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鹿嶋くんはてくてく歩いて来た。ユキと一度歩いた道をそのまま忠実に辿って。
モノレールの下は夏に生えた雑草が鬱蒼と茂ったまま処理されないで茶色く枯れ、雨に打たれて萎れた後に、細い真っ直ぐな茎をすくすく伸ばして彼岸花が上を向いて燃えるように咲いていた。溝の底をチョロチョロ流れている小川には魚の姿は無かった。他に見るべきものもないのでずっと水の中を覗き込んできたけれど、水は一見綺麗に澄んでいるように見えて、何か有毒な物が混ざっているらしい。
夕闇が迫っていたが、コンビニの灯り一つない。
砂しかない空き地や窓が割れた空き家やフェンスで囲われた荒れた原っぱを通り過ぎた。街灯の明かりも乏しく、ちらついている。こんな寂しい場所だったかなぁと歩きながら不安になる。でも合ってるはずだ。
『3号棟って書いてあるから』とユキが唱えるように何度も言っていた。『川沿いに歩けば間違えない』と。
多分、季節と時間帯が違うせいだ。ユキと来たときは初夏の温かい時期で時間帯も早く、電車を降りてからは繋いだ手を振ってずーっとくだらない話をして笑い合いながらぶらぶら歩いて来た。あの日はユキは珍しく早起きして、わざと顔を汚すような下手くそないつものメイクも済ませ、キウイとグレープフルーツの皮を剝いてまだ寝ていた僕を起こしに来た。彼女のウキウキした気分に伝染して、こちらも気分が高揚していた。辺りはお昼前の眩しい白い光に満ちていて、日傘がいるんだった、とか言いながらユキは手で額の上に庇を作ったり僕の陰に隠れたり、細い日陰を見付けるとそこまでピュッと走って行って僕が追いつくのを待ったりした。へらへら笑いながら。
菱形の緑色のフェンスに蔓を巻き付けて野生の青い朝顔がユキの背丈を越えて一面に風に揺られて咲いているところでは、自分の顔ほどもある大きなその花びらの手触りをいちいち確かめるように高い花に背伸びして触りながら歩いていた。
『多分アブラムシだらけだよ』と注意しても下唇を突き出すだけでやめなかったけど、触ろうとした最後の花から大きな蜂がブーンと威嚇しながら飛び出してきて二人で叫び声を上げながら少し走ったんだった…
あの時と今とでは全然違う道を歩いているように見える。急速に深まる夜の闇と冷たい乾いた風が絶望感をかきたてるんだ…と思う。ここは世界の最果てみたいな場所だ。夜に来るには寂し過ぎる。
公営住宅は廃墟になりかけていた。ポツリポツリとまだ人が住みついている部屋の窓にだけ明かりが灯り、それ以外の窓は穴が開いたように真っ暗で、階段の電球は切れかけてチカチカしている。完全に闇に沈んで真っ暗な階もある。鹿嶋くんは下まで着いて、少し入るのを躊躇った。歯が二、三本しか残ってない崩壊した口の中へ入っていくみたいだ。下から数えて、目指す窓に明かりは灯っていない。
ゆっくり煙草を一本吸って自分を元気付け、階段を登り始める。壁は下手な落書きと噛み終わったガムの黒い染みだらけだ。足元には干からびた大きなゴキブリの死骸が転がっている。下を見ないように上を向くと、電球から垂れ下がった埃まみれの蜘蛛の巣の中にいっぱい小さな羽があるのが見えた。現実のお化け屋敷だ。
ドアポストがガムテープで塞がれ鼠色の塗料がぼろぼろ剥がれ落ちた小さなドアの前を息を潜めて通り過ぎ、真っ暗な二階の階段を息を止めてできるだけ早く登り切った。
ユキのお母さんが住んでいた部屋のドアポストもガムテープで塞がれていた。
どこかにある、人が住んでいる部屋から漏れてくるテレビの音以外は、とても静かだ。多分もうこの部屋の中に人は住んでなさそうだ。心を落ち着かせ、一応用意して来た台詞を唇で復唱し、右手の人差し指で呼び鈴を押した。ピンポーン。空の部屋の中に大きな呼び出し音がこだましている。
右隣の家のドアの中でキャンと犬が吠え、パタパタ走ってきてドアの下の隙間をカリカリ引っ搔き、クンクン匂いを嗅ぎ始めた。目の前の部屋の扉の中は静かだ。
しばらく待ってもう一度呼び鈴を鳴らすと、隣の部屋のドアが開いた。小っちゃいクリーム色のふわふわの塊が飛び出してきて鹿嶋くんの脚に前足をかけてピョンピョン跳ね、くりくりした目を光らせて見上げてきた。すごい速さで尻尾を振っている。
「犬だー」
鹿島くんはドアを開けたまま押さえてこちらをジロジロ見ている幼稚園か小学生になりたてくらいの男の子に向かってニコッとした。
「誰?」
加島君は質問で返した。
「…ここの人がどこへ行ったか知らない?」
「病院?」男の子は日焼けしたヤンチャそうな顔に真面目な表情を浮かべて首を傾げた。
「ここに住んでたお姉さんのことは知ってる?」
「お姉さん?婆ちゃんしかいなかったよ。それに今は誰も住んでない。そこの人は入院してもう戻って来ないからウサギは連れて行くって言われて、俺が時々散歩してたし懐いてるからうちで飼うって言って、貰った…」男の子の後ろから小さい女の子ともっと小さいもう一人の女の子がてこてこ歩いてきて、左右から兄の脚に摑まり、一緒になってジロジロ見上げてきた。お兄ちゃんは丸刈りで、妹達は柔らかそうな巻き毛だ。
「お前ら中にいろって言ったのに…」
お兄ちゃんは二人の妹たちを部屋の奥へ追いたてるような素振りをしたが、二人の小さい妹たちは言うことを聞かなかった。一番下の子は兄に乱暴に振り払われてひっくり返ってこけたのに、泣き出さず、黙ってむっくり起き上がり、無言でまた兄の脚に摑まり立ちした。ずっと鹿島くんと目が合っていた。鹿嶋くんは子供たちに目線を合わせて屈み、犬の鼻先に手を出して匂いを嗅がせ、ちょっと頭を撫でた。仲良くなれるかと思ってそうしたのだが男の子の目が怒ったような光を帯び犬と鹿嶋くんを交互に睨んだ。
「初めから約束してたんだよ!婆ちゃんがそいつを飼いだした時に、ここ犬飼っちゃいけないのにって言いに行ったら、可哀想な子だから一緒に面倒見てやりましょって言われて…おいっ、ウサギ!来いっ!」
男の子はしゃがんで犬を呼び寄せようとしたがウサギと呼ばれた犬は加島君を見上げて尻尾を振り続けている。
(この子、犬の正当な飼い主が現れて取り上げられると勘違いしてるんだな)と鹿嶋くんは気付いた。
「僕は犬のことはどうでもいい。それよりもここには絶対、お姉さんも住んでたはずだけど。思い出してみて。すらっとした背の高い若いお姉さん。髪が長い。…いなかった?」
自分でも疑っていることを相手には信じさせようと確信のある声を意識して出した。
男の子は真面目な顔で、んーん、と首を横に振り、それからいきなり後ろを振り返って家の奥に大声で呼びかけた。
「爺ちゃん!」ドアを開けたまま支えておくのをやめて中へ走って行ってしまい、扉がゆっくりパタンと閉じた。閉め出された犬が流石にうろたえたように閉まった扉の匂いを嗅ぎに行った。
「爺ちゃんって!隣の人が!」叫んでいる子供らしい高い掠れ声が漏れて聞こえてきた。
鹿嶋くんは立ち上がって隣の家のドアを犬が入れるだけ細く開けてみた。赤や白やピンクや緑色のカラフルな子供靴が滅茶苦茶に脱ぎ散らかされ、埋もれるようにして大人の男物の大きな黒い擦り切れた革靴も端の方に揃えて置いてある。靴はその他にも山積みになって、女性もののサンダルやスニーカーも片方だけ転がっている。奥の台所まで何の目隠しも仕切りもないので、即席麺の空の容器で満杯の透明なゴミ袋が二つ溜まっているのまで見えてしまった。その更に奥の部屋で男の子とお爺さんが何か言い合っているらしい。声は聞こえるが、姿は見えない。
「お母さんは?」
大きい方の女の子と目を合わせて聞いてみた。女の子は急に恥ずかしそうにモジモジして、んーん、と首を横に振った。一度中に入った犬がぐいぐい顔を隙間にこじ入れてまた外に出てきて、それを追いかけて小さい方の女の子までよちよち外に出て来ようとするので、鹿島くんは子供靴の散乱する玄関の中に爪先立って入り、ドアを閉めた。
「すみません…ちょっとお邪魔します…」
「名前はね、わたちがちゅけたの。」大きい方の女の子が犬を指差して説明し始めた。
「ウサギさんがほんとは欲しくて、ずっと、だから…」
「ふーん。ウサギは最近このうちの子になったの?」
「うん。」
「入って」男の子が戻ってきて鹿嶋くんを手招きしてくれた。来客用のスリッパは見当たらないので靴下で中へ上がった。死角になる所に外からでは気付かなかった子供たちがあと何人もいた。浴室のドアの影からこちらを見ている女の子が一人、台所の奥に男の子がもう一人、それから半分ドアが閉まりかけた部屋の中にも何人か居るみたいだ。テレビが点いていて、クイズ番組に答えている賑やかな声だけが聞こえ、姿は見えない。最初の三人に加えて、数えられるだけであと五人。一番体の大きい子は中学生くらいで、細い顔の中の細い目をさらに細めて丸テーブルの向こうから通り過ぎようとする鹿嶋くんをぎらつく視線で窺い見ていた。手に包丁を持っていて、その刃先が自分の方に向いているのに気が付いて、鹿島くんの鼓動は一瞬止まりかけたが、その子は俎板の上のシメジにトンと刃を下ろした。お辞儀すると体を真っ直ぐこちらに向けて「今晩は!」と威勢よく挨拶し返してきた。
奥の畳の部屋で白髪の骸骨のような老人が布団に痩せた上体を起こして座って待ってくれていた。今さっき孫に羽織らせてもらったのかお洒落なゴリラの柄のパジャマの上着を肩にかけている。彫りが深くて西洋人の骸骨のように見える。
「お茶は?誰か、早くお客さんにお茶出しなさい」
お爺さんが弱弱しい声でそこら中にいる孫に呼びかけたけれど、誰も動かない。
「大丈夫です」と鹿嶋くんは言った。
隠し切れないオムツの匂いがする。犬がなんだか勝手に興奮してしまいお爺さんの脚がある辺りの布団の上を駆け回り、皴皴の大きな手で窘められた。
「庄野さんのお宅のお嬢さんのことが知りたいんですと?」お爺さんの話し方は舌がもつれておぼつかない感じだった。立って上から見下ろしているのも何なので、片膝を付いて武士の謁見みたいな座り方をした。
「はい」
「たまーに帰って来られるが、そのたびに大喧嘩して、泣いたり怒鳴ったりしながらまた出て行きはりますよ」
「最後に帰って来たのは?いつですか?」
「あなたは?なおちゃんの彼氏さん?」
「はい」
「ふーん」お爺さんは欠伸している犬の口の中に指を入れ、パクっと噛まれて、慌てて指を引っこ抜いた。
お爺さんの敷布団の周りに集まって二人のやり取りを眺めている子供たちは六人いた。その子供達をお爺さんはぐるりと見回した。
「この子らは私の孫やひ孫ですけども、その親達も働きに出てますわ…一番初めに長女が出て行き、赤ん坊を連れて戻ってきて、今度は自分だけ出て行って、残された赤ん坊は婆さんが苦労して一から育て上げ、大学まで出しました。そうしたらそれを見ていた他の子供たちがみんなこの家に自分たちの子供を預けに来ましてね…ポイポイとゴミ箱にゴミを放り込んでいくように…」
長い節くれだった人差し指を上げて今初めて数えてみているように一人ずつ子供達を指さしてみながら、お爺さんが顔を皴皴にして洞窟のような口を開けニコニコ笑った。
「どの子が自分の何にあたるのか今ではさっぱり。二人目三人目四人目と続けて孫を預からせられてからは婆さんもお手上げで、放任主義に変わりました。ここで面倒を見てもらうかわりにと子供達がそれぞれ自分の子らに金を与えてはいるようだから、誰かが何かしらいつも買って来てくれて冷蔵庫や食品棚やテーブルの上にいつもパンは欠かさずあります。ドックフードなんて売るほど余ってます。昼になっても学校へ行かない子が私の昼飯を用意してくれるし、若者が食べる変な食べ物をちょっと味見させてくれる事もあるし、私はこう見えて結構フルーツが好物なんですが、それをみんな知ってるから林檎やら蜜柑やら今なら梨や柿やらを今はここにはいない決まった女の子がわしにも剥いて食べさせてくれます。薬の関係でグレープフルーツは私は食べられないんだが…
これだけ子供がいればわしが死んでもこのアパートを取り壊すのは無理でしょう」
急に話が変わってしまったので混乱していて、鹿嶋くんは口籠ってただ頷いた。
「婆さんは死んでしまいましたがこれだけ子供がいたら寂しくもありません。このように私は脚も動かないがそこら辺にいる孫かひ孫の誰かに頼めば何とかしてもらえる。子供達は小学校か中学を出るまで位は親のサインが要る物事が多いし、私はサインだけはしてやれます。共存関係ですよ。勉強を頑張りたい子は学校に居残りして自分の力で奨学金をとってくる。放浪癖のある子はフッといなくなったり面白い友達や土産話を持って時々元気な顔を見せに帰ってくる。これしてこれするなと厳しく叱らん方がうまくいきますわ、子供に関しては。私は死にかけになってそう思います。
みんな一斉に大きくなって出て行ってしまったらどうしよう、寂しくなるなぁと婆さんが死んでしまった時は考えたが、そんなことはない。『こんな家からは早く出たい』と言って大体高校生くらいになると一旦子供たちは自分で働きだして出て行ってしまうんですが、新しい小さい子を続々預けにくる。自分がそうして育ったからでしょうなぁ。産んだら預けるというのが当たり前になっている。それが悪いとは言いませんよ。全然。むしろわしは大歓迎です。若い人は働かなきゃいけませんからなぁ。働きながら子供の面倒を見るのは難しいのも分かります。殴ったり蹴ったりして育てるのは親も嫌だし、子供たちだって邪魔扱いして育てられるよりもここに来て自分達で伸び伸びやる方がまだ幸せでしょう。婆さんもそう言うとりました。
雨露をしのげる屋根と小遣いと物分かりの良い爺さえいれば子供達は一夏で勝手に適応してすくすくと育ちます。ミニトマトみたいに。」
「えっと、ちょっといいですか」鹿嶋くんはとうとう口をはさんだ。
「お婆さんって、隣の家に住んでた人のことですか?」
「いいえ!違いますよ。人の話聞いてました?うちの女房はうちの女房です。隣の人は庄野さん!」
実験に失敗した科学者がさらに年老いたみたいなお爺さんはひゅっひゅっと歯を見せて引き笑いした。そして一番手近にいたハイハイしている赤ちゃんを捕まえて、名前を教えてくれた。
「この子がミナト、向こうの部屋にいる大きいお兄ちゃんの腹違いの弟。あの今帰って来た女の子がハルナ。その子はユウマ…」
「違うよ。爺ちゃんいっつも俺の名前だけ覚えないなぁ」
鹿島くんの隣にいた、一番最初にドアを開けてくれた男の子が言った。
「じゃお前誰だ?」
「言ってもどうせ覚えられないもん」男の子はスッと立ち上がって隣の部屋へ行ってしまった。
「あれの名前何だった?」
そばにいた二人の女の子にお爺さんが聞くと、足の指の爪にシールを貼る片手間に片方の子が
「レン」と言ってクスクス笑い、もう片方が
「ユウマで合ってたよ」と言ってクスクス笑った。
お爺さんは目を細めて二人の顔を見比べ、どちらが嘘を吐いて自分を揶揄ってるのか見極めようとして、暫くすると諦めた。
「まあいい。名前なんかどうでも。」
お爺さんは鹿嶋くんの方に向き直った。
「誰が誰の子か、自分とどんな繋がりになるのか、もしかしたら孫でもひ孫でもないどっかから紛れ込んできた誰かの友達の子とか血の繋がらない他所の子も混じってるかもしれないが、この際関係ない。ここにいる子ども達はみんな助け合って生きている。私の世話をしてくれる優しい子達です。見てください」
枕カバーの中からゴソゴソ携帯電話を取り出し、顔になかなか手の込んだドラえもんの落書きをされた写真を見せてくれた。
「悪戯なチビ達と一緒にいると毎晩こんなことやられるんですよ。寝てる間に。みんなして順番にわしの顔をキャンパスにして、待ち受けにしとるんです。魔除けだとか言って。今日は誰がやったんかと聞いてもお互い守り合ったり何人も名乗り出たりして叱れんのです。この年でいいオモチャにされとんですわ。でも悟りの境地です。」
ひょっひょっとお爺さんが笑い、鹿嶋くんももう一度写真を見せてもらってつられて笑い出した。他にも顔中に目や鼻や眉を書き加えられた顔や、整形前の点線と矢印みたいな印を付けられたのや、とにかく無秩序にカラフルな水玉を描かれたのや、ノートの代わりにアルファベットの練習をやられたような顔のお爺さんが眉をハの字にして写真に収まっていた。
「さっきもあなたをここに通す前に、急いで手鏡と化粧落としを持って来させて化粧を落としとったんです。最近じゃあもう面倒臭くなって落書きされても一日中そのまんまでおるんです。どうせ新しいの描きたくなったら寝てる間に勝手に塗り替えとるから」
「そう言えば顎のあたりにまだ緑色が残ってますね」
鹿嶋くんはお爺さんの顎の下の塗料を指さした。
「誰か、ティッシュをくれ」
孫も曾孫も動こうとしないので、鹿嶋くんが自分の鞄からウェットティッシュを取り出し、お爺さんの顎の下を拭ってあげた。
「今日のはフランケンでした。いつか死ぬ時も変な顔で死んでいくでしょう。でも色々面白い遺影があって楽しみですわ」
笑っていいのかどうかよく分からないので鹿嶋くんはへらへらした。
「お子さまは何人いらっしゃるんですか?」
「前の嫁との間に二人、連れ子も二人、それから婆さんとの間に三人です。」
「へぇ」
「孫の数は聞かないでくれますね。わしにも誰にもよく分らんから。ひ孫より先に至っては本当に把握できません。とにかくいっぱいです。増え続けてます。」
「いいことですね」
「まぁそうかなぁ、屋根と金と悟りがあれば…別に親なんかいなくても子どもは立派に育つ」
鹿嶋くんは頷いて、お爺さんの携帯電話を返し、ユキを写した自分の携帯を今度はお爺さんに見せた。
「この人が隣に住んでたと思うんですが、行き先に心当たりはないでしょうか?」
お爺さんは目の周りの皴を深め、鹿嶋くんの携帯電話を一生懸命見ようとした。
「眼鏡…眼鏡はどこかの?」
「とっくの昔に犬が食べちゃったよ」冷たいわりにお爺ちゃんのそばを離れない二人の女の子たちがクスクス笑った。
「そう言えばおたく、名前は?」お爺さんが白く濁った眼で鹿嶋くんを見た。
「…聞いても忘れてしまいそうだけど…孫たちの名前も時々取り違えて怪しいから…」
「鹿島です。下の名前は拓斗と言います。」
「それで何しに来たんでしたっけ」
「えっと…隣のお家の娘さんを捜してて…」
「隣の…まほちゃん?」
あぁ、最初に言ってた名前と違う…と鹿島くんは思った。
「お隣にはお嬢さんが何人いたんですか?」
「一人ですよ。もうずっと前からいないけど」
「そうですか…」このお爺さんには悪いけど、もう何聞いても信じられないなぁと鹿島くんは思った。
帰る前に、前の時にデパートの地下で最後まで迷って買わなかった方の箱詰めのお煎餅を今回は買って持ってきていたのを、欲しそうな目で子供達がじっと見ていたので、「食べる?」と言ってあげてしまった。かわりにのど飴やキャンディチーズやキットカットを上着の両方のポケットが膨らむほど貰った。お爺さんよりも年長の子ども達に聞けばユキのことを何か知っているかもしれないと思ったけれど、写真を見せても、誰もピンと来ないみたいだった。
「美人ってみんな似たような顔してるよねー」とおませな女の子の一人が言った。
「隣の家にはお婆ちゃんが一人で住んでいて、ほとんど誰も訪ねて来なかった」と子供達は口を揃えて言った。
お爺さんが出せ出せと言ってくれていたお茶は出てこなかったけれど、そのかわりに半分に割ったチューペットをもらった。台所ではさっき険しい眼付きの男の子が刻んでいたシメジの入った大鍋がぐつぐつ煮えていた。これから入れる味噌や出汁の素を丸テーブルに揃えながら、多分目が悪くて眉間に皴を寄せる癖のある男の子が「食べて行く?」と聞いてくれたけれど、一人の子のお茶碗に入る量を減らしてしまっては悪いんじゃないのかなと考えて、鹿嶋くんは辞退した。
子供たちに見送られながら玄関を出た。階段の隅のいっぱいゴミが溜まっている中にウサギが鼻を突っ込むのをやめさせようとして、見送りに一緒に出てきたレンかユウマが葉書が落ちてるのを見付け、鹿嶋くんの手に渡してくれた。
「これ隣の人のだよ」
宛名は庄野彩芽と書いてある。一度別の宛先に送られたものが転送されて届いたらしく、二重線で消しただけの元の住所は簡単に読めた。
「さっきからここにあった?」
「知らない。その辺いつもゴミが溜まってるし、誰もゴミ掃除しないし」
もう一度庄野家のドアの呼び鈴を押してみたが、中は空で、誰も出てこない。
「もう行って良い?」ウサギを抱き上げてレンかユウマが聞いてきた。
「いいよ。バイバイ」
「バイバイ」
隣の部屋の扉が閉まった。テレビの音がまだしている。外は完全な夜だった。まだ18時なのに。みんなで食べるご飯を断ったので急にひもじくなってきた。
マップに拾った葉書の住所を入れて位置情報を調べてみると、住宅地の中にある一軒家が示された。周辺地図を眺めていて、ハッとした。庭に赤い屋根の犬小屋がある。お爺ちゃんの家で飼っている雑種の子犬の話はユキからよく聞いていた。
『犬アレルギーが分かって、実家に居られなくなったの。鼻水が止まらなくて…』と言っていた。なぜお城に住んでるのか尋ねた最初の時に…
二人はベッドの中にいて、同じ一つの枕に頭を乗せていた。同じ石鹸の香りに包まれて。
『犬は家の外で飼えば良くない?』
『小型犬だから。天気のいいお昼間は庭に繋いで、お婆ちゃんが花に水やりしたり近所の人と立ち話するのを見てる。赤い屋根の犬小屋があって、その中に寝そべって…お爺ちゃんの手作りの犬小屋で、スヌーピーの小屋を真似して作ったの。すごく可愛いくて、通りかかる人がどんな可愛い犬が中に入ってるのかと思って覗き込んで見るんだけど、鰐みたいな怖い性格してる…』
鹿嶋くんはユキの髪を指で梳きながら話を聞いていた。目を閉じて話す彼女の瞼を見つめながら…初めのうちはあんなに嘘つきな子だとは思わなかった。知り合ううちになぜ意味のない嘘をつきまくるのか自分なりの答えに到達した。ユキがその場の思い付きだけでいくらでも作り話をするのは、それが本来の彼女の姿だからなのかもしれない。これまでにも辛いことや乗り越えられそうもない現実に直面した時には、ふわふわと楽しい別の世界を頭の中に描き上げ、そこに逃げ込んで生き延びてきたからなのかもしれない…これまでにも自分を騙すために繰り返し嘘をついてきて、本人にさえ虚構と現実の世界との区別がつかなくなってきてるのかも…
もしユキが、僕に教えたくない本当のことよりも僕に信じて欲しいと思う嘘をつくなら、そっちを信じてあげよう、と鹿嶋くんはいつしか決めたのだ。
手に届くところにいてくれた間は、どんな嘘でも許せた。とにかく自分の腕の中にいることだけは確かだったから。でも今は…どこで何をして生きてるんだろう…ユキ…
彼女の祖父母の家かもしれない犬小屋のある一軒家までの経路を調べると、ここから一時間弱で着けることが分かった。もう夜もこれから更けていく…今から行くのは非常識だし迷惑なのも分かっている。
(でも、ここまで来たんだ…)と思った。ユキの体に触りたかった。この時期になると寒がりな彼女は毛布やモコモコのパジャマをいっぱい買って帰ってきた。ミルフィーユみたいに何層も重ねた布団や毛布の間のどこに寝ているのか一枚一枚めくって探した。肌に触れると、すごく冷たいか、すごく熱いかの、いつもどちらかだった。どうしても会いたい…今すぐに…
次に会えたら絶対にこの手から放さない…
座り込んでいた階段から立ち上がりかけた。その時、今ポケットに押し込んだばかりの携帯電話が震えた。雪からの着信だった。
「はい、もしもし」
「もしもし…」
耳を澄ますが、そのあと何も聞こえなくなった。切れたのかと思って画面を見るとまだ繋がっている。
「もしもし?どうしたの?」
「…えっと、…どうしてるかなと思って…元気ですか?」
「うん」
「…その後進展は?」
「ないよ。新しく勤めてる店のかもしれない電話番号と、お爺ちゃんお婆ちゃんの家かも知れない住所は見つけた。これからそこへ向かうところ」
鹿島君は静かに階段を降り始めた。
「手掛かりだらけじゃない!なんで私に何も教えてくれないの?」
「あー…言った方が良かった?」
「貴方は今どこにいるの?」
「ユキの実家かも知れない家の前…」
「それってどこ!?ここから遠く?」
電球が切れた二階の闇の中で足を止めた。相手の口調がひっかかった。
「なに怒ってるの?」
耳の中に、深く深呼吸して息を整えようとする気配が伝わってきた。小さく鼻を啜り上げる音も聞こえた。
「泣いてるの?」
「今から来てもらえませんか?」
鹿島君は階段をもう一段降りた。
「急に敬語だな。これって営業電話?もう分からないよ、君たちみたいな仕事の女の子のことは…」
「お金はいらない…私だってあなたに協力してあげてるのに…じゃあ、もう、いいわ」
いきなりプツッと切られた。爪先で次の段を捜しながら「何なんだ」と声に出した。
ユキの祖父母の実家はさらに東で、城からも家からも離れる方角だ。駅で時刻表を確認すると、まだ待ち時間は長く、今から行けば今夜は帰って来られそうにないことが分かった。それでも行くつもりで東へ向かう電車を待つためホームに上がった。
7,8人の男女入り混じった高校生のグループが動きの揃った短いダンスを踊り、カメラマン役の子も動き回りながら動画を撮影していた。なかなか息の合ったお洒落で見応えのあるダンスだけれど、わざとなのか、一番端っこの子は黄色い線を越えてあと一歩踏み外せば線路に落ちるギリギリのところでステップを踏んでいる。他にもホームで電車を待っていた会社帰り風の大人や親子連れや他の学校の学生達も不安げに、声をかけきれずに見守っていた。
(誰かが注意してあげないと…)と鹿島くんも思いながらも、(でもまだ電車が来る予定はないか…)と派手な動きを目が勝手に追いかけるに任せてぼんやり眺めていた。
(それにしてもさっきの電話は何だったんだろう、ユキの新しい情報を見付けてくれたわけでもないのにかけてきて…)時刻を見ようと携帯電話をポケットから出すと、画面に“雪さん”の文字が浮かび上がった。(紛らわしい名前だな)とイラッとした。
「はい、もしもし」
「来てくれませんか?」
鹿嶋くんはふーっと溜息をついた。
「分かった。でも教えてよ、何があったの?」
「…何もないけど…」
「あのなぁ。きみと同じ仕事してる女の子と三年間付き合ってきたんだよ、きみらは何かあった後でないと頼って来ない。よく分かってるよ。言いたくないなら言わなくてもいいけど。でも隠し事しながら頼ってはくるって、かなり都合良いよな。前のお客さんが嫌な奴だったんだろ。どうせ」
「…機嫌悪いなら来なくていいです」
「別に機嫌は悪くない。ただ軽蔑しそうになってるだけ。」
「来ないで…」
「いいや、今からそっちへ行くから待ってろ。」
「ユキさんが見付からないからって八つ当たりする気ですか…」
「は?そっちから電話かけて来といて何なんだよ?今からそっちへ向かう。」
今度は相手がまだ何かゴチャゴチャ喋っているうちに電話を切り、城に電話をかけて雪を予約した。
入り口で止められる可能性も考えていた、「ご指名の雪さんは急な体調不良で帰宅されまして、かわりに別のこちらの女性がお待ちかねです…」とか何とか言われるかもしれないと。
でも誰もそんなことは一言も言ってこなかった。
無人の門番小屋の横の城門を眩しい光に目を眩まされながら通り抜け、どこから誰が見張ってるんだろうと、張り出した城壁の塔の、奥に揺らめく明かりの灯った仄暗い窓を一つ一つ睨み上げた。
(もしかしたらユキは今もこの窓の中のどこかで働いているかもしれないんだ…雪も乙和もそれを知っていて隠しているという可能性だってある。こちらが捜していることをユキには伝えてないのか、ユキの方から二人に頼んで口止めしているか…何を目的にそんなことするのかこちらには理解できなくても、可能性は十分にある。急に僕に飽きたとか、他の人を好きになったとか、初めからこちらのことなんて何とも思ってなかったとか…理由も無限だ…)
明滅するオレンジ色の光に導かれて廊下を進みながら悶々と考え続けた。
(この光は黙って雪さんの部屋から遠い別の女の子の部屋へ今自分を案内しようとしてるのかも知れない。雪にももう二度と会えないかもしれない。こちらが別に悪いことをしてやろうと企てたりなんかしてなくても、ただ心配して何かできることはないかと考えてあげていたとしても、人生を捧げるつもりで愛情を注いでも、それが迷惑だと相手に思われたら、いきなり何の前触れもなく関係を断ち切られる。説明も話し合う機会もなく。そういうことがここでは毎晩起きている。寂しければまた別の女の子に金を積めばいい。表面上は言うことをきかせられる…ここは金を払って心を擦り減らす場所だ…真面目に一人の人を愛し続けて一生一緒にいたいと願ってる自分が馬鹿らしく見えてくる。喧嘩でいいからユキとしたい。互いの嫌なところを怒鳴り合って、ぶつけ合って、なかなか直らなくてもそれでもいいから一緒にいたい。でもユキは喧嘩するくらいなら一緒にいない方が良いと言ってすぐにここへ戻ってしまった…そしてここでもうまくいかないことがあるとまた逃げ出して帰って来た…何があったかとか、僕の家にいない夜は本当に城にいたのかとか、何も答えてくれないで…この城に深入りすればするほど、誰のことも信じられなくさせられて、それでもまた騙されたくてここへ引き戻される…)
ゆらゆら揺蕩うように廊下を先導してきた明かりが消え、襖の上に部屋番号を照らす光が灯った。千鳥形の引手に両手をかけて襖をサッと左右に開くと、慌てて片側の肩に流した髪に手を当てながら薄桃色の総レースの花魁風ドレスを身に纏った雪さんが鏡の前から立ち上がった。時代背景に忠実に本物にこだわっていたこれまでの重たい衣装とは毛色が違う、素早く着脱できそうな現代風に崩した柔らかく体の線に沿う着物の着こなしが、自分が来るまでの間に急いで着替え直したような慌てて取り繕った印象を与えた。本当に何か嫌な目に遭ったのだろうとは思うけれど、見たところは変わりなさそうだ。互いの顔を見てホッとした。
「今日はこの後も仕事?」
「安田さんの後は終わりです。」
「じゃあ良かった。もう横になって休んでていいよ。何もしなくていいから」
「今日で会うのは三回目です」
「そうだったかな…」
襖を閉めて振り返ると、雪さんが両手を差し伸ばして近寄ってきていた。鹿島くんが半歩下がって背中を襖にぶつけてもそのままゆっくりと変わらない速度で、散った花弁が床に落ちるように自然に、頬を鹿嶋くんの胸に押し当ててピッタリくっつくまで止まらなかった。そうすることが正しいとしっかりとした確信を持っているみたいな落ち着いた態度だった。
(小さいなぁ…ユキに比べて…)と思った。ふわっと香ってきた甘い果物みたいな香りについつられて、自分も雪さんの肩を抱き締めた。頭の中は警報音となぜか思い出してしまって引っ込まないユキの唇の柔らかい感触と目の前で起きている事への追いつかない対応としてはいけないことをしてしまう妄想とで激しく鬩ぎ合い、くらくらして立っているのもやっとだった。気が付くと、背中に回されていた雪さんの抱擁が解けていて、彼女は片手で自分の胸元の蝶々結びの帯をスルンと解いた。床にしなやかに軽い帯が落ちた。
雪さんが流れるような動作で喉元のネクタイの結び目を間違えて引っ張ったので、首がキュッと閉まり、鹿島君は咳き込みながらかかりかけていた魔法から少し正気を取り戻した。
「ちょっと待って…三回目ってそういう意味?」
雪さんはまだネクタイの結び目を真剣に弄っている。
「こっちを引っ張るんだけど、もしかして慣れてない?」
「これから慣れます」
「いいよ。少し緩めるくらいで…外したかったら自分でするし。それに今日はしんどいんでしょ?」
「今日は3回目だから…」
「何そのこだわり?そのルール自分で決めたんじゃなかった?」
「でも3回目にはするって言っちゃったし…」
「そんな意味ない自分で決めたルールに縛られることないから。こっちはそのつもりで来たわけじゃないし」
「でも、じゃあ何しに来てくれたんですか?お金を貰っちゃったら働かないと。その分は…」
雪はネクタイは諦めて鹿嶋くんの喉元から手を離し、そのかわりに自分の胸の真ん中の光沢のある紫色のブラの金具を外し始めた。珍しいタイプの下着だった。複雑に紐が交差していて、臍の上を通ってショーツにまで繋がり、右と左の脇の下に留金が四つずつもある。毒々しい蜘蛛の巣に絡まった白い蝶々みたいだ。純粋に初めて見る女の子の下着に(どうなってるんだろう)と興味を惹かれて、ジッと外すところを観察してしまっていたら、思いがけないタイミングでいきなりペロンと上下ともの紐が解けて落ちた。一分くらい目を凝らしてしまってから、首をブンと振って顔ごと視線を逸らした。
雪さんは肩に掛けた薄物を細く前を開けて羽織っているだけになっていた。固く決意した表情はしているのにやっぱり恥ずかしいのか、目が合うとサッと顔を伏して、最後の一枚を自分で脱ぐ勇気はまだないみたいだ。
「やめようよ。せっかく休ませてあげるつもりで来たんだから、働かなくていいよ。俺が来た意味がなくなる」
鹿島君は精一杯の優しさを振り絞って強張った雪さんの肩の着物を掴み、前を閉じてあげた。
「でも、ここはこういう事するところです」
雪さんは鹿島君の手を掴んで指を広げさせ、自分の左の胸に押し当てさせた。桃のように見えていたものがミルクのように潰れ、指の間から溢れるほど柔らかく温かくとろけて、種のような硬い物の感触もあり、鹿島君は倒れそうになり、飛び上がって悲鳴を上げた。
「俺は自分の彼女を捜してるんだよ。知ってるはずだよね!」
「でもあなたの彼女のユキさんは誰とでもこういうことしてますよ!」
「でも僕はそうじゃない。同じような人間にならない事であの子に手本を示したいんだ。何なの?雪さんも…矛盾してる…休みたいけど休めないから俺を呼んだんじゃなかったの?俺なら何もしないって分かってたから呼んだんでしょ。こっちだって我慢するつもりで来てあげたのに、何やってるの?中途半端に煽ってきて…そんな度胸もないくせに」
「安田さんの顔を見るまでは、確かに、休ませて欲しくて電話しました。でも何もしないと言われると不安になってきたんです。必要とされてないみたいで、切なくて。したいしたいって言ってくる人のことは嫌になるのに、しなくていいよって言ってくれる優しい人にはこっちから差し出したくなるんです。嫌な人との繋がりばかり濃くなるのが嫌で、私の事なんてなんとも思ってなさそうな行方不明の彼女を捜してどこかへいなくなっちゃいそうな優しい安田さんとの繋がりはもっと深めたくて。」
「痛々しいな…本当にちょっと休んだ方が良いよ。結局誰とも何もしたくなくて、ただ何もしなくても離れて行かない人が欲しいだけなんだと思うよ。他人の彼氏じゃなくて。…少しの間実家に帰ったら?」
雪さんは首を横に振ってポロポロ涙を落して泣き出した。
「お父さんの知り合いが来たんです。こっちは顔覚えてなくて、でも向こうは私の事知ってて。実家にも地元にももう近寄れません。嫌なお客さんが来ても、休みたくても、もう帰る家は城の他になくなっちゃいました!」
(うわ、そういう事か…)と鹿島君は思った。(それでやけくそみたいな情緒不安定なんだ…)
「自分一人で生きていくためにこれからはもっと働かないといけない。もう趣味のためじゃなく…」雪さんは両手で顔を覆って泣き出した。
(始める前にそこまで考えなかったの、とか、だから遊び半分に始める事じゃなかったんだよ、なんて今言ってもしかたないしなぁ…)と思った。
「とにかく服を着て。座ろう。」
目を閉じて見てはいけないものを見ないようにしながら屈んで床に落ちた帯を手探りして掴み、小さいとき妹に浴衣を着せてやったのを思い出しながら、雪の腰に帯を巻いて、できるだけ元通りの可愛い蝶々結びにしてあげた。部屋の中央の座布団まで手を引いていき、座らせてあげ、正方形のちり紙の箱を取って正座した雪の膝のそばに置いた。
「体で繋がったって心の繋がりは確認できないよ。僕と僕の彼女のユキを見てよ。あの子には心なんてなかったのかと思うくらい未練がなさそうだ。僕にはあの子以外なんにもないくらいあの子が全てだったのに、あの人には僕なんて使い捨てにしていい一枚のティッシュペーパーみたいな存在なのかも知れない。
僕の方では、一つの植木鉢の中で育った二本の木みたいに、根っこが絡みつき合ってこのまま成長していったら一本の木になれそうだって思い込んでたんだよ。互いに相手の嫌なところも足りないところも全部飲み込んで。…同じベッドで手を繋いで眠れる夜はこうして年を取って二人で死んでいけたら最高に幸せだなぁって思ったよ。でもあの子は全然そんなこと考えてなかったみたいだ。小鳥みたいに飛んで行ってサラッと完全に僕のことなんか忘れてる。生きてるなら生きてるよーって返事くらい返せるはずなんだけどなぁ。死んでるのかな…」
「死んでるんですよ。そう思って次の人を捜して下さい。安田さんの問題の解決法は簡単です」
「そんなこと言うなら僕だって雪さんの問題の解決法なら簡単に教えてあげられる。この仕事をスパッと辞めて別の職に就くか、一旦腹を括ってここで頑張るか。家族のもとに帰っても良いんじゃないのかな、判断は向こうがするんだし…雪さんには三択もあるよ。
…人の悩み事には簡単に答えが出せるのに自分自身の問題はややこしくてなかなか抜け出せないんだなぁ…」
「まだ彼女さんの事が好きなんですね」
「長く一緒にいたからかな。好きじゃなくなるのにも時間がかかるのかもしれない。好きとかどうとかいうより自分の体の一部を失ったみたいで…でもだんだんよく分からなくなってきてる。あの子がどんな子だったのか全然知らないで何を好きだったんだろうって…心配だけはとにかく心配だよ…どこで何して生きてるのか、もしかして本当に死んでるのか、それだけは知りたい。本人が帰って来たくないのに無理矢理連れ戻してもどうせまた出て行くだけだろうし…もしかして自分、僕にユキの事何か隠してない?」
「隠してないです。捜すお手伝いしてるのに…!昨日も今日も先輩達に聞いて回ってたのに…」
二人はジロジロ互いの顔を見つめ合った。めそめそ泣いていた雪が急に腹を立てて膨らんだので、
(あぁ、嘘は吐いてなさそうだな)と鹿島君には分かった。嘘をつかれるのも嫌だけれど、見破る力がつくのはもっと嫌だ。
「新しい店の電話番号とお婆ちゃんちの住所。あと二つ手掛かりがあるから、これを追いかけてみて…それで見付からなかったら諦めるよ。本当に死んでたとしてもおかしくはない。早く死にたがってるような生き方してたんだ。あの人…僕に会うまでは。これからは違うよって、きみがいなくなったら僕が困るよって、思ってたのに、言ってなかったかな…」
「身勝手な人なんでしょ。新しい店の電話番号って?私も調べてみます」
鹿島君はボタンの付いた胸の内ポケットから電話番号だけが書かれたカードを出して雪に見せた。
「知ってる?」
ハッと息をのんだ雪の顔を見て鹿島君の心拍数がまた急にドキドキし始めた。
雪は鹿島君の手からカードを取ると、彼もやったように一度裏返してみて、何も書かれてないのを確かめ、もう一度ひっくり返して11桁の番号を読んだ。
「知りません。見たことないけど、これ借りていいですか?先輩に見せて聞いてみます」
雪は明らかに不自然にカードを背中の後ろに隠して鹿島くんから遠ざけるように持ち、ソワソワ立ち上がって置時計を見下ろした。
「今から空き時間の先輩のところに持って行って聞いてみるから、ここで待っていて下さい。まだこの番号に電話してないよね?」
「知ってることがあるなら今教えてよ。番号は控えてる」
雪は立ったままジッと鹿島君を見下ろした。それから諦めてもう一度座布団にペタリと座った。
「じゃぁ止めてもどうせ電話するよね。関わらない方が良いって言っても。これ、今かなり強引なやり方で女の子を集めて店を拡大しようとしてるお城のライバル店です。私も私の友達もここの人に声かけられました。すごく旨いこと言って来るんです。『今の倍近くの高給をもっと楽して稼げる店に来ないか?』とか言って。『きみはこんなところでこんな安く働くにはもったいない、お城は君の値打ちを分かってない、うちでならこんな汚れ仕事はやらせないのに』とか、夢みたいなこと言って持ち上げておいて、ここを辞めて自分のところに来させてから、閉じ込めて、全然話が違う事させられるんです。
業界では有名だし、お城もあえて全面戦争を避けて、スカウトマンだって分かってる客も泳がせて城門から中に通してます。その方がマシだから。女子のスパイを送り込まれる方が見分けにくくて被害も甚大で後々ややこしいって話だから。
そのかわり徹底して働いてる従業員には事前に通知が入ります。『次の客は悪質なスカウトだから用心して甘い話を鵜吞みにしないように接客してね』って。もうみんな酷い店だって知ってるから私も私の周りの友達も相手にしなかったけど、…でも少し前にいた人たちは…何人かは騙されてお城を辞めてその店に移っちゃったかもしれない。
もしもユキさんもそこにいるとしたら…もしかしたら携帯も取り上げられてて返事ができないのかも…」
「そんなに酷い店なの?」鹿島君はいても立ってもいられなくなってきた。「何をやらされるとこ?」
「さぁ。知らないけど…やることはここと同じかもしれなくても、給料が出ないとか、お金じゃないものが直接取り交わされるとか…」
「お金じゃないもの?薬?」
「噂では。…ここにだってそういうのやめられない人も少しくらいいるの知ってるけど…でも自分の意志で選択する自由くらいはちゃんとあるから…もしやめたくてもそもそもお金を払って貰えない店にいたら、どうにもならなくてもっと依存してしまうかも…」
「ちょっと、帰るよ」
頭がふらふらしてきて、鹿島君は立ち上がった。雪さんも慌てて一緒に立ち上がり、腕を掴んで引っ張ってきた。
「とめたってどうせ電話すると思うけど、そこに絶対ユキさんがいるって決まったわけじゃないんだし、自分のことも考えて慎重に動いてくださいね。闇雲に深入りしないで。」
「うん」
ユキは薬なんてしないだろう、体に良いものが好きだったから…と一瞬は考えたけれど、時間が経つにつれ、やっぱりやるかもしれないなと思われてきた。知らないうちに飲み物に混ぜて飲まされていたら、気付いた時には既に依存しているということだってある。それにあの子の場合は知っていて手を出すことも充分に考えられる。危機感なんか持ち合わせてなくて、後先も考えないでスリルだけを求め、自らより危険な方へと喜んでふらふら寄って行く馬鹿な習性みたいなものがあった…酔っ払ってもいなくても、すぐに縁石や橋の欄干や陸橋の手すりの上を歩きたがったし、赤信号で立ち止まった時は、繋いだ手に力を込めて握り締めていないと、すぐ振り解いてニヤニヤ笑いながら車がびゅんびゅん通り過ぎる横断歩道を向こう岸まで駆けて行ってまた駆け戻って来るという単純に危険で迷惑で恥ずかしいゲームをやりたがった。
『俺の前でわざとやってるだろ』と鹿島くんは一度聞いてみたことがあった。必死になって18階のマンションの手摺の上を歩いてみようなどという命を懸けた遊びを止めたあと、もうウンザリしてしまって。そしたらユキは『そう』と素直に認めた。
『だってあなたが命懸けで止めてくれるんだもん。嬉しくて何回でもやっちゃう』そんなことを言って人の気も知らずにへらへら笑っていた。もしかして、気が付かなかっただけで、自分と一緒にいる間にもう何か危険な薬物に手を出し始めていたのかもしれない。奇行が日常茶飯事だった…
「気を付けてくださいね…」
袖を引っ張られて振り返ると、小柄な雪がすぼめた肩を震わせ、声を潜めて念を押してきた。今夜の仕事はこれでおしまいだからと言って、ケープを羽織って城の出口まで見送りについて来てくれていた。
「寒い?」
風が冷たかった。澄んだ空に黄色い満月が浮かんでいる。
「怖いんです」
「雪さんが?なんで?」
「安田さんのことが心配だからです。」
「僕はこれから一本電話を掛けてみるだけだよ。どこに繋がるか分からないけど、もしここみたいに女の子を集めてる店に案内されたら、待合室か応接間かどこかにユキの写真か何かが飾ってあるかもしれない。なかったら諦めるよ。一つ一つ部屋のドアを開けて覗き回って捜したりしないよ。」
鹿島君には雪さんがそこまで心配してくれるほど自分自身の身が危険に晒される不安はなかった。
「後ろ盾に怖い組織が付いてたとしても普通にしてれば客に害は与えないと思うよ。ここだってそうでしょ?何かもめ事を起こさない限りは出てこない怖い人たちがいるはずだよ。」
「私も見たことはないけど…」
「陰で見守ってるんだよ。会うことはない方が良い人達だよ。
多分、雪さんはここでこれからも頑張って欲しい人だから、他所の店に奪われたくなくて、他の店は物凄く怖いよーって叩き込まれてちょっと洗脳されてるのかもしれない」
「そうかもしれないけど…連絡をくださいね。」
「分かった」
バイバイと手を振ろうとして片手をポケットから出すと、雪さんは冷えた小さな手でギュッと指を握ってきた。
続く