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家の前のブロック塀の出っ張りに腰かけて、11桁の電話番号を携帯の画面に表示させ、眺めたまま、ぼんやり考えていた。何を考えればいいのかを。何も思いつかないまま液晶が何度も光を失い、そのたびにユキの誕生日を入力してロックを解除した。この数字も出鱈目なんだろうか…この携帯に機種を変えた時に、そう言えば誕生日はいつ?と風呂に入っているユキに聞いてみたら、バスタブからすらすら答えが返ってきたので、そのままそれを暗証番号にした…
ある日家に帰ったら家の中にいた謎の女性がユキの荷物を盗み出そうとしていた、その人が落としていった正体不明の電話番号。あの女の人の個人的な電話に繋がるだけかもしれない。それとも想像もつかない変なところに繋がって、こちらの番号が永遠にそこに記録され、ユキとは関係ない事で面倒臭い目に遭うかもしれない。地味にしつこい嫌がらせの通知が届きまくるとか…
ぼんやり考え込んでは光が消え、ポンと親指で画面を叩いて明かりを取り戻し、また考え込んで闇に陥り…を繰り返しているうちに、親指が痙攣してポンポンと二度押してしまった。ハッとした時にはもう電話をかけ始めていた。呼び出し音が鳴りだした電話を急いで耳に当てた。
「お電話ありがとうございます。この電話番号はどちらでお知りになられましたか?」
テキパキした中性的な声。機械か人間か分からない。
「えっ…」
鹿島君は咄嗟に何も答えられなかった。いきなり盗みがばれたような気持ちになった。
「御用件をお聞かせ願えますか?」相手は別にこだわらないように次の質問に移った。
「…女の人を…」
「はい、どちらに向かわせたらよろしいでしょう?」
「…え?」
「ご自宅ですか?別に部屋をとられてます?」
「あー…こちらで場所を用意しないといけないのか…」
「そうですね。」
「えっと…」どうしようどうしようと頭を振り絞って、喫茶店くらいしか思い浮かばなかった。
「瞑蓬珈琲店でも大丈夫ですか?」
「了解です。お好みのタイプなどはございますか?」
「すらっと背が高くて、目が切れ長で…」
最初からユキが派遣されてくれば話は早い。できるだけ彼女の特徴をいっぱい言おうとして焦った。
「髪が…」いや…ココア色の髪とか、それが胸を隠す長さだったとか、口紅の色の事なんて言っても駄目だ、今は髪の色も長さも変えているかもしれない…それ以外の特徴をと考え、何も出てこず、茫然とした。
時間を指定し通話を終えてから、恋人の顔を落ち着いて思い浮かべようとしてみた。なぜかさっき別れたばかりの雪の色白な頬に落ちていた睫の影を一番最初に思い出した。
鹿島君は最近やっと少しだけ触らせてくれるようになった野良猫の頭をちょっと撫でてから、一旦自分の部屋に戻った。
カーテンレールにぶら下がったままのワンピースや、いつも化粧するとき顔を映していた鏡、香水瓶を並べた洗面台の上の小窓など、見慣れた物に囲まれていると、長風呂の後ビショビショで出てきて裸で歩き回っていた室内のあちこちに白い亡霊が歩き回っているように、今もまだ気配をすぐそばに感じる。それなのに細部を思い出そうとすると…
単に「美人」とか「可愛い」「綺麗」と言うのは、友達に紹介した時みんなが褒めてくれた言葉としては嬉しかったけれど、初対面ではない自分にしか言い表せないあの子の特徴がもっと他にあったはずだった。あの子を言い表す言葉が、自分にだけは…そう思っていたのにな…と、鹿島君は携帯電話でユキの写真を眺めなおし、自分に首を傾げた。
瞑蓬珈琲店は神戸に何店舗もあるのに、電話のこちら側も向こうもわざわざ本店かどうかを確認する必要さえなかった。コーヒー一杯の値段が高価だから、女の子は店の前で待っていることが多く、余裕のある男の人は喫茶店の白いレースがかかった窓辺の席に座り、相手の品定めをする。気に食わなければもう一度電話をかけて別の子を寄こせと注文する。珈琲店の裏は安ホテル街だから、レジで会計を済ませ、店の外へ出て、眼鏡にかなう女の子の背中に手を添えたら、そのまま表通りから薄暗い路地へ入って行ける。地元ではあまりに有名な話なので、こういう店を利用した経験がない鹿島君でもいつから知っているんだったか分からないほど以前から知っていた。
白いブラウスに紺のスカートで現れる約束になっていた鹿島君の相手は、ちゃんとその通りの格好で現れて、窓の外からキラキラした目で店内をさっと見渡し、後ろ向きに立って声をかけられるのを待ち始めた。ふっくらした女の子だ。ユキではない。肩から斜めがけした茶色い帆布の鞄の持ち手を捩じり回し、帽子の庇を不自然なほど下におろして、鹿島君ではなくその隣の席で頬杖をついてぼんやり外を眺めて頼んだ品を待っている大柄な西洋人のおじさんを意識しているみたいで、(おーい)と窓ガラスをコツコツ叩いたり手を振ったりしてもなかなか気付いてくれなかった。やっと呼ばれているのに気付いたら、今度は(店の中に入っておいで、向かいの席に座って、)という仕草に何度も自分を指さして、どういう意味なのか分からないと身振りで示してきた。
「普通にホテルへ行きましょうよ…逆に怖いんですけど…」と外まで呼びに来た鹿島君に囁いた。
「入りたてなの?」
「そうでもないけど、ここに座って何するんですか?顔がばれるのが嫌なんです」
「じゃあ席を移動する?」
給仕に頼んで外からは見えにくい暖炉の傍の席へ移ると、今度はモジモジし始めた。
「ホテル行かないからってお金払わないなんて言わないですよね?」
「分かった。じゃあ先に払っておく」
鹿島君は給仕が遠ざかるのを待って三回折った紙幣を相手の手のひらの中に包ませてあげた。相手は鞄の中でゴソゴソとそれを鹿嶋くんからは見えない何かチャックの付いた入れ物に押し込み、ジッパーを閉めた。そしてお金を貰ってしまったから今度は逃げ出したそうに入って来たドアの方を見てソワソワとソファの中で脚を組み替え、擦りむいて赤くなった膝頭をこすり合わせた。
「そんなにびくびくしないでよ、ちょっと聞きたいことがあるだけだから。」
「お巡りさんですか?」
「違うよ。全然。そんな風に見える?」
「見えます。何かやってて強かったですよね?」
答える必要もないと思って携帯電話のユキの写真を見せる準備をしていたが、相手が続けて言った言葉にちょっと驚いた。
「空手?合気道?」
相手の潤んだ大きな目を見返した。
「僕を知ってる?」
「ううん。多分知らないと思うけど、父と兄が段持ちだから…足運びとかで…なんとなく…」
「へぇ」
落ち着きなく他のテーブルの関係ない客の顔色までキョドキョド窺って、この人怯えすぎて大丈夫かなと思えていたけれど、何も見えてないわけではなかったようだ。
砂色の肩に届かない髪の中で大きな涙型のピアスがゆらゆら揺れている。唇は細く鼻はぺしゃっとして目は離れすぎている。鹿島君には見覚えのない少し年上の女の人だ。
「えっと、何さんでしたっけ?」
「澪です」ぽちゃぽちゃした指でテーブルに透明な一文字を書いてくれた。
「挙動不審でごめんなさい。私、道を歩いてるだけでそこら中の人みんなが私が何の仕事してるか知ってるような気がしちゃって…それにお客さんは全員知り合いに見えてしまって怖いんです。年の近い人だと学校の同窓生とか職場の同期とかに見えるし、年下だと後輩とか、年上だと先輩とか上司とか父の知り合いの誰かとか利用者さんの家族とかに見えるし…なんだか安田さんの事もだんだん知ってる人に見えてきた…どうしよう…」
両手を胸の前で交差させ自分の左右の肩を神経質に擦り始めた。
「いつもそんな感じなんですか…向いてないんじゃないのかな…」
「最近友達が昼の仕事を首になったばかりなんです。それで怖くて。びくびくしてごめんなさい」
「そうなんだ…」
「でも働かないわけにはいかないから…」
「なんで?昼の仕事だけじゃ生活できないの?」
「できません。カツカツで」
「そっか…」
鹿島君はちょっと隣の席の人が椅子を引いただけの音にもビクッとして手がブルブル震えている澪さんが可哀想になって来た。
「僕が誰に似てますか?」
「弟の友達の誰か…」
「弟さんの名前聞いてもいいですか?」
澪さんはテーブルに人差し指を構えてから躊躇い、かわりに手のそばにあった水の入ったコップを掴んで一口ゴクンと飲んだ。
(大変だなぁ、嘘を吐くか誤魔化すかしかやりようがないんだな…)とまた気の毒になった。
「僕には澪さんが見覚えないから安心していいよ」
「警戒心が強くてごめんなさい」
「何か頼みますか?ケーキでも?」
「安田さんって優しい…モテそうなのに…彼女は?いない…?」
鹿島君はテーブルの下で用意していたユキの写真を澪さんに見せた。
「僕の彼女です」
澪さんの顔色が変わったのを見逃さなかった。素早く逸らした目がまたレジの横の逃走ルートを測り始めた。
「知ってますか?見たことあるんですね?」
「知らない」
「頼むから。これだけは誤魔化さないで欲しい。これまで僕が会ってきた中では多分、澪さんが一番最後に彼女を見た人みたいだ…」
「関係ない。私は普通に仕事して普通にお金貰って家に帰りたい。余計な事に関わりたくない」
もう一口水を飲もうとコップを持った手が尋常ではなく震えていた。零れる水の量に鹿嶋くんまでゾッと怖くなってきた。
「何にそんなに怯えることがあるんですか…?あなたのお店のことはちょっとだけ聞いて知ってます。危なそうな店だとは…でもそんなに?澪さんが特別怖がりなんじゃなくてそんなに酷い目に日常的に遭うんですか?他の女の人も?本当のことなんですか…?」
鹿嶋くんは声をごく低くした。
「暴力とか薬で従わせられたりしてないですよね?」
澪さんの重心がぐらりと揺らぎ、(逃げられる!)と思った。今行かせるわけにはいかない。店に通報されたらやっと繋がりかけたこの細い糸さえ絶たれてしまう。咄嗟に手が出て、相手の震える手首を掴んでテーブルに押さえつけ、さらに震えだしたのを力で優しくねじ伏せて、できるだけ穏やかな声を出した。
「お願いです。今何て名前で働いてますか?あなたから聞いたなんて絶対誰にも言わないから、教えてください。それだけでいいから」
「名前は知らないけど、その子はもういない…待機所で最近見かけないから…ちょっと、手を放してよ」
相手がソファから腰を浮かして足を踏ん張り捕まえられている右手を左手で掴んで力任せに引っこ抜こうとし、こちらは更にそれを上回る力を加えたので、重たい欅のテーブルがガタガタ揺れた。そばを通って奥の席へ向かおうとしていたウェイターがしげしげとこの攻防戦を眺めて通り過ぎた。澪さんが歯を食いしばって言った。
「そんな馬鹿力入れなくても私は逃げられないわよ。まだ時間来てないから。あなた私の二時間をおさえてるんだから。痛いから放してよ」
鹿島くんは手を離した。隣のテーブルの外国人が面白そうにこちらを見ている。もし澪さんが逃げようと走り出したとしても、出口は鹿嶋くんの後ろにあり、自分は立ち上がるだけで彼女の逃げ道を塞げるのを意識した。それに彼女の踵の高い華奢なヒールは逃げるためよりも捕まえられるために履いているようなものだ。
「すみません。映画で見たことがあって…契約より早い時間でも受け取ったお金をベッドに叩きつけて帰って行く…」
「あれは雇われてない人の話でしょ。私はそんなことできない。本当に必要に迫られて真面目にやってるんだから。明日も明後日も同じ会社に出勤して…」
何がぬるぬるするのかと指を見て、ベッタリついた赤い血にぎょっとし鹿島君は気が遠くなりかけた。彼のおしぼりで手早く指についた血を拭って見えなくしてくれながら、自分の手首は血塗れの澪さんは、かえって落ち着いてきたみたいだった。
「それ自分でやったんですか?」
袖を捲り上げた澪さんの手首には無数の傷跡があった。
「すみません、バナナオレとミックスサンドイッチ…それと新しいお絞りください」
澪さんが通りかかった店員に注文した。鞄から出したガーゼで開いた傷を押さえながら。
むしろすっきりしたような顔になってメニューを目配せして来た。
「安田さんは食べないの?」
「僕は食欲ないです」
鹿島くんはガーゼをチラッと見ながら首を振った。
「すみません、怪我させるつもりは…」
「いいよ。怪我させるつもりはない男の人には慣れてるし。自分でやる手間もこれで省けたから。」
給仕が空になったコーヒーカップ持って立ち去ると、澪さんは片手だけで手早く鞄からテープと新しいガーゼを取り出し、慣れた動作で傷の処置をした。まるで一度血を流すことが安定を得るために必要だったみたいに、今ではこの珈琲店にいる誰よりも澪さんが一番ゆったりと心地よさそうな顔をして寛いでいた。流れた血を拭き取れるだけ拭き取ると、両方の肘をテーブルについて手で顎を支えて鹿嶋くんを見つめた。
「ごめんなさい…」
「いいよ。謝らなくて。本当に彼女に会いたい一心だね」
「まさかとは思うけど閉じ込められたりしてしてないでしょうか?携帯を取り上げられたり。この現代でもそんなことがあり得るのかな?」
「あなた血を見るまではヒトの体に血が流れてること分かってなかったんじゃない?時代とか関係なく一対一になったらどうしたって男の人に力じゃ敵わないのが女よ。毎月血を流すのも見慣れるためでもあると思う。どうしようもないことには慣れるしかないから…
…何回かうちの店を利用して信頼を得ると、車で迎えに来てもらえて、目隠しして連れて行かれる“楽園”って呼ばれてる場所があるんだけど、そこにあなたの彼女はいるかもしれない。広い庭付きの大きな邸宅で、蓮の生えた池と滑り台があって、行方不明になっても捜されない綺麗な子供達が集められてるという話。私は行ったことないけど、行って来たことがあるお客さんから話に聞いたことはある。客も子ども達も一度そこで吸った蜜の味は一生忘れられなくなるという噂よ。行ってみたい?」
「はい」
「じゃ後何度かうちの店を利用したらいい。そのうち向こうからお誘いが来るから。それとなく。」
バナナオレとミックスサンドが運ばれてきた。澪さんが食べ終わるまで鹿嶋くんはぼんやり見ていた。澪さんは残さず綺麗に飾り付けのパセリまで食べた。バナナオレも水も飲み干して、紙ナフキンで唇を押さえた。それからじっと見ている鹿嶋くんの目を見返してきた。
「なんで急に教えてくれたんですか?」
「あなたが必死で可哀想だったから。それにもし私が教えてあげなくて、そんなに不器用に真剣に嗅ぎまわってたら…
…大人しいお客さんでいるのが一番の近道だよ。この次は私以外の子を指名して、その次もまた違う人を指名して、店の常連客なんだけど気に入った子が見付からないってふりをし続けるの。あんまり悪目立ちするような変なことはもうしないで、普通の客が普通にするようなことしてるのが一番スマートに彼女に辿り着けると思うよ」
「もっと早く辿り着ける道はないのかなぁ」
「やめてよ」
鹿嶋くんはカードとカードケースをテーブルに並べた。
「澪さんが雇われてるお店は名前もないし、その楽園とかいう場所へも選ばれた人間しか招待しない。一見すごく抜かりない大きな組織が運営してそうで、それでいて、こんなものを僕の家に残して行ったんです。なんだかおっちょこちょいな人も中にはいるみたいだ。“楽園”と言ったって、空にぷかぷか浮いているはずはない。この地上のどこかにある。車でそんなにかからない場所に。あなたが言ってることが本当なら。そこへ行く別の方法が必ずあるはずです。」
「じゃあ、好きにすれば?せっかく危なくない正攻法を教えてあげたんだから、大人しくその通りにすればいいのに…」
「もう少しだけ協力してください。例えば僕が澪さんを誘拐する。組織の人が僕を捕まえに来る。どこかで焼きを入れてやろうと思ったら、結構その楽園とやらに連行されたりしないかなぁ」
「頭湧いてない?私一人に何かあったところで多分黙殺されるでしょうね。私そんなに綺麗でも若くもないし。それに多分本気でちょっとシメてやろうと思ったら車でやられてポイとどこかに捨てられるのが落ち。うまくいかない何通りもの筋書きが見える」
「別の良い案はありますか?」
「自分で考えて。私を巻き込まない方法を」
「楽園って、ネーミングには“お城”を越えようって意気込みが感じられるけど、何か嘘臭いんですよね…実態を見せようとしないのは中身が伴わないからかもしれない。名前のない店にしたって、女の子が進んで集まって来ないから強引な手口で他所の店で働いてる子を引っ張ってきたり、一度我が物にしたら鎖をかけて逃げられなくしたりするんじゃないかな…澪さんってどうやってこのお店に入ったんですか?」
「えっ?‥‥なんで急に?」
澪さんは壁掛け時計を見上げ、まだ鹿嶋くんに付き合わなければいけない時間が半分も残されているのに(ウェッ)となった顔を隠さなかった。
「友達の紹介」
「その友達は?」
「付き合ってると思ってた人に騙されたんじゃないかな」
「騙されたってどういう風に?」
「…深い愛情で頭が曇ってる時って異様な要求にも応えてしまったりするじゃない、傍から見れば明らかにおかしくても、本人だけは気が付かないで…」
「何をされたんですか?」
「その話はしたくない。」
鹿嶋くんは俯いて唸るような低い声を出した。
「あなた達の言うような普通が僕には普通ではないんです。僕は彼女以外の女の人とそういうことやりたくない。だから別の方法を探したい。もともと女の人をお金でどうこうしようっていうのが何か…どうにも…お互い好きでもないのに…やってやれなくはないけど…」
「理想の自分のままでいたいの?彼女を連れ戻したいの?どっち?」
「両方です」
「あなたには無理だわ。安田くん。他の女の子と付き合いなさい。その子は、」澪さんは手を伸ばして鹿嶋くんの携帯電話を爪で叩いた。
「あなたと一緒にいることができなかったんだと思う」
「彼女が仕事しなくて済むように一生懸命働いてたんだけど…」
澪さんは首を横に振った。
「そんな事は求めてなかったのかも知れない」
鹿嶋くんには理解できなかった。
「もう、いっそ暴れまわって彼女を捜し回ったらどう?穏便に事を運べないのなら。それに考えてみたら別に大して秘密にしておくことでもないかも知れない…あなたが彼女さんを捜してても実際誰も困らないかも。困るとしたら彼女さんじゃないかな」
「僕に捜されて彼女が困りますか?なんで?」
「楽園を追放されたら困るでしょ」
澪さんは壁にかかった木彫りのアンティーク時計を見上げ、もう一度メニューを手に取った。今度はケーキのページを開いてじっと見ている。
「私からとれる情報はこのくらい。自分で食べたいもの食べるから帰っていいよ。私は時間まではここにいてあげる。あなたのために。痛い目に遭わずに彼女に会いたかったら最初に教えてあげたとおりにして、大人になりなさい。ほら、もう行って」
澪さんはシッシッと蚊を払うような仕草で鹿嶋くんを追い払おうとした。鹿嶋くんは頷いたのに席を立たなかった。
「澪さんが食べ終わるまでここにいます」
「私よく知らない人に奢られるの落ち着かないから。自分で稼いだお金で食べるものが一番美味しい」
「少し節約したら家計はやりくりできるんじゃないのかな…」
「ギリギリ生活できても貯金はできない。だからこの仕事してるの。少しやるのも沢山やるのももう一緒でしょ、だったらいっぱい稼いだ方が良くない?生理の日以外できるだけ毎日働くのはそういうわけ」
「でもお昼の仕事も辞めないんだね。偉い」
澪さんは首を横に振った。
「お昼の仕事が辞められないのはちゃんとした言い訳が思い付かないだけ。実際本当にしんどいのは昼の仕事。病むのも正職が辞められないからよ」
(昼間は何の仕事をしてるんだろう…)と鹿島くんは思った。
「すみません、」澪さんは手を上げてウェイトレスを呼んだ。
「ミルフィーユとパンプキンタルトとプリンアラモードください。それとオリジナルブレンドと。…ここにいるならあなたも食べて」
鹿島くんはメニューを見なかった。
「バナナオレとミックスサンドイッチ、それからいま彼女が頼んだものを僕にも」
「ミルフィーユとパンプキンタルトとプリンアラモードをそれぞれお二つずつ?ですね。オリジナルブレンドも二つ。それからバナナオレとミックスサンドイッチ」
ウェイトレスが復唱し、鹿島くんが頷いた。
「はい」
店員が行ってしまうと澪さんが聞いてきた。
「なんで真似するの?」
「澪さんが物凄く美味しそうに食べるから同じ物全部食べてみたくなったんです。今日はお昼から何も食べてなかったのを急に思い出して」
「ふーん」
澪さんは初めてにっこり笑った。
「澪さんがいつも笑っていられたらいいのになぁ」
笑顔はすぐにしぼんでしまった。
「私は可愛くも若くもないから…」
席を立つとき、二人は伝票の取り合いをした。
「あなたは彼女に辿り着くまでにこれからもっとお金がかかるでしょ」
「いや、お金はもうそんなにかからない。僕は楽園まではあの子を捜しに行くのはやめます。もう一つ別の線もあるから…」
「そう。じゃあうちの店を利用することももうない?」
「多分」
「じゃあ…さよならだね」
「そうですね」
二人は瞑蓬珈琲店を出たところで頷き合って別れた。
続く