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お城  作者: みぃ
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(6)

 ここに何日いるのか知りたい。

画家の浅海さんの大きな屋敷には少年少女達が住み着いて、絵や広告のモデルをしている。時々図書館の本みたいに貸し出されて出て行って、帰ってきたり、入れ替わったり増えたり減ったりする。みんなもともとは街角に立っていたり飲み屋で給仕をしていたり娼館に紛れ込んでいたりした子供達だ。声をかけられてふらふらついて来たか、野良猫の駆除みたいに捕まえられて車に乗せられ連れて来られたか、ここでなら食い逸れる事がないという噂を聞きつけて自ら来たがって受け入れてもらえたかだ。

 体に蔓薔薇の模様の焼き印や浅海さんのお友達の彫り師の刺青を試し彫りされて、所有者の印を沢山付けてもらった順に可愛がられると勘違いして、全身隙間なく模様だらけになった派手な子達もいる。拾われて来てから背が伸びて服はサイズが合わなくなったり着ているのが馬鹿らしくなったりして、誰も彼も裸で彷徨いている。

太陽光線を集めて眩しい暖かで真っ白な温室では天国みたいに年中バナナやアボカドや苺が実っていて、好きなだけむしって食べられ、暑くて服など着ていられない。裸でももっと脱ぎたいくらいなのだ。もともとは薬草の栽培のために建てられたドーナツ型のガラス張りのマンションのような巨大な温室は今では本来の役目を終えて森の中に飲み込まれようとしている。新しい設備は地下の人工の太陽のもとで稼働している。

 雪がちらつく冬も、泉のほとりのブランコは大人気で、体が内側からポカポカしてしまってどうしようもない時は風を切って高く高く漕いで、一番高いところで手を放せば、ちょうどチャポンと水の中に飛び込める。シャリシャリの氷交じりの水温が肌にビリビリ刺さる。漂う凍った花や葉や虹が足の裏をくすぐり、さらに深く沈んでいくと冬眠している群れのぬめぬめした鱗に触れることができる。遠くまで泳いでから水面に顔を出さないと、後から後から飛び込んでくる子達に体当たりされて悪くすると骨を折るか目を潰されるかしてしまう。しぶきを上げ、息継ぎしないで笑っている。

 めくるめく記憶のない仕事の最中さえ、命を砕いて飲んでいるから常に楽しい。

敷地内は治外法権で、目がきまってしまって話しかけるのがちょっと躊躇われる何をしでかすか分からない子達が大半だから、こちらも負けないくらいきめてないと流れに乗れない。

一度入ったら出してもらえないとか、監禁されるという噂は半分しか本当の事じゃない。無理やり連れて来られた子達も,最初のうちは閉じ込められるかもしれないけれど、長くいて慣れきってしまえば逃げ出す気力もなくなる。なぜ逃げようなんて思っていたんだったかさえ忘れてしまう。ここにいれば楽しいのに。出て行った子達は後悔して自ら戻って来る。外では味わえないものがこの楽園では手に入るから、ずっとここに居させてもらいたくて努力し始める。

“楽園”というよりもここは竜宮城だ。時を忘れすぎ見栄えの良さを失えば追放される。死神を追い越そうとみんな急いている。絶え間ない投与でいき続ければ天国にいながら死ねる。雲を踏んでいるうちに。地下のマットレスで魂が離れた体がどんな扱いを受けているかは天井に取り付けられた目玉が見下ろしている。

後先なんて考えつかない。どうせ考えるだけ無駄、先などない。いつかやめなくてはとか本気になって逃げなくてはとか幽かな囁きは聞こえるけれど、それを嘲笑う圧倒的な欲にかき消される。全身が欲する叫びは

「もっと!もっと!もっと!」

やめることなどできない。生涯、途切れている間は地獄を味わう。


「何日前からここにいるんだったかな?私」

「そんなの聞いてどうするの?」

「歯を磨こうとしたら口からいっぱい髪の毛が出てきたんだけど…」

「私の髪食べたのカホちゃんだったんだ」

「もう出て行かないと…」

「どこへ?」

「とにかくここから出ないと…」

「みんな口ではそう言うけど、誰も本心じゃない。ここを出てどこに行くわけ?どうせ長くいられる場所なんて他にないよ。うちらはここで死ぬか外で野垂れ死ぬか。今出て行ってもまた連れ戻されるだけだよ。私等はここにいるしかないんだよ。」

あの人といる間に死んでおけば良かった…とカホは後悔した。後悔してももう遅いけれど…


 ハート型の天窓、海賊とセイレーンの戦いを描いたステンドガラス、さざ波のような子供たちの笑い声、独特の甘い香り…

これまでのことは全部夢の中の出来事だったみたいに、寝て起きたらここに戻って来ていた。

自分でこの寝心地の悪い寝椅子にぐでんと寝てしまったのか、それとも誰かに運ばれ連れて来られて寝かされたのか、記憶が定まらなかった。ドロドロした脳をあまり揺らさないように見回した見覚えのある部屋は、子ども時代に数年間暮らした忘れかけていた幼馴染四人で使っていた部屋だ。さっきから枕元に立ってこちらを見下ろしている女の子の名前を呼んだ。

「龍ちゃん」

「久しぶり」

「そうやってニヤニヤ人の寝顔見てる癖、相変わらずだなぁ。」

「ここもそのまま。変わってなくて懐かしくない?私も少し前に帰って来たばかりだよ。ハワイやハノイや誰かの島にもいたけど、戻ってきてまた今はここにいる。」

「私はどこにいたんだったかなぁ」

「バスに乗ってたのを捕まえたって聞いたよ。とにかく姿を見たら即連絡するようにって、みんなに通達が回ってた。」

「あぁ…」なんとなく思い出してきた。

 ここに連れ戻される前、最後に自由だった日の夜は、街を周回するバスに乗って、ぐるぐる回って土地勘を養おうとしていたんだった。いつまで経っても自分が住んでいる近隣の地図が頭に入って来なくて、家の近所でも迷ってしまうから。でも思い立ったのが深夜で、窓の外は真っ暗で昼間とは別の街みたいだった。地理は何通りも答えがある問いみたいに捉え所が無くて、結局ぼんやりと窓ガラスに映る自分の顔を眺めていた。

 乗客は自分以外に二人になった。

次に駅前に戻ったらこの暇つぶしの冒険は終わりにして、バスを降りて家に帰ろうと思っていた。彼氏が夜勤している間、退屈だからちょっとだけ出てきて、彼が帰ってくる前に戻っているつもりだった。コンビニでヨーグルトでも買って。夜中に独り歩きしないのが彼の考える理想の彼女らしいので、そこに近付こうと心掛けていた。

 バスは途中の停留所で運転手を入れ替えた。それからなかなか停まらないなぁと思っていたら、さっきから斜め後ろの座席に座っていた水中眼鏡みたいな眼鏡をかけたお兄さんが、走行中なのに立って、二人掛けの隣の席に移ってきた。

「カホちゃん」

自分を呼ぶ古いその呼び名で相手の正体がすぐに分かった。

「なんで連絡無視してる?緊急の呼び出しには答える約束でしょ」

カホは窓際の席に座っていた。通路側の席に座ってきたお兄さんの眼鏡の奥で自分の視線を捉えている瞳を覗き込んだ。左の茶色い虹彩の縁にボールペンの先で一突きしたような大きさの黒い傷跡がある。分の悪い喧嘩中につけられた痕だと本人は吹聴したがるが、本当は生まれ持ったものだ。姉弟のように育った幼馴染の一人トモヤくんの消せない特徴だった。見ない間に大人の男に成長していた。

「一度携帯捨てたから…」カホはため息を吐いたような声で返事をした。

「今持ってるの出して」

こちらに向けて差し出された手のひらの上にポケットから出した携帯電話を載せた。

「逃げ切れると思ってた?」

「逃げたわけじゃなかった。私は園から追放されたんだと思ってた…もういらないって。ポイっと。使い物にならなくなったって判断されて…自由の身にさせてもらったんだと…勘違いしてたのかな」

「まあ、一時は俺もそうかと思ってたけど。城でよく似た子が働きだしたらしいって噂が聞こえてきても、そのまま放っておくみたいだったから…」

「今日もこのまま放っておいてくれない?」

トモヤくんは首を横に振った。

「迎えに来たんだ。楽園でみんなが待ってる」

「今更になって、これは…酷いなぁ」

「いや、幸せ者だよ。カホちゃんは。また受け入れてもらえて。俺らは外の世界で幸せになれるわけがないんだから。」

 バスは寄り道して幅がギリギリの脇道に入り、小さな楽器屋さんの吊り下げられた看板を折り曲げて停止した。民家のガレージに留めたバイクに跨って長身な女の子が二人を待っていた。コンパスみたいに脚が長い。体の曲線がくっきりと浮き彫りになる黒のセクシーなライダースーツを身に着けている。黒の短髪、猛禽類のような鋭い目、尖った鼻。知らない顔だ。自分がいない間に楽園に来た子だとカホは思った。大きく開いた襟の胸の谷間の内側から褐色の首筋を通り耳にかけて鋭い棘のある蔓の入れ墨が伸びている。バイクの上でストリップを踊りだしそうな猫みたいに車体に身を添わせ、グリップに耳を擦り付けて女の子がトモヤくんにおねだりした。

「ねぇこれ借りても良い?」

「ダメだ」被せ気味にトモヤくんが言った。

「えぇ―?理由は?…カホさんからも頼んでみて」見知らない女の子はカホの名前を既に知っていた。カホは女の子の方へ歩いて行きかけ、トモヤくんに腕に手をかけて背後の車へと誘導された。

「こっちに乗り換えて行く」

ダークグリーンの四輪駆車のドアを開け、先に乗るようにカホに目で合図した。窓ガラスには外から中が覗けない曇りガラスが使われていた。乗り込んでみると内側からも外の景色が見えにくいことが分かった。バスで座っていたのと同じように車でもトモヤくんはまた隣に乗り込んできて、バタンとドアを閉めた。その前にまだバイクに跨ってグリップを撫でている雌豹に一声かけて。

「早く。運転したいんだろ」

女の子はヒュンと長い脚を振り、渋々バイクから降りて、被ってみていたヘルメットを外し、それを闇の中へ蹴り込んで、スタスタ歩いて来て乱暴に運転席のドアを開け、乗り込んできた。カホにニッコリ笑いかけた。ナントカと自分の名前を名乗ったけれど、こちらには覚える気もなくぼんやりしていてカホは聞いていなかった。眼球を圧するほど頭いっぱいにどうすれば逃げられるかを考えていた。

「シートベルトした方が良いよ。こいつ運転荒いから」

カホは黙殺した。トモヤくんが腕を伸ばしてカホの体の向こう側にあるバックルを手探りで探し出し、勝手に巻き付けた。

「変な気起こすなよ。頼むから」脅すというよりむしろ気遣わしげに顔を覗き込みながら、ベルトをきつめに調節した。

カホがチラッとドアの取っ手に目をやったのとちょうど同時にトモヤくんは運転席に声をかけた。

「ロック」

小さなカチッという音がして、車のドアが施錠された。これを引き金に、走り出した車内はひりつく沈黙に包まれた。運転手がラジオチャンネルをザッピングし始め、カホに見せつけるようにトモヤくんがポケットから折り畳みナイフを取り出し、刃を煌めかせながら、さかむけた右手の親指の爪を削り始めた。親指が終わると人差し指に移り、その次は中指の爪を削った。銀色の魚の尾ひれみたいに滑らかに刃が動き回り、音を立てずに爪が綺麗に削れていく。車の揺れに対応して前屈みの姿勢。捲り上げた左腕の袖口から伸びる棘のある蔓が腕の内側を伝い、手首でとぐろを巻き、左手の甲で薔薇の蕾を膨らませていた。

 昔は半袖を着て外に見える箇所には入れ墨は入れないと言ってたのになとカホは思った。

削った爪の白い欠片が舞い落ちて足元の闇に消えていく。たまに差し込む街灯の明かりも車の足元までは照らさない。床には色んなゴミが溜まっているみたいだ。森の土を踏んでいるみたいに靴で蹴ると層になっている。

「昔は爪は美味しい食べ物だったのにね。トモヤくんにとっては」

他にすることがないのでカホは幼馴染を揶揄って時間を潰そうとした。

「そのおもちゃを自分以外の人間に使ってみたことはある?」

「これはまだない。一度使ったやつは捨てて毎回新しいのに買い替えてる。詰まった肉片を掃除するのも怠いし、これってそんなに高い物でもないから」

トモヤくんはズボンに擦り付けてナイフの刃を拭くと、両手でゆっくり折り畳み、左手の中に握り締めた。一秒間、ジッとそのままでいて、それからパッと手を開くと、すぐに使える形に刃が飛び出した柄を握り締めていた。カチッという音の方が後から耳に届いた気がした。何の装飾もないつるんとした柄、煌めきは安物のピカピカやたらに光る刃、どこででも手に入る量産物だけれど、しっかり用事はこなせる。トモヤくんの中指ほどの刃渡りがある。爪が柔らかい花弁みたいにすいすい削れる。

「カホちゃんにこれを使うような目に僕を追い込まないで欲しい。もう泣き虫トモヤって呼ばれてないよ。カホちゃんがいなかった間に楽園でもみんな成長してる」

「へぇ」つまらないなとカホは思った。

「大した組織の大した歯車の一因になれたの、おめでとう。就職祝いしてあげないとだね」

「自分は何者でもないとか何にも染まりたくないとかまだ思ってるの?カホちゃんは?自分だって大した組織の大した捨て駒なんだよ。」



 運転は雑で、身勝手で、思い付きみたいな急な方向転換や急加速、急ブレーキが多く、山道に入ると道の悪さも合わさって、カホは吐きそうになってきた。龍の背中のような道をぐねぐね上り、オレンジ色の明るいトンネルをいくつか抜けた。窓を開けて渦巻く山の夜気の中に手首を晒して血を冷まし、胸焼けと頭痛をこらえているうちに、車は楽園の銀色の門の前の砂利道に滑り込み、スピードを落として停止した。

可愛くない犬の吠え声が響き渡った。声の主は大型で、何頭もいて、執拗に吠え続け、ますます気が高ぶっていく。吠え声は尾を引く遠吠えに変わり、山々に木霊して、別の山から野犬が応じ返し始めた。呼び合う悲しげな声が夜空を渡り、長々と引き延ばされ、木霊に木霊が連なって、ふいに真空に吸い込まれ、消えた。見張り小屋から二人の門番が走り出てきて、一人は犬小屋へ走って行き、もう一人が車へ駆け寄ってきて下げた窓から中にいる三人を覗き込んだ。帽子とマスクの間で充血した赤い目を瞬かせ、カホの顔に集中して目を凝らした。

「その子が?」

カホの隣でトモヤくんが頷いた。門番はなぜだかマスクを顎まで下げてごつごつした顔を外に晒し、カホの顔を眺めまわした。

「なるほど。噂通りの別嬪さんだね」

「綺麗な怠け者の夢見屋さん」トモヤくんが横目でカホを評価した。

「ここでは美は命取り」運転席から名無しが言った。

「可愛そうに」門番は二つ分の瞬きの間にカホの面差しを脳裏に焼き付けてから、マスクを鼻の上まで戻し、窓から離れ、闇の中を大股に歩いて見張り小屋まで戻って行った。

 月明りを受けた銀色の門がスルスルと内側へ開いた。

車はスピードを落として、軋みなく開いた鉄の門を抜け、両岸の花壇に点々と灯された光を頼りにゆっくりと進んだ。薔薇の中から聳え立つような半裸の乙女の石像が片手に花籠を持ちこちらをジッと見ていた。

 城と違って屋敷は全容をライトアップされていない。建物の正面の両開きのドアだけが眩く照らされている。玄関ポーチの左右を飾る二匹の獅子が口に咥え爪で転がしている球は仄かに発光し、車を止める場所を指定している。縦横に増築を繰り返した歪な屋敷の全景は闇に溶け込んで見えない。

「大きくなったね…」しばらく会わなかった子供への感想みたいにカホが言うと、他の二人は笑った。

「今は何人がここに住んでるの?」

「誰も把握してない。今じゃ城と同じかもっと多い人数がここにいるかもしれない。入れ替わりは激しいけど」

「子供の成長よりも早く楽園は進化を遂げてる」

「子供はここでは成長するのをやめるし」

正面の扉の前でカホとトモヤくんは車を降りた。運転手はそのままどこかへ車を運び去った。幼馴染に促されてドアの中へ入って行く前に、カホは青いタイルを敷き詰めた一段を登ってすぐのところで、その場でクルリと一度回ってみて、門からの今来た道と薔薇園と屋敷を眺め渡した。

「懐かしくないなぁ」

「どんどん造り変えられてるから。前はあった抜け道もとっくに塞がれて、今はもうないし…抜け出るのは難しいよ」

カホは頷いた。

 扉が内側から開かれた。光が洪水のように溢れ、ドアの中に立つ三人の人影がカホとトモヤくんを手招きした。

「おかえり」カホは出迎えてくれた一人の老紳士の目から目が逸らせなくなった。時間が一気に巻き戻り、自分が7歳の子供に戻ったような心地になった。いつも味方に付いてくれた、父と慕って育ってきた人だった。皴の増えた懐かしい顔に浮かんでいる変わらない笑みに誘われて、自然に自分も笑顔になった。磁石に引き寄せられる砂みたいにひとりでに足が動いて、広げられた腕の中に吸い寄せられた。

「ただいま…あなたから逃げたわけじゃなかったんです」

「分かってるよ。無事で何よりだ…」老人はカホをそっと抱き締め、ゆらゆら揺すった。

 閉まりかけた扉の外で、また犬の遠吠えが始まった。

「扉は開けたままにしておこう。これから客が来る時間だ…」

門衛の片方がもう片方に言うのが聞こえた。

トモヤくんがカホの肘のあたりをそっと掴んで、優しく、意志が伝わる程度には強く、引っ張った。辛抱強い飼い主が寄り道ばかりする愛犬の散歩を結局は想定した時間内に終わらせられるみたいに。

「行こう。今日からもう働いてもらうから」

カホは瞬時に自分の顔が引きつるのを感じた。ぱっと老人の顔を見上げると、悲しそうな笑顔が左右にゆらゆら揺れた。

「僕もきみにここへ戻って来て欲しいとまでは思ってなかった…捜させたのも私じゃない…そんな目で見ないで。きみの事だから、どこかで無事になんとかやってるだろうと思っていた。顔は見せてもらえなくても…こういう形での再会になったことは残念だ…本当に…私にはどうしてあげることもできない…もう権力者でも何でもないんだよ。今の私は…」

老人から離れ幼馴染に急かされて廊下を先へと進みながらカホは聞いてみた。

「あの人が言ったのは本当の事?」

「知らない。でもいつまでも味方が味方のままでいてくれる甘い世界じゃない。みんなそれぞれ立場ってものがある。いなくなった者のために戦うようなお人好しならここまで生き残ってないだろ」

「でもあの人に拾われるまでは私達大変だったじゃない…」

「たった一度の恩を死ぬまで背負ってる気?」


 事務室は昔のままだった。飾り気がなく、ゴミ箱をぶちまけたように汚い。一面の壁には女優のヌード写真が貼り付けられている。部屋の中央にパソコンとお菓子や飲み物の空き容器で散らかった長テーブルが置かれ、テーブルの上に載ってい続けられなかった菓子パンの空き袋や煙草の吸殻が床に落ちて、窓から入ってくる森の夜風に吹かれくるくる渦を巻いて転がっていた。四脚の寄せ集めてきたようなバラバラな椅子がテーブルの周りに雑然と配置されていた。一つは診療所で患者が座らされるような背凭れのない高さだけが調節できる回転椅子、もう一つはそれにひじ掛けが付いた医者が座るようなやつ、それから木製の優美な曲線の揺り椅子、そして体育館にいっぱい積み上げてあるような折り畳みできるパイプ椅子。今はどの椅子も無人で、机に向かっている人間はいなかった。

 部屋の隅に寝椅子があり、その上ですやすや眠っている幼稚園児くらいの子と、椅子の脚に紐で繋がれてウトウトしながらベソをかいている小学一年生くらいの子どもがいた。まだ神様に性別を授かる前の透き通ったどちらでもない時期にいるみたいに男の子なのか女の子なのか判断できない。髪は適当に短く刈られ、大人の古着を被せたように着せられている。顔の造りは高級なペットショップの子猫のように整っている。肩甲骨の窪みに羽を生やした妖精みたいな兄弟。年上の子の方が、カホに焦点を合わせようとしている定まらない目付きで、ぐらぐら揺れる頭を重たげに起こし、口の中から出てこない声で何かブツブツ呟いている。

カホは急いでそばに寄り、耳を傾けてみた。日本語ではないかもしれない。言語のかわりに唇の端からぶくぶく泡をこぼし、涎が剝き出しの腿に垂れ、痩せた脚が濡れて光っていた。

子供は幼ければ幼いほど高値で売り買いされる。薬も少量で効果を示し飼い慣らし易い。

「大丈夫だよ。またお薬をもらえば気分良くなるから…」

カホはそれしか思いつかない慰めを口にした。二人の子供に一つしかない毛布を平等にかけてあげようとして、優しく手を出したつもりだったけれど、起きている方の子が触られるのを嫌がって這いずって逃げるため、うまくいかない。ぶるぶる震えている割に腕に触れると発火しそうなほど熱く、髪も汗でベッタリ湿っている。本人は寒さは感じてないみたいだ。

おどおどと不慣れなお節介を焼こうとするカホの手を突き放して、寝椅子のひじ掛けと両手を包んで縛った手首に結び付けられている紐が許す限り後ろまで子供は後退った。唇の端から泡を飛ばし、喉の奥で低く始まり歯の間から溢れ出す原始の唸りを発し始めた。どんな国の整った言葉で言うよりも早く、耳ではなく血に直接訴えかけ、毛を逆立たせる野生の言語で、それ以上近付くと噛みつくぞと警告している。幼い鼻に皴を寄せ、ギラギラした暗い炎を目に宿して。追い詰められた必死さで幻覚を見ているのかもしれない。急速に高まる唸り声と血走った目に脅しにとどめるつもりのない切迫した高まりを嗅ぎ取って、カホは素早く後ろへ飛びのいて、距離をとった。

歯を剥き出し、子どもが飛び掛かってきた。首輪に繋がれた紐がピンと張り、寝椅子が引っ張られてガタンと動いた。飛びかかってきた子が勢いよく後ろへ仰け反って仰向けに倒れた。ゴツンと後頭部を床に打ち付けた痛そうな響きがした。ひっくり返った子は目を見開いて涎を垂らしながら床に大の字に手足を広げた。さっきまでの漲る勢いは完全に消え失せていた。虚ろに灰色の天井を映すだけになった眼を開けたまま眠り始めた。みんなが土足で歩き回る床にべったりと横たわって鼾をかき始めた。

 反対に、揺れで起こされたのか、寝椅子の上の子が身を起こし、目を擦りながら辺りをキョロキョロ見渡した。

「あなた達は姉妹?兄弟?」まだ年長の子を警戒して、紐の届かない位置からカホは聞いてみた。

小さい方の子はぴょこんと頭を下げて愛想よく頷いた。カホは床の年上の子を指さした。

「この子はあなたのお兄さん?お姉さん?」

寝椅子の上の子はまた頷いた。もっと話しかけて欲しそうに締まりのない笑顔を浮かべ、よれよれの大きすぎるトレーナーの襟から艶やかな片方の肩をのぞかせた妙に大人びた色気のあるだらしない姿勢でこちらを見つめ続けている。もう流し目を覚えかけている。

「どこから来たの…」

まだ最後まで聞かないうちに子供は頷き始めていた。カホは問いかけを途中で返事に合わせて変えた。

「どこから来たのか覚えて…ないよね…?」

「投与の時間を過ぎてる。みんなどこ行ったんだ…」トモヤくんが呟いた。

 笑い声が衝立に隠された部屋の奥から響いてきた。サッとそちらへ歩いて行くトモヤくんに続いて、竹藪の中の墨で描かれた虎の衝立を回り込むと、奥のゆったりした広い室内にはキングサイズのベッドが二台置いてあり、強い芳香剤の甘い香りと燻したハーブの煙が立ち込めていた。チョコレート色のブランケットをかけたベッドの向こう側でテレビの前のソファに三人の大人がくっつき合って座り、キャアキャア言いながらスプラトゥーンをしていた。

「あっ、やばい」一人がトモヤくんに気付いて他のみんなを突いて知らせた。

「真面目に働くやつが帰ってきた」

「仕事しよ」

三人ともカホには顔見知りだった。3、40代の男達。桜色の三匹の子ブタを夜遊びに連れ出して同じ旨いものを食わせ熟成させたようなよく似た顔をした、できれば見たくなかった血色の良い顔が三つ。大中小の背丈。

「カホちゃんかぁ。お疲れ様」

ちょっと長めの出張から帰ってきた子を出迎えるような気軽な調子で、ソファの真ん中に座っていた一番背の低い小太りの男がサッと身軽に立ち上がり、近寄ってきた。風呂に入るのを面倒臭がってかわりに吹きかけている香水のきつい臭気が鼻を突く。後退りしかけたが、それよりも早く腕を伸ばしてぐいっと肩を捕まえられた。

「まあ座れや」

半ば持ち上げて引き摺るようにして強引に歩かせられ、臭い男がさっきまで自分が座っていたソファの二人の仲間の間にカホを押し込んだ。肩と脚を押さえつけるように左右からのしかかられ、立ち上がれなくなった。柔らかいソファの背凭れにお尻が食い込む。三人にジロジロ顔を覗き込まれて、俯くと顎を上げさせられた。脂っこい三つの顔に嫌なニタニタ笑いが浮いている。

「もう一度研修が必要かもな?もうだいぶ現場を離れてたから…」

「誰から行く?」左の一番太った男が言った。

剥き出された歯茎がヤニでどす黒く、口を開くと胃の生臭い匂いがした。右の男はカホの首筋に鼻を擦り付けてうなじの匂いを嗅いでいた。湿った生暖かい息と体温にじっとりと包まれ、30本の爪が腿や腰や首や頬に刺さっている。研修、という響きだけで葬り去ったはずの苦い記憶が呼び覚まされ、喉に硬い塊がせり上がってきて呼吸を詰まらせた。カホは三人の腕や肩の隙間からトモヤくんがどこに消えたか目で必死に探した。一瞬姿を消していたトモヤくんが、カホの膝を押さえている小太りの男の肩の上から手を伸ばしてきた。

「この子には今からすぐ現場に戻らせます。女の子が足りてないから」

親指と人差し指に挟まれて唇の前に差し出されたラムネをカホは迷わず口を開けて受け取った。すぐに錠剤を舌の裏に回した。誰かの飲みかけの半分減ったペットボトルが傾けられ、水を鼻や顎に滴らせながらあえて音を立ててゴクゴク飲んだ。まるでこれを待ち望んでいたかのように。

「じゃあ、もう連れて行かないと。ここには顔を出させに寄っただけなんです」

トモヤくんが三人の肉の下から掘り出すようにカホを引っ張って立ち上がらせた。背中に手を添えられて急いで出口に向かいかけたが、後ろから「おい」と呼び止められ、ずっしり沈んだ重苦しい気持ちでしぶしぶ歩を止めた。

「ここで着替えさせろ」

「ボディチェック。どうせやるだろ」

トモヤくんが手を放し、カホから一歩離れた。

「急いでください」

カホは淡々と着ている物を脱ぎ、床に落としていった。柔らかいフェイクファーのブルゾン、だぼついたTシャツとその下に隠れてしまいそうな丈のショートパンツ、いつもその格好で寝てしまうから下着は付けてない。靴下とスニーカーを脱いだ。裸足になって脱いだ衣類を踏んで立った。恥ずかしいとも何とも思わなかった。絶望以外の感情は麻痺していた。

中間の体格の男が毛の生えた太い中指を根元まで口に含んで吸いながら近寄って来るのを見て、カホは両手を前に差し出して必死に訴えた。

「それは仕事の後でもいいですか」

「後じゃ意味ないだろ」

救いを求めてトモヤくんの顔を見上げたが、その彼が言った。

「後ろを向いて、壁に手をついて。脚を広げて、力を抜け」

「やれ」

「さっさと」

「早く」

ここにいる男は全員気が短い。カホは急いで深呼吸して目を閉じ、言われた通り十本の指を広げてざらつく壁を両手で押した。すぐに熱い手が太腿にかかり、腰を押し下げられ、もっと脚を開いて、もっとお尻を突き出す姿勢をとらされた。

 せめて何か別の事を考えようとして、咄嗟に思い浮かべたのは鹿嶋くんの顔だった。

(なぜあの人の言うことが聞けなかったんだろう…)

鹿嶋くんは絶対に間違ったことを言わない。いつも正しい事しか言わない。つまらなくて退屈な当たり前の事しか言わない。

けれど、あの子の言うとおりにしていれば今頃こんなところで辛酸を舐めることもなかったんだ。…二人だけのベッドで身を寄せ合って今頃幸せに眠れていたはずだった…


 大切にしなければならない自分だけの領域だと勘違いし始めていた熱い体の内側から、指がズルっと引き抜かれ、パチンとお尻を叩かれた。

「締まりよし」

別に大した屈辱ではない。ここではありふれた日常。カホは額を擦り付けていた壁から顔を上げた。涙も声も出ない。床に落ちたTシャツを見下ろした。もう二度と着ることはない。鹿嶋くんにサイズがピッタリの二人の物だったけれど…

「落ち着いてるな。慣れて…眉毛一本動かさない」つまらなそうに男の一人が言った。

「もう行って良いですか」

「よし」

 衝立の向こうの出口へ向かいかけた。一番大柄な男がそばに来て通せんぼする位置に立ちはだかり、ネバネバした目でこちらを見下ろしていた。黙って脇を通り抜けようとすると、ふと腕を伸ばしてきて、ゴミでも拭い取るような無造作な仕草で、カホの胸の先端を摘まんで捩じり上げた。痛みで声を上げると、やっと満足したようにニタっと笑って離してくれた。

「体だけ立派に大人になりやがって。澄ました顔は見飽きてるんだよ」

「汗水垂らしてしっかり働いてこい」

トモヤくんに急かされて仕事へ向かうカホの背後で、三人の男たちの興味はまたすぐにゲームに戻っていった。


 衝立の向こう側では寝椅子に繋がれた幼い兄弟達が床の上と寝台の上とで二人ともぐったりと仰向けに眠っていた。強制的な眠りだった。姿勢良く真っ直ぐに上を向いて、両手を胸の上で組み、蛹のように毛布に包まれている。几帳面な子供の持ち物の人形みたいにきっちりと平行に並べられて。

 トモヤくんが薬を与えて寝付かせた後に二人にきちんと毛布がいきわたるように横たえたんだろう、とカホには容易に察しがついた。さっき姿が見えなかったときに。

床で寝ている子の傷付いた頭の下には、少し前までトモヤくんが羽織っていた上着が枕のように敷かれている。年上の子は昔のトモヤくんに似ている。十年前はこんな場所から出て行くと言って暴れて手を焼かせたのはトモヤくんの方だった。自分は寝椅子の上で寝ている大人しい子に似ていた。子供の頃の方が悟っていた。

 二人は黙って子どもたちの横を通り過ぎ、明かりを落とした薄暗い部屋を抜けて、廊下へ出た。


 一歩踏み出すごとに氷のような石の床を踏む裸足の足が凍えた。腕を交差させて擦るカホを横目でチラリと見て、歩き続けながらトモヤくんが励ますようにもそっと言った。

「もうすぐだから」

「もうすぐで何?」

「…温かい部屋に着く」

「それを喜べと?」

熱い手のひらがカホの背中の中心に押し当てられ、ぐっと押して胸を張らせた。強い力を制限している器用な優しさが感じられた。トモヤくんは分からない人だ。味方になってくれる敵だ。

「薬ももうすぐ効いてくる」

カホは舌の裏で溶けないように飲み込んでない錠剤を左の頬に動かして隠していた。これがピルだとハッキリ分かれば飲み込むけれど…

「不公平だな、そっちは服を着ててこっちは裸なんて」

「僕もこれを脱いだら裸だよ」

「あの子には上着を貸してあげたのに。私には無し?」

「これ一枚を着ていられるように僕は努力したんだよ。貸してあげても良いけど…もうすぐまた脱ぐことになるけど…」

シャツのボタンに手をかけたトモヤくんの腕を押さえて、カホは首を振ってとめた。

「一時しのぎの気休めなんか今いらない。ともくんの優しさは中途半端なんだよ。努力もこんなところでしても浮かばれない。一緒に外へ出よう?」

「そんなふうには僕は考えられない。ここしか知らないし…中途半端って言われても別に腹も立たない。その通りだと思うし。このままで僕はいいよ。ここがそれほど悪い所だとも、別のどこかがここよりマシだとも思ってないから。僕は。」

二人はしばらく無言で歩いた。

トモヤくんがくぐもった声でモソモソ言った。

「逃げたいなら完璧に一人でやれよ。ここでうまくやってる昔の仲間を巻き込むな」


 階段を降りると廊下の先に人が大勢いるのが分かった。ざわめきが先に聞こえ、角を曲がると7,8人の裸の集団にぶつかった。サナギから抜け出てきたばかりのような柔らかい肌の、みんな成人していない子供たちで、どろりと濁った眼をしている。中に一人だけ顔見知りがいた。ふっくらしたお餅のような頬、微笑みが似合う優しい眼差し、この場所にいていつまでも穢れないオーラ。龍ちゃんがカホを見付け、裸の肩を押し分けて、駆け寄ってきた。

「どこにいたの?お帰り!元気そうで何より!」

大きく広げた腕の中に息が詰まるほどギュッとカホを包み、肩を掴んで離してみて、目を覗き込むと、またギュッと胸の中に包み込んだ。水のように溶け合って混ざって早く一つになろうとするみたいに。

 昔、園長が言っていた。山に仕掛けた罠で小鳥を捕まえ小銭を稼いでいたという話。

 罠に捕まえたばかりの野生の小鳥だけで入れておくと、全羽が怯えて逃げようとして、翼を広げてバサバサ飛び回り、鳥籠の網に翼を打ち付けて弱ってしまう。一羽だけでも、飼い慣らされた小鳥を最初から籠に入れておけば、落ち着きが他の鳥にも伝染して、騒ぎ立てない籠を山から持って降りることができる。龍ちゃんは飼いならされた一羽だ。

「どうやって生きてたの?外では」

「ここでしてきた事と変わり映えしない」

「まあそうだろうね、うちらにできる事ってそのくらいだもん」

カホを腕に包んだまま龍ちゃんがトモヤくんに頷いて合図するのが感じ取れた。

「後は任せたよ」トモヤくんの声がして、振り返ると姿がなくなっていた。

「あんたの弟も今じゃ幹部の仲間入りしてる。できる子だよ、あの子」

カホは聞いていなかった。地下に向けてゾロゾロと動き出した集団の中で目をキョロキョロさせていた。

「抜け道があるなら今教えて」

「はぁ?まだそんなこと言ってる…」

カチッとしたスーツを着た先頭と最後尾の黒服に挟まれ、裸の子どもらの集団は緑が茂る回廊へ出た。カホは四角く閉じ込められた夜空を見上げて唇を噛んだ。これは中庭で、外には続いてない。

口の中のラムネをぺっと庭へ向けて吐き出した。

「あっ」

草の葉の上に白い丸薬が載っかり、乏しい月明かりを受けて小さな光のように目立った。隣を歩いていた龍ちゃんが目ざとく見ていて小声で叱責した。

「あんた今なにした?」

スーツの黒服に目で合図して、龍ちゃんが列を抜け、慌てて拾ってきてくれた。

「これ一粒、外で買ったらいくらするか分かってる?」

念を押して渡されたラムネをカホはもう一度爪で弾いて捨てた。今度はもっと遠く、白い粒は背の高い薄紫色の薔薇の茂みの陰に消えた。

「あーあ…後悔するよ…」と龍ちゃんが言った。

「もう拾ってきてくれないの」

友達の目の中に冷たい光が宿っていた。

「しらふで乗り切れるかどうか一度試してみれば」


 飲んだ水の方にも何か混ざっていたらしい。それとも舌の裏に隠し続けた薬が溶け出したのか。自分では自分はしっかりしていて何も変わってないように思われる。でも持ち上げた腕や足がいつも以上に重たい。もったりとしか体が動かない。真っ直ぐ歩いているつもりが、頭が傾ぎ、いつの間にか右にふらふら左にふらふら寄ってしまう。ちゃんと真っ直ぐ歩けている子は一人もいない。廊下はなだらかな勾配で地下に向けて傾斜している。

 行列はゾロゾロと、薄物を纏った彫刻の乙女二人に支えられたアーチをくぐり抜け、甘い香りの濃密な霧の中を進み、ピンク色の滝の裏側を通って、温室に入った。

手足と瞼が重く、持ち上げるのに凄い力がいる。

マットレスやソファがそこここの揺らめく植物の葉陰に据え置かれている。客がすでに座って待っているベッドも見える。女の子の数に対して客が少な過ぎるように見えるが、正確に数が数えられない。

 カホは膝がふらつき、一番近くのマットレスにへたり込んだ。重力がいつもの倍になったみたいだ。頭を真っ直ぐにしゃんと起こしていられない。体を支えるためについた両手も、ぐにゃりと力が抜け、額と頬を荒い布に擦り付けて倒れ込んだ。ぐるぐる目が回っている。ハッと不意に意識が鮮明になり、起き上がれそうに思える。

(眠ってはいけない…這いずってでもここを逃げ出さなくては…)

影が差し、目の前の自分の手の上に誰かの手が重ねて置かれた。見上げると、のしかかってくる知らない人の顔がニヤニヤしている。


仕事が始まるとすぐに思い知った。

 自分の体に起きる出来事を正気のまま直視するものではない。爪を出して暴れ、もがいて抵抗しようとしたが、革靴か何か硬い物でガツンと耳を殴られ、意識が朦朧とした間にどっしりした巨体の下に組み敷かれていた。

「おいおい」片手でカホの喉を押さえ付け、腹の上に馬乗りになった男が言った。

「暴れん坊だな、この子は…痛い思いするのは自分なのに…」

男が片手で自分の下着をゴソゴソ引っ張り下ろそうとして、腰を浮かせた。その一瞬の隙をつき、カホは渾身の力を振り絞ってもがき、這いずり出し、立ち上がって走ろうとした。体がまっすぐに起こせない。見えるもの全てが斜めに撓み、傾いている。四つん這いで、出口がどこかも分からず、目も良く見えない。獣のようにとにかく前へ向かって走る。

(あの茂みを越えた向こうに出口があるかもしれない…!)

そう思うのに、出口へ向けて魂だけ飛んで行き、体はマットレスに置き去りだった。

 まだ少しも進まないうちに髪を掴まれ、後ろへ引き倒された。あっという間に大柄な人間たちが群がってきた。誰かがカホの喉と右手を、また別の誰かが両脚を、さらに別の誰かが肩を押さえつけた。

「何だこの子…合意じゃないのか?」高い位置から吠え声がする。

「…噛みつきやがったど…」

地底に横たわるカホの目に、遥か高い空に浮かぶ細い月が垣間見えた。自分を床に押さえつけている黒服の影になった三つの頭や盛り上がった肩のさらに上に。

 空に破れ目があって、そこから神様が覗き見ているみたいに見えた。カホは一心に神様と視線を合わせようとした。

星が瞬く夜空を塞いで、さっきの客の、怒りに歪んだ顔がぬるりと現れ、高みからこちらを見下ろした。

目の中にギラッと冷たい光が動いた。カホを取り押さえている黒服の体の隙間から蹴りが飛んできた。脇腹に靴の硬い踵がめり込み、息も止まる激痛にカホは身をよじった。

「どうぞ、別の子を…こちらへ…」

一発蹴らせておいてから、トモヤくんが客とカホの間にすっと自分の体を挟み、頭に血がのぼった客を別の場所へ誘導して遠ざけた。

「かわりの女の子は他に何人でもいますから…」


 黒服たちの耳の中でくぐもったインカムの声がした。追加の溶液を持ってくるように、誰かが別の誰かに指示している。ぱたぱた走り回る音。カホの黒い瞳だけがまだ逃げ道を探してギョロギョロ動いていた。押さえつけられた体から首だけ起こして。

けれど、心の底では分かっていた。

 もうこれ以上、体に力が入らない。この圧倒的な人数と力の差には敵わない。ずっと以前から分かっていた。ここへ連れ戻される前から。自分に似合った生き様はこれなのだと。

マットレスに押さえつけられ、這いつくばらさせられたまま、生まれた場所で死んでいく。


 もっと上手な方法はいくらでもあったのになぁと、後からなら思い付く。鹿嶋くんと遠くに引っ越せば良かった…鹿嶋くんの幼馴染の結婚式に参加するため、2人で出かけた台湾旅行で、ずっとここにいたいとカホはねだった。

(いつかまた二人で来ようね)と鹿嶋くんは困り顔で言い聞かせてくれた。大人が子供をあやすような言い方だった。

あの時にも分かっていた。自分の居場所はこの人の隣ではないんじゃないかなと。


仕事はあちこちの寝椅子やベッドで始まっている。動物の喘ぎ声がそこかしこに響いている。

優しい手が耳の傷を避けてカホの顎と額に触れ,顔をそっと仰向かせた。発光しているように見えるほど色白な龍ちゃんの顔が間近にあった。乾いてひび割れたカホの唇に柔らかい唇が押し当てられ、温かい舌がカホの唇を割ってぬるりと口内に侵入してきて、喉の奥に温い液を注ぎ込もうとした。カホは噎せ、横を向いて全部吐き出した。大勢の口汚い罵りと唾がカホの顔に降りかかった。今度は何本もの手がカホの頭を強い力で仰向けに固定させた。

「クズが」

「殺すぞ」

「手間かけさせやがって」

シーッと龍ちゃんが言って、みんなから守ってあげると言うみたいな手つきで、カホの顔にかかった濡れた髪を梳かした。もう一度口に液を含み、口移しでカホに飲ませようとした。

 今度は顔を背けることができなかった。鼻を摘まれ、息が詰まってゴボゴボと音を立て濃い溶液が喉を通った。もう一口。それからまたもう一口。息がしたいタイミングと重なっても有無を言わさない力で押さえつけられ,飲ませられた。鼻や目から溢れた涙と鼻水と溢れた溶液で顔はビショビショだった。無味無臭でも、液の濃度の濃さは感じた。

 カホのお腹に馬乗りになっていた龍ちゃんが体から滑り降りる時に言った。

「今度は初めから飲んで。他人の手を煩わせずに」


身体から力が抜けていき、カホを押さえつけていた人間の数が一人二人と減った。

急激に気分が上向いてきた。

 重たい体を脱ぎ捨てて魂だけになり空間に溶けていけるような気がしてきた。どこまでも体が霧のように広がっていくような。この世界の隅々にまで指を伸ばすことができ、掴みたいと思う物何でも掴め、思い通りに動かすことができるような気分。

 さっきまではただ眠くて吐き気がしていた。それが今では全く違う感覚。心地良く落ち着いてきた。

カホに寄り添っていた黒服の最後の一人が立ち上がった。

次の客があてがわれた。


 最高の場所でこれ以上にない最高なことをやってる気がしてきた。目が眩むほどの鮮やかな打ち上げ花火が花を咲かせる直中にいて、次の瞬間にはさらに高く、空を越えて、宇宙を漂っている。

 腕を伸ばし脚を広げて無重力を味わった。目の前の見ず知らずの人がわけもなく愛しく見えた。

ふうっと意識が遠退き、はっと目覚めた。

「愛してるよ」

相手の男が言った。特徴的な鷲鼻。前の男とは別人だ。いつの間に繋がっていたんだろう。さっきの人とはいつ交代したんだろう…これで何度目なのか何人目なのか…でもそんな事はどうでも良い。

「私も愛してる。」

カホは愛想よく囁き返した。自分の声がその言葉を口に出して言うのを聞いたのは生まれて初めてだった。今まで何度か言いかけてやめた。口に出したことはなかった。多分自分が誰を愛したかは死ぬ間際にやっと分かることだと思っていた。言葉に重しをかけていた。こんな事ならもっと早く、伝えるべき人に伝えておけば良かった…

「愛してる。愛してる。ううう、愛してるぅぅぅ…」

鹿嶋くんにも伝えられなかった気持ちをぶちまけるように乱用して言った。どこの誰かも分からない人達に。


「愛してる…愛してる…」

 口からその言葉が出る時は心の底からそう思って言っている。それなのに、ぐったりとなって目を覚まし、一番最低だと後悔し嫌悪感に苛まれるのはそのことだった。なぜ必要な時に出し惜しみしたのだろう…今からでは間に合わない。この人生で本当に愛した人がいたとしたらそれは鹿嶋くんただ一人だけなのに、なぜそれを彼には伝えずに…

わけが分からなくなる。


 誰かに運ばれて横たわっていたベッドで目を覚ます。頭がズキズキして喉も干からびている。体中の傷を調べもしない。次の仕事の呼び出しがかかるまで死にたいと思いながら寝転がっている。天井や壁をただじっと見つめる。そして仕事の時間が来る。

とにかく抵抗しても誰も得をしない。結果は同じ。

仕事に向かう前に渡される薬は次からは躊躇わず、誰から強制されなくても飲み込む。

ここには多分出口はない。逃げ場も隠れる場所もない。

それでも最小限に薬物の摂取は控えて、できるだけ正気が保たれる時間を長引かせようと試みる。煙と飲み水に気を遣い、できるだけ生のそのまま食べられるものだけを口に入れるようにする。温室に実る果物、バナナや蜜柑や梨を齧って。


 失いたくない記憶がどんどん零れて消えていく。


鹿嶋くん…タクトくんに会いたい…

もう一度会えたら二度とそばを離れない。


『女の子が普通、夜中にそんな格好して外に出ないんだよ』

鹿嶋くんは常識的な時間帯とか服装とかの事で学校の先生みたいにつまらないお説教をしてくる人だった。心配して構ってもらえることが珍しかったり面白かったりして、最初のうちはカホは楽しむために言い争いを引き起こしそうな事をわざとちょいちょいやってみたりしていた。

『常識って何?』とか言いながら…

『この丈がギリギリ良くて、じゃぁなんでこっちはダメなの?』

『こっちはパジャマだからだよ。普通はパジャマで外に出ない。いちいち言わなくても分かるでしょ』

『分からないなぁ。私はこれで今まで歩き回ってきたんだもん』

『これからはダメだよ。少しずつで良いから変わっていかないと。僕に合わせて。こっちも歩み寄れるけど、そっちからも合わせに来て。常識と非常識の間で合流だよ』


ああ、今なら

何でも言われた通りにしますから、神様…


(私がいなくなってもあの人は心配してくれないだろうな…)とカホは思う。無断外泊もしょっちゅうやっていたし…

目を閉じて瞼の裏に彼と彼の部屋を思い浮かべる。元気な鉢植えがいっぱいの光が溢れる部屋。ベランダに遊びに来る猫の親子。二人で息を潜め、二匹の子猫が戯れ合うのをベッドの中から眺めた。もう面倒見きれないよと言われてもつい花屋さんで可愛い花を見かけると買ってしまい、持って帰って苦笑いされた。いらないと言う割に鹿嶋くんは面倒見が良くて、

『こいつは昨日いっぱい日光浴したから交代』とか言って、小まめに植木鉢の位置をずらしたり、一回り大きな鉢に植え替えたりしていた。


 あの人は今も気付いてないかもしれないけれど、カホと鹿嶋くんは同級生だった。



 

続く

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