。

振り返って今出てきた城の出口を見ようとしたが、それらしい建物も出入口らしきものも見えなかった。電球が消えかけて乏しい光がゆらゆら消えたり灯ったりしている扉のない公衆トイレがポツンと佇んでいるだけだ。まだ右手はユキさんにぐいぐい引っ張られ、鹿島君はほとんど歩調を遅らせることもできずに早足で歩き続けながら、流石に我慢しきれなくなってまだ先へ先へと焦って進み続けるユキさんに声をかけた。

「ここはどこ?」

「お城の外」

「いつから僕たちここにいるんだっけ?」

「さっきから」

「いつまで逃げるの?」

「これから先ずっと」

「え、…、…、…どうしよう…」

「貴方は何も心配することないよ。大丈夫。お姉さんに任せてれば良いから。安心して。」

(でもどこへ向かってるんだろう…)と鹿島君はドキドキし始めた。そもそもは自分が俺の家に来なよと彼女を誘ったのだ。城が見えない隣町とか、その隣の隣の、お城のことなど誰も知らない遠い所までこのまま走り続けるつもりなんだろうか?なんだかそれはそれで今だけはそんなことも可能性があるような気がした。初夏の夜風はひんやりと心地良くて、体も浮き上がりそうなほど軽く、高校の卒業式だとか大学の入学手続きだとかアルバイト先になんて言おうかなんてそんな細かい事は今は考えられないくらい気持ちが大きく膨らんでいって、

(ユキさんがこのままどこまでも僕の手を引っ張って連れていってくれるところなら、どこでも、例えそこがずうっと永遠に逃げ続ける道の上だとしても、二人一緒にいられれば多分俺は楽しいだろうなぁ)

と思えてしまった。今だけは。

これまで鹿島君は一定の先に目標を立てて、そのゴール目がけて今何をすべきかを考え、決定して、コツコツそこに向けてひた走る生き方をしてきた。例えば黒帯がとりたいとか、県大会に出たいとか、あの先輩に一回で良いから勝ってみたいとか、この大学に入りたい、とか、そしてそのためにはどんな対策をして今やるべきことはこうで…とかいうような。こんな風にゴールがどこだか分からないのにとにかく闇雲に走るなんて、今までならやる気も起きないだろうし、間違った方へ向かってないかと心配が先行して動き出すこともできなかっただろう。けれど、いとも簡単にユキさんはスルンと鹿島君の心の中に入って来て、華奢な力で強引に自分にもよく分かってるのか分かってないのか分からない支離滅裂な方向へと、身勝手に自信満々に突き進んで鹿島君を引っ張っていく。そして鹿島君はなんだかぼおっと心地良くて悪い気がしないのが自分でも不思議だった。

「キミが行くところどこへでもついて行くよ、そこが僕も行きたいところさ、」という気分に酔っていた。


 ユキさんが立ち止まったのは高校の閉まった正門の前だった。夜通し校門が閉じているかどうかを照らし続けて確認しているみたいなヒョロヒョロの背の高い照明塔が門の内と外を跨いで丸い光を落とし、そこに歪な白い水溜まりがあるかのようにスポットライトを当てていた。

「さ、じゃあ、おうちに連れて行って」とユキさんが鹿島君を見上げ、ニコニコして言った。

(学校から一緒に帰ってみたいと思ってたんだぁ)とユキは内心でホクホク思った。卒業する前に願いが叶うなんて信じられない。今日の午後以降は全部が夢のようだった。これまで何度、補講で閉じ込められている校舎の窓から、鹿島君が由貴さんと手を繋いだり同じ傘に入れてあげたりして帰っていく姿を見下ろしたか…

二人は凄くお似合いな学生カップルだった。ユキの手には最初からなかったみたいな清さ尊さを二人は損なわずにずっと持ち続けて、その純潔を二人の間からこぼさずに大切に手を取り合って大人になっていく見本のような素晴らしい恋人達に見えた。星を見るような思いでユキは二人を見守っていた。半分は応援する気持ち、もう半分は憧れ、切ないような身を焦がす思いで。

「そっか…!」道案内役をバトンタッチされた鹿島君は突如、我に返ったように、夢から覚めた気分でユキさんの手を握り直した。内心では現実的な細々とした事情が次々頭に湧き上がって来て、急にむっつり押し黙って考え込みながら今度は半歩先に立って歩き始めた。その頭の中は、

(やべぇ、色々と変な物が出しっぱなしじゃなかったか?…俺の部屋、臭くないか?どうしよう…どうしよう…女の子を呼んでいい部屋に5秒でできるか?ユキさんには玄関で一瞬目を閉じといてもらって…息を吸うのも一瞬我慢してもらって…まず一番に窓を開け放たないと…空気の入れ替え…それから…それから…とにかくファブリーズ振り撒いて…)

「痛いよ、鹿島君…安田君、手が…」

「あぁ!ごめん」

鹿島君はパッと太い長い指を開いて、握り潰しかけていた繊細なユキさんの骨組みからしてほっそりとしたすらりと長い指をそっと掴み直した。小鳥の雛の爪先をつまむ様な慎重すぎる優しい力で…ユキはしばらく大人しくそのまま指を動かさずにいてから、やがてモゾモゾと、まずもう片方の手で鹿島君の手首を掴んで、そして黙って鹿島君の手から自分の指を抜き、撫でつけて鹿島君の指を一本一本ひろげさせておいて、指と指の間に自分の指を差し込んで絡めるようにしてまたもう一度手を繋ぎ直した。まるでできるだけいっぱいの面積を触れ合わせておきたいというみたいに。歩きながらそれをやるために、少し自分の歩調を乱してくっついて来て、俯いて色々やってるのがまた可愛らしかった。

(前の由貴ちゃんは指がぽちゃぽちゃして太くて短いのをコンプレックスだからと言ってあまり手を繋いでくれなかったな…)と心の中で思い出した。(硬い蕾みたいにぎゅっと握り締めたグーをした手を僕が包んで歩いてた…)

「いつから一人暮らしなの?」手の繋ぎ方に満足したユキが顔を上げて聞いてきた。

「去年の夏休みから。おとんが転勤しておかんが一緒について行きたそうなのが分かったから、…それに俺もちょっと自分一人でやれるか試してみたくなって。家族会議して…」

(それで手作りのお弁当じゃなくなったのかぁ…)とユキは内心で納得した。(それでいつも食堂で見かけるようになったんだ…)

「もうすぐ着くよ」鹿島君はコンビニの前でふと立ち止まった。

「ちょっと買い物して良い?」

「うん」

眩しいくらい明るい店内に入ると鹿島君は指を解いて、まずファブリーズを一目散に探して、見つけ、手に持った。それからコンドームの箱が置いてあるのがチラッと視界に入って、動きをピタリと止めた。なんとなくブラブラ後ろからついて来ていたユキは、鹿島君よりも先に彼が何を次に手に取りたいかを察知して、なんとなくブラブラとお菓子の棚の方へ方向転換した。目の端で、鹿島君が(念のために…)という顔をして屈んで箱を掴むのを見てニコニコ笑いが止まらなくなりそうになり、頬っぺたを必死で引き締めた。

 

 鹿島君の部屋はユキの目から見ると物が少なくてさっぱりとしてとてもきちんと片付いていた。最初はウロウロと落ち着かず右往左往して、人のすみかへ初めて入れてもらうユキよりも鹿島君の方が緊張してソワソワ落ち着かない様子だったけれど、ユキがすんなりリラックスした顔で「わぁ、部屋綺麗…」「良いねぇ」「落ち着くねぇ」と何度も繰り返して言ったので、やがて鹿島君も「呼吸は浅めにして」とか変な注文を付けなくなった。

 いくら待っても鹿島君から座ってねと言ってもらえそうにないので、ユキは勝手に鹿島君の三つ折りの敷布団の辺りへ行って三角座りをした。

「疲れたね」

「あっ、そうだね…」鹿島君はこの家にはお茶もなかったのかと自分に腹を立てながら、扉を開けた冷蔵庫の明かりを背にユキの方を振り返った。殺風景な自分の部屋に今日初めて会ったばかりの女の人がちょこんと座っているのを見て今更、目を疑いたくなりそうだった。

「ちょっと、もう一回コンビニまで走って行って飲み物買ってくるから、ここで待っててくれるかな」

「水道から水が出るじゃない?出ないの?」

「そら出るけどさ。そんなので良いの?」

「いいよ」

(うわぁコップもないなぁ)と鹿島君は眉を顰めた。その横へユキはそっと来て、蛇口をひねって流れ出た水にピンク色の舌を差し出してぺろぺろ舐めるようにして水を飲んだ。そうやって水を飲み慣れているらしく、顎や鼻の頭にちょっとしぶきが当たると瞬きするくらいで、顔をビショビショに濡らしたりしない。野球部の練習後とほぼ同じやり方で水を飲んでいるのに、全然違うことをしてるみたいだ。まるでその道の作法さえ感じさせる独特な品の良さを醸し出している。細い筋で流れ落ちる水の音以外に音を立てず、静物画みたいに物静かで、ひらひら出たり入ったりする赤い舌だけエッチっぽい。けれど本人にその自覚があるのかないのか。当たり前にいつもやってきたことをここでもやっているというだけのことみたいだから。蛇口から流れ出る新鮮な水を、顔をシンクに水平にしてぺろぺろ舐めて飲みながら、何が悪いのかという顔をして上目遣いに鹿島君の目をジッと見つめてきた。

「キミ、うちの猫と同じ水の飲み方してる」

鹿島君は急にコップを洗ってなかった自分の事を棚に上げても良いような気がしてきた。

「ユキさんてほんとに気楽な人だねー…」でもそう言いながらも鹿島君はちょっと頭の中で別の解釈も考えた。(…だけど、この人は仕事柄、常にアンテナを張って、相手に気を使わせないように心配りしてるのかもしれない…だとしたら自分自身が本気で心からリラックスできるのは一体いつなんだろう…?)

ユキはお腹いっぱい水を飲んで満足し、蛇口を開けっぱなしにしたまま場所を譲るように一歩後ずさって真面目な顔で頷いた。鹿島君はユキさんと同じことをやってみようとして、前髪から胸元までびしょ濡れになり、鼻の奥にも水が入ってツーンとして、バッと急に頭を上げ、ブルブルッと首を振って水滴をそこら中へ弾き飛ばした。

「貴方は犬みたい」とユキが笑いながら言い返した。「ねぇ、もう眠たいな…」

「うん…」

「貴方はどこで寝るの?先輩の部屋?」ユキさんの目が悪戯っぽくキラキラ輝いて、鹿島君が返答に困った顔をするのを待ち構えているのが見て取れた。

「キミを抱き締めて寝るよ。もちろん。キミの好きなやり方はレクチャー受けてるから。ばっちりだと思うよ」

「ふふ〜ん、なるほどぉ…」ユキさんの目がますます爛爛と光に満ち満ち、喉を鳴らしそうな猫みたいに甘えた表情になって鹿島君の方へゆらりと揺れて凭れかかってきた。溶けて滴り落ちかけるソフトクリームを咄嗟に舌で舐めとるみたいな、どうしようもなく抑えが利かない衝動で、すくい上げるようにユキさんの体を抱き上げて、鹿島くんはユキを布団まで運んだ。足で蹴っ飛ばして三つ折りに畳んでいた敷布団を広げ、そこにそっとユキさんを下した。

「大好きだよ、鹿島君…」入れるとき、泣きそうな声でユキさんが言った。

「僕にも本名で呼ばせて?」

「貴方が新しく私の名前を付けて。貴方のために私生まれ変わりたいから…」

 鹿島君は途中から頭がいっぱいになってしまって、色々と忙しくて、そんなやり取りをしたのを翌朝まで忘れてしまっていた。




続く



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